備忘録(71経~)

中部経典第71経『三明ヴァッチャ経』

仏陀が、自分自身で『一切知者、一切見者というべきではなく、三明者と言うべきである』と語ります。

また、アージーヴァカ(邪命外道)という運命決定論者、自由意思がないという考えの派では、一人を除き天に行ったものはいないと説きます。その一人も、業論者になり作用論者になってから死んだので天に行けたということです。

 

中部経典第72経『火ヴァッチャ経』

十無記が出てきます。

『世界は永遠か』『世界は永遠でないか』(時間的に無限か否か)

『世界は有限か』『世界は無限か』(空間的に無限か否か)

『霊魂と肉体は同じか』『霊魂と肉体は異なるか』

『タターガタは死後存在する』『タターガタは死後存在しない』

『タターガタは死後存在し存在しない』『タターガタは死後存在しないし存在しないのでもない』

このような見解はもっていないと説く。

それは、見に赴き、見の密林、見の縛りであり、苦をともない、厭離にためにならず、正しい覚りのためにならず、涅槃のためにならない。

五蘊がこうでありこう生起しこう消滅することを見ている如来はそのような見から解脱している。

 

そして、そのように心が解脱している比丘は、『生まれかわる』も『生まれかわらない』も『生まれかわり生まれかわらない』も『生まれかわらないし生まれかわらないでもない』とも言えない。

 

それは例えば、草や薪によって燃えている火が消えた場合、その火はどこに行ったのか、薪という燃料によって燃えていて燃料がなくなったら消えた場合、どこに行っているのではなく消えている。

如来について、色によって、受によって、想によって、行によって、識によって述べることはできるが、如来はそのような色・受・想・行・識は断たれている。

色・受・想・行・識という呼称から解脱しており、深遠、無量にして、深入しがたく、大海のようなものである。

 

中部経典第73経『大ヴァッチャ経』

 

 

 

 

仏陀の真意としての仏教

大乗仏教一辺倒の日本に生まれ育った私が、それまでの仏教知識を白紙にして、『歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのだろう』ということを探求してきました。

一時は大乗仏教の全否定まで行きましたが、大般涅槃経(パーリ涅槃経)の記述から、原始仏教と大乗仏教が繋がりました。

仏陀の死後500年も経って、なぜ第一結集によらない経典を創作していったのか、サンガから追い出され、迫害を受けてもなぜあのように膨大な経典が生み出されていったのか、どうしても解けない謎でした。

仏陀の教えが歪められて伝わることを怖れた直弟子たちは、仏陀の死後直後(2,3ヶ月後)第一結集において仏陀が本当に言った言葉かどうかを判別し、仏陀の言葉を確定しました。

それを大事に伝えてきたのが仏教徒です。

それを仏陀を見たこともなく声を聞いたこともないはるか後世の者たちが勝手に経典を創作し始めました。

仏教徒からは、悪魔の所業と見なされました。

そのままだと、非仏説、非仏教として相手にもされなかったでしょう。

それは龍樹が出ても変わりありませんでした。

インドでは大乗仏教は相手にされませんでした。

しかし、歴史の偶然ということがあります。

仏典(初期仏典)は文字や本ではなく、口で伝えられていました。

そのような習慣のために、原始仏典と大乗仏典の文字にする、つまり本にする時期は同じくらいになってしまいました。

同時期に文字となった仏典たちは、原始仏典も大乗仏典もいっしょにすべて仏陀の直説として中国に伝わっていきます。

ここにおいて大乗仏教の興隆となっていきます。

 

部派仏教側は、大乗仏教を仏陀の教えではないと言います。非仏説だと言います。

大乗仏教は部派仏教を小乗だと貶します。

この対立によって、仏陀の真意はかなり失われていったと思っています。

 

まずは、部派に分かれる前の、原始仏教つまり仏陀と直弟子の時代、仏教の原点に戻って仏陀は本当は何を言いたかったのかを知るとともに、そこで明らかになった仏陀の真意からすべての仏教を見ていかなくてはならないと思っています。

大乗仏教は仏陀の真意の復興運動であったと思います。

復興運動と言うことは、失われた、あるいは見失った、あるいは埋もれてしまったものを復興すると言うことです。

しかし、大乗仏教は部派仏教のアンチテーゼとして興ったので、それまでの仏教を貶し否定してしまいました。否定しないまでも軽視してしまいました。

四諦、十二縁起、四念処、三十七菩提分法などは小乗の修行法として捨ててしまいました。

仏陀の理法を捨ててしまった大乗と大いなるものを見失ってしまった部派仏教、この対立によって分断が起きました。

 

文献学のめざましい発展により、いま、やっと、どの仏典が仏陀の肉声に近いかということが明らかになりつつあります。

いまだからこそ、仏陀が本当に言おうとしたことは何だったのか、迫ることができます。

 

四諦の法はなぜ、仏陀の教えの核心なのか。

そもそもdukkhaとは何か。

誰にも解読できなかった十二縁起とは本当はどういう意味なのか。

四念処は本当に、『気づく』『ラベリング』することなのか。

三十七菩提分法の中核である七覚支とは何なのか。

そして、三明とは何か。

パーリ涅槃経に隠された仏陀のメッセージとは何か。

 

そしてなぜ大乗仏教は興ったのか。

なぜ法華経は経王と呼ばれているのか。

 

これらのことがわかってはじめて、原始仏教と大乗仏教が繋がった気がします。

 

 

慧解脱と心解脱

マニカナでの、石飛先生との、『筏の喩え』に関しての議論とそれに付随しての慧解脱に関しての対話が終了しました。

ただ、終わった後に、私が書いた『慧解脱は、四諦という仏陀の理法を洞察することによる解脱です。ところが、禅は、黙照禅にしても公案禅にしても、四諦を瞑想することはありません。仏陀の理法を瞑想することはありません。禅定至上主義です。ですから、禅は心解脱だと思っています。』という文章に対するコメントがあったので、考えを書いておきます。

