中部経典『ウパーリ経』

中部経典の第56は、『ウパーリ経』です。

 

これは大変興味深い経典です。最重要なことも説かれています。

 

興味深いのは、ジャイナ教の教祖マハーヴィーラ、つまりニガンタ・ナータプッタと釈尊との対決の話だからです。

最重要なのは、業の中で、心の想い、つまり意業が身体や口の業よりはるかに重要だという釈尊の真意が明らかになっているからです。

 

言い伝えによると、マハーヴィーラはこの釈尊との対決で口から血を吐き、そのあとほどなくして死んだとされます。

マハーヴィーラと釈尊が同時代人だったということは確かなようです。

 

 

マハーヴィーラは、身・口・意の行為のうち、身の行為が最も重要で、口や心の行為はそれに比べると取るに足りないと思っていたようです。

ゆえに、ジャイナ教は、苦行や裸行などの身体的な修行を重んじます。

 

釈尊は、身・口・意の行為のうち、意(心)の行為(想い)が最も重要で、身体や口の行為はそれに比べると取るに足りないと思っていました。

 

マハーヴィーラの信者であるウパーリが、これについて釈尊を論破しようと出かけます。

つまり、身の行為が最も重要で、口や心の行為はそれに比べると取るに足りないということを主張するためです。

 

 

釈尊は、そのようなウパーリにたいし、身・口・意の行為のうち、意(心)の行為(想い)が最も重要で、身体や口の行為はそれに比べると取るに足りないものであることを次のような例を次々と挙げて論破していきます。

 

 

『ニガンタ(ジャイナ教徒)が病気になり、苦しみ、重病人となり、冷水を拒み、湯を用い、かれは冷水を得ないまま死ぬとします。マハーヴィーラはこのものがどこに生まれかわると説いていますか?』

『マノーサッタ〈意に執着しているものたち〉という神々のところに生まれかわります。かれが意に束縛されているからです。』

 

解説すれば、ジャイナ教徒は、冷水を用いてはいけないという規則があり、冷水がほしいと考えながら死んだ場合、意に束縛された世界に行くと説かれていることの矛盾を突いています。

 

 

『もし、マハーヴィーラが、水に触れ進んだり引いたりしているうちに小さな生き物を殺すに至るとします。それはどういう果報となりますか?』

『意思のないものを大きく非難されるべきではありません。』

『意思をもってすればどうですか?』

『大きな非難されるべきものになります。』

 

 

『このナーランダーという町は栄え富み人々で賑わっています。ここで、ある人が、剣をかざして、『このナーランダーにいる生き物を一瞬のうちに肉塊にしてみせる』と言ったらどう思いますか?』

『それはできません』

『神通があり心が自在な沙門かバラモンが来て、『私はこのナーランダーを一つの意の怒りによって灰にして見せよう』と言ったらどうですか。』

『それはできます』

 

 

『ダンダキーの森、カーリンガーの森、マッジャの森、マータンガの森という森だけがなぜ森になっているのですか?』

『仙人たちの怒りによって、ダンダキーの森、カーリンガーの森、マッジャの森、マータンガの森という森だけが森になっています。』

 

はっきり言って、どれもこれも、例えとして、私たちには非常にわかりにくいものばかりです。

 

ただ、マハーヴィーラが説いていることをもってしても、冷水を飲まないということを守っていても、心で冷水にとらわれていたら、意に束縛された世界に生まれると説かれていて、身の行為より心の行為の方がその果報に影響しています。

 

害そうとする意思を持たずにうっかり殺生したときは非難は軽く、害そうとした意思をもって殺生したときの非難は重いとマハーヴィーラが説いていることも、矛盾です。

 

これらによって完全に論破されたウパーリは、釈尊の弟子となります。

 

ウパーリは資産家でしたので、それを聞いたマハーヴィーラは、ショックで口から血を出したということです。

 

 

 

 

中部経典『ジーヴァカ経』

中部経典の第55は、『ジーヴァカ経』です。

 

ジーヴァカという人が、つぎのように釈尊に尋ねます。

 

『ゴータマは、自分のために用意された肉を食べている』と言っている人がいます、と。

 

釈尊はこれに答えてこう言います。

 

(自分のために殺されたと)見られたもの、聞かれたもの、疑われたもの、の3つに関しては、肉を食べることができない。

(自分のために殺されたと)見られていないもの、聞かれていないもの、疑われていないもの、の3つに関しては、肉を食べることができる。

 

比丘が、慈しみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、慈しみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住んでいます。

