『行』=saṅkhāra

Satya (49.98.74.225)  

2020年から世界は変わるだろうなと思っていましたが、今世界は大変なことになってます。 こういうとき、まったく影響を受けないこと(真理)から外れないようマインフルであることが大切ですよね。 ところで、十二縁起や五蘊に出てくる「行(意志形成力)」も「受」とならぶポイント項目です。これがいかように滅するのか考察してみる、自分なりの理解が深まってくるにしたがって正法にであうチャンスが広がってきます。
 
 
 
今年、2020年は大変な年になりそうだとは思っていましたが、ウイルスとは意外なところから来ました。
 
十二縁起の『行』は、無明⇒行  で、二番目の項目ですね。
私は『無明』とは四諦を知らないこと、具体的に言えば苦を知らないこと、だと思っています。
 
『苦を知らないこと』に縁りて起きるものが『行』=saṅkhāra というのですが、それでは、saṅkhāraをどう解釈したらいいのでしょうか。
 
私は、十二縁起は、本来の無量心の状態=涅槃の状態=無限の大海である状態 が、中心を形成していって苦の集積になってしまう過程を洞察したものだと思っています。
そうすると、『苦というものを知らない』ことによって、中心を形成しようとする能動的な働きが生まれる・・・その働きを『行』=saṅkhāra と言うのだと考えています。
 
これは中心が苦であると言うことを如実に知らなければ滅することができない流れです。
ゆえに、無明の滅によって、行の滅がある、、、と言うのだと思います。
 
もちろん、これは私が勝手に考えていることにしか過ぎませんが。
 
 
 
Satya (49.98.74.225)  
(誰にとっても)五蘊の「受・想・行・識」を自分に当てはめて考察してみると判りよいと思います。受が生じてどのように自分の内面(心行)が変調してゆくのかを観察する、何か錯覚してるところがあるのだろうかなどと自分をよく見つめてみることが役立ちます。また自分に「苦」が生じるのは何を知らないのだろうか等について日頃からマインフルであることも大切だと思います。

コメントは歓迎です

Satya (49.104.35.158)  

ショーシャンクさん、こんばんは。 誰にもあてはまることですが、自分の煩悩や経験から照らし合わせ(仏教書で確認しながら)自分で考え抜き、これが仏の教えの核心だろうというところまで、ダルマの理解を深めておき、功徳を積んでおくことが準備になるだろうと思います。
 
 
Satya (49.104.35.158)  
60代の爺さんですが、昨晩暮れにTV録画した「King Gnuの白日」で歌っているギタリスト、中々インパクトあるなと観賞したあと、久しぶりに感受(十二縁起、五蘊にでてきます。)についてしばらく考察してました。 この感受、なかなか厄介もので、これから三毒(貪・瞋・愚痴)が生じます。この感受の考察は役立ちますが、頑張れば「想受滅」へ行けるかというと、これがなかなか難しい。でも、今はネットがありますので、ありとあらゆる情報を利用して自分でなんとか突破していこうとする姿勢が大切です。
 
 
Satya (49.104.17.204)  
ショーシャンクさん、こんにちは。 私には、ショーシャンクの書き込み内容がgoodそのものに見えます。それゆえ、私のコメントはどうしても、ブログの読者向けのような内容になってしまいます。 聞き手や質問者としてのコメントを書き込めなくて申し訳けございません。m(_ _)m 少しでもお役に立てればと思いますが、ショーシャンクさんの仏教理解がかなりのところにあるのと、読者の方もおられるので、微妙な表現にならざるをえないです。 時間のあるときに、もう少しコメントを書けるように思うのですが、このあたりで止めておいた方がいいのかどうか等のご意見をいただければ幸いです。 (上記コメントは承認待ちのままでも、承認するのどちらでもお任せいたします。)
 
 
Satyaさん、こんにちは。
いま、株式市場が大混乱になっていまして、めまぐるしく動き、ブログ『株についてのひとりごと』も仕事の合間に書いていたのでなかなか返事ができませんでした。すみません。いまやっと、今週の相場が終わりましたので、書き込みます。
 
私は、どのような方がどのような考えを持つのも自由で構わないと思っています。ですから、どのようなお考えを投稿されても、それがアラシのような嫌がらせ目的でなければどんな投稿も歓迎です。Satyaさんは、真摯に探求されておられるようなのでいろいろ書き込んでください。質問があれば遠慮なくしてください。
私は、質問があるときにはなるべく答えたいと思ってきました。それはヤフー掲示板のときから変わりません。
ヤフー掲示板は、株式の個別銘柄板や映画板の自分のスレッド、そして株式の自分のスレッドにのみ投稿していて、何の問題もありませんでした。
ただ、2年前くらいに、ヤフー掲示板の哲学板に自分のスレッド『仏教についてのひとりごと』を作ってそこに投稿していたときには、micという人が、明らかな妨害活動をしていました。具体的には30や40も同じような内容の誹謗中傷を連続して投稿することがしょっちゅうでした。私が投稿するとすぐ何十もの投稿をして閲覧者に見えづらくさせていました。ヤフー掲示板にはスレ主に削除機能がないため、どんなに罵詈雑言の投稿も溢れかえったままになっていました。
悪意のあるものに自分のスレッドが荒らされるのは不愉快なものです。
自分のブログだと、そのような悪意のある投稿が削除できるので本当に快適です。
今までは、自分のブログに投稿されたコメントを削除したことは一度もありませんが、この前初めて赤い実という人のコメントは削除しました。
というのも、ヤフー掲示板が株式板以外閉鎖されるという間際になったとき、また、micと言う人が、罵詈雑言を書いてきたので、『いい木にはいい実がなる、悪い木には悪い実がなる、と言います。実がmicですからその木がわかるというものです。』というような内容のことを書いた途端、赤い実という人が来て、『なぜそんなことを書くのか。ショーシャンクさんはmicを無視すると言ったではないですか。無視すると言ったからには無視しなさい。』というようなことを血相を変えて言ってきたのです。
確かに『どんなに罵詈雑言されてもこれからはmicのことは無視したいと思います』と書いたことはありますが、ただ穏やかに『いい木にはいい実がなる、悪い木には悪い実がなる、と言います。実がmicですからその木がわかるというものです。』と書いただけなのに、何故この人は他人のスレッドまで来て責めるのだろうと思い、そう書きました。それ以降かなりしつこくそのことを責めてくるので時間ばかり取られてしまいました。この前、このブログにも前と全く同じ質問をしてきましたので、うんざりして『終わりにします』と書いて削除することに決めました。
削除はこの例だけです。
この人はヤフー掲示板のときから、あちこちのスレッドを見渡して、いちゃもんをつけにいくのが常習でした。
本人は『因果のままなるようにしかならない。どの人もそうなるしかなかったのだ。』と言うのですが、そうであればどの人のどの振る舞いもそうなるしかなかったわけなのでわざわざいちゃもんをつけにいくのは矛盾しています。それについての回答もないままです。
 
 
Satyaさんのような真摯な人のコメントは歓迎です。
私の考えと共通点が多いような気がします。
 
 
 

無思考型と徹底思考型

Satya (49.104.4.37)  

ショーシャンクさん、こんにちは。 シャンカラからラマナ・マハルシ、ヨガナンダまで、そして大祓祝詞、懺悔などの過去の私の遍歴修行が、ショーシャンクさんの歩みと似通ってます。 仏教に関しては、随分と昔(一元論の学び以前)にゴエンカ氏のヴィパッサナーの10日間リトリートに参加したのが最初で、それ以降ティク・ナット・ハン氏の比叡山リトリートに参加、その他諸々の歩みがありました。 ショーシャンクさんの書き込みは、MANIKANAのHPで拝見したのが最初でしたが、見ている方向がほぼ似ていることもあり(株とか経済・経営に関しては、まったく足元にも及びません。)、ブログの書き込みを眺めるのが楽しみになってます。 たーぼさんの書き込みは、以前Noboruさんの(精神世界・瞑想・気功の)HPの掲示板で見たことがあったように思います。(違ったかな。。。) 先ほど調べてみると、以前の(精神世界・瞑想・気功の)HPは無くなっており、はてなのブログからツイッターに移行、そのツイッターも2019年10月以降の書き込みがないようです。 私もはてなのブログを長い間使ってましたが、2017~2019年までのブログをある事情から消去しました。 仏教の正法の期間が500年だったのは、女性を弟子にしたからだと述べる方がおられますが、一理あるように思います。
 
 
Satyaさん、こんにちは。
私は、歴史上の仏陀(ゴータマ・シッダッタ)の教えがねじ曲ってしまったのは、仏陀の死後500年後ではなく、滅度の直後からだと思います。
弟子たちというのは、どうしても自分の師匠が一番偉くて、他の教えとは全く違った優れた教えだとアピールするものです。そのような排他主義がそれまでのインドの豊穣な土壌であったバラモン教の全否定となっていって仏陀の教えからバラモン教的なものを徹底的に排除していったと考えます。
また、仏陀は、出家してすぐアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタのところに行って無思考型の瞑想を教わりますが、師の境地にやすやすと到達した後『これは涅槃に至る道ではない』と去って行き、苦行の後に、十二縁起の瞑想などを繰り返して成道します。
このエピソードを見ても、仏陀は無思考型の瞑想では涅槃までは至らないと考えていたことは明白です。しかし、後世の仏教では、十二縁起を瞑想するなどの徹底思考型の瞑想ではなく、思考をなくしていくものだったり思考に『気づく』ものだったりばかりが盛んになっていきました。
仏教が成立した時点から、仏陀が本当に説きたかった教えとはかけ離れていったと思います。
 