 

基本的に、慧解脱や心解脱というのは、大乗仏教にはないと思います。

『禅は心解脱だと思っています』と書きましたが、慧解脱ではないという意味で、本当には心解脱でもないでしょう。

正確に言えば、禅宗は、悟りや見性といったものを目指すものだと思います。

 

といいますのも、慧解脱にしても心解脱にしても、原始仏典には詳しく書かれており、非常にレベルの高いものであり、それぞれの示すものが厳格なのです。

たとえば、大乗仏教の場合、『智慧』と言う言葉は極めて曖昧です。

空についての智慧、縁起についての智慧があれば、もう智慧が備わり、慧解脱だ、などということを簡単に思っています。

しかし、慧解脱とは、三明に達し、四諦の法から漏尽智を得て煩悩の滅尽を成し遂げ解脱することです。つまり、もろもろの煩悩はすべて滅尽しています。

 

ところが、大乗仏教の場合、そもそも煩悩の滅尽はしません。煩悩即菩提が大乗仏教の旗印のひとつになっていますし煩悩はなくなる必要がありません。智慧にしても空や縁起を理解をして観をしていけば慧解脱だと安易に考えているくらいのものです。

 

心解脱にしても、原始仏典では、想受滅まで達したものを言うのです。

禅定と言っても並大抵のことではありません。

大乗仏教では想受滅はないはずです。

 

ですから、原始仏教と禅宗との目指すところは違うのです。

禅宗で三明を言うことなどないでしょう。

しかし、原始仏教、つまり仏陀と直弟子の時代には、『テーラガータ』を見ればわかりますように、弟子たちが『三明に達した』と告白している箇所が随所にあります。

 

仏陀は慧解脱に関して、厳密に説いています。

曖昧な認識で何でも慧解脱と言っているのではないのです。

 

『両者とも禅定は目的ではないです。禅宗は禅定を目的にするというのは、道元でも臨済禅でもないでしょう。曹洞宗は見性否定を徹底するところがあるし、公案禅も見性の先がある。』なんて書いている人がいますが、

四諦の理によって漏尽智を得て煩悩を滅して解脱しなければ慧解脱ではないのです。

というか、大乗仏教には慧解脱ということ自体、ありません。

 

仏陀が言った、倶分解脱、慧解脱、身証明、見到達、信解脱くらいは知ってからでないと、禅宗が慧解脱であるかどうかと言及できるわけがありません。

 

 

 

 

備忘録(68経~70経)

中部経典第68経『ナラカパーナ経』

出家した善家の息子たちがなすべきこと。

五蓋(欲貪、怒り、沈鬱眠気、浮つき後悔、疑い)という不善の法を離れ

不善の法を離れた喜と楽(第一禅・第二禅)に、そしてそれより寂静なる第三禅・第四禅に到達すべきである。

次に、阿羅漢果、不還果(化生者)、一来果、預流果の授記が説かれる。

 

 

中部経典第69経『ゴーリヤー二経』

森に住むゴーリヤー二比丘が僧団に住むことになったとき、その心得を舎利仏が説いたもの。

1,仲間を尊敬すること

2,座のマナー

3,行儀作法

4,早すぎて村に入らず、昼を過ぎて村に入らない

5,食前や食後に家庭を訪ねない

6,浮つきと動揺をしない

7,饒舌がない

8,悪語でなく善語者となる

9,感官の門を守る

10,食事の量を知る

11,覚醒に努める

12,努力精進する

13,念を確立

14,心を統一

15,慧を備える

16,勝法、勝律について実践

17,無色なる解脱の実践(四禅・四無色定)

18,超人法=出世間法の実践

 

 

中部経典第70『キーターギリ経』

 

この経典は、 仏陀が『一時食は無病息災に導く』として勧めているにもかかわらず、『自分は非時に食事しているけど無病息災だ』と言い張って非時食を止めない比丘に対しての説法です。

 

この経典で重要なのは、両分解脱、慧解脱、信解脱などが説かれていることです。

 

1,両分解脱  無色の解脱(色界と無色界の八解脱)に身をもって触れて住みます。

        しかも、慧をもって見て、もろもろの煩悩は尽くされます。

 

2,慧解脱  無色の解脱(色界と無色界の八解脱)に身をもって触れずに住みます。

       しかし、慧をもって見て、もろもろの煩悩は尽くされます。

 

3,身証明  無色の解脱(色界と無色界の八解脱)に身をもって触れて住みます。

       慧をもって見て、一部分の煩悩は尽くされます。 

 

4,見到達  無色の解脱(色界と無色界の八解脱)に身をもって触れずに住みます。

       慧をもって見て、一部分の煩悩は尽くされます。

 

5,信解脱  無色の解脱(色界と無色界の八解脱)に身をもって触れずに住みます。

       慧をもって見て、一部分の煩悩は尽くされます。

                         如来に対する信仰が定まり、根付き、確立します。

 

6,随法   無色の解脱(色界と無色界の八解脱)に身をもって触れずに住みます。

       慧をもって見て、一部分の煩悩は尽くされません。

       如来によって説かれたもろもろの法がわずかに受け入れられます。

       信根、精進根、念根、定根、慧根の法があります。

 

7,随信   無色の解脱(色界と無色界の八解脱)に身をもって触れずに住みます。

       慧をもって見て、一部分の煩悩は尽くされません。

       如来に対する信仰があり、親愛があります。

       信根、精進根、念根、定根、慧根の法があります。

 

 

