つながる道

くり (101.143.81.101)    

ショーシャンクさま おめでとうございます! いつの日かショーシャンクさまが御覧になられているその清浄なる風景を綴っていただけることを心より願っております。

 

 

くりさん、おはようございます。

まだまだ悟ったわけでも無量に達したわけでもありません。

しかし、長年の疑念は氷解したように思えます。

大乗仏教は興るべくして興ったものだということ、しかし、大乗仏教は仏陀が残した筏を捨ててしまったために筏がなくどこにも行き着かないものとなってしまったと思います。

例えば、大乗仏教で『精進』という言葉を部派仏教から拝借して使ったとしても、一般語、抽象語にしてしまい『努力』というような曖昧な意味づけをして終わっています。

それでは、仏陀の真意などわかりませんし、仏教の雰囲気を嗅ぐくらいしかできません。

筏としての四諦十二縁起・四念処は激流を渡るためには必要であり、それに慚愧懺悔が起こってはじめて中心の消滅と無量の到達に至ると考えます。

ちまたでは、ワンネスの雰囲気を味わったことで見性とか悟りと言っていますが、それでは中心はそのままです。限定されたまま、激流に押し流されたまま『わたしは悟っている』と言っているだけです。

それがわかり、そして、しかし、大乗仏教が興るべくして興らなければならなかったわけもわかりました。

 

仏陀の直説は第一結集で確定したものだけです。

しかし、なぜ人々は500年も経って、あちらこちらで新しい経典を勝手に作り上げていったのか、これが非常な疑問でした。

その理由は複雑すぎてなかなかいま、言葉で表現するのはできませんが、その大きな源は仏陀が最期に際して残したメッセージに込められていることがわかりました。

 

部派仏教だけでもいけない、大乗仏教だけでもどこにも行き着かない、それがわかりました。

 

毎日ではないかもしれませんが、少しずつ、気が向いたときに書き込んだりしますね。

ありがとうございました。

 

疑問の氷解

koboyuki (27.82.211.253)    

ショーシャンクさんおはようございます。
ショーシャンクさんは悟ったのですか? 有余涅槃に至ったのですか? ならばどうか教えてください。 どんな人にも涅槃に至れる道を…。

 

koboyukiさん、おはようございます。

いえ、悟ったわけではありません。

長年、疑問に思っていたことが氷解したのです。

何かの本を読んでわかったわけではなく、何かのきっかけがあったわけでもなく、ふとわかった感じです。

禅の公案のようなものでしょうか。

心に記憶し留めておけば、あるとき疑問が氷解するときがあるものです。

それには真剣に心の中で問い続けることです。

例えば、クラシック音楽で、どうしてもわからなかった曲が、あるときにぴったりとわかるようになる、膜のようなものが破れたような感じになることがあります。

そういう感じです。

 

上座部仏教を中心とした部派仏教は、大乗仏教にたいし『それは釈尊が説いたものではない、非仏説だ。』と非難してきました。

釈尊に会ったことも声を聞いたこともないはるか後世の者が勝手に経典を作り始めたのですから当然の非難です。

それに対し、大乗仏教は部派仏教を『小乗仏教』と貶し、自分たちが優れていると主張してきました。

 

どちらが釈尊の真意なのかを探求してきましたが、それがわかったということです。

 

 

私のブログ一覧

『人生についてのひとりごと』   https://shawshank-blog.hatenablog.jp/

 

『仏教についてのひとりごと』   https://shawshank-blog.hatenablog.com/

  

『株についてのひとりごと』    https://shawshank-blog.hatenadiary.com/

 

『法律についてのひとりごと』   https://shawshank-blog.hateblo.jp/

 

 『人生を一変させるには』            https://shawshank-blog.hatenadiary.jp/

 

 

私のブログ『株についてのひとりごと』の閲覧者数(アクセス数)は、大統領選あたりから増えてきて、1日の閲覧者数が900人を超えたりしていましたが、昨日(11月17日)はじめて1000人を超えました。1103人でした。

『人生についてのひとりごと』と『仏教についてのひとりごと』は、それぞれ、1日の閲覧者数が100人~200人くらいで、たまに300人に迫ることがあるくらいです。

『法律についてのひとりごと』は、あるサイトで相談を受けていた時のやり取りです。

それを格納しているものですので、もう2年間も更新していないですが、日常生活で一番役に立つかもしれません。

仏陀の真意と大乗仏教がつながった

ずっと解けなかった謎がとけた。

 

仏陀は、五蘊非我を説いた。

そして、四念処の実践で、身⇒受⇒心⇒法 の4つがどれも無常であり(生じれば滅するということ)、苦であり、私ではない、と観じることを説いた。

病身の仏陀を見舞いに来た弟子に『このような老い朽ちていく私の肉体を見て何になろう。私の説いた法を見る者は私を見るのだよ。』と説いた。

 

仏陀の説いた理法からすると

当然、仏陀の肉体が仏陀なのではない。

まして、仏陀の遺体が仏陀なのではない。

仏陀の遺骨を特別なものとすることはあり得ない。

 

しかし、仏陀は入滅の前に、『私の遺体は、世界を支配する帝王のようなやり方で火葬し、ストゥーパを作って遺骨をまつり拝むべきである』と言った。

 

白骨観を説き、

『私の肉体はまさしくこのように朽ちていって白骨となるものであって私ではなく私のものでもない』と観ずることを教えた人が

なぜ、自分の遺骨を特別視して拝めと言ったのか?

