自己肯定感を取り戻す

id:Push_key  

ショーシャンクさんこんにちは。feel badな人からは逃げる。でも自分がfeel badな人になっているかもしれない、と思ってしまった場合、どうすれば良いでしょうか。なにがfeel goodなのかもわからないのです。人の目ばかりを気にしてしまいます。
 
 
 
Push keyさん、こんにちは。
『世界中の人から嫌われてもいいから、自分のfeel good に従おう』と決意した瞬間からその人の世界が変わり始めます。
Push keyさんだけでなく、すべての人が、人の目を気にし、人の目のほうを自分の感情より優先しています。
人の目は無数にあります。そして、一人の人でも、気分がコロコロ変わり、見方も評価もコロコロ変わります。ですから、人に好かれようとする努力は無駄なばかりか、壊滅的に神経をすり減らす結果になります。
そして、驚くべきことに、絶えず『人に嫌われたくない』と神経をすり減らしている人から人は遠ざかります。
むしろ、『人に嫌われてもいいから自分のfeel goodに従おう』とする人は、結果的には一定の人から好かれたりするのです。そのためにするわけではありませんが。
 
『人に嫌われてもいい』というのは、別に、人に対してツンケンするとか喧嘩をするとか無視するわけではありません。
笑顔で挨拶する、それだけはします。『こんにちは』『今日はいい天気ですね。』だけはとびっきり明るく元気よくして、それ以上に気は使わないことです。その人が自分のことを好きか嫌いかなどは全く気にかけないことです。それはその人の問題で、Push keyさんが考えることではありません。
 
相手にとって、自分がfeel badになっているかもしれないと思う必要はありません。そういうことを考えるのをやめて、自分が思って心地よいことを考えようとしてください。
たぶん、Push keyさんは、今まで、自分の感情を犠牲にして他人軸でばかり生きてきたのだと思います。それは危険です。
ずっと、自分の感情、自らの自己肯定感を損なってしまって、他人からの好意だけが自分の満足になってしまっているのだと思います。
 
まずは、他人を介在しないで自分が心地よいことを見つけるべきです。
それが命綱です。
他人から肯定されることだけを自分の満足にしてしまった結果、他人を介在しない自分だけで楽しめることがなくなっているのではありませんか?
音楽でも、絵でも、映像でも、本でも、何かを作ることでも、何でもいいですから、自分だけでできて楽しいと思えることを見つけてください。その『楽しい』感覚を大事にすることです。
 
他人の評価に神経をすり減らしていった結果、いかに自分の中の自己肯定感が損なわれ『楽しい』感覚が損なわれていったか、それに気が付いた瞬間、自らの身を守るためにも、『世界中の人から嫌われてもいいから、自分のfeel good に従おう』と決意できるはずです。
 
自分以外のすべての人が自分を嫌おうとも、自分が自分を肯定すればいいのです。
人は他人(親も含む)に褒められる行動ばかりしたがります。
他人に褒められない行動は無駄なことだと考えてしまいます。
しかし、その趣味を馬鹿にされても自分が楽しいと思えるものは貴重です。
そういうものを見つけて、その『楽しさ』の感覚を大事にすることです。
 
 

牛過窓櫺

たーぼー (126.247.102.162)  

ショーシャンクさん、こんばんは。 牛過窓櫺の一転語が今日の仕事中に浮かびました。 上四恩(国の恩、社会の恩、父母の恩、衆生の恩)に報いる為、三界(欲界色界無色界)の衆生を救う為に私は絶対的主体性を確立します。牛過窓櫺の公案の答えとしてどうでしょうか?というより、こういった公案の答えが正しいかどうかショーシャンクさんに聞く事自体が絶対的主体性ではない様な気がしますが(笑 そう考えると臨済宗の公案禅の師弟のやり取りの中で絶対的主体性が確立されるのかなと思ったりします。
 
 

三十八 牛過窓櫺

五祖曰く,譬えば水牯牛の窓櫺を過ぐるが如く,頭角四蹄都べて過ぎ了る,甚麼に因ってか尾巴過ぐることを得ざる。

無門曰く,若し者裏に向かって顛倒して,一隻眼を著得し,一転語を下し得ば,

以って上四恩に報じ,下三有を資くべし。

其れ或いは未だ然らずんば,更に須らく尾巴を照顧して始めて得べし。

 

頌に曰く,

過ぎ去れば抗塹に堕ち,回り来たれば却って壞る。

者些の尾巴子,直に是れ甚だ奇怪。

 

 

たーぼーさん、こんばんは。

水牯牛の尾巴とは何か、これに尽きますね。この公案は。

つまり、牛のしっぽとは何を表しているのか。

また、なぜ、この牛は、頭や体全部は牛小屋の窓から抜け出ているのに、しっぽだけ抜けてないのか。

しっぽの正体、如何。と言ったところでしょうか。禅臭く言えば。

 

この公案、実は百丈野狐の公案と全く同じことを言っています。

 

私は禅の門外漢ですから、あの禅のブログの人たちに、『水牯牛の尾巴とは何?』と聞いてみられたらいいですよ。どのように答えられるか、興味あります。

 

 

 

たーぼー (126.247.102.162)  

牛の尻尾とは世間の目だと思います。 私が見たという私が残ってしまうという所謂鑑覚の病と言われるものだと思います。
 
 
 
これは違うと思います。牛の尻尾とは世間の目ではありません。
牛の全体は格子窓を抜けて牛小屋の外にあったとしても、尻尾は牛小屋にあるのです。あらねばならないのです。
牛の尻尾は牛小屋にあって、牛小屋で自由自在、縦横無尽に働かないといけないのです。
 
 
 
 
たーぼー (126.247.102.162)  
>また、『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』、そして、『不昧因果とは因果に落ちることである』というなら、なぜ、『不昧因果』で大悟したとたん野狐の身を脱して野狐は死骸になったのか、を聞いてみてください。 因果だけがあってなるようにしかならないのであれば、そして、因果によって野狐に生まれたのであれば、野狐のまま楽しく生きていけばいいのではないのですか?なぜ、野狐は死んだのですか?なぜ、因果である野狐の身を脱したのでしょう? なぜ無門は『不昧不落 千錯萬錯』と言ったのでしょうか?これも聞いてみてください。
 これは私自身が過ぎ去れば塹壕に堕ちていたからですね。やっと分かった。愚さん=私だ。愚さんが引っかかっていた尻尾だから、ずっと反発していたんだ。 現象に振り回されて自分の足元を見れてませんでした。
 
 
 
牛の尻尾とは何かを探求してみてください。
形骸化した禅問答では、身体全体で尻尾が振られる真似をして認可を受けるかもしれません。
一度、禅の人に、牛の尻尾とは何かを聞いて見られたらいいですよ。
 
 
 
 
たーぼー (126.247.102.162)  
最近、物にも意識があるように感じるんです。 物が私の意識とリンクするように壊れたり直ったりします。 怖いです。 今日もトラックの仕事中に、トラックにバックモニターがあるんですけど、それが急に映らなくなって、その時に自分で内省して見ると、心の深い部分で過去のことを考える事をタブー(してはいけない事)視している事に気づいて、そのバックモニターが壊れた時に過去のことを考えていたんです。それで仏陀の掌を開いて石を見るようにそのタブーに気づいたらバックモニターが直りました。何度かトラックや携帯や色々な物体が私の意識とリンクしているように感じるようになって気味が悪いです。
 
 
 
それでいいと思いますよ。
仏陀も言っているように、ものごと=現象=環境 は、心にもとづき、影のように心につき従うのです。
現象は心の影です。
仏陀は『因果』などという言葉を使ったことはありませんが、それが『原因と結果』を表しているとすれば、仏陀が考えた原因とは、kamma(想いと想いに基づく言葉、想いの基づく身体の行為)であり、結果とはものごとであり現象であり環境です。
 
私は自分が経営する会社が倒産寸前だった時、会社の2億円の借金を全部返し蘇らせようと決意しました。周囲の誰からも倒産確実と思われていましたが、短期間のうちに奇跡的に復活して無借金となりました。
現象など、環境など、泡のようなものです。
心が主です。
決意こそすべてです。
何とでも変えられるのです。
 
『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』というようなことを言ってる人を見ると腹立ってきますね。
まあ、それもその人の人生ですから、そうやって、因果とやらの奴隷、運命の奴隷、環境の奴隷になって、ひたすら自分の悩みをなくすことだけに専念していたらいいと思いますよ。
 
しかし、自分が経営する会社には従業員が何百人もいる、資金繰りが行き詰ってる、倒産すると、代表である自分は連帯保証人なので無一文になるし、従業員とその家族は路頭に迷うし、取引先に大きな迷惑をかける、ひょっとするとその何社かは連鎖倒産するかもしれない、というような困窮した状況で、『因果だけがある。自分も自由意思もない。責任もないんだ。』と思い込めば罪悪感から解放され悩みはなくなったように感じるかもしれませんが、坐禅から起き上がると困窮した状況は何一つ変わっていません。ただの現実逃避です。
それで満足ならそれもその人の人生です。
 
 
 
たーぼー (126.247.102.162)  
ショーシャンクさんおはようございます。 ただ危ないなとも思っているんですよ。 今のトラック業界は飲酒に厳しくて、毎朝アルコール量を測る機械に息を吹いて飲酒検査するんですよ。 それで4日前くらいに私出ちゃったんです。 しかも0.5とか異常に高い値が出たんです。 前の晩確かに少し飲み過ぎたなという感じはあったのですが、こんな数値が出る量を飲んではいないんですよ。今の会社で出たのは2回目で前回は0.15でした。 半年前くらいだと思うんだけど、前回の方が量を飲んでいるんです。今までの経験からして、まぁ大丈夫だろうなという線だと思ったんですが、0.5でした。 それで仕事に遅れてしまうから、30分くらい水を1リットル飲んだりトイレに行ったり色々やったんですが、全然数値が下がらないんです。 数値も高すぎるし、おかしいなぁと思って内省したら自分の悟り臭さを心の奥の方で引っかかってるということに気づいたんです。それで仏陀の掌の上で石を見るように見て、もう一度測ったらなんと数値が0だったんです。びっくりして、ちょっと思考を出すとカルマに翻弄されて危ないなと思って、あまり思考を出さないようにと思っています。
 
 
たーぼーさん、こんにちは。
心が身体にそして身体の数値に作用するいい例ですね。
 
心が整ってきたら、環境も身体も徐々に整ってくるようになると思います。
身体にいいものがおいしく感じるようになります。
ジャンクフードからは徐々に遠ざかるようになりますし、タバコもこの十数年間やめて1本も吸ってません。酒も味わうというか嗜む程度というか、あまり飲まなくても、ほんの少量でとても美味しく楽しくなります。
 
私は自分で驚くほど取り柄のない人間ですが、たった2つだけ取り柄があります。
それは、食べ物に好き嫌いが全くなく何でも美味しく食べられること。
もうひとつは、食べ物は残さずに全部食べることです。
臨済も『食を思えば百味具足す』と言っています。
 
瞑想で精神が広がってよかったことは、クラシック音楽が心の底からわかるようになったことと、食べ物の好き嫌いが全くなくなったことです。
 
やはり、心と体は密接に関連してますね。
 
 
 

>何でも質問していいなら、この公案の牛の尻尾とは端的に言えば何だと思いますか?
>愚さんなら室内でどう答えますか?

