中部経典『梵天招待経』

中部経典の第49は、『梵天招待経』です。

 

バカ梵天という梵天が、常見という悪しき見解を持ってしまったことから、仏陀が神通力を現しながら法を説くという経典です。

 

しかし、今のところ、核心となるものが私にはわかりにくい感じです。

 

仏陀が身体を消すという神通力を現したときに語った詩が、この経典の中心なのでしょう。

 

その詩はこうです。

 

私は有による恐れと

非有を求める者の有を見

いかなる有をも歓迎せず

また歓びに執着せず

 

 

この詩によって、梵天も梵天衆も梵衆天も不思議な珍しい心になったとあります。

 

しかし、私には今のところ、この詩の真価がわかりません。

またわかり次第、書いていきます。

 

 

中部経典『コーサンビヤ経』

中部経典の第48は、『コーサンビヤ経』です。

 

コーサンビーという町で説かれた説法です。

 

不和になって口論していたコーサンビーの比丘たちに説いたものです。

 

 憶念すべきもの、敬愛を生むもの、尊重を生むもの、愛護のため、口論のないため、和合のため、一致のための、六つの法です。

 

1、慈しみのある身の行為が同梵行者たちに対し、陰に陽に現れます。

 

2、慈しみのある語の行為が同梵行者たちに対し、陰に陽に現れます。

 

3、慈しみのある意の行為が同梵行者たちに対し、陰に陽に現れます。

 

4、(托鉢などで)正しく得られたものを同梵行者と共通に受用する。

 

5、同梵行者と陰に陽に戒を等しくするものとして住みます。

 

6、聖なる、解脱に資する、正しく苦の滅尽に導く見があり、同梵行者と陰に陽にそのような見を等しくするものとして住みます。 

 

 

そして、これら六つの法のうち、〈聖なる、解脱に資する、正しく苦の滅尽に導く見〉が最上であり、集約的であり、統合的なものです。

 

 

それでは、〈聖なる、解脱に資する、正しく苦の滅尽に導く見〉とはどのようなものでしょうか。

 

 

【第一の智】

【私には、心が纏わいつかれて如実に知ることも見ることもできない、内に断たれていない煩悩はない。私の意はもろもろの諦(四諦)を覚ることに向けられている。】

 

もし比丘が欲貪に纏わいつかれているならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘が瞋恚に纏わいつかれているならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘が沈鬱・眠気に纏わいつかれているならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘が浮つき・後悔に纏わいつかれているならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘が疑いに纏わいつかれているならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘がこの世の思いに熱中するならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘があの世の思いに熱中するならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘が論争し、不和となり、口論に及び、互いに舌鋒をもって突き合い、住むならば、心が纏わいつかれている者になる。 

 

【私には、心が纏わいつかれて如実に知ることも見ることもできない、内に断たれていない煩悩はない。私の意はもろもろの諦(四諦)を覚ることに向けられている。】と知るならば、これが最初の智であり、もろもろの凡夫と共通しない、聖なる、出世間のものです。

 

出世間法(lokuttaram)とは、聖者のみにあり凡夫にないから、出世間のものと言われる。

 

 

【第二の智】

【私は、この見に従い、修習し、繰り返し行なっているが、自己の寂止を得ている。自己の寂滅を得ている。】

 

 

【第三の智】

【私がそなえているような見をそなえた沙門・バラモンは、これより外に、他にいない。】

 

 

【第四の智】

【見を成就した人がそなえているような法性(違犯をしても、すぐ示し開き明らかにするような法性(自性・習慣・習性))を、私もそなえている。】

 

 

【第五の智】

【見を成就した人がそなえているような法性(仕事をしていてもさらに優れた戒定慧を学ぼうとする強い願いがある)を、私もそなえている。】

 

 

【第六の智】

【如来が説かれた法と律が示されているとき、目的を定め、意を注ぎ、あらゆる心をもって集中し、耳を傾けて法を聞く力量をそなえている。】

 

 

【第七の智】

【如来が説かれた法と律が示されているとき、義の悦びを得、法の悦びを得、法を伴った満足を得る力量をそなえている。】

 

 

 

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

 

 

中部経典『観察経』

中部経典の第47は、『観察経』です。

 

本当に覚者であるのか違うのか見極める観察法を説いています。

 

 

〈眼と耳によって識られる汚れの法が如来には存在しない〉

 ⇩

〈眼と耳によって識られる混合の法が如来には存在しない〉

 ⇩

〈眼と耳によって識られる清まりの法が如来には存在する〉

 ⇩

〈この善法に長い間入っている〉

 ⇩

〈この尊者はよく知られ名声を得ている比丘である。しかし、かれはここに何ら危難がない〉

 ⇩

〈畏れがなく静まっている。畏れがあって静まっているのではない。貪りが尽きていることによって貪りを離れていることから、欲に従うことがない〉

中部経典『大受法経』

中部経典の第46は、『大受法経』です。

 

前編の『小受法経』と同じく、

次の、四つの法の引き受けについての説法です。

1、現在に楽があり、未来に苦果がある

2、現在に苦があり、未来に苦果がある

3、現在に苦があり、未来に楽果がある

4、現在に楽があり、未来に楽果がある

 