 

仏陀が生涯をかけて説いた理法からは、『私の肉体は私ではない。遺体は私ではない。そのようなものにわずらわされることなくガンジス川に流しなさい。』と当然言うだろうと思えるのに、なぜなのだろう?

 

この疑問はずっと頭から離れなかった。

 

どうしても解けない謎だったが、はっきりとわかった。

 

仏陀のこの最期に際してのメッセージによって、大乗仏教は興るべくして興ったし、大乗仏典特に法華経はまさしくそのメッセージを正しく受け取った。

そのことがはっきりとわかった。

 

ちょうど、どこかの音楽評論家が言った言葉を思い出す。

ベートーヴェンの第九にこめられた導火線にワーグナーは火をつけた。それも正しく火をつけた・・・・

 

 

仏陀の入滅前のメッセージにこめられた導火線に大乗仏典は火をつけた。

大乗仏典の中でも特に法華経は正しく火をつけた・・・・

 

これで、仏陀の真意がつながった。

 

探求は終わった。

 

 

 

 

法華経の流通分

マニカナで法華経に関して書いている人がいて、観音経を裏門と書かれてあったので、少し触れます。

 

私が法華経にはじめて触れたときには、方便品が最も好きでした。

方便品の最初から十如是までがゾクゾクするほど名文でしたし、十如是がそれだけで法華経の真理そのままを表わしていると考えていました。実際、十如是は略法華と呼ばれています。

 

少し時が過ぎると、如来寿量品こそが法華経の真髄で、如来寿量品さえあればいいと思うようになりました。

 

しばらくしてから、法華経の喩え、特に長者窮子は人間存在を極めて的確に喩えたものだと思い、法華経の本質は喩えだと思うようになりました。

 

そしていまは、法華経の本質は、流通分にこそあるのではないかと思っています。

流通分とは分別功徳品から最後までです。

法華経の本質は、真空妙用でしょう。

無量の働きが宇宙に満ち満ちている。

それが少しでもわかり始めたときに、流通分の有難さが沁みてきます。

 

 

心は諸々の如来を造る

六十華厳の唯心偈(唯心偈と言えば六十華厳の偈を指します)では

心は諸々の如来を造る

とあります。

 

しかし、前半で

心は工みなる画師の如く 種種の五陰を画き
一切世界の中に 法として造らざる無し
心の如く仏もまた爾り 仏の如く衆生も然り
心と仏と及び衆生との 是の三に差別無し

とあります。

 

つまり、心が一切世界の中に五陰を絵の具として現象を造り出している、心によって造られないものは無い、と言っています。

 

心の如く仏もまた爾り ですから

仏もそうである、と言っています。

 

仏の如く衆生も然り ですから

心が造り出すことは衆生も仏と変わらない、と言っています。

 

心と仏と及び衆生との 是の三に差別無し

ですから

心も仏も衆生も、この3つは、創造の主体ということでは差別はないと言っています。

 

 

ただ、仏と衆生の何が違うかというと

諸仏は悉く了知す 一切は心從り転ずと  ということです。

つまり、仏は、一切が心より現出していることを了知していて

衆生は、一切が心より現出していることを了知していない、

これが違うのです。

 

ところが六十華厳の最後では

心は諸々の如来を造る

とあります。

 

如来というのは仏ということです。

 

前半では、心も仏も同じく、すべての現象を造り出すのだ、創造の主体なのだ、と言っていながら、ここで、仏は心が造り出した現象になっています。

 

この矛盾がどうしてもわからなかったので、八十華厳を調べたのですが、

一切唯だ心の造なり

でした。

これなら前半と何の矛盾もありません。

 

それでは、六十華厳ではなぜ心は諸々の如来を造と漢訳したのか、サンスクリット語の原典ではどうなっているのか知りたいところです。

 

 

 

 

八十華厳の唯心偈

前に挙げた華厳経の唯心偈は、六十華厳です。

 

いま、八十華厳をパラパラと眺めていましたら、少し表現が違っています。

八十華厳では、夜摩宮中偈讃品第二十になっています。

 

心は工画師の如く 能く諸の世間を画き

五蘊は悉く従って生じ  法として造らざる無く

心の如く仏も亦爾り 仏の如く衆生も亦然り

応に知るべし 仏と心とは體性皆無盡なり

もし人ありて心行は 普く諸の世間を造ると知らば

この人は則ち仏を見 仏の真実の性を了る

心は身に住せず 身も亦心に住せず 而も能く仏事をなす

自在にして未だ曾て有らず

もし人三世の 一切の仏を了知せんと欲せば

応に法界の性を観ずべし  一切唯だ心の造なり

 

 

(六十華厳)

心は工みなる画師の如く 種種の五陰を画き
一切世界の中に 法として造らざる無し
心の如く仏もまた爾り 仏の如く衆生も然り
心と仏と及び衆生との 是の三に差別無し
諸仏は悉く了知す 一切は心從り転ずと
若し能く是の如く解せば 彼の人は真の仏を見ん
心も亦是れ身に非ず 身も亦是れ心に非ざるも
一切の仏事を作し 自在なること未だ曾て有らず
若し人三世一切の仏を求知せんと欲せば 
応当に是の如く観ずべし 心は諸々の如来を造ると

 

 

 

 これを比べてみると、八十華厳のほうがわかりやすいですね。

 

六十華厳の『心は諸々の如来を造る』というのがどうしてもわからなかったのですが、八十華厳では『一切唯だ心の造なり』とわかりやすくなっています。

 