室内のことは、さすがにオープンにできませんが・・・・
見方は、大悟徹底して、悟り臭さもなくなったとき、なにが残るか、ということですね。

拶所としては、
その牛はどこにいるか?
その牛をここに引き出せ
その牛いつの時代に生まれたか?
その牛、東に過ぎたか、西に過ぎたか?
牛、ソウレイを過ぎる
公案の全体
その牛、おすかめすか?
子を産んでみよ

一応難透になっていますが・・・・その境涯になるにはなかなか大変ですね

 
 
たーぼーさん、ブログ主さんに牛の尻尾とは何か聞いてくれたのですね。
うーん、しかし、牛のことしか答えてないですね。尻尾が出てきません。
牛は簡単なのです。十牛図にあるように、牛は悟りの当体で最もわかりやすいのですが、牛過窓櫺の公案が難透なのは、牛でなく牛の尻尾が何かということが難しいからです。
また、窓櫺の意味も人によって全く違います。
よくある解釈は、窓櫺は家の窓(格子戸)のことで、家の中から窓の外を見ていたら、通りを牛が通っている、牛の頭や角や体全体は右から左へ(または左から右へ)通り過ぎたけど、牛の尻尾だけは通り過ぎない、ということです。
これだと意味が全く分からない。
私は窓櫺は牛小屋の窓と考えていますが、その解釈は少数派だろうと思います。
ですから、禅の印可を受けた人に牛の尻尾の意味と窓櫺の意味を聞きたかったのですが。
 
 
 
 
 
 
 
 

まず我儘になること

人間はまず我儘になることが必要です。

自分の価値観や倫理観を押しつけてくる輩からは全速力で逃げてください。

そのような者に振り回されると、自らの主体を見失い、他人の言うがままの『いい人』になるだけです。

他人の目、他人の評価ばかり気にして、他人の言うことに神経をすり減らし続けると鬱病になるでしょう。

『いい人』にはなってはいけない。『いい人』になろうとしない、『いい人』に見られようとすることだけは絶対にしてはいけない。

わざと悪いことをしろということではなく、何より自らの『feel good』を最優先にするべきです。

 

特に、『それは自我だ』とか『それは我儘だ』とか非難してくる人は避けるべきです。その人は、あなたの鼻をつかんで自分の価値観に引き摺りこんで支配したいだけです。

そういう人には嫌われた方がいいのです。

 

すべての人間は強固な自我があります。徹底的に解脱しなおかつこの肉体から離れなければ、自我がなくなることは絶対にありません。

頭の上っ面で、『いろいろなものが集まっているだけだから自我なんてない。自分なんてない。無我だ。』と言ってる人は、自分の中の中心、そして激流が何も見えていないのです。

肉体を持ち、感覚を持ち、絶え間なく感覚の経験をし、経験の記憶を溜め続けていて、その中心から思考を出し、その思考がまた中心を形作る、それを私たちは瞬間瞬間休みなくしているのです。たとえ、1時間瞑想して思考をなくしても、日常生活に戻った瞬間、中心は現れます。

思考を持ち、わたしという中心がなければ、日常生活は絶対にできないからです。

無我だ、自分なんてない、全体だけがある、と口先ではいくらでも言えるでしょう。

しかし、例えば主婦が料理します。それは地球の裏側の見も知らない人に食べさせようとしてないですね。あくまでも『私』と『私の』家族のために料理を作っていますね。

夫が働いてお金を稼ぎます。そのお金を知らない人にばらまいたらどうなりますか。あくまでも、『私』と『私の』家族のために稼いでますね。

大勢の知らない人たちが断りもなしに自分の家に上がり込んできて冷蔵庫を勝手に開けて食べ始めても『自分などない。全体だけがある。』とすましていられますか。必死に自分の家を守ろうとしてそれらを排斥するでしょう。『私の』家が大事なのではないですか。

自分の肉体が車にぶつけられたら病院に行くでしょう。『私なんかない。肉体も自分ではない。』といってすましていることはできません。

 

いとも簡単に、『無我』だとか『自分はない』『全体だけ』と言っている人は、それらの現実をごまかしているだけです。

 

肉体を持ち、感覚を持っている限り、自我がなくなることはありません。

 

人生は、日常生活は、すべて『私』と『私のもの』で成り立っています。

『私』がないと、1日たりとも、生きることができません。

病院で自分の名前を呼ばれたら診察室に入っていくでしょう。これを『無我が本当だ。自分なんてない。どのような名前も自分ではない。』などと言って、名前を呼ばれても反応しなければまともに生活などできないですね。

 

要は、他人の目に引き摺られ、他人の評価に引き摺られて、自らの主体を失い、自らの『feel good』を損ない続けているから、心に大きな傷ができるのです。へこみができるのです。

その傷、そのへこみ、が強固な我塊となっているのです。

傷だらけになり、その傷がうずいて痛くて仕方ないのに、『私などない。無我が真理だ。無我であろう。』とし、その傷は自分ではない、だから傷を丸裸にして寒風にさらしその痛みを存分に味わおう、とするのは馬鹿げています。

 

その傷は、他人の評価に引き摺られ、主体を失い、他人軸で生きてきたから、自己重要感が傷つき悲鳴を上げているのです。

いますぐ、他人軸をやめ、他人が気に入るように行動することも止め、自らの『feel good』にだけ従わなければ危険です。

究極に我儘に生きることです。

 

誰が我儘と言って、仏陀ほど我儘で自分勝手な人はいないでしょう。

一国の国王の一人息子として生まれ、当然父の跡を継いで国王になる立場の人でした。しかし、結婚し息子が生まれたとたん、妻を捨て、生まれたばかりの息子を捨て、国王である父を捨て、家臣を捨て、領民を捨てて出家しました。

無責任極まりない。責任放棄もいいところです。

国王である父も、妻も、老臣たちも、必死に止めたはずです。『国の責任を放棄するのか』と忠告した人も多いでしょう。

しかし、仏陀は自らの『feel good』を選んだ。

後世の大乗仏教では、仏陀は衆生を救うために出家したとなっていますが、事実は違います。あくまでも、自らの苦を滅するために出家したのです。自分勝手ですね。

 

 

他に従属することはすべて苦しみであり

自由(主体性)はすべて楽しみである

                   (出典 Udana  Ⅱ,9)(中村元訳)

 

 

これは仏陀が言った言葉です。

 

パーリ語原典では

Sabbam   paravasam   dukkha.

Sabbam   issariyam   sukham.    

 

sabbam は『すべての』

paravasam は『他人の意志にたよる。追従する。従属する。』

dukkha は『苦しみ』

issariyam は『統治者の主権。支配管轄。』

sukham は『楽しみ』

 

パーリ語原典を直訳すると、次のような言葉となります。

 

他への従属はすべて苦しみであり、主体の確立はすべて楽しみである。

 

今までの仏教のイメージからは程遠い言葉です。

日本仏教の『わたしたちはすべて他の存在によって生かされているの。他の存在がなければ自分なんか存在しない。あらゆるものの関係性によっている。それを縁起というの。人は皆、縁起によって生かされている。ありがたいありがたい。』という言説とは、真逆のように感じます。

どちらが仏陀の真意でしょうか。

仏陀は、王族の皇太子、ひとり息子でした。妻との間には生まれたばかりの息子がいました。しかし、妻を捨て、生まれたばかりの子供を捨て、王である父を捨て、継ぐべき王位を捨て、家臣を捨て、領民を捨て、宮殿を捨てて、一介の修行者となりました。

これは、王である父親が最も怖れていたことでした。しかし、すべてを捨ててしまいました。国の統治者となるべき責任を放棄しました。父親としての責任、夫としての責任もすべて放棄しました。仏陀の弟子たちもそうでした。家族などすべての関係性を断ち切って出家しました。子孫が絶えるということで、両親が子孫を残してくれと泣いて頼んだために捨てた妻と性交した弟子を仏陀はサンガから追い出しました。

すべての関係性に何の価値も見出さなかったのです。自由への希求こそ、仏陀が望んだことでした。すべての関係性を捨てた人の教えが日本ではなぜか『あらゆるものの関係性によって生かされている』ということに変化していきました。

仏陀が選んだ出家とはあらゆる関係性をすべて断ち切ることでした。仏陀の弟子たちもそうしてきました。捨てられた、王である父親、妻であるヤショーダラー、息子であるラーフラはそれはショックだったはずです。

あらゆる関係性を断ち切り、自分の弟子にも関係性を断ち切らせた人が、『あらゆるものの関係性によって生かされている。ありがたいありがたい。』というような教えを説くはずがありません。もしそんなことを説いたらヤショーダラーは『どの口が言ってる?』と怒るでしょうね。実際、原始仏典には関係性によって生かされているという言説はありません。むしろ『愛する人をつくるな』と説きます。

 

さきほど、『日本ではなぜかあらゆるものの関係性によって生かされていると変化した』と書きましたが、龍樹から縁起の意味が仏陀とは変化したからです。

 

『他に従属することはすべて苦しみであり、自由(主体性)はすべて楽しみである』

これが仏陀が言ったことなのです。

 

 

 

 

 

野狐の身を脱したのはなぜ?