 

 

【現在に苦があり、未来に苦果がある】

 

苦しみを共にし、憂いを共にし、殺生者となります。また、殺生を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、与えられないものを取るものとなります。また、与えられないものを取ることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、もろもろの欲における邪行者となります。また、もろもろの欲における邪行を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、妄語者となります。また、妄語を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、両舌者となります。また、両舌を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、悪口者となります。また、悪口を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、綺語者となります。また、綺語を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、貪欲者となります。また、貪欲を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、瞋恚者となります。また、瞋恚を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、邪見者となります。また、邪見を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

死後、苦処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。

 

 

 

 

【現在に楽があり、未来に苦果がある】

楽しみを共にし、喜びをも共にし、殺生者となります。また、殺生を縁として楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、与えられないものを取るものとなります。また、与えられないものを取ることを縁として楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、もろもろの欲における邪行者となります。また、もろもろの欲における邪行を縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、妄語者となります。また、妄語を縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、両舌者となります。また、両舌を縁として楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、悪口者となります。また、悪口を縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、綺語者となります。また、綺語を縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、貪欲者となります。また、貪欲を縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、瞋恚者となります。また、瞋恚を縁として楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、邪見者となります。また、邪見を縁として、楽しみ・喜びを感受します。

死後、苦処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。

 

 

 

 

【現在に苦があり、未来に楽果がある】

 

苦しみを共にし、憂いを共にし、殺生から離れるものとなります。また、殺生から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、与えられないものを取ることから離れるものとなります。また、与えられないものを取ることから離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、もろもろの欲における邪行から離れるものとなります。また、もろもろの欲における邪行から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、妄語から離れるものとなります。また、妄語から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、両舌から離れるものとなります。また、両舌から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、悪口から離れるものとなります。また、悪口から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、綺語から離れるものとなります。また、綺語から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、貪欲から離れるものとなります。また、貪欲から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、瞋恚から離れるものとなります。また、瞋恚から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、邪見から離れるものとなります。また、邪見から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

かれは、身体が滅ぶと死後、善道の天界に生まれかわります。

 

 

 

【現在に楽があり、未来に楽果がある】

 

楽しみを共にし、喜びをも共にし、殺生から離れるものとなります。また、殺生から離れることを縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、与えられないものを取ることから離れるものとなります。また、与えられないものを取ることから離れることを縁として、、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、もろもろの欲における邪行から離れるものとなります。また、もろもろの欲における邪行から離れることを縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、妄語から離れるものとなります。また、妄語から離れることを縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、両舌から離れるものとなります。また、両舌から離れることを縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、悪口から離れるものとなります。また、悪口から離れることを縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、綺語から離れるものとなります。また、綺語から離れることを縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、貪欲から離れるものとなります。また、貪欲から離れることを縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、瞋恚から離れるものとなります。また、瞋恚から離れることを縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、邪見から離れるものとなります。また、邪見から離れることを縁として、、楽しみ・喜びを感受します。

かれは、身体が滅ぶと死後、善道の天界に生まれかわります。

 

 

中部経典『小受法経』

中部経典の第45は、『小受法経』です。

 

四つの法の引き受けについての説法です。

 

1、現在に楽があり、未来に苦果がある

2、現在に苦があり、未来に苦果がある

3、現在に苦があり、未来に楽果がある

4、現在に楽があり、未来に楽果がある

 

 

1の『現在に楽があり、未来に苦果がある』とは、欲望のまま、煩悩のままに快楽を貪ることです。

この蒔いた種は、誰も引き取ってはくれず、すべて自分の苦果になります。

死後、苦処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。

 

2の『現在に苦があり、未来に苦果がある』とは、種々の身体的な難行苦行を行なうことです。

これも間違っているために、死後、苦処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。

 

3の『現在に苦があり、未来に楽果がある』とは、貪り・怒り・愚痴の多い性質の人間が、そのような煩悩から来る苦しみを甘受しながら、泣きながらでも、完全な梵行を行ないます。

かれは、死後、善道の天界に生まれかわります。

 

4の『現在に楽があり、未来に楽果がある』とは、貪り・怒り・愚痴の強い性質のない人間が、もろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じた喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。

大まかな考察、細かな考察が消え、内心が清浄の、心の統一された、大まかな考察、細かな考察のない、心の安定より生じる喜びと楽のある、第二の禅に達して住みます。

喜びを離れていることから、平静をそなえ、念をそなえ、正知をそなえて住み、楽を身体で感じ、聖者たちが『平静をそなえ、念をそなえ、楽に住む』と語る、第三の禅に達して住みます。

楽を断ち、苦を断ち、以前にすでに喜びと憂いが消滅していることから、苦もなく楽もない、平静による念の清浄のある、第四の禅に達して住みます。

かれは、死後、善道の天界に生まれかわります。

 

中部経典『小有明経』

中部経典の第44は、『小有明経』です。

 

信者の問いにダンマディンナーという比丘尼が答えたものです。

 

