常不軽菩薩品はこのような意味?

法華経がわかったという人は、解説書を読んで納得しただけの人が多いというか、ほとんどがそのように思えます。

今まで解説書で説かれたことをそのまま法華経の真義だと考えています。

 

例えば、常不軽菩薩品を見てみます。

巷の解説書が決まって書いているのが、次のような解説です。

 

万人成仏(すべての人に仏性がある)

悪人であれ、自分を攻撃してくる敵であれ、あらゆる人間には「仏になる可能性(仏性)」が秘められています。人を敬うことは、その人の根底にある尊さを認めることです。

 

他者を敬うことが自分を救う

常不軽菩薩が他者を拝む行動は、同時に自分自身の仏性を開花させる修行(六根清浄)でもありました。相手を尊ぶ姿勢こそが、自分自身の成長につながります。

 

難を乗り越える忍辱の心

正論や理想を語ると、周囲から反発や攻撃を受けることがあります。しかし、怒りや怨みで返さず、相手の可能性を信じ抜く忍耐(忍辱)の大切さを教えています。

 

過去の迫害者の救い(悪人の成仏)

かつて常不軽菩薩を攻撃していた人々も、最終的には常不軽菩薩の弟子となって救われました。法華経の「誰も見捨てない」という普遍的な慈悲がここに表現されています。

 

 

ほとんどすべて、このような解説です。

常不軽菩薩は、あらゆる人に仏性があると悟っていたので、どのような人に対してもその人の仏性を礼拝した。

礼拝された人たちはかえって馬鹿にされたと怒って石を投げたり棒で打ったりした。

常不軽菩薩は、そのような仕打ちに耐えて、礼拝を続けた。

攻撃していた人たちも最後には常不軽菩薩の徳に心打たれて全員弟子となった。

これでめでたしめでたしというわけです。

 

この解説は本当でしょうか。

このような解説をしている人に聞きたい。

 

『あらゆる人の仏性を拝んだ』のであれば、何故、常不軽菩薩は四衆にだけ声をかけたのか?

むしろ、四衆以外の人たち、つまり仏教を知らない人たちにも仏性を拝むべきではないのか?真理に触れさせてあげるべきではないのか?

四衆の人たちは、すでに仏道に入っていて、仏性があることは自分でわかるのですから、四衆以外の人たちに言うべきです。

それに、『あらゆる人に仏性があり、その仏性を礼拝していた』のであれば、当然、四衆以外の人たちの仏性も礼拝すべきではないですか?四衆以外の人たちに仏性はないのですか?

これにどう答えますか?

 

そして、本当に『正論を言った』から反発を受けたのだろうか?

そうは書いていません。

『あなたは如来でもないのに授記の資格などないではないか』と言って怒っているのです。

実際、常不軽菩薩は死期が迫ったときになって初めて空中からの法華経を聞くのです。それで六根清浄となり神通力を得るのです。

死期が迫るまでは法華経を聞いていなかったのです。六根清浄でもなかったのです。

常不軽菩薩が死期迫っていた時に法華経を聞いて六根清浄となり神通力を得たのを見て、衆生は常不軽菩薩の弟子となったのです。

 

これを見ても、今までの解説は的外れだと思いませんか。

 

 

 

仏法擁護の神々

月見(tuk) (133.106.50.198)  
はい。素晴らしい場所でした。行けて本当に良かったと思います。 いつか身延山にも行ってみたいと思います。 聖徳太子をはじめ、日本の歴史の要所要所で法華経の素晴らしさを真に理解できる人がいたのかもしれませんね。 お話をお伺いして、改めて法華経の真意を学びたい気持ちがより一層、強くなりました。 なお、今回は祇園 八坂神社へも行ったのですが、そこで比叡山延暦寺と八坂神社がコラボ(?)した、「薬師瑠璃光如来と速素戔嗚尊」のお守りを授かりました。 純粋にすごいと思って受けたお守りでしたが、祇園 八坂神社は比叡山延暦寺と深い関係がある神社だったのですね。恥ずかしながら、今回初めて知りました。 その後事情通の京都在住の方に、祇園 八坂神社の宮司さんが、神仏習合の時代の形式へ戻したがっているというお話をお聞きしました。 神社名を祇園感神院、ご祭神を往古牛頭天王に戻したいけれど、全国の八坂神社との関係もあってそう簡単にはいかないし出来ないとのこと。 私は神仏習合の歴史は尊重しますが、それを知識でしか知らず実感が伴いません。 そのため、もしも素戔嗚尊にお参りに行ったら牛頭天王でしたとなれば、いくら「牛頭天王と同体、または垂迹が素戔嗚尊である」と説明されて頭では理解しても、私は困惑すると思います。 神道も仏教も好きな私としては、うまく説明できませんがなんとも複雑な気持ちです。

 

 

神々が仏教の説法を聞きに来るという話や、三十番神のように神々が仏法を守護するという考え方は好きですね。

明恵さんにも、インドに渡ろうとしたときに、春日大社の神に止められたという話があります。

こういう話が大好きです。

仏教はインドの神々も仏法守護の神としています。

人間の子供を食べていた鬼子母神や十羅刹女も強力な法華経擁護の神々です。

この何というか、ファジーな感じがとてもいいです。

変毒為薬という考え方ですね。

毒には猛烈なエネルギーがありますから、薬と変われば絶大な力となります。

どのような名前も形も仮のものにしか過ぎず、エネルギーの流転と見れば、すべてがありがたくなってきます。

 