たーぼー (126.35.157.250)  

ショーシャンクさん、こんばんは。 下の投稿は例のクリッシュナムルティ 禅ブログに私が書いた文章なんですが、これって牛過の公案の答えとしてどうですか? 大乗の修行は「おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとむなり」であって、そのため「煩悩をわざわざとどめて生をうるおす」いかにも人間的であらねばならない。根っから単調で曲線のないようなのはダメじゃ これは曹洞宗の有名な禅僧である澤木興道老師の言葉ですけど、そもそも大乗仏教の道を選ぶのは究極の主体的な意思なんですよ。「おのれ未だ渡らざる先に、一切衆生をわたさんと発願し」この発願こそが究極の主体性でなければいけないんです。 人に流されてとか、環境に流されてとか、過去の記憶に影響を受けてとかじゃなくて、自らが作っているこの虚仮の世で一切衆生を先に渡すという非常に奥が深い救済意思でなければいけないんです
 
 
たーぼーさん、おはようございます。
主体的な意志こそすべてです。発願は大きければ大きいほどいいですね。本質は無量心ですから。発願も無量であるべきですね。
私は、大乗でも小乗でもなく(ここでわかりやすいように小乗という言葉を使っていますが、いまは仏教界の人で小乗という言葉を使う人はいないです。上座部仏教ということが多いですが、本当に正確にいうなら部派仏教でしょう)、大乗仏教も部派仏教も本当の仏陀の真意を伝えていないというところから始めています。
ですから、私は、大乗仏教の『おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生を渡さん』という発願を用いることはないですが、この発願が自分の心に強く響いてくる人はどんどん発願すればいいと思います。
牛過窓櫺の答えとしてはかなりいい線だと思います。
牛過窓櫺の公案も百丈野狐の公案も、指し示すところは全く一緒なのです。
 
そもそも、『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』というような人が、『随処に主となれば、立処皆な真なり』の臨済禅を語っているのに違和感があります。親鸞の他力信心のほうがぴったりくる気がします。
臨済禅をやっていてどうして『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』となるのかが不思議です。
 
今度、『随処に主となれば、立処皆な真なり』の言葉をどう解釈するのか聞いてみてください。
 
また、『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』、そして、『不昧因果とは因果に落ちることである』というなら、なぜ、『不昧因果』で大悟したとたん野狐の身を脱して野狐は死骸になったのか、を聞いてみてください。
因果だけがあってなるようにしかならないのであれば、そして、因果によって野狐に生まれたのであれば、野狐のまま楽しく生きていけばいいのではないのですか?なぜ、野狐は死んだのですか?なぜ、因果である野狐の身を脱したのでしょう?
 
なぜ無門は『不昧不落 千錯萬錯』と言ったのでしょうか?これも聞いてみてください。
 
 
 
 

音楽 経典 公案

音楽と経典と公案、これに共通するものは何でしょうか。

わたしの体験では、これらのものは、その人の精神レベルというか悟りのレベルがわかるものだと思っています。

例えば、クラシック音楽をいくらわかろうとして何百回聴いても、わかるレベルにないときは絶対にわからない。特にマーラーなどの難解といわれている曲は。

経典、例えば法華経も、わからないときはどんなことをしてもわからない。

白隠は若いときに法華経を読んで、『こんなたとえ話だけのもの。講談本を読むのと変わらない。』と言って放り出しました。

しかし、悟った後、法華経を読み返してみたらその意味が手に取るようにわかって号泣したといいます。

公案もそうです。禅の門外漢でも、仏陀の真意がわかるようになってきて、なにげに公案を見てみると、これが手に取るようにわかってくる。牛過窓櫺の公案なんて、全く馬鹿馬鹿しいと思っていましたが、いま読んでみると有り難くて泣けてきます。なぜこれがわからなかったんだろうと言う感じです。

し者裏に向かって顛倒して,一隻眼を著得し,一転語を下し得ば,以って上四恩に報じ,下三有を資くべし。其れ或いは未だ然らずんば,更に須らく尾巴を照顧して始めて得べし。

頌に曰く,過ぎ去れば抗塹に堕ち,回り来たれば却って壞る。

者些の尾巴子,直に是れ甚だ奇怪。

 

この無門の言葉が魂に響いてきます。

 

マーラーの交響曲でも、法華経でも、牛過窓櫺の公案でも、それをわかろうとしていくら探求してもわからない。

だけど、その人がある一定のところに触れると、わかろうとあがかなくても自然と魂の底からわかってくる。

公案というのは、その人の悟りのレベルをはかるのに最もわかりやすいものなのかもしれません。

 

いくら理屈を詰め込んでも、自分でいくら『私は悟ってる』『私は目覚めている』と他の人のところまで行って触れ回っても、そんなことは無駄なことです。

また、いくらマーラーを聴いても、法華経を読んでも、公案を考えても、悟ることはできません。

ただ、精神が広がれば、自然と音楽も経典も公案もわかってくるのだと思います。

逆に言えば、音楽もわからず、経典の深い意味も分からず、公案もわからなければ、その人の精神は広がっていないということです。いくら、自分が悟っていると触れ回っても、そう思い込んでいるだけ、これらのはかりで見ればいいのです。

 

 

随処作主立処皆真

『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』というのであれば、

臨済禅の公案よりは、クリシュナムルティ、ノンデュアリティ、親鸞の他力本願のほうが合ってると思います。

禅であれば道元禅のほうが合ってるでしょうね。

 

臨済は

『随処に主と作れば、立所皆な真なり』

『若し能く是の如く弁得せば、境に転ぜられず、処処に境を用いん。

 東湧西没、南湧北没、中湧辺没、辺湧中没、

 水を履むこと地の如く、地を履むこと水の如くならん。

 何に縁ってか此の如くなる。

 四大の如夢如幻に達するが為の故なり。

 道流、汝が祇だ今聴法するは、是れ汝が四大にあらずして、能く汝が四大を用う。

若し能く是の如く見得せば、便乃ち去住自由ならん』             

『大器の者の如きは、直に人惑を受けざらんことを要す』

『若し他をして荘厳せしむれば、一切の物を即ち荘厳し得ん』

『我れ見るに、諸法は空相にして変ずれば即ち有、変ぜざれば即ち無。

三界唯心、万法唯識なり。

所以に夢幻空花、何ぞ把握を労せん。』

『唯だ道流、目前現今聴法底の人のみ有って、火に入って焼けず、水に入って溺れず、

三途地獄に入るも、

園観に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入って 而も報を受けず。』

 

というように、だれよりも、主体性を説いた人です。

なにせ、『随処に主と作れば、立所皆な真なり』なのですから。

どこでも主体であればすべて真だ、というくらいです。

 

公案禅は、臨済禅の流れでできたもので

禅問答の要訣は

外境や人惑や師匠の言説について回らずに

いかに主体を示すことができるか、にあります。

今の臨済禅、公案禅はその物真似で

喝 をしたり礼拝したり平手打ちしたりと形骸化していますが。

 

 

『因果だけがあって、自由意思はない、なるようにしかならないのだ。』

というのであれば、

例えば、『百丈野狐』の公案ならば

『500回野狐の身に生まれても

これは因果でなるようにしかならないものだ。

あるがまま、野狐の身のまま、自由に楽しもう。

これが本当の悟りの境地だ。』

こういうふうに解釈するのでしょうね。

実際にそう書いていた人もいました。

『不昧因果』とは因果に落ちることだと言ってる人もいました。

 

しかし、本当にそんなものが悟りであれば

野狐になった僧が大悟したとたん野狐の身から脱するわけはないですね。

大悟してすぐ野狐は死骸になりました。

因果によって野狐の身のままあるがままでいいのであれば

その因果を背負ってさらに何度も野狐の身に生まれ変わりして

野狐の身のまま楽しむはずですが、実際には即時に野狐の身を脱しています。

これをどう説明するのでしょう。

不昧因果が因果に落ちることであれば

『不昧因果』を聞いて大悟した野狐は

因果に落ちたままそのままあるがままでいいのではないですか。

 

無門は言いました。

不昧不落 千錯万錯

『不昧』も『不落』も、千の誤り、万の誤りだ。

『不昧』も『不落』も、どちらも大間違いだ。と。

 

この無門の言葉をどう解釈するのでしょうね。

 

 

 

 

 

 

百丈野狐

たーぼーさんに教えられて初めて、『クリシュナムルティ ボーム ほか』というブログを見るようになりましたが、このブログ主は面白いですね。なかなか魅力的です。

 

このブログに『不落因果 不昧因果』つまり百丈野狐の公案がありましたので、私なりの解釈をしてみます。もちろん、私は禅の門外漢なので遊びとして。

 

 

百丈野狐
    
百丈和尚、凡參次、有一老人常隨衆聽法。衆人退、老人亦退。忽一日不退。

師遂問、面前立者復是何人。老人云、諾。某甲非人也。於過去迦葉佛時曾住此山。因學人問、大修行底人還落因果也無。某甲對云、不落因果。五百生墮野狐身。今請、和尚代一轉語貴脱野狐。遂問、大修行底人、還落因果也無。

師云、不昧因果。老人於言下大悟。

作禮云、某甲、已脱野狐身住在山後。敢告和尚。乞、依亡僧事例。師、令維那白槌告衆、食後送亡僧。大衆言議、一衆皆安、涅槃堂又無人病。何故如是。食後只見師領衆至山後嵒下、以杖挑出一死野狐、乃依火葬。

師、至晩上堂、擧前因縁。黄蘗便問、古人錯祗對一轉語、墮五百生野狐身、轉轉不錯合作箇甚麼。師云、近前來與伊道。黄蘗遂近前、與師一掌。師拍手笑云、將謂、胡鬚赤。更有赤鬚胡。


無門曰、不落因果、爲甚墮野狐。不昧因果、爲甚脱野狐。若向者裏著得一隻眼、便知得前百丈贏得風流五百生。
   
    頌曰
  不落不昧 兩采一賽
  不昧不落 千錯萬錯

 

 

 

(読み下し文)

百丈和尚、凡そ参の次で、一老人有って常に衆に随って法を聴く。衆人退けば老人も亦た退く。忽ち一日退かず。

師遂に問う「面前に立つ者は復た是れ何人ぞ」老人云く、「諾、某甲は非人なり。過去、迦葉仏の時に於いて曾つて此の山に住す。因みに学人問う、大修行底の人還って因果に落ちるや。某甲対えて云く「因果に落ちず」。五百生野狐身に堕す。
今請う、和尚一転語を代わって貴えに野狐を脱せしめよ」と。遂に問う「大修行底の人、還って因果に落つるや」。

師云く「因果を昧さず」。
老人言下に大悟し、作礼して云く「某甲、已に野狐身を脱して山後に住在す。敢て和尚に告ぐ、乞うらくは、亡僧の事例に依れ」。
師、維那をして白槌して衆に告げしむ、「食後に亡僧を送らん」と。大衆言議すらく「一衆皆な安し、涅槃堂に又た人の病む無し。何が故ぞ是くの如くなる」と。
食後に只だ師の衆を領して山後の嵒下に至って、杖を以て一死野狐を挑出し、乃ち火葬に依らしむるを見る。師、晩に至って上堂、前の因縁を挙す。
黄蘗便ち問う、「古人錯って一転語を祗対し、五百生野狐身に堕す。転々錯らざれば合に箇の甚麼か作るべき」。師云く「近前来、伊が与めに道わん」。黄蘗遂に近前して、師に一掌を与う。師、手を拍って笑って云く、「将に謂えり胡鬚赤と。更に赤鬚胡有り」
   
無門曰く「不落因果、甚と為てか野狐に堕す。不昧因果、甚と為てか野狐を脱す。若し者裏に向って一隻眼を著得せば、便ち前百丈の風流五百生を贏ち得たることを知り得ん」。
   
頌に曰く
不落と不昧と、両采一賽。
不昧と不落と、千錯万錯。

 

 

わたしたち、迷いの衆生は、『落因果』つまり因果に落ちていて、果であるこの現象界であがいています。色の世界です。

その人たちにとって、この現象界は、鋼鉄のように強固なものです。

因果の世界にがんじがらめになっていて、『因果だからこうなるしかなかった』というような、環境や現象に支配されている、主体のない生き方です。

 

