仏教についてのひとりごと 136

<<前に、徹底的な思考型瞑想してるっておっしゃってたと記憶してるのですが、
どのような感じで瞑想されるのかお聞きしてもいいですか?例えば七覚支なら、各項目はどのようなことについて述べてるのかを、具体的に考えながら、自分に現象を起せるなら起こしてみるかんじとか??十二因縁なら、各項目と、自分に起こる現象を照らし合わせて考察するとか??どんなふうに実践されてるのかなぁと思いまして、もし教えていただけるなら、教えていただけたら嬉しいなぁと思いました。>>

 

四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道の七科三十七菩提分法は重なっている項目が非常に多いですね。
特に、念・精進・定は七科のほとんどに出てきます。

私は、四諦の集諦滅諦は十二縁起の順観逆観だと思っていますので、四諦十二縁起は一体です。

七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 です。
私は、念は四念処、精進は四正勤、定は四神足、捨は四無量心の完成と捉えて瞑想しています。

ですから、実際の瞑想の順番は
四諦十二縁起⇒四念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒四神足⇒四無量心 です。
この瞑想を繰り返すことによって初めて正見解(sammā‑diṭṭhi)が生じる。
そのsammā‑diṭṭhiを基に日常生活で八正道を行なう、という順番です。

このうち、喜と軽安は、四念処・択法・四正勤の結果として身心に生じるものと考えています。
つまり、喜(pīti)が生じて、心も身体も軽くなる感じですね。
軽くなったときにsamādhiが生じる。

 

 

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続きですが
十二縁起の瞑想にしても三十七菩提分法にしてもすべて私独自の解釈ですので
役には立たないとは思いますが、一応。

十二縁起に関しては、無明から五蘊を集めようとする潜在力というか意志がはたらき
実際に五蘊を仮合させ感覚器官が生じ、外物に触れることによって感覚が生じ
それが好き嫌いなどを生じて自我が形成されることを解き明かしたものだと考えていますので
そのありさまをまざまざと観じます。
それは抽象的な観法ですることもあり、自らの実際の自我の成立過程を観じる観法ですることもあって、その両方をしています。

大まかに言えば以上です。
ネットの掲示板で書けるのはここまでです。
これ以上は自費出版で書きます。

また、これはpipitさんの質問に答えたものですので横から質問は遠慮ください。

 

 

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もし、歴史上の仏陀の真意を知りたいのであれば、
今まで2500年積み上げられてきた『仏教』なるものをいったん白紙にして
最古層の仏典から歴史上の仏陀を捉え直すことが必要でしょうね。

それほど、仏教なるものは仏陀の真意とかけ離れていったと思っています。
ある意味、真逆になってしまったということです。

教師に握り拳はないのです。
熱意さえあれば辿り着けると思いますよ。

 

 

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oyaさん
こんばんは。

誰にも依存せず自分で探求していく姿勢こそ道を開くものです。
仏陀がそうでした。
安易な精神は必ず誰かに依存し従属しそれをよしとします。

アインシュタイン ロマン』という番組がありました。
アインシュタインが死の直前に残した「私は神のパズルを全て解いてしまった」と書かれたメモが発見され、バレリー・デュポンという女性がその言葉の謎を解こうと旅に出ます。
そして、中国の山奥でアインシュタインと話をしたという老人を発見します。
その老人にアインシュタインの写真を見せると、老人は幼い頃、確かにその人に会った事があると答えた。
「その時彼とどんな話しをしたの?」という彼女の問いかけに、老人はおぼろげな記憶をゆっくりと辿っていった。
「そう、確か石の話しをした。」「石は何故下に落ちるのかと聞かれたような気がする。」
「重力の話しをしているに違いない。」そう思った彼女は続けて問いかけた。
「何て答えたの?」と。
すると老人はそばで遊んでいた子供を指さし、言った。「ワシの孫に聞いてくれ。」と。
「あなたに聞きたいのです。」と言うと、「誰に聞いても答えは同じだよ。」と言いながら、老人は去っていった。
 デュポンは、少年に聞いてみた。「どうして石は下に落ちるのかしら?」
 すると少年は答えた。「石が落ちたがっているからだよ。」
 「まるで石が生きているみたいね。」思わずそう言ったデュポンに、少年は「生き物だとかそうでないとかそういう区別はあまりしたことがないな。石は石でいたいから石なんだよ。」
「羊たちも山々もそうさ。」
「羊は羊でいたいから羊なんだし、山は山でいたいから山なんだよ。」と答えた。
「人はどうなの?」「人だって同じさ。」

石は石でいたいから石なんだ
山は山でいたいから山なんだ

最後にこの話をoyaさんに贈ります。

 

 

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今年いっぱいで、株式以外の掲示板はすべて消滅するのですね。
私の立てたスレッドですと
『映画についてのひとりごと』『仏教についてのひとりごと』『法律についてのひとりごと』がすべて消えるということですね。

この3つのスレッドに投稿してくださった皆さん、そして読んでくださった皆さん、ありがとうございました。

 

 

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<<大事なトピックの大事な投稿は、ブログなどに移したらどうでしょうか。まだ年末まで時間ありますし、ご検討下さい。>>

しまとりさん、ありがとうございます。

私が立てたスレッドのうち、特に『法律についてのひとりごと』は、読んで日常の金銭トラブルの解決に役立つ人がいると思いますので、そのまま残しておいてほしいとは思っています。
あれは、閲覧者の少ないサイトに書き込んでいたものですが、訪問者の少ないサイトであっても私の書き込みを見て救われたとか役に立ったといわれた人が何人もおられましたから。

今年いっぱいで消滅する『映画についてのひとりごと』『仏教についてのひとりごと』『法律についてのひとりごと』の3つのスレッドのどれも見ていただいている人がおられるようですので
しまとりさんの提案されるようにどのような形でも閲覧できるようにはしたいと思います。

ありがとうございました。

 

 

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高原へ行らっしゃい。 さん
おはようございます。

<<ショーシャンクさんには教えてもらうことばっかりで、本当に感謝しています。
ショーシャンクさんのお話を聞くのも楽しかったし、このトピは、サンガのように大切に思っていたので。ありがとうございました。>>

こちらこそ、ありがとうございました。
このスレッドの最初のころは、micとh2さんの罵詈雑言の大量投稿ばかりでしたが、高原さんのようにちゃんと聞いていただける人がおられてここまで続けることができました。
ヤフー掲示板は、悪意のあるアラシを防御することに脆弱でそのために株式版でも数多くの良質なスレッドが閉鎖に追い込まれました。
株式版で有名人と言われる人たちは全員、Twitterに移っていきました。(私のニセモノもTwitterに登場してます(笑))
そういう脆弱性は変わっていませんから、株式版がヤフーファイナンスに移行してもアラシを防ぐことはできないでしょうけど、とりあえず、株式版に新しいスレッドを立ち上げて、そちらに避難しそれでも荒らされるようであればブログに移行します。

 

 

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しまとりさん
おはようございます。

<<しかし、ショーシャンクさんの言われるように、それが釈尊の真意に叶うものだったかどうかは、よくわかりません。釈尊は、仏様のお名前をとなえる念仏や、仏界を湧現するための唱題に邁進するようにとは言われてはいないように感じます。>>

 

今までの仏教なるものを全否定して歴史上の仏陀の真意を探求してきましたが、その探求が終わって今は仏教の全肯定へと進んでいます。
仏教史全体は、絶対精神の自己展開であったと考えています。
大乗仏教は失われた仏陀の真意の復興運動であったとも考えます。

仏陀の教えの中で最も重要なのは『筏』という考えです。
仏陀の教えの核心である四諦十二縁起であっても彼岸に渡る筏にしか過ぎず
激流を超え彼岸に渡ってしまったら筏を担ぐ必要はないと言っていることです。
筏を絶対視してしまうと、moha(迷妄=痴)になってしまいます。
それが今のあらゆる宗教のありさまです。

激流を渡ることができる筏であれば、どのような筏でもいいですし
その人その人に合った筏があるはずです。
立派そうに見える筏でもすぐ沈んでしまったら何にもなりません。
要は自分に合った筏を見つければいいのだと思います。

 

 

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仏教についてのひとりごと 135

<<無我だ、無我だ、というのが好きな人は多いけれど、それは「この私」も、実体のない、儚いものと言っているわけで、自分を自ら、泡沫とか幻としてしまうのは、残念な感じもしませんか?>>
<<なんなら、特攻隊で若い命が多く失われようと、そんなの幻ならいいじゃない、となりませんか?アングリマーラが何人コロそうと、幻のようなものなら、平気となりませんか?>>