『〈自身〉とは何でしょうか。』

『〈自身〉とは、色・受・想・行・識の五取蘊です。』

 

『〈自身の生起〉とは何でしょうか。』

『再生を起こし、歓び貪りを伴い、ここかしこで歓喜する渇愛です。すなわち、欲愛、有愛、無有愛です。』

 

『〈自身の滅尽〉とは何でしょうか。』

『その渇愛の消滅による完全なる滅尽、捨棄、解脱、無執着です。』

 

『〈自身の滅尽に至る道〉とは何でしょうか。』

『八正道です。』

 

『八正道は、有為のものでしょうか。それとも無為のものでしょうか。』

『有為のものです。』

 

『八正道によって三蘊はまとめられますか。それとも、三蘊によって八正道はまとめられますか。』

『三蘊によって八正道はまとめられます。

 正語・正業・正命は戒蘊に、正精進・正念・正定は定蘊に、正見・正思は慧蘊にまとまられます。』

 

『定とは何でしょうか。もろもろの定の相とはどのような法でしょうか。もろもろの定の資具とはどのような法でしょうか。定の修習とは何でしょうか。』

『心の統一、これが定です。

 四念処、これが定の相です。

 四正勤、これが定の資具(要素)です。

 それらの法の親近、修習、復習、これが定の修習です。』

 

以下、答えだけを書きます。

 

『出入息が身の行です。大まかな考察、細かな考察が語の行です。相と受が心の行です。』

 

『出入息は、身に属するものであり、身に結ばれています。ゆえに、身の行です。

 先に大まかに考え、細かに考え、後に語を発します。ゆえに語の行です。

 相と受は、心に属するものであり、心に結ばれています。ゆえに、心の行です。』

 

『想受滅定に入るには、私はこれだけの時間無心になろうと時間を限定する心が修習されています。』

 

『想受滅定に入る比丘には、最初に語の行が、次に身の行が、そして心の行が滅します。』

 

『想受滅定から出るには、私はこれだけの時間経ってから有心になろうと以前に修習されています』

 

『想受滅定から出る比丘には、最初に心の行が、次に身の行が、そして語の行が生じます。』

 

『想受滅定から出ている比丘には、空性の接触、無相の接触、無願の接触があります。』

 

『想受滅定から出ている比丘の心は、遠離(涅槃)に下り、遠離に傾き、遠離に向かいます。』

 

『楽受は、とどまりを楽とし、変化を苦とします。

 苦受は、とどまりを苦とし、変化を楽とします。

 非苦非楽受は、智を楽とし、無智を苦とします。』

 

『楽受は、貪りの煩悩が、

 苦受は、怒りの煩悩が、

 非苦非楽受は、無明の煩悩が潜在しています。』

 

『楽受は、貪りの煩悩が、

 苦受は、怒りの煩悩が、

 非苦非楽受は、無明の煩悩が断たれるべきです。』

 

 

『ここに比丘は、もろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じた喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。

それによって貪りを断ちます。

 

ここに比丘は、このように熟慮します。

〈私は聖者たちが達して住んでいるところに、いつ達して住むのであろうか〉と。

このようにして、無上の解脱に対する願いを起こす者には願いによって憂いが生じます。

それによって怒りを断ちます。

 

ここに比丘は、楽を断ち、苦を断ち、以前にすでに喜びと憂いが消滅していることから、苦もなく楽もない、平静による念の清浄のある、第四の禅に達して住みます。

それによって無明を断ちます。』

 

『苦の受が楽の受の対です。』

 

『無明が非苦非楽の対です。』

 

『明智が無明の対です。』

 

『解脱が明知の対です。』

 

『涅槃が解脱の対です。』

 

『涅槃は終極です。』(涅槃は対比のない法である)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長部経典『大因縁経』

今回は、長部経典の『大因縁経』を取り上げます。

次回からはまた、中部経典に戻りますが。

 

『大因縁経』は『縁起』の意味を知る上で欠かせない経典です。

 

『縁起』は仏教の根幹と見られていますが、今の仏教で言う『縁起』と歴史上の仏陀が説いた『縁起』とはかなり意味が違っています。

 

『縁起』というと、相依性という言葉で説明されることが多いですが、

相応部経典で、十二縁起の内、相依性があるとされているのは、

『識』と『名色』の間だけです。

 

十二縁起は

無明⇒行⇒識⇒名色⇒六処⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死

です。

このうち、相依性があるのは、識⇒名色 だけです。

ですから、

縁起=相依性 ではありません。

 

なぜ、識と名色だけ相依性なのでしょうか。

この答えが、長部経典『大因縁経』に書いてあります。

 

『識を縁として名色がある』というのは次のような理由です。

『識が母胎に入らなかったとするならば、名色は母胎の中で育たない』

『識が母胎に入った後に外れたならば、生まれることはない』

『識が若いときに断たれたら、名色は成長し成熟し老大とはならない』

ゆえに、識は名色の因であり縁である、と説かれます。

つまり、『識』とは結生識のことであり、その後、名色(五蘊)が生長していく因とされます。

 