心は身に住せず 身も亦心に住せず 而も能く仏事をなす

自在にして未だ曾て有らず』も

八十華厳になって、はっきりと意味がとれるようになっています。

 

六十華厳の『心も亦是れ身に非ず 身も亦是れ心に非ざるも
一切の仏事を作し 自在なること未だ曾て有らず』では非常にわかりにくかったのですが。

 

八十華厳『仏と心とは體性皆無盡なり』も深みがあります。

八つの解脱

パーリ涅槃経(大パリニッバーナ経)に八つの解脱について仏陀が説いたところがあります。

 

内心において物質的なものという想いをいだいている者が外において物質的なものを見る。これが第一の解脱である。

 

内心において物質的ならざるものという想いをいだく者が外において物質的なものを見る。これが第二の解脱である。

 

すべてのものを浄らかであると認めていること。これが第三の解脱である。

 

物質的なものという想いを全く超越して、抵抗感を消滅し、別のものという想いを起こさないことによって、すべては無辺なる虚空であると観じて、空無辺処に達して住する。これが第四の解脱である。

 

空無辺処を全く超越して、すべては無辺なる識であると観じて、識無辺処に達して住する。これが第五の解脱である。

 

識無辺処を全く超越して、何ものも存在しないと観じて、無所有処に達して住する。これが第六の解脱である。

 

無所有処を全く超越して、想いがあるのでもなく、想いがないのでもない境地に達して住する。これが第七の解脱である。(非想非非想処)

 

非想非非想処を全く超越して、表象も感受も消滅する境地に達して住する。これが第八の解脱である。(想受滅)

 

アーナンダよ、これが八つの解脱である。

 

 

そして、中村元は、この箇所の註として次のように書いています。

 

これら八つのうちで、第一と第二とは実在論的であり、第三以下は観念論的とは言えないかもしれないが、心の中に何ごとかを思い浮かべる念想作用が積極的に効果をもつものであると考えていたわけである。

 

 

上座部仏教は、satiを『気づき』と訳して、気づきの瞑想が主流となっていき

大乗仏教は思考停止の瞑想=定 が主流となっていますが、

仏陀は、念=sati  を憶念、記憶、念想の意味で使っていたと私は思っています。

 

念(sati)を『理法の観念を記憶し保持し繰り返し念じること』と考えると、七覚支をはじめ三十七菩提分法がすべてつながるからです。

 

 上の中村元の註にあるように、仏陀は想いを浮かべる瞑想を重視していたと考えています。

 

絵を描けない画家になっては

華厳経夜摩天宮菩薩説偈品第十六 唯心偈

心如工画師 画種種五陰 
一切世界中 無法而不造
如心仏亦爾 如仏衆生然 
心仏及衆生 是三無差別
諸仏悉了知 一切從心転 
若能如是解 彼人見真仏
心亦非是身 身亦非是心 
作一切仏事 自在未曾有
若人欲求知 三世一切仏 
応当如是観 心造諸如来



心は工みなる画師の如く 種種の五陰を画き
一切世界の中に 法として造らざる無し
心の如く仏もまた爾り 仏の如く衆生も然り
心と仏と及び衆生との 是の三に差別無し
諸仏は悉く了知す 一切は心從り転ずと
若し能く是の如く解せば 彼の人は真の仏を見ん
心も亦是れ身に非ず 身も亦是れ心に非ざるも
一切の仏事を作し 自在なること未だ曾て有らず
若し人三世一切の仏を求知せんと欲せば 
応当に是の如く観ずべし 心は諸々の如来を造ると

 

 

心が一切世界を作っています。

仏もそうです。

迷いの衆生もそうです。

仏と迷いの衆生とのただ一つの違いは、

仏は、一切は心が作っていることを知っているのに対し、迷いの衆生はそれを知らないと言うことだけです。

 

 

歴史上の仏陀は、自らの想いによって人生や環境が作られていくんだということを説いたのですが、仏教なるものはどんどん変質していきます。

思いをなくし、自らの主体性もなくしていきます。

そんなものは仏陀の真意ではないと叫んで誕生したのが、大乗仏典の数々です。

インドでは大乗仏教は誰からも相手にされませんでしたが、中国に渡って大流行します。グレゴリー・ショペンが言う通りだと思います。

しかし、その大乗仏教も、自らの本体に実体があるだのないだのばかり議論するようになり、部派仏教と同じ道、主体性を喪失させる方向に向かっていきます。

 

今の仏教(大乗仏教、上座部仏教問わず)にしても、アドヴァイタから派生したノンデュアリティにしても、想いによる創造を捨て去った虚無思想となっています。

 

心はたくみなる画家なのです。

仏はそれを知って、仏国土を作っているのです。

迷いの衆生はそれを知らなくて、想いを妄想にしてしまっていますから、想念の流れ、激流に流されっぱなしで、次々とろくでもない世界を作り上げてしまっています。

それを仏教徒やノンデュアリティたちは『因縁だから仕方がない』『災難に遭うときは災難に遭えばよく候』と言っているのです。

 

絵を描けない画家ばかり量産してきたのが、今の仏教でありアドヴァイタです。

 

創造の主体を見失った虚無思想ばかり蔓延っているのです。

 

 

 

 

ちなみに、上に挙げた唯心偈は、破地獄の文と言われているようです。

破地獄の文は法華経の自我偈について言われていますが、華厳経唯心偈についても言われており、その出所は今昔物語の次の話によるものだそうです。

 

 