 

その通りだと思います。
非我を無我としたために、また縁起によってあらゆるものには実体がない、という思想を作り出したために、仏や如来にも実体がない、どこまでいっても実体がない、という空虚な思想に仏教は成り果てましたね。

歴史上の仏陀は、五蘊の集まりは私ではない、私のものではない、私の本体ではない、非我と説きました。
すべての人間は五蘊、つまり肉体、感覚、思考、記憶の束を『自分』『私という中心』だと思い込んでいます。
この思い込みを滅したときに、大いなる境地が『ある』のであって、仏や涅槃にも実体がないという虚無思想、空虚な思想を仏教だと思い込むのは間違いですね。
その大いなる境地に実体があるとかないとかという議論は迷妄で無意味なものなので仏陀は無記としました。
大いなる境地は、自分が五蘊の集まりである、自分という中心があるという思い込みを滅したときに実体験するものであって、観念でいくら想像してもしょせん五蘊の一つ『想』で非我なものですので、無意味なのです。

しかし、涅槃の境地は『虚妄ではない』のです。

 

 

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<<諸法無我仏陀真理の理法である三法印の一つです。無我ですから輪廻転生はありません。>>

 

あなたが挙げていたスッタニパータの言葉『この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた』と、はっきりと、仏陀は輪廻を説いていますよ。

仏陀は、無明という迷いがなくならない限り輪廻転生するといたるところで言っています。
自分も今の生で解脱するまでは、生まれ変わり苦しい生を続けてきたと言っています。

 

 

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<<しかしながら、中村元は斯様にフォローしてます。
ブッダは、あくまで現世における苦しみの超克をめざしたのであり、輪廻の主体は何であるかとか、自己の本性は有限なのか無限なのかといった実体を提示する形而上学的な思索には深い関心は払いませんでした。
インド思想・哲学の多くは、自己の実体(アートマン)の探求、霊魂の不滅性の実証といった面に関心が向かっていますが、ブッダにおいては「我無し」の価値観ですから、もともとそうしたことは、測る物差しがないのであります。したがって、ブッダは沈黙しました。>>


これに関しては、中村元の認識は違うと思いますよ。
『自己の本性は有限なのか無限なのかといった実体を提示する形而上学的な思索には深い関心は払いませんでした』ではなくて、そのような形而上学的な思索は、『厭離に赴かず、涅槃に赴かず、解脱に赴かない』から、しないように説いたとあります。
涅槃に赴く妨げになるから説かなかったと、私は考えています。

 

 

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しまとりさん
こんにちは。

<<常連さんと言うけど、ショーシャンクさんの独り言のトピックですよ。>>

 

そうなんです。このスレッドは私のひとりごとスレッドですから、常連という概念はないですね。
投稿数が多い人を常連というなら、ある時期までは、micやh2さんが投稿の半分以上を占めていました(笑)

 

<<ショーシャンクさんのご見解を無視して、常連になっていれば良いというものでもないでしょう。>>

 

これもその通りです(笑)
自分の信じるドグマや自分の悟りを開陳する場だと思っている人がいくら多くても迷惑なだけです。どの立場にもとらわれずに、歴史上の仏陀が本当に言いたかったことをパーリ語原典から解明していこうとする人がもっといるかと思いましたが無理でした。
私はもう探求は終わって、これからは瞑想の実践と原稿書きだけですので、もう誰とも論争をしたいとも思いませんのでいいのですが。

 

 

仏教についてのひとりごと 134

<<四念処が「仏教の初歩」と紹介されていたそうで>>

四念処は、相応部経典などでも、涅槃に至る一乗道とまで言われています。
また、大般涅槃経や相応部経典『念処相応』の何ヶ所かでも、四念処が自帰依法帰依(自燈明法燈明)の内容と書かれています。

四念処観がいかに重要な瞑想と考えられてきたか、それは四念処観によって諸法非我を完全に悟ることができ、涅槃に至ることができるからだと思います。


それにしても、四諦にせよ、八正道にせよ、十二縁起にせよ、四正勤、四念処観、七覚支にせよ、仏教の解説書で読んだときはどれもぐったりと死んだものだったのに、直に原始仏典で仏陀の説いたところを読むと、どれも活き活きと躍動しているように見えます。

理解が進めば進むほど、本当に凄いシステムです。

最近は、四諦八正道⇒十二縁起⇒四念処観⇒七覚支 の順で瞑想してます。

 

 

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<<第一に、散文と詩の成立時期を考えると、散文で経典が成立し、その後、音韻を踏んで詩にしませんか?!>>
<<第二に、ですから、増谷文雄は、「阿含経典」の翻訳に、「ブッダの肉声である」旨、主張したのですよ。>>
<<文字に変えただけで、変える前の経典成立時期は、ほぼ同時でしょう?!>>


上記のように書かれていましたから、一応、増谷文雄『阿含経典』(筑摩書房)を確かめてみました。増谷文雄がそんな仏教の常識と違うことを書いていたかな、と思ったからです。

確かめた結果、増谷文雄もやはり次のようなことを書いています。

①小部経典の中の『スッタニパータ』『ダンマパダ』は原初的で、有力な資料とされる。一つにはそれらが偈(韻文)を中心に成っているからだ。韻文は古形を保存するのに適している。

②『スッタニパータ』『ダンマパダ』以外で考えると、
 相応部経典⇒中部経典⇒長部経典⇒増支部経典 の順で出来たと考えられる。
 漢訳の阿含経で言えば
 雑阿含経⇒中阿含経⇒長阿含経⇒増一阿含経 の順番で、雑阿含経が一番古い。

③増一阿含経は、最も遅く出来た経典で、大衆部の所属と想定され大乗仏教の影響がみられる。

④遅く成立した経典になればなるほど、変化、増大、付加、再編集が行われていると想定される。

⑤故に、雑阿含経より中阿含経、中阿含経より長阿含経、長阿含経より増一阿含経の方が、変化や付加が多大になっている。

⑥しかし、古層である雑阿含経でも、成立時期はバラバラであり、変化、付加が大きいものもある。


以上のように、増谷文雄も仏教の常識を書いていますね。

 

 

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それは、中国浄土宗の善導の言った言葉ですよ。
善導の言葉を法然が書き記したものです。

親鸞は、龍樹・世親・曇鸞道綽・善導・源信法然浄土教の7高僧と言いましたが
その中の一人です。

法然は、善導の『観経疏』の一節に出会って、口称念仏によって凡夫もすべて救われるということを確信し立宗しました。
法然は『偏依善導』、親鸞は『善導独明仏正意』というくらい心酔していました。

sanさんの書いている通り、善導は自殺します。

法然の最期は静かな往生でした。
また、法然は、衆生には限りなく優しい人でしたが、芯は強く信念の人でした。
修行時代は師匠にもズケズケ言って師匠からボコボコに殴られるようなこともあったくらい曲げない人でしたよ。
間違っても、弱々しい人ではありません。


私は歴史の評価では、親鸞道元は過大評価、法然栄西は過小評価されすぎていると思っているので
一応、法然の名誉のために。

 

 

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<<ということで、釈尊が発見された「此縁性の縁起」を身心において深めたいと、志を新たにしています。>>

それはそれで素晴らしいことではないでしょうか。
人間は自分が信じる道を行くのが一番ですし、そもそも自分が信じたいものしか信じないのが人間です。

私も、歴史上の仏陀が言おうとしたことがはっきりとわかるようになってきました。
そして、それは驚くほど、今の日本仏教というものとは真逆なものでした。

龍樹の解釈した【縁起】
これから、今の日本仏教が形作られてきました・・・
そう、瀬戸内寂聴などほとんどの僧侶が説法している、
『私たちは他のすべての存在に縁って生かされているの。だって、そうでしょ。食べている米も農家の人が作ったもの、着ている服もその素材を作った人がいる。それには空気も水もいる。人は自分一人では生きていけないの。周囲のものに生かされているのよ。それが縁起。縁起だから自分なんてないの。』
これが仏教の真髄とされていますね。

あなたもそこを極めようとされているのでしょう。
それはそれでいいと思います。

ただ、私は、歴史上の仏陀の言葉を追いかけていったために、仏陀の言った『苦』『激流』の本当の意味が頭でなく実感としてわかってきました。すべての人間は激流に押し流され、苦の集積へと向かっているのですが、それに全く気がついていない。その凄まじさを知ると日本の仏教者が語る悟りすましたような言葉の羅列では何の力もないように思えてきました。