この7種の人のうち、両分解脱 と慧解脱の人には、『不放逸によってなすべきである』とは言いません。

その他の5種の人に対しては、『不放逸によってなすべきである』と言います。

 

最初から完全智の成就があるわけではなく、順々の実践が完全智の成就になります。

 

信仰⇒近づき⇒恭敬⇒耳の傾き⇒聞法⇒法の記憶⇒意味の考察⇒法の認容⇒意欲⇒敢行⇒考量⇒励み⇒身をもって最上の諦を目の当たりに見ます⇒慧をもってそれを洞察し観ます

    

備忘録(65経~67経)

しばらく休んでいましたが、原稿のためにもう一度備忘録を作り始めます。

時間がないので大急ぎでしないと間に合いません。

 

中部経典第65『バッダリー経』

一時食を拒否したバッダリー比丘の話です。

一時食は、無病、息災であることを仏陀は説きます。

これは、驚くべきことに、今になってやっと、一日に一食だけ食事することの健康効果がわかりつつあります。ほんの数年前までは、とんでもない説でした。

朝食、昼食、夕食と一日三食食べなければ身体に悪いというのが常識でしたし、夷までも、そのように言う医者が大部分です。

しかし、一日一食は確かに健康効果がすごいかもしれません。仏陀恐るべしです。

 

この経でも、

四禅⇒三明⇒解脱 が出てきます。

詳しくは、第一の禅⇒第二の禅⇒第三の禅⇒第四の禅⇒宿住智⇒天眼智⇒漏尽智⇒解脱

です。

中部経典はこのオンパレードです。

 

最後に、若い駿馬の喩えが説かれ、十の法が説かれます。

馬の調教師が磨きをかけて、十の部分を備えた、王の使用に耐える馬になるという喩えです。

 

この『十の法』は非常に重要です。

 

無学の正見

無学の正思

無学の正語

無学の正業

無学の正命

無学の正精進

無学の正念

無学の正定

無学の正智

無学の正解脱

 

この十を備えた比丘が、供養に相応しい、世間の無上の福田になるということです。

 

これは、八正道に、智と解脱を加えたものです。

これは完全な法です。

 

 

中部経典第66『鶉喩経』

 

仏陀に『これを捨てよ』と言われると、『こんな些細なことを言うとは厳しすぎる』として捨てない者がいたようです。

彼らには、その些細な捨てられるべきことが、強い縛りとなっているとして、鶉が蔦によって縛られ死を待つようなものと喩えています。

 

ここでは、

色界定⇒無色界定 そして、想受滅まで説かれます。

 

 

中部経典第67『チャートゥマ経』

 

これは、極めて珍しい、仏陀が怒った時のことが書かれています。

私は、仏陀が怒ったのはこの経典のエピソードしか知りません。

仏陀が、チャートゥマという場所に住んでいたところ、そこに舎利弗と大目連を主とする500人の比丘たちが仏陀に会うためにやってきました。

やってきた人たちは居住の人たちと喜びの挨拶を交わしました。

高い、大きな声を出して歓迎しました。

仏陀はそれを怒って、居住の比丘たちを追い出します。

 

そのときに、大事な用件のために会堂にいた釈迦族の者たちが、仏陀に追い出された人たちを許すように説得します。

幼い種が水を得なければ、そして、幼い仔牛が母牛を見ることがなければ、乾いて死んでしまうように、新参の比丘たちもそうなってしまうので許してほしいと。

梵天も同じく同じ喩えで説得します。

それで仏陀は許すことになります。

 

その後、仏陀は、幼い種の水の喩えにちなんで、水の4つの恐怖、つまりそのために還俗してしまう危険について語ります。

 

1,波の恐怖 これは、忿悶。息子のような若い比丘から教誡されることが嫌で還俗することです。

 

2,鰐の恐怖 これは、飽食です。 在家の者が何時でも美味しいものを食べることを見て還俗することです。

 

3,渦の恐怖 これは、五種妙楽です。五種妙楽を楽しんでいる在家を見て還俗することです。

 

4,鮫の恐怖 これは、女性を見て、貪りに支配され還俗することです。

 

 

見性について

 高原 (126.66.155.7)    
ショーシャンクさん、こんばんわ。
見性について書かせていただきます。
見性(けんしょう)とは辞書で調べると「自己に本来備わっている本性を見極めること」とありますが、この説明は間違っていると思います。
もっと壮絶で尊厳なもと思います。
 
①(見性体験)とは神秘体験です。「得も言われぬ歓喜」と言われていますが、紹介されてるガーディナー大佐の場合、彼は様々な悪癖から逃れられず、特に淫欲淫楽に浸る生活をしていて「この罪悪に対する一切の欲望と性癖とは、あたかも乳幼児になったかのごとく、除かれてしまった。この誘惑は今日まで戻らずじまいである」と、この見性体験はわずか1時間の体験だった。彼は結婚する予定を辞めて僧になって伝導会を設立し、生涯、尊敬される宗教家として80歳の人生を終えている。
この体験の後、今まで読めなかった聖書もすらすら理解出来るようになった。
 