その彼に、資産家が近づいてきて、翌日の食事に招待し、最上の托鉢食によってもてなします。

彼は、その托鉢食に縛られず、迷わず、ふけらず、危難を見、出離の慧をそなえて食べます。

その比丘は、そのとき、無罪そのものの食べ物を食べるのではありませんか。

 

 

ジーヴァカは、それに答えて言います。

『おっしゃるとおりです。私は、梵天は慈しみに住む者である、と聞いています。そのことにつきまして、私には釈尊が証人であると認められます。と申しますのは、釈尊は慈しみに住んでおられるからです。』

 

釈尊は言います。

貪りによって、怒りによって、愚痴によって害する者となりえますが、そうした貪り、怒り、愚痴は、如来には断たれ、根絶され、根底を失ったターラ樹のようにされ、空無なものにされ、未来に生起しない性質のものにされています。

 

 

『慈しみの心をもって住みます』のところが、『憐れみの心』『喜びのある心』『平静のある心』についても同じように説かれます。

中部経典『ポータリヤ経』

中部経典の第54は、『ポータリヤ経』です。

 

自分の仕事や財産をすべて息子たちに譲った資産家ポータリヤと釈尊の対話です。

 

ポータリヤは釈尊が

『資産家よ。』と呼びかけるのを不快に思います。

すべての地位や財産を息子に譲って最小限の衣食で暮らしているので、自分では『俗事の正断』『業務の正断』と思っているからです。

 

釈尊は、『聖者の律による業務の正断』を説きます。

次の八法が、聖者の律による業務の正断に導くと説きます。

 

1、不殺生によって殺生が捨てられるべきです。

2、不偸盗によって偸盗が捨てられるべきです。

3、真実語によって妄語が捨てられるべきです。

4、不両舌によって両舌が捨てられるべきです。

5、無貪欲によって貪欲が捨てられるべきです。

6、無毀瞋によって毀瞋が捨てられるべきです。

7、無忿脳によって忿脳が捨てられるべきです。

8、無過慢によって過慢が捨てられるべきです。

 

ここでも、『不善の法の捨断』が出てきました。

 

そして、不善の法の捨断をして、世間の味に対する執着がすべて残りなく消滅している、捨のみを修習します。

 

そこで、かれは、自分の種々の過去の生存を思い出し、宿住智を得ます。

そして、生けるものたちがその業に応じて赴くありさまを観る天眼智を得ます。

そこでかれは、この無上の、平静による念の清浄によって、もろもろの煩悩の滅尽から、煩悩のない、心解脱、慧解脱を現世において自らよく知り、目の当たり見、成就して住みます。

中部経典『有学経』

中部経典の第53は、『有学経』です。

 

釈尊が、釈迦国のカピラヴァットゥに近い、二グローダ僧院に住んでいたときのことです。

カピラヴァットゥの釈迦族のために新しい会堂が建てられたのですが、その会堂を最初に使ってほしいと釈尊に依頼が来ました。

高名な釈尊に最初に使ってもらえると縁起がいい(笑)ということでしょう。繁栄を期待してのことです。

いわば、こけら落としのようなものでしょう。

釈尊が法話をした後、アーナンダを指名して講話するように言います。

そこで、釈迦族出身で釈迦族に抜群の人気があるアーナンダが『有学の実践者について』話します。

 

そして、ここでも

不善の法を断じる⇒四禅⇒三明

が語られます。

 

いわば、釈迦族の祝いの席、こけら落としというときに、多聞第一のアーナンダが 不善の法を断じる⇒四禅⇒三明  を選んだということは、このことがいかに重要な理法であるかがわかります。

 

具体的には、

1、戒をそなえる者となる

2、もろもろの感官の門を守る者となる

3、食事に量を知る者となる

4、覚醒に努める者となる

5、七の正法をそなえる者となる

6、四禅を得る

 

 

『七の正法』とはこれです。

 

1、如来の菩提について信仰のあるものになる(saddho hoti)

2、慚のあるものとなり、身・語・意の悪行を恥じ、悪しき不善の法が入ることを恥じます。(hirima hoti)

3、愧のあるものとなり、身・語・意の悪行を恐れ、悪しき不善の法が入ることを恐れます。(ottappi hoti)

4、聞を積んでいる多聞者になります。(bahussuto hoti)

5、努力精進をそなえ、もろもろの不善の法を捨てるために、もろもろの善の法を成就するために、住みます。

6、念があり、最上の念と賢明をそなえる者になります。長い間行なわれたことでも、長い間語られたことでも、記憶し、つぎつぎ記憶します。(satima hoti)