私はそれをこの掲示板で語ろうとは思いません。
人間は信じたいものしか信じないものだからです。

あなたもつつがなくお過ごしください。

 

 

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oyaさん、こんばんは。

その通りですね。
その僧侶は偉いですね。
その僧侶が「そこで初めて気がつきましたね 仏教に関わる者として言葉で理解して説教もしていましたが 実はその真髄は体得できていなかったことを」と言う前は
他の僧侶と同じく、悟りすましたような観念論ばかり言っていたと思います。
言葉では、そして文章では、何とでも悟りすましたことは言えるのです。
はっきり言って、仏教は、そのような悟りすましたものたちの空虚な言葉で満ちています。

誰でも、悟りすました言葉などいくらでも言えるのです。
実際に、現実生活に対処できるのか、です。
今の私には、今までの仏教というものは馬鹿馬鹿しすぎて仕方ないです。
『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候』と、自分が、そして自分が最も大切に思う人が災害に遭ったとき、死ぬような病に冒されているときに本当に言えるかどうか、です。
最近は特に地震が頻発しています。そのような災害に遭った方にそんなことが言えるのか、です。
自分の最愛の人が苦しんでいるのに『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候』と言えたとしたら最悪の人格ですし、言えなかったとしたら嘘つきです。
日本人は有名人の権威に騙されすぎですね。
例え、宗祖であっても、歴史上の偉人であっても、権威づけられずにその真実を求めることが大切でしょうね。

 

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1828年の新潟三条の大地震で子どもを亡くした俳人・山田杜皐にあてた良寛の手紙の全文はこうです。

地震は信に大変に候。野僧草庵は何事もなく、親類中死人もなくめでたく存じ候
   うちつけにしなばしなずてながらへてかゝるうきめを見るがはびしさ
 しかし災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候
 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候 かしこ』

地震は大変だ、でも自分の草庵は何事もなく自分の親類はみんな無事でめでたいことだ。・・
と書いた後、地震で子供を亡くした人に『災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 』とあります。

もし、最愛の貞心尼が死の病で苦しんでいるところでも、『災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 』と貞心尼に向かって悟りすましたことを言えるかどうかです。
一生懸命看病して全快を願うでしょう。
『災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 』などというものは自分の心に刻み付けておけばいいのであって、地震で最愛の子供を亡くした人に向かって言う言葉ではありませんね。

 

 

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こんにちは。
自分が実行できないことは他人に言うべきではないと思っていますよ。
宗教家の最も悪いところは、自分ができもしないことを悟りすまして
他人に説教することが非常に多いことです。
信者からの布施で生きているのですから、宗教家は、ここは真摯にならなければいけないでしょうね。

山田杜皐は酒屋ですね。そして、夕方になると酒をもらいに良寛が現れるので、良寛を蛍と言ってたのですよね。
つまり布施をする信者と宗教家の関係です。
夕方になると酒をもらいに来るということでわずらわしいということも少しは感じていたようで、わずらわしいと思っていたけど来なくなると寂しいものだ、というような歌も残っています。

信者から布施をもらって生きている宗教家が、信者に『災難に遭うときは遭うがいい。死ぬときは死ぬがいい。』と言うときは、自分自身が同じ境遇になったときにそう思えると確信や覚悟がないと言ってはいけないと思っています。
もし、最愛の子供が地震で亡くなった人に『災難に遭うときは遭うがいい。死ぬときは死ぬがいい。』というのであれば、少なくとも、自分自身の最愛の人、良寛なら貞心尼でしょうけど、その人が重病や亡くなったときでもそう思える覚悟が必要ということです。

もっと根本的なことを言えば、禅の場合、『病気になっても日々是好日』というような善悪の二元対立を超越する志向がありますから、『すべての人が現象的にもよくなってほしい』という慈悲の心がおろそかになっていることがあり、その部分が弱点のような気はします。

 

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そうですね。
悟りすましたような説教をする宗教家が多すぎますね。
悟り目線での説教より
『ひでりのときはなみだをながし さむさのなつはオロオロあるき』のように役には立たなくてもみんなの苦しみを感じてくれる人の方がいいですね。

 

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まあ、好みの問題でしょうね(笑)

悟り目線で『干ばつや冷夏で作物ができなくてもどうってこたあない。起きたことは仕方ないじゃん。受け入れなさい。』と言われるのが好きか
役立たずでボーとした男がいっしょにオロオロしてくれるのが好きか、
究極の選択ですね(笑)

 

 

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もうこの問題も何度もあなたから質問されてはっきりと答えています。
このような繰り返しは時間がもったいないので、今度からは
『すでにはっきりと答えています。過去投稿を読んでください。』とだけ言うことにします。

私はあなたの考えを変えたいというような気は全くなく、あなたはあなたなりの考えで自分のスレッドに書き込んでいたらいいではないですか。
本当に煩わしい限りですが、もう一度だけ書きましょう。

私は、今までの仏教解釈は仏陀の真意からかけ離れていると思っています。
どのような仏教学者も歴史上の仏陀の真意を把握してない、というところから出発しています。
ですから、中村元も思想家ではなく、優れたパーリ語の翻訳家として見ています。
中村元を教祖とする宗教に入っているわけではありませんから、中村元がどのような思想を持っていても何の興味もありません。イスラム教徒でも問題ないですよ、パーリ語を的確に訳してくれれば。

一番いいのは、自分がパーリ語で原始仏典を解読すればいいのですが、人生が3回あっても時間が足らないでしょうね。
ですから日本語訳を読んで、気になるところをパーリ語で確認するということをしています。
中村元パーリ語の翻訳は他の人よりずっと優れていますが、私から見てこの訳は違うという箇所もいくつもあって鵜呑みにしているわけではありません。

誰かが挙げていた
『この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、行き着く先は無明にのみ存する。この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることはない。』――スッタニパータ
の言葉で、歴史上の仏陀が輪廻転生に関してどう見ていたかははっきりとわかりませんか?
この言葉を見て、「釈尊は輪廻転生を否定した」と考える人もいるようですから、人それぞれです。
そして、そう思いたい人はそう思っていればいいと思いますよ。
それを変えたいとは全く思いませんね。
人間は信じたいものだけを信じますからね。

 

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仏教についてのひとりごと 133

相応部経典第2集因縁篇 第7篇 ラーフラの集成 第1節 眼

ラーフラよ、あなたはこれをどう思うか。眼は常住であるか、無常であるか。』
『師よ、無常です。』
『では、無常であるものは苦であるか、楽であるか。』
『師よ、苦です。』
『では、無常であり、苦であり、変易するものを、「これはわたしのものである。これはわたしである。これはわたしの我である。」と見なすことは適切であるか。』
『師よ、そうではありません。』


眼に限らず、この定型文は原始仏典に非常に多く出てきます。

『無常であり、苦であるものを、わたしのもの、わたし、わたしの本体と見なしていいであろうか。』という文です。

この文章を見ると、どう見ても、無常・苦・非我 ですね。

私が、仏陀の真意は諸法無我でなく、諸法非我というのは、このような典拠からです。

 

 

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赤い実さん、こんにちは。

そうですね。
何度も同じ質問や投稿をしてくる人も多く、うんざりなところはあります。
自分の質問には答えろとしつこく言うのに、私の質問には全く答えない人も数多いです。


投稿者には少ないのですが、ロム専門の人に真摯な人たちがいるだろうなとは感じています。
こころない投稿者のせいでやめてしまうと、そのような人に悪いような気がしてます。

ただ、時間は貴重ですから、feel goodな投稿にだけ厳選してレスするようにします。

ありがとうございます。

 

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リッチポンタさん、おはようございます。

心配しておりました。
先月は入退院されていたのですね。大変でしたね。もう大丈夫でしょうか。

【私という中心がない】ということでは、無我でも非我でもいいのですが
仏陀が古層の仏典で盛んに言っていることが『自己を確立すること』であり
身体も心もすべて自分ではないと否定していく四念処観を一乗道とまで言っていること、
そして何より、仏教では【無我】としたために、仏、如来にも涅槃にも実体がないというようなところにまで曲がりくねってしまったこと、から、やはり仏陀の真意通り非我としたほうがいいと思っています。

たぶん、これから、仏陀を仏教の開祖ではなく、今まで作り上げられた仏教に捉われず人類最大の教師として探求していく潮流が出てくるとは思います。
それが数年後か100年後かはわかりませんが。

 