『名色を縁として識がある』というのは、次のような理由です。

『識が名色において根拠を得ることがなかったとすれば、未来に生・老・死という苦の集まりの発生は知られない。』

ゆえに、名色は識の因であり縁である、と説かれます。

 

そして、

『実に、この名色が識とともに互いの縁として起こる場合、これだけによって、生まれたり、老いたり、死んだり、没したり、生まれ変わったりすることになります。

これだけによって、名称の路・語源の路・告知の路・慧の領域があります。

輪転であるこの状態が、告知のために起こります。』

 

ここの最後の訳語は意味を理解しづらいのですが、

識と名色にだけ相依性があることと、それが非常に重要な意味を持っていることはわかりました。

 

 

 

中部経典『大有明経』

中部経典の第43は、『大有明経』です。

 

これは、サーリプッタの説法なのですが、解脱について詳しく説かれていて、非常に重要な経典だと思います。

 

ある比丘がサーリプッタに『無慧者』の意味を聞きます。

『これは苦である』と知らない。

『これは苦の生起である』と知らない。

『これは苦の滅尽である』と知らない。

『これは苦の滅尽に至る道である』と知らない。

このことを、無慧者と言います。

 

『有慧者』とは

『これは苦である』と知る。

『これは苦の生起である』と知る。

『これは苦の滅尽である』と知る。

『これは苦の滅尽に至る道である』と知る。

このことを『有慧者』と言います。

 

『識』とは何でしょうか。

『楽である』と識るのです。

『苦である』と識るのです。

『非苦非楽である』と識るのです。

 

そして、

『慧と識とは、結合しており、分離しているのではありません。

知るものが識り、識るものが知るからです。』

『慧は修習されるべきものであり、識は知悉されるべきものである。これがそれらの差異です。』

 

『受』とは何でしょうか。

『楽』を感受します。

『苦』を感受します。

『非苦非楽』を感受します。

これが受です。

 

『想』とは何でしょうか。

青を想う。

黄を想う。

赤を想う。

白を想う。

『それが想う。それが想う。』というこのことから想と言われます。

 

『受と想と識というこれらの法は結合しており、分離しているのではありません。

感受するものが想い、想うものが識るからです。

差異を知らせることはできません。』

 

『五の感官(眼・耳・鼻・舌・身)から解放されている清浄な意識によって、何が知られますか。』

 

『五の感官(眼・耳・鼻・舌・身)から解放されている清浄な意識によって、空無辺処、識無辺処、無所有処が知られます。』

 

『知られる法を何によって知るのでしょうか。』

『慧眼によって知ります。』

 

『慧は何を目的としているでしょうか。』

『慧は、よく知ることを目的と死、知悉することを目的とし、捨断することを目的としています。』

 

『正見が起こるためには、どれだけの縁がありますか。』

『正見が起こるためには、二の縁があります。

他からの声と正しい思惟です。』

 

『正見は、どれだけの部分に支えられて、心の解脱の果とも心の解脱の果報ともなり、慧による解脱の果とも慧による解脱の果報ともなるのでしょうか。』

『正見は、戒に支えられています。

 聞に支えられています。

 議論に支えられています。

 止に支えられています。

 観に支えられています。』

 

『どれだけの生存がありますか。』

『三の生存があります。欲の生存、色の生存、無色の生存です。』

 

『どのようにして未来に再生がありますか。』

『無明に覆われ、渇愛に縛られた生けるものたちが、あちこちに歓喜することにより、未来に再生があります。』

 

『どのようにして未来に再生がなくなりますか。』

『無明が消えることにより、明智が起こることにより、渇愛が滅することにより、未来に再生がなくなります。』

 

『第一の禅はどれだけの部分からなるのでしょうか。』

『第一の禅は、五の部分からなります。

 大まかな考察、細かな考察、喜び、楽、心の統一の五つです。

 第一の禅は、五の部分(五蓋)の捨断があり、五の部分の具足があります。

 捨断は、欲貪、怒り、沈鬱眠気、浮つき後悔、疑い、の五つです。

 具足は、大まかな考察、細かな考察、喜び、楽、心の統一の五つです。』

 

『五つの感官(眼・耳・鼻・舌・身)の拠り所(patisarana)は何でしょうか。』

『意です。』

 

『五つの感官(眼・耳・鼻・舌・身)は何によってとどまっているのでしょうか。』

『寿命によってとどまっています。』

 

『寿命は何によってとどまっているのでしょうか。』

『寿命は熱によってとどまっています。』

 

『熱は何によってとどまっているのでしょうか。』

『熱は寿命によってとどまっています。』

 

『どれだけの法がこの身体を捨てるとき、この身体は捨てられ、投げ出され、意思のない棒きれのように横たわるのですか。』

『寿命と熱と識の3つの法ががこの身体を捨てるとき、この身体は捨てられ、投げ出され、意思のない棒きれのように横たわるのです。』

 

『死んだ者と想受滅に入っている比丘との差異はなんでしょうか。』

『想受滅では、寿命と熱と識があります。』

 

『非苦非楽の心の解脱に入るためには、どれだけの縁がありますか。』

『楽を断ち苦を断ち、すでに喜びと憂いが消滅していることから、苦も楽もない、平静による念の清浄のある第四の禅に達して住みます。』

 