今昔物語巻六

震旦王氏、誦華厳経偈
     得活語  第三十三
今ハ昔、震旦ノ京師ニ人有リケリ。

姓ハ王ノ氏、戒行ヲ持セズシテ善ヲ修セズ。

文明元年ト云フ年、王氏、身ニ病ヲ受ケテ忽ニ死ス。

而ルニ左右ノ脇暖カ也。三日ヲ経テ甦リヌ。

身ヲ大地ニ投ゲテ泣キ悲ムデ冥途ノ事ヲ語リテ云ク、「我死セシ時、二人ノ冥官来リテ我ヲ追テ地獄ノ門ニ至ル。其時ニ一人ノ沙門来リテ我ニ告ゲ云ワク、我ハコレ地蔵菩薩也。汝京師ニ有リシ時、我形像一躰ヲ模シタリキ。

而ルヲ未ダ供養セズシテ投ゲ棄テキ。然リト雖我像ヲ模セル恩ヲ報ヒムト思フ、ト宣ヒテ一行ノ偈ヲ王氏ニ教エテ誦セシム。

其文ニ云ハク。若人欲了知 三世一切仏 應答如是観 心造諸如来 云々。 

沙門此偈ヲ教エ終リテ宣ハク、此ノ偈ヲ誦ズレバ地獄ノ門ヲ閉ヂテ浄土ノ門ヲ開ク也、ト。

王氏既ニ此ノ偈ヲ受ケ得テ遂ニ城ニ入リヌ。

閻魔王在シテ問ヒテ宣ハク、此人如何ナル功徳カ有ル、ト。

王氏答エテ曰ク、我愚癡ナル故ニ善ヲ修セズ、戒ヲ持セズ、但一四句ノ偈ヲ受持セリ、ト。

王宣ハク、汝今誦シテムヤ否ヤ、ト。

王氏習フ所ノ偈ヲ誦ス。其時ニ音ノ及ブ所ノ罪人、皆遁ルル事ヲ得ツ。

王モ亦此偈ヲ誦スルヲ聞キ給ヒテ、恭敬シテ、『速ヤカニ人間ニ還リヌ、』ト宣フ。

『此故ニ我甦也』ト云フ。

其ノ後諸ノ僧ニ向ヒテ此ノ事ヲ語ル。

然レバ華厳経ノ功徳無量也。

一四句ノ偈ヲ誦セル猶此ノ如シ、如何ニ況ンヤ解説シ書写供養セラム人ノ功徳ヲ思ヒ遣ルベシトナム語リ伝エタルトヤ。

 

 

想いの大切さ

今までの仏教なるものを全部白紙にして、最古層の仏典から歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのかを探求してきて愕然としています。

それは、仏陀の真意とは真逆な方向に仏教は行ってしまっていると言うことです。

さらに仏教の影響を全面的に受けて成立したアドヴァイタやその流れを極端に単純化した現代のノンデュアリティなどもそうです。

 

私が見るところ、仏陀ほど『想いの大切さ』『主体の確立』を説いた人はいません。

ところが、仏教なるものはその真逆の方向に突き進んできました。

思考をなくすこと、そして主体の喪失へと行っています。

 

仏陀は、kamma =業   =身業・口業・意業 =身口意の行ない   によって人生や環境のすべてが形作られると説きました。

 

kamma =身口意の行ない =身業・口業・意業  は、意思の内的活動である思業と意思が外部に表出した思已業に分けることができます。

意思が外部に表出するため、表業とも言います。

 

意業が思業です。

口業と身業が思已業(表業)です。

 

口業と身業とは外部に出た想いであり、意業とは内部で活動している想いです。

 

つまり、kamma とは、想いのことなのです。

 

kamma=想い によって、人生や環境のすべてが形作られるというのが仏陀の真意です。

 

それでは、四念処はどうでしょうか。

四念処は、身⇒受⇒心⇒法 です。

この4つを無常(生じるものは必ず滅するということ)であり、苦であり、非我であると洞察することです。

わたしたちは、身⇒受⇒心⇒法 の順で、記憶の束、自我と言われる中心を作り上げています。

その中心の成り立ちを洞察していき、deleteしていくことによってのみ、膠が剥がれ、束つまり中心がなくなります。

記憶はあります。記憶喪失になるのではなく、『あの人の名前は○○○○だ』という記憶はありますが、その記憶が中心を形成することがありません。

記憶の束、つまり中心がなくなったときに、精神に無量感がもたらされます。

この無量感は至福です。

この無量感にもとづく想いこそ、創造の源泉です。

四念処でdeleteしていくのは、身⇒受⇒心⇒法 というように肉体の経験にもとづいた思考です。

 

無量感にもとづいた想い、理法を観ずることによる想い、は、切ってはいけないのです。むしろ積極的に強く出すべきなのです。

 

七覚支で、念⇒択法⇒精進 というのはそういうことです。

 

念とは四念処です。

 

四念処で身体、感覚の経験にもとづく記憶の束をdeleteしていった後、理法にもとづく想いや観念を選択、選び取ってその理法の観念を保持するのです。

これが択法です。

 

精進とは四正勤のことです。

既に起こった悪い  kamma =思業と思已業=想い を断ち切り

まだ起こってない悪い kamma =思業と思已業=想い を起こらないようにし

既に起こった善い kamma =思業と思已業=想い を保持し増大させ

まだ起こってない善い kamma =思業と思已業=想い を起こすようにすること。

これが精進の本当の意味です。

 

 

