中部経典『大有明経』

中部経典の第43は、『大有明経』です。

 

これは、サーリプッタの説法なのですが、解脱について詳しく説かれていて、非常に重要な経典だと思います。

 

ある比丘がサーリプッタに『無慧者』の意味を聞きます。

『これは苦である』と知らない。

『これは苦の生起である』と知らない。

『これは苦の滅尽である』と知らない。

『これは苦の滅尽に至る道である』と知らない。

このことを、無慧者と言います。

 

『有慧者』とは

『これは苦である』と知る。

『これは苦の生起である』と知る。

『これは苦の滅尽である』と知る。

『これは苦の滅尽に至る道である』と知る。

このことを『有慧者』と言います。

 

『識』とは何でしょうか。

『楽である』と識るのです。

『苦である』と識るのです。

『非苦非楽である』と識るのです。

 

そして、

『慧と識とは、結合しており、分離しているのではありません。

知るものが識り、識るものが知るからです。』

『慧は修習されるべきものであり、識は知悉されるべきものである。これがそれらの差異です。』

 

『受』とは何でしょうか。

『楽』を感受します。

『苦』を感受します。

『非苦非楽』を感受します。

これが受です。

 

『想』とは何でしょうか。

青を想う。

黄を想う。

赤を想う。

白を想う。

『それが想う。それが想う。』というこのことから想と言われます。

 

『受と想と識というこれらの法は結合しており、分離しているのではありません。

感受するものが想い、想うものが識るからです。

差異を知らせることはできません。』

 

『五の感官(眼・耳・鼻・舌・身)から解放されている清浄な意識によって、何が知られますか。』

 

『五の感官(眼・耳・鼻・舌・身)から解放されている清浄な意識によって、空無辺処、識無辺処、無所有処が知られます。』

 

『知られる法を何によって知るのでしょうか。』

『慧眼によって知ります。』

 

『慧は何を目的としているでしょうか。』

『慧は、よく知ることを目的と死、知悉することを目的とし、捨断することを目的としています。』

 

『正見が起こるためには、どれだけの縁がありますか。』

『正見が起こるためには、二の縁があります。

他からの声と正しい思惟です。』

 

『正見は、どれだけの部分に支えられて、心の解脱の果とも心の解脱の果報ともなり、慧による解脱の果とも慧による解脱の果報ともなるのでしょうか。』

『正見は、戒に支えられています。

 聞に支えられています。

 議論に支えられています。

 止に支えられています。

 観に支えられています。』

 

『どれだけの生存がありますか。』

『三の生存があります。欲の生存、色の生存、無色の生存です。』

 

『どのようにして未来に再生がありますか。』

『無明に覆われ、渇愛に縛られた生けるものたちが、あちこちに歓喜することにより、未来に再生があります。』

 

『どのようにして未来に再生がなくなりますか。』

『無明が消えることにより、明智が起こることにより、渇愛が滅することにより、未来に再生がなくなります。』

 

『第一の禅はどれだけの部分からなるのでしょうか。』

『第一の禅は、五の部分からなります。

 大まかな考察、細かな考察、喜び、楽、心の統一の五つです。

 第一の禅は、五の部分(五蓋)の捨断があり、五の部分の具足があります。

 捨断は、欲貪、怒り、沈鬱眠気、浮つき後悔、疑い、の五つです。

 具足は、大まかな考察、細かな考察、喜び、楽、心の統一の五つです。』

 

『五つの感官(眼・耳・鼻・舌・身)の拠り所(patisarana)は何でしょうか。』

『意です。』

 

『五つの感官(眼・耳・鼻・舌・身)は何によってとどまっているのでしょうか。』

『寿命によってとどまっています。』

 

『寿命は何によってとどまっているのでしょうか。』

『寿命は熱によってとどまっています。』

 

『熱は何によってとどまっているのでしょうか。』

『熱は寿命によってとどまっています。』

 

『どれだけの法がこの身体を捨てるとき、この身体は捨てられ、投げ出され、意思のない棒きれのように横たわるのですか。』

『寿命と熱と識の3つの法ががこの身体を捨てるとき、この身体は捨てられ、投げ出され、意思のない棒きれのように横たわるのです。』

 

『死んだ者と想受滅に入っている比丘との差異はなんでしょうか。』

『想受滅では、寿命と熱と識があります。』

 

『非苦非楽の心の解脱に入るためには、どれだけの縁がありますか。』

『楽を断ち苦を断ち、すでに喜びと憂いが消滅していることから、苦も楽もない、平静による念の清浄のある第四の禅に達して住みます。』

 

『無相のこころの解脱に入るためには、どれだけの縁がありますか。』

『一切の相を思惟しないこと、と、無相の界を思惟することです。』

 

『無相の心の解脱がとどまるには、どれだけの縁がありますか。』

『一切の相を思惟しないこと、と、無相の界を思惟すること、と、以前における決意です。』

 

『無相の心の解脱から出るためには、どれだけの縁がありますか。』

『一切の相を思惟すること、と、無相の界を思惟しないこと、です。』

 

 

そして、この後、【無量の心の解脱】と【無所有の心の解脱】と【空性の心の解脱】と【無相の心の解脱】の説明と、その差異と同一性が語られます。

 

 

【無量の心の解脱】

慈しみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、慈しみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

憐れみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、憐れみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

喜びのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、喜びのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

平静のある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、平静のある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

 

【無所有の心の解脱】

完全に識無辺処を超え、【何ものも存在しない】との無所有処に達して住みます。

 

 

【空性の心の解脱】

『これは我について空であり、あるいは我に属するものについて空である』と熟慮します。

 

 

【無相の心の解脱】

一切の相を思惟しないことから無相の心の定に達して住みます。

 

これが根拠であり、この根拠によれば、【無量の心の解脱】と【無所有の心の解脱】と【空性の心の解脱】と【無相の心の解脱】とは、意味も表現も異なります。

 

 

ところが、次の根拠によれば、表現は違っても、これらの法の意味は同じとなります。

 

貪欲は量を作るもの。

瞋恚は量を作るもの。

愚痴は量を作るもの。

 

無量のこころの解脱の中で最上とされる不動のこころの解脱では、

貪欲について空のものであり、瞋恚について空のものであり、愚痴について空のものである。

 

貪欲は障害のあるもの。

瞋恚は障害のあるもの。

愚痴は障害のあるもの。

 

無所有のこころの解脱の中で最上とされる不動のこころの解脱では、

貪欲について空のものであり、瞋恚について空のものであり、愚痴について空のものである。

 

貪欲は相を作るもの。

瞋恚は相を作るもの。

愚痴は相を作るもの。

 

無相のこころの解脱の中で最上とされる不動のこころの解脱では、

貪欲について空のものであり、瞋恚について空のものであり、愚痴について空のものである。

 

ここにおいて、これらの法は、意味が同じでただ表現のみが異なります。