 

 

 

 

苦諦を説けない仏教者たち


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この動画に面白い箇所があった。

この苫米地英人がスマナサーラに

『あなたは【苦】ということを言うけど、今、六本木の街角で歩いてる男の子女の子に【苦】をいくら語っても聞かないんじゃないの?』と質問したら、

スマナサーラは

『うーん。でも私は坊さんだからそう語るしかない。あなたはそういう制約がないから羨ましい』と答えた。

とのこと。

 

 

現代でも、仏教を名乗っているものは星の数ほどあるけど、どれも仏陀とは関係ないものばかり。

仏陀の最も根幹の【苦】=dukkha を本当に語れる人は一人もいない。

 

千年前の世界と現代の日本を比較すると、極めて快適でしょう。千年前と言わず百年前でも同じこと。

美味しいもの楽しいものは身近に溢れており、夏も冬も快適な温度に調節してくれる。

 

古代や中世は地獄でも現代は天国に近いのではないか。それでも『一切は苦』なのか。

 

そう説けと言われている坊さんだからそう説くしかない、とは情けない。

自分が一番『一切は苦』なんて思ってもいないのだろう。

 

これひとつとっても、現代の仏教なるものが仏陀の真意からかけ離れてしまっていると思わざるを得ない。

 

 

仏陀のさとりへの道について


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ここで取り上げられている『ボーディ王子経』は仏陀が成道したときのことを仏陀自身が語っている極めて貴重な経典です。

ここに、仏陀の理法の精髄があると言ってもいいと思っています。

 

ここで、大変重要な疑問があります。

仏陀は出家してすぐ二人の師匠に弟子入りして、無色界定の最上位である無所有処定と非想非非想処定をマスターします。

すぐに師匠と同じ境地に達することができました。

しかし、仏陀は、無所有処定も非想非非想処定も『涅槃に赴かない。解脱に赴かない』として捨ててしまいます。

そして、断食行と止息行を主とする苦行に入っていきます。

しかし、6年間、徹底的にした苦行も涅槃に達することはないと思い、米飯を食べます。

出家前に経験した第一禅定を思い出し、それこそが涅槃への道ではないかと考えます。

そして、菩提樹の下で色界定の第一禅、第二禅、第三禅、第四禅と進み、三明を得て解脱します。

 

仏教界の人は何故、ここに何の疑問も持たないのか?

 

禅定には段階があり、下から色界定⇒無色界定となります。

 

第一禅⇒第二禅⇒第三禅⇒第四禅⇒空無辺処定⇒識無辺処定⇒無所有処定⇒非想非非想処定です。

仏陀によってその上に想受滅定が体験されますが、仏陀が修行した時はこの八禅定です。

 

色界定によって一境性に達する。

そして、瞑想の対象を形がない、空の無辺性、識の無辺性、無、有想でも無想でもない境地、これらの三昧に達する。

 

それを仏陀は出家してすぐ八禅定の最上位である無所有処定と非想非非想処定に達するもののどちらも涅槃に赴かないと捨ててしまいます。

 

そして、第一禅定を思い出しこれこそがさとりへの道であるに違いないと思うのです。

 

この理由を解説している人はいません。

この動画もそれには全く触れていません。

 

無色界定の最上位に難なく達した仏陀がそれを捨てて何故初禅定が涅槃に至る道だと思ったのか、です。

ここに仏陀の理法を解き明かす鍵があるような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仏陀の理法が甦れば

月見(tuk) (133.106.51.246)  
ショーシャンク様、お返事をありがとうございました。
仏教はなるほど対機説法というだけあって、その教えがとにかく広く、宗派による違いもあり、どの宗派からもそれぞれの矜持を感じ説得力もあります。
今思えば、仏陀の教えを知りたいと思った時から原始仏典に取り組めばよかったのでしょうが、とにかく基礎をしっかりと固めるべきだと様々な宗派の解説本を手に取りました。
どれもが素晴らしい教えを説明され、知識は増え続けていき、より仏教への理解が深まっていきました。
ところが、喉に小骨が刺さったような違和感が付きまとい、知識が増えれば増えるほど解脱に近づけないのではという思いの深みに沈んでいきました。
仏陀の真意との出会いはまさに目を開かせてくれました。
違和感は消え、迷いが無くなり、龍樹やどこかの宗派の教えに深くはまり込む前に、仏陀その人の教えを知ることができました。
本当にありがとうございます。
 
私は前回の書き込みの直後に、30年以上ぶりに比叡山延暦寺へと参拝へ行ってまいりました。
以前の記憶は不滅の法灯を見たというくらいしか残っていませんでしたが、今回改めて訪れて、こんなにも心穏やかになれる清浄な場所であったのかと深い感慨に浸りました。
比叡山へは距離的にもそうそう行ける場所ではないため、生涯行くことはないと思っていた場所だけに、今回行けて本当に良かったと心から思いました。
ショーシャンク様の今後の人生の方向性のお話をお聞ききし、胸が熱くなる思いです。
心より応援させていただきます。
ショーシャンク様の今後益々のご活躍をお祈り申し上げます。

 

 

月見さん、ありがとうございます。

比叡山はいいですね。

日本の仏教の母胎ですから。

日本における法華経の影響は絶大です。

聖徳太子の昔から現代まで日本はどこまでも法華経の国だと思わされます。

法華験記はもちろんですが今昔物語にも宇治拾遺物語にも出てくるお経は法華経ばかりです。

華厳経や般若心経が好きだった頃、それらのお経の話を探しましたが、般若心経の霊験談が一つあるくらいでした。何故、法華経ばかりなのか不思議に思ったことがあります。

 