『無相のこころの解脱に入るためには、どれだけの縁がありますか。』

『一切の相を思惟しないこと、と、無相の界を思惟することです。』

 

『無相の心の解脱がとどまるには、どれだけの縁がありますか。』

『一切の相を思惟しないこと、と、無相の界を思惟すること、と、以前における決意です。』

 

『無相の心の解脱から出るためには、どれだけの縁がありますか。』

『一切の相を思惟すること、と、無相の界を思惟しないこと、です。』

 

 

そして、この後、【無量の心の解脱】と【無所有の心の解脱】と【空性の心の解脱】と【無相の心の解脱】の説明と、その差異と同一性が語られます。

 

 

【無量の心の解脱】

慈しみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、慈しみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

憐れみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、憐れみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

喜びのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、喜びのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

平静のある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、平静のある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

 

【無所有の心の解脱】

完全に識無辺処を超え、【何ものも存在しない】との無所有処に達して住みます。

 

 

【空性の心の解脱】

『これは我について空であり、あるいは我に属するものについて空である』と熟慮します。

 

 

【無相の心の解脱】

一切の相を思惟しないことから無相の心の定に達して住みます。

 

これが根拠であり、この根拠によれば、【無量の心の解脱】と【無所有の心の解脱】と【空性の心の解脱】と【無相の心の解脱】とは、意味も表現も異なります。

 

 

ところが、次の根拠によれば、表現は違っても、これらの法の意味は同じとなります。

 

貪欲は量を作るもの。

瞋恚は量を作るもの。

愚痴は量を作るもの。

 

無量のこころの解脱の中で最上とされる不動のこころの解脱では、

貪欲について空のものであり、瞋恚について空のものであり、愚痴について空のものである。

 

貪欲は障害のあるもの。

瞋恚は障害のあるもの。

愚痴は障害のあるもの。

 

無所有のこころの解脱の中で最上とされる不動のこころの解脱では、

貪欲について空のものであり、瞋恚について空のものであり、愚痴について空のものである。

 

貪欲は相を作るもの。

瞋恚は相を作るもの。

愚痴は相を作るもの。

 

無相のこころの解脱の中で最上とされる不動のこころの解脱では、

貪欲について空のものであり、瞋恚について空のものであり、愚痴について空のものである。

 

ここにおいて、これらの法は、意味が同じでただ表現のみが異なります。

 

 

 

 

 

中部経典『サーレッヤカ経』

中部経典の第41は、『サーレッヤカ経』です。

 

サーレッヤカ(Saleyyaka)とは、サーラー村の村民の意味です。

サーラー(Sala)という村で説かれました。

 

サーラーに住むバラモン資産家たちは、世尊にこう言った。

『ある生けるものたちは、身体が滅ぶと、死後、苦処・悪道・破滅の地獄に生まれかわりますが、その因は何でしょうか。縁は何でしょうか。

 ある生けるものたちは、身体が滅ぶと、死後、善道の天界に生まれかわりますが、その因は何でしょうか。縁は何でしょうか。』

 

『非法行・不正行によって、ある生けるものたちは、身体が滅ぶと、死後、苦処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。

法行・正行によって、ある生けるものたちは、身体が滅ぶと、死後、善道の天界に生まれかわります。』

 

この後、非法行・不正行の詳しい内容が説かれます。

 

身による非法行・不正行が、3種。

語による非法行・不正行が、4種。

意による非法行・不正行が、3種。

この十不善業が語られます。

 

身による非法行・不正行は、殺生・盗み・邪淫の3種。

 

語による非法行・不正行は、

【妄語】知っていることを知らないと言い、見ているのに見てないといい、見てないのに見ていると言う。自分のために他人のためにあるいはわずかな利益のために故意の妄語者となること。

 

【両舌】和合している者たちを離反させ、分裂させるように、あちらで聞いてこちらで話、こちらで聞いてあちらで話すこと。

 

【悪口】粗暴で粗野で、他を苦しめ、他を不機嫌にさせる、怒りを伴った、定に資することのない言葉のこと。

 

【綺語】ふさわしくないときに語り、事実でないことを語り、意義のないことを語り、非法を語り、心に残ることのない、意味を伴わない言葉。

 

 

意による非法行・不正行は、貪欲・瞋恚・邪見(顚倒見)の3種。

貪欲は『どうか他人のものが私のものになるように』

瞋恚は『この生けるものらは害されよ。殺されよ。破壊されよ。』

邪見は『布施されるものはない。善悪の果報はない。この世はない。あの世はない。沙門バラモンは世にいない。』

 

それに対し、死後、善道の天界に生まれかわる因であり縁である法行・正行とは、これらの非法行・不正行から離れること、と説かれます。

 

そして、この法行者・正行者であれば、兜率天であれ梵身天であれ、光天であれ、夜摩天であれ、色究竟天であれ、生まれ変わることができると語ります。

さらに、空無辺処天、識無辺処天、無所有処天、非想非非想処天であれ生まれ変わることができる。

そして、もしこの法行者・正行者が

『もろもろの煩悩の滅尽により、煩悩のないこころの解脱、慧による解脱を、現世のうちに自らよく知り、目の当たり見、成就して住むことができますように』と希望すれば、それができる、それは法行者・正行者だからだ、と説かれます。

