中部経典の第37は、『小愛尽経』です。
愛尽とは、渇愛の滅尽のことです。
同じ問答が3回繰り返し出てきます。
それは、神々の主サッカ(帝釈天)が仏陀に質問し仏陀が答えた問答を、マハーモッガッラーナ尊者がサッカに聞きに行くのと、マハーモッガッラーナ尊者がその後仏陀に聞きに行くことで、3回同じ問答が出てきます。
その問答とはこうです。
『尊師よ、比丘は、要するに、どれだけをもって愛尽の解脱者となり、究極の終結者、究極の無碍安穏者、究極の梵行者、究極の完了者、人天の最勝者なのでしょうか』
『神々の主よ、
ここに、比丘は、〈あらゆる法は妄執に適しない〉と聞きます。
もし、比丘がそのように聞けば、かれはあらゆる法をよく知ります。
あらゆる法をよく知り、あらゆる法を知悉します。
あらゆる法を知悉し、いかなる感受もも、楽であれ、苦であれ、不苦不楽であれ、感受します。
かれは、それらの感受の、無常を観つづけて住みます。
消滅を観つづけて住みます。
滅尽を観つづけて住みます。
破棄を観つづけて住みます。
かれは、それらの感受の、無常を観つづけて住み、消滅を観つづけて住み、滅尽を観つづけて住み、破棄を観つづけて住み、世界のいかなるものにも執着しません。
執着せず、動揺することがありません。
動揺せず、ただ自ら寂滅します。
〈生まれは尽きた。梵行は完成された。なすべきことはなされた。もはや、この状態の他にはない〉と知ります。
神々の主よ、比丘は、要するに、これだけをもって愛尽の解脱者となり、究極の終結者、究極の無碍安穏者、究極の梵行者、究極の完了者、人天の最勝者となります。』