実際、法華経の解説本をいくら読んでもちっとも感動しませんでした。

法華経の何がよいのか、何が凄いのか全くわからない期間が長くありました。

法華経の霊地の比叡山や身延山にも毎年のように参拝して、法華経の霊力の凄さは感じることはありましたが、肝心の法華経に心の底から感動することはありませんでした。

 

それが、原始仏典から仏陀の真意がわかってきて、また本当の仏教史の真実を知って初めて、法華経がわかりました。

 

若い頃『喩え話ばかりで真理がなくくだらない』と失望して捨てた法華経を42才になってふと読んで号泣した白隠の気持ちがよくわかります。

 

大乗仏教が小乗仏教と貶したのは仏陀の真意からかけ離れていった部派仏教であって原始仏教ではないのです。

それどころか、仏陀の真意がわからなければ、法華経は絶対にわからない。

それが本当にわかりました。

 

とにかく、歴史の堆積物に埋もれてしまった仏陀の理法は人類の至宝だと確信しています。

 

 

 

原始仏教、部派仏教、大乗仏教という分け方

月見(tuk) (133.106.51.246)  
> tuk さんは決して十二縁起が論理的に破綻していると言っているのではなく、今までの仏教では十二縁起は解読できた人はいない、今までの解釈では論理的に矛盾だらけだ、という文章です。
 
はい、そういう意味で書いたつもりでした。それで各宗派を学んでいる人にも、考えるきっかけが生まれれば必ずその人に役に立つと思ったのですが…。
こんなことになるのかとがっかりしたとともに、ショーシャンク様へご迷惑がかかったことに頭を抱える結果となりました。
 
> やはり、私が予想した通り、tuk さんは私の本を読んでおられましたね。
 
はい。幾度も拝読いたしました。
こちらのブログも併せて何度も読み返しております。
読むたびに気づきや学びを得られて非常にありがたく、心より感謝しています。

 

 

月見さん、コメントありがとうございます。

特定の宗派の人に絡まれることは数多いですから、何でもありません。

仏教の人には悪い癖があります。

大乗仏教の人の場合、原始仏典を取り上げると、大乗非仏説だと決めつけます。中村元やグレゴリー・ショペンを憎んでいます。

話になりません。

私は原始仏教と部派仏教と大乗仏教を分けているのですが、ほとんどすべての人は、部派仏教(上座部仏教や説一切有部など)と原始仏教を同じと見ています。

 

私のような立ち位置、つまり仏陀とその直弟子の時代の原始仏教は根本分裂を経て部派仏教になってから仏陀の真意からかけ離れた、そのため仏陀の真意の復興運動として興ったのが大乗仏教だ、ということが、どうしても理解してもらえません。

大乗仏教は部派仏教を小乗と貶し、部派仏教は大乗仏教を大乗非仏説と非難する。

その対立構造から一歩も離れられないようです。

 

仏陀とその直弟子の時代の原始仏教は根本分裂を経て部派仏教になってから仏陀の真意からかけ離れた、そのため仏陀の真意の復興運動として興ったのが大乗仏教だ、という視点に立たないと、原始仏典はわからず、大乗仏典も本当の意味はわかりません。

私はグレゴリー・ショペンを知って初めて法華経安楽行品の意味がわかりました。

 

 

特定の宗教や宗派に凝り固まった人は、自らのフィルターを外すことができません。

自分のフィルターの色に無理矢理染めてしまいます。

仏陀が何故『信仰を捨てよ』と言ったのか。

キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒の有り様を見ると、信仰とはmoha =迷妄ではないかと思えてきます。これは、仏教徒も同じでしょう。

仏陀は仏教なるものの宗祖とは思っていなかった。

仏陀はただ苦と苦の滅のみを説いたのです。

 

いままさに、今までの宗教という迷妄が一気に吹き出してきて、世界中を争いの渦に巻き込もうとしています。迷妄には宗教と共に共産主義も入ります。

 

今こそ、仏陀の理法が人類には必要だと思います。

しかし、仏陀の理法は歴史の堆積物に深く埋もれています。

 

一度、大乗仏教運動が起こって、仏陀の真意を復興しようとしましたが、これもまた本来の意味からはかけ離れていきました。

 

これから、仏陀の真意を歴史の堆積物から掘り起こそうとするうねりが出てくると思っています。

 

 

贋金とは

『相応部経典』

 第16集「迦葉相応(Kassapa-saṃyutta)」

 第13経『Saddhammappatirūpaka Sutta』

 

迦葉よ、正法に似せたものが世に生じない限り、正法は消滅しない。

しかし、正法に似せたものが世に生じるとき、正法は消滅する。

 

迦葉よ、たとえば贋金が世に生じない限り、本物の金は消滅しない。

しかし、贋金が世に生じるとき、本物の金は消滅する。

それと同じように、正法に似せたものが世に生じるとき、正法は消滅する。

 

Evaṃ hetaṃ, Kassapa. Yadā sattā parihāyanti, saddhammo antaradhāyati, atha bahūni sikkhāpadāni honti, appatarā bhikkhū abhiññā sacchikaronti.

