法華経は一貫性がない?
スマナサーラの『法華経は、一人の人でなくて多くの人が書き足し書き足ししたもので一貫性がない』
という言葉について考察します。
私は、序品第1から嘱累品第22までは、一人の人が書いたと思っています。
この人をAとします。
ただし、提婆達多品第12だけは後世に付加されたと考えます。
嘱累品第22で完結しているところ、Aの後継者Bがどうしても付け加えたくて、薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までを書いたと思っています。
私の考えでは、Aとその後継者Bは極めて親しい関係です。
そして、Bにはどうしてもそれを書かなくてはいけない訳がありました。
私がこう考える理由は次に出す本の中で詳しく書きます。
さて、スマナサーラに限らず、法華経は内容がバラバラで一貫性がないとか、そもそも内容自体が全くないとの感想は多くの人が持つものだと思います。
序品で光を発してこれから何かが始まると思っていると、方便品では、仏知見を示すために如来は生まれたと言うだけで、その仏知見は仏だけにしか分からないものだと突き放しています。
それから喩え話が主に説かれます。
三界火宅や長者窮子や薬草の喩えです。
次は授記の場面が延々と続きます。
かと思うと、法華経を広める人たちへの迫害を説いたりします。
さらに、地面から巨大な宝塔が現れたり、無数の菩薩たちが現れたりします。
確かにバラバラに見えます。
法華経は一体何を言いたいのでしょうか。
ごまかさずに『全くわからない』自分と向き合うことが極めて重要だと思っています。
答えを知りたくて、仏教解説書、法華経解説書を読み漁ってまあまあ納得できそうな解説を見つけたとしても、それはその解説書の著者の考えにしか過ぎません。
そこそこのところで自分を納得させている人が極めて多いと思います。
私の場合、どの解説書を読んでも、これが経王と呼ばれる内容だとは思えませんでした。
心から納得できないものは納得しないという姿勢が大事だと私は思っています。
解説書を読んで知識を多くしただけで満足してその知識量、読書量でマウントを取る人がいかに多いかは、ヤフー掲示板やマニカナのアラシたちを見てきたのでわかります。
今は断言できます。
法華経は間違いなく経王です。
最高の仏典です。
原始仏教によって仏陀の真意がわかり、仏教が根本分裂を経て部派仏教になってかけ離れていった歴史がわかって、紀元前後の状況がわかって初めて法華経の真意がわかるのだと思います。
大乗仏教を興した人たちは、部派仏教のどこに強烈な不満を持ったのでしょうか。
その答えはすべて法華経の中で明かされています。
法華経は大乗仏教が興った謎を解き明かす最大の鍵でもあるのです。
法華経がわからないうちは、バラバラな内容に思えます。
しかし、仏知見、一大事因縁、諸法実相、如来秘密神通之力、観音力、一仏乗、という言葉が意味するところがわかってくれば、すべてが繋がってきます。
(続きます)
法華経は内容がない?
面白い動画を見つけました。
スマナサーラが大乗仏典について語っています。
質問は般若心経についてでしたが、スマナサーラは大乗仏典でも特に法華経には内容が全くないと言っています。
他の大乗仏典には少しではあるけど内容があるけど、法華経には全くないそうです。
さんざんな言われ方ですが、
確かに、そう思う人は非常に多いですね。
法華経を熱烈に信仰する宗派の人は、法華経は最高ですごい経典だと教え込まれているので、すごいと思い込むようにしてるでしょうが、そうでない自由な立場の人が直接法華経を読んでも内容がどこにあるのかわからないというのが本音でしょう。
白隠でさえ、若いときに法華経を読みましたが、内容が全くないとして捨ててかえりみなかったのですから。
法華経が最高の経典とする宗派を信仰している人でも、どこがそんなに凄いのか実感している人は極めて少ないと見ています。
宗派の教学では、二乗作仏だから凄いとか久遠実成だから凄いとか言われているでしょうけど、実感は伴わないでしょう。
さて、この動画でスマナサーラは法華経についてこう言っています。
『法華経は、大乗仏典の中では一番作品的には悪い作品ですね。
文学的にも。
一人ではなく、誰か誰か書いて足して足してできたから、初めから一貫性がないんですよ。
これから何か言ってやると言って経典が始まるんですよ。
しかし、それが何かというのがわからないうちに終わるんですよ。
腹が立ちます。
だって結構長いんだから。
何も言っていない。
脱線脱線脱線物語、脱線物語、脱線物語で終わり。
それで最後書いた人が、これに気がついたんです。
気がついて、大事なことを書かなくては経典として成り立たない。
だから、一番、低次元的な手段を取ったんです。
この経典を侮辱すると頭が七つに割れるぞ、と。
それを読んだ瞬間から、私はめちゃくちゃ侮辱してるんです。』
何とも凄い言い方です。
しかし、スマナサーラの率直な感想だと思います。
スマナサーラはこの動画で、キリスト教などの一神教についての矛盾もズバリと言っています。
ここまではっきりと言葉にしなくてもそれに近い思いを抱いている人は多いでしょう。
次の稿で、このスマナサーラの言葉について検証していきます。
最大の謎
いま、大乗仏教はなぜ興ったか、について調べています。
これがわからないと、大乗仏典の代表である法華経の真意は絶対にわからないからです。
法華経に限らず、実に膨大な大乗仏典を次から次へと生み出した原動力は何だったのか、ここは極めて重要です。
今までこの謎は解き明かされていませんでした。
第一結集で確定した仏陀の経典があるのにもかかわらず、歴史上の仏陀の顔も知らず声も聞いたことがない人たちが次々と新しい経典を作っていった、この事に何の意味があるのか、です。
ここを逃げていれば、大乗仏教、または仏教の未来はない、とさえ思います。