②(体験と期間)見性体験とは、その「得も言われぬ歓喜」が自分の内部に起こり始め、ずっと続きます。ガーディナー大佐のように1時間や2時間の短い場合もあれば、あるいは数週間、数か月、半年、一年にも及ぶ、個人差があります。
その間中、歓喜は起こり続け、特筆されるところは自分の心の中に冷たい火が燃え続け、その火によって自らが浄化されていくのが、はっきりと自覚出来ます。
見性体験をしている間、自分の心の中はあらゆる欲望、執着、妬み、怒りなどの感情が消えてゆき、本当に赤ん坊のように清廉になってゆきます。
見性体験を「爆発体験した」と言う人もいますが、玉城康四郎先生も何度も爆発体験をされて「終わってみれば元の木阿弥だった」とおっしゃっているので、爆発体験は見性体験とはまた違うのかも知れません。 ③(きっかけ条件)何が契機で始まるのかは、憶測で書いてはおられるが、確かな「これ」というものがないようです。
だからこそ神秘体験であり解明さてもいません。
半年も見性体験が続いていても、何らかの拍子に元に戻ってしまう時がきます。夢から覚めた感じです。そこから、わずかずつリバウンドが来ます。
しかし、完全に以前の欲望にまみれた自分には戻りません。そこで元に戻ってしまったら見性は失敗ということです。
見性への願望が見せた幻だったのか、勘違いか、あるいはダウンロードの途中で容量オーバーで強制終了されたのかも知れません。
 
④(結論)見性は「悟り」とは違います。
さる禅の老子が「一度は見性した方がいい。その後の修行の進み方が違う」とおっしゃったそうです。
見性とは途中だということです。
しかし、欲望や執着、その他の様々な悪しき性癖を著しく減らした人とは、実に軽々として清廉です。仏陀は「そのままでいい」などとは一度もおっしゃいませんでした。
「変わらなければならない」と「変わる」ということを何度も言われています。
以前、ぼくはそんなに人間は変われるものではないと「人格」をあまり信じてておらず、表面がいいだけではないかと思っていましたが、今はとても「人格」が大切だと思います。
人格とは人としての完成の形です。「変わる」ということは、まずその自分の「人格」が変わることだと思います。
心の中は、まず人としての優れた人格として現れるべきです。
そのためには、見性はとても有効であり、見性は科学的に研究されてはいますが解明はされてません。しかし、見性は確かに、あります。

 

 

高原さん、こんにちは。

意識が広がった体験や見性のようなもの、あるいは神秘体験とまで言っていいような体験など、持っている人はいるでしょうね。

その中には、自分で思い込んだだけというものもかなりの割合であるように思います。

体験は本人だけがするものなので、それが本物であるかどうかはなかなか外からではわかりにくいとは思います。

今回の高原さんのコメントの中で、最も興味深かったのは、『今まで読めなかった聖書をすらすら理解できるようになった』ということと、『軽々として清廉』のところです。

人格の大転換は、極めて強烈な体験、それまでの思考パターンが一気に壊れてしまうほどの衝撃がないとなかなか難しいと思いますが、いきなり聖典の深い意味がはっきりと理解できるようになったとか、人類最上の音楽が魂の底から理解できるようになった、ということが伴った場合は、それだけで本物の体験だと思います。

もし、それが起こらなかったら、それはニセモノです。

大いなる意識に触れたときには、聖典や音楽は手に取るように『わかる』からです。

人格が変わるには、それまで構築してきた思考パターンが一気に壊れる必要があり、パウロや臨済の人格の大転回並みの強い衝撃がいるでしょう。

これは、むしろ、仏陀の理法を繰り返し洞察することによって自我の成り立ちを理解していき思考パターンを変えていくほうが楽でしょう。

しかし、いずれにせよ、人格は変わっていくものだと思います。

有名な聖者でタバコを吸い、とても短気でよく怒る人がいたらしいですが、それはニセモノでしょうね。

インドでは、塩人形の喩えというのがあって、塩でできた人形を海の中に入れればだんだん溶けていって大海そのものになるように、本当に大海の中に浸っているのであれば、その人格は徐々に溶けていくものだと思いますから。

 

あと、『軽々として清廉』になるのも本物っぽいですね。

仏陀も『軽安』という言葉をよく使っています。

不善法を捨断していけば、身も心も軽くなって安定する⇒自然と真理に集中する(定)

と言っています。

 

悟っても何も変わらないという人がよくいますが、そういう人は、悟ったと自分で思い込んでいるだけでしょう。

何も変わらなければ悟る必要なんてないのですから。

最も大事な部分

 高原 (126.66.155.7)    
ショーシャンクさん、こんにちは。
「整えられた自己」という言い方、それが非我だということも理解出来ています。
「実体があるか、ないか」については今でもよく分かりません。
ずっと自分という実体を感じてきているだけに、佐々木閑先生が、実体はないと言われた時は少し「本当に?」と違和を感じました。
「整えられた自分」は「非我」とは言え、その時点は実体であるし、ショーシャンクさんが言われたように「実体」は「ある」とも「ない」とも断見してはいけないのではないかと。
こないだお話してた「見性」のことを書こうと思いパソコンを開くと、その論文がないのです。
似たような論文はあったのですが、書いてあった所が書いてなかったり、なかった所が書いてあったり、以前読んだ論文もどちらもW・ジェイムズ(心理学者)著の「宗教体験の諸相」という本を資料にして書いているので、どちらも内容は似ているのですが、やっぱり違う。
以前に読んだ論文を引用しながら書こうと思っていたのですが、それはできなくなったので自分の記憶を辿って近いうちに投稿させていただきます。
このブログを読まれるような方々なら、「見性」のことは絶対に知っておくべき重要なことと思います。
「見性」とは神秘体験に属することで、誰でも体験することではありませんが、我々が普通に考えているよりも遥かに多くの人が普通に体験しています。
禅や日本人特有のものではなく、キリスト教圏やイスラムでも、世界中いたる所の人たちに同じことが起こっています。 脳科学者が研究もしていますが、科学での究明はまだされていません。
ぼくは「見性」とは、誰の脳にもプログラミングされていて、何らかの条件が揃った時に、何かの切っ掛けでダウンロードされるのが「見性」だと、分かりやすく言えば、そんな風に考えています。自分でも知らないうちに見性という神秘体験をしている人もいるでしょうし、逆に自分は見性したと思っている人で全くの勘違いの人もたくさんいると思います。 近いうちに、「見性」についてまとめてみて改めて投稿させていただきます。