四諦や十二縁起や三十七菩提分法を解き明かしていくと、仏陀の本質は徹底思考型の瞑想であると私は確信するに至りました。
 
satiも、今言われているような『気づき』ではなく、『理法を記憶して心に留めておくこと』『憶念』のことだと思っています。
 
そして、七覚支の『択法』とは、法=観念 を選ぶことだと思います。
これらの解釈はテーラワーダ協会とは全く違う解釈ですので賛同する人は多分一人もいないでしょうけど。
 
そして『筏』とは、仏陀の説いた理法のことで、それは彼岸に至る筏であって渡れば捨てなければならないものです。
仏陀の説いた理法も観念にしか過ぎなく、無量心に達することができれば不必要で捨て去るべきものなのでしょう。
このような筏を残してくれたことに本当に感謝します。
 
私はまだ無量に達していないので、この筏で達することができたときに自費出版しようと思っています。記憶の束をdeleteする作業が膨大で、まだまだ先でしょうけど。
 
 
 
 
 
Satya (49.104.35.158)  
ショーシャンクさん、こんにちは。 本人の記憶の束のdeleteは自分に智慧が生じればOKです。 智慧が生じるまでは、功徳をコツコツ積むことによるヴァーサナーの弱体化がいいように思います。
 
 
Satyaさん、こんにちは。
従来の仏教の考え方では、無思考になれば本来の智慧が輝き出るというように思われていますが、私は、智慧は徹底思考型の瞑想、例えば三十七菩提分法をしてその過程で記憶の束をdelete(慚愧懺悔)していって初めて現れるように思っています。
智慧とは無量感のことかもしれないと思っています。その無量感に基づいた見方、思考、言葉、行動、生活、四正勤、記憶保持、観念集中、が八正道のように思います。
これは私が考えているだけですが。
 

レス

ターボー (210.138.216.243)  

ショーシャンクさん、お久しぶりです。 ブッタの言った「縁の滅を知ったので疑念は全て消え去る」とは法華経の一仏乗だと思います。 私が貴方、貴方が私なら縁は滅します。 ですから十二縁起の無明とは一仏乗を知らないことだと思います。 自己の世界があるだけならば、この世を捨てて涅槃に渡る。親類縁者を捨てて涅槃に渡るという心配はありません。 更に言うと中心を形成しているのは、おちんちんだと思います。 このおちんちんが性別という二元性の最も根源になってるように思います。 性欲の元は全体ではなく、他の誰でもない個でありたいという欲求だと思います。 そして自分を肉体に縛り付けている杭もこのおちんちんだと思います。 そこでショーシャンクさんにお聞きしたいんですが、ショーシャンクさんは帯妻されていますか? お子様はみえますか? プライベートな質問なのでお答え出来なければ構いませんが、私はもう今はかなり現象にも無量が現れるようになってきており、いつまで個で居続けることが出来るか。この先どうしようか迷っているのです。 ですからお聞きしたいのです。
 
 
ターボー (210.138.216.243)  
それとショーシャンクさんには本当に感謝しております。ショーシャンクさんのお陰で仮釈放出来たようなものです。 ずっと苦しい地獄にいて救い出してくれたショーシャンクさんには感謝の言葉しかありません。 今は漫画喫茶にきてこの文章を書いています。携帯ではショーシャンクさんのブログにはアクセス出来なくなってしまったので、(おそらく無量が効いてる。最近携帯がおかしいです)返信はできないかもしれないです。あまり突っ込んだことを書くと他の人の修行の邪魔になるからアクセスできないのかもしれません。とにかくありがとうございました(^_-)-☆
 
 
ターボー (210.138.216.243)  
ショーシャンクさんのブログに書き込めなくなるとほぼ同時に10年ほど前から知り合いだった創価学会の女性と縁あり知り合いました。 物凄く波長が合い、彼女から法華経のことを毎日少しづつ教わっています。 自己の表裏だから当たり前なんですが、物凄い波長が合います。 LINEでやり取りしてるんですが、毎回同時に書き込んでます(笑い 私とは性格とか考え方とか魂の傾向性も私にそっくりで心が通じ合えるいい子です。 でも結婚して旦那さんがいます。 だから悩んでいます。 婚姻関係など言うまでもなくフィクションです。虚妄です。 でも旦那さんのことを考えると手を出すわけはいかないし・・・。 彼女は私に好意は持ってくれてるようなんですが。というより私が好意を持ってるから彼女も好意を持つのだと思うのですが。
 
 
ターボー (210.138.216.243)  
30年地獄を見てきました。 自業自得ですが。 だから今すぐ窮極の涅槃に入らないでも人並みな幸せを味わいたいんです。 このまま今生を終えたら勘定が合わないです。 30年の間に何人かの女性とお付き合いしましたし10年ほどは同棲もしていますが、心の傷があり内省していなくてその傷に気が付かぬまま、心を開いて付き合えていませんでした。今のその彼女とは心底本音で何でも話し合えています。彼女も私も普通の人には理解されない孤独を共有してると思います。
 
 
たーぼーさん、こんにちは。
それぞれの人でそれぞれの解釈があって当然だと思いますし、それで救われればそれが一番だと思います。十二縁起にしても、『縁の滅』にしても、解釈はいろいろ成り立つと思います。
ワンネスの世界観で解釈することも可能でしょう。
 
ワンネスの世界観は私も大好きですよ。20歳の時に相当はまりました。
禅語で「心迷法華転 心悟転法華」(心迷えば法華に転ぜられ 心悟れば法華を転ず)のところ、道元は、『法華転法華』と言いました。これは凄い言葉です。ワンネスです。
シャンカラは大好きですし、ラーマクリシュナもラマナ・マハリシもヨガナンダも大好きで、クリシュナムルティの本は全巻持っています。
ワンネスの世界に浸るのは至福なのですが、残念なことにその世界は想像でしかありません。現実には対処できない。日常生活には感覚があり、『私』と『私のもの』で成り立っているので、そこから遊離して私もあなたも一で私はない私のものはない、という意識で生活することなど1日たりともできません。寝たきりの老人であればできるでしょうけど、お金を稼いで生活することはできません。
どうしても『筏』が必要なのです。
これは私の考えですので、ワンネスそのままで生活できるというのならそれでいいとは思います。
 
質問の答えですが、私は既婚者で妻はいますよ。仲はいいです。私は人と長時間おしゃべりして楽しむこともできますが基本的にひとりでいる時間が貴重で至福です。妻は私に精神的に依存しているところがあります。そこがちょっと心配ですが。
 
 
たーぼーさんが抱えている心の傷がどのようなものかはわかりませんが、人はみな傷や痛みやへこみを持っています。
そして、その痛い感情を伴う記憶の束をdeleteしていかなくては、記憶の束という中心に縛られて本当には無量を感じることができません。
もちろん、記憶の束を放置したまま、座禅や瞑想や想像や音楽で無量を感じた気になることはできますが、日常生活に戻ると元の木阿弥です。
 
たーぼーさんの文章を読んでいて少し心配なのは、強い痛みを抱えたままだと同じような痛みを抱えた人と出会い共感することになることです。
 
古来、神道では大祓祝詞によって、キリスト教では懺悔によって、記憶の束をdeleteしてきました。仏陀の説いた法でも、十二縁起や四念処や四正勤は、本来の意味では、deleteすることを説いたものだと思っています。
 
どのような方法でもいいのですが、記憶の束をdeleteしていくことをお薦めします。
唯識論でもそうであるように、人間は阿頼耶識に記憶という種子を溜め込んでいてそれが発芽して現象となるのですから、溜め込んだ種子をきれいにdeleteしていくことが将来の現象に無量が現れることになるのだと思っています。
 
 
 
 
 
 

十二縁起とは

今までの仏教を全部白紙に戻して、仏陀の言ったことにもどる、というその仏陀の言ったこととは何ですか。それは、縁であり、その結実が十二縁起だといわれます。では縁とは何なのでしょうか。また、十二縁起で逆観により、行を滅すれば識を滅するといいますが、行とは何で識とはなにでしょうか。そして行を滅すると、識を滅すると現実的にどうなるのですか。また、苦とは何でしょう。

↑↑

上の質問に対し、今まで書いたことをもう一度載せてみます。

 

 

『縁であり、その結実が十二縁起だといわれます。では縁とは何なのでしょうか。』

『縁起』

仏陀の説いた縁起とは、苦の縁って起こる原因のことです。


これあればかれがあり、これが生じればかれが生じ
これがなければかれなく、これが滅すればかれが滅す

 

この四つの定理を使って、仏陀は、苦の原因を究明していきました。

 何故でしょうか。それは、その4つの定理に厳密に当てはまるものが見つかれば

それを滅することにより苦が滅すると考えたからです。

苦の消滅を目指して出家した仏陀は、
これあれば苦があり これが生じれば苦が生じ
これがなければ苦がなく これが滅すれば苦が滅す
というものを徹底的に洞察していったのです。
それが縁起です。

そして、その完成形が十二縁起です。

ゆえに、原始仏典に仏陀が説いている縁起の法は十二縁起を完成形とし五支縁起などの省略形はありながらもすべて『苦の縁って起こる原因』のことです。

 