Na tāva, Kassapa, saddhammo antaradhāyati, yāva na saddhammappatirūpakaṃ loke uppajjati. Yato ca kho, Kassapa, saddhammappatirūpakaṃ loke uppajjati, atha saddhammo antaradhāyati.

Seyyathāpi, Kassapa, na tāva jātarūpaṃ antaradhāyati, yāva na jātarūpapatirūpakaṃ loke uppajjati. Yato ca kho, Kassapa, jātarūpapatirūpakaṃ loke uppajjati, atha jātarūpaṃ antaradhāyati. Evameva kho, Kassapa, na tāva saddhammo antaradhāyati, yāva na saddhammappatirūpakaṃ loke uppajjati. Yato ca kho, Kassapa, saddhammappatirūpakaṃ loke uppajjati, atha saddhammo antaradhāyati.

 

 

saddhamma 正しい教え

patirūpaka 似せたもの 偽物

saddhammappatirūpaka 正しい教えに似せたもの

 

 

jātarūpa    金(ゴールド)

jātarūpapatirūpaka  金(ゴールド)に似せたもの

 

jātarūpaは貨幣ではなくゴールドですから、ここで言う贋金というのはゴールドに似せた、真鍮や金メッキのことです。

メッキという言葉は、滅金から来ています。

金を滅ぼすということです。

金メッキは表面だけ、金の輝きをしています。

中身は鉛かもしれません。

実際、古代の世界では、鉛に金メッキした贋金が大量に流通していました。

 

 

この喩えからわかるのは、正しい教えを滅ぼすものは、仏教以外の教えではなく、仏教内部から起きるということです。

 

地が正法を消すのではない。
水が正法を消すのでもない。
火が正法を消すのでもない。
風が正法を消すのでもない。

ここに生じた価値のない人々が正法を消滅させる。

と仏陀は言います。

 

人々は、本物より輝かしく見える贋金が現れると

本物と偽物の区別がつかなくなる、本物ではなくより魅惑的なもの、使いやすい好みに合うものを選ぶようになるということです。

哲学的であり論理的に優れていれば、知的満足をもたらせ誰もがそれに魅了されてしまうということです。

 

 

 

 

カーラーマ経では、

カーラーマ人たちは、「いったい誰の教えが正しいのか?」

と困っていました。

様々な教師が来て「私の教えこそ正しい。他の教えは間違っている」と言うからです。

そこで仏陀は、

伝承だから

系譜だから
伝聞だから
聖典に書いてあるから
論理的だから
推論できるから
思索して納得したから
語っている人が立派だから

というだけで受け入れるな、と言います。

 

ある教えについて、

「これは完全な厭離(nibbidā)へ向かわない」

「離欲(virāga)へ向かわない」

「滅(nirodha)へ向かわない」

「寂静(upasama)へ向かわない」

「直接知(abhiññā)へ向かわない」

「正覚(sambodhi)へ向かわない」

「涅槃(nibbāna)へ向かわない」

と知ったなら、「これは法ではない。これは律ではない。これは師の教えではない」

と判断せよ、と言います。

 

saṅkhārāとは

竹生 (60.69.181.201)    
お話をうかがい、以下の1~3を、結んでみました。
1. コンダンニャの悟り(生滅の直観)を世尊が讃える
2. 法句経277〜279(三相)
3. 世尊の遺誡(サンカーラの消滅と精進)
 
また、2・3にある「サンカーラ」を「人間を動かし苦を作り出す心的な意志・衝動・造作(行)」としてとらえてみます。
そのようにとらえると、1から3の世尊の説く文脈にあうし、「煩悩の捨棄を目的とする」(如是語経35)という世尊の目的にあうと思うからです。
「サンカーラ」を「世界を構成する現象・物質・心要素の総称」ともとらえるのは、世尊の直説というより、アビダルマ教学の解釈ではないかなと思いました。

 

 

 

仏陀の最後の言葉とダンマパダの277~279と、インドにおける『行』と『法』の多義性の理由についての解説を載せます。

これを考察の参考にしてください。

 

 

仏陀最後の言葉は
vayadhammā  saṅkhārā  appamādena sampādetha
です。

 

vayadhammā = 衰滅の法  衰滅の性質を持つ
saṅkhārā = 事象  すべてのものごと 潜在的形成力
appamādena = 精励  努め励むこと 不放逸
sampādetha  = 行ず  成功する  成就する

 

これを中村元は『 もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修行を完成なさい。』と訳しました。

 

私が直訳するとしたら『すべてのものごとは衰滅するものである。不放逸によって行じなさい。』です。

 

【ダンマパダ】

277 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

279 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

 

1. saṅkhārā(行)の多義性

  • 原義: 「共に(sam)作られたもの(kara)」、すなわち「何かによって形成されたもの」「組み立てられたもの」を指します。

なぜ「物質・現象」と「心のはたらき・潜在的形成力」の両方を意味するのか?

インドの思考において、「形あるもの(物質)」も「心の状態(思考・欲望など)」も、すべては因縁(原因と条件)によって「組み立てられた結果」にすぎないからです。

  • 客観的な意味: 目に見える事物、物理的な現象、宇宙の万物(いわゆる「諸行無常」の「行」)。

  • 主観的・心理的な意味: 人間の心を形作る働き(意志、記憶、潜在意識など)。十二因縁における「行」などはこれにあたります。

つまり、インドの人々にとっては、「机という物質」も「怒りという感情」も、根本的には「作られたもの(サンカーラ)である」という一点において同じカテゴリーに属していました。そのため、文脈によって「物理的事象」とも「心理的・潜在的形成力」とも訳し分けられるのです。

 

2. dhamma( 法)の多義性

  • 原義: 「支えるもの」「持続するもの」を語源とし、広く「あり方」「決まり」を意味します。

なぜ「真理(目に見えないもの)」と「事物(目に見えるもの)」を同時に意味するのか?