 

 

 

高原さん、こんばんは。

 

仏陀は自らの理法を『時を要しない、目の当たりに実現する法』と言いました。

ゆえに、仏陀在世中には、膨大な数の人たちが涅槃に至りました。

 

今の仏教は、実体があるだのないだの、相対を超えるだの、無我だの、一元だの、観念のお遊び、言葉のお遊びに堕しています。

 

『仏教は無我だ』と、生半可に仏教をかじった人は言いがちです。

しかし、それでは、自燈明の『自』とは何か、自らを島とするとはどういうことなのか、こう問われると曖昧な答えしか返ってきません。

『仏教は一元だ』という人もいます。『あなた』も『わたし』もない、一なるものだ、と。目の前のパソコンも自分だ、床も自分だ、と言う人もいます。

しかし、本気でそう思っていたら1時間たりとも生きていられないでしょう。

 

残念ながら、今の仏教には、仏陀が残した理法の最も大事な部分がごっそり抜け落ちていると考えざるを得ません。

 

仏陀の悟りの核心、三明とは何か。

仏陀は三明によって何を悟ったのか。

四諦の法で煩悩の滅を成し遂げ解脱に至って、7日間ほど解脱の楽しみに浸っていながら、そのあと十二縁起を順逆観じたのはなぜなのか。

そして、十二縁起を順逆観じて、なぜ『もろもろの疑念が消滅して、太陽のように立つ』ことができたのか。

 

『毒矢』とは何を指すのか。

『激流』とは何を指すのか。

 

実体があるだのないだの議論しているうちに、死王は花を摘んでしまう。

台風が猛威をふるっているときに、台風に実体があるだのないだの言っても、台風には実体がない、無我だ、といくら大声で叫んでも、台風はおかまいなしに人も車も家も吹き飛ばしていきます。

 

仏陀の残してくれた理法を歴史の堆積物の中から掘り起こしていくことは、大きな意味があることでしょう。

台風に喩えると

人間存在を台風に喩えると、太陽の灼熱が無明です。

灼熱によって生じる水蒸気が渇愛です。

水蒸気が渦を巻いて上昇していき暴風となったものが業力です。

台風の怖ろしい風力によって海の景色は一変します。

業力も、私たちの環境を形作っていっています。

台風には台風の目と言われる中心があります。

人間存在には『私という中心』があります。

 

灼熱による水蒸気が発生している限り、台風はなくなりません。

 

人間存在も、無明による渇愛がなくならない限り、存続します。

 

無明や渇愛を滅して入滅すれば、もう五蘊を集めることはないでしょうけど、そのように解脱していない人がほとんどなので、また五蘊を集めることとなります。

これが輪廻転生です。

 

今の仏教者がさかんにいっている、『実体があるか、実体がないか』というのはただの空論です。

台風はあるともいえるしないともいえます。

台風は実体を持たないといっても、物凄い影響をもたらします。

台風に、実体があるだの、実体がないだの、このようなことを延々と議論しても何にもなりません。

それが仏陀の真意です。

 

台風がなくなったら、穏やかな海が広がっているだけです。

 

 

 

自帰依 法帰依

 高原 (126.66.155.7)    
ショーシャンクさん、こんばんは。
「五薀を仮合させる潜在的形成力=行=業力があり、五薀を集めている」とショーシャンクさんの言われた、同じ意味のことを佐々木閑先生もおっしゃっていて、釈迦の一番言いたかったことはここだ、ここが核心だと、すっと腑に落ちるというか、収まるんですが、実は、ぼくはここがよく分かっていないのです。
「渇愛から来る潜在形成力はなくならず、必ず新しい五薀を集めます」というところも、なおさら腑に落ちて強く心に伝わって来るのですが、ぼんやりとやはり分からなかったりします。
強く執着する心が強く掴んで離さないものが「業」。
釈迦の「自灯明」を考えて、「明」とするような「自」があるのか。
そもそも、「自」とは何なのか。「自」とは「業」なのか。
もどかしいような思考が、半分、分かったような、分からないような。
仏教の核心、秘された真理は、黒板に書いて分かるようなものでもないのでしょうが。
例えば、浄土真宗派(大乗)が「空」を説くならば、「自灯明」の「自」も「灯」も「明」も無となってしまい、釈迦との線が切れてしまっています。矛盾です。
釈迦の教えを突き詰めて行けば行くほど、「自」へと繋がって行くような気がします。
少し前の項で「見性」(けんしょう)のことを書かれていましたが、見性も自であり、見性について興味深い論文を読んで面白かったので、近いうち、項を改めて、見性についてのお話を投稿させていただきます。
結局、自分でも何を言いたいのか論旨のはっきりしない文を書いてしまいましたがお許しください。

 

 

高原さん、こんにちは。

 

佐々木閑は、『輪廻を現代の私たちにそのまま認めろというのはムチャな話で、自分は輪廻を信じていない』とはっきり言っています。

無明、渇愛、業力が五蘊を集めさせるのであれば、渇愛が滅していない限り、再び五蘊を集めてしまうのは明らかです。

それなのに、現代の仏教学者や仏教者は輪廻も死後の世界も否定します。

ここに、いまの仏教なるものの大きな問題があります。

まるで仏陀の真意が伝わっていないのです。

仏陀の覚りの内容は三明です。

宿住智によって、自分の過去生、輪廻転生をありありと見ました。

天眼智によって、世界の生きとし生けるものの自らの業によってその業にふさわしい世界に赴く様をありありと見ました。

これによって四諦十二縁起の法を悟ったのです。四諦の法により煩悩の滅に至りました。漏尽智です。解脱したのです。

そして、解脱の楽しみを味わってから7日後に十二縁起を順逆観じていきます。

 