7、慧のある者となり、生滅に通じる、聖なる、洞察力をそなえている、正しく苦の滅尽にいたる慧をそなえています。(pannava hoti)

 

 

この『七の正法』は、仏陀の真意を知るためには、非常に重要です。

 

ここで、6、についての註を見ます。

 

身と語の両者は色(rupa)であり、それを起こす心・心処は無色(arupa)である。

以上のように、これら色・無色の法がこのように生じ、このように滅している、と記憶し、つぎつぎ記憶し、念覚支(sati sambojihanga)を起こす。

 

 

この経典を見ても、念(sati)が『記憶』と言う意味であることがはっきりと示されています。

 

念(sati)は、『記憶』と言う意味で捉えるべきです。

その理解で初めて、三十七菩提分法が解明できます。

 

 

 

 

 

中部経典『アッタカ市人経』

中部経典の第52は、『アッタカ市人経』です。

 

アッタカ市の資産家ダサマが、アーナンダに質問します。

 

『釈尊は、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法を説いておられるのでしょうか。その一法とは何でしょうか。』

 

この問いに、アーナンダは、『これが一法です』と11の法を挙げます。

 

ここに、比丘はもろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じる喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。

かれはこのように観察します。

『この第一の禅は形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

 

大まかな考察、細かな考察が消え、内心が清浄の、心の統一された、大まかな考察、細かな考察のない、心の安定より生じる喜びと楽のある、第二の禅に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この第二の禅は形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

喜びを離れていることから、平静をそなえ、念をそなえ、正知をそなえて住み、楽を身体で感じ、聖者たちが『平静をそなえ、念をそなえ、楽に住む』と語る、第三の禅に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この第三の禅は形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

 

楽を断ち、苦を断ち、以前にすでに喜びと憂いが消滅していることから、苦もなく楽もない、平静による念の清浄のある、第四の禅に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この第四の禅は形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

 

慈しみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、慈しみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

彼はこのように観察します。

『この慈しみのある心の解脱も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です

 

憐れみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、憐れみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

彼はこのように観察します。

『この憐れみのある心の解脱も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です

 

喜びのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、喜びのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

彼はこのように観察します。

『この喜びのある心の解脱も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です

 

平静のある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、平静のある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

彼はこのように観察します。

『この平静のある心の解脱も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

比丘は、完全に色の想を超え、感覚的反応の想が消え、種々の想を思惟しないことから、『虚空は無限である』として、空無辺処に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この空無辺処定も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

 

比丘は、完全に空無辺処を超え、『識は無限である』として、識無辺処に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この識無辺処定も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

比丘は、完全に識無辺処を超え、『何ものも存在しない』として、無所有処に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この無所有処も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

 

アーナンダがこの11の法を説いたときに、ダサマは言います。

『私は一つの不死の門を探しながら、一度に11の門を聞くことにより得ました。たとえば、人の家に11の門があり、その家が焼けるとき、かれはいずれの門によっても自己を安全にすることができます。ちょうどそのように、私は、11の不死の門のいずれによっても自己を安全にすることができます。』

中部経典『カンダラカ経』

中部経典の第51は、『カンダラカ経』です。

 

カンダラカとは遍歴行者の名前です。

カンダラカという遍歴行者と象使いの子ペッサが、釈尊のもとに行って教えを聞きます。

 

釈尊は、ここの比丘には、阿羅漢であり解脱しているものがいて、それは四念処に心を定めて住んでいる、と言います。

 

身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。

受において受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。

心において心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。

法において法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。

 

 

象使いの子ペッサは言います。

獣は明瞭であり、象は調御することができるが、人間の心は密林(不透明)です。

それなのに、このように心が整えられているとは。

 

釈尊は、四種の人間のことを語ります。

 

1、自らを苦しめる者

2、他を苦しめる者

3、自らを苦しめ、他を苦しめる者

4、自らを苦しめず、他を苦しめない者

 

1の自らを苦しめる者は、苦行を行なう者。

2の他を苦しめる者は、猟師や漁師、牛殺しなど。

3の自らを苦しめ、他を苦しめる者は、横暴で残虐な王族などの支配者。

そして、4の自らを苦しめず、他を苦しめない者とは、この世に如来が現われていることを知り、出家し、不善の法を離れて修行し、五蓋を捨断し、四禅定に住みます。三明を獲得します。そして解脱します。

 

ここでも、

不善の法を捨離⇒五蓋の捨断⇒四禅定⇒三明⇒解脱

が出てきます。

 

 