『不落因果』、因果に落ちない、というのは空の境地です。

十牛図で言えば、第八図 人牛倶忘 です。まんまるの円、空っぽです。

そこは現象世界も全くない、広々とした空間です。真空そのままです。

 

『不昧因果』、因果をくらまさない、というのは、十牛図で言えば、第九図と第十図です。真空妙有と真空妙用です。

無量心の現れと働きです。

果であるこの現象に主体的に働きかけることです。

自らを因として創造していくことです。

 

因果にとらわれ、因果の果である現象を堅固なものだと錯覚し、環境に支配されている生き方が、『因果に落ちる』迷いの衆生。

 

因果を超越したと思い込み、果である現象を無視して、悟りすまして、空の境地に浸ってるのが、『因果に落ちず』。

 

無量の境地にいながら、因果の果である現象を無視せず、誤魔化さず、現象に主体的に働きかけるのが『因果をくらまさず』。

 

この老人は、現象、現実から遊離した『空の悟り』を本当の悟りと思い込んでいて学人にもそんな生悟りを教えてしまった。

そのために500回も野狐に生まれ変わった。

自らが創造の主体であることがわからなかった。

しかし、百丈の『不昧因果』によって、自らの悟りが空一辺倒の生悟りにしか過ぎなく何の役にも立たないものであるとわかり、自らの主体を本当に悟り、野狐の身から脱した。

だから老人は『死んだ僧を弔う様式で葬儀をしてください』と頼んだのです。

百丈もその弔い方にふさわしいと判断してそうしたのです。

 

黄檗は、それを百も承知で、師の百丈に対して『あの老人が答えを誤らなかったらどうなっていたんですか?』と聞きます。

百丈は『近くに来い。教えてやろう。』と言います。

黄檗は百丈に近づいて、師である百丈の顔を平手打ちします。黄檗が主体を示したということです。主体の働きを示したのです。

 

  頌曰
  不落不昧 兩采一賽
  不昧不落 千錯萬錯

 

『不落』と『不昧』とは、コースの中の2つの料理、一つのサイコロの違う面であり、同じ類いのもの、似たようなものだ。

『不昧』も『不落』も、どちらも大間違いだ。

弟子の黄檗が師の百丈に平手打ちしたその働きからすると、千錯萬錯だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

自由意思が因

たーぼー (126.199.36.22)  

>人生の時間は限られていますので、feel bad な人と不毛なやりとりをしているうちに>タイムアウトになってしまいます。
ショーシャンクさんこんばんは。 全くその通りですね。 つい、因果だけあって自由意思はないなんて言う事を自分一人だけで思っているならいいんですが、人に講義で教えていたりすると、ちょっと貴方責任持てるのかと言いに行きたくなってしまいます。 自分一人だけならどんな信条でもいいんですよ。 こんな事、人に講義で教えていいのかと熱くなってしまいました。 まぁ八万四千の法門でしたっけ?色々あるなぁと思いました。
 
 
 
 
 
まず言っておけないといけないのは、歴史上の仏陀(ゴータマ・シッダッタ)が説いたことと、今の仏教と言われているもの(大乗仏教、上座部仏教、問わず)は、全く違うものだと言うことです。
 『縁起』も『空』も『因果』も、いま仏教と言われているものの意味とは全く違います。
 
 
 
 
『縁起』

仏陀の説いた縁起とは、苦の縁って起こる原因のことです。


これあればかれがあり、これが生じればかれが生じ
これがなければかれなく、これが滅すればかれが滅す

 

この四つの定理を使って、仏陀は、苦の原因を究明していきました。

 何故でしょうか。それは、その4つの定理に厳密に当てはまるものが見つかれば

それを滅することにより苦が滅すると考えたからです。

苦の消滅を目指して出家した仏陀は、
これあれば苦があり これが生じれば苦が生じ
これがなければ苦がなく これが滅すれば苦が滅す
というものを徹底的に洞察していったのです。
それが縁起です。

そして、その完成形が十二縁起です。

ゆえに、原始仏典に仏陀が説いている縁起の法は十二縁起を完成形とし五支縁起などの省略形はありながらもすべて『苦の縁って起こる原因』のことです。

 

 

 

 

『空』

仏教の根本教理と見なされ最も重要視されている【空】ですが、
歴史上の仏陀はほとんど説いていません。

 最古層の仏典『スッタニパータ』で【空】が説かれているのは
【つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を〈死の王〉は見ることがない。】の箇所くらいです。

いかに仏陀は【空】を説かなかったか、です。

 

さて、それでは、仏陀がスッタニパータで説いた【世界を空なりと観ぜよ】の【空】とはどういう意味でしょうか。

それを解明するには、『ダンマパダ』の

【世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。】の言葉が参考になります。

 ほとんど同じことを説いているからです。

さらに【この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであるとさとったならば、死王の見られないところに行くであろう。】とあります。

仏陀は、泡沫やかげろうをはかないという例えで使っているのです。

つまり、歴史上の仏陀が【空】というときは、

【泡沫のように生じては滅するはかないもの】と言う意味です。
非常に単純明快ですね。

仏陀が『空』と言う言葉を使うとき、それにはいかなる形而上学的な意味合いもなく観念的なものでもありませんでした。

『生じれば滅するはかないもの』と言う意味でしかありません。


『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』というのは、遙か後世に龍樹が現れて勝手に創り上げた教理です。これが、仏教の根本教理とされていきました。

しかし、歴史上の仏陀が『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』と説いている原始仏典はありません。

 

 

 

『因果』『因縁』『業』『カルマ』

因縁、因果、業、カルマとか言う言葉ほど誤解されている言葉はないですね。

『すべては因縁因果で成り立っているのだから自由意志はない。』などということを仏教の真理だと考えている人もいるようです。

仏陀がそういうことを言ったことは一切ありません。

仏陀が言ったkamma(業・カルマ)とは、行為、行ないのことです。

行為、行ないと言っても、私たちが思う身体的な行為だけではなく、身口意の行為のことです。

つまり、心の想い、口から出る言葉、身体的な行為 のことです。

 

仏陀は

生まれによって、バラモンとなるのではない。

 生まれによって、バラモンならざる者となるのでもない。

 行為によって、バラモンなのである。

 行為によって、バラモンならざる者なのである。」
                        (『スッタニパータ』650』)

と言いました。

身口意の行為をすることは自由意志です。

つまり、身口意の行為=カルマ をすることは自由意志なのです。

仏陀は、生まれや環境や能力によってバラモンになるのではない、と言っているのです。

真理を行なおうとする意思によってバラモンになると言っているのです。

因縁因果によって成り立っているから自由意思がないなどと言ったことはなく、

仏陀は、kamma=身口意の行為 が 因 となりその 果 として ものごとが作り出されると言ったのです。

つまり、自由意思が因であり、ものごとや環境が果なのです。

 

『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。――影がそのからだから離れないように。』

                           『ダンマパダ』

 

 

昭和時代の物理学のように、すべては意志なしで物理的に確定しているというがんじがらめの考えから抜け出ない人もいるようですが、科学や物理学でさえもうどんどん、そのようなことは過去のものになっていっています。客観的な現実というものは、人間が観測するまでは存在しない、この世を構成する粒子は観測者の意志で変化する、とまでに現代の物理学は進化して行っています。最近この「現実は存在しない」ことについての論文を発表したグリフィス大学のジョーン・ヴァカロ教授は、「ひとりひとりが、その人だけの現実を持っている」としていて、そして、その現実は、観測により変化していくとしています。

 

 

もともとの仏陀の教えは、『無常であり苦であるものを、わたし、わたしのもの、わたしの本体と言っていいであろうか?』というもので、明らかに『諸法非我』なのですが、それが『わたしという本体はない、わたしという実体はない、わたしという主体はない』という『諸法無我』に捻じ曲げられていきました。そこには、自分たちの教えは、今までのバラモン教の教えとは全く違う優れたものだ、今までの教えを全否定するものだという、優越性、排斥性が強まっていったことも大きく関連します。アートマンの否定です。アートマンとは存在の根源というのが本来の意味ですが、それを個別の霊魂という意味に解して否定していきました。

このことによって、自己の否定、主体の否定へと仏教は大きく傾いていきました。

灰身滅智の思想です。

仏陀の教えはそんなものではない、大いなるものを説いたのだ、と主張して、新たに経典を作っていったのが大乗仏教運動です。

しかし、その大乗仏教の運動も、『縁起だから自性がない、実体がない、無我である、空である』というように主体の否定に傾いていきました。

 

仏陀が本当に言おうとしたのは、自らが因なのだ、ということ。自らが、自らの想い、想いに基づく言葉、想いに基づく身体的な行為(つまり、kamma=身口意の行為)によって、こころによって、ものごとを作り出しているのだ、バラモンにでもなれるのだ、ということでした。

 

自らが創造の主体である、ということです。自らがものごとの因であるということです。

生まれによって、バラモンとなるのではない。

 生まれによって、バラモンならざる者となるのでもない。

 行為によって、バラモンなのである。

 行為によって、バラモンならざる者なのである。」
                        (『スッタニパータ』650』)

 

 

『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。――影がそのからだから離れないように。』

                           『ダンマパダ』

 

 

仏陀は、生まれや環境や能力によってバラモンになるのではない、と言っているのです。

真理を行なおうとする意思によってバラモンになると言っているのです。

 

『因縁因果によって、遺伝子や環境や能力が決まっていてそうならざるを得なかったのだから自由意思はなく、その人の責任ではない。なるようにしかならなかったのだ。』というような薄っぺらい運命論とは、真逆、正反対です。

無我や因縁因果を誤解して、自らを意志のない運命の操り人形と考えるのは非常に愚かしいことです。

それは、古臭い物理法則であり、唯物論にしか過ぎません。条件づけられた脳が外部に反応して信号を出すだけなので自由意思はない、自分はない、自己はない、責任はない、ということを信じ込んで生きれば、どんな悪いことをしても、何人殺そうと罪悪感に苦しめられることはないでしょう。しかし、それは、誤った唯物論から来る虚無思想です。もっとも怖れなければいけない暗黒思想です。

人間の精神こそ創造の主体だということから最も離れています。

大いなるもの、無量なるもの、が現れません。

 

 

それでは、私の言う『自由意思』『自由意志』とは何でしょうか。

私は、外部(環境)からの刺激に、無意識的、自動的に反応するのでなく

『意識的にこの想念を出そうとする』ことと考えています。

つまり、『外界という他によるもの』ではなく

自らが主体的にこういう想いを出そうとして出す想念のことです。

 