縁起とは、苦の縁って起こる原因のことであるからこそ、仏陀が成道したときに繰り返し十二縁起を順逆に観じ、

『縁の滅を知ったので、疑念はすべて消え去る』と言ったのです。

 

もし、後世の仏教解釈のように、縁起とは『あらゆるものはそれ以外のすべてのものに縁ってできている』というものであれば、どこまで行っても『縁の滅』というのはあり得ないですね。

『縁』『縁起』が苦の縁って起こる原因だからこそ、仏陀は成道の時に『縁の滅を知ったので、疑念はすべて消え去る』と言ったのです。

 

 

 

『また、十二縁起で逆観により、行を滅すれば識を滅するといいますが、行とは何で識とはなにでしょうか。』

 

因果といいますが、歴史上の仏陀は因と言う言葉はあまり使っていません。
仏陀は、縁といいました。縁起です。
後世になれば、因というのは直接的な原因、縁というのは間接的な原因、などという解説が横行しています。
全く違います。
目覚めの偈にありますように、仏陀は『縁の滅を知ったので』目覚めたのです。
縁起とは苦の縁って起こる原因です。間接的な原因などではありません。
それが滅すれば苦が滅するとされる根本原因です。
縁起とは十二縁起です。
そして、根本原因は無明です。
無明とは何か、四諦を知らないことです。苦であることを知らず、苦の集起するありさまも知らず、苦の滅するありさまも知らず、苦を滅する道も知らない、つまり『苦』そのものを知らないことです。
それが『苦』であることを知らないから、『行』すなわち能動的な衝動というか形成せんとする意思というか、それが生じる。苦でなく好ましいことと思うから形成せんとする能動が生まれるのです。
それが五蘊を集合させ、感覚が生まれ、感覚の記憶が生まれ、記憶の反応としての思考が生まれ、思考が集まって観念となり、記憶の束・観念の束である『私』『自分という中心』が生まれる。

 

さて、
十二縁起は、無明⇒行⇒識⇒名色⇒六処⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死
ですが、
相応部経典『分別』に書かれているように、
『識』を眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識とすると
名色(五蘊の集まり・個人存在)そして六処(眼・耳・鼻・舌・身・意の感官)ができる前に
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識があることになり、矛盾するのです。

 

十二縁起を解読するうえで、最も難しいのは
②行 saṅkhāra
③識 viññāṇa
です。
行を行為、識を六識と解釈するのが、最も多いのですが、個人存在が生まれる前に六識も身口意の行為もあるわけがないのに、そこはどの解説書も触れないか、あるいは、行を前世の行為と解釈する人が多いです。
また無明を人類の原初的な生存欲求と解釈する人も多いのですが、前世の行為にしても人類が持つ原初的な欲求にしても滅することができない存在であり、『縁の滅によって解脱する』ことが不可能になってしまうのです。

また、有(bhava=生存)⇒生(jāti=生まれること)
も非常に難解です。
既に、名色という個人存在が生まれているのに、ずっと後になって、有⇒生 が出てきます。
名色と有と生の関係はどうなのでしょうか。

ですから、今まで、十二縁起を完全に解読した人はいません。
すべて表面的な、お茶を濁す程度の解釈しかないのです。

 

私には識が六識だとはどうしても考えられないのです。
感官器官の六処(六入)が生まれる前に六識があるのは絶対に矛盾します。

ただ、ブッダゴーサはこう言ってますね。
『識とは何か?仏陀は6種類の識がある、と言った。すなわち、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識である。
縁起を、三世輪廻の事として理解したい人は、(《清浄道論》までもがそういうのだが)識をば、結生識として解釈している。
そして、そのことによって、後期の論著もまた、識をば、結生識だと解釈している。
というのも、彼らは、6識を用いて、どのように三世輪廻を説明すればいいのか、分からないでいるからである。
これでは、本来の縁起が意味している事とは、全く別の事柄になってしまう。
仏陀の言う識は、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識である。
それなのに、我々は、識を結生識と解釈してしまっている。』


私としては、識は、六識でも結生識でもないような気がしていますが
どちらかといえば結生識に近いような解釈になると思います。

 

上のように書いていますが、『行』は能動的な働き=形成しようとする意志 だと考えています。

『識』は結生識に非常に似ていますが、もう少しそれ以前の、『一点を意識すること』、だと思っています。

個を形成しようとする意志=行 があり、それに縁りて『識』=一点を意識することが起きる と言う流れです。

一点を意識することによって、『名色』=個体が生じる。となります。

 

 

つまり、十二縁起とは、私の解釈によれば、この中心=自我が形成されて苦の集積へと押し流されていく過程を洞察するものです。

私たちは、どのようにして自我という中心を持ってしまったのか、そしてその有り様を洞察することによってでしか、中心を滅して、中心のない無量の大海は現れないのです。

 

 

『また、苦とは何でしょう。』

 

苦とは、滅していくものに自己同化して守るべき中心を持ってしまうことです。

中心を持つと意識は限定され、無量の意識から離れてしまいます。

これこそが、『苦』です。

 

 

つまり、十二縁起とは、無量心である意識の状態=涅槃 から如何に苦の集積へと転げ落ちたのか、という洞察です。

そして、それがそのまま、肉体を持ち感覚器官を持ち感覚を感じ経験し記憶の束を持った過程の洞察ですから、記憶の束をdeleteすることになります。

この洞察がないと、中心を滅することはできないですし、中心があれば限定が生じ、限定が生じれば欠乏感が生じ、欠乏感が生じれば欠乏の状況が作り出されてきます。

ですから、いますぐ、無量の方へ舵を切らなければいけないのです。

 

 

 

 

仏陀の言ったこと

遠佐 (126.77.139.124)    

ショーシャンク様 お書きになっているものから、いろいろ質問させてください。 まず、今までの仏教を全部白紙に戻して、仏陀の言ったことにもどる、というその仏陀の言ったこととは何ですか。それは、縁であり、その結実が十二縁起だといわれます。では縁とは何なのでしょうか。また、十二縁起で逆観により、行を滅すれば識を滅するといいますが、行とは何で識とはなにでしょうか。そして行を滅すると、識を滅すると現実的にどうなるのですか。また、苦とは何でしょう。私たちは戦争も知らないし、私は幸いにも大きな災害にもあっていません。ごく平凡な生活をしています。そのとき、苦といわれても、苦は欲望がもたらす、といわれても、現実感が伴いません。今までの言葉が非常に観念的に聞こえます。そういう人は仏教に縁がないとは思いません。釈迦は普遍的に人生は苦だといったのですよね。そして苦から解脱して涅槃に入る、と。涅槃が楽なのでしょうか。行も滅し、識も滅した、のっぺらぼうな涅槃とは楽なのですか。ドストエフスキーの小説が人間の深淵をえぐったような言葉で、苦を明らかにしてください。私はそういうものが現代の仏教に不足しているように思えて仕方ありません。
 
 
遠佐さん。
私はそういうものが現代の仏教に不足しているように思えて仕方ありません。
その通りだと思います。
現代の仏教、日本の仏教は、歴史上の仏陀の言ったこととはかけ離れています。
魂に響かないのです。
わたしにはどの仏教書も無意味なものに思えます。
もし、仏陀(ゴータマ・シッダッタ)の教えを仏教というのであれば、今は地球上のどこにも仏教はありません。埋もれてしまったのです。
 
仏陀は、苦の滅を求めて出家しました。
仏教の根本は四諦です。四諦は、苦集滅道、つまり、苦、苦の原因、苦の滅、苦の滅に至る道、の4つです。
つまりテーマはすべて『苦』です。
 
ところが、ほとんどすべての人は『一切皆苦』などとは思いもしません。
この世には快楽が満ち溢れています。
美味しいものを食べると幸福感がありますね。
異性とセックスするとき、強い快楽がありますね。
苦しい時もあるけど、それ以上に楽しいことがふんだんにあるのが人生です。
苦諦=苦の真理 が分かる人などいないのです。
自殺する人は苦しみが分かっていると思うでしょうけど、そうではありません。
自殺の原因は、病気、金銭問題、いじめ、失恋などですが、その原因がなくなれば苦はなくなります。病気が治る、お金がありあまるほどある、いじめがなくなる、好きな人といっしょになる、となれば、自殺を考えていた人もとたんに幸せになるでしょう。
とすると、仏陀が言った『一切皆苦』はあり得ないですね。
 
実際に、仏陀が言ったdukkha=苦 が人類には分からなかったから、仏教は捻じ曲がっていったと言えます。
仏陀が悟った時、『これは人に説いても無駄だ。わかるはずがない。』と考えて説かないでおこうとしました。
執着を楽しみ執着に歓喜している人たちに説いても無駄だと。
 
仏陀の言った『苦』はほとんどの人には理解できませんでした。
面白いことに、大乗仏典にも『衆生は苦を苦だと知らない』という言葉が出てきます。
 
『苦』に関して、そして『縁起』に関して、今の仏教なるものと、仏陀が説いたこととは全く違うということは、このブログに何度か書きました。
出来ればそれを見てください。
『十二縁起』に関しても書いています。
その上で、疑問に思うことがあれば、質問ください。
 
 
 

自己肯定感を取り戻す

id:Push_key  

ショーシャンクさんこんにちは。feel badな人からは逃げる。でも自分がfeel badな人になっているかもしれない、と思ってしまった場合、どうすれば良いでしょうか。なにがfeel goodなのかもわからないのです。人の目ばかりを気にしてしまいます。
 
 
 