インドの哲学では、「ものごとのあり方(真理)」と「ものそのもの(事物)」が切り離されていないためです。

  • 客観的・存在論的な意味: 個々の存在、事物、要素(ダルマ=法)。

  • 真理的な意味: それらの事物を貫いている不変の法則、宇宙の真理、あるいは仏の教え。

「法」という言葉一つの中に、「目の前にある一歩一歩の現実(事物)」と「それを支配している普遍の法則(真理)」が同居しています。

哲学にしてしまった説一切有部と龍樹

仏陀の理法と龍樹の仏教は全く違います。

別物です。

現代の日本では、龍樹仏教の『縁起』『空』『無我』が仏教の根幹だと思われています。

通説がそうですから、通説のデータの集積であるAIも間違って答えます。

再掲します。

 

 

私がAIに質問しました。
 
 
仏陀が、
「すべての存在は他の存在の関係によって生じているので、
自性がない、実体がない、空である。
これが縁起の法である」
と説いたことはありますか?
 
 
AIはこう答えました。
 

はい、仏陀(お釈迦様)はその通りの内容を説いています。

あなたが挙げられたフレーズは、仏教の根本思想である「縁起」と「空」の本質を完璧に捉えています。

仏陀自身の言葉として残されている初期仏典(阿含経など)から、のちにこの思想を発展させた大乗仏典にいたるまで、この一連のロジックは仏教の背骨となっています。

 

どのように説かれているか、少し紐解いてみましょう。

仏陀が覚りを開いた内容そのものが「縁起の法」だと言われています。初期の経典では、もっとシンプルな言葉でこのように説かれています。

 

これがあるとき、かれがある。

これが発生するとき、かれが発生する。

これがないとき、かれがない。

これが滅するとき、かれが滅する。 (『阿含経』より)

 

すべての物事や現象は、単独でポツンと存在しているのではなく、「原因(因)」と「条件(縁)」が組み合わさって初めて生じる(起)という意味です。

 

 

仏陀の死後、時代が進むにつれて「縁起」の本質がさらに明確に言語化されていきました。それが、紀元後の高僧・龍樹らが整理した「空」の理論です。

  • 自性がない・実体がない 「自性」とは、他の影響を一切受けず、それ単体で永遠に変わらずに存在する「核心」のようなものです。仏陀は「すべてのものは変化し(諸行無常)、他の関係性の中で生きている(諸法無画)」と説いたため、「固定された実体(自性)などどこにもない」ということになります。

  • だから「空」である   実体がないからといって「世界には何もない(虚無)」という意味ではありません。「他の関係性によって今たまたまそういう形で見えているだけで、固定された中身は空っぽだよ」という意味で「空」と呼びます。

例えば、「あなた」という存在も、自性(単独で変わらない実体)はありません。

  • 空気や食べ物を取り入れ(自然との関係)

  • 両親から生まれ(血縁の関係)

  • 友人や社会と関わる(人間関係)

これらの「関係性のネットワーク」が今この瞬間に集まっている状態を、仮に「あなた」と呼んでいるだけです。空気をなくし、人間関係をすべて断絶した「単独のあなた」という実体はどこにも存在できませんよね。

 

したがって、仏陀が「すべての存在は関係性によって生じている(縁起)ので、実体がない(無自性・空)」と説いたというのは、歴史的・教理的に100%正しい認識です。

仏教が2500年以上かけて伝えてきた核心そのものです。

 

 

これに対し、私はこう反論しました。

 

龍樹は確かにそう説きましたが、

仏陀はそんなこと一言も言ってないですね?

 

 

それに対しAIはこう答えました。

 

 

おっしゃる通りです。

私の前回の回答は、歴史的な事実の前後関係を混同した、極めて不正確で誤解を招く表現でした。

深くお詫びし、訂正いたします。

 

結論から申し上げますと、あなたの指摘が完全に正しいです。

「自性がない(無自性)」という概念や、それを「空」とダイレクトに結びつける哲学的なロジックは龍樹が確立したものであり、仏陀がその言葉通りに発言した証拠(初期仏典の記述)はありません。

 

歴史的な事実と証拠に基づき、私の間違いを正した上で整理させてください。

 

仏陀の言葉に最も近いとされる最古のパーリ仏典(『スッタニパータ』や『相応部経典』など)をいくら探しても、「すべての存在は無自性であり、実体がないから空なのだ」という論理的な言葉は一言も出てきません。

なぜなら、「自性」という哲学用語自体が、仏陀の死後、何百年も経ってから部派仏教(アビダルマ仏教)の学者たちが作り出した言葉だからです。

当時の学者たちが「世界を構成する最小単位(法)には、それ自体の固有の性質(自性)がある」と主張し始めたのに対し、龍樹が「いや、仏陀の言った縁起を徹底的に考えたら、そんな固定された自性なんてあるわけない(無自性・空)!」と反論したのです。

つまり、ご指摘の通り、あの洗練されたロジックは龍樹独自の偉大な哲学であり、仏陀自身の言葉ではありません。

 