他動的な想いをいかに排除していくか、です。

他動的な想いとは、特に自分がどう見られているかをメインに考えて反応してしまうことや、自分の中の『へこみ』が自動的に感情的に反応してしまうこと、です。

このためには、常日頃から、感情の痛みの記憶の束をdeleteする作業が必要です。慚愧とか懺悔とか言われているものです。

残念ながら、今の仏教には感情的な記憶の束をdeleteする方法がありません。

『気づき』『目覚めていること』『観察すること』ばかりです。

出てくる想念に気づいて、ただ観察する手法だけが一人歩きしています。

思考をどんどんなくしていく手法だけです。

しかし、この手法でうまくいくとは全く思いません。

なぜなら、思考は日常生活でなくてはならないものだからです。

思考がなければ、赤信号で止まることもなく事故に遭ってしまうでしょう。

思考をフルに働かせなくては、ごく単純作業を除いてはどのような仕事もできませんし、社会でちゃんと稼いでいくことなどできないでしょう。退職した人など社会との関わりを持たない人はいいかもしれませんが。

掲示板で、『私はいつも目覚めている』『私はすべての想念に気づいている』と言っている人がいましたが、その人は、あちこちの他人の掲示板を覗いてはわざわざその人のスレッドに押しかけては文句を言ったりすることが非常に多かったです。感情的な反応も普通の人より多かったです。『私はいつも目覚めている』『私はすべての想念に気づいている』と口で言っていましたがそれが行ないに何もあらわれていませんでした。

ですから、私は、『いつも気づいている』とかいう手法が本当に有効なのか疑問に思っています。

 

実際に、瞬間瞬間涌いて出てくる想念にいくら気づいていても、その想念が出てくる『臭いの元』を洞察しdeleteしなければ、臭いはそこから次々と出てきます。

部屋の真ん中に、生ゴミを入れた箱を置いておいて、そこから出てくる臭いにいかに気づいてその都度うちわで払っても、その元の箱を取り除かない限り、ずっと臭いは出てきます。

その生ゴミの箱を取り除く方法が、十二縁起であり四念処であり七覚支です。

それに伴う懺悔であり慚愧です。

こころのなかの『へこみ』の成り立ちを洞察することです。

『へこみ』こそが自我だから。

 

 

feel good だけに従う

遠佐 (126.77.139.124)    

マニカナに戻ってエム先生と議論してください。ずっと読んできました。仏陀の論議のはずが、親鸞に行ってまだ戻っていません。春間さんはほっておけばいいのです。期待しています。
 
 
遠佐さん、ありがとうございます。
初めまして、ですかね?
春間さんのことは別に気にしていません。
春間さんは春間さんで本を読み信念を持って投稿されていると思いますし、やり取りして面白いときもたまにですがありますので。
 
私は、2020年から特に決めていることがありまして、
それは『feel good なことだけをする』『feel good な人とだけ付き合う』です。
それができるだけの自由は手に入れましたので、なるべくそうしようと思っています。
いま、feel good でなくてもしているのは、歯医者に行くことくらいです。
高校の同級生が歯医者ですのでずっとそこに行っていたのですが、そこはインプラントをしてなくて仕方なく今は別の歯医者に行っています。
歯は大事ですのでこれはしなくてはなりませんが、その他でしなくていいことは、feel good である時に限りしようと決めています。
 
人生の時間は限られていますので、feel bad な人と不毛なやりとりをしているうちにタイムアウトになってしまいます。
feel bad な人からは全速力で逃げること、その人に費やす時間を全部なくすこと、これが私の決めていることです。
 
マニカナの石飛先生は大学教授でいい本も何冊も出されていて、お忙しいにもかかわらずどんな投稿にもきちんと答えていただいていて真摯な方だなと尊敬しています。最近はスッタニパータを特に研究されていて、学びたいことは山ほどあるので、遠佐さんがここまで来てそうおっしゃっていただいてることもあり、また、学びに伺いたいと思います。今まではfeel good でしたので。
 
遠佐さん、わざわざ私のブログまで来てマニカナへのお誘いありがとうございました。
 
 
 
 

自由意志とは

id:tabotan  

ショーシャンクさん、また一人私やショーシャンクさんと感覚の合う人を見つけたよ。 良かったら「クリッシュナムルティ 、ボーム、禅」というブログ見てください。 禅者が因果だけがあって自由意思などないと言い張っている中でカルマさんという人が反論してて、それが結構いいです。ダンマ(無量)をしっかり掴んで分かっている人です。
 
 
言われて初めてそのブログ見てみました。
仏陀が本当に言ったことを知らずに、大乗仏教の抽象論をぐちゃぐちゃ弄んでいる感じですね。
因果だけあって自由意志などない、など運命論にしか過ぎません。
運命論は仏陀が最も嫌った考えの一つです。
 
すべてカルマのなせるもので、こうなるしかなかったんだ、というのは、それは自分の責任は無くなったと感じられて肩の荷は降りるでしょう。
しかし、最も大切な自由意志まで無くしてしまうとは、最もしてはいけないことです。
これが白隠の言う『たらいの水と一緒に赤子を流す』ということです。
赤子をたらいで洗った水、汚くなった水は捨ててもいいですが、最も大事な赤子を捨ててはいけないのです。
 
 
そのブログの文章を載せます。他人の文章を勝手に俎上に載せます。すみません。
 ↓↓↓
自由意志はない、という表現に、虚無感や無力感、不気味さを感じてしまう人もいるようですが、表層での理解だとそのように感じてしまうものなのかもしれません。

自由意志がない、すべては因縁で動いている、ということをきちんと理解できれば、それは大きな救いになりますよ。
例えばですが。 どうしようもなくアル中な人がいたとします。また、どうしようもなく粗野で短気な人がいたとします。その人たちは、なぜそうなのでしょう?脳、身体の特性、環境、遺伝的なもの、それらがあいまってそのようになってるわけです。自分を責めてもしかたないんです。(責める、ということさえ、そうなるしかないからそうなってるんで、それはそれでいいんですけど。)自分を責めてもしかなない、というのは大きな救いですよ。責めずに淡々と治していけるきっかけになれます。また逆に、とても才能があり優秀な人というのも、脳、身体の特性、環境、遺伝などからそうであるということで、その人個人の持ち物でもないのです。

因果しかない、自由意志はない、というのを、理解するのは結構大変です。情緒的に反発するからです。どうしても、自由意志があるような気がしてならないからです。

それは、そうです・・・・・自由意志がないということになれば、無力感を感じますから・・・

ところが、実際は、逆のことが起きます。あらゆることがただの因果だとわかったとき、肩の荷がおります。ホッとします。つまり、努力することがすべて無駄であったということに気が付きます。これは、ホントに楽になります。真理に達する道はないことが、ありがたいんです。あがくのを止めます。あがくのが止めば、真理は目前に現前します』

 

因果しかない、自由意志はない、ですか。すべてはカルマのなせるもの、ですか。

馬鹿馬鹿しい。

仏陀が言ったkamma(業・カルマ)とは、行為、行ないのことです。

行為、行ないと言っても、私たちが思う身体的な行為だけではなく、身口意の行為のことです。

つまり、心の想い、口から出る言葉、身体的な行為 のことです。

仏陀は

生まれによって、バラモンとなるのではない。

 生まれによって、バラモンならざる者となるのでもない。

 行為によって、バラモンなのである。

 行為によって、バラモンならざる者なのである。」
                        (『スッタニパータ』650』)

と言いました。

身口意の行為をすることは自由意志です。

つまり、身口意の行為=カルマ をすることは自由意志なのです。

仏陀は、生まれや環境や能力によってバラモンになるのではない、と言っているのです。

真理を行なおうとする意思によってバラモンになると言っているのです。

故に

『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。――影がそのからだから離れないように。』

                           『ダンマパダ』

と言います。

清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう

この『汚れた心で話したり行なったりする』『清らかな心で話したり行なったりする』というのがカルマ=身口意の行為です。

カルマに縛られるとかいうのも原意を知らない愚かなことです。カルマ=身口意の行為こそ自由意志なのです。

 

アルコール中毒の人が、「自分がアルコール中毒になったのは、生まれのせい、環境のせい、親のせいであって俺には何の責任もない」と考えれば、なるほど責任感、罪悪感からは解放されるでしょう。

しかし、最も重要な、『自分の自由意志でバラモンにもなれるのだ』という真理を捨て去ってしまうことになります。

『たらいの水と一緒に赤子を流す』という愚かなことです。

 

 私が使うときの『自由意志』とは非常に簡潔です。

それは、『外界に自動的に反応するのでなく、自分が主体的に出していこうとする想い』のことです。

私たちは、そのほとんどの想いは外界=環境に振り回されていて、環境(人など)に反応して自動的に想いが出るのであり、自分で出そうと思って出す想いはほとんどありません。

意識的に出す想いを、私は念(sati)と呼んでいます。

今の上座部仏教では、sati は気づきと訳されていますが、私はそうは訳しません。

外界に、自分の記憶の束が反応する、そのような思考ではなく、外界と関係なく意識的に出す想い、それは自由意思です。

 

 

 

 

赤い実 (123.217.210.189)    

ショーシャンクさん、おひさしぶりです。 愚さんという方のブログに私がコメントした文章の、アル中の人云々のところなんですが。 「責めずに淡々と治していけるきっかけになれます。」というのをきちんと書いているんですけど、なぜそこは抜かして、否定的にだけ捉えようとするのでしょう? あのブログで、愚さんや私が言わんとしているのは。 自由意志はない(因果因縁ですべては動いている)ということが理解できれば、世界と自分に対しての理解が深まり、新鮮な目で世界を見られるようになり行動も変化していく、ということですよ。 知ろうとせずに否定から入ってもしかたないとは思います。

 

 

 

赤い実さん、おひさしぶりです。『愚さんという方のブログに私がコメントした文章』と言う意味がわかりません。赤い実さんはあのブログにコメントしていたのですか?私が引用したのは、その時のブログの一番上にあった文章です。あの文章は、ブログ主が書いたものではないのですか?

それは置いといて、禅であれ、浄土門であれ、ノンデュアリティであれ、『自由意志はない』などというような教えには大反対です。

それは仏陀の教えとは真逆ですし、私が考える限りでは、そのような考えでは人間は最も悪い方向に行ってしまいます。人を無気力にする虚無思想です。あるいは薄っぺらい運命論です。

責めずに淡々と治していけるきっかけになれます』ということですが、アル中を治そうとする意思は自由意思ではないのですか?

アル中を治そうとか、この世をよくしようとか、身体を健康にしようとか、この世をカンバスとして自由に夢を描く、というのも自由意思ではなく、因縁因果とやらに支配されていることなのですか?業縁だとか、因果だとか、そういうものに操られているのが私たち人間だとでも?