Push keyさん、こんにちは。
『世界中の人から嫌われてもいいから、自分のfeel good に従おう』と決意した瞬間からその人の世界が変わり始めます。
Push keyさんだけでなく、すべての人が、人の目を気にし、人の目のほうを自分の感情より優先しています。
人の目は無数にあります。そして、一人の人でも、気分がコロコロ変わり、見方も評価もコロコロ変わります。ですから、人に好かれようとする努力は無駄なばかりか、壊滅的に神経をすり減らす結果になります。
そして、驚くべきことに、絶えず『人に嫌われたくない』と神経をすり減らしている人から人は遠ざかります。
むしろ、『人に嫌われてもいいから自分のfeel goodに従おう』とする人は、結果的には一定の人から好かれたりするのです。そのためにするわけではありませんが。
 
『人に嫌われてもいい』というのは、別に、人に対してツンケンするとか喧嘩をするとか無視するわけではありません。
笑顔で挨拶する、それだけはします。『こんにちは』『今日はいい天気ですね。』だけはとびっきり明るく元気よくして、それ以上に気は使わないことです。その人が自分のことを好きか嫌いかなどは全く気にかけないことです。それはその人の問題で、Push keyさんが考えることではありません。
 
相手にとって、自分がfeel badになっているかもしれないと思う必要はありません。そういうことを考えるのをやめて、自分が思って心地よいことを考えようとしてください。
たぶん、Push keyさんは、今まで、自分の感情を犠牲にして他人軸でばかり生きてきたのだと思います。それは危険です。
ずっと、自分の感情、自らの自己肯定感を損なってしまって、他人からの好意だけが自分の満足になってしまっているのだと思います。
 
まずは、他人を介在しないで自分が心地よいことを見つけるべきです。
それが命綱です。
他人から肯定されることだけを自分の満足にしてしまった結果、他人を介在しない自分だけで楽しめることがなくなっているのではありませんか?
音楽でも、絵でも、映像でも、本でも、何かを作ることでも、何でもいいですから、自分だけでできて楽しいと思えることを見つけてください。その『楽しい』感覚を大事にすることです。
 
他人の評価に神経をすり減らしていった結果、いかに自分の中の自己肯定感が損なわれ『楽しい』感覚が損なわれていったか、それに気が付いた瞬間、自らの身を守るためにも、『世界中の人から嫌われてもいいから、自分のfeel good に従おう』と決意できるはずです。
 
自分以外のすべての人が自分を嫌おうとも、自分が自分を肯定すればいいのです。
人は他人(親も含む)に褒められる行動ばかりしたがります。
他人に褒められない行動は無駄なことだと考えてしまいます。
しかし、その趣味を馬鹿にされても自分が楽しいと思えるものは貴重です。
そういうものを見つけて、その『楽しさ』の感覚を大事にすることです。
 
 

牛過窓櫺

たーぼー (126.247.102.162)  

ショーシャンクさん、こんばんは。 牛過窓櫺の一転語が今日の仕事中に浮かびました。 上四恩(国の恩、社会の恩、父母の恩、衆生の恩)に報いる為、三界(欲界色界無色界)の衆生を救う為に私は絶対的主体性を確立します。牛過窓櫺の公案の答えとしてどうでしょうか?というより、こういった公案の答えが正しいかどうかショーシャンクさんに聞く事自体が絶対的主体性ではない様な気がしますが(笑 そう考えると臨済宗の公案禅の師弟のやり取りの中で絶対的主体性が確立されるのかなと思ったりします。
 
 

三十八 牛過窓櫺

五祖曰く,譬えば水牯牛の窓櫺を過ぐるが如く,頭角四蹄都べて過ぎ了る,甚麼に因ってか尾巴過ぐることを得ざる。

無門曰く,若し者裏に向かって顛倒して,一隻眼を著得し,一転語を下し得ば,

以って上四恩に報じ,下三有を資くべし。

其れ或いは未だ然らずんば,更に須らく尾巴を照顧して始めて得べし。

 

頌に曰く,

過ぎ去れば抗塹に堕ち,回り来たれば却って壞る。

者些の尾巴子,直に是れ甚だ奇怪。

 

 

たーぼーさん、こんばんは。

水牯牛の尾巴とは何か、これに尽きますね。この公案は。

つまり、牛のしっぽとは何を表しているのか。

また、なぜ、この牛は、頭や体全部は牛小屋の窓から抜け出ているのに、しっぽだけ抜けてないのか。

しっぽの正体、如何。と言ったところでしょうか。禅臭く言えば。

 

この公案、実は百丈野狐の公案と全く同じことを言っています。

 

私は禅の門外漢ですから、あの禅のブログの人たちに、『水牯牛の尾巴とは何?』と聞いてみられたらいいですよ。どのように答えられるか、興味あります。

 

 

 

たーぼー (126.247.102.162)  

牛の尻尾とは世間の目だと思います。 私が見たという私が残ってしまうという所謂鑑覚の病と言われるものだと思います。
 
 
 
これは違うと思います。牛の尻尾とは世間の目ではありません。
牛の全体は格子窓を抜けて牛小屋の外にあったとしても、尻尾は牛小屋にあるのです。あらねばならないのです。
牛の尻尾は牛小屋にあって、牛小屋で自由自在、縦横無尽に働かないといけないのです。
 
 
 
 
たーぼー (126.247.102.162)  
>また、『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』、そして、『不昧因果とは因果に落ちることである』というなら、なぜ、『不昧因果』で大悟したとたん野狐の身を脱して野狐は死骸になったのか、を聞いてみてください。 因果だけがあってなるようにしかならないのであれば、そして、因果によって野狐に生まれたのであれば、野狐のまま楽しく生きていけばいいのではないのですか?なぜ、野狐は死んだのですか?なぜ、因果である野狐の身を脱したのでしょう? なぜ無門は『不昧不落 千錯萬錯』と言ったのでしょうか?これも聞いてみてください。
 これは私自身が過ぎ去れば塹壕に堕ちていたからですね。やっと分かった。愚さん=私だ。愚さんが引っかかっていた尻尾だから、ずっと反発していたんだ。 現象に振り回されて自分の足元を見れてませんでした。
 
 
 
牛の尻尾とは何かを探求してみてください。
形骸化した禅問答では、身体全体で尻尾が振られる真似をして認可を受けるかもしれません。
一度、禅の人に、牛の尻尾とは何かを聞いて見られたらいいですよ。
 
 
 
 
たーぼー (126.247.102.162)  
最近、物にも意識があるように感じるんです。 物が私の意識とリンクするように壊れたり直ったりします。 怖いです。 今日もトラックの仕事中に、トラックにバックモニターがあるんですけど、それが急に映らなくなって、その時に自分で内省して見ると、心の深い部分で過去のことを考える事をタブー(してはいけない事)視している事に気づいて、そのバックモニターが壊れた時に過去のことを考えていたんです。それで仏陀の掌を開いて石を見るようにそのタブーに気づいたらバックモニターが直りました。何度かトラックや携帯や色々な物体が私の意識とリンクしているように感じるようになって気味が悪いです。
 
 
 
それでいいと思いますよ。
仏陀も言っているように、ものごと=現象=環境 は、心にもとづき、影のように心につき従うのです。
現象は心の影です。
仏陀は『因果』などという言葉を使ったことはありませんが、それが『原因と結果』を表しているとすれば、仏陀が考えた原因とは、kamma(想いと想いに基づく言葉、想いの基づく身体の行為)であり、結果とはものごとであり現象であり環境です。
 
私は自分が経営する会社が倒産寸前だった時、会社の2億円の借金を全部返し蘇らせようと決意しました。周囲の誰からも倒産確実と思われていましたが、短期間のうちに奇跡的に復活して無借金となりました。
現象など、環境など、泡のようなものです。
心が主です。
決意こそすべてです。
何とでも変えられるのです。
 
『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』というようなことを言ってる人を見ると腹立ってきますね。
まあ、それもその人の人生ですから、そうやって、因果とやらの奴隷、運命の奴隷、環境の奴隷になって、ひたすら自分の悩みをなくすことだけに専念していたらいいと思いますよ。
 
しかし、自分が経営する会社には従業員が何百人もいる、資金繰りが行き詰ってる、倒産すると、代表である自分は連帯保証人なので無一文になるし、従業員とその家族は路頭に迷うし、取引先に大きな迷惑をかける、ひょっとするとその何社かは連鎖倒産するかもしれない、というような困窮した状況で、『因果だけがある。自分も自由意思もない。責任もないんだ。』と思い込めば罪悪感から解放され悩みはなくなったように感じるかもしれませんが、坐禅から起き上がると困窮した状況は何一つ変わっていません。ただの現実逃避です。
それで満足ならそれもその人の人生です。
 
 
 
たーぼー (126.247.102.162)  
ショーシャンクさんおはようございます。 ただ危ないなとも思っているんですよ。 今のトラック業界は飲酒に厳しくて、毎朝アルコール量を測る機械に息を吹いて飲酒検査するんですよ。 それで4日前くらいに私出ちゃったんです。 しかも0.5とか異常に高い値が出たんです。 前の晩確かに少し飲み過ぎたなという感じはあったのですが、こんな数値が出る量を飲んではいないんですよ。今の会社で出たのは2回目で前回は0.15でした。 半年前くらいだと思うんだけど、前回の方が量を飲んでいるんです。今までの経験からして、まぁ大丈夫だろうなという線だと思ったんですが、0.5でした。 それで仕事に遅れてしまうから、30分くらい水を1リットル飲んだりトイレに行ったり色々やったんですが、全然数値が下がらないんです。 数値も高すぎるし、おかしいなぁと思って内省したら自分の悟り臭さを心の奥の方で引っかかってるということに気づいたんです。それで仏陀の掌の上で石を見るように見て、もう一度測ったらなんと数値が0だったんです。びっくりして、ちょっと思考を出すとカルマに翻弄されて危ないなと思って、あまり思考を出さないようにと思っています。
 