 ここまで繰り返し繰り返し出てくるのは、仏陀が解脱した道筋である、

 不善の法を捨離⇒五蓋の捨断⇒四禅定⇒三明⇒解脱

が、極めて重要であるからです。

 

具体的には、

殺生・盗み・邪淫・妄言・両舌・悪口・綺語・などの不善の法を捨離する

眼耳鼻舌身意の感官から悪しき不善の法が流れ込まないように防護する

食べるにも飲むにも大小便をするにも正知をもって行動する

五蓋を捨断する

これが、不善の法の捨離となります。

 

その後、

第一の禅⇒第二の禅⇒第三の禅⇒第四の禅⇒宿住智⇒天眼智⇒漏尽智(煩悩を滅する智=四諦)⇒煩悩からの解脱

 

となります。

 

 

この経典には四念処も出てきますから、

四念処と、不善の法の捨離(そのひとつとして五蓋の捨断)

 

中部経典『降魔経』

中部経典の第50は、『降魔経』です。

 

この経典もわかりづらい内容です。

 

神通第一の弟子マハーモッガッラーナ(大目連)に悪魔が憑いて悩ませているという内容です。

 

過去七仏の第4のカクサンダ世尊のときの話をします。

そのときも、その悪魔は、バラモン資産家たちに憑依して、カクサンダ世尊の弟子の比丘を罵倒し誹謗します。

 

そのとき、カクサンダ世尊は弟子に向かって言います。

 

そなたたちは、

慈しみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、慈しみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みなさい。

 

憐れみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、憐れみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みなさい。

 

喜びのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、喜びのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みなさい。

 

平静のある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、平静のある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みなさい。

 

 

次に、その悪魔は、またバラモン資産家たちに憑依して、今度は比丘たちを尊重し供養しました。比丘たちはその喜びによって心に異変が起こるように。そのバラモン資産家たちは死後は善道の天界に生まれた。

 

そこで、カクサンダ世尊は弟子に向かって言います。

 

そなたたちは、

身体について不浄を観つづけ

食べ物について厭逆の想をもち

あらゆる世界について不快の想をもち

あらゆる行について無常を観つづけて、住みなさい。

 

 

その悪魔は、子供に憑依し、弟子の比丘の頭に一撃を加え、頭を割りました。

 

ここでカクサンダ世尊は、『この悪魔は際限を知らない』と感じて眺めた。

それと同時に、その悪魔は大地獄に生まれかわった。

仏陀の筏

原始仏典と大乗仏教を調べていくと、今こそ、歴史上の仏陀が残してくれた筏を甦らせないといけないという気持ちが強くなってきます。

 

原始仏典に何度も繰り返し出てくるものが仏陀の教えにとって極めて重要な法だということは間違いありません。

重要な理法は仏陀も何度も説かれ、弟子たちも心に留めて暗誦していたはずだからです。

 

『無常であり苦であるものを私、私のもの、わたしの本体と呼んでいいであろうか。』という言説はその一つです。数多く出てきます。

 

不善の法を捨てる⇒四禅定⇒三明⇒解脱

この図式も数多く出ます。

不善の法を捨てる⇒喜⇒身心が軽くなる⇒四禅定⇒三明⇒解脱

となることもあります。

このことから七覚支ができたと思います。

 

念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨

これが七覚支ですが、

私の理解では、念⇒択法⇒精進はすべて、不善の法を捨てて善法を残すことです。

 

私は、sati(念)は、記憶という意味だと考えています。

仏陀の理法を記憶し心に留めて繰り返し思い起こすこと、これがsati(念)です。

 

これは簡単なようで非常に難しいことです。

なぜなら、私たちは、常に思考の奔流に呑み込まれているからです。

肉体を持ち、感覚を持って、日々日常生活していると、絶え間なく感覚の経験が起きてきます。その感覚に反応して思考が出ます。その思考が連想となって、とめどない思考の奔流が起きます。

思考に巻き込まれている状態がほとんどです。

それに気づいてないと巻き込まれますから、『気づき』は大事なのですが、しかし、satiを気づきとだけ解釈してしまうと、ただの技法になってしまい仏陀の説いた理法と何の関係もないものとなります。

 

これでは、仏陀の真意は失われます。

最初期の弟子たちは、『生じるものは必ず滅する』という一言を聞いただけで悟っています。

これが仏陀の理法の根幹です。仏陀の理法の洞察なくして、涅槃はありえないと考えます。

 

四諦、十二縁起、四念処という仏陀の理法を洞察していくこと、ここを仏教なるものは捨ててしまった。

 