仏陀の理法は、輪廻転生抜きには語れません。

凡庸な仏教学者たちがこぞって輪廻転生を否定するのは、kammaが今現在も瞬間瞬間世界を形作りつつあることをありありと見ていないからです。

いまここで、怖ろしいほどの力で、kammaは、すべてを作りつつあるのです。

それが全く見えてないので、仏教は、老人の玩弄物になったままぐったりと死んでいるのです。

 

目の前に展開する、怖ろしいまでのkammaの力。

否が応でも、その圧倒的力が、私たちのこの肉体や環境という『現実』を展開させています。

これを少しでも実感したら、この力は、この五蘊がバラバラになった後でも、なくならないのはわかるはずです。

今の仏教なるものには、そのような活き活きとした実感が全く失われています。

だから、仏教は現実に対し、何も役に立たないものになっています。

暇な老人たちが、仏教学者の本を読んで、読んだ本の数やその知識を自慢するだけのおもちゃになっているのです。

その人の精神に何の役にも立っていないばかりか、かえって自我を強固にしています。

 

仏陀が言った『激流』とは何か、これさえ、仏教学者はありありと実感していません。

 

それでは、仏陀が言った『自燈明 法燈明』の『自』とは何でしょうか。

dipaは、『燈明』とも『島』とも『洲』と訳されます。

 

仏陀は四念処を説いた後、『このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる』と言います。

 

仏陀はよく、『整えられた自己』と言う言葉を使います。

四念処は、身・受・心・法において、非我であることを観じるものです。

形成されたものを『私、私のもの、私の本体、ではない』と観じていくことです。

 

現在自己同化している『形成されたもの』をすべて捨離していって、その後に残るものこそ、『整えられた自己』です。

非我であるところのもの、そここそ、『自』であり、『法』であるのです。

ゆえに、『自帰依 法帰依』と言うのです。

 

 

 

 

 

 

無我と輪廻

原始仏典を見ると、歴史上の仏陀は、繰り返し繰り返し、死後の世界と輪廻転生について言及しています。

しかし、ほとんどの仏教学者は、死後の世界も輪廻転生も否定しています。

それは、仏教は無我を説いたという観念があって、霊魂などという実体のあるものを否定した、ということからです。

 

このことを見ても、仏陀の真意は正しく伝わっていないと感じます。

 

『私という中心』から見ているので、仏陀が言おうとしたことがわからないのです。

私たちは、『私という中心』を持ち、死後の世界や輪廻転生を信じる人は、『私の前世』『私の来世』『私の霊魂』と捉えます。

 

しかしそうではなく、五蘊を仮合させる潜在的形成力=行=業力があり、それが五蘊を集めているのです。

時が経ち、五蘊がバラバラになったとしても(つまり死んだとしても)、解脱していない限り、渇愛から来る潜在的形成力はなくならず、必ず新しい五蘊を集めます。

 

これが輪廻転生です。

 

死後の世界もあるのです。現在の五蘊が破れても、異蘊を集めます。

 

行=sankhara  のままに自らの世界が展開します。

 

もし、死んだらすべて何もないのであれば、それは仏陀が最も怖れた断見という邪見です。

 

霊魂という実体が、永遠に生まれかわるというのは常見という邪見です。

 

結局、今の仏教には、心霊主義のような常見か唯物論のような断見かしかないのです。

 

いまこそ、仏陀の真意を甦らせなければいけないと思う理由です。

ナパーム弾は誰が作った

別のブログで書いた話ですが、昔、アメリカ人の本だったと思いますが、自分の精神放浪の記録のような内容でしたが、その中で、おりしもベトナム戦争の時代、ある講演会にふらっと立ち寄ってみると、講師が、『すべては心が作っている』という講演をしていたそうです。

みんな静かに聞いていたのですが、その講師が『ベトナムの赤ちゃんは自らに降り注ぐナパーム弾を自らが作った』と言ったらしいのです。

それから、会場は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、罵倒の言葉、抗議の言葉、非難の言葉が飛び交いました。当然です。なんとも酷いことを言っているからです。

しかし、講師は平然と講演を続け、そのうち会場はだんだんと静まり、最後には称賛の拍手が鳴り止まなかったと言います。

その講演の内容が書かれてなかったので、この言葉は衝撃でもあり大きな謎でもありました。

仏陀の真意を探求していて、この言葉の本当の意味がわかった気がします。

別のブログに書いたときにはまだまだ中途半端な理解だったのですが、いまはかなりはっきりとわかります。

仏陀が『激流』と表現した理由もはっきりとわかりました。

なぜ、八正道が、過去の聖者たちが発見した古城に向かう古道であるのか、これもはっきりとわかりました。

 

これがはっきりとわかると、自分がどんなに道を外れていたかが猛烈にわかります。

 

 

中部経典『大マールキヤ経』

さて、中部経典第63『小マールキヤ経』まで書きましたが、中部経典だけで152経ありますし、この速度であれば、いつまで経っても原稿が書けません。原稿のための備忘録として書いていますので、これから先は、もっと要点のみで大急ぎで中部経典を終えたいと思います。

 

中部経典第64『大マールキヤ経』

仏陀が『五つの下位の束縛(五下分結)を確と記憶にとどめよ』と言ったところ、マールキヤ比丘が『記憶にとどめています。自身見・疑い・戒禁取・欲貪・瞋恚です。』と答えた。

仏陀は、ただ用語を憶えただけで、それでは幼児のようなものだ、と言います。

そして、この束縛がどうしたら断たれるか、その行道について説かれます。

 