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<<第一結集で確定した言葉を絶対視してしまうとすれば、それはいつも観念に対して批判的なショーシャンクさん自身の考えとも矛盾することになると思います>>

あなたは私の『第一結集で直弟子500人が確認した言葉かどうかは決定的なのです。』という言葉を取り上げて上記のように言いますが、この言葉はsanさんの投稿に対しての回答です。
ここに投稿してくる人は、最初からの流れも見ずに、誰かの質問に対する私の回答の言葉の一部を切り取って、横からそれについて質問してくるので、非常に困ります。

例えば、この『第一結集で直弟子500人が確認した言葉かどうかは決定的なのです』という言葉は、sanさんの『原始仏典と言っても大乗仏典と言っても、釈尊が死んでから何百年も経ってから文字にしたものなので、どれが釈尊が言ったことかなどわからない。』というような暴論に対しての回答です。

仏陀の死後直後に500人の直弟子で歴史上の仏陀の教えを確認し合ったのが第一結集であり、
第一結集で確認した言葉と後世に釈尊の言葉を聞いたことのないものが勝手に作り上げたものを『どちらも釈尊の死後何百年か経って文字にされたからどちらが釈尊の声だとは断定できない』などという無茶苦茶な論理に対する回答なのです。

その言葉だけを切り取って、『絶対視』していると言われてもそれも違います。
何度も言っているように、今は、歴史上の仏陀が何を言ったのかを探求しているのであって、
仏陀が言ったから正しい、仏陀が言わなかったから正しくない、ということを言っているのではありません。
これも何度も書きましたが、大乗仏教の人にはどうしてもわからないようです。

 

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<<「それは釈尊が言ったことではない」と言えるためには、「古層の仏典」の中に、釈尊が仰ったことの全てが、釈尊の意図通りに書かれているという前提がなければならないからです>>

 

仏陀の死後直後に、いつも傍にいたアーナンダをはじめ、直弟子500人が自分の耳で聞いた仏陀の肉声を間違いがないか徹底的に確かめていったのが第一結集です。
それを早い段階で文字にしたのが古層の原始仏典です。
大乗仏典は第一結集とか関係なく後世に創作されたものです。
原始仏典でも古層になればなるほど後世の夾雑物が少なくなり釈尊の肉声に近いものであるのは事実です。


<<『この法を説いても誰も理解できないだろう』と釈尊は思われたのだから、釈尊は「言葉」では伝えがたい法を伝えようとされたのでしょう。>>

 

成道のとき、なぜ釈尊は『この法を説いても誰も理解できないだろう』と思ったか、本当に知っていますか?
まずはそれから知ってください。
そして、梵天の勧めによってなぜ説こうと決意したのか、それも調べてから投稿してください。

今までは、全部それを自分で説明していっていたので、時間が膨大にかかってしまった。どうあ、ちゃんと調べてから投稿してください。
あなたのいうように『「言葉」では伝えがたい』から説くのをやめようとしたのであれば、梵天の勧請があっても変わりませんよね。
言葉で伝えられないと思ったので説くのをやめようと思ったのであれば、なぜ、言葉で説いたのでしょう。

 

 

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<<ところで、ショーシャンクさんは大乗仏教の素晴らしさはわかっていると仰りながら、いつもこのように大乗仏教について否定的なこと、揶揄するようなことを書かずにはいられないようです。>>

 

私は、『大乗仏教』でなく『大乗仏典』は素晴らしい、と書いているはずです。
大乗仏典は、非常に意識の高い人が創作した芸術作品だと思っています。
バッハやマーラーモーツァルトの音楽のようなものです。
モーツァルトの音楽をいくら聴いても悟りには達しないでしょうけど
しかし、意識が拡がった状態でモーツァルトの音楽を聴けばその本当の良さがわかるでしょう。
そのようなものだと思います。
白隠も若いころ法華経を『こんなたとえ話ばかりのもの』と捨ててしまいましたが
悟った後に何気に法華経を読んでいたところ号泣したと言います。


仏陀が目覚めを体験したあと(悟った後)、なぜ十二縁起をひたすら瞑想しなければならなかったのか、です。
これは仏教学者の間でも謎とされてました。
仏陀は何を悟ったのか、悟った後にもかかわらず十二縁起を瞑想する必要は何か、ということはわからなかったのです。

人それぞれ、自分に合った筏があるでしょうね。
あなたもお元気で大乗仏教の道を進んでください。

 

 

 

 

仏教についてのひとりごと 132

仏陀が説いたことは非常に明快です。

人間は五蘊を我と思い、迷いの自我観念、行為の中心者、を形成している。
死んだ後は、善なる行為をしたものは天界に行き悪い行為ばかりしたものは地獄などの悪い境涯に行く。
また、再びこの世に戻ってくる。(輪廻転生)
しかし、迷いの自我観念から解脱したものは『この世とかの世をともに捨て去る。』『滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。』『生存の矢を断ち切って、これが最後の身体である。』『もはや家屋を作ることはない。』  

ゆえに、『ある人々は人の胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に落ち、行いの良い人々は天におもむき、汚れのない人々は全きnibbana(安らぎ・涅槃)に入る。』と説いたのです。


仏陀は迷いの自我が死後、天や地獄に行き、輪廻転生すると説いており
それから解脱したら、死後の世界に行くことも輪廻転生もないと考えていました。

その迷いの自我を霊魂と名付けることもありませんでした。
あくまでも迷いにしか過ぎませんから、迷いがなくなれば消滅するもので
霊魂という言葉からイメージするような不変の個性や永久な実体では全くありません。
しかし、解脱するまでは輪廻してますから、解脱してない者が死んだら何もなくなるわけではなく、ゆえに、死んだら何もない『断見』も霊魂が永久に存続する『常見』も間違いなのです。

仏陀が説いていることは非常に明快なのに、仏教なるものが分かれに分かれ混乱を極めているということです。

 

 

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<<『滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。』は理解できますが、無意味かもしれませんが、仏陀は悟った時から身心は安らぎの涅槃の世界だったと思われます、私は仏陀は六道に生じない生死を超えた常住の世界だと思っていますが、姿を隠した仏陀は涅槃といわれても、 ショーシャンクさんは、永久に消えてしまったのか? 或いは行方不明?  或いは自身の本地に帰った。 いかがですか?>>

 

中心が消滅したら無量になるしかないでしょう。
仮想された中心こそが無量であることを阻害してますから。
大乗仏典は無量のものを説き明かそうとしたものでしょうね。

 

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sabbe dhamma anatta
一切の事物は我(われ)ならざるものである。=諸法非我

これがパーリ聖典にあらわれる古い思想である。

ところがのちには「一切の事物は恒存する実体を持たない」=諸法無我
と解釈するようになった。
                            (中村元


anatta を パーリ語佛教辞典で見ると【無我 非有我 非我】の3つが挙げられています。

また、漢訳でも
【色無常。無常即苦。苦即非我。非我者亦非我所。】(大正・2・p・2a)
とあるようです。(雲井 パーリ語佛教辞典より)

 

 

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『スッタニパータのこの一連の詩句からみると、世俗の生活のままでニルヴァーナに達しうると考えていたことがわかる』(岩波書店 中村元ブッダのことば」より)

 

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宮崎哲弥
『では大乗の修行によって悟った者がどれほどいるか、というと疑問ですね。
宮元啓一氏が「大乗仏教の徒で、自他ともに仏となった、涅槃に入ったと認める人が、長い歴史のなかではたして登場したであろうか。答えは、まったく否なのである」と喝破している通りなのです。』

佐々木閑宮崎哲弥  『ごまかさない仏教』より)

この宮崎哲弥という人は、大乗仏教の祖である龍樹に心酔していて、自ら中観派と名乗っています。

私は、大乗仏教でも例えば臨済のように悟った人は多くいたと思っていますが
大乗仏教の人である宮崎哲弥は上記のように断言していますね。

 

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<<有難いですね。 仏陀は在家では涅槃に至れないとは言われない。 女性蔑視の言葉がありますが、これに関しての見解はいかがでしょいうか?>>

①歴史上の仏陀が女性蔑視の言葉を言ったという事実はありません。もしあるというなら、きちんと典拠を示してください。

②あなたは仏教徒ですよね?根本的なことを聞きますが、仏教徒であるものが、歴史上の仏陀を女性蔑視と糾弾するのですか?本当にそう思っているのであれば仏教徒などやめればいいではないですか?それとも、あなたの信じる久遠実成の釈尊と歴史上の仏陀は全く違うと思っているのですか?