 
たーぼーさん、こんにちは。
心が身体にそして身体の数値に作用するいい例ですね。
 
心が整ってきたら、環境も身体も徐々に整ってくるようになると思います。
身体にいいものがおいしく感じるようになります。
ジャンクフードからは徐々に遠ざかるようになりますし、タバコもこの十数年間やめて1本も吸ってません。酒も味わうというか嗜む程度というか、あまり飲まなくても、ほんの少量でとても美味しく楽しくなります。
 
私は自分で驚くほど取り柄のない人間ですが、たった2つだけ取り柄があります。
それは、食べ物に好き嫌いが全くなく何でも美味しく食べられること。
もうひとつは、食べ物は残さずに全部食べることです。
臨済も『食を思えば百味具足す』と言っています。
 
瞑想で精神が広がってよかったことは、クラシック音楽が心の底からわかるようになったことと、食べ物の好き嫌いが全くなくなったことです。
 
やはり、心と体は密接に関連してますね。
 
 
 

>何でも質問していいなら、この公案の牛の尻尾とは端的に言えば何だと思いますか?
>愚さんなら室内でどう答えますか?

室内のことは、さすがにオープンにできませんが・・・・
見方は、大悟徹底して、悟り臭さもなくなったとき、なにが残るか、ということですね。

拶所としては、
その牛はどこにいるか?
その牛をここに引き出せ
その牛いつの時代に生まれたか?
その牛、東に過ぎたか、西に過ぎたか?
牛、ソウレイを過ぎる
公案の全体
その牛、おすかめすか?
子を産んでみよ

一応難透になっていますが・・・・その境涯になるにはなかなか大変ですね

 
 
たーぼーさん、ブログ主さんに牛の尻尾とは何か聞いてくれたのですね。
うーん、しかし、牛のことしか答えてないですね。尻尾が出てきません。
牛は簡単なのです。十牛図にあるように、牛は悟りの当体で最もわかりやすいのですが、牛過窓櫺の公案が難透なのは、牛でなく牛の尻尾が何かということが難しいからです。
また、窓櫺の意味も人によって全く違います。
よくある解釈は、窓櫺は家の窓(格子戸)のことで、家の中から窓の外を見ていたら、通りを牛が通っている、牛の頭や角や体全体は右から左へ(または左から右へ)通り過ぎたけど、牛の尻尾だけは通り過ぎない、ということです。
これだと意味が全く分からない。
私は窓櫺は牛小屋の窓と考えていますが、その解釈は少数派だろうと思います。
ですから、禅の印可を受けた人に牛の尻尾の意味と窓櫺の意味を聞きたかったのですが。
 
 
 
 
 
 
 
 

まず我儘になること

人間はまず我儘になることが必要です。

自分の価値観や倫理観を押しつけてくる輩からは全速力で逃げてください。

そのような者に振り回されると、自らの主体を見失い、他人の言うがままの『いい人』になるだけです。

他人の目、他人の評価ばかり気にして、他人の言うことに神経をすり減らし続けると鬱病になるでしょう。

『いい人』にはなってはいけない。『いい人』になろうとしない、『いい人』に見られようとすることだけは絶対にしてはいけない。

わざと悪いことをしろということではなく、何より自らの『feel good』を最優先にするべきです。

 

特に、『それは自我だ』とか『それは我儘だ』とか非難してくる人は避けるべきです。その人は、あなたの鼻をつかんで自分の価値観に引き摺りこんで支配したいだけです。

そういう人には嫌われた方がいいのです。

 

すべての人間は強固な自我があります。徹底的に解脱しなおかつこの肉体から離れなければ、自我がなくなることは絶対にありません。

頭の上っ面で、『いろいろなものが集まっているだけだから自我なんてない。自分なんてない。無我だ。』と言ってる人は、自分の中の中心、そして激流が何も見えていないのです。

肉体を持ち、感覚を持ち、絶え間なく感覚の経験をし、経験の記憶を溜め続けていて、その中心から思考を出し、その思考がまた中心を形作る、それを私たちは瞬間瞬間休みなくしているのです。たとえ、1時間瞑想して思考をなくしても、日常生活に戻った瞬間、中心は現れます。

思考を持ち、わたしという中心がなければ、日常生活は絶対にできないからです。

無我だ、自分なんてない、全体だけがある、と口先ではいくらでも言えるでしょう。

しかし、例えば主婦が料理します。それは地球の裏側の見も知らない人に食べさせようとしてないですね。あくまでも『私』と『私の』家族のために料理を作っていますね。

夫が働いてお金を稼ぎます。そのお金を知らない人にばらまいたらどうなりますか。あくまでも、『私』と『私の』家族のために稼いでますね。

大勢の知らない人たちが断りもなしに自分の家に上がり込んできて冷蔵庫を勝手に開けて食べ始めても『自分などない。全体だけがある。』とすましていられますか。必死に自分の家を守ろうとしてそれらを排斥するでしょう。『私の』家が大事なのではないですか。

自分の肉体が車にぶつけられたら病院に行くでしょう。『私なんかない。肉体も自分ではない。』といってすましていることはできません。

 

いとも簡単に、『無我』だとか『自分はない』『全体だけ』と言っている人は、それらの現実をごまかしているだけです。

 

肉体を持ち、感覚を持っている限り、自我がなくなることはありません。

 

人生は、日常生活は、すべて『私』と『私のもの』で成り立っています。

『私』がないと、1日たりとも、生きることができません。

病院で自分の名前を呼ばれたら診察室に入っていくでしょう。これを『無我が本当だ。自分なんてない。どのような名前も自分ではない。』などと言って、名前を呼ばれても反応しなければまともに生活などできないですね。

 

要は、他人の目に引き摺られ、他人の評価に引き摺られて、自らの主体を失い、自らの『feel good』を損ない続けているから、心に大きな傷ができるのです。へこみができるのです。

その傷、そのへこみ、が強固な我塊となっているのです。

傷だらけになり、その傷がうずいて痛くて仕方ないのに、『私などない。無我が真理だ。無我であろう。』とし、その傷は自分ではない、だから傷を丸裸にして寒風にさらしその痛みを存分に味わおう、とするのは馬鹿げています。

 

その傷は、他人の評価に引き摺られ、主体を失い、他人軸で生きてきたから、自己重要感が傷つき悲鳴を上げているのです。

いますぐ、他人軸をやめ、他人が気に入るように行動することも止め、自らの『feel good』にだけ従わなければ危険です。

究極に我儘に生きることです。

 

誰が我儘と言って、仏陀ほど我儘で自分勝手な人はいないでしょう。

一国の国王の一人息子として生まれ、当然父の跡を継いで国王になる立場の人でした。しかし、結婚し息子が生まれたとたん、妻を捨て、生まれたばかりの息子を捨て、国王である父を捨て、家臣を捨て、領民を捨てて出家しました。

無責任極まりない。責任放棄もいいところです。

国王である父も、妻も、老臣たちも、必死に止めたはずです。『国の責任を放棄するのか』と忠告した人も多いでしょう。

しかし、仏陀は自らの『feel good』を選んだ。

後世の大乗仏教では、仏陀は衆生を救うために出家したとなっていますが、事実は違います。あくまでも、自らの苦を滅するために出家したのです。自分勝手ですね。

 

 

他に従属することはすべて苦しみであり

自由(主体性)はすべて楽しみである

                   (出典 Udana  Ⅱ,9)(中村元訳)

 

 

これは仏陀が言った言葉です。

 

パーリ語原典では

Sabbam   paravasam   dukkha.

Sabbam   issariyam   sukham.    