特に大乗仏教の国である日本人はここをトライしなければいけないでしょう。
『部派仏教も大乗仏教もみんな仲良く』でお茶を濁していれば、仏教の真意は永久にとらえられない気がします。
もし、そのようなことでお茶を濁すとするならば、大乗仏典が部派仏教に対しておこなった『仏種を焼いて断じて仏にはなれない』などという極めて強い否定、あえて言えば罵詈雑言の数々が説明できません。
これは、部派仏教に対しての極めて強い不満によるものと考えるしかありません。
それでは、大乗仏教運動は、部派仏教のどこにそのような強烈な不満を持ったのか、その点が最重要になります。
(続きます)
なぜ日本にはキリスト教信者が少ないのか
日本には、キリスト教信者は人口の1%しかいないそうです。
キリスト教布教師の高原剛一郎が言っていましたが、どんなに布教を頑張っても1%より増えることはなかったということです。
ところで、世界の国の中で、キリスト教信者が人口の1%という国は、ガチガチのイスラム教国でイスラム教以外を禁教にしている国くらいしかなく、同じ東アジアの韓国は30%以上信者がいてキリスト教国と言えるくらいらしく、共産国で唯物論、そしてキリスト教を迫害している中国でさえ日本の割合よりずっと多いそうです。
日本は、バレンタインデーやクリスマスなどキリスト教の催事はとても盛んで好きですし、キリスト教系の学校も数多くあります。
ここまで身近にあって親しんでいるのに、なぜキリスト教信者はこんなに少ないのでしょうか。
ある書物では、日本人は日本教という教えが根強くあるのでキリスト教を受け入れられないのだという解説があります。
これは馬鹿馬鹿しい説で、日本教などというものがあるわけではなく、もともと古神道しかなかった国で後から仏教や儒教が入ってきてそれを取り入れていったのであって、後から入ってきたのは仏教や儒教もキリスト教も同じであり、しかし、仏教の影響は大きくキリスト教の影響は少なかったということです。
問題はなぜ仏教の影響は大きくキリスト教の影響は少なかったのか、ということです。
この謎を解くのに、最初のキリスト教宣教師ザビエルの書物をもとに解説している動画があって、参考になりました。
これによると、結論から言えば、日本人の知的水準が高かったということですね。
ザビエルは日本に来て自分の限界を思い知らされたようです。
日本人は海賊上がりや農民など教育を受けていない人たちでも、一神教の矛盾点を的確に突いてきたので、ザビエルなどキリスト教宣教師はタジタジだったということのようです。
絶対神、唯一神がこの世を作ったのであればなぜ悪が存在するのか、日本人ならその矛盾は気がつくでしょうね。
絶対の力を持ち意志を持った唯一なる神を設定するなら、すぐ悪や罪を消滅させればいいだけですね。
なぜそれをしないのでしょう。
韓国や中国ではそのような質問は出なかったようです。
それ以外にも、完全なる神であるイエス・キリストが人類のために贖罪したのに、なぜ罪がなくならずこのような罪にまみれた世になっているのか。
なぜ、絶対なる神が、ヨシュア記のように先住民の女性も子供も虐殺するように言うのか。
まずはこのような質問に逃げずに答えられるようにならないと、これから先も広まらないでしょう。
遠藤周作のキリスト教観
TToshiさん。
ヴィパッサナー瞑想実践法の資料ありがとうございます。
一人でも多くの人に広まっていくように祈っています。
遠藤周作のイエス・キリスト観は私も共感します。
極めて日本人的なキリスト教観だと思います。
しかし、キリスト教神学を基礎とした現在のキリスト教会からすると、多分、相容れないのではないでしょうか。
私も、一人の覚者としてのイエス・キリストは非常に素晴らしいと思っていて、聖書も読むことがありますし、キリスト教関係の映画はマイナーなものも含めてかなり観ています。
ところが、イエス・キリストを一人の覚者と見ること自体、キリスト教学からすると許せない態度でしょう。
『沈黙』で語られるイエス・キリストは、人間の弱さに寄り添う慈悲深い存在です。
仲間が拷問されるときの叫び声や自らの痛みや恐怖に耐えられなくて信仰を捨ててしまう人間の弱さをともに悲しみ受け入れてくれます。
しかし、残念ながら、キリスト教神学ではそうではないようです。
イエス・キリストは我々人間と隔絶した神であり、完全な存在です。
私たち人間がその弱さを克服して一人の覚者となったのではなく、完全なる神が受肉したのです。
罪を犯すのであれば、目をくり抜け、手足を切り捨てよ、と言う激しさがあります。
遠藤周作は晩年、ヒンドゥー教の受容性を取り入れたキリスト教を指向します。
正統なキリスト教会からすると異端とされるような考えですが、もしそのようなキリスト教があれば素晴らしいとは思います。
ミャンマーで僧だった方から
TToshiさん、はじめまして。
『仏陀の真意』読んでいただきましてありがとうございます。
ミャンマーでテーラワーダの僧侶だった方に読んでいただけるとはうれしいです。
紙の書籍が完売しても、こうやって電子書籍版を読んでいただける人がおられるのも有り難いことです。
『大いなる人の八つの悟り』、ありがとうございました。
読ませていただきました。
仏陀の教えが的を射てしかも簡潔にコンパクトに纏められていますので、多くの人に益するものだと思います。
広まっていくことを祈っています。
おっしゃるように、仏陀の理法は人類の至宝だと思います。
世界の宗教をいろいろ見ましたが、本当の仏陀の教えの素晴らしさは時を経るごとに認識させられます。
以前はキリスト教も尊敬していましたが、そして、世界は、旧約聖書を元としたユダヤ教、キリスト教、イスラム教の影響が極めて強いですが、ヨシュア記などを見ると、旧約聖書の『神』とは何なのだろうと疑問も沸いてきました。
戦闘や争闘が延々と続く世界が見えてしまいます。