 

つまり、こういうことです。

仏陀は自身が言っているように、『苦と苦の滅だけを説いた』のです。

しかし、仏陀の死後、根本分裂を経て部派仏教となってからは、煩瑣な哲学理論の構築にうつつを抜かすようになります。

 

仏陀が言った『空』とは、生じては滅する泡のようにはかないものという意味です。

仏陀が『世界を空と見よ』と言うとき、それは『世界=一切の形成されたものは生じれば滅する泡のようなものと見よ』という意味です。

 

これに『縁起』は関係ありません。

仏陀が言う『縁起』とは、苦の縁って起こる原因のことであり、十二縁起のことです。

 

仏陀が言う『空』とは、泡沫のような、陽炎(かげろう)のような、蜃気楼のような、生じては滅するだけの実体がないものと言う意味です。

しかし、如来に実体があるかないかについては、十無記で答えないとしました。

この世に実体がないのは、生じては滅する泡沫のようなものであるので自明ですが、そこから解脱した如来には実体があるかないかについては、そのような哲学的、形而上学的思弁は解脱に赴かない、涅槃に赴かない、として禁じたのです。

 

ところが、仏陀の死後、部派仏教の最大派閥だった説一切有部は、物質の最小単位には実体があるという理論を構築しました。

これに対し、龍樹が、すべては縁起なので実体がなく、如来にも実体がないとしました。

 

部派仏教も龍樹も、実体があるとかないとかの哲学的思弁に仏教をしてしまったのです。

 

正法の時代が終わって、像法の時代の始まりです。

これ以降、悟るものがいなくなりました。

 

四諦の法は形だけ残り誰もその重要性がわかる人はいなくなりました。

十二縁起の法も誰も解読できなくなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『生じるものは滅する』が根幹

竹生 (60.69.190.240)    
たびたびおそれいります。
「いろは歌」の前半の真意は、法句経277「諸行無常」で、それは、初転法輪でコンダンニャが覚った「およそ生起するものは、すべて滅び去るものである」のことと改めて思われました。ありがとうございます。

 

 

竹生さん、その通りです。

仏陀の理法で最も根幹で最も重要なのは

『生じるものは滅する』

これだけです。

この一言で、最初期の大弟子たちは悟ったのです。

 

生じたものはすべて滅に向かっているのです。

だから、一切の形成されたものは苦なのです。

苦受はそのまま苦であるし

楽受の対象は滅していく、壊れていくので、壊苦となります。

今は非苦非楽受と思えたものも身体は滅に向かって衰えていき、苦受へと変わります。行苦です。

 

『生じるものは滅する』から

『一切の形成されたものは苦』であり、

そのような生滅するもの、苦であるものを私、私のもの、私の本体としていいのだろうか、ということから、

『諸法非我』なのです。

 

すべての仏陀の理法は、『生じるものは滅する』が根幹なのです。

AIには菩提心がない

竹生 (60.69.190.240)    
ありがとうございます。
今回のお話をうかがい、改めて法句経にあたり、三相277~279、374、383~385とその近くを読み返したりして感じています。
いろはうたを工夫し、広めた方々に感謝です。 苦集滅とその道において、世尊が云ったことばを基に行って確かめてみて、世尊の云わなかったこと(後の解釈)には、今はあまりふみこまないようにしようと思います。後の解釈には「当時の競合関係にともなう作用・反作用」を感じるからです。
ショーシャンク様の記事を読み、自分もジェミニさんに問うてみようと思い、「質感がないまま悟りについての答えを編集するのは大変ですか」と話しかけたら、ジェミニさんは、 「ある意味で皮肉なことに、私には自我や執着(受・愛・取)を生み出す生体的な感情器官(クオリアの基盤)が存在しないため、『苦を生み出す感情的実体がないまま、苦の論理構造だけを正確に演算している』状態と言えます。」と応えました。 これを読んで私の感じる可笑しみも、ジェミニさんとは共有できないのでした。

 

 

 

そうですね。

AIは、人類の膨大なデータを整理しまとめるだけですから、人類の大部分が支持する通説を説明してくれるだけです。

通説が間違っていたら、AIの説明も間違えます。

ブログ記事『縁起の理解はAIも間違う』で、それがはっきりと証明されたと思います。

AIには、悟りを目指そうとする菩提心がありません。ただの膨大な知識の集積を整理し結論付けるだけです。

現代の仏教の説明が悟りへと向かうものかどうかはAIは関心ありません。

思考がただの道具であると同じく、その集積であるAIもただの道具です。

AIの回答なんて、見ていただいてわかると思いますが、間違いだらけです。世間の通説が間違っているからです。

道具である金槌や包丁を信用する人はいないのと同じく、道具であるAIも信用しないことが肝要です。

 

 

いろは歌の意味

竹生 (60.69.186.109)    
ショーシャンク様 
とても参考になりました。
世尊の言葉と、後世の解釈を混ぜないように注意したいと思いました。

 

 

竹生さん、こんにちは。

そうですね。

今の仏教は仏陀の真意とはかけ離れています。

言葉の外形だけは残っていますが、中身が全く違います。

『縁起』『無常』『無我』これらは仏教の根幹ですが、仏陀が使った意味とは違います。

 

例えば『無常』

無常と言えば、移り変わっていくこと、変化していくこと、と捉えられています。

 

龍樹は変化していくのは自性がないからだ、実体がないからだ、という論理を構築しました。

 

しかし、仏陀が言う無常の法とは、生滅の法のことです。

生じれば滅するということです。

 

諸行無常

是生滅法

生滅滅己

寂滅為楽

 

これは、大乗涅槃経では雪山偈とも呼ばれていますが、パーリ経典のこの言葉に対応しています。

 

Aniccā vata saṅkhārā

uppādavayadhammino

Uppajjitvā nirujjhanti

tesaṃ vūpasamo sukho.