馬鹿馬鹿しい。

そんな考えは、本当の仏陀の教えとは真逆ですし、人間から最も大事な『意志』を剥奪し現実から遊離した人間ばかりを増やす誤った考えです。

 

 

 

 

赤い実 (153.223.183.46)    

ブログの文章は。最初の方の部分は私の文章で、「因果しかない、自由意志はない、というのを理解するのはけっこう大変です。」という部分からは、愚さんというブログ主の文章です。 この世界のすべては、因果因縁に拠って成っている。 それは事実ではないですか? それから外れるものなど何もないでしょう。 ということは、自由意志というものは、原理的に「ない」ということですよ。 感情論で、「そんなことはない。」と言ってみてもしかたないです。 すべては因果因縁に拠って成っている、ゆえに自由意志というものはない、というのは、いわば、「世界は実はこうなっている」という設計図を示されているようなものです。 設計図を見て腑に落ちれば人は納得しますよね。 譬えで出している、アル中を治そうとする意志ですが。 ある人が「これは自分の意志である。」と思うことにより救われるのであれば、そう思うことは何の問題もないですよ。 それで救われるなら。 ただ。すべては因果因縁に拠り成っていて、ゆえに自由意志はない、というのは事実だということです。 事実を言っているだけです。
 
 
 
 
歴史上の仏陀、本当の仏陀(ゴータマ・シッダッタ)が説いた「縁起」とは本当はどういう意味か知ってますか?
これは私がずっと言ってきたことで、仏陀の真意は今の仏教のどこにも伝わっていないのです。要するに、今の仏教は仏陀が説いたものとはかけ離れた似非仏教です。
 
縁起と言うのは、苦の縁って起こる原因のこと、その完成形が十二縁起であり、相応部経典や中部経典などのどのパーリ仏典を見ても、縁起とは苦の縁って起こる原因のことです。ゆえに、仏陀が成道したとき『縁の滅を知ったので疑問はすべて消え去る』と言って解脱したのです。
縁が、あらゆる存在を成り立たせるものであれば、『縁の滅』などはあり得ないですね。
縁起とは苦の縁って起こる原因のことであるので、仏陀は『縁の滅』つまり苦の根本原因の滅を知って解脱したのです。仏陀の出家の動機は苦の消滅の探求でした。
もし違うというなら、パーリ仏典をすべて当たってみればいいでしょう。
 
それを仏陀の死後数百年の後に現れた龍樹が、『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない。実体がない。空である。』という独自の理論を打ち立てたのです。
これにより、『あらゆる存在は、他のすべての存在によって成り立っている。自分など無い。自性などない。空である。』というのが仏教の根本だとなっていきました。
 
歴史上の仏陀が説いた言葉に、『あらゆる存在は、他のすべての存在によって成り立っているから自分など無い。自性などない。空である。』というようなものがひとつでもありますか?出してみてください。
それははるか後世の者が勝手に作り上げた理論です。
今では『私たちは他のすべての存在に縁って生かされているの。だって、そうでしょ。食べている米も農家の人が作ったもの、着ている服もその素材を作った人がいる。それには空気も水もいる。人は自分一人では生きていけないの。周囲のものに生かされているのよ。それが縁起。縁起だから自分なんてないの。』みたいなことが仏教の本質だと考えられています。
歴史上の仏陀はそんなことは一言も言っていません。
『縁起だから空』などと言ったことはありませんし、『縁起だから自分がない。自由意志がない。』などと言ったこともありません。
『無常であり(つまり、生じたものは滅するものであり)苦であるものを、私、私のもの、私の本体だと言っていいであろうか?』と言ったのです。
つまり、無常なものは非我と言ったのです。
 
仏陀が説いたkamma(業・カルマ)とは、身口意の行為、行い のことです。
心の想い、口から出る言葉、身体的な行為 のことです。
心の想い、想いにもとづく言葉、想いにもとづく身体的な行為 のことです。
 

生まれによって、バラモンとなるのではない。

 生まれによって、バラモンならざる者となるのでもない。

 行為によって、バラモンなのである。

 行為によって、バラモンならざる者なのである。」

『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。――影がそのからだから離れないように。』

 

自らの想い(それに、想いに基づく言葉、想いに基づく行為)によって、バラモンとなるのです。

自らの想い(それに、想いに基づく言葉、想いに基づく行為)によって、現象が現れてくるのです。

ものごと、現象(環境)はその人の想いによって作り出されるのです。影のようにつき従うのです。

もし、因果というなら、意思、想いが因で、物事、現象が果です。

自由意思が因であり主です。ものごとはそれにつき従うのです。

 

その最も主であり原因である自由意思を否定するのは、虚無思想、運命論であり、最も怖ろしい邪法です。

 

今の仏教には仏陀の真意は伝わっていません。

 

そして、シャンカラが起こしたアドヴァイタも本来の意味からかけ離れたノンデュアリティ(似非アドヴァイタ)になっています。

アドヴァイタを名乗っていた人たちがなぜ最近アドヴァイタと言う言葉を使わずにノンデュアリティという名称に変えたか知ってますか?

それは、シャンカラから伝えてきた正統アドヴァイタの人たちから、『そのようなものはアドヴァイタではない。似非アドヴァイタだ。』と強い非難をされたからです。

ノンデュアリティの人は『すべては起こっているだけ。そこには自由意思はない。自分もない。』 と言います。意思をなくして、現実社会に力強く対処する原動力もなくしてどうするのでしょう。

 

どうしようもなくアル中な人がいたとします。また、どうしようもなく粗野で短気な人がいたとします。その人たちは、なぜそうなのでしょう?脳、身体の特性、環境、遺伝的なもの、それらがあいまってそのようになってるわけです。自分を責めてもしかたないんです

赤い実さんが言うような、罪悪感を持たない人、責任感を持たない人、環境や遺伝のせいにする人は非常に増えていますね。

自分の身勝手な欲望のために何人も殺してしまった犯罪者でも、環境や親のせいにして自分に責任はないと言う人も数多いようです。

良心=無量心 に少しでも目覚めると、懺悔の気持ちは沸き上がってくるものです。

それによって、過去の記憶の束がいかに限定されているかを知り、deleteできるのであって、自分の責任など無い、すべては環境のせい、遺伝のせいで、俺が悪いんじゃない、などと考えていたら、罪悪感に苦しむことはないでしょうけど、犯罪者によくある『環境や人のせいにする責任逃れの甘え人間』を増長するだけです。

 

いいですか?人間は自分に起きていることはすべて自分が原因なのです。アル中の人がいて、その人がアル中なのはその人が原因なのです。自らの起きることの原因は自分です。であるので、自分がアル中を治すこともできるのです。

自分以外のものがすべての原因で自分の意思などなくアル中になってしまったのなら、自分の意思でアル中から抜け出すことなどできないですよね。

 

自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか?

自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

                   (ダンマパダ 160)

 

 

 
 
赤い実 (123.217.205.19)    
たびたびお邪魔します。 どうも話がかみ合いませんね。これも因果因縁ということなんでしょうけど。(笑) 私が言っているのは。世界は実はこうなっているよ、という設計図ですよ。 自由意志というものがあるように見えているけれど、すべては因縁因果に拠って成っている、ということ。 それは、自然現象だけでなく人間界にも貫いていますよね?という話です。 何も、普段から、「自由意志なんてない。」なんて言わないですし、自分の責任を放棄してもいい、だなどとまったく言っていません。 ショーシャンクさんにとっては、そういうふうに認識されるもの、なのでしょうけれど。 自灯明というのは、四念処から得られるものだという話をたしかされていましたよね。 ここでも書かれていますが、無常なものは非我であるということを明らかにしていくのが四念処ですよね。 無常なものは非我ということは、身体や思いというのは非我ですね。 それが理解できれば、そこに新しい力が自ずと湧いてくる、ということ、これは、「自由意志はない。」と理解できれば、逆に自ずとそこに新しい別の力が湧いてくる、というのと同義になりますよ。 と、言っても、認めたくはないでしょうけれど。 言えるのは。 ノンデュアリティも玉石混交で、きちんとしたものは本も重版されて広まっていて、多くの人に役立っているということです。 それは、ショーシャンクさんがノンデュアリティ(非二元)を訝しく思おうと事実ではあります。 どういうことがそこで言われているのかを、先入観なしに見てみるか否かは、どれだけ、「記憶の束からの束縛」を受けているか否かの試金石になるかもしれません。
 
 
ですから、『すべては因縁因果に拠って成っているから、自由意志なんてない、自分なんてない』というのは仏陀の真意ではないと言っているのです。
むしろ真逆です。
環境などの『他』を主としてはいけないのです。
『他』に従属し、反応するのは記憶の束です。
そのようなものをdeleteして主体的な想い、意識的に出そうとする想い、自由意志こそが重要なのです。
自由意志がものごとを作り上げるのです。
因縁因果などという薄ぼんやりした曖昧なものなどに支配されてはいけないのです。
因縁因果と書いてますが、具体的に何ですか?
 
環境に従属した想いを出す人は多くいます。
環境にとらわれずに主体的な想いを出す人もいます。
無量からの想いは自由意思です。
条件付けられたりはしない。
 
新しい力が自ずと湧いてくる』のは自由意思ではないのですか?
責めずに淡々と治していけるきっかけになれます』と書いてますが、アル中を治そうというのは自由意思ではないのですか?
 
四念処とは、身⇒受⇒心⇒法 です。
身は滅するもの、腐っていくものだと観じること。
受は身の六入によってあり、精神を縛るもので苦であることを観じること。
心はその時々の受によってふわふわと起こってくる思いでとりとめもなく生じ滅するものだと観じること。
法とは、観念、記憶の束という思いが集まったもので、私ではないとdeleteすること。
 
四念処⇒択法⇒精進 の択法とは
四念処の身⇒受⇒心⇒法の法を捨て、仏陀が説いた理法を選択してそれを念=記憶して留めること。
 
一言で言えば、環境に従属した思いを捨て、主体的な思いを出すことです。
それが自己を主とすること、自由意思です。
 
 
赤い実 (123.217.215.227)    
すみません。質問です。 さきほど書き忘れました。 >いいですか?人間は自分に起きていることはすべて自分が原因なのです。 と書かれています。これは、もちろんご自分にも貫かれているとお考えでいいですよね? であればですが。ヤフー掲示板にいろんな人が来てトピが荒れたようになったのも、ショーシャンクさんが原因とお考え、ということでいいのですね? 他の誰一人として荒れた原因になった人はいない、と考えていらっしゃる、そして当時もそのように考えていらしたということですか? このブログで、「ここならアラシも来ないので。」という文章を去年の夏ごろでしょうか、文中に書かれているのを見たんですよ。 アラシが来ていた、と認識していたということと、「自分にだけ原因がある」というのは両立しうるんでしょうか? なにか、体裁を繕って綺麗ごとを言っているようにも感じられはします。  もちろん。ショーシャンクさんのあのトピには大勢の人々がやってきて、それでも真摯に対応されていたと思うのです。 荒れた原因というのは、ショーシャンクさんだけにあったのではなく、そういう因縁因果に拠り成ったのだと私は思いますよ。 ただ、これは。誰にでももちろん、私ももちろんなのですが、「自分のどこか良くなかったのか。」というのは、どれほど痛くてもその都度、考えてみる必要があるだろう、ということです。 このあたりの話を掲示板の最後のあたりで、ショーシャンクさんとしたかったのですが、話の持って行き方が不味くて伝わらず、怒りを買ってしまうだけになってしまったのは、少し心残りではありました。 今のこの話も、どこまで伝わるか自信はないのですが・・・。 めんどうでしたらスルーしていただいてかまいません。
 
