中部経典の第38は、『大愛尽経』です。
仏陀が、わざわざ『渇愛滅尽解脱の説示として常に心にとどめよ』と言われたくらい、極めて大切な説示です。
仏陀の真意の核心がここに説かれます。
十二縁起が何を意味するのかが具体的に明かされます。
漁師の子でサーティという比丘のことが語られます。
この比丘は
『この識は流転し、輪廻し、同一不変である』ということを釈尊の法だと思っています。
しかし、この見解は間違った見解であり、悪しき見解です。
仏陀は
『縁がなければ、識の生起はない』と説いたのです。
ここで、仏陀は、自ら説いた本当の意味を具体的に語ります。
『それぞれの縁によって識が生起すれば、それをそれぞれによって呼ばれる』
『眼ともろもろの色とによって識が生起すれば、それは眼識と呼ばれる。
耳ともろもろの声とによって識が生起すれば、それは耳識と呼ばれる。
鼻ともろもろの香とによって識が生起すれば、それは鼻識と呼ばれる。
舌ともろもろの味とによって識が生起すれば、それは舌識と呼ばれる。
身ともろもろの触れられるものとによって識が生起すれば、それは身識と呼ばれる。
意ともろもろの法とによって識が生起すれば、それは意識と呼ばれる。』
このように、縁による識の生起を示された。
次に、縁による五蘊の生起を示す。
五蘊は、食(ahara)によって生起している。
『その食の滅によって、生じているものは滅する性質のものである、と如実に正しく慧によってよく見られていますか』
しかしながら
『このように清浄であり純白である、この見解に執着し愛好し貪り求め、我が物とするならば、執着するためにではなく渡るために説かれた、筏に喩えられる法を理解していないことになる』
ここで重要なことを仏陀は言っています。
仏陀の理法が清浄であり純白であっても、それは渡るために説かれたのであって執着するために説かれたのではない、ということです。
これが筏の喩えの真髄です。
私は、sati=念 とは、気づきという意味ではなく、『記憶』という意味だと考えています。
仏陀の理法を記憶し、心に常に留めておいて、意識的に繰り返し念じること、です。
しかし、その記憶し心にとどめ繰り返し念じる仏陀の理法も、渡るためのものです。
執着や限定をなくして無量の境地=涅槃に至るためのものであり、その理法に執着してしまったら、それがさらに強固な執着、限定になってしまって、本来の無量心を阻害してしまうのです。
ここで、五蘊を生じさせた四つの食(四食)は何を縁とするかが説かれます。
四食は、渇愛を縁として生じます。
四食は渇愛を
渇愛は感受を
感受は接触を
接触は六処を
六処は名色を
名色は識を
識はもろもろの行(sankhara)を
もろもろの行は無明を
その縁としています。
そして、十二縁起が説かれます。
無明⇒行⇒識⇒名色⇒六処⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死・愁・悲・苦・憂・悩
このように、苦の集積へと突き進んでいきます。
ここで仏陀はこう言います。
『比丘たちよ、そなたたちは私により、自ら見るべき、時間を隔てない、〈来たれ、見よ〉というにふさわしい、導くべき、賢者たちによって各自に知られるべきこの法をもって導かれています。』
こう言って、さらに核心を説きます。
註には、輪転の根本たる〈無明〉と還転の根本たる〈仏の出現〉を示した、とあります。
両親の和合によって受胎が起こります。
出産し、その子は成長します。
諸感官が成熟していきます。
もろもろの対象に触れます。
心地よい感受と好ましくない感受があります。
心地よい感受の経験や対象には執着していき、好ましくない感受の経験や対象は嫌悪していきます。
身に対する念(不浄、無常、苦、非我の理法)は現前せず、無量の心でない劣悪な心(無量心に蓋をされた状態)に住みます。
執着が有を生じさせ、有が生を生じさせ、苦の集積の生起となります。
ところが、世に仏が出現し、法を説きます。
その法を聞いて、ある人は出家します。
不善の法から離れ、感官から不善の法が流れ込むのを防護します。
五蓋を断ちます。
もろもろの不善の法を離れます。
四禅に住みます。
魅力的な対象に執着せず不快な対象を嫌悪しません。
身に対する念が現前します。
無量の心をもって住みます。
悪しき不善の法がここに残りなく消滅する、心の解脱、慧による解脱を如実に知ります。
執着の滅から全体の苦の集積の滅に至ります。