ここに、比丘は、生存素因の遠離により、もろもろの不善法の捨断により、あらゆる身の粗悪の止息により、もろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じる喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。

かれはそこで、色に関わるもの、受に関わるもの、想に関わるもの、行に関わるもの、識に関わるもの、それらの法を、無常である、苦である、病である、腫れ物である、矢である、禍である、疾である、他である、破壊である、空である、無我である、と観ます。かれは、それらの法から心を解き放ちます。

かれは、それらの法から心を解き放ち、不死界に心を集中します。

 

次に、第二の禅に達して住みます。

次に、第三の禅に達して住みます。

次に、第四の禅に達して住みます。

次に、空無辺処に達して住みます。

次に、識無辺処に達して住みます。

次に、無所有処に達して住みます。

 

これも、五つの下位の束縛を断つための行道です。

 

これによて、あるものは心解脱のものとなり、あるものは慧解脱のものとなるのは、感官の種々性による。(そのひとの機根によるということ)

 

 

 

 

 

さて、中部経典は152経あり、最近、仕事も忙しくなってきましたので、いったん64経までで止めます。

重要だと思うものを備忘録としてピックアップするようにします。

 

中部経典『小マールキヤ経』

中部経典の第63は、『小マールキヤ経』です。

 

有名な『毒矢の喩え』が出てきます。

 

マールキヤ尊者の心に、次のような考えが生じます。

いくら聞いても仏陀が回答せず、捨て置かれている問いがあり、どうしてもその回答を得たい、回答が得られなければ還俗しよう、という考えです。

 

その問いとは、

 

1、世界は常住であるのか。(この世は永遠、つまり時間的に無限であるのか)

  sassato loko 

  世界は無常であるのか。(この世は時間的に有限であるのか)

  asassato loko

 

2、世界は有限であるのか。(空間的に有限であるのか)

  antava  loko

      世界は無限であるのか。(空間的に無限であるのか)

  anantava loko

 

3、霊魂(jiva)と肉体は同じであるのか。

  霊魂(jiva)   と肉体は異なるのか。

 

4、如来(tathagata)は死後存在するのか。

  如来(tathagata)は死後存在しないのか。

  如来(tathagata)は死後存在し、また存在しないのか。

  如来(tathagata)は死後存在しないし、また存在しないのでもないのか。

  

これらの質問について、知っているのであれば解答してください、知らないのであれば『知らない』と言ってください、とマールンキヤは仏陀に迫ります。

 

仏陀は、

『私はあなたに言いましたか。〈梵行に努めなさい。これらの解答をします〉と。』

 

そして、毒矢の喩えを説きます。

 

ある人が毒矢に射られたとします。

『私は、私を射た人が王族なのか、バラモンなのか、庶民であるのか、わからないうちは矢は抜かない。』

『私を射た矢が長弓であるのか、石弓であるのか、わからなければ矢は抜かない』

『私を射た弓の弦について、樹のものか竹のものかがわからないうちは矢を抜かない』

『私を射た矢の柄がわからないうちは、矢を抜かない』

と言っていたら死ぬであろう。

 

 

『世界は常住である』という見解があれば、梵行生活は起こるだろうか。そういうことはありません。

 『世界は無常である』という見解があれば、梵行生活は起こるだろうか。そういうことはありません。

どちらの見解でも、生まれがあり、老いがあり、死があり、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みがあります。

私は現世における、それらの破壊を説いているのです。

 

『世界は有限である』という見解があれば、梵行生活は起こるだろうか。そういうことはありません。

 『世界は無限である』という見解があれば、梵行生活は起こるだろうか。そういうことはありません。

どちらの見解でも、生まれがあり、老いがあり、死があり、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みがあります。

私は現世における、それらの破壊を説いているのです。

 

 

『霊魂と肉体は同じである』という見解があれば、梵行生活は起こるだろうか。そういうことはありません。

 『霊魂と肉体は異なる』という見解があれば、梵行生活は起こるだろうか。そういうことはありません。

どちらの見解でも、生まれがあり、老いがあり、死があり、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みがあります。

私は現世における、それらの破壊を説いているのです。

 

 

『如来は死後存在する』という見解があれば、梵行生活は起こるだろうか。そういうことはありません。

 『如来は死後存在しない』という見解があれば、梵行生活は起こるだろうか。そういうことはありません。

どちらの見解でも、生まれがあり、老いがあり、死があり、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みがあります。

私は現世における、それらの破壊を説いているのです。

 

 

私によって解答されてないものは解答されないものとして受け止めなさい。

私によって解答されているものは解答されるものとして受け止めなさい。

 

 

1、世界は常住であるのか。(この世は永遠、つまり時間的に無限であるのか)

  sassato loko 

  世界は無常であるのか。(この世は時間的に有限であるのか)

  asassato loko

 

2、世界は有限であるのか。(空間的に有限であるのか)

  antava  loko

      世界は無限であるのか。(空間的に無限であるのか)

  anantava loko

 

3、霊魂(jiva)と肉体は同じであるのか。

  霊魂(jiva)   と肉体は異なるのか。

 

4、如来(tathagata)は死後存在するのか。

  如来(tathagata)は死後存在しないのか。

  如来(tathagata)は死後存在し、また存在しないのか。

  如来(tathagata)は死後存在しないし、また存在しないのでもないのか。

 

これらの問いは、私によって解答されていません。

 

それでは、何が私によって解答されているのか?

 

『これは苦である』

『これは苦の生起である』

『これは苦の滅尽である』

『これは苦の滅尽にいたる道である』

 

これが私によって解答されたものである。

なぜ、これが私によって解答されたのか?