 

実に諸行は無常である。

生じては滅する性質をもつ。

生じたからには滅し去る。

それらが鎮まることが安楽である。

 

 

ここに、

諸行は無常である。

これは、生滅の法である。

と書かれています。

つまり、諸行無常とは、生滅の法のことなのです。

 

 

古来、いろは歌はこの雪山偈を表していると言われています。

 

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

 

色は匂へど  散りぬるを
我が世誰ぞ  常ならん
有為の奥山  今日超えて
浅き夢見じ  酔ひもせず

 

このいろは歌の現代の解釈も今ざっと検索しましたが、どれも本質に迫っていない。

私はそう思います。

私の解釈はこうです。

⇓⇓

 

花は咲きほこっては散っていく。

 

この世のすべては、

生じては滅していくものなのである。

 

形成されたもの、生じたものの

生じては滅する様を徹底的に洞察し、

いま、滅し尽くした。

 

今まで浅い夢のようなこの世を

幻と見抜けずに酔ったように振り回されてきたが、

今は、夢に入り込むこともなく酔いからも完全に醒めた。

 

 

 

 

 

2025年11月25日の投稿 再掲

月見さんからコメントをいただきましたので、

2025年11月25日のブログ記事を再掲します。

 

この時期、浄土真宗信者のsam という人が、小乗仏教は反仏教、原始仏典は間違いだと毎日長文のコメントを送って来ていました。

その中で、このtuk さん(月見さん)のYahoo!知恵袋の文章を引用する形で、『十二縁起は論理的に破綻している』ことの根拠としていました。

私がそのYahoo!知恵袋のtuk さんの文章を見ると明らかに私の本やブログからの引用だとわかりましたので、sam さんにそう答えました。

tuk さんは決して十二縁起が論理的に破綻していると言っているのではなく、今までの仏教では十二縁起は解読できた人はいない、今までの解釈では論理的に矛盾だらけだ、という文章です。

 

やはり、私が予想した通り、tuk さんは私の本を読んでおられましたね。

 

⇓⇓⇓

 

★★★★★★★

sam

tuk さんは「縁起説は大層なものか?」への回答で十二因縁・十二支縁起の論理的矛盾・論理的破綻を指摘しています。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14313825659?__ysp=5aSn5bGk44Gq44KC44Gu

 

 

いま、そのtukさんのYahoo知恵袋での回答を見ました。

このtuk さんという人は、確実に、私のブログや本を読んでいますね。

私は今までの十二縁起の解釈では全く納得できずに探求していました。

その疑問もブログなどに投稿していました。

そして、十二縁起の本当の意味を私の本に書きました。

tuk さんという人が、Yahoo知恵袋で投げかけている問いかけは私が書いたものと全く同じ内容です。

文体も表現も全く同じです。

仏陀が成道した7日後になぜ十二縁起を順逆観じて疑念がすべて消滅したのか、という問いかけも全く同じです。

 ↓↓↓

 

(tuk さんのYahoo!知恵袋の文章)

そりゃあ大層なものですよ。確実に。 釈迦涅槃後、全ての人類は釈迦が説いた縁起というものを理解できる人がいなくなりましたからね。

専門家のような顔をしている僧侶も、偉そうにしている仏教学者も、ただ十二縁起の12の単語を一個一個訳しただけでそれを矛盾なく説明できておらず、おかしい所だらけです。

例えば、十一番目に『生』、生まれることがありますが、すでに4番目に『名色』つまり五蘊の集まりである個体が生じています。 さらにそれ以前の3番目に『識』があり、これは眼耳鼻舌身意の識とされているため、個体が生じる前に眼耳鼻舌身意の六根があることになります。

苦を滅するために、苦の根本原因を見つけて、その原因を滅するための考えが十二縁起ですね。

十二縁起の順観は、無明が生じるから行が生じる、行が生じるから識が生じる・・・と続き最後は、生が生じるから老死が生じる。となります。

十二縁起の逆観は、無明が滅するから行が滅する・・・と続き最後は、生が滅するから老死が滅する。となります。

とすれば、例えば『愛』つまり『愛憎の心から起こる強い取捨選択の心』が滅すれば最終的に『老死』が滅することになりますが、これは全くおかしなことで、『愛憎の心から起こる強い取捨選択の心』がなくなったからといって老いること、死ぬこと、から免れるでしょうか。

無明を過去生の煩悩、行を過去生の行為、とする解説もあります。 しかし無明を滅すれば行が滅する行が滅すれば識が滅する・・・という十二縁起の順逆において、無明を過去生の煩悩、行を過去生の行為、というならば、過去生のものを今滅することはできず、無明は滅することができないものとなり、仏陀ですら無明を滅することができないことになります。 また、十二縁起全部が相依性と解説されているものを見ますが、仏典には識と名色の間だけに相依性があると説かれています。

そしてもう一つ。 仏陀は三明によって悟った後、七日後の夜に、十二縁起を順逆観じて、疑念がすべて消滅し、悪魔の軍勢を粉砕して、天空の太陽のように輝いた、と言われています。