今こそ、人類の至宝である仏陀の理法が甦らなくてはならないと強く思います。
現在、世界に対して仏教は何の影響力もないです。
仏教自体、部派仏教と大乗仏教に分かれており、大乗仏教の中もバラバラです。
しかし、今から何十年か後には、仏陀の理法が平和に役立っていくぐらい認知されるのではないかと願っています。
仏教は虚無論なのか
清水俊史著『ブッダという男』の最も核心的な部分はここです。
『ブッダはいずれの天界であろうとも現象世界の内側にいる限り解脱(不死)はあり得ないと考えた。つまり現象世界の外側に解脱を求めた』
『ブラフマンの世界は、大梵天と呼ばれる中級の天界に過ぎない』
無所有処、非想非非想処も天界のひとつにすぎないとしています。
無所有処と非想非非想処についてはそうでしょう。賛同します。
ですから、仏陀は、『解脱に赴かない』と言って捨てたのです。
ところで、清水氏はこのようにも書いています。
『ここで重要なのは、この十二要素の外側に、我々が認識できない超越的な何かが存在するわけではない点である。ブッダは、この十二要素(十二処)が宇宙を構成する“一切”つまり、これ以外のものは存在しないと説いている』
清水氏のこの2つの主張からすると
ブッダは現象世界の外側に解脱を求めたが、現象世界の外側には何も存在しないと説いた、という結論になります。
つまり、解脱とは何もない世界、虚無の世界に行くこととなります。
仏教がしばしば虚無論と言われるのは、このようなことを言う者が後を絶たないからです。
仏教は、仏陀の死後、唯物論的傾向、虚無論的な傾向に傾いていきます。
十無記で、如来の死後を無記としたため、無記を無と捉える者たちが主流となっていきます。
部派仏教がこのような傾向を強めたために、仏陀の真意を復興させようと興ったのが大乗仏教だと思っています。
今また、部派仏教も大乗仏教もこのような唯物論的傾向を強めています。
仏教の死後の解釈には主に4つあります。
①死後の世界も輪廻転生も全く認めない。
迷いの衆生であろうが悟った仏陀であろうが死ねば無に帰す。
②迷いの衆生は死後悪趣に赴き、輪廻転生を繰り返すが
解脱した如来は輪廻を終えて無に帰す。
③迷いの衆生は死後悪趣に赴き、輪廻転生を繰り返す。
解脱した如来の死後については測ることができないとして無記。つまり、説かない。
④迷いの衆生は死後悪趣に赴き、輪廻転生を繰り返す。
解脱した如来は、死後も涅槃の境地でいる。
業でなく誓願により、人間として生まれることも可能。
今の仏教、部派仏教も大乗仏教も、ほとんど①が主流になっています。
完全な唯物論です。
死ねば何もないということです。
仏陀が断見として斥けた迷妄のひとつです。
この清水俊史氏の主張は、②です。
解脱とは何もない無の世界に行くことという解釈です。
虚無論ですね。
仏陀の真意は③です。
これは仏陀の言葉を追っていけばわかります。
④はバラモン教の色彩が強いですね。
はっきりと悟りの世界の実在を説く教えです。
実は大乗仏典の多くは、④に立脚しています。
歴史上の仏陀は、如来の死後については無記でした。
しかし、そのせいで、仏陀の死後、①や②の説になってしまいました。
そこで、大乗仏典では、如来の死後の実在を強調していきました。
常楽我浄の法身を強く打ち出していきます。
電子書籍版の状況
私の著書『仏陀の真意』は、既に紙の書籍はすべて完売で手に入らず、電子書籍版だけとなっています。
紙の書籍が完売してからはチェックしてなかったのですが、いま久しぶりにAmazonをチェックしますと、kindle本(電子書籍版)の仏教ジャンルで売上15位だったのでびっくりしました。
kindle本には、kindle unlimited と有料本があって、kindle unlimited は無料で読めるシステムですから、売上上位はほとんどkindle unlimited で占められています。
kindle unlimited を除いた、純粋に有料のものだけですと、
現時点(令和6年1月15日午前10時)では
①大白蓮華2024年1月号
②ダンマパダ(光文社)
③ブッダという男
④新人間革命第1巻
⑤新人間革命第30巻
⑥仏陀の真意
と、6位です。
大白蓮華と新人間革命は、巨大な組織創価学会の本で、少し前に池田大作さんがなくなったこともあり、一般の人というより会員が買われているのでしょう。
一般の人が対象で有料の本となると、『ダンマパダ(光文社)』『ブッダという男』に次いで、『仏陀の真意』が3位となっていることになります。
びっくりです。
紙の書籍が完売しても、電子書籍がこうしてポツポツ読まれていることに感謝いたします。
清水俊史著『ブッダという男』 ⑦(ブッダとはなにものなのか)
この本の眼目である、ブッダは平和主義者だったのか、男女平等論者だったのか、階級差別反対論者だったのか、という3つについて考察してきました。
まず、この本の著者は、今までさんざん強調されていた『ブッダの独自性、先駆性』について疑問を投げかけているのだと思います。
このことは、今までの仏教の通説の間違いであったと私も思っています。
古代においても、現代においても、論点の違いはあっても、ブッダの教えを全くの独自で先駆的なもの、唯一無二、空前絶後のもの、誰からも影響を受けていないもの、それまでのすべてを全否定したもの、と強調されてきた歴史があります。
それは、ブッダ在世中からそういう傾向はあったと思います。
どのような師匠の弟子でも、師匠を尊敬すればするほど他と隔絶した唯一無二の優れたものと思うのは無理からぬことです。
ブッダの死後、その傾向は極めて極端になっていきました。
ブッダ在世時は、誰でもブッダ(目覚めた者)になれるという教えでした。
仏陀と阿羅漢に違いはなく、阿羅漢という言葉で仏陀を表わしていたのです。
仏の十号の中の応供は、アラハンです。
つまり、仏=阿羅漢なのです。