ちなみに、宮崎哲弥は本人も仏教が本職だというくらい、仏教に詳しいですよ。
生半可な仏教学者顔負けです。本を読んだこともないのに、「評論家で少し仏教を勉強したくらい」と決めつけるのは肩書で相手を見ているだけで情けない態度ですね。
東大教授が書いたから正しいわけではなく、要は内容なのです。

 

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「増一阿含経」は、かなりの部分、後世の創作物、夾雑物が入ったものがあります。
古層のものが少ない印象です。
パーリ語仏典『増支部経典』に典拠しないものも多くあります。
仏陀の在世中にはなかった仏像の記載があるのも「増一阿含経」です。

あなたが挙げた文章は、パーリ語の増支部経典の典拠はありますか?
私の方でも調べてみますが、もしパーリ語原典がないのであれば、後世付け加えられたものだと考えます。

それと②なのですが、もし、歴史上の仏陀がそのような女性蔑視の発言をしたとして、仏教徒であるあなたがそれを嬉々として糾弾するのは、仏教徒としておかしくないですか?
あなたは歴史上の仏陀女性差別者として見ることができるのですか?

 

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<<ならばなぜ、臨済の「狗子に還って仏性有りや無しや」(答えが無とする)ことは一切衆生悉有仏性を理解していないからですよね。 実体がないから無としたのかどうかは、知りませんが?  そこから答えがいくつもある、どうでも良い、公案なるもので、遊んでいる。 如何ですか?>>

あなたが禅について評価してないのはわかりましたが、禅の門外漢である私に聞かれても困ります。
ただ、大乗仏教の中でも、意識の高い人や優れた人はいると思っています。

しかし、原始仏典を見ると、非常に多くの人が涅槃に達しています。
仏陀が『矢を抜く最上の人』であったことは確かです。
それがどうしてかを探求してます。

もういいではないですか?
私は、歴史上の仏陀が本当は何を言ったのかを探求しているだけです。
大乗仏教小乗仏教 というような枠組みもどうでもいいのです。
私は、大乗仏教を捨てて小乗仏教のドグマに入ろうとしているわけではなく、
小乗大乗を問わず仏教なるものの知識をいったん白紙にして、最古層の仏典・・つまり仏陀の肉声に近いものから、仏陀が本当は何を言いたかったかを探求しているだけですから。

私は、仏教成立の最初期から仏教なるものは仏陀の教えとは離れていったと思っていますから。

これ以上、こんな掲示板で言っても無駄なことです。

自分のドグマに凝り固まった人たちが大勢やってきて、自説を滔滔と述べるだけがこれからも続くでしょうから、もううんざりなのです。

 

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仏教についてのひとりごと 131

あくまでも、私が勝手に考えていることですが、
仏教が成立した最初期から仏教は仏陀の真意とは違う方向に行ってしまったと考えています。

仏陀は、正しいもの、善なるものを求めて修行し目覚めたのであって
決して仏教なるものをつくろうとか、自分が説いた教えがそれまでの考えを否定する独自のものだとか、思ってもいませんでした。
仏陀は、無常であり苦であるものを我、我が物、わが本体としてはいけないとして、五蘊非我を説き、五蘊を離れた本当の自己の確立、本当の主体の確立を説いたのですが、
弟子たちは、我に非ずを、我(アートマン)などはないと解釈してしまいました。
仏教が最勝最高の教えであり他の教えは外道としてすべて間違っていると強調していったこともあり、諸法無我バラモン教アートマン思想を徹底的に全否定する旗印となりました。

諸法無我といい、自己がない、アートマンがないなら、行為の結果は誰が受け取るのだ?善因善果悪因悪果ではないのか?輪廻する主体は何だ?と
他の宗教から総攻撃されます。

その苦し紛れの回答として、部派仏教の正量部は『非即非離蘊の我』を、説一切有部は『刹那滅の心の相続』という理論を、経量部は『相続転変差別』という理論を考え出します。

要は、一瞬一瞬滅しては次の瞬間同じようなものが生じる、という理論です。
連続しているとも言えないし、非連続とも言えない、だから、連続した主体など無いのだ、という何とも苦しい理論です。

こういう論戦も部派や他宗教との間で盛んになったこともあり、部派仏教は非常に煩瑣な教学に没頭するようになりました。
バラモン教と全く違う宗教だと強調するために、諸法無我はますます強調されていきました。

こうした中、大乗仏教は、部派仏教のアンチテーゼ、批判勢力として、失われた主体の復興運動、出家至上から在家仏教運動、煩瑣な哲学への批判運動として興ったと私は思っています。

 

 

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大乗仏典は、それまで見失われていた『大いなるもの』『無量のもの』そして絶対の主体を讃歌するもので、芸術的にも素晴らしいものです。

しかし、大乗仏典は第一結集で確定した仏陀の教えではなく、後世の人が創作したものでしたので、当然、今までの仏教からは『それは仏陀の教えではない』『非仏説だ』と非難轟々でした。

そのままでは、大乗仏教は広まらなかったと思います。
『それは仏陀の教えではない』と言われるとその通りでどうしようもなかったからです。

そこに出現したのが龍樹です。

龍樹は、『それは仏陀の言葉ではない』と非難する説一切有部などの部派仏教に対し、
『言葉で表すのは世俗諦、真諦は言葉という仮説を超えたところにある』として
言い負かしていきました。

仏陀の本当の言葉かそうでないかの論戦であれば勝ち目はなかったところ、言葉自体が相対的なもの、縁起(笑)によって『長いもの』という言葉は『短いもの』という言葉と相依しているので実体がない、と否定することにより、違う土俵を作った頭の良さで論破していったのです。

これで、大乗仏教は興隆しました。
龍樹が大乗仏教の祖とされるのは小乗仏教を言い負かしていったからです。

しかし、大乗仏教は、龍樹のせいで、悪い方向に行ったと私は見てます。

縁起という言葉から無我を導き出して、大乗仏教でも無我を確定させ、主体の回復が台無しになったこと。
煩瑣なアビダルマ哲学のアンチテーゼとして生まれたはずの大乗仏教を結局煩瑣な哲学体系にしてしまったこと。


いずれにせよ、このように仏教自体、『無我』=自己がない、アートマンがない、霊魂がない、主体がない、実体がない、というように進んできたものですから
浄土真宗の各派も、『無我なので死後の世界も輪廻転生もない』としているのです。
特に親鸞は龍樹の影響を強く受けていますから浄土真宗はそうしているのでしょうね。

仏陀は、死後の世界も輪廻も説いてますから、それを否定するのはおかしいのですが
今の仏教は仏陀の真意とはかけ離れているという証左ではあります。

 

 

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<<普通は不連続の連続で良いと思うね 心は絶えず縁により変化する。>>

 

心は五蘊ですよ。
五蘊は無常で、非我です。
心が変化するなんて当たり前です。

あなたは心が不連続の連続の我だとでも思っているのですか?

そこから違うのです。

仏陀は、身心は五蘊五蘊は無常、苦、非我だと言っているのですよ。

 

 

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sabbe dhamma anatta を否定などしてませんよ。

sabbe dhamma anatta は最初期の仏教では諸法非我という意味であったと言っているだけですよ。

なぜなら、仏陀は、『無常で苦であるものを、我、我が物、わが本体とみなしていいであろうか。』と繰り返し説いており、これが仏陀の根本だからです。
この言葉からすると、無常で苦なるものは非我と説いていることは明確ですね。
違いますか?