 

sabbam は『すべての』

paravasam は『他人の意志にたよる。追従する。従属する。』

dukkha は『苦しみ』

issariyam は『統治者の主権。支配管轄。』

sukham は『楽しみ』

 

パーリ語原典を直訳すると、次のような言葉となります。

 

他への従属はすべて苦しみであり、主体の確立はすべて楽しみである。

 

今までの仏教のイメージからは程遠い言葉です。

日本仏教の『わたしたちはすべて他の存在によって生かされているの。他の存在がなければ自分なんか存在しない。あらゆるものの関係性によっている。それを縁起というの。人は皆、縁起によって生かされている。ありがたいありがたい。』という言説とは、真逆のように感じます。

どちらが仏陀の真意でしょうか。

仏陀は、王族の皇太子、ひとり息子でした。妻との間には生まれたばかりの息子がいました。しかし、妻を捨て、生まれたばかりの子供を捨て、王である父を捨て、継ぐべき王位を捨て、家臣を捨て、領民を捨て、宮殿を捨てて、一介の修行者となりました。

これは、王である父親が最も怖れていたことでした。しかし、すべてを捨ててしまいました。国の統治者となるべき責任を放棄しました。父親としての責任、夫としての責任もすべて放棄しました。仏陀の弟子たちもそうでした。家族などすべての関係性を断ち切って出家しました。子孫が絶えるということで、両親が子孫を残してくれと泣いて頼んだために捨てた妻と性交した弟子を仏陀はサンガから追い出しました。

すべての関係性に何の価値も見出さなかったのです。自由への希求こそ、仏陀が望んだことでした。すべての関係性を捨てた人の教えが日本ではなぜか『あらゆるものの関係性によって生かされている』ということに変化していきました。

仏陀が選んだ出家とはあらゆる関係性をすべて断ち切ることでした。仏陀の弟子たちもそうしてきました。捨てられた、王である父親、妻であるヤショーダラー、息子であるラーフラはそれはショックだったはずです。

あらゆる関係性を断ち切り、自分の弟子にも関係性を断ち切らせた人が、『あらゆるものの関係性によって生かされている。ありがたいありがたい。』というような教えを説くはずがありません。もしそんなことを説いたらヤショーダラーは『どの口が言ってる?』と怒るでしょうね。実際、原始仏典には関係性によって生かされているという言説はありません。むしろ『愛する人をつくるな』と説きます。

 

さきほど、『日本ではなぜかあらゆるものの関係性によって生かされていると変化した』と書きましたが、龍樹から縁起の意味が仏陀とは変化したからです。

 

『他に従属することはすべて苦しみであり、自由(主体性)はすべて楽しみである』

これが仏陀が言ったことなのです。

 

 

 

 

 

野狐の身を脱したのはなぜ?

たーぼー (126.35.157.250)  

ショーシャンクさん、こんばんは。 下の投稿は例のクリッシュナムルティ 禅ブログに私が書いた文章なんですが、これって牛過の公案の答えとしてどうですか? 大乗の修行は「おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとむなり」であって、そのため「煩悩をわざわざとどめて生をうるおす」いかにも人間的であらねばならない。根っから単調で曲線のないようなのはダメじゃ これは曹洞宗の有名な禅僧である澤木興道老師の言葉ですけど、そもそも大乗仏教の道を選ぶのは究極の主体的な意思なんですよ。「おのれ未だ渡らざる先に、一切衆生をわたさんと発願し」この発願こそが究極の主体性でなければいけないんです。 人に流されてとか、環境に流されてとか、過去の記憶に影響を受けてとかじゃなくて、自らが作っているこの虚仮の世で一切衆生を先に渡すという非常に奥が深い救済意思でなければいけないんです
 
 
たーぼーさん、おはようございます。
主体的な意志こそすべてです。発願は大きければ大きいほどいいですね。本質は無量心ですから。発願も無量であるべきですね。
私は、大乗でも小乗でもなく(ここでわかりやすいように小乗という言葉を使っていますが、いまは仏教界の人で小乗という言葉を使う人はいないです。上座部仏教ということが多いですが、本当に正確にいうなら部派仏教でしょう)、大乗仏教も部派仏教も本当の仏陀の真意を伝えていないというところから始めています。
ですから、私は、大乗仏教の『おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生を渡さん』という発願を用いることはないですが、この発願が自分の心に強く響いてくる人はどんどん発願すればいいと思います。
牛過窓櫺の答えとしてはかなりいい線だと思います。
牛過窓櫺の公案も百丈野狐の公案も、指し示すところは全く一緒なのです。
 
そもそも、『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』というような人が、『随処に主となれば、立処皆な真なり』の臨済禅を語っているのに違和感があります。親鸞の他力信心のほうがぴったりくる気がします。
臨済禅をやっていてどうして『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』となるのかが不思議です。
 
今度、『随処に主となれば、立処皆な真なり』の言葉をどう解釈するのか聞いてみてください。
 
また、『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』、そして、『不昧因果とは因果に落ちることである』というなら、なぜ、『不昧因果』で大悟したとたん野狐の身を脱して野狐は死骸になったのか、を聞いてみてください。
因果だけがあってなるようにしかならないのであれば、そして、因果によって野狐に生まれたのであれば、野狐のまま楽しく生きていけばいいのではないのですか?なぜ、野狐は死んだのですか?なぜ、因果である野狐の身を脱したのでしょう?
 
なぜ無門は『不昧不落 千錯萬錯』と言ったのでしょうか?これも聞いてみてください。
 
 
 
 

音楽 経典 公案

音楽と経典と公案、これに共通するものは何でしょうか。

わたしの体験では、これらのものは、その人の精神レベルというか悟りのレベルがわかるものだと思っています。

例えば、クラシック音楽をいくらわかろうとして何百回聴いても、わかるレベルにないときは絶対にわからない。特にマーラーなどの難解といわれている曲は。

経典、例えば法華経も、わからないときはどんなことをしてもわからない。

白隠は若いときに法華経を読んで、『こんなたとえ話だけのもの。講談本を読むのと変わらない。』と言って放り出しました。

しかし、悟った後、法華経を読み返してみたらその意味が手に取るようにわかって号泣したといいます。

公案もそうです。禅の門外漢でも、仏陀の真意がわかるようになってきて、なにげに公案を見てみると、これが手に取るようにわかってくる。牛過窓櫺の公案なんて、全く馬鹿馬鹿しいと思っていましたが、いま読んでみると有り難くて泣けてきます。なぜこれがわからなかったんだろうと言う感じです。

し者裏に向かって顛倒して,一隻眼を著得し,一転語を下し得ば,以って上四恩に報じ,下三有を資くべし。其れ或いは未だ然らずんば,更に須らく尾巴を照顧して始めて得べし。

頌に曰く,過ぎ去れば抗塹に堕ち,回り来たれば却って壞る。

者些の尾巴子,直に是れ甚だ奇怪。

 

この無門の言葉が魂に響いてきます。

 

マーラーの交響曲でも、法華経でも、牛過窓櫺の公案でも、それをわかろうとしていくら探求してもわからない。

だけど、その人がある一定のところに触れると、わかろうとあがかなくても自然と魂の底からわかってくる。

公案というのは、その人の悟りのレベルをはかるのに最もわかりやすいものなのかもしれません。

 

いくら理屈を詰め込んでも、自分でいくら『私は悟ってる』『私は目覚めている』と他の人のところまで行って触れ回っても、そんなことは無駄なことです。

また、いくらマーラーを聴いても、法華経を読んでも、公案を考えても、悟ることはできません。

ただ、精神が広がれば、自然と音楽も経典も公案もわかってくるのだと思います。

逆に言えば、音楽もわからず、経典の深い意味も分からず、公案もわからなければ、その人の精神は広がっていないということです。いくら、自分が悟っていると触れ回っても、そう思い込んでいるだけ、これらのはかりで見ればいいのです。

 

 

随処作主立処皆真

『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』というのであれば、

臨済禅の公案よりは、クリシュナムルティ、ノンデュアリティ、親鸞の他力本願のほうが合ってると思います。

禅であれば道元禅のほうが合ってるでしょうね。

 

臨済は

『随処に主と作れば、立所皆な真なり』

『若し能く是の如く弁得せば、境に転ぜられず、処処に境を用いん。

 東湧西没、南湧北没、中湧辺没、辺湧中没、

 水を履むこと地の如く、地を履むこと水の如くならん。

 何に縁ってか此の如くなる。

 四大の如夢如幻に達するが為の故なり。

 道流、汝が祇だ今聴法するは、是れ汝が四大にあらずして、能く汝が四大を用う。

若し能く是の如く見得せば、便乃ち去住自由ならん』             

『大器の者の如きは、直に人惑を受けざらんことを要す』

『若し他をして荘厳せしむれば、一切の物を即ち荘厳し得ん』

『我れ見るに、諸法は空相にして変ずれば即ち有、変ぜざれば即ち無。

三界唯心、万法唯識なり。

所以に夢幻空花、何ぞ把握を労せん。』

『唯だ道流、目前現今聴法底の人のみ有って、火に入って焼けず、水に入って溺れず、

三途地獄に入るも、

園観に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入って 而も報を受けず。』

 

というように、だれよりも、主体性を説いた人です。

なにせ、『随処に主と作れば、立所皆な真なり』なのですから。

どこでも主体であればすべて真だ、というくらいです。

 

公案禅は、臨済禅の流れでできたもので

禅問答の要訣は

外境や人惑や師匠の言説について回らずに

いかに主体を示すことができるか、にあります。

今の臨済禅、公案禅はその物真似で

喝 をしたり礼拝したり平手打ちしたりと形骸化していますが。

 

 

『因果だけがあって、自由意思はない、なるようにしかならないのだ。』

というのであれば、

例えば、『百丈野狐』の公案ならば

『500回野狐の身に生まれても

これは因果でなるようにしかならないものだ。

あるがまま、野狐の身のまま、自由に楽しもう。

これが本当の悟りの境地だ。』

こういうふうに解釈するのでしょうね。

実際にそう書いていた人もいました。

『不昧因果』とは因果に落ちることだと言ってる人もいました。

 

しかし、本当にそんなものが悟りであれば

野狐になった僧が大悟したとたん野狐の身から脱するわけはないですね。

大悟してすぐ野狐は死骸になりました。

因果によって野狐の身のままあるがままでいいのであれば

その因果を背負ってさらに何度も野狐の身に生まれ変わりして

野狐の身のまま楽しむはずですが、実際には即時に野狐の身を脱しています。

これをどう説明するのでしょう。

不昧因果が因果に落ちることであれば

『不昧因果』を聞いて大悟した野狐は

因果に落ちたままそのままあるがままでいいのではないですか。

 

