なぜ最初に5人の修行仲間に説いたのか①

ぎんたさんの講師の人が『なんで仏陀は最初にこの5人に語ることにしたんだろう?』と呟いたとのことです。

初転法輪の時に、かつての修行仲間5人に最初に説法したことを言っています。

私は、この問いはとてもセンスのある問いかけのように思えます。講師の人は大学の先生だとか、いいセンスです。

普通に考えれば疑問に思う方がおかしい、当たり前じゃん、っていう話です。

長年一緒に修行してきたのですから一番身近ですし、修行も出来た仲間たちですから、当然の選択で疑問の余地などないように思えます。

 

ところが、そうではありません。

この5人とともにゴータマ・シッダッタがしていた修行は断食行です。

ところが、ゴータマだけ、村の若い娘から乳粥をもらって食べてしまいました。

断食を止めてしまったのです。

仏伝では簡単に書いてあるだけですが、スジャーターの村に伝わる話ではより詳しいです。

仏伝からのイメージでは、苦行では悟れないと思った仏陀がスジャーターという貧しい村の娘から乳粥という粗末な食べ物のお布施を一度受け、それからすぐ菩提樹の下に座って悟りを得たというように思えます。

しかし、実は、スジャーターは村長の娘、長者の娘です。

乳粥も当時、貴重で贅沢な食べ物です。

米も高価で貴重なものでしたし、牛乳も蜂蜜も極めて貴重なものでした。その3つから作られる乳粥はとても贅沢な食べ物だったのです。

スジャーターは独身のようなイメージですが、結婚していました。

しかし、なかなか子供ができませんでした。

それで毎日神様に、『子供を授けてください』とお祈りしていたのです。

ある時、神様からのお告げで、『祭りの日に倒れている沙門にお布施をしなさい』という言葉が聴こえます。

父である長者が貧しい人たちに乳粥を食べさせてあげる祭りの日に、スジャーターは横たわってぐったりとなったゴータマを見つけます。

神様のお告げの人だと思ったスジャーターは、ゴータマに乳粥を差し出しますが、ゴータマは決して食べようとしません。

そこでスジャーターは、『お坊様、歌の歌詞にも、「琴は弦が張り過ぎてもいい音がでないし、緩み過ぎてもいい音はでない。緩み過ぎず張り過ぎずがちょうどいい」と申します。張り過ぎはよくありません。』と説得します。

その説得に共感したゴータマは、差し出された乳粥を食べます。

それから、スジャーターは、何日も、ゴータマの体力が回復するまで乳粥をお布施し続けます。

それを見ていた5人の修行仲間は、『ゴータマは堕落した。悟りに達する前に修行を放棄してしまった。脱落者だ。』と軽蔑して見限って去って行ったのです。

長者の娘の庇護を受けて堕落の極致のように思えたでしょう。

 

ですから、ぎんたさんのその講師の人の問いかけはとても適切なのです。

5人の修行仲間は、ゴータマのことを、堕落者、脱落者、挫折者として大いに軽蔑してゴータマから離れて行ったのです。

つまり、全くの初対面の人に比べ、大きなマイナス感情、侮蔑感情、こんな奴の言うことなんか聞きたくもないという評価をゴータマに対し持っていたということです。

 

その講師の人は、5人がゴータマをとことん軽蔑していたことを知っているからこそ、『なぜ最初にその5人に話そうとしたのか?』を疑問に思ったのでしょう。

全くの初対面の人ならゴータマに対し評価はゼロです。何も知らないわけですから。

しかし、その5人はゴータマに対し大きなマイナス評価を下しています。

わざわざ何故、自分を侮蔑し自分を駄目な奴と決めつけている者たちに、最初の説法をしようとしたのか?ということです。

 

自分へのマイナス評価のない、先入観のない、初対面の人に説法する方が何倍も容易なはずです。

イエス・キリストも自分の故郷では『ああ、あの大工の息子かあ』と思われて、うまく説法できませんでした。

まして、自分に対して強い侮蔑感情を持つ者に対して、法を説くのは至難です。

 

私は、仏陀の思考経路を辿っていくと、2つのことが主な理由だと考えています。

 

一つは、5人の修行仲間は第一候補ではなかったこと、そして、もうひとつは梵天勧請にヒントがあります。

 

長くなりますので、時間があるときに、次の稿で私の考える答えを書きたいと思います。