ところが、仏教も禅もノンデュアリティも、こぞって想いをなくすことばかりです。

あるいは、想いは自分と関係なく浮かんでは消えるもの、流れていくもの、それに気づいているだけでいい、というように想いの手放し一辺倒です。

 

部派仏教も、想いの消滅の方に突き進みました。思考こそ悪であるかのように。

 

そこで、大乗仏教が興り、創造の主体をもう一度叫び始めたのだと見ています。

 

 

 

例えば、華厳経に有名な唯心偈があります。

 

 

華厳経夜摩天宮菩薩説偈品第十六 唯心偈

心如工画師 画種種五陰 
一切世界中 無法而不造
如心仏亦爾 如仏衆生然 
心仏及衆生 是三無差別
諸仏悉了知 一切從心転 
若能如是解 彼人見真仏
心亦非是身 身亦非是心 
作一切仏事 自在未曾有
若人欲求知 三世一切仏 
応当如是観 心造諸如来



心は工みなる画師の如く 種種の五陰を画き
一切世界の中に 法として造らざる無し
心の如く仏もまた爾り 仏の如く衆生も然り
心と仏と及び衆生との 是の三に差別無し
諸仏は悉く了知す 一切は心從り転ずと
若し能く是の如く解せば 彼の人は真の仏を見ん
心も亦是れ身に非ず 身も亦是れ心に非ざるも
一切の仏事を作し 自在なること未だ曾て有らず
若し人三世一切の仏を求知せんと欲せば 
応当に是の如く観ずべし 心は諸々の如来を造ると

 

心はたくみなる画師、画家のように一切世界を作っているのです。

仏も一切世界の中に現象を作っており、それが仏国土というものです。

衆生もその各の心のままに一切世界に各の現象を作っています。

想いが現象を作っているのです。

 

 

歴史上の仏陀もこう言っています。

 

『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。

 もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。

              ――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

 

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。

 もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。

                   ――影がそのからだから離れないように。』

                           『ダンマパダ』

 

 

 

最も怖ろしいのは

高原 (126.42.33.248)    

ショーシャンクさん、こんばんは。
禅で、愚さんの話が出されましたがIxtlanさんがマニカナで出会われた禅者は、その愚さんで、Ixtlanさんの禅批判の念頭には、愚さんがあったと思っています。
 
愚さんはマニカナで「悟りは簡単」とか「素質のあるやつなら、おれがすぐに悟らせてやる」とかの発言をなさってて、赤い実さんは「悟り」という言葉は使われませんでしたが、愚さんと赤い実さんは似てると思うことがありました。
赤い実さんに「宇宙と自分はひとつ(一体)だと感じることはありませんか?」と聞かれたことがあって、ぼくは「思わない」と答えたことがありました。
宇宙というのは空気もないし、暗いし、宇宙に放り出されたら確実に死ぬ、未知の領域です。その宇宙のことは何も分かっていないはずの赤い実さんが「宇宙と自分が一体」と感じるなら、それは現実の暗黒の宇宙でなく、頭の中の観念の宇宙を見ているのです。
愚さんも「パソコンと自分は一体」「あなたとわたしも一体」と、何でも一体になってしまう。
以前、YouTubeのアドバイダの女性は「何も起こっていない」と繰り返していましたが、現実には食事もしてるし、仕事もしてて、喧嘩もしてるかも知れない。
赤い実さんも愚さんも「何も起こってない」の女性も、起こっている現実を無視して、観念の中(自分の頭の中に作った架空の世界)だけで生きているのです。
そういう「考え」「思想」は形而上学と呼ばれます。仏陀は形而上学(観念や想像だけで実体のない世界)に陥ることを禁止したはずです。
南無阿弥陀仏も形而上学です。何の実体もない「阿弥陀仏」という観念を信仰しています。 仏教は今、形而上学になってしまっている。
現実の伴わない観念の中で宗教が発露しているから、愚さんはいくらでも悟ることができるし、アドバイダは次々と悟りの覚醒者が誕生しているし、南無阿弥陀仏は極楽浄土に死者を送り込むことが出来る。アニメの世界です。
要は仏教がただの玩具になっているから。

 

 

 

高原さん、こんばんは。

ノンデュアリティについては、シャンカラから始まって実に様々な人たちがいて、それぞれ特徴があります。近年でもエックハルト・トールなどベストセラーも出していますし、私もいろいろなノンデュアリティの本やDVDはずいぶん前から持っています。

その上で、批判しています。

日本のノンデュアリティは、大和田菜穂という人がその中心となっています。禅僧とのコラボもしていますね。

いまのノンデュアリティ(ネオアドヴァイタ)の言っていることは至極単純です。

わたしとあなた、わたしと宇宙を分け隔てているものは思考である、思考がなくなればわたしなどなく全体だけがある、ということです。

 

さて、こういうブログがありました。

 ↓↓↓

当時の私は、悟りとか、探求とか全然してませんでした。

でもシフトって、起きるときは起きるんです。

だからそれは、たくさん探求してるとか、
霊的に優れているとか、全然関係ないと思います。

おそらくそうなるのは、
そういう運命の、そういう宿命の魂なんだろうと思います。

私自身にとってあの体験は、

私の人生史上最大級超絶恐怖体験で、
あんな恐ろしい経験は後にも先にもありません。
生きたまま死ぬって本当に恐ろしいと思います。

 覚者の一人、スティーブン・ノーキスト氏は、
「覚醒は突然襲ってくる残忍な焼き討ち」と表現してますが、

言い得て妙と思いました。

 大和田菜穂さんは自著のプロフィールに「苦しみが終わりを迎える」
って書いてますけど、

(それが目覚め(解放)ということなのかもしれませんが…)