部派仏教(上座部仏教)は、マインドフルネス一辺倒です。

大乗仏教は、四諦十二縁起は声聞縁覚のための劣れる法として捨ててしまいました。

 

ゆえに、仏陀が残してくれた筏はいまはどこにもないのです。

 

大乗仏教の禅は、看話禅(公案禅)と黙照禅に分けられます。

公案を考え続けるか、何も考えず只管打坐か、です。

どちらも、仏陀の理法を瞑想することはありません。

 

40分の座禅の期間は思考のない状態になることはできたとしても、座禅から立ち上がると元の木阿弥です。

座禅を熱心にして、短期間で見性できたとしても、(3日間で見性させると豪語する禅師もおられるとか)我塊はそのままで、かえって、悟ったという体験を誇り増上慢になる人もいるようです。

 

仏陀の理法である十二縁起は、自我(私という中心)の成り立ちを洞察するものです。自我が構築され苦の集積に向かって激流に押し流されているこをとを如実に観察することです。

この洞察を経ないと大海へは出られません。

『私という中心』がそのままで、無量であることを阻害しているからです。

中心を持ったときに限定が生まれ欠乏感が生まれます。

 

大乗仏教には筏がありません。

 

『では大乗の修行によって悟った者がどれほどいるか、というと疑問ですね。宮元啓一氏が「大乗仏教の徒で、自他ともに仏となった、涅槃に入ったと認める人が、長い歴史のなかではたして登場したであろうか。答えは、まったく否なのである」と喝破している通りなのです。』(佐々木閑・宮崎哲弥  『ごまかさない仏教』より)

 

とある原因は、筏がないからだと考えます。

 

 

仏陀の理法を洞察し続けること、これこそが、仏陀の残した筏です。

 

 『無常であり苦であるものは、私、私のもの、私の本体ではない。』

つまり、非我です。

五蘊非我であり、四念処の身・受・心・法すべてを非我と観じること、です。

 

今の仏教には筏がありません。

今こそ、仏陀が残してくれた筏を掘り起こし甦らせなければならないと思っています。

 

中部経典『梵天招待経』

中部経典の第49は、『梵天招待経』です。

 

バカ梵天という梵天が、常見という悪しき見解を持ってしまったことから、仏陀が神通力を現しながら法を説くという経典です。

 

しかし、今のところ、核心となるものが私にはわかりにくい感じです。

 

仏陀が身体を消すという神通力を現したときに語った詩が、この経典の中心なのでしょう。

 

その詩はこうです。

 

私は有による恐れと

非有を求める者の有を見

いかなる有をも歓迎せず

また歓びに執着せず

 

 

この詩によって、梵天も梵天衆も梵衆天も不思議な珍しい心になったとあります。

 

しかし、私には今のところ、この詩の真価がわかりません。

またわかり次第、書いていきます。

 

 

中部経典『コーサンビヤ経』

中部経典の第48は、『コーサンビヤ経』です。

 

コーサンビーという町で説かれた説法です。

 

不和になって口論していたコーサンビーの比丘たちに説いたものです。

 

 憶念すべきもの、敬愛を生むもの、尊重を生むもの、愛護のため、口論のないため、和合のため、一致のための、六つの法です。

 

1、慈しみのある身の行為が同梵行者たちに対し、陰に陽に現れます。

 

2、慈しみのある語の行為が同梵行者たちに対し、陰に陽に現れます。

 

3、慈しみのある意の行為が同梵行者たちに対し、陰に陽に現れます。

 

4、(托鉢などで)正しく得られたものを同梵行者と共通に受用する。

 

5、同梵行者と陰に陽に戒を等しくするものとして住みます。

 

6、聖なる、解脱に資する、正しく苦の滅尽に導く見があり、同梵行者と陰に陽にそのような見を等しくするものとして住みます。 

 

 

そして、これら六つの法のうち、〈聖なる、解脱に資する、正しく苦の滅尽に導く見〉が最上であり、集約的であり、統合的なものです。

 

 

それでは、〈聖なる、解脱に資する、正しく苦の滅尽に導く見〉とはどのようなものでしょうか。

 

 

【第一の智】

【私には、心が纏わいつかれて如実に知ることも見ることもできない、内に断たれていない煩悩はない。私の意はもろもろの諦(四諦)を覚ることに向けられている。】

 

もし比丘が欲貪に纏わいつかれているならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘が瞋恚に纏わいつかれているならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘が沈鬱・眠気に纏わいつかれているならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘が浮つき・後悔に纏わいつかれているならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘が疑いに纏わいつかれているならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘がこの世の思いに熱中するならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘があの世の思いに熱中するならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘が論争し、不和となり、口論に及び、互いに舌鋒をもって突き合い、住むならば、心が纏わいつかれている者になる。 