しかし、時が経つにつれ、仏陀は唯一無二で特別な人という扱いになっていきました。
仏と阿羅漢に差をつけていきます。
ブッダとは、歴史上の仏陀(つまりゴータマ・シッダッタ)のみで、過去七仏など伝説上のブッダはあるにしても、歴史上にブッダは仏陀のみ、誰もブッダにはなれない、となっていきました。
阿羅漢が悟った最高位となっていきました。
これも、仏陀在世中は、誰でも仏=阿羅漢になれる、在家者でも女性でもなれるというものでしたが、根本分裂を経て部派仏教となってからは、特にサンガの権威が強調されていきます。
出家者で男性でなければ阿羅漢になれないという派も出てきます。
仏陀は唯一無二で、その次の阿羅漢も極めて特別な存在に祭り上げられます。
近現代に至っては、近代的な価値観でブッダを見ることが主流になります。
特にヒューマニズムの観点から、インドのカースト制度を唯一否定した、勇気ある人物のように言われることが多いですし、男女平等や平和主義を掲げたヒューマニズムの星のような扱いです。
この『ブッダという男』と言う本は、そのようなヒューマニズムの観点から見るブッダ像に疑問を投げかけているというわけです。
ここで私の考えをまとめておきます。
①生まれによるカースト制度否定は、仏陀独自では全くなく、沙門宗教、自由思想家すべて共通している。仏陀の独自でも独創でも先駆でもない。
②業(行為)による輪廻は、ヤージュニャヴァルキヤが先駆であり、仏陀の独自でも独創でも先駆でもない。
③仏陀は、どのようなカーストの人間もカースト外とまで言われる階層の人も弟子にし、サンガに入ることを許した。
そして、サンガの中では、カーストではなく、サンガにいる年数が長い者が短い者より上とした。
だから、サンガに入って5年のバラモン階級出身者は、サンガに入って10年の不可触階級出身者より下であり敬わなくてはいけない。
これは仏陀の価値観が仏法という視点にのみ基づいている証拠で画期的。
④仏陀は、女性も在家者も悟れるし解脱できる、とした。これは仏法の下での平等を表わしている。古代において、この平等性は稀である。
⑤仏陀は争わなかった。特に異教徒を攻撃したり暴力で排除したりすることは一切なかった。弟子にも争わないように求めた。
⑥業(行為)による輪廻を見いだしたのはヤージュニャヴァルキヤだったが、それは哲学に止まった。
仏陀がウパカに対し『天上天下唯我独尊』と宣言したのは、仏陀が唯一、それまでになかった完全に苦を滅する理法を発見したから。
その理法とは、四諦の法、十二縁起の法、四念処であり、その理法を瞑想することで解脱、涅槃に至った。
ここが、仏陀の独自であり独創であり先駆であり画期的なところ。
つまり、仏陀は、自ら言うように『矢を抜く最上の人』
それは、矢を抜く理法、完全に苦を滅する理法を発見し、それに基づいて自ら解脱を成し遂げたから。
ところが、今までの仏教は、仏陀の理法をそっちのけにしてきた。
仏教の宗派は数多いが、十二縁起を瞑想する宗派はどこにもない。
仏陀の理法と切り離されたメソッドが一人歩きしている。
結論を言いますと
今までの仏教のように
仏陀は、バラモン教を全否定した、唯一、カースト制度を否定して階級平等を掲げた先駆者という通説は間違っています。
沙門宗教はすべて『生まれによってバラモンではない』という考えで、仏陀はその中の一人。
そして、その考えは、バラモン教のヤージュニャヴァルキヤが涅槃に到達するのは祭祀ではなく真理の知識によるとしたことが源。
ブッダ=目覚めた人は、歴史上の仏陀の前にも後にもいたし、在家でも女性でもブッダになれるというのが仏陀の考え。
それが、サンガ(教団)が発展するにつれて、仏陀一人を特別扱いしていった。
仏陀以外の人は阿羅漢どまりとなっていった。
仏陀在世中には仏=阿羅漢で、同じ意味だった。
仏陀には女性蔑視の考え方は全くなく、仏法のもとに男女もカーストも平等だった。
女性への戒律が多いのは、女性への危害や誘惑というリスクがあるため。
バラモン教やジャイナ教と比べても、仏陀の法は男女関係なく解脱できるところが際立っています。
ジャイナ教は、空衣派と白衣派に分裂する前は、すべて衣服を所有しない裸行であり、裸行ができない女性は救われないという思想でした。
バラモン教またはヒンドゥー教の支柱である『マヌ法典』を見れば、女性差別のオンパレードであることがわかります。
仏陀の教えは極めて高度に男女平等でした。
故に、仏陀に女性蔑視があったという清水俊史著『ブッダという男』は間違っています。
『マヌ法典』が支配するインドで、仏陀の女性観は画期的でした。
清水俊史著『ブッダという男』 ⑥(ブッダは平和主義者だったのか)
この著者の『ブッダは平和主義者だったのか』という問いかけは、仏陀のみならず仏教界全体への言及がされていて興味深いものです。
著者は言います。
※※※※※
仏教は慈悲の教えであるーそう多くの仏教者が口を揃えて言う。
だが、長い歴史の中で、仏教が殺生や戦争を何らかの形で許容してきたのは事実である。
仏滅から500年ほどしてから成立した大乗経典には、「慈悲の殺人は功徳を生む」といった記述さえ説かれるようになる。
そして、それを根拠にして、アジア・太平洋戦争において日本の仏教教団は、「空」や「一殺多生」などの教理を援用しつつ暴力や戦争を肯定しし、戦時体制を翼賛し続けた。
※※※※※
これはその通りですね。
情けないことに、日本仏教で戦争に反対したところはひとつもありませんでした。
宗教というものの存在価値とは何でしょう。
キリスト教の方がもっと無惨ですね。
欧米のキリスト教国は、植民地にしようと狙った国に宣教師を送り込みその国の状況を報告させます。
ある程度、国情が判明してから、占領軍を送り込み原住民を虐殺して、その国を植民地としました。
日本でキリスト教が禁止になったのは、世界中でのそのような所業が明らかになったからです。
キリスト教と言えば愛の宗教と言われます。