 

 

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<<大谷派東本願寺***輪廻転生を肯定してません(死後、否定)
(西)本願寺派***仏教の無我説を支持しており、死後も輪廻転生も認めません。
両派とも死後を認めてませんが、それであれば、両派のバイブルとも言える無量寿経のこの記述は整合性を欠きますが?なぜ、こういうことが起きているのでしょうか?
そして、こうして地獄の説明も無量寿経にあるのに、なぜ、親鸞はすべての人の極楽往生を約束できたのでしょうか?>>

 

そうですね。
これは仏教の根本にかかわる大問題です。
仏教は混乱しているのです。
そして、その混乱は仏教が成立した最初期から存在しどんどん大きくなっていった感じです。

高原さんが問われた、この質問は、答えるにはなんとも複雑な原因が入り交じっていますので
少しまとめてから答えさせてください。

キーワードは『無我』です。
この『無我』をめぐって、仏教は混乱を極めていきます。

また、キリスト教における『聖書』が仏教にはないのです。
『般若心経』『法華経』『大無量寿経』『大日経』『華厳経』または原始仏典
宗派によって聖典が全く違います。

仏教で最も重要なものは仏法僧の三宝ですが
帰依仏の仏も、宗派によって全く違います。
帰依法の法も、宗派によって全く違います。
帰依僧に関しては、本来はサンガ(修行者集団)のことです。

 

<<こうして地獄の説明も無量寿経にあるのに、なぜ、親鸞はすべての人の極楽往生を約束できたのでしょうか?>>

 

無量寿経四十八願、特に第十八願からでしょうけど、経典には『唯除五逆誹謗正法』とありますから、この文を排除するために相当苦労したようです。

恵信尼消息を調べても、実際、親鸞その人が救われて本当に大往生したのかは疑問には思っています。

また、週末でも時間があるときに答えたいと思います。

 

 

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高原さんの質問に回答したのです。

最近、うんざりするのは、誰かの真摯な質問には答えようと思うのですが
その人の質問に答えると、他の人から質問攻めに遭ってしまって
それも繰り返し前に答えた同じ質問なので、時間を浪費してしまうことです。

あなたは、私が『諸法非我』だと書いたら必ず同じ質問をしてきますね。
何度も答えてきたことをまた回答しなくてはいけないのですか?

私はあなたがたが『仏教は諸法無我だ』というのは構わないのです。
その解釈でずっとおられればいいと思いますし、それを変えてやろうという気は全くないのです。

今回書いたのは、『無我』をめぐって仏教が混乱して、仏陀が説いた輪廻も死後の世界も否定する僧侶が増えているということです。その歴史的な経緯です。

『無常で苦であるものを、我、我が物、わが本体とみなしていいであろうか。』は、原始仏典では本当に頻繁に出てくる言葉です。
ですから、非常に根本的な重要な教えであるのです。
『無常で苦であるものを、我、我が物、わが本体とみなしていいであろうか。』という言葉を見ると、どう見ても、無常・苦・非我ですよね?

しかし、どう典拠を示して説明しても、今まで2500年にわたって仏教とはこうだと思ってきたのですから、虚しいだけです。
ですから、もうあまり説明したいとも思わないのです。
ただ、真摯な人が質問してきたときはなるべく答えたいのですが、このように横から前に受けた質問ばかりしてきますので、今度からは過去投稿を読んでくださいというしかないですね。

 

 

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<<そうなると、第一結集で無我は真理だと説かれた教えは間違いであるという解釈ですね。 常住不変の霊魂があるという解釈なのですか?>>

これも過去に何度も説明してきました。
これでその質問は最後にしてください。

第一結集ではsabbe dhamma anattaです。これは、『すべての事象はわたしではない』というのが最初期の原始仏教だということです。

<<常住不変の霊魂があるという解釈なのですか?>>
仏陀は、霊魂が死後存続するかどうかは無記としました。
あると断定するのも、ないと断定するのも、どちらも間違いです。

<<久遠実成教主は、法ですから私たちが眼にみるような実体は有るものではなく、無いものでもないという事になる>>

何を言ってるのですか?実体とは眼に見えるものという意味ではありませんよ。
久遠に存続するものということです。
久遠実成の釈迦如来は久遠に存続するのではないですか?

しかし、龍樹は如来にも実体がないと言ってますよね?
それはどうなのですか?

 

 

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<<浄土真宗がお浄土というものを信じ、輪廻はない、と言っているのと、「信仰である」点において変わらなくないですか。>>

浄土というのは死後に行くところと浄土系の経典ではなってますよね。
浄土真宗はその浄土系の経典を所依の経典としていますよね。
そして葬式もしてます。
その浄土真宗の僧が死後の世界を否定するというのは、自らの信仰を否定することではないですか?

 

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<<「死後のことなど誰にもわからない」というのが、真実なんじゃないか>>

そうでしょうね。
ただ、特に浄土教は、この世を穢土として、死後に浄土に生まれることを教えの根幹としてきました。
源信も死後の世界のことを細かに描いてますよね。
それが浄土教です。
死後の世界が大前提の浄土教という宗教において、その僧侶が死後の世界を否定したとすれば、それはおかしいとは思います。

 

 

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死後の世界があるか、ないか、を論じているのではありません。
それは証明できないことです。

私は、仏陀が言ったことと、仏教が違って行ったということを言っているだけです。

 

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<<仏陀は、死後の世界も輪廻も説いてますから、それを否定するのはおかしいのですが
今の仏教は仏陀の真意とはかけ離れているという証左ではあります。>>

赤い実さんは上記の私の言葉に関して聞かれましたよね。
<<浄土真宗がお浄土というものを信じ、輪廻はない、と言っているのと、「信仰である」点において変わらなくないですか。>>と。

仏教は仏陀の教えだというのが建前だと思いますが、仏教である浄土真宗は、もし仏陀が死後の世界も輪廻も説いているのだとしたら、それを否定しているのはおかしいと書いたのです。

浄土真宗仏陀の教えでなく、親鸞の教えだというのであれば何も言いません。

ただ、仏教と名乗っているところも仏陀の言っていることとはかけ離れてしまったことを指摘したのです。

 

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もう頼みますから、投稿するのであれば、ちゃんと最初からのやり取りを読んでからにしてください。

高原さんの
浄土真宗も宗教である限り、「死後」の質問は多いと見え、ここに限らず、どこの宗派でも公式の見解としてホームページに記載があります。
谷派東本願寺***輪廻転生を肯定してません(死後、否定)
(西)本願寺派***仏教の無我説を支持しており、死後も輪廻転生も認めません。
両派とも死後を認めてませんが、それであれば、両派のバイブルとも言える無量寿経のこの記述は整合性を欠きますが?
なぜ、こういうことが起きているのでしょうか?
そして、こうして地獄の説明も無量寿経にあるのに、なぜ、親鸞はすべての人の極楽往生を約束できたのでしょうか?】
この質問に答える形で私は回答したのです。

この質問において、浄土真宗は「仏教の無我説を支持しており、死後も輪廻転生も認めません。」とホームページに書いてあるということから、それに対しての回答です。

 

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<<あくまで私にとってはですが、区分などどうでもいいです。>>

私も本当にどうでもいいのです。
信じたいものを信じればいいと思いますし、仏教でもそうでなくてもどうでもいいのです。

仏教は仏陀が言ったこととかけ離れてしまったということを説明しただけですよ。

それだけなのですけどね。

 

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仏教についてのひとりごと 130

これらの解釈が全くの間違いであることは、前に指摘しましたよね。あなたは何も答えることができませんでしたよね。
これはたしか竹村とかいう学者か誰かの本のコピペですよね?
学者の本をコピペばかりしてないで自分の頭で徹底的に考え、自分で探求しようとしなさい。
龍樹もどきの教理で歴史上の仏陀の言葉を解釈するのはやめなさい。

 

<<「罪過なし×罪過あり」「清浄である×不浄である」といった分別の矛盾を見破り、その両極の実体を捨てられるべきだという>>
<<浄と穢の中で遊ぶところに、二元対立を越えた涅槃があるいうのである>>

 

あなたは一つの文の一部分だけを切り取って、二元対立の超越だとか、相対矛盾の克服だとかに無理やり持って行っているだけです。
逆に言うと、龍樹もどきの不二中道を証明するためだけにスッタニパータの文章を切り貼りして利用しているだけです。
求道者の態度ではない。

もし、あなたが引用するスッタニパータ900の文章の仏陀の真意を知りたいのなら、895~914を通して読まなければ絶対にわかりません。

仏陀は『浄と穢の中で遊ぶ』とか、『浄は内、穢も内』とか言っているわけではない。

仏陀は『他人に導かれてはいけない』ということを言っているのです。
『制戒によって清浄が得られる』と説かれていてそれに従って誓戒を受けている人は、罪過がなく清浄であることを願って誓戒を守っているが、しかし、誓戒を破ったなら罪過がある、不浄である、とおそれおののいている。
このようなことは妄執なので、そこから離れなさい、と説かれているのです。

あなたの解釈がいかに見当はずれのトンデモ解説か、です。
たぶん、これは大乗仏教の仏教学者の本からのコピペではないですか?
仏陀の言葉を大乗仏教の色眼鏡でみると全く間違えますよ。

 

 

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<<善悪を捨て去れという。善悪と二元対立の相対矛盾を自覚し、善悪ともに実体ない(無我)なることを知れということだろう。そこにおいてどうなるか。常識的な善にも悪にも固執せず、善と悪の中を自在に遊ぶことができる。そこにおいて、悪人として虐げられている人を排除しない、仏の大悲も発動するのかもしれない。>>