 

これは利益を伴い、かれは厭離のためになり、離貪のためになり、滅尽のためになり、寂止のためになり、勝智のためになり、正しい覚りのためになり、涅槃のためになるからです。

 

中部経典『大ラーフラ教誡経』

中部経典の第62は、『大ラーフラ教誡経』です。

 

【出入息の念】が、ラーフラにたいし説かれます。

 

まず、仏陀は、ラーフラに対し、

『すべての色は、〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧によって見られるべきです。色だけでなく、受も想も行も識もです。』

と五蘊非我を説きます。

 

その教誡を聞いたラーフラは樹の元で足を組んで坐るのですが、通りかかったサーリプッタがラーフラに出入息の念を修習するように勧めます。

 

そこでラーフラは、仏陀に出入息の念のやり方を聞きます。

 

1、地界  内の地界 髪・毛・歯・皮・肉・骨などの身体の中の堅いもの

      外の地界 外界の堅いもの、固形物

 

2、水界  内の水界 血・汗・唾液などの身体の中の液体

      外の水界 外界の液体

 

3、火界  内の火界 身体の中の熱(火)と化すもの、食べ物

      外の火界 外界の火や火と化すもの

 

4、風界  内の風界 息など

      外の風界 外界の風や風と化すもの

 

5、空界  内の空界 耳の穴、鼻の穴、口内などの空であるもの

      外の空界 外界の空や空と化すもの

 

 

この、地界、水界、火界、風界、空界のすべてについて、〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧によって見られるべきです。

 

地のように修習しなさい。地が不浄のものを投棄しても嫌悪しないように。

水のように修習しなさい。水が不浄のものを洗っても嫌悪しないように。

火のように修習しなさい。火が不浄のものを焼いても嫌悪しないように。

風のように修習しなさい。風が不浄のものに吹きつけても嫌悪しないように。

空のように修習しなさい。空がどこにも定着することがないように。

 

慈しみを修習しなさい。怒りが捨てられるから。

憐れみを修習しなさい。害心が捨てられるから。

喜びを修習しなさい。不快が捨てられるから。

平静を修習しなさい。対立が捨てられるから。

不浄を修習しなさい。貪りが捨てられるから。

無常想を修習しなさい。我の慢が捨てられるから。

出入息の念を修習しなさい。大きな果報、大きな功徳があるから。

 

足を組んで坐ります。

全面に念を凝らして坐ります。

念をそなえて出息し、念をそなえて入息します。

 

長く出息するときは〈私は長く出息する〉と知り、長く入息するときは〈私は長く入息する〉と知ります。

短く出息するときは〈私は短く出息する〉と知り、短く入息するときは〈私は短く入息する〉と知ります。

 

〈私は全身を感知して出息しよう〉と学び、〈私は全身を感知して入息しよう〉と学びます。

 

〈私は身行を静めつつ出息しよう〉と学び、〈私は身行を静めつつ入息しよう〉と学びます。

 

〈私は喜びを感知して出息しよう〉と学び、〈私は喜びを感知して入息しよう〉と学びます。

 

〈私は心行を感知して出息しよう〉と学び、〈私は心行を感知して入息しよう〉と学びます。

 

〈私は心行を静めつつ出息しよう〉と学び、〈私は心行を静めつつ入息しよう〉と学びます。

 

〈私心心を感知して出息しよう〉と学び、〈私は心を感知して入息しよう〉と学びます。

 

〈私は心を満たしつつ出息しよう〉と学び、〈私は心を満たしつつ入息しよう〉と学びます。

 

〈私は心を統一しつつ出息しよう〉と学び、〈私は心を統一しつつ入息しよう〉と学びます。

 

〈私は心を解放させつつ出息しよう〉と学び、〈私は心を解放させつつ入息しよう〉と学びます。

 

〈私は無常を随観して出息しよう〉と学び、〈私は無常を随観して入息しよう〉と学びます。

 

〈私は離貪を随観して出息しよう〉と学び、〈私は離貪を随観して入息しよう〉と学びます。

 

〈私は寂滅を随観して出息しよう〉と学び、〈私は寂滅を随観して入息しよう〉と学びます。

 

〈私は破棄を随観して出息しよう〉と学び、〈私は破棄を随観して入息しよう〉と学びます。

 

ラーフラよ、出入息の念をこのように修習するならば、大きな果報があり、大きな功徳があります。

 

ラーフラよ、出入息の念をこのように修習するならば、それらの最後の出息も確かに知られるとおりに消滅します。知られないままではありません。

中部経典『アンバラッティカ・ラーフラ教誡経』

中部経典の第61は、『アンバラッティカ・ラーフラ教誡経』です。

 

仏陀が、ラーフラに説いた教えです。

ラーフラは、仏陀の実子です。

密行第一と言われている弟子です。

 

まずは、わずかな水が入った容器を指し示します。

『故意の嘘に対して恥のない者の沙門性(samana-dhamma)はこのように少しのものでしかありません。』

その水を捨てます。

『故意の嘘に対して恥のない者の沙門性(samana-dhamma)はこのように捨てられています。』

その容器を倒します。

『故意の嘘に対して恥のない者の沙門性(samana-dhamma)はこのように倒されています。』

その容器を起こします。

『故意の嘘に対して恥のない者の沙門性(samana-dhamma)はこのように空でなにもありません。』

 

『故意の嘘に対して恥のない者には、誰であれ、行ない得ない悪がない

 それゆえに、〈私は戯れにも嘘をつかないようにしよう〉と学ぶべきです』

 

そして、この後、

『鏡が観察を目的とするものであるように、自分の身の行為、語の行為、意の行為が、〈この行為は、自己を害したのではないか。他者を害したのではないか。この行為は、不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものではないか〉と観察すべきである。』と説きます。