しかし、歴史を見ると、真逆です。
十字軍や魔女裁判、植民地政策、どれも血生臭いものばかりです。
口先だけで愛を説いてもやって来たことは虐殺の数々でした。
神父などの聖職者の少年少女への大規模な性虐待も明るみに出てますし。
キリスト教も仏教も、口先で言っていることと実際にやっていることが真逆なのはどうしてか、この問題を解決しないとどんなに偉そうにしゃべっても信用は得られないでしょうね。
確実に、宗教は衰退の一途を歩むことになるでしょう。
仏教はキリスト教ほど積極的に戦争や虐殺に絡むことは少なかったですが、戦争を抑止せず、むしろ加担したのは事実です。
浄土真宗の一向一揆などは戦争そのものでした。
宗教が何故、世の中にかえって戦争や争いをもたらし、不幸を増産し続けるのか、については、いま、考察しつつあるところです。
世界の歴史を見、そして今現在起きつつあることをありのままに見た場合、宗教がらみの殺人や戦争がいかに多いか、わかるはずです。
この本に戻りますと、仏陀は平和主義者ではないと言う結論のようです。
しかし、仏陀が直接言った言葉で、それについて根拠となるものがほとんど挙げられていません。
最初に挙げられている資料は、スリランカの歴史書『大王統史』で、紀元前2世紀のアバヤ王が仏教僧団の長老に相談したものです。
幾多の大軍の殺戮をしたアバヤ王に対し、『天への道に障害になるものは何もない』と答えた、とあります。
スリランカの長老の認識では、仏教を信じ実行している者以外をいくら殺そうと天への道の障害にはならない、ということで、清水氏は仏教が平和主義だと言うことに疑問を投げかけています。
しかし、スリランカの長老が言ったことを元に『ブッダという男は平和主義者ではなかった』と結論づけるのは幼稚で乱暴です。
後に、ブッダがアングリマーラに言った言葉を挙げていますが、
回心した殺人者アングリマーラが民衆に棒や石を投げつけられ大けがをしたときに
ブッダは『あなたは耐えなさい。数百年数千年もの間地獄で煮られたであろうその業の報いを、あなたはまさに現世で受けているのです』と言います。
これをもって、ブッダが平和主義者でないと結論つけるのは、やはり幼稚で乱暴ですね。
仏陀のこの言葉のどこを見て平和主義者でないと結論付けできるのか、さっぱりわかりません。
世界中の宗教は、異教に対しての攻撃性があります。
異教徒を殺せという宗教もあります。
後世の仏教宗派でも、他宗派に対し極めて攻撃的な教えのところも出てきました。
しかし、少なくとも仏陀本人は、そのような攻撃性、戦闘性がもっとも少ない人物であったと文献から思います。
清水俊史著『ブッダという男』 ⑤(階級差別について)
カースト制度について
この本でも取り上げられている仏陀の言葉があります。
パセーナディ王『四つの階級に差別はあるのでしょうか』
仏陀『私は、解脱には、何ら違いはないと説きます』
仏陀の考えはこの言葉に尽きていると思います。
カースト制度批判が、仏陀の独創でも先駆性でもない、という著者の結論には、全面的に賛同します。
著者は、それは、沙門宗教に共通する思想性の一つだと言います。その通りです。
著者は、それは、バラモン階級が勢いを失ったからだと書いています。
ここの考察が十分ではないでしょう。
私は、ヤージュニャヴァルキヤの先駆性が生んだと思っています。
バラモン教でバラモン階級のヤージュニャヴァルキヤは、それまでの祭祀経典であったヴェーダ宗教を、『祭祀ではなく真理の知識によって涅槃に到達する』としました。
これにより、以降、祭祀経典ではなくウパニシャッド(奥義書)が主流になりました。
祭祀によらなくても解脱、涅槃に到達するという考えから、祭祀階級(バラモン階級)以外の階級から自由思想家が輩出しました。
清水俊史著『ブッダという男』 ④(男女差別について)
さて、この『ブッダという男』という本の世間への最大の売りは、最近のブッダ研究が近代的価値観にあてはめて、ブッダは平和主義者で階級差別や男女差別を否定した先駆的人物としてきたことへの批判です。
それらの装飾を剥ぎ取ろうということのようです。
まずは、男女差別の問題です。
この本の主張を一言で言えば、ブッダが女性を蔑視している資料があるのだから、ブッダは男女平等論者ではない、ということのようです。
ブッダが女性を蔑視しているという証拠に、原始仏典の中の次の言葉を挙げています。
『女たちは、男を欲求し、着飾ることを思念し、子を拠り所とし、夫を共有する女(愛人)がいないことに執着し、家庭の支配権を完結とする者たちです』(増支部経典)
まず、増支部経典は、他の相応部経典や中部経典などに比べ、成立が新しく、後世で付け加えられたと思われる部分があるので、私はあまり重要視しません。
しかし、ここでは、増支部を根拠としているので、この言葉はそのままブッダ本人の言葉として考察します。
私は、この言葉が女性蔑視だとは思いません。
『男を欲求し』・・拠り所として結婚したい女性が多いのは否定できない事実でしょう。それがないと、結婚する女性はいないでしょう。
『着飾ることを思念し』・・ファッションに全く興味のない女性というのを私は知りません。
『子を拠り所とし』・・老後、子供を頼りにする女性がいるのは事実ですね。
『愛人がいないことに執着し』・・夫に愛人がいてもなんとも思わない女性の方が少ないでしょう。
『家庭の支配権を完結とする者』・・多くの家庭は主婦が管理していますね。
仏道に入っていない、一般的な女性が家庭に執着するのは、一般的な男性が財産や仕事に執着するのとおなじように、社会をありのままに見ればその通りとしか言えません。
それをことさらに、この言葉を根拠として、ブッダは女性蔑視だったとあげつらう著者には疑問しかないです。
次に、著者は、女性にだけ課せられた『八つの掟』を根拠に男女平等ではないと言いたいようです。