 

 

 

中部経典『小アッサプラ経』

中部経典の第40は、『小アッサプラ経』です。

 

ここでも、一切の悪しき不善の法を断つことから〈沙門の正しい実践〉が説かれます。

 

不善の法の浄化⇒満足⇒喜び⇒身体が軽やかになる⇒楽を感じる⇒心が統一される

 

という一連の流れが説かれます。

 

七覚支は、

念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨

です。

択法、喜、軽安、定はほぼそのままです。

 

この経典の大きな特徴は、

不善の法の浄化⇒満足⇒喜び⇒身体が軽やかになる⇒楽を感じる⇒心が統一される

の後に、四無量心が説かれることです。

 

 

慈しみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、慈しみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

憐れみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、憐れみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

喜びのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、喜びのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

平静のある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、平静のある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

 

この経典を見ると、七覚支の【捨】は四無量心の完成と解釈してもいいかもしれません。

 

 

 

中部経典『大アッサプラ経』

中部経典の第39は、『大アッサプラ経』です。

 

アッサプラとはこの説法が行なわれた町の名前です。

 

〈沙門となりバラモンとなるもろもろの法〉が説かれます。

沙門の目的である涅槃に至るためになすべき法が次々と語られます。

「それ以上になすべきことは何か」というふうに続きますので、後になればなるほど重要と言うことです。

 

最後に、五蓋を断つことが語られ、いつものように、

五蓋を断つ⇒四禅⇒三明⇒解脱

という解脱への道筋が語られます。

 

さて、〈沙門となりバラモンとなるもろもろの法〉は、〈慚愧をそなえる者になろう〉という法から始まります。

 

〈慚愧をそなえる〉

 ⇩

〈身の行為を清浄にする〉

 ⇩

〈語の行為を清浄にする〉

 ⇩

〈意の行為を清浄にする〉

 ⇩

〈生活を清浄にする〉

 ⇩

〈感官の門を護る〉

 ⇩

〈食べ物に量を知る〉

 ⇩

〈覚醒に努める〉

 ⇩

〈念と正智をそなえる〉

 ⇩

〈五蓋を断つ〉

 

 

そして、この経典では、〈五蓋を断つ〉について詳しく説かれています。

 

 

1、世界に対する貪欲を捨て、貪欲の消え失せた心をもって住み、貪欲から心を浄めます。

 

2、怒りと憎しみを捨て、怒りのない心をもち、すべての生き物を益し、同情して住み、怒りと憎しみから心を浄めます。

 

3、沈鬱と眠気を捨て、沈鬱と眠気が消え失せ、明るい想いを持ち、念と正念をそなえて住み、沈鬱と眠気から心を浄めます。

 

4、浮つきと後悔を捨て、浮つきがなく、内に静まった心をもって住み、浮つきと後悔から心を浄めます。

 

5、疑いを捨て、疑いを脱し、もろもろの善法に対して疑惑をもつことなく住み、疑いから心を浄めます。

 

 

ここで重要なのは、五蓋の反対が示されていることです。

これによって、五蓋の意味が浮かび上がってきます。

貪欲には、反対の言葉が示されていませんが、貪欲は他の説法でよく説明されているので、意味はわかると思います。

 

〈怒りと憎しみ〉に対して、〈すべての生き物を益し〉と〈同情〉が挙げられています。

慈悲の心をもつことによって消えるとされています。

 

〈沈鬱と眠気〉に対しては、〈明るい想い〉〈念と正念〉が挙げられます。

〈浮つきと後悔〉に対しては、〈静まった心〉が挙げられます。

そして、〈疑い〉とは、〈もろもろの善法に対しての疑惑〉のことだとわかります。

 

この説法によって、五蓋の性質がかなりはっきりと示されたと思います。

 

そして、さらに次の喩えで重要なことを言っています。

 

五蓋とは五つの障害であり、

1、負債

2、病気

3、牢獄

4、奴隷

5、荒野の道

に喩えられています。

 

【慧を弱めるもの】という定義です。

 

つまり、仏陀が、煩悩といい、不善法といい、五蓋というのもすべて、慧を弱めるもの、慧に蓋をしてしまうもの、慧に覆いかぶさるもの、という意味で、それを取り除けば慧が輝きだすということです。

 

 

 

中部経典『大愛尽経』

中部経典の第38は、『大愛尽経』です。

 

仏陀が、わざわざ『渇愛滅尽解脱の説示として常に心にとどめよ』と言われたくらい、極めて大切な説示です。

 

仏陀の真意の核心がここに説かれます。

 

十二縁起が何を意味するのかが具体的に明かされます。

 

 

漁師の子でサーティという比丘のことが語られます。

この比丘は

『この識は流転し、輪廻し、同一不変である』ということを釈尊の法だと思っています。

 

しかし、この見解は間違った見解であり、悪しき見解です。

 