無門は言いました。

不昧不落 千錯万錯

『不昧』も『不落』も、千の誤り、万の誤りだ。

『不昧』も『不落』も、どちらも大間違いだ。と。

 

この無門の言葉をどう解釈するのでしょうね。

 

 

 

 

 

 

百丈野狐

たーぼーさんに教えられて初めて、『クリシュナムルティ ボーム ほか』というブログを見るようになりましたが、このブログ主は面白いですね。なかなか魅力的です。

 

このブログに『不落因果 不昧因果』つまり百丈野狐の公案がありましたので、私なりの解釈をしてみます。もちろん、私は禅の門外漢なので遊びとして。

 

 

百丈野狐
    
百丈和尚、凡參次、有一老人常隨衆聽法。衆人退、老人亦退。忽一日不退。

師遂問、面前立者復是何人。老人云、諾。某甲非人也。於過去迦葉佛時曾住此山。因學人問、大修行底人還落因果也無。某甲對云、不落因果。五百生墮野狐身。今請、和尚代一轉語貴脱野狐。遂問、大修行底人、還落因果也無。

師云、不昧因果。老人於言下大悟。

作禮云、某甲、已脱野狐身住在山後。敢告和尚。乞、依亡僧事例。師、令維那白槌告衆、食後送亡僧。大衆言議、一衆皆安、涅槃堂又無人病。何故如是。食後只見師領衆至山後嵒下、以杖挑出一死野狐、乃依火葬。

師、至晩上堂、擧前因縁。黄蘗便問、古人錯祗對一轉語、墮五百生野狐身、轉轉不錯合作箇甚麼。師云、近前來與伊道。黄蘗遂近前、與師一掌。師拍手笑云、將謂、胡鬚赤。更有赤鬚胡。


無門曰、不落因果、爲甚墮野狐。不昧因果、爲甚脱野狐。若向者裏著得一隻眼、便知得前百丈贏得風流五百生。
   
    頌曰
  不落不昧 兩采一賽
  不昧不落 千錯萬錯

 

 

 

(読み下し文)

百丈和尚、凡そ参の次で、一老人有って常に衆に随って法を聴く。衆人退けば老人も亦た退く。忽ち一日退かず。

師遂に問う「面前に立つ者は復た是れ何人ぞ」老人云く、「諾、某甲は非人なり。過去、迦葉仏の時に於いて曾つて此の山に住す。因みに学人問う、大修行底の人還って因果に落ちるや。某甲対えて云く「因果に落ちず」。五百生野狐身に堕す。
今請う、和尚一転語を代わって貴えに野狐を脱せしめよ」と。遂に問う「大修行底の人、還って因果に落つるや」。

師云く「因果を昧さず」。
老人言下に大悟し、作礼して云く「某甲、已に野狐身を脱して山後に住在す。敢て和尚に告ぐ、乞うらくは、亡僧の事例に依れ」。
師、維那をして白槌して衆に告げしむ、「食後に亡僧を送らん」と。大衆言議すらく「一衆皆な安し、涅槃堂に又た人の病む無し。何が故ぞ是くの如くなる」と。
食後に只だ師の衆を領して山後の嵒下に至って、杖を以て一死野狐を挑出し、乃ち火葬に依らしむるを見る。師、晩に至って上堂、前の因縁を挙す。
黄蘗便ち問う、「古人錯って一転語を祗対し、五百生野狐身に堕す。転々錯らざれば合に箇の甚麼か作るべき」。師云く「近前来、伊が与めに道わん」。黄蘗遂に近前して、師に一掌を与う。師、手を拍って笑って云く、「将に謂えり胡鬚赤と。更に赤鬚胡有り」
   
無門曰く「不落因果、甚と為てか野狐に堕す。不昧因果、甚と為てか野狐を脱す。若し者裏に向って一隻眼を著得せば、便ち前百丈の風流五百生を贏ち得たることを知り得ん」。
   
頌に曰く
不落と不昧と、両采一賽。
不昧と不落と、千錯万錯。

 

 

わたしたち、迷いの衆生は、『落因果』つまり因果に落ちていて、果であるこの現象界であがいています。色の世界です。

その人たちにとって、この現象界は、鋼鉄のように強固なものです。

因果の世界にがんじがらめになっていて、『因果だからこうなるしかなかった』というような、環境や現象に支配されている、主体のない生き方です。

 

『不落因果』、因果に落ちない、というのは空の境地です。

十牛図で言えば、第八図 人牛倶忘 です。まんまるの円、空っぽです。

そこは現象世界も全くない、広々とした空間です。真空そのままです。

 

『不昧因果』、因果をくらまさない、というのは、十牛図で言えば、第九図と第十図です。真空妙有と真空妙用です。

無量心の現れと働きです。

果であるこの現象に主体的に働きかけることです。

自らを因として創造していくことです。

 

因果にとらわれ、因果の果である現象を堅固なものだと錯覚し、環境に支配されている生き方が、『因果に落ちる』迷いの衆生。

 

因果を超越したと思い込み、果である現象を無視して、悟りすまして、空の境地に浸ってるのが、『因果に落ちず』。

 

無量の境地にいながら、因果の果である現象を無視せず、誤魔化さず、現象に主体的に働きかけるのが『因果をくらまさず』。

 

この老人は、現象、現実から遊離した『空の悟り』を本当の悟りと思い込んでいて学人にもそんな生悟りを教えてしまった。

そのために500回も野狐に生まれ変わった。

自らが創造の主体であることがわからなかった。

しかし、百丈の『不昧因果』によって、自らの悟りが空一辺倒の生悟りにしか過ぎなく何の役にも立たないものであるとわかり、自らの主体を本当に悟り、野狐の身から脱した。

だから老人は『死んだ僧を弔う様式で葬儀をしてください』と頼んだのです。

百丈もその弔い方にふさわしいと判断してそうしたのです。

 

黄檗は、それを百も承知で、師の百丈に対して『あの老人が答えを誤らなかったらどうなっていたんですか?』と聞きます。

百丈は『近くに来い。教えてやろう。』と言います。

黄檗は百丈に近づいて、師である百丈の顔を平手打ちします。黄檗が主体を示したということです。主体の働きを示したのです。

 

  頌曰
  不落不昧 兩采一賽
  不昧不落 千錯萬錯

 

『不落』と『不昧』とは、コースの中の2つの料理、一つのサイコロの違う面であり、同じ類いのもの、似たようなものだ。

『不昧』も『不落』も、どちらも大間違いだ。

弟子の黄檗が師の百丈に平手打ちしたその働きからすると、千錯萬錯だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

自由意思が因

たーぼー (126.199.36.22)  

>人生の時間は限られていますので、feel bad な人と不毛なやりとりをしているうちに>タイムアウトになってしまいます。
ショーシャンクさんこんばんは。 全くその通りですね。 つい、因果だけあって自由意思はないなんて言う事を自分一人だけで思っているならいいんですが、人に講義で教えていたりすると、ちょっと貴方責任持てるのかと言いに行きたくなってしまいます。 自分一人だけならどんな信条でもいいんですよ。 こんな事、人に講義で教えていいのかと熱くなってしまいました。 まぁ八万四千の法門でしたっけ?色々あるなぁと思いました。
 
 
 
 
 
まず言っておけないといけないのは、歴史上の仏陀(ゴータマ・シッダッタ)が説いたことと、今の仏教と言われているもの(大乗仏教、上座部仏教、問わず)は、全く違うものだと言うことです。
 『縁起』も『空』も『因果』も、いま仏教と言われているものの意味とは全く違います。
 
 
 
 
『縁起』

仏陀の説いた縁起とは、苦の縁って起こる原因のことです。


これあればかれがあり、これが生じればかれが生じ
これがなければかれなく、これが滅すればかれが滅す

 

この四つの定理を使って、仏陀は、苦の原因を究明していきました。

 何故でしょうか。それは、その4つの定理に厳密に当てはまるものが見つかれば

それを滅することにより苦が滅すると考えたからです。

苦の消滅を目指して出家した仏陀は、
これあれば苦があり これが生じれば苦が生じ
これがなければ苦がなく これが滅すれば苦が滅す
というものを徹底的に洞察していったのです。
それが縁起です。

そして、その完成形が十二縁起です。

ゆえに、原始仏典に仏陀が説いている縁起の法は十二縁起を完成形とし五支縁起などの省略形はありながらもすべて『苦の縁って起こる原因』のことです。

 

 

 

 

『空』

仏教の根本教理と見なされ最も重要視されている【空】ですが、
歴史上の仏陀はほとんど説いていません。

 最古層の仏典『スッタニパータ』で【空】が説かれているのは
【つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を〈死の王〉は見ることがない。】の箇所くらいです。

いかに仏陀は【空】を説かなかったか、です。

 

さて、それでは、仏陀がスッタニパータで説いた【世界を空なりと観ぜよ】の【空】とはどういう意味でしょうか。

それを解明するには、『ダンマパダ』の

【世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。】の言葉が参考になります。

 ほとんど同じことを説いているからです。

さらに【この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであるとさとったならば、死王の見られないところに行くであろう。】とあります。

仏陀は、泡沫やかげろうをはかないという例えで使っているのです。

つまり、歴史上の仏陀が【空】というときは、

【泡沫のように生じては滅するはかないもの】と言う意味です。
非常に単純明快ですね。

仏陀が『空』と言う言葉を使うとき、それにはいかなる形而上学的な意味合いもなく観念的なものでもありませんでした。

『生じれば滅するはかないもの』と言う意味でしかありません。


『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』というのは、遙か後世に龍樹が現れて勝手に創り上げた教理です。これが、仏教の根本教理とされていきました。