 実は、苦しみだけでなく、

喜びも消えてしまう可能性大なんですねビックリマーク

 一切のものごとは心のいたずらなのです。
喜びや苦しみはすべて心の創造物なのです。

             ラマナ・マハルシ

 ネガティブだけが消えてポジティブだけが残るってことはないんですよ。
両者は一枚のコインの表裏のようにセットですので。

 なぜ、こんな重要なことを非二元・ノンデュアリティのティーチャー達は言わないのかと…。

 あと、非二元・ノンデュアリティのティーチャー達は語りませんが、
シフトが起こると失うものがとても多いかもしれないんですね。
犠牲になるものがとてもとても大きいのです。

 例えば、誰かを深く愛したり、恋焦がれたり、
嬉しい、楽しい、喜び、ワクワク、ドキドキ、
達成感、充実感、満足感、幸福感etc…
そういった個人的な感情・感覚がすべて感じられなくなる、
個人的な「私」の感覚が抜け落ちてしまうと、
それ以前は感じられたことも感じられなくなることが本当にたくさんあるのです。

 それは起こってる、
そういう感情が湧き起こってる、とかなってしまって、
自分のこととしてではなく、
ただ、見てるだけ、眺めてるだけになるんです。
私は実際にその感覚を体験したことがありますが、
ホント、なんの刺激もなくて、
自分が生きてる感じがしなくなってしまって、
大変だービックリマークビックリマークビックリマーク叫び叫び叫びって、
それはもう大慌てになったのを今でもはっきり覚えています。

 まるで感覚がマヒしてしまったかのように、
無感情、無感動な状態になってしまい、
無味乾燥で、無機的な、

いいとか、悪いとか感じられない恐ろしくニュートラルな世界。

 そこはただ、見てるだけって世界でした。

 ふつう人生では、自分が存在してて、
自分があれをしてしまった、これをしてしまった、って、
行為者として個人的に、自分のこととして感じますよね。

 でも、あの非個人的な、意識がシフトした世界では、
ただ、見てるだけ、観照してるだけって感じになるんです。
それまでテレビドラマに出演していたのが、
ただ、テレビを見てるだけ、眺めてるだけ、みたいな。

非二元・ノンデュアリティの本、いろいろ出てるみたいですけど、
それよりももっと今の人生を味わった方がいいと思いますアップ

あれは努力したところで行ける世界ではないし、
目覚めた人たちが偉い訳でもない、優れた人達でもない。

ただ、偶発的に行けることもあるって感じです。

 誰もが悟りを理想化しているから、こんなことになってしまうんだと思います。
でも、実際には悟りの世界って、

想像してるのと全然違ってる可能性大なんですビックリマーク

 それは全然素晴らしくないんです。

至福に満ちてないんです。愛にも満ちていません。
とても静かで静寂に満ちていて、誰もいない、何にもない感じです。

 でもそれは、

実際に経験してみないと理解できない世界かもしれません。

実際あれはとても描写不可能な世界なんです。

だから理想化されて、憧れる人も出てくる。

それこそが究極の何かで、
素晴らしい何かがそこにあるに違いないって探し求める人も出てくる。

 誰もが一度、目覚めのプレ体験とかできたらいいのに…。

そうしたら、たぶん、賛否両論に意見が分かれると思います。
あの、大和田菜穂さんの最初の著書のアマゾンのレビューのように。

 騙されたって感じる人も多いと思います。

 え!?これが悟り!?ウソでしょ。

 これじゃ、人間やってた方がよっぽど楽しいじゃないって言い出す人も出てきそうですが、しかし、真相を知ってしまったら宇宙はその人を生かしておきませんので、破壊され、消されてしまうんですね。

私にはあの世界がいいか悪いか判断できません。

何故なら、あの世界は恐ろしく平坦で、
何のドラマも体験も存在しないからです。

自分のこととして感じられないので、
ただ見ているだけで何の味わいもない、空っぽの無の世界。

                 (ALICEという人のブログから)

※※※※※

 

 

いまの日本のノンデュアリティが好きな人はそれでいいと思いますが

私が目指す世界とは全く違います。

こういうと、『わたしがないんだから目指すこともない』とか『いまこのままありのままでいいんだよ』とかノンデュアリティの人は言ってきそうですが。

至福も愛もない世界など行きたいとも思いません。

 

この世で最も怖ろしいのは虚無思想です。虚無思想に陥るのであれば、宗教や哲学など全部捨てて現世的な欲望の達成に邁進する欲まみれの生き方の方が何万倍もましです。禅でも、本当にわかった人、白隠などは、禅や仏教が虚無思想に陥りがちなことを厳しく批判しています。

実際、仏教や禅は、一歩間違えれば虚無思想に陥りやすいのです。

シャンカラの流れも仏教をパクったというかいい言葉で言えば大きく影響を受けていますから、その危険性はあります。特にその流れを極めて平面化、単純化させている今の日本のノンデュアリティはそうでしょう。

 

これに関しては、今の仏教のあり方も含め、仏教、禅、ノンデュアリティ、全般について時間ができた都度書いていきたいと思います。

自由意志がないという者は

同じ『三明ヴァッチャ経』に、異教のアージーヴァカ派について、こういうことも書かれています。

 