仏陀は

『縁がなければ、識の生起はない』と説いたのです。

 

ここで、仏陀は、自ら説いた本当の意味を具体的に語ります。

 

『それぞれの縁によって識が生起すれば、それをそれぞれによって呼ばれる』

『眼ともろもろの色とによって識が生起すれば、それは眼識と呼ばれる。

 耳ともろもろの声とによって識が生起すれば、それは耳識と呼ばれる。

 鼻ともろもろの香とによって識が生起すれば、それは鼻識と呼ばれる。

 舌ともろもろの味とによって識が生起すれば、それは舌識と呼ばれる。

 身ともろもろの触れられるものとによって識が生起すれば、それは身識と呼ばれる。

 意ともろもろの法とによって識が生起すれば、それは意識と呼ばれる。』

 

このように、縁による識の生起を示された。

 

次に、縁による五蘊の生起を示す。

 

五蘊は、食(ahara)によって生起している。

 

『その食の滅によって、生じているものは滅する性質のものである、と如実に正しく慧によってよく見られていますか』

 

しかしながら

『このように清浄であり純白である、この見解に執着し愛好し貪り求め、我が物とするならば、執着するためにではなく渡るために説かれた、筏に喩えられる法を理解していないことになる』

 

ここで重要なことを仏陀は言っています。

仏陀の理法が清浄であり純白であっても、それは渡るために説かれたのであって執着するために説かれたのではない、ということです。

これが筏の喩えの真髄です。

 

私は、sati=念 とは、気づきという意味ではなく、『記憶』という意味だと考えています。

仏陀の理法を記憶し、心に常に留めておいて、意識的に繰り返し念じること、です。

しかし、その記憶し心にとどめ繰り返し念じる仏陀の理法も、渡るためのものです。

執着や限定をなくして無量の境地=涅槃に至るためのものであり、その理法に執着してしまったら、それがさらに強固な執着、限定になってしまって、本来の無量心を阻害してしまうのです。

 

ここで、五蘊を生じさせた四つの食(四食)は何を縁とするかが説かれます。

四食は、渇愛を縁として生じます。

四食は渇愛を

渇愛は感受を

感受は接触を

接触は六処を

六処は名色を

名色は識を

識はもろもろの行(sankhara)を

もろもろの行は無明を

その縁としています。

 

そして、十二縁起が説かれます。

 

無明⇒行⇒識⇒名色⇒六処⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死・愁・悲・苦・憂・悩

 

このように、苦の集積へと突き進んでいきます。

 

ここで仏陀はこう言います。

 

『比丘たちよ、そなたたちは私により、自ら見るべき、時間を隔てない、〈来たれ、見よ〉というにふさわしい、導くべき、賢者たちによって各自に知られるべきこの法をもって導かれています。』

 

こう言って、さらに核心を説きます。

 

註には、輪転の根本たる〈無明〉と還転の根本たる〈仏の出現〉を示した、とあります。

 

両親の和合によって受胎が起こります。

出産し、その子は成長します。

諸感官が成熟していきます。

もろもろの対象に触れます。

心地よい感受と好ましくない感受があります。

心地よい感受の経験や対象には執着していき、好ましくない感受の経験や対象は嫌悪していきます。

身に対する念(不浄、無常、苦、非我の理法)は現前せず、無量の心でない劣悪な心(無量心に蓋をされた状態)に住みます。

執着が有を生じさせ、有が生を生じさせ、苦の集積の生起となります。

 

ところが、世に仏が出現し、法を説きます。

その法を聞いて、ある人は出家します。

不善の法から離れ、感官から不善の法が流れ込むのを防護します。

 

五蓋を断ちます。

もろもろの不善の法を離れます。

四禅に住みます。

魅力的な対象に執着せず不快な対象を嫌悪しません。

身に対する念が現前します。

無量の心をもって住みます。

悪しき不善の法がここに残りなく消滅する、心の解脱、慧による解脱を如実に知ります。

執着の滅から全体の苦の集積の滅に至ります。

 

 

 

中部経典『小愛尽経』

中部経典の第37は、『小愛尽経』です。

 

愛尽とは、渇愛の滅尽のことです。

同じ問答が3回繰り返し出てきます。

それは、神々の主サッカ(帝釈天)が仏陀に質問し仏陀が答えた問答を、マハーモッガッラーナ尊者がサッカに聞きに行くのと、マハーモッガッラーナ尊者がその後仏陀に聞きに行くことで、3回同じ問答が出てきます。

 

その問答とはこうです。

 

『尊師よ、比丘は、要するに、どれだけをもって愛尽の解脱者となり、究極の終結者、究極の無碍安穏者、究極の梵行者、究極の完了者、人天の最勝者なのでしょうか』

 

