『sati』が記憶であることについて

著書『仏陀の真意』の中で、『sati とは、本来、記憶と言う意味』と書いたことから、批判的なご意見がありましたので、考察します。

 

この人は、最初、

『半分ほど読んだところである。常識の力で既成仏教の手垢にまみれた概念を静かに批判している。その静かさが心地よい。第2章で検討されているキーワードは、諸行無常一切皆苦諸法無我・縁起・空・煩悩・業・因果・中道・渇愛・無記・天上天下唯我独尊・戒律・三宝(仏法僧)・解脱の15である。いずれも勉強になった。考えるヒントが随所にちりばめられている。』

と褒めて書いていました。

 

しかし、それから何日かしてから、こう変わっています。

 

 

※※※※※

 仏陀の筏つまり仏陀メソッドには、キーワードがあります。
 それは、念(sati)です。
 satiiとは、今では『気づき』と言う意味ばかり解釈されていますが、本来の意味は『記憶』のことです。
 仏陀の理法を記憶し、心に留めて保持し、忘れずに繰り返し念ずる、このことを念(sati)と言います
 人間は、思考、想念の激流に押し流されていますから、心に留めて保持し忘れずに念じるためには、どうしてもいつも気づいておかなければなりません。
 ですから『気づき』の意味も派生したのですが、本来は『記憶』の意味です。
 念(sati)を記憶と解釈してはじめて、仏陀の筏である三十七菩提分法が繋がりその全貌が見えてきます。

【『仏陀の真意』企志尚峰〈きし・しょうほう〉(幻冬舎、2022年)】

 散々、記憶の束=自我を否定しておきながら、サティ=記憶と解釈する頓珍漢ぶりに驚いた。著者は北伝仏教の匂いがプンプンしており、創価学会員ではないかと邪推したくなるほどだ。

 私は既に仏教にもそれほど興味がないので、訓詁注釈の類いはどうでもよい。だが、サティについて忽(ゆるが)せにすることはできない。

 経典をひも解いてみるとサティという単語は、①瞬間瞬間の気づき・注意・不放逸、②特定の(瞑想)対象・法に心をかける、③単なる記憶作用、といった意味で用いられてきました。

 中国に仏教が伝来した時、サティ(sati, smṛti)には「念」という訳語が当てられました。歴史的経緯を見ていくとややこしいところがあるんですけれど、シルクロードを経由して中国にわたった北伝仏教の教学では、念というキーワードが、記憶するとか、思念するとか、一つの対象を考え続ける、というふうに――いわゆる念仏の念ですよね、阿弥陀仏だったら阿弥陀仏を念じ続ける――対象を想起し続ける、というかたちで解釈されてきました。

 要するに、日本も含めて北伝の仏教では、サティを解釈する時に②と③の意味が強まって、①「瞬間瞬間の気づき(つまり不放逸)」という実践的意味が抜け落ちてしまったんですね。とはいっても、日本語で「正念場」とか「念には念を入れよ」という時の「念」には、①の意味も残っていますよね。面白いなと思います。

佐藤哲朗:ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(1) | DANAnet(ダーナネット) - Part 2

 直前では「いわゆる精神集中的な瞑想ならば他のどんな宗教でも教えていますが、サティの実践・観察の実践ということは、お釈迦さま以外の誰も発見しなかったからです」とも指摘している。佐藤の話は納得がゆく。

 というわけで、144ページで本書を閉じた。どのような事情があるにせよ、蔵(かく)されたものは必ず表れるものだ。結果的にブッダという存在を何かのために利用しているのではないか。

 当初、必読書に入れた。それから教科書本にしたのだが、やっぱり取り消した。ブクログの評価も星四つから三つに変えた。

 

※※※※※

 

 

 

何とも散々な言われようですが(笑)、この人は、satiの意味を、南伝仏教(上座部仏教)では『気づき』として、北伝仏教(大乗仏教)では『記憶』としたと思い込んでいるようです。

マインドフルネス瞑想が大流行の今では、satiが気づきと言う意味であることが上座部仏教の常識のようになっており、仏陀の時代のsatiがもともとどういう意味であったかは誰も考慮しません。

 

下に、satiをマインドフルネスと訳した経緯についての記事を載せます。

 

僧侶・仏教研究者 秋田尚文
1「マインドフルネス」という言葉の定義とその歴史 
:マインドフルネスという言葉の定義は本当に色々あり、指導者の立場や職業、考え方、またマインドフルネスが教えられる場所、文脈などで、その意味を大きく変えます。