 

【私には、心が纏わいつかれて如実に知ることも見ることもできない、内に断たれていない煩悩はない。私の意はもろもろの諦(四諦)を覚ることに向けられている。】と知るならば、これが最初の智であり、もろもろの凡夫と共通しない、聖なる、出世間のものです。

 

出世間法(lokuttaram)とは、聖者のみにあり凡夫にないから、出世間のものと言われる。

 

 

【第二の智】

【私は、この見に従い、修習し、繰り返し行なっているが、自己の寂止を得ている。自己の寂滅を得ている。】

 

 

【第三の智】

【私がそなえているような見をそなえた沙門・バラモンは、これより外に、他にいない。】

 

 

【第四の智】

【見を成就した人がそなえているような法性(違犯をしても、すぐ示し開き明らかにするような法性(自性・習慣・習性))を、私もそなえている。】

 

 

【第五の智】

【見を成就した人がそなえているような法性(仕事をしていてもさらに優れた戒定慧を学ぼうとする強い願いがある)を、私もそなえている。】

 

 

【第六の智】

【如来が説かれた法と律が示されているとき、目的を定め、意を注ぎ、あらゆる心をもって集中し、耳を傾けて法を聞く力量をそなえている。】

 

 

【第七の智】

【如来が説かれた法と律が示されているとき、義の悦びを得、法の悦びを得、法を伴った満足を得る力量をそなえている。】

 

 

 

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

 

 

中部経典『観察経』

中部経典の第47は、『観察経』です。

 

本当に覚者であるのか違うのか見極める観察法を説いています。

 

 

〈眼と耳によって識られる汚れの法が如来には存在しない〉

 ⇩

〈眼と耳によって識られる混合の法が如来には存在しない〉

 ⇩

〈眼と耳によって識られる清まりの法が如来には存在する〉

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〈この善法に長い間入っている〉

 ⇩

〈この尊者はよく知られ名声を得ている比丘である。しかし、かれはここに何ら危難がない〉

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〈畏れがなく静まっている。畏れがあって静まっているのではない。貪りが尽きていることによって貪りを離れていることから、欲に従うことがない〉

中部経典『大受法経』

中部経典の第46は、『大受法経』です。

 

前編の『小受法経』と同じく、

次の、四つの法の引き受けについての説法です。

1、現在に楽があり、未来に苦果がある

2、現在に苦があり、未来に苦果がある

3、現在に苦があり、未来に楽果がある

4、現在に楽があり、未来に楽果がある

 

 

 

【現在に苦があり、未来に苦果がある】

 

苦しみを共にし、憂いを共にし、殺生者となります。また、殺生を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、与えられないものを取るものとなります。また、与えられないものを取ることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、もろもろの欲における邪行者となります。また、もろもろの欲における邪行を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、妄語者となります。また、妄語を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、両舌者となります。また、両舌を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、悪口者となります。また、悪口を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、綺語者となります。また、綺語を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、貪欲者となります。また、貪欲を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、瞋恚者となります。また、瞋恚を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、邪見者となります。また、邪見を縁として、苦しみ・憂いを感受します。

死後、苦処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。

 

 

 

 

【現在に楽があり、未来に苦果がある】

楽しみを共にし、喜びをも共にし、殺生者となります。また、殺生を縁として楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、与えられないものを取るものとなります。また、与えられないものを取ることを縁として楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、もろもろの欲における邪行者となります。また、もろもろの欲における邪行を縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、妄語者となります。また、妄語を縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、両舌者となります。また、両舌を縁として楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、悪口者となります。また、悪口を縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、綺語者となります。また、綺語を縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、貪欲者となります。また、貪欲を縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、瞋恚者となります。また、瞋恚を縁として楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、邪見者となります。また、邪見を縁として、楽しみ・喜びを感受します。

死後、苦処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。

 

 

 

 

【現在に苦があり、未来に楽果がある】

 

苦しみを共にし、憂いを共にし、殺生から離れるものとなります。また、殺生から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、与えられないものを取ることから離れるものとなります。また、与えられないものを取ることから離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、もろもろの欲における邪行から離れるものとなります。また、もろもろの欲における邪行から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、妄語から離れるものとなります。また、妄語から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、両舌から離れるものとなります。また、両舌から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、悪口から離れるものとなります。また、悪口から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、綺語から離れるものとなります。また、綺語から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、貪欲から離れるものとなります。また、貪欲から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、瞋恚から離れるものとなります。また、瞋恚から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