『八つの掟』は、主に、女性出家者の背後に男性出家者の存在があるように、定められています。
このことは、古代インドの社会通念を詳しく知らなければ、論じることができないものです。
古代インドでは、女性は、小さいときは父親の保護、結婚してからは夫の保護、夫が亡くなってからは息子の保護、を受けない者、つまりどの男性の保護も受けてない女性は娼婦かそれに近い者と見なされていました。
つまり、性の対象となってしまうのです。
ですから、もし、女性出家者を認めて、そこに男性出家者の後ろ盾がない場合、古代インドでは、性の対象と見なされてしまうでしょう。
現に、律蔵などを見れば、そういう事件はあったのです。
このような当時の社会環境を全く無視した論説は幼稚で意味のないものです。
ちょうど、歴史ドラマの多くが、その時代の考えを無視して、道具立てや撮影セットだけを戦国時代にして、台詞はすべて現代劇そのままの思想で演じている馬鹿馬鹿しさを見ているようなものです。
もし、仏陀を本当に論じるなら、紀元前500年のインドに降り立たなければいけないし、大乗仏典を論じるならば、紀元前後のインドに降り立たなければいけないでしょうね。
清水俊史著『ブッダという男』 ③(十二縁起)
私は、十二縁起を真正面からまともに解説している仏教書を見たことがありません。
はっきり言って、すべての解説は、適当にお茶を濁しています。
何故か。それは本人も分かっていないからです。
そして、十二縁起を瞑想しようとする者がだれもいないからです。
十二縁起は、極めて重要な仏陀の瞑想の内容なのです。
四諦と十二縁起によって成道したのですから。
で、今回、話題の本ということで、この『ブッダという男』には十二縁起をどのように解説しているか、楽しみにしていました。
しかし、『いくつかの因果関係は、そのままでは理解しがたい』『本書では、それぞれの支分についての細かな議論には立ち入らない』ということで終了しています。
がっかりです。
他の仏教書に比べ、『そのままでは理解しがたい』と正直に吐露しているのは好感が持てましたが。
何故、十二縁起が極めて難解かというと、仏典に反することができないからです。
仏典を無視して、自分勝手に適当な解釈をするのは簡単です。
特に仏教学者でない人が、十二縁起の解説をしているときは、全く仏典を無視して自分勝手な解釈を述べたてていることが多いです。
しかし、仏典で仏陀が十二縁起について語っていることを無視するのであれば、それは仏陀の真意とは言えないのです。
縁起とは、
Aがあれば Bがあり
Aが生じるが故に Bが生じる
Aがなければ Bがなく
Aが滅するが故に Bが滅する
ということです。
これに当てはまらなくては縁起の関係ではありません。
まず、十二縁起の解説のうち、基本的なこの縁起の関係を無視している解釈がいかに多いか、です。
『縁』とは後世にいわれるようになった、『条件』と言う意味でも『補助的な原因』という意味でもありません。
Aがあれば Bがあり
Aが生じるが故に Bが生じる
Aがなければ Bがなく
Aが滅するが故に Bが滅する
これが、縁起の関係なのです。
つまり、直接原因です。
特に、『Aが滅するが故にBが滅する』とならなければ、縁の滅とならないので、苦を滅することができなくなり、縁起の理法、十二縁起の法が成り立たなくなるのです。
十二縁起を解読するには、必ず、この縁起の公式に依らなければなりません。
つまり、
無明があれば 行があり
無明が生じるが故に 行が生じる
無明がなければ 行がなく
無明が滅するが故に 行が滅する
行があれば 識があり
行が生じるが故に 識が生じる
行がなければ 識がなく
行が滅するが故に 識が滅する
識があれば 名色があり
識が生じるが故に 名色が生じる
識がなければ 名色がなく
識が滅するが故に 名色が滅する
・・・・・・
以下、縁起の公式は、
名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死 と続きます。
・・・・・・・・
これに当てはめようと思うと、今までのほとんどの解釈は間違いであることが分かります。
十二個すべてにおいて、この縁起の公式が当てはまらなくてはいけないのです。
それでなければ、縁の滅、苦の滅に至ることができないのですから。
次に、相依性の問題です。
縁起を相依性の関係と考えている人がいかに多いか。
舎利弗の葦の喩えから、十二縁起すべてにおいて相依性が成り立つと考える人がいます。
しかし、仏典では
識⇒名色 この間にだけ、相依性が成り立つとしています。
この条件に適合する解釈でなければいけないのです。
そして、相応部経典『分別』に書かれていることに反してはいけないのです。
1,すべて縁起の公式に当てはまること
2,識と名色の間だけ相依性が成り立ち、その他は相依性ではないこと
3,相応部経典『分別』の十二縁起の記述
この3つに適合する解説でなければ、それは間違っています。
ですから、十二縁起は極めて難解なのです。
仏陀が『この縁起の法は深遠であり、その相もまた深遠なるものである。アーナンダよ、この縁起の法に対する無知と無理解によって、人は、意図がもつれ絡まったかのように、腫れ物に覆われたように、ムンジャ草やパッバジャ草のように、悪趣・苦界・堕処への輪廻を超えることができないのである。』と言ったように、
極めて難解で深遠な法なのです。
清水俊史著『ブッダという男』 ②(非我と無我)
この本には賛同するところは多いですが、
ただ根本的なところで私の考えと全く違うところがあります。
それは、『非我』か『無我』かというところです。
清水氏も挙げているように、仏陀は、
『眼(・耳・鼻・舌・身・意)は自己ならざるものです。自己ならざるものは「これは私のものでない。これは私ではない。これは私の自己ではない」とこのように正しい智慧によって観察されるべきです。』