それをはっきりさせないと、混乱したままマインドフルネスを語ることになってします。

ここではまず、英語の単語としての「マインドフルネス」がどのように扱われてきたのか、という言葉の歴史を紐解いていこうと思います。

(以下、日本語版Wikipediaの「マインドフルネス」の記事より抜粋。ただし内容は参考文献で検証済み。また筆者が一部赤字にして強調)

 
mindfulness の意味を一般的に捉えると非常にあいまいであり、これがマインドフルネスという言葉の分かりにくさにつながっている。

英語として日常的には「注意で満ちた」「注意でいっぱいの状態」という意味で使われており、心理学でも注意と結びつき、「十分な注意」を表すと考えられる。

mindful という形容詞は「よく覚えていること」という意味で14世紀中盤から使われ、次第に「心をとどめておく」「心を配る」「気づかう」といった意味も持つようになり、16世紀には現在とつづりは違うが、名詞として使われるようになった。

しかし、本記事における意味のマインドフルネスは、もともと英語にあった mindful から生まれた言葉ではなく、19世紀に仏教用語を英語に翻訳する際にあてたものであり、徐々に専門的な意味が加えられて一般に広まった。

そのため本記事の意味での mindfulness は、英語圏でも2000年頃の段階では、専門家以外にはあまり知られていなかったようである。 
1845 年、Daniel John Gogerly が sammā-sati を Correct meditation(正しい瞑想)と初めて英訳した。 
1881 年に原始仏教の経典に使われているパーリ語の学者であるトーマス・ウィリアム・リス・デイヴィッズが、八正道におけるsammā-satiをRight Mindfulness(the active, watchful mind)と訳したのが、sati が mindfulness と英訳された最初である。

サティとは「心をとどめておくこと、あるいは心にとどめおかれた状態としての記憶、心にとどめおいたことを呼び覚ます想起のはたらき、心にとどめおかせるはたらきとしての注意力」であり、この「心をとどめておく」「注意」などの意味が英語のmindfulness の含意と近かったため、英訳として選ばれ、mindfulness が仏教的な意味を帯びるようになった。

 
デイヴィッズは1881年に次のように説明している。 
sati の文字通りの意味は「記憶」だが、satiはmindful and thoughtful(巴:satosampajâno)というたびたび繰り返されるフレーズと共に用いられ、良い仏教徒に最も頻繁に教え込まれる務めの1つである心の活動、および心の不断の態度を意味する。

※※※※※

 

マインドフルネスと最初に訳したデイヴィッズも言っています。

sati の文字通りの意味は「記憶」だと。

 

 

satiの本来の意味が「気づき」で、北伝仏教(大乗仏教)になってから「記憶」になったわけではないのです。

satiの本来の意味は「記憶」で、そこから派生した「気づき」がマインドフルネス瞑想の大流行によって今では主流のようになっているだけです。

sati は、大乗仏教では、『念』と訳され、もっぱら瞑想の対象(心象など)を忘れずに繰り返し念ずることとされてきました。

つまり、sati の本来の意味である『記憶』は、部派仏教(上座部仏教)でも大乗仏教でも抜け落ちたというわけです。

 

要は、歴史上の仏陀が、どのような意味でsatiを使ったか、が重要です。

 

「気づき」と言う意味で使うときもありますが、「記憶」の意味で使ったことがかなり多いと思っています。

特に、三十七菩提分法の中の「念」はそのような意味が多いと思っています。

 

仏陀は、satiを、『仏陀の理法を記憶し心に保持すること』の意味で使っています。

記憶=受持すること、なのです。

仏陀の言葉が文字で残されずに、すべて弟子たちの記憶によって伝わったのは、仏陀の理法を記憶することが最大の修行であったからです。

常に理法を心に留め置くことが激流に流されない最大のメソッドだったのです。

 

これは、大乗仏教になっても、法華経の第一の修行は『受持』となって受け継がれています。

『受持』とは、紙の経典を持つことではなく、法華経を心に常に留め置くことなのです。

 

仏教にとって、『記憶』がいかに重要であるかというのは、例えば『陀羅尼』という言葉の意味が『記憶』であるということからもわかります。

 

 

また、記憶の束=自我 を否定していながら、サティを記憶と解釈する頓珍漢ぶり、と書いていますが、

自我である記憶の束は、五官の経験の記憶です。

生まれてこのかた、五官が経験し記憶してきた束を自分と見なしています。

サティとは、仏陀の理法を記憶することです。

全く違います。

択法とは、記憶のうち、自我を形成している五官の記憶の束を消去し、仏陀の理法の記憶を選択して心に留め置くことです。

 

『仏陀の真意』をすべて読めばこれらが書いてあるのですが、この人は144ページまでは必読書やさらには教科書本にまでしてくれてたのに、144ページのsati が『記憶』と書いてあることで怒って閉じたようです。

 

この本は、今までの仏教常識や伝統的な解釈-それが部派仏教(上座部仏教)でも大乗仏教でも-からは全く違う見解を提示しているので、非難轟々になるとは思っていました。

それが意外なことに賛同していただける人が多かったのでビックリしているくらいですから、この人のように怒りだす方が当然だとは思っています。