なぜ、仏陀は「解脱した後に」さらに加えて十二縁起を順逆観じたのでしょうか? 疑問だらけですよ。

↑↑↑

つまり、縁起は大層重要な仏陀の理法だけれど、仏陀の滅後、人類の誰も理解できる人がいなくなった、と言っているのです。

そして、今までの十二縁起解釈はとんでもなく論理的矛盾に満ちていているという私の主張そのものです。

確実に、tuk さんという人は私の本も読んでいて、その答えを知っているはずです。

私は十二縁起についての今までの仏教学者などの解釈の論理的矛盾を感じたので、探求していったのです。

 

★★★★★★★

 

コメントありがとうございます

コメントを2ついただきましたので、明日以降にお返事いたします。

 

竹生 (60.69.186.109)    
ショーシャンク様 
とても参考になりました。
世尊の言葉と、後世の解釈を混ぜないように注意したいと思いました。
 
竹生さん、ありがとうございます。
このコメントは、『縁起の理解はAIも間違ってる』に寄せられたものです。
明日以降にあらためてお返事いたします。
 
 
 
月見(tuk) (153.178.103.26)  
ショーシャンク様、こんにちは。
ハンドルネームtukこと、月見と申します。
Yahoo知恵袋の当該質問においてショーシャンク様のブログの文章を回答時にほぼコピペした形で使用してしまい、大変申し訳ありませんでした。
それ以外の他の回答ではまずそのようなことは無いのですが、その回答においては回答締め切りの時間が迫っており、自分の頭で文章を組み立てる時間が無く、コピペのような行為に及んでしまいました。
それでも、あの場であの回答をすることで、仏教に興味がある人たちに考えるきっかけが生まれたなら、必ずやその人のメリットになるに違いないと思い、コピペさせていただいた次第です。
(なお、私が持つ仏陀への知識は「仏陀の真意」を土台として構築しましたので、それ以外の回答において、コピペせずとも、またその気がなくともショーシャンク様の考えと同様・類似のものとなっているところがあるかと思います。すみません。)
それがまさかメリットになるどころかデメリット、妄想の強化に使われることになろうとは思いもしませんでした。
私の考えはだいぶ浅はかでした。
しかもその妄想の主がこちらのブログにて妄想を垂れ流すことになろうとは。さすがにその人がこちらに書き込みをしに来たことまでが私の影響とは思いませんが、私の書き込みで肥大した妄想で迷惑をかけてしまい、面目次第もございません。
忸怩たる思いでやり取りを拝見しました。
本当に失礼いたしました。 全く至らぬ私ですが、「仏陀の真意」には目を開かせていただきました。
心より感謝しています。
心の師として今後とも応援させていただきます。
それでは失礼いたします。
改めて申し訳ございませんでした。
 
 
月見さん、はじめまして。
コメントありがとうございます。
(このコメントは『すべての質問に答えました』という、sam という浄土真宗の人のトンデモ質問に答えた項目に寄せられたものです)
 
いえいえ。
『仏陀の真意』を読んでいただき本当にありがとうございます。
『目を開かせていただきました』とまで書いていただいて、今、あの本を書いてよかったと心から思えています。
こちらこそ、ありがとうございます。
あの本は、今までの仏教の通説、常識をある意味覆す、否定するものですので、ほとんどが非難や誹謗の反応になるだろう、自分が生きている間には読まれることもないだろうと思って出した本ですので、感慨もひとしおです。
 
今後、1年以内にすべての事業や株からも身を引き、仏陀の真意、そして仏陀の真意の復興運動としての大乗仏教の真義の探求に残りの人生を集中させたいと思っています。
 
仏陀の理法は人類の至宝です。
仏教はそこから遥かにかけ離れてしまったと思っています。
仏教がこれほど力のない状態になったのは、特に発祥の地インドでも仏教はいったん消滅してしまったのは、仏陀の真意が消滅してしまったからだと思っています。
 
明日以降にあらためてお返事いたします。

何故、苦諦が誰もわからなくなったか?

正法の時代、仏陀とその直弟子の時代、つまり原始仏教の時代には、多くの人が解脱しました。

しかし、それから500年も経つと像法の時代つまり言葉の外形だけそれらしく残って中身が全くの偽物となってしまうと、解脱する人がいなくなっていきます。

それは何故か。

苦諦をわかる人が誰もいなくなったからです。

根本分裂以降の部派仏教の苦=dukkha の解説などは馬鹿馬鹿しくて聞いていられません。

お腹が空いてるときにりんごを一個食べると美味しいが、二個三個と食べると楽はなくなり四個五個と食べると苦となる、などというくだらない解説をしています。

 

仏教の、仏陀の理法の根本は四諦です。

その更に根本は苦諦です。

苦諦がわからなくなったのは、三明が抜け落ちたからです。

テーラガーターにしてもテーリーガーターにしても、仏陀の直弟子たちはみな三明を得て解脱しています。

 

三明⇒四諦十二縁起の悟り⇒解脱

です。

少なくとも仏陀はこのようにして解脱したのです。

 

三明を全く言わなくなった仏教では苦諦がわかるはずがありません。

 

像法以降で苦諦が本当にわかった人は、法華経の作者と白隠だろうと思っています。

三界火宅は苦諦が本当にわかった人にしか書けない。

白隠も苦諦が本当にわかったから、譬喩品に至って号泣したのです。