苦しみを共にし、憂いを共にし、邪見から離れるものとなります。また、邪見から離れることを縁として、苦しみ・憂いを感受します。

かれは、身体が滅ぶと死後、善道の天界に生まれかわります。

 

 

 

【現在に楽があり、未来に楽果がある】

 

楽しみを共にし、喜びをも共にし、殺生から離れるものとなります。また、殺生から離れることを縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、与えられないものを取ることから離れるものとなります。また、与えられないものを取ることから離れることを縁として、、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、もろもろの欲における邪行から離れるものとなります。また、もろもろの欲における邪行から離れることを縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、妄語から離れるものとなります。また、妄語から離れることを縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、両舌から離れるものとなります。また、両舌から離れることを縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、悪口から離れるものとなります。また、悪口から離れることを縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、綺語から離れるものとなります。また、綺語から離れることを縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、貪欲から離れるものとなります。また、貪欲から離れることを縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、瞋恚から離れるものとなります。また、瞋恚から離れることを縁として、楽しみ・喜びを感受します。

楽しみを共にし、喜びをも共にし、邪見から離れるものとなります。また、邪見から離れることを縁として、、楽しみ・喜びを感受します。

かれは、身体が滅ぶと死後、善道の天界に生まれかわります。

 

 

中部経典『小受法経』

中部経典の第45は、『小受法経』です。

 

四つの法の引き受けについての説法です。

 

1、現在に楽があり、未来に苦果がある

2、現在に苦があり、未来に苦果がある

3、現在に苦があり、未来に楽果がある

4、現在に楽があり、未来に楽果がある

 

 

1の『現在に楽があり、未来に苦果がある』とは、欲望のまま、煩悩のままに快楽を貪ることです。

この蒔いた種は、誰も引き取ってはくれず、すべて自分の苦果になります。

死後、苦処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。

 

2の『現在に苦があり、未来に苦果がある』とは、種々の身体的な難行苦行を行なうことです。

これも間違っているために、死後、苦処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。

 

3の『現在に苦があり、未来に楽果がある』とは、貪り・怒り・愚痴の多い性質の人間が、そのような煩悩から来る苦しみを甘受しながら、泣きながらでも、完全な梵行を行ないます。

かれは、死後、善道の天界に生まれかわります。

 

4の『現在に楽があり、未来に楽果がある』とは、貪り・怒り・愚痴の強い性質のない人間が、もろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じた喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。

大まかな考察、細かな考察が消え、内心が清浄の、心の統一された、大まかな考察、細かな考察のない、心の安定より生じる喜びと楽のある、第二の禅に達して住みます。

喜びを離れていることから、平静をそなえ、念をそなえ、正知をそなえて住み、楽を身体で感じ、聖者たちが『平静をそなえ、念をそなえ、楽に住む』と語る、第三の禅に達して住みます。

楽を断ち、苦を断ち、以前にすでに喜びと憂いが消滅していることから、苦もなく楽もない、平静による念の清浄のある、第四の禅に達して住みます。

かれは、死後、善道の天界に生まれかわります。

 

中部経典『小有明経』

中部経典の第44は、『小有明経』です。

 

信者の問いにダンマディンナーという比丘尼が答えたものです。

 

『〈自身〉とは何でしょうか。』

『〈自身〉とは、色・受・想・行・識の五取蘊です。』

 

『〈自身の生起〉とは何でしょうか。』

『再生を起こし、歓び貪りを伴い、ここかしこで歓喜する渇愛です。すなわち、欲愛、有愛、無有愛です。』

 

『〈自身の滅尽〉とは何でしょうか。』

『その渇愛の消滅による完全なる滅尽、捨棄、解脱、無執着です。』

 

『〈自身の滅尽に至る道〉とは何でしょうか。』

『八正道です。』

 

『八正道は、有為のものでしょうか。それとも無為のものでしょうか。』

『有為のものです。』

 

『八正道によって三蘊はまとめられますか。それとも、三蘊によって八正道はまとめられますか。』

『三蘊によって八正道はまとめられます。

 正語・正業・正命は戒蘊に、正精進・正念・正定は定蘊に、正見・正思は慧蘊にまとまられます。』

 

『定とは何でしょうか。もろもろの定の相とはどのような法でしょうか。もろもろの定の資具とはどのような法でしょうか。定の修習とは何でしょうか。』

『心の統一、これが定です。

 四念処、これが定の相です。

 四正勤、これが定の資具(要素)です。

 それらの法の親近、修習、復習、これが定の修習です。』

 