『神々の主よ、

ここに、比丘は、〈あらゆる法は妄執に適しない〉と聞きます。

もし、比丘がそのように聞けば、かれはあらゆる法をよく知ります。

あらゆる法をよく知り、あらゆる法を知悉します。

あらゆる法を知悉し、いかなる感受もも、楽であれ、苦であれ、不苦不楽であれ、感受します。

かれは、それらの感受の、無常を観つづけて住みます。

消滅を観つづけて住みます。

滅尽を観つづけて住みます。

破棄を観つづけて住みます。

かれは、それらの感受の、無常を観つづけて住み、消滅を観つづけて住み、滅尽を観つづけて住み、破棄を観つづけて住み、世界のいかなるものにも執着しません。

執着せず、動揺することがありません。

動揺せず、ただ自ら寂滅します。

〈生まれは尽きた。梵行は完成された。なすべきことはなされた。もはや、この状態の他にはない〉と知ります。

神々の主よ、比丘は、要するに、これだけをもって愛尽の解脱者となり、究極の終結者、究極の無碍安穏者、究極の梵行者、究極の完了者、人天の最勝者となります。』

 

中部経典『大サッチャカ経』

中部経典の第36は、『大サッチャカ経』です。

 

この経典には、仏陀が出家してから行なった苦行の数々が詳細に語られています。

これ以上はないほどの、苛酷な修行に打ち込みますが、最勝の智見を得ることができませんでした。

そこで苦行を止め

四禅⇒三明⇒解脱

となります。

修業時代や、悟りの内容である四禅⇒三明⇒解脱に関しては、他の経典と重複します。

 

この経典の特徴としては、苦行の内容が詳しく書かれていることです。

そして、仏陀の苦行が、止息と断食であることがわかります。

呼吸と食事は生きる上で必須のものですから、つまり生存欲を滅しようということでしょう。

 

その他は、ほとんど他の経典にも出ていることですが、この経典は細かな箇所で面白い記述があります。

 

ひとつは、濡れた木片の喩えです。

火を起こそうとしている人がいます。

樹液があって水に浸けられている木片、水からは離れているけど樹液がある木片、水から離れていて樹液のない乾いた木片、のうち、初めの2つの木片からは火は出ません。火をおこそうとする人は最後の木片から火を起こすでしょう。

樹液や水は欲や煩悩の喩えです。

樹液があって水に浸けられている木片は、心の修習も身の修習もできていない修行者の喩え。

水からは離れているけど樹液がある木片は、身の修習はできているが心の修習ができていない修行者の喩え。

最後は身も心も修習ができている修行者です。

 

 

次に面白いエピソードは、サッチャカが、仏陀に対し、仏陀が日中に眠ったことについて問いただすところです。

簡単に言えば、『昼寝してたではないか。それは身の修習ができてないということでhないのか?』ということです。

仏陀は、『夏季の最終月に、食後、托鉢食から離れると、大衣を四つ折りに敷き、右脇を下にして、念をそなえ、正知をそなえて眠りに入ったことを憶えています。』

サッチャカは『ある沙門やバラモンたちは、これを迷いの住まい(sammoha-vihara)と語っています。』と言います。沙門やバラモンたちは、仏陀が昼寝しているのを見て、修行を怠けてる、なってない、と非難していたのでしょう。

仏陀は、『これだけをもって迷いのある者、迷いのない者にはなりません。』

『いかなる者でも、汚れのある、再生に導き、恐れを伴い、苦しみの果報のある、未来に生まれと老いと死のある、もろもろの煩悩が断たれていなければ、彼を私は迷いのあるものと言います。汚れのある、再生に導き、恐れを伴い、苦しみの果報のある、未来に生まれと老いと死のある、もろもろの煩悩が断たれていれば、迷いのない者と言います。』

これを聞き、サッチャカは感激します。

自分が議論をふっかけて、いろいろな攻撃的な言葉を投げかけたにもかかわらず、仏陀が平静で顔の色も澄んでいることに驚いたのです。

 

そして、自分が六師外道の6人それぞれに同じように議論を交わしたときは、6人とも、話をそらしたり、怒りや嫌悪や不満を顕わにしたと語ります。

 

故に、仏陀は阿羅漢であり正自覚者であると確信したのです。

 

インドにおいては、宗教上の議論は古来さかんに行なわれていました。

仏陀も、このサッチャカのような人からさかんに議論をふっかけられます。

そしてそのつど、相手を感服させています。

これはすごいことです。

仏教では、部派仏教も他の部派との議論に明け暮れていましたし、龍樹は説一切有部との論戦に明け暮れていました。

中国でも、天台宗と華厳宗との論戦は有名ですし、日本では叡山と南都との論戦が有名です。

最澄と南都の論戦だけでなく、若くて無名であった良源が南都の最優秀な人と論戦し完全に論破したことから、中興の祖ともなりました。

仏教の論戦は負けると負けた側の宗旨が間違っていたことになりますから、それは真剣でした。

 

あの温和なイメージの強い法然も、自説が師の考えと違った場合には一歩も引かずに論争を続け師匠からボコボコに殴られ血を出したことがあるくらいです。

仏教の歴史を見ると、論戦や法論の歴史でもありました。

 

しかし、この『大サッチャカ経』を見てわかるように、同じ議論をしても、六師外道の6人と仏陀は全く違ったということです。

その説得力がまず違っているのと、どんな議論でもきわめて平静です。

ここで本物かどうかの違いが分かります。

すぐ罵詈雑言するようであれば、それは間違いなくニセモノです。