 
その質問にもすでにはっきり答えています。
大事な日に雨が降るのも、晴れるのも、つまり自分に起こるすべての環境は自分が作り上げたものだと考えています。
つまり、想いが主となり、ものごと、環境が影のように現れてきます。
しかし、雨の時は傘をさします。想いで雨の環境を引き寄せたからと言ってずぶ濡れにはなりません。傘をさすでしょうし、軒下に逃げ込んで雨宿りするでしょう。
同じく、誰かが刃物で襲い掛かってきたら、落ちている棒を取って防御し戦うでしょう。あるいは全速力で逃げるでしょう。あるいは警察を呼ぶでしょう。刃物で刺されるままになどしません。
すべて自分の想いが現象になって表れてくるので、卑小な思いばかり出していると卑小な環境になって表れてきます。だから、卑小を離れ無量に近い思いを出していこうとするのです。しかし、卑小な思いも多く出しているのでそういう現実が現れます。それだけのことです。
アラシが来ると言っても、浄土真宗の寺のmicだけでしたね。アラシは。
これは酷かったですね。
30も連続投稿を続けて私の投稿が表示されるのを邪魔していました。
親鸞を否定することを私は書いていたので、浄土真宗のその人はそういう嫌がらせを延々と続けてきました。これは私の信念が引き寄せた出来事です。
いくら迷惑投稿をされても、私は同じ主張をしていました。
hさんは、最初は同じく迷惑投稿していましたが、最後には、私だけといっていいほど丁寧で教養のある投稿をされるようになりました。
 
micのようなアラシも雨と同じです。雨のかからないところに雨宿りしたり傘はさします。
 
 
赤い実 (123.217.211.184)  
>因縁因果と書いてますが、具体的に何ですか? すべてのものは、因縁因果に拠り成っている、ということですよ。 山も海も身体も心も。 >『新しい力が自ずと湧いてくる』のは自由意思ではないのですか? >『責めずに淡々と治していけるきっかけになれます』と書いてますが、アル中を治そうというのは自由意思ではないのですか? これね。自然と湧いてくるものなんですよ。 すべての思い、こうしようという決意みたいなものも自然と湧いてくるものなんです。 自分が考えている、と通常は考えられるでしょうけれど、そうではなく自然と湧いてくるものです。 瞑想、坐禅をする人ならわかりそうなものですが。 で、何かを決意した、その決意を、「自分が決めた。」と思い、そう思うことによっていい気分になれるならそれでいいんじゃないですか、ということを言っています。 原理的に言って、非我であるものが自ら決定できますか? それとも、わざわざ四念処までして非我を知ろうとするのは、形だけのものですか? 条件づけられたものから湧いてくる、湧いてきたものを、「自分が決定した。」とするのは、方便としては有効でしょう。 しかし、原理としては、非我であるのだから、決意も湧いてくるものである、という捉え方を私はしている、という話です。 ショーシャンクさんはショーシャンクさんの認識のされ方で別にいいのではないでしょうか。 私の見解に説得しようというつもりはありません。 もしかしたら理解していただけるかな、と思い、私の投稿が引用されていたのでコメントしには来ましたけど。
 
 
だから、赤い実さんがいう、その因縁因果とは何ですか?と聞いています。
山、海、身体、心、が
どのような因縁因果で成っていると考えているのですか?
 
 『こうしようという決意みたいなものも自然と湧いてくるものなんです
だから、それが自由意思ではないですか。
外界に条件付けられて反応する思考でなく、自ら起こる思いは自由です。
つまり、自らに由るということです。
 
もう一度よく読んでください。
理解できないのなら、話すのは時間の無駄です。
条件付けられたものから沸き上がるものが自由意思だといつ書きましたか?
人の文章はちゃんと読んで理解してから投稿してください。
無我、非我だから何もないというのが虚無思想です。
限定という我 がないのが非我です。
限定がないとき無量となる、その無量から起こる想念は自由意思です。
ここまで何度も言ってわからなければ無駄ですね。
 
 
  赤い実 (123.217.211.184)    
お手数をおかけしております。 お答えいただきありがとうございます。 >大事な日に雨が降るのも、晴れるのも、つまり自分に起こるすべての環境は自分が作り上げたものだと考えています。 そうですか?  ショーシャンクさんの「思い」って天気まで作り出せる、と考えていらっしゃるのですか? 私はそんなものはない、と思いますよ。 因縁因果に拠って、天気は変化するでしょうけれど、自分の思いとは関係ないでしょうね。 >すべて自分の想いが現象になって表れてくるので、卑小な思いばかり出していると卑小な環境になって表れてきます。だから、卑小を離れ無量に近い思いを出していこうとするのです。しかし、卑小な思いも多く出しているのでそういう現実が現れます。それだけのことです。 人間関係には、思いが影響を及ぼすのは当然あるでしょうね。 卑小な、と書かれていますが、具体的にどのように卑小な思いが、あの掲示板の状態に影響を及ぼした、と考えられているのですか? 雨宿り、傘をさす、ということを否定するつもりはありません。
 
 
これもすでに書いているでしょう?
本当に文章をちゃんと読んでから質問してますか?
『アラシが来ると言っても、浄土真宗の寺のmicだけでしたね。アラシは。
これは酷かったですね。
30も連続投稿を続けて私の投稿が表示されるのを邪魔していました。
親鸞を否定することを私は書いていたので、浄土真宗のその人はそういう嫌がらせを延々と続けてきました。これは私の信念が引き寄せた出来事です。
いくら迷惑投稿をされても、私は同じ主張をしていました。』
こう書いてますよね。
つまり、親鸞を否定するという私の信念が引き寄せたことです。
それはどんな嫌がらせをされても、曲げませんでした。
自分の信念に従わずに親鸞凄いと言えば嫌がらせはなくなったかもしれませんが、
私はそうはしませんでした。
micに関してはそれが原因です。それはすでに書いているのですが。
質問をするときはちゃんと読んで理解してからしてください。
 
 
ところで、赤い実さんは、私のブログは見ませんから、と言ってませんでしたか?
どうせ嘘だろうとは思っていましたが。
 
『すべては因縁因果で起こっているだけ』なのなら、ヤフー掲示板でもしてましたが、なぜ赤い実さんは、人のスレやブログにまでわざわざ来ていろいろ言おうとするのでしょう?
すべて起こっているだけなんでしょ?
何かを自分の力で変えようとする自分の心を少しは見つめた方がいいですよ。

 

 

赤い実 (123.217.211.184)    

>だから、赤い実さんがいう、その因縁因果とは何ですか?と聞いています。 >山、海、身体、心、が どのような因縁因果で成っていると考えているのですか? ほんとにわからないんですか? 普通に考えればわかることじゃないですか。 例えば。ショーシャンクさんが自分のトピに親鸞批判を書いたので、みちおさんが来た。 来た理由は他にもあるのかもしれませんが、とりあえずそれですよね。 それは因果ではないですか。 山は、海から隆起してできた陸が、さらに火山活動などで出来たものですよね。 風雨に削られ変形したりもしていきます。 こうした、自然現象、人間界のことすべては、因果因縁に拠り成っている、ということを言っています。 >『こうしようという決意みたいなものも自然と湧いてくるものなんです』 だから、それが自由意思ではないですか。 ですから。そうしたものを「自由意志だ。」と思いたいなら思ったらいい、それで自分が納得がいく、救われるなら、と書いていますよね。 >限定がないとき無量となる、その無量から起こる想念は自由意思です。 沸き上がってくるものは自分の意志ではないですよ。原理的に言えばそうなります。 しかし、それを自由意志と呼びたいならそれでいいのではないですか、ということです。 前にも書いてますが。 非我であることがわかると別の力が沸き上がってくる、というのはたしかにそうで、それを自由意志だと取るか(ショーシャンクさんの意見)、いやそれも自由意志とは言えない(私の意見)という違いがあるだけ、だと思いますよ。 話がかみ合わないようですので、これについては終わっていただいてこちらとしては構いません。
 
 
ああ、つまり物理現象の原因結果のことを言っているのですね。
山は地球の物理現象により隆起してできたと。因縁因果でなるようにしかならなかったと。
しかし、その山の所有者の意思によって、その山を全部削って平地にして住宅地分譲するか、その山のままで置いておくか、どちらの判断もできる場合、その人個人の意志で山が全部無くなったりあったりしますね。
なるようにしかならないわけではなく、人間の意志、判断で無数の選択肢があり、すべては不確定であり、その変化の可能性は無限です。
つまり、このように物理的なことだけで考えても、人間の意志によって、つまり人間の意志を原因としてどのようにも主体的に作り上げることができるではないですか。
因縁因果だから自由意思がないなどと言うのは、全くの空論です。
まあ、赤い実さんの反論も予想できます。
その山の所有者の判断も条件付けられてそういう判断をするしかなく、山がなくなるのも因縁因果でそうなるしかなかったんだ、山の所有者の自由意思などないんだ、というのでしょう。
そういうことであれば、薄っぺらい運命論にしか過ぎませんね。
仏陀の本当の教えがこのようなくだらない理論と勘違いする人が増えないのを祈るばかりです。
 
まあ、平行線ですからこの辺で終わりにします。
自由意思がないなどと言うのは、無我という言葉を勘違いして虚無思想に突き進んだ仏教の弊害だと思っていますよ。
やはり、本当の仏陀の真意を復興させなくてはと切実に思いました。
 
赤い実さん、これ以上は平行線なのでこれで終わりにしますね。
 
 
 
 
 
 

 

レス

id:tabotan  

ショーシャンクさんこんばんは。 また某M掲示板見たら、揃いも揃ってあまりにピント外れだったのでここに書きます。 智慧について言えば私なら一言で言えます。 智慧とは自分は無知だと体全体で気付いて後、全身で一個の問いになって天に問う事。 ショーシャンクさん私の智慧の定義はどうですか? クリッシュナムルティ ならこうゆうでしょう。 ありのままの真理を見る自由と知恵はその真理の自覚である。 うん、まぁこれも分かります。 つまり思考が完全に停止した時にありのままの真理を見る自由があるのだと思います。 空の世界と現象界と第3の無常の世界 そして仏陀のいう中道とか四無量心はここだと思います。ショーシャンクさん違う?
 