以下、答えだけを書きます。

 

『出入息が身の行です。大まかな考察、細かな考察が語の行です。相と受が心の行です。』

 

『出入息は、身に属するものであり、身に結ばれています。ゆえに、身の行です。

 先に大まかに考え、細かに考え、後に語を発します。ゆえに語の行です。

 相と受は、心に属するものであり、心に結ばれています。ゆえに、心の行です。』

 

『想受滅定に入るには、私はこれだけの時間無心になろうと時間を限定する心が修習されています。』

 

『想受滅定に入る比丘には、最初に語の行が、次に身の行が、そして心の行が滅します。』

 

『想受滅定から出るには、私はこれだけの時間経ってから有心になろうと以前に修習されています』

 

『想受滅定から出る比丘には、最初に心の行が、次に身の行が、そして語の行が生じます。』

 

『想受滅定から出ている比丘には、空性の接触、無相の接触、無願の接触があります。』

 

『想受滅定から出ている比丘の心は、遠離(涅槃)に下り、遠離に傾き、遠離に向かいます。』

 

『楽受は、とどまりを楽とし、変化を苦とします。

 苦受は、とどまりを苦とし、変化を楽とします。

 非苦非楽受は、智を楽とし、無智を苦とします。』

 

『楽受は、貪りの煩悩が、

 苦受は、怒りの煩悩が、

 非苦非楽受は、無明の煩悩が潜在しています。』

 

『楽受は、貪りの煩悩が、

 苦受は、怒りの煩悩が、

 非苦非楽受は、無明の煩悩が断たれるべきです。』

 

 

『ここに比丘は、もろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じた喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。

それによって貪りを断ちます。

 

ここに比丘は、このように熟慮します。

〈私は聖者たちが達して住んでいるところに、いつ達して住むのであろうか〉と。

このようにして、無上の解脱に対する願いを起こす者には願いによって憂いが生じます。

それによって怒りを断ちます。

 

ここに比丘は、楽を断ち、苦を断ち、以前にすでに喜びと憂いが消滅していることから、苦もなく楽もない、平静による念の清浄のある、第四の禅に達して住みます。

それによって無明を断ちます。』

 

『苦の受が楽の受の対です。』

 

『無明が非苦非楽の対です。』

 

『明智が無明の対です。』

 

『解脱が明知の対です。』

 

『涅槃が解脱の対です。』

 

『涅槃は終極です。』(涅槃は対比のない法である)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長部経典『大因縁経』

今回は、長部経典の『大因縁経』を取り上げます。

次回からはまた、中部経典に戻りますが。

 

『大因縁経』は『縁起』の意味を知る上で欠かせない経典です。

 

『縁起』は仏教の根幹と見られていますが、今の仏教で言う『縁起』と歴史上の仏陀が説いた『縁起』とはかなり意味が違っています。

 

『縁起』というと、相依性という言葉で説明されることが多いですが、

相応部経典で、十二縁起の内、相依性があるとされているのは、

『識』と『名色』の間だけです。

 

十二縁起は

無明⇒行⇒識⇒名色⇒六処⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死

です。

このうち、相依性があるのは、識⇒名色 だけです。

ですから、

縁起=相依性 ではありません。

 

なぜ、識と名色だけ相依性なのでしょうか。

この答えが、長部経典『大因縁経』に書いてあります。

 

『識を縁として名色がある』というのは次のような理由です。

『識が母胎に入らなかったとするならば、名色は母胎の中で育たない』

『識が母胎に入った後に外れたならば、生まれることはない』

『識が若いときに断たれたら、名色は成長し成熟し老大とはならない』

ゆえに、識は名色の因であり縁である、と説かれます。

つまり、『識』とは結生識のことであり、その後、名色(五蘊)が生長していく因とされます。

 

『名色を縁として識がある』というのは、次のような理由です。

『識が名色において根拠を得ることがなかったとすれば、未来に生・老・死という苦の集まりの発生は知られない。』

ゆえに、名色は識の因であり縁である、と説かれます。

 

そして、

『実に、この名色が識とともに互いの縁として起こる場合、これだけによって、生まれたり、老いたり、死んだり、没したり、生まれ変わったりすることになります。

これだけによって、名称の路・語源の路・告知の路・慧の領域があります。

輪転であるこの状態が、告知のために起こります。』

 

ここの最後の訳語は意味を理解しづらいのですが、

識と名色にだけ相依性があることと、それが非常に重要な意味を持っていることはわかりました。