異教のアージーヴァカ派というのは、運命決定論(宿命論)、つまり、 自己の意志による行いはなく、一切はあらかじめ決定されており、定められた期間流転する定めである、という考えの派です。

マッカリ・ゴーサーラが主張した「運命がすべてを決定している」という運命決定論、運命論、宿命論を奉じていた。さらに意志に基づく行為や、修行による解脱をも否定した。とあります。

 

 

仏陀は言った。

『異教のアージーヴァカ派で苦を消滅させる者はいない。』

『わたしは、九十一劫を思い起こすが、異教のアージーヴァカ派で天界に生まれたものは、ただ一人を除いて、誰も知らない。かれもまた、業を説く者であり、作用を説く者であった。』

『異教のアージーヴァカ派の境界は天界に至るまで空しい。』

 

この中で、業を説く者(kammavadin)と作用を説く者(kiriyavadin)は同義であると註にあります。

自らが行なう業により、自らの存在が決まる、ということです。

 

わざわざ、アージーヴァカ派だけに言及していることから見ても、

自らの意志を否定する者、運命論者について、仏陀は、その末路を非常に悪いものと見ていたということです。

九十一劫の中で、一人だけ死後、天界に行けた人がいたらしく、その人は業を説くものだった、というところに、徹底的に、自己の意志を否定する教えへの厳しい目が感じられます。

 

 

仏陀は三明を持つ者

中部経典第71経『三明ヴァッチャ経』にこうあります。(要約)

 

ヴァッチャ族の遍歴業者が仏陀に尋ねた。

『「沙門ゴータマはすべてを知るものでありすべてを見る者であり、つねに途絶えることなく智慧という洞察が現われている」と言っていいでしょうか?』

 

仏陀は答えた。

『「沙門ゴータマはすべてを知るものでありすべてを見る者であり、つねに途絶えることなく智慧という洞察が現われている」とこのように語る者は、わたしについて真実を語っていない。』

『沙門ゴータマは、三つの明智を有すると説明すれば、わたしについて真実を語っている。』

 

『わたしは、欲するままにさまざまな過去の生存を思い起こす。』

『わたしは天の眼によって死につつあり再生しつつある生ける者を見る。身体による悪行をそなえ、ことばによる悪行をそなえ、こころによる悪行をそなえ邪な見解によって業を行なう。かれらは悪い境涯へ再生する。身体による善行をそなえ、ことばによる善行をそなえ、こころによる善行をそなえ正しい見解にもとづき業を行なう。かれらはよい境涯へ再生する。つまり、業に従って行く生ける者を知る。』

『わたしは煩悩の漏出を消滅し尽くしている。』

『沙門は、この三明を持つ者である。』

 

 

この仏典によると、この三明こそが仏陀の智慧であったわかります。

 

アドヴァイタと禅

>このIstlanさんが「アドバイダと禅宗は同じ」とおっしゃっていて、ぼくも「そういわれればそうなな」とも思いますが、ショーシャンクさんはどう思いますか?

 

 

アドヴァイタと言っても、大きく2つあるような気がします。

もともとアドヴァイタとは、シャンカラを祖とします。

このシャンカラのアドヴァイタと、最近のいわゆるネオアドヴァイタ(ノンデュアリティ)は全く違うものと思ったほうがいいでしょう。

実際、シャンカラからの正統アドヴァイタからは、ネオアドヴァイタは似非アドヴァイタだと強く非難されています。

それで、最近はネオアドヴァイタと名乗らずに、ノンデュアリティとばかり名乗るようになりました。

シャンカラとの根本的な違いは、『付託』ということをネオアドヴァイタは説かないことです。

そのような難しいことは抜きに、とにかく『ワンネス』なんだ。それだけだ。という主張です。

教えは簡単にすればするほど民衆には人気となり流行ります。

ウィスキーのストレートは飲みにくく、水で薄めれば薄めるほど飲める人が多くなります。

 

私なんてない、全体しかない、個なんてない、ただのストーリーなんだよ、自由意志なんてない、ただ起こっているだけ、誰も何もどうすることもできない、災害があっても災害を受けている個はない、こんな感じです。

 

アドヴァイタと禅は同じだと思うかという質問ですが、たとえば、禅の印可を受けた愚さんという人のブログを見るとアドヴァイタそのものですね。

『ワンネス』のみです。

目の前のパソコンは私だ、とか、床が私だ、とか、あなたは私だ、とか、すべてワンネス一辺倒ですね。

この人の公案の解説を見ると、ワンネスだけで解釈しようとしていることが分かります。

しかし、それでは牛過窓櫺の公案は絶対にわかりません。

牛が禅で言う本来の面目なのはいいのですが、それでは牛の尻尾は何故通り過ぎないのか、全く答えが出ないでしょう。

 

禅でも道元などはワンネスそのものですね。

 

ただ、私が禅の最高峰だと思うのは臨済ですが、臨済はネオアドヴァイタとは全く違う。

臨済に、『自由意思はない。ただ起こっているだけ。』なんて言うと、三十棒では済まないでしょうね。

 

 

 

 

 >面白いのが、ぼくもスッパニパータの三乗論に異和を感じましたが、Istlanさんは石飛さんの「龍樹論」「仏教論」を厳しく批判をしてて、テルゼさんも石飛さんを批判なさっています。 「センセが『センセだけの法』を握りしめて、センセの手の中で曲げてませんこと?私だけがブッダの正法を伝える役目を担っていると、その慢心のもとに、ご自分の中で都合よく」とテルゼさんが石飛さんに言っておられて、テルゼさんは石飛さんの著書を何冊を読んだ後の発言だけに、これだけ皆さんから非難を浴びるということは、石飛さんの「龍樹観」「仏教論」には決定的な破綻(ほころび)があるのではないかと思いました。