しかし、歴史上の仏陀が『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』と説いている原始仏典はありません。

 

 

 

『因果』『因縁』『業』『カルマ』

因縁、因果、業、カルマとか言う言葉ほど誤解されている言葉はないですね。

『すべては因縁因果で成り立っているのだから自由意志はない。』などということを仏教の真理だと考えている人もいるようです。

仏陀がそういうことを言ったことは一切ありません。

仏陀が言ったkamma(業・カルマ)とは、行為、行ないのことです。

行為、行ないと言っても、私たちが思う身体的な行為だけではなく、身口意の行為のことです。

つまり、心の想い、口から出る言葉、身体的な行為 のことです。

 

仏陀は

生まれによって、バラモンとなるのではない。

 生まれによって、バラモンならざる者となるのでもない。

 行為によって、バラモンなのである。

 行為によって、バラモンならざる者なのである。」
                        (『スッタニパータ』650』)

と言いました。

身口意の行為をすることは自由意志です。

つまり、身口意の行為=カルマ をすることは自由意志なのです。

仏陀は、生まれや環境や能力によってバラモンになるのではない、と言っているのです。

真理を行なおうとする意思によってバラモンになると言っているのです。

因縁因果によって成り立っているから自由意思がないなどと言ったことはなく、

仏陀は、kamma=身口意の行為 が 因 となりその 果 として ものごとが作り出されると言ったのです。

つまり、自由意思が因であり、ものごとや環境が果なのです。

 

『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。――影がそのからだから離れないように。』

                           『ダンマパダ』

 

 

昭和時代の物理学のように、すべては意志なしで物理的に確定しているというがんじがらめの考えから抜け出ない人もいるようですが、科学や物理学でさえもうどんどん、そのようなことは過去のものになっていっています。客観的な現実というものは、人間が観測するまでは存在しない、この世を構成する粒子は観測者の意志で変化する、とまでに現代の物理学は進化して行っています。最近この「現実は存在しない」ことについての論文を発表したグリフィス大学のジョーン・ヴァカロ教授は、「ひとりひとりが、その人だけの現実を持っている」としていて、そして、その現実は、観測により変化していくとしています。

 

 

もともとの仏陀の教えは、『無常であり苦であるものを、わたし、わたしのもの、わたしの本体と言っていいであろうか?』というもので、明らかに『諸法非我』なのですが、それが『わたしという本体はない、わたしという実体はない、わたしという主体はない』という『諸法無我』に捻じ曲げられていきました。そこには、自分たちの教えは、今までのバラモン教の教えとは全く違う優れたものだ、今までの教えを全否定するものだという、優越性、排斥性が強まっていったことも大きく関連します。アートマンの否定です。アートマンとは存在の根源というのが本来の意味ですが、それを個別の霊魂という意味に解して否定していきました。

このことによって、自己の否定、主体の否定へと仏教は大きく傾いていきました。

灰身滅智の思想です。

仏陀の教えはそんなものではない、大いなるものを説いたのだ、と主張して、新たに経典を作っていったのが大乗仏教運動です。

しかし、その大乗仏教の運動も、『縁起だから自性がない、実体がない、無我である、空である』というように主体の否定に傾いていきました。

 

仏陀が本当に言おうとしたのは、自らが因なのだ、ということ。自らが、自らの想い、想いに基づく言葉、想いに基づく身体的な行為(つまり、kamma=身口意の行為)によって、こころによって、ものごとを作り出しているのだ、バラモンにでもなれるのだ、ということでした。

 

自らが創造の主体である、ということです。自らがものごとの因であるということです。

生まれによって、バラモンとなるのではない。

 生まれによって、バラモンならざる者となるのでもない。

 行為によって、バラモンなのである。

 行為によって、バラモンならざる者なのである。」
                        (『スッタニパータ』650』)

 

 

『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。――影がそのからだから離れないように。』

                           『ダンマパダ』

 

 

仏陀は、生まれや環境や能力によってバラモンになるのではない、と言っているのです。

真理を行なおうとする意思によってバラモンになると言っているのです。

 

『因縁因果によって、遺伝子や環境や能力が決まっていてそうならざるを得なかったのだから自由意思はなく、その人の責任ではない。なるようにしかならなかったのだ。』というような薄っぺらい運命論とは、真逆、正反対です。

無我や因縁因果を誤解して、自らを意志のない運命の操り人形と考えるのは非常に愚かしいことです。

それは、古臭い物理法則であり、唯物論にしか過ぎません。条件づけられた脳が外部に反応して信号を出すだけなので自由意思はない、自分はない、自己はない、責任はない、ということを信じ込んで生きれば、どんな悪いことをしても、何人殺そうと罪悪感に苦しめられることはないでしょう。しかし、それは、誤った唯物論から来る虚無思想です。もっとも怖れなければいけない暗黒思想です。

人間の精神こそ創造の主体だということから最も離れています。

大いなるもの、無量なるもの、が現れません。

 

 

それでは、私の言う『自由意思』『自由意志』とは何でしょうか。

私は、外部(環境)からの刺激に、無意識的、自動的に反応するのでなく

『意識的にこの想念を出そうとする』ことと考えています。

つまり、『外界という他によるもの』ではなく

自らが主体的にこういう想いを出そうとして出す想念のことです。

 

他動的な想いをいかに排除していくか、です。

他動的な想いとは、特に自分がどう見られているかをメインに考えて反応してしまうことや、自分の中の『へこみ』が自動的に感情的に反応してしまうこと、です。

このためには、常日頃から、感情の痛みの記憶の束をdeleteする作業が必要です。慚愧とか懺悔とか言われているものです。

残念ながら、今の仏教には感情的な記憶の束をdeleteする方法がありません。

『気づき』『目覚めていること』『観察すること』ばかりです。

出てくる想念に気づいて、ただ観察する手法だけが一人歩きしています。

思考をどんどんなくしていく手法だけです。

しかし、この手法でうまくいくとは全く思いません。

なぜなら、思考は日常生活でなくてはならないものだからです。

思考がなければ、赤信号で止まることもなく事故に遭ってしまうでしょう。

思考をフルに働かせなくては、ごく単純作業を除いてはどのような仕事もできませんし、社会でちゃんと稼いでいくことなどできないでしょう。退職した人など社会との関わりを持たない人はいいかもしれませんが。

掲示板で、『私はいつも目覚めている』『私はすべての想念に気づいている』と言っている人がいましたが、その人は、あちこちの他人の掲示板を覗いてはわざわざその人のスレッドに押しかけては文句を言ったりすることが非常に多かったです。感情的な反応も普通の人より多かったです。『私はいつも目覚めている』『私はすべての想念に気づいている』と口で言っていましたがそれが行ないに何もあらわれていませんでした。

ですから、私は、『いつも気づいている』とかいう手法が本当に有効なのか疑問に思っています。

 

実際に、瞬間瞬間涌いて出てくる想念にいくら気づいていても、その想念が出てくる『臭いの元』を洞察しdeleteしなければ、臭いはそこから次々と出てきます。

部屋の真ん中に、生ゴミを入れた箱を置いておいて、そこから出てくる臭いにいかに気づいてその都度うちわで払っても、その元の箱を取り除かない限り、ずっと臭いは出てきます。

その生ゴミの箱を取り除く方法が、十二縁起であり四念処であり七覚支です。

それに伴う懺悔であり慚愧です。

こころのなかの『へこみ』の成り立ちを洞察することです。

『へこみ』こそが自我だから。

 

 

feel good だけに従う

遠佐 (126.77.139.124)    

マニカナに戻ってエム先生と議論してください。ずっと読んできました。仏陀の論議のはずが、親鸞に行ってまだ戻っていません。春間さんはほっておけばいいのです。期待しています。
 
 
遠佐さん、ありがとうございます。
初めまして、ですかね?
春間さんのことは別に気にしていません。
春間さんは春間さんで本を読み信念を持って投稿されていると思いますし、やり取りして面白いときもたまにですがありますので。
 
私は、2020年から特に決めていることがありまして、
それは『feel good なことだけをする』『feel good な人とだけ付き合う』です。
それができるだけの自由は手に入れましたので、なるべくそうしようと思っています。
いま、feel good でなくてもしているのは、歯医者に行くことくらいです。
高校の同級生が歯医者ですのでずっとそこに行っていたのですが、そこはインプラントをしてなくて仕方なく今は別の歯医者に行っています。
歯は大事ですのでこれはしなくてはなりませんが、その他でしなくていいことは、feel good である時に限りしようと決めています。
 
人生の時間は限られていますので、feel bad な人と不毛なやりとりをしているうちにタイムアウトになってしまいます。
feel bad な人からは全速力で逃げること、その人に費やす時間を全部なくすこと、これが私の決めていることです。
 
マニカナの石飛先生は大学教授でいい本も何冊も出されていて、お忙しいにもかかわらずどんな投稿にもきちんと答えていただいていて真摯な方だなと尊敬しています。最近はスッタニパータを特に研究されていて、学びたいことは山ほどあるので、遠佐さんがここまで来てそうおっしゃっていただいてることもあり、また、学びに伺いたいと思います。今まではfeel good でしたので。
 
遠佐さん、わざわざ私のブログまで来てマニカナへのお誘いありがとうございました。