 
たーぼーさん、おはようございます。
私は判断する立場にはないですが、いいのではないでしょうか。
『全身で一個の問いになって天に問うこと』は、臨済禅であれば公案、曹洞禅であれば只管打坐と言うことだと思います。
特に白隠が強調したことですね。
 
仏陀のいう中道とは八正道のことで、八正道とは正見=智慧に基づく生き方、そして智慧とは無量心の自覚と考えていますので、『仏陀のいう中道とか四無量心はここだと思います』というのはその通りだと思います。

大乗仏教はなぜ興ったのか

仏陀の死後、仏教はその教説の独自性、優越性を強調する方向に行きました。
これは、どの宗教でも見られることで、自分が信じる宗祖の教えが他の教えより優れていることを強調したいというのは
その弟子たちにありがちなことです。
仏教も、どんどん、その方向に進んでいきました。
特に、その時代の精神フィールドそのものだったバラモン教との差別化や優越性の強調は大きくなっていきました。
例えば、最古層の仏典では、ゴータマ・シッダッタを『バラモン』とか『ヴェーダの達人』とか呼ぶ場面は多いですが
時を経るにつれ呼称は『尊師』などとなっていきました。

『諸法非我』についても、『我』がバラモン教のアートマン思想と見なされ、アートマン否定、バラモン教否定という意味での『諸法無我』に意味が変わっていきました。

ブラフマンもアートマンも存在の根源という意味合いが強く、それを否定していったために灰身滅智の方向へと仏教は傾いていきました。
根本分裂以降、部派仏教の時代になると、無我であれば因果の果を何が受けるのかという根本命題が出てきて、
それに対して煩瑣な理論ばかり盛んになっていきました。

仏陀の在世中には、無量心はbrahmam vihara という究極の境地だったと思いますが、
後世の仏教はブラフマンを宇宙の根源ではなく、色界最下層の梵天にまで貶めたため
無量心も色界最下層の境地とされ、解脱には至らないとされました。

このような状況の時に、『こんなものは仏陀の説かれた法ではない』『仏陀はもっと大いなる法を説いたのだ』と主張していったのが
大乗仏教運動だと考えています。
それは僧院の中で反骨的な僧が新たに大乗仏典を書いていったところから始まり、
それが徐々に広がっていきましたが、教団ができるのは5世紀以降です。
法華経にあるように、僧院を追い出されたりした『法師』という人たちが中心に小さな教団ができていったと考えます。
それより前に大乗仏典は中国に渡り、インドよりも中国で流行り出します。


このように、私は、大乗仏教は、灰身滅智に傾き、煩瑣な理論にふけっていた部派仏教のアンチテーゼ、
仏陀の真意の復興運動として起こったと考えます。

 

中心のない大海

id:tabotan  

たーぼーです。 ショーシャンクさんこんばんは。 全ての現象は心が作り出すという気持ちが日に日に強くなってきてます。 そうすると、日本の大乗仏教が仏陀の真意から外れて、こんなに歪んでしまったのは、私の心が歪んでしまったからではないかと思うんです。 つまり仏法といえども私の心から独立したものではなく、私の心が映し出した現象に過ぎないと思います。 最近、何か他の禅などをスマホで見ていると、ちょっと以前と変わってきて、何かまともになってきたというか私好みに変わって来てるような気がしてます(笑 気のせいでしょうか?
 
たーぼーさん、おはようございます。
心が極限まで広がっていけば、宮澤賢治のように、世界のすべては自分の心の現れだと本当に感じることができるのだと思いますが、現実には、肉体を持ち感覚を持っているわけです。この、感覚⇒経験⇒記憶⇒思考⇒自我 という形成作用は止むことがありません。ここを放置していて、世界を動かす気分になっても、それは気分だけになってしまって現象として現れません。
無量心とは、喩えると、無限の大海です。現象は、その大海の上に浮かんでは消える波です。無限の大海には中心がありません。中心がないから無限なのです。
ただ、私たちは肉体を持ち感覚を持ち記憶の束を持っています。それを『私』と呼んでいます。つまり中心を持っているのです。
 
仏教つまり、大乗仏教や部派仏教を問わず、過去の記憶の束をdeleteする方法を捨て去ってきました。自我という中心を洞察する方法も捨てています。
 
今思うのは、いくら頭や気分で『ワンネス』だと言っても、それはただの気分なので、精神を現実から遊離させるだけになってしまうということです。
 
ノンデュアリティの指導者で、『すでに目覚めている』などの著作もあるネイサン・ギルという人は自殺しました。病苦を抱えていたとのことです。
いくら口で『私はすでに目覚めている』『私など無い』『あるのはワンネスだけ』『すべては起こっているだけ』などという悟りすましたような言葉を並べても、病苦で自殺してしまうのです。
ノンデュアリティにしても、今までの仏教にしても、何かが違うと言わざるを得ないです。
想像上の広がりではなくて、広がりを限定している中心を洞察することで中心を消滅し無限の大海に到達すること。
これが本当ではないかと思っています。

仏陀の真意=無量心 から解釈する法華経自我偈

私は歴史上の仏陀の真意を探求してきました。最古層の仏典からわかった仏陀の真意は素晴らしいものでした。もちろん、一時的で、まだずっとその無量にあることはできてないですが、垣間見た無量から法華経を訳してみました。

大乗仏典は、仏陀の教えによって目覚めた人たちが次々と創作したものです。そのため、筏はないのですが、芸術作品としては素晴らしいものです。

なぜ、大乗仏教が生まれたのかもはっきりとわかるようになってきました。それについても、この『今まで絶対に書けなかったこと』で書いていきます。法華経全二十八品の全訳もいつかはしたいと思っています。

歴史上の仏陀の真意から大乗仏典を見ることができれば、小乗大乗という争いがなくなり、仏教の全肯定に進むことができるかもしれません。

今回、法華経の真髄の中の真髄、法華経如来寿量品自我偈について、仏陀の真意、無量からの訳をしてみます。

 

 

 

 

法華経如来寿量品自我偈】仏陀の真意、無量からの訳

 

私は、実に無量百千万の昔から無限の大海であるのだ。

ある時には仏陀として現れ、ある時には諸仏として現れ、また様々な覚者として現れ、無量劫において常に法を説いて無数の衆生を無量の境地に入らしめてきた。

衆生を救うために、方便をもって、波として現れ 波として滅を現じる。

しかし、本当は滅度などしておらず、常に無限の大海として此処に住して法を説いている。

私は常に此処に住しているが、顛倒の衆生は、その顛倒妄想によって近くても見えないのだ。

衆生は、私が死んだのを見て広く舎利を供養し、皆強く恋慕し、渇仰の心を生ずる。

衆生が強く信じ、正直で柔らかい心となり一心に仏を見たてまつらんと欲して自らの身命を惜しまないならば、その時、私と私の弟子は共に霊鷲山に現れる。

その時、私は、衆生に語る。

私は実に無限の大海であり、常に此処にあって滅したことなどなく、方便力をもって波としての生死を見せたのだ。

他の国に恭敬し信じる衆生があれば、私はそこに現れ無上の法を説く。

汝等はこれを聞かず、ただ私が滅度したと思っている。

私が見るに、もろもろの衆生はみな、苦海に没している。

故に、仏陀の個体を滅して姿を消し、衆生に渇仰の心を生じさせる。

衆生に恋慕の心が生じれば乃ち出でて為めに法を説く。

神通力はこのようである。

永遠の昔から、私は常に霊鷲山やその他のあらゆるところに遍満し、山となり、川となり、海となり、星となり、宇宙となって輝いている。

衆生が生滅するこの世を見て世の終わりと嘆くときも、我なる大海に浮かぶ波は穏やかで光り輝いており、天人は充満し、園林や諸堂閣は種々の宝で荘厳され、宝樹には花が咲き誇り果実がたわわに実っていて、衆生が遊楽している。諸天は天鼓を撃って常に妙なる音楽を鳴らし曼陀羅華を仏や衆生に降らしている。

我が大海に浮かぶ波はこのようであるのに、諸々の衆生は悪業の因縁のせいで阿僧祇劫を過ぎても三宝の名前さえ聞くことができず憂怖や苦悩という大火に焼かれている。

しかし、心が柔和でまっすぐになれば、その瞬間、私が無限の大海でありここにあって法を説いているのをたちまち見るであろう。

 

仏の慧光は無数劫に無量を照らしている。

汝ら智がある者よ、ここにおいて疑いを生ずることなかれ。まさに断じて永遠に疑いをなくしてしまえ。仏の言葉は真実なのだ。

医師が自分の狂った子を治すために、死んでいないのに死んだと言って方便を使って救ったように、私もこの世の父でありすべての苦悩を救う者なのだ。

凡夫は顛倒しているがゆえに、無限の大海が今ここにあるのに見えないのだ。凡夫は、ずっと仏陀という個体が存続すると考えるとそれに頼り、おごりの気持ちを生じ、怠けて五欲に執着し、悪道に堕ちるだろう。

私は、常に衆生がどのくらい心境が進んでいるかを知って、それに応じて種々の法を説く。

私は、無限の大海として、常にこう念じている。

すべての衆生が無量の境地に達し、無限の大海になりますように。

縁起・・・歴史上の仏陀が説いた本当の縁起とは

仏教がほかの教説と違うのは【縁起】を説いたことだと言われています。

しかし、現在、仏教で説かれている縁起の解釈は、歴史上の仏陀ゴータマ・シッダッタ)が説いたこととはかけ離れています。

それでは、仏陀は何を説いたのでしょうか。

 

仏陀が目指したのは、苦の完全な消滅でした。

これは、仏教の根本たる四諦の法が、もっぱら苦と苦の生滅についての理法であることからも明白です。

 

仏陀は、苦を完全に消滅させるために、苦の原因を探求していきました。

何故、苦の原因を探って、苦を消滅させようと思ったのでしょうか。

 

『それ』があれば苦があり、『それ』がなければ苦がない。『それ』が生じれば苦が生じ、『それ』が滅すれば苦が滅す。・・・

厳密にこのような『それ』を見出すことができたなら、『それ』を消滅させれば苦を滅することができると考えたからです。

 

『それ』を滅したときに、苦が完全に滅する、そのようなものを探求していったのです。

 

縁起とは、縁りて起こることです。

歴史上の仏陀が説いた縁起とは、苦の縁りて起こる原因のことです。

その完成形が十二縁起です。

それ以外の縁起は歴史上の仏陀が説いたことではありません。仏陀がなくなって数百年も経って誰かが勝手に違う意味を付加したものです。

 

縁起とは、苦の縁って起こる原因のことであるからこそ、仏陀が成道したときに繰り返し十二縁起を順逆に観じ、

『縁の滅を知ったので、疑念はすべて消え去る』と言ったのです。

 

もし、後世の仏教解釈のように、縁起とは『あらゆるものはそれ以外のすべてのものに縁ってできている』というものであれば、どこまで行っても『縁の滅』というのはあり得ないですね。

『縁』『縁起』が苦の縁って起こる原因だからこそ、仏陀は成道の時に『縁の滅を知ったので、疑念はすべて消え去る』と言ったのです。