 

 

私が思うのは、石飛先生が龍樹の研究者でなく、仏陀の研究者ならどんなによかっただろうということです。

非常に鋭い感性をお持ちなので、画期的な研究となったと思います。

龍樹や大乗仏教をいったん抜きにして、直接、仏陀が本当は何を言いたかったのかを研究していただきたかったと切に思います。

今の仏教は、仏陀の本当の姿など跡形もなくなっているからです。

ちょうど、イタリアかどっかの国で地方の教会に描かれたキリストの絵を素人のお婆さんが修復して全く違った絵になったというニュースのように、仏陀の本当の姿は全く違った姿に描かれてしまった気がします。

 

輪廻はあるでしょう

高原 (126.42.33.248)    

マニカナの過去ログを読んでいました。
10年以上前からのログが保存されてあって見やすくて美しい素晴らしい過去ログのデザインだと思いました。
石飛さんは幼い頃、神秘体験をされています。
生まれて6ヶ月くらいからの記憶があって、しゃべれないだけで意識も智慧もあったとおっしゃっています。年齢を経て大きくなるにつれて石飛さんは知能が次第に低下しく感覚があり、生まれてすぐが最高の頭脳で「どんどん馬鹿になっていって」(原文ママ)このままでは白痴になるのではないかと恐怖を感じて仏教にすがったのが仏教との出会いだったそうです。
そういう神秘体験に裏付けされてか、石飛さんは「輪廻はある」と断言されています。
他の方は大概、輪廻の存在をぼやかすのですが、「ある」とはっきり言われたことに感服いたしました。
 
 
過去ログでは、Istlanさんとテルゼさんを追いかけて読んでいました。
Istlanさんは既に亡くなっている人らしいのですが、「私は生まれてきたくない」と仏陀の出家した時の究極の命題を投稿されていたので興味を持って読んでいたのですが、とても不思議な人で仏教を勉強されているのですが信仰があるのかよく分からない、赤旗共同平和幻想のある人で、そこにはぼくは異を唱えるますが、発言は鋭くて明晰で面白い。このIstlanさんが「アドバイダと禅宗は同じ」とおっしゃっていて、ぼくも「そういわれればそうなな」とも思いますが、ショーシャンクさんはどう思いますか?
 
テルゼさんはキリスト教徒で、読ませる文章を書ける人で聡明でお茶目で可愛らしい。
面白いのが、ぼくもスッパニパータの三乗論に異和を感じましたが、Istlanさんは石飛さんの「龍樹論」「仏教論」を厳しく批判をしてて、テルゼさんも石飛さんを批判なさっています。 「センセが『センセだけの法』を握りしめて、センセの手の中で曲げてませんこと?私だけがブッダの正法を伝える役目を担っていると、その慢心のもとに、ご自分の中で都合よく」とテルゼさんが石飛さんに言っておられて、テルゼさんは石飛さんの著書を何冊を読んだ後の発言だけに、これだけ皆さんから非難を浴びるということは、石飛さんの「龍樹観」「仏教論」には決定的な破綻(ほころび)があるのではないかと思いました。

 

私も輪廻はあると思っていますよ。

そして、死後の世界も確実にあるでしょうね。

仏陀の理法が分かってくるとそれは実感せざるを得ないでしょう。

つまり、今の身体も環境も想いでつくられています。

瞬瞬刻刻、出している想いが潜在的な形成力となってすべてを作り上げていっています。

それが実感できない人は、仏陀の理法は全く分からないでしょう。

人生を変えることもできない、仏教をただの虚無思想としかとらえられない人が多すぎるのです。

 

仏陀が悟った時の様子は具体的に語られています。

四禅定の後、

自分の過去の生存をありありと見ます。

今の人生の過去の様々な事、意識はそれをもっとさかのぼって、過去生のことも思い出します。

今生といい過去生といい、ただの記憶です。

この、自分の過去をありありと観ずることによって、何が原因で苦の集積へと向かったのか、それをいかに繰り返し繰り返ししてきたのか、それがはっきりと見通せたのでしょう。

このことが十二縁起の理法へと導きます。

これが宿住智です。

 

次に、様々な衆生のこれから行くところを見ます。

善い想いを持った人間は善い世界へと行き、悪い想いの者は悪い世界へと行きます。

自らの想いが自らの世界を形作っていっていることがはっきりとわかります。

これが天眼智です。

 

そして、四諦の法を観ずることによって、煩悩の滅に至ります。

これが漏尽智です。

 

これにより、仏陀は成道します。

そして7日間、解脱の楽しみに浸ります。

7日後、過去生のあり方から導いた十二縁起の理法を、徹底的に順逆観じます。

そして、縁の滅を知ったので、すべての疑念はなくなり、太陽が輝くように、悪魔の軍勢を破って立ちます。

 

仏陀は何を悟ったのか。

想いは因であり、それに従って現象という果があること、

そして十二縁起と四諦の法を悟り、それによって、縁の滅、苦の滅を成し遂げたのです。

 

想いが形成力だとわかれば、死んで何もなくなるわけではないことが実感できます。輪廻もあるし、死後の世界もあるのです。

しかし、解脱した人は『この世もかの世もともに捨て去る』のです。