これも前に指摘しましたよね?
これはスッタニパータ200でなく520ですよ。
これもあなたは、520の文の中の『善悪を捨て去り』だけを切り取って、鬼の首を取ったように【二元対立の相対矛盾の超越】という結論にしたいようです。
しかし、この文章は、518~522で一つの内容になっています。

518で遍歴の行者サビヤが『何を得た人をバラモンと呼ぶのですか?』と聞きます。
519では『一切の悪を斥け、汚れなく』
521では『一切の罪悪を洗い落とし』
522では『いかなる罪悪をもつくらず』
と徹底的に、悪、罪悪の消滅を説いています。

あなたはこれらの多くを占める文言をわざと無視して、【二元対立の相対矛盾の超越】という結論になるような言葉を切り取って披露しているだけです。

 

 

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歴史上の仏陀の言葉がどうやって伝えられてきたか、を知れば
最古層の仏典も遙か後世に創作された大乗仏典も、どちらも同じくらいに仏陀の言葉そのものや後世の夾雑物で出来ているのでどちらが仏陀の言葉でどちらが仏陀の真意じゃないとは言えない、などと言えるでしょうか。

仏陀の言葉は、仏陀の死後直後(2,3ヶ月後)には第一結集が開かれ
仏陀の直接の説法をその耳で聞いた直弟子500人が仏陀の生前の言葉を確認し合いました。
第一結集で確認した仏陀の言葉をサンガで膨大な数の弟子が毎日毎時間毎瞬繰り返し繰り返し反復確認したのです。
仏陀の説いた真理を記憶し記憶を反復することが最も重大な修行であったからです。
念=satiテーラワーダ協会では『気づき』と訳していますが
本来は『記憶』のことです。
記憶した真理を意識的に反復すること、これがsatiであり、正念でした。

インド人は記憶力が抜群だと言われていますが、その中でも相当高いレベルの記憶力の人たちがサンガには非常に数多く集まり、毎日毎時間毎瞬、確認しあっていました。

私の解釈ですが
三宝(仏法僧)の
帰依仏とは、釈尊が涅槃に至る教えを説いたということに絶対の信頼を置くこと。
帰依法とは、釈尊が説いた教えが涅槃に至る教えであると絶対の信頼を置くこと。
帰依僧とは、釈尊がつくったサンガ(修行者集団)に釈尊が説いた教えが存続していることに絶対の信頼を置くこと。
です。

第一結集で直弟子500人が確認した言葉かどうかは決定的なのです。

 

 

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何度も言っていますが、私も大乗仏典は素晴らしいと思っていますよ。
私は釈尊だけが世界で高い意識に達した人だとは思ってもいません。
大乗仏典を創作した人は、非常に高い意識に到達した人たちだったのだろうと思っています。

また、仏教に限らず、キリスト教でもイスラム教でもヒンドゥー教でもジャイナ教でも他の宗教でも宗派に属さなくても高い意識に到達した人は今まで世界に無数に存在したと思っています。
むしろ、本当に高い意識に到達した人の中には、何も説かずに死んでいった人も数多くいるだろうと思っていますよ。
釈尊が悟った後、『この法を説いても誰も理解できないだろうし無駄だ。』と思ったように。

ただ、いま、歴史上の仏陀を探求しているのは、仏陀自ら『私はよく矢を抜く者だ』と言っているからです。
そして実際に、釈尊在世中には数多くの人たちが悟り涅槃に至りました。

龍樹の信者であり自ら中観派を自認している宮崎哲弥は対談本のなかで『釈尊のときは数多くの人が悟ったけれど、大乗仏教では悟った人がいない』とまで言っています。

その言葉が本当かどうかはわかりませんが、少なくとも釈尊が優れた教師であったことは確かです。
なぜ、釈尊のもとでは数多くの人が悟りに至ったのか、です。

そして、私は大乗仏教に親しんできましたが、自分自身、卑小な精神、卑小な人格は何一つ変わりませんでした。
ですから、私は大乗仏教から離れて、歴史上の仏陀が本当は何を言ったかを探求し始めています。

これは私個人のことですので、何度も言っていますように、大乗仏教で救われる人は大乗仏教を進んでいけばいいのではないでしょうか。
大乗仏典の素晴らしさは私もそう思います。

 

 

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<<歴史上の仏陀が本当は何を言ったか」は、誰にも、永遠にわからへんからです>>

 

文献学が急速に進歩した現代になって初めて、かなりの精度でどの仏典のどの部分がより古層なのかが明らかになってきました。
2500年にも及ぶ仏教の歴史の中で、また日本に伝来して1500年もの時間が経ちましたが
その1500年の歴史のほとんど、どの仏典がより歴史上の仏陀の肉声に近いかなんて全くわからない状態でしたね。
歴史のほとんどを五時教判による価値観が支配してきました。
また、インドで作られた経典はすべて本物、中国で初めて作られた経典は偽経という判断材料しかなかったのですよ。

現代になって初めて、歴史上の仏陀の肉声に近い仏典は何かが明らかになってきたのですから、人類はやっと、『歴史上の仏陀が本当は何を言ったか』を探求できるようになったということです。

 

 

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<<第一に、常識で考えて、「詩」よりも、「散文」の方が、成立は古いはずです。
ところが、中村元が、古層として、第一に挙げたのは、「スッタニパータ」、第二に挙げたのは、「ダンマパタ」ではありませんか。>>

<<「詩」よりも「散文」の方が成立は古い>>と考えるのは何故でしょうか?
スッタニパータの特に第4章第5章があらゆる仏典の中で最古層であることは、中村元だけでなく、ほぼ通説に近いものになっていると思います。
文献学ではその理由は様々にあるようですが、例えば第4章は註によると、古くから独立の経典として非常に古い時代から読誦されていたことが原始仏典の聖典のうちに記されている、とあります。

<<第二に、ブッダの一代で説かれた原始仏典に、古層も新層もないのではありませんか。>>

仏陀一代の説法ではありますが、文字になったのはかなり後です。つまり、経典成立の時期には古い新しいがあるようです。
後世にならなければ現れなかったものが記されていれば、それは古層でなく新しい層の経典と見なされるようです。


<<第二に、あなたは、要は、「大乗仏教でも、キリスト教でも、イスラム教でも、さとりは開けます」とされます。
が、それぞれ内容は、まったく異なるのではありませんか(キリスト教イスラム教ですが)。>>

私が言ったのは『仏教に限らず、キリスト教でもイスラム教でもヒンドゥー教でもジャイナ教でも他の宗教でも宗派に属さなくても高い意識に到達した人は今まで世界に無数に存在したと思っています』です。
どの宗教でもそして何の宗教に属さなくても、高い意識に達した人は無数にいたでしょうね。
私は、すべての教えは筏だと思っていますから、究極には自分に合うか合わないか、ではないでしょうか。
人間の個性はそれぞれ違いますから、それに合う筏も異なるのではないでしょうか。

 

 

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<<中村元は、大乗は仏説ではないと決めつけ、そのうえでスッタニパータで説かれる地獄や餓鬼の世界は悪い事をさせないための方便で言われたとし、輪廻は基本的には認めていないようです。 サンスクリット語を訳する事に長けていると思うが、所詮、仏教の信仰者ではありません。>>

前にも同じことを聞かれていますが、私は中村元を非常に優れたパーリ語の訳者だと思っています。もちろん、中村元の訳でも、この語は全く違う訳だと思うことはありますが。
私は中村元を教祖と考えているわけではないですから、中村元が私と違う思想を持っていても関心はありません。まずはパーリ語の訳者として見ています。


<<本当に参考にされているなら、ニカーヤのゴータマ以前の過去仏との関係を無視したら仏陀の悟りはなんであったか、わからないのではないですか?  私は菩提樹の下で悟られたゴータマは自分は時間や空間を超越した存在だったと思覚られたと思っています。>>

菩提樹下での成道の場面はかなり詳しく残っていますが、成道の場面に過去仏が出てきた仏典を知りません。典拠を教えてください。


<<十二因縁、八正道、では、よほどの修業でもしない限り、 迷いからは離れられないでしょうね。>>

仏陀は、ガンガーが大海に流れ入るがごとく、八正道をするものは必ず涅槃へと流れ入ると言っていますが、それが嘘だと言うことですか?

 

 

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<<第一に、常識で考えて、「詩」よりも、「散文」の方が、成立は古いはずです。>>

あなたが主張しているのは、経典の成立時期に古い新しいはないということですか?
<<成立は古いはずです>>というのは、成立時期の古い新しいはあるということですね。
スッタニパータの第4章第5章が最古層であることは中村元の独説ではなくほとんどの学者が認めていると考えていましたが、それに反対している学者がいるのでしょうか?