『諸々の色(・声・香・味・触・法)は無常です。無常であるものは苦です。苦であるものは自己ならざるものです。自己ならざるものは、「これは私のものでない。これは私ではない。これは私の自己ではない」とこのように正しい智慧によって観察されるべきです。』
と言っています。
この箇所は、清水氏が本の中で挙げている仏陀の言葉です。
これを見れば、明らかに分かります。
『無常であり苦であるものは私ではない』とはっきり言っているのです。
つまり『非我』です。
ありのままに読めば、『無我』ではなく『非我』と言っていることがわかります。
ところが、清水氏は、この後に、こう言っています。
ここで重要なのは、この十二要素の外側に、我々が認識できない超越的な何かが存在するわけではない点である。ブッダは、この十二要素(十二処)が宇宙を構成する『一切』であり、これ以外のものは存在しないと説いている。(清水俊史氏)
十二要素(十二処)とは、眼・耳・鼻・舌・身・意とその対象の色・声・香・味・触・法です。
ここで清水氏が言っているのは、『一切』についてブッダが語ったものです。
弟子が、『一切、一切と言われますが、一切とは何でしょうか。』と質問したときの仏陀の答えです。
『一切』というのは『一切皆苦』の一切です。
形成されたものすべては苦である、というのが『一切皆苦』の意味です。
つまり、『一切』とは形成されたものすべてのことを言います。
仏陀は、その『一切』を眼・耳・鼻・舌・身・意とその対象の色・声・香・味・触・法としました。
さて、本当に、清水氏の言うように『ブッダは、この十二要素(十二処)が宇宙を構成する『一切』であり、これ以外のものは存在しないと説いている』のでしょうか。
『感興のことば』第26章21にこうあります。
不生なるものが有るからこそ、生じたものの出離をつねに語るべきであろう。
作られざるものを観じるならば、作られたものから解脱する。
『一切皆苦』の『一切』は作られたものすべてです。生じたものすべてです。
ここで仏陀は、はっきりと、不生なるもの、作られざるものが有ると断言しています。
もし、作られたもの(一切)だけしかなく、作られざるものがないのであれば、
つまり『一切』だけなのであれば、『一切皆苦』から逃れることは誰にもできないではないですか。
この『ブッダという男』という本は、根本的に仏陀の捉え方が間違っているのです。
ここで、『十無記』を出しましょう。
中部経典『小マールキヤ経』に『十無記』が出てきます。
その中の4つは、tathagata(如来) が死後も存在するかどうかという問いです。
tathagata(如来) は死後存続する
tathagata (如来) は死後存在しない
tathagata (如来) は死後存在し、また存在しない
tathagata (如来) は死後存在しないし、また存在しないのでもない
ここで、マールキヤプッタがどうしても仏陀に答えてほしかったのは、『私という中心』を消滅させたtathagata=如来は、死後存在するのかどうか、ということです。
つまり、形成されたものをすべて非我と見極めたあと、その奥に何かがあるのかそれともただの虚無なのか、ということです。
これについて、仏陀ははっきりと『無記』=答えないと言っています。
仏陀は輪廻を終わらせた如来(tathagata)が死後存在するか存在しないか、の問いについて無記としました。
つまり答えませんでした。
清水氏によれば、
唯物論の『無我』と仏陀の『無我』の違いは、仏陀が輪廻の存在を認めていることだと結論づけています。
つまり、業報による輪廻があるかないかの違いということです。
本当にそうであれば、輪廻を終わらせた如来は、もう輪廻がないわけですから、唯物論の『無我』と同じで、死後何もなくなる、虚無ということになります。
このように捉えてしまったのでは、仏陀の真意からかけ離れることになります。
仏教は歴史上、このように捉えられることが圧倒的に多かったために、唯物論、虚無論となっていきました。
もし、このように唯物論的虚無思想が仏教の本質であるというのであれば、仏教の価値はないどころか、極めて危険です。
作られざるものについては仏陀は基本的に無記です。
そして、その真意は、仏陀が明言するように『不生なものがある』『作られざるものを観じるべき』なのです。
清水俊史著『ブッダという男』①(独自性の誤り)
清水俊史氏という仏教学者が書いた『ブッダという男』という本が、仏教界で話題になっていますので、読んでみました。
アカハラ問題という社会的な話題も大きく寄与して注目度が極めて高い本です。
今までの仏教学や仏教常識に異論を唱えています。
その趣旨にはとても賛同します。
このように、今までの仏教常識にとらわれず、歴史的な権威もいったん白紙にして、自由に仏陀の真意に迫ろうという動きは、これから大きくなっていくことでしょう。
それは、私の『仏陀の真意』にも書いたとおりです。
あらゆる権威を否定して、直に仏陀の人物像や理念に迫りたいという運動が大きくなっていくことを願っています。
さて、読み終えて、賛同する部分も数多くありました。
まずは、『仏陀は死後の世界や輪廻転生を否定した』という仏教界に蔓延る説(僧侶や学者でさえこれが仏教の定説と考えている人も多いのですが)を否定します。
否定の否定ですから、つまり、仏陀は輪廻を説いたということを書いています。
これは、まさしくその通りで、原始仏典のどこを読んでも、これ以外のことは考えられないのですが、近年の仏教界は輪廻否定が大多数となっています。
『仏陀の真意』に書いたとおりです。
そもそも、仏陀が輪廻を否定したなどと言うことを言っている人は、仏陀を語る資格などないでしょう。
仏典を少し読めばわかることです。
『天上天下唯我独尊』について
