何故、仏陀は、自分を信頼していなく、侮蔑している、5人のかつての修行仲間に最初に法を説いたのか、ということですが、私の考えはこうです。
身近であれば、スジャーターやその村の人に説いてもよかったのです。また、悟って初めてお布施をしてくれた2人の商人(行商人)がいたと思いますし、ウパカにも会っています。
それらでなく、ずいぶん離れた所にいる5人の昔の修行仲間のところまでわざわざ歩いていってまで、最初に説いたのはどうしてでしょうか。
鍵は、成道後の梵天勧請にあります。
仏陀は悟ったときに、こう思います。
『私が悟った法は精妙である。しかるに、世の人々は執着を楽しみ、執着を喜び、執着に歓喜している。そのような人たちにこのような微妙な法は見がたい。説いても分かる者はいない。説いても無駄だ。このまま説かずに置こう。』と。
そこで梵天が慌てて来て言います。
『世の中には穢れの少ない者もいます。理解できるものもいます。どうか説いてください。』と。
仏陀はそれを聞いて、天眼智で見ますと、汚れが少なく理解してくれそうな人がいることがわかります。
それで、説くことを決意します。
そして、天眼智で見て、説いて理解できる人として、アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタを見つけます。
仏陀が出家して最初に弟子入りした師匠たちで、無所有処定と非想非非想処定を習ったのです。
仏陀は、この2人に最初に教えを説こうと思います。
ところが、2人ともすでに亡くなっていました。
そこで、また、天眼智で見て、理解できる人として、かつての修行仲間5人を見ます。
つまり、天眼智で見て、仏陀の法を理解できる者として、5人の元修行仲間が見えたということです。
ということで、
なぜ最初に5人の修行仲間に説いたのか?という疑問への回答としては、
①第一候補のアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタがすでに亡くなっていた
②仏陀の微妙な法が理解できるほど、執着や穢れがない者という選定基準に、天眼智で見て当てはまった
以上、2点だと思います。
仏陀は自分の法は世の中の人に理解されないだろうと思っていました。
執着を楽しみにしている人に、執着が苦の縁って起こる原因と言っても理解されないだろうと。
梵天に、理解できる人もいると聞かされ、説法する気になりました。
そして、まずは理解できる人から説法し始めようとしたのです。
5人の昔の修行仲間は自分を侮蔑しており、そうでないアーラーラ・カーラーマやウッダカ・ラーマプッタに比べて、法を聞いてもらうのは難しいことではありましたが、理解できる人という条件の方が勝ったということでしょう。
スジャーターの村の伝承によれば、乳粥によって元気になった仏陀は、隣村の菩提樹に下に座り、悟りを開くまで動かないと決めます。
スジャーターが差し出す乳粥も再び食べなくなります。
心配になったスジャーターは、数人の子供たちに様子を見張らせます。
悟ったあと、再びスジャーターたちが差し出す食事を食べるようになります。
そうやって、そこで半年間、悟った法をどのように説くか考察します。
ですから、仏陀の法は、初転法輪の時から完成度が極めて高いと言えます。