<<原始仏典は、ブッダが作ったのではありませんか?!
他の者の「加乗」の多いか少ないかの問題と錯覚しておられませんか。>>

原始仏典を仏陀が作ったというのはどういう意味でしょうか?
仏陀は自ら著作を残しませんでした。
仏陀の言った教説を第一結集で確認して、口承により伝えていきましたが、文字として経典が成立するのはかなり後です。
後世の成立になればなるほど夾雑物が多くなるのは仕方ないことだと思います。
古層の方が後世の夾雑物が少ないとは思います。

<<ブッダが、「正等覚者」を自称したこと、ご存知ないのですか?!>>

それは知っていますが、それは自分以外には悟った者はいないということではないですよね。
スッタニパータにも、目覚めた人たち=ブッダたち とブッダが複数形になっていたりする箇所があります。

 

 

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<<第一に、散文と詩の成立時期を考えると、散文で経典が成立し、その後、音韻を踏んで詩にしませんか?!>>

私は前に書きましたように、散文の中にも古い成立のものはあると思っていますし、詩の形式の中にも新しいものはあると思っていますから、すべての詩や韻文の形態の方が散文形態より古いとは考えていません。しかし、学者の中には、口承で伝える時に覚えやすく間違って伝えられる可能性が少なくなるということから、詩や韻文の形で伝えたものが多いとする説があります。

原始仏典の成立時期は、かなり多岐にわたっており、成立時期の幅は古層から新しい層まで数百年もの差があります。


<<第二に、ですから、増谷文雄は、「阿含経典」の翻訳に、「ブッダの肉声である」旨、主張したのですよ。>>

仏陀の肉声に近いことは確かですが、原始仏典の中でもより肉声に近いものとはるか後世になって成立したものとがあります。


<<文字に変えただけで、変える前の経典成立時期は、ほぼ同時でしょう?!>>

文字にした時が経典の成立時期です。
それまでは、比丘比丘尼の頭の中にあるだけです。
後世の我々が知りうるのは文字にしたものだけです。


<<「個人的な真理」ではなく、「正等覚」、つまり、「普遍的に妥当する真理」ですから、「ブッダ達」になる、のです。>>

「普遍的に妥当する真理」に目覚めた人は釈尊ひとりとは思ってないですよね?
釈尊自身も、『私は覚者たちが見つけた古城に至る古道を見つけただけだ』と言っていますし
自分以外にも多数の覚者たちがいることを否定などしてないですね。

 

 

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<<繰り返しになりますが、論理的に考えて、「散文」が先で、因や恩を踏む必要がある「詩」は後ではありませんか。>>

ですから、既に答えていますが。私は散文でも古層のものはあると思っています。仏教学者の中には、韻文の形のほうがより古層だと考える人がいるということです。その理由は、覚えやすい韻文にして伝承したということらしいです。
スッタニパータ第4章第5章が仏典最古層とされているのは、そういう理由よりも、パーリ語文法でないマガダ語の残滓があるということ、他の古い経典に引用されているということ、などから最古層とされているようです。

<<「古層ならば正確」、という概念は、撤回されて、「詩」の形が、後世の加乗を受けにくい点、認められたのですね。>>

撤回してませんが。古層の方が後世の夾雑物は少ないでしょうね。歴史上の仏陀の肉声により近いと思ってますよ。

<<「古層の仏典」を否定された現在、何をもって、経典の正確さを判断されるのですか。>>

スッタニパータ特に第4章第5章が最古層の仏典であることは定説だと思いますが。
あなたはそれを否定するのですか?
スッタニパータ特に第4章第5章が最古層でないとする学者が一人でもいるのですか?
私は、スッタニパータが最も歴史上の仏陀の肉声に近いと思ってますよ。


<<スマナサナ―ラの言では、スリランカでは、現在でも、経典だけでなく、民法や刑法を含め、「丸暗記」という手段は、日常的にもちいられているそうです。>>

何万人もいる比丘比丘尼の全員が、あの膨大な原始仏典全部、一言一句違わずに記憶していたと思いますか?
インド人の記憶力が優れているのは聞いたことがありますが、さすがにそれまでは無理でしょうね。
また、全員が仏陀の説法をすべて聞いたわけではなく、それぞれ自分が聞いた説法を第一結集で確認し合ったのです。
経典の成立が古ければ古いほどより正確なのは、伝言ゲームをしたことがあればわかりますよね?10人で伝言ゲームをするより、3人でしたほうがより正確ですよね。
古い段階で経典として文字にされたのはより正確ということです。

 

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<<釈尊自身も、『私は覚者たちが見つけた古城に至る古道を見つけただけだ』と言っていますし自分以外にも多数の覚者たちがいることを否定などしてないですね。(
第一に、「過去、七仏の話」もありますが、「ブッダは実践された価値」を重んじたので、作り話ではありませんか。>>

 

比丘たちよ、私も同じように過去の仏たちがたどった古道、古径を発見したのだ。
比丘たちよ、過去の仏たちのたどった古道、古径とは何であろうか。
それはかの八正道である。・・・これが過去の仏たちのたどった古道、古径であって、この道を歩んでいきながら、私もまた老死を知り、老死の生じる原因を知り、老死の滅を知り、老死の滅に至る道を知ったのである。
(「サンユッタニカーヤ」)


<<第二に、あなたは、「自分一人が悟ればよい』とされたので、その反論に「ブッダは”正等覚”を自称した旨」、指摘したこと、忘れておられませんか。>>

 

自分一人が悟れば良いなどと言ったわけではありません。
どの宗教を辿っても、あるいは宗教などなくとも、高い意識に達した人は多く存在すると思う、ということを言ったのです。
そうすると、あなたは、釈尊が正等覚を自称したことを知らないのか、と言ったのですよ。
あなたは、釈尊だけが覚者だと思っているのですか?
それはそれでその人その人の好きに思っていればいいと思います。
私は、世界には無数に意識の高い人は存在すると思っていますから。
仏陀はその中の一人で、しかし、自分で言ってるように『矢を抜く最上の人である』と思います。ですから、仏陀の筏を探求しているのです。

 

 

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<<スッタニパータの四・五章が古いのは認めます。が、他にも、はるかに多くの仏典がなければ、ブッダの思想の全貌は解明できないのではありませんか。それらの莫大な仏典をどこで探され、何をもって、経典の正確さを判断されるのですか。>>

 

原始仏典は当然尊重しますよ。
そして、原始仏典でも、矛盾する記載があることがあります。
その時はより古層の仏典のほうを優先します。
また、最も重要なことは、最古層の仏典には書いてあると思っています。
それだけは残したい、よく仏陀が言っていた、というようなものであるものはある程度最古層の仏典に書かれていると思うからです。

 

 

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<<スマサラーナの話では、「人間には、もの凄い量の、しかも、正確な記憶力」があるのです。ですから、今でも、法律を始め、多くのことを丸暗記する、ということが、スリランカでは行われているのです>>

 

インド人やスリランカ人が全員、あの膨大な原始仏典をすべて一言一句の違いもなく記憶できるのですか?
インド人やスリランカ人は日本人にも一人もいないそんな天才ばかりだというのですか?
それであれば、インド人やスリランカ人が日本に来たら、司法試験を一発で合格できる人ばかりということですか?
六法全書の何十倍もの量ですよ、原始仏典は。
常識的に見て、あり得ないです。

 

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私が書いたのは
『私は釈尊だけが世界で高い意識に達した人だとは思ってもいません。
大乗仏典を創作した人は、非常に高い意識に到達した人たちだったのだろうと思っています。
また、仏教に限らず、キリスト教でもイスラム教でもヒンドゥー教でもジャイナ教でも他の宗教でも宗派に属さなくても高い意識に到達した人は今まで世界に無数に存在したと思っています。
むしろ、本当に高い意識に到達した人の中には、何も説かずに死んでいった人も数多くいるだろうと思っていますよ。釈尊が悟った後、『この法を説いても誰も理解できないだろうし無駄だ。』と思ったように。』
と言う言葉です。

世界で、高い意識に達した人は釈尊以外にも多くいただろう、ということを言ってるのですよ。
全部同じ悟りだとどこで言っているのですか?
言葉を勝手に変えないでください。

それでは、あなたは高い意識に達した人は世界中で釈尊だけと思っているのですね?

 

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