清水俊史氏は、この句は、文字通り『この世で唯、自分こそが尊い』という意味で、伝統的にはそういう意味とされていたのだが、近代になって、そのような傲慢なことを仏陀が言うはずがないとして、『すべての存在は尊く、かけがえのない命を与えられている』という意味だというのが主流になっている、と言います。
しかし、それは全くの間違いであると言います。
私も、『仏陀の真意』で書きましたように、現代の『天上天下唯我独尊』の解釈は
1,宇宙には大我という我がひとつだけあって、それが尊い
2,私の命は唯一のもので、あなたの命も唯一のもの。みんな違ってみんないい
この2つの解釈ばかりとなっているが、それは仏陀が言った真意ではないと書きました。
この『天上天下唯我独尊』は仏陀がウパカに言った言葉であり、それは、『今までの誰をも説かなかった、苦を完全に消滅させる理法を発見した。私には師も等しい者もいない。神をも含む世界で唯一私だけがそれを発見したのだ』という意味と私は書きました。
清水氏は、原始仏典を読むと仏陀は自画自賛を繰り返しているのであり、『自分より優れたものがいる』と卑下することの方がおかしいので、『天上天下唯我独尊』は、文字通り『天上天下でただ俺だけが独り尊い』という意味だとのことです。
私としては、やはり『仏陀の真意』に書いたのが仏陀の本意だと思っていますので、清水氏の言う自画自賛のひとつとしてだけ処理してしまうと仏陀の真の姿に迫れないと思っています。
ですから、ここは賛同できないところです。
この本の最初のほうで取り上げられているのは、ブッダは『平和主義者だったのか』『階級差別を否定したのか』『男女平等を否定したのか』ということですが、この3つに関しては、論じるとかなり長くなってしまいますので、最後に持っていきたいと思っています。
少しだけ触れておきますと、カースト下位でも不可触賎民でも関係なく弟子にしましたし解脱した人が出ています。
ここを見て、仏陀だけが反バラモンだとか、カースト否定だという人が多いです。
しかし、これは仏陀独自ではなく、ジャイナ教でもそうです。
バラモン教の中でも、『生まれではなく行為である』といった人はいます。
仏陀は社会制度改革者ではないのです。どのような社会構造であれ、現象なのだからすべて苦であり厭離すべきものという宗教者なのです。
仏陀は、女性も阿羅漢になれると言っています。
しかし、一方で、比丘尼を認めたために正法は500年しか続かないだろう、とも言っています。そもそも、懇願されたにもかかわらずなかなか女性の出家を仏陀は認めませんでした。阿難が強力に頼み込んでやっと認めたのです。
比丘尼戒が比丘戒より格段に多いことや、様々な女性にだけの掟の数々があり、大乗仏教でも、法華経の変成男子の思想など、女性差別ではないかと言われる部分はあります。
私は、女性がサンガで修行するのは大変難しい問題が出てくると思います。
男であれば、森の中で一人で瞑想するのは問題ないですが、女性は襲われる可能性が常にあります。
そのようなことを踏まえて、なおかつ女性の出家を認めたのはかなりの決断だと思っています。
仏陀が男女平等を否定したのか、という著者の問いかけへの考察は長くなりますので、このくらいで後に回します。
この本で、私が最も賛同できるのは、今まで強調されてきた『仏陀の独自性・独創性・唯一性』についてです。
これは、仏陀の死後、特に根本分裂を経てからの部派仏教の時代、かなり極端になってきました。
仏陀は、反バラモン教、反ジャイナ教、反六師外道という図式です。
仏教はバラモン教の全否定だという考え方です。
これは全く違います。
仏陀本来の教えには、バラモン教やジャイナ教との共通点が非常に多いのです。
仏教徒が、仏陀だけが主張したと思っている、『生まれによってバラモンではない。行為によってバラモンである。』というのは、沙門宗教の多くがそうです。ジャイナ教は特にそうです。
ジャイナ教と仏教の共通点は極めて多いです。
仏陀という呼称、阿羅漢という呼称、声聞という呼称、業=行為という考え、輪廻転生、解脱、すべて共通しています。
仏陀と、ジャイナ教始祖のマハーヴィラの最大の違いは、身口意の行為(身業・口業・意業)のうち、仏陀は意業が最も重要で身業と口業は意業に比べ取るに足りないとしたこと、マハーヴィラは身業が最も重要で口業と意業は身業に比べ取るに足りないとしたこと、これだけです。
マハーヴィラは身業最重要ですから、不殺生戒も徹底しています。
雨安居というのは、ジャイナ教から来たものです。
雨期に出歩くと、水たまりの中の生き物を踏みつけて殺してしまうかもしれないので、雨期は外に出ずに修行をするという習わしです。
仏陀は意業が最重要であるため、自分のための殺された動物の肉は禁止しましたが、それ以外は食べていいとしました。
しかし、ジャイナ教では、肉食自体禁じられています。
大乗仏教の肉食禁止はジャイナ教の影響を強く受けているのです。
仏陀は、バラモン教のヤージュニャヴァルキヤに最も強い影響を受けています。
これを仏教徒はかたくなに否定します。
外道であり邪教であるバラモン教に影響など受けていない、それどころか反バラモン教、バラモン教の全否定が仏教なのだ、という主張です。
しかし、私の本『仏陀の真意』に書いたとおり、ヤージュニャヴァルキヤの『~に非ず、~に非ず』としか言えないものという言説。業=行為が原因で輪廻転生すること。
これらの骨格はすべて共通しています。
というか、ヤージュニャヴァルキヤが初めて言い出したことでした。
仏陀の独創性、独自性を強調しすぎてきた結果、今までの仏教はヴェーダ宗教の全否定としてしか仏陀を捉えることができていません。
それはちょうど、イエス・キリストがパリサイ派やその律法学者を非難糾弾したのを見て、イエスはユダヤ教の全否定をしたと思う人が多数いるのと似ています。
仏陀は、行為が因で現れてくる現象が果、ということを否定する運命論や意思否定論は邪見として徹底的に否定していますが、行為が原因とする他の業因説には全否定はしていません。
(続きます)