後世の仏教理論で仏陀を読むと

大乗仏教の国日本において、僧侶も一般人も、大乗仏教の理論を仏陀に読み込んで満足している人が圧倒的に多いのが現状です。

動画を見ても、原始仏典を説明するとき、日本仏教の僧侶は、大乗仏教の理論で説明できる部分だけピックアップしています。

 

龍樹以降の仏教においては、仏教の根本理論は、縁起、空、中道となりました。

その理論によれば、縁起とは、すべての存在は無数の原因(因)や条件(縁)によって成り立っているものである、ということです。

ですから、自性などない、空である、となります。

つまり、自立しているように思える存在も無数の関係性によって成り立っているということから、関係性が変化していけば変滅するもので独立した性質などない、無自性、空であるということです。

 

仏教の常識と言ってもいいくらいに普及した考えですが、このような『縁起』の観念で原始仏典を読み込んだら全く違うものとなります。

 

相応部経典『カッチャーヤナ』で見てみます。

 

仏弟子カッチャーヤナが仏陀に聞いた。

『正見、正見と言われますが、正見とはどういうことでしょうか?』

仏陀は答えた。

『世間の人々は、有か無かの二つの極端に片寄っている。

 正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものには、この世間には無というものはない。

 正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅していくものをみるものには、この世間には有というものはない。

 この世間の人々は、その愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている。

 だが、聖なる弟子たちは、その心の依処に取著し振り回されて「これがわたしの我なのだ」ととらわれ執著しこだわるところがなく、

 ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したと見て、疑わず、他に依るところがない。

 ここに智が生ずる。

 かくのごときが正見なのである。

 「すべてが有である」というのは一つの極端である。

 「すべてが無である」というのももう一つの極端である。

 如来は、これら二つの極端を離れて、中によって法を説くのである。

 無明によって行がある。行によって識がある。識によって名色がある。名色によって六処がある。六処によって触がある。触によって受がある。受によって愛がある。愛によって取がある。取によって有がある。有によって生がある。生によって老死があり、愁・悲・苦・憂・悩が生ずるのである。

 かくのごときが、このすべての苦の集積のよりてなる原因である。

 また、 無明の滅によって行の滅がある。行の滅によって識の滅がある。識の滅によって名色の滅がある。名色の滅によって六処の滅がある。六処の滅によって触の滅がある。触の滅によって受の滅がある。受の滅によって愛の滅がある。愛の滅によって取の滅がある。取の滅によって有の滅がある。有の滅によって生の滅がある。生の滅によって老死の滅があり、愁・悲・苦・憂・悩の滅があるのである。

 かくのごときが、このすべての苦の集積の滅に至るところである。』

 

 

この経典は、有無中道の根拠となる経典です。

 

さて、この経典に限らず、仏陀が「縁起」というときは十二縁起のことなのです。

十支縁起などの短縮形はあったとしても、すべて『苦の縁って起こる原因』のことです。

 

後世の仏教での『縁起』は、すべての存在の成り立ちを説明するものでしたが、仏陀では十二縁起の法ということです。

 

 

後世の仏教では、縁起=空=中道とされました。

 

その理論でこの経典を解釈すればどうなるでしょうか。

結論部分で、仏陀は、『有と無の両極端を離れて中によって法を説く。無明によって行がある。行によって識がある。識によって・・・・・・(以下、略)』と十二縁起を説いています。

 

例えば、リンゴが1個あるとします。

リンゴは食べられるか、腐るか、してなくなっていきます。

つまり滅していきます。

ところが、このリンゴは、食べたにしても腐ったにしても、無明の滅によって滅したわけではありません。

有無中道を十二縁起によって説くと書いてあるこの経典を、不二中道が仏教だと思っている人たちはどのように解釈するのでしょうか。

 

十二縁起がなぜ有無中道の根拠となるのでしょうか?

これについて、解説できている人を見たことがありません。

都合の悪い部分、大乗仏教理論では説明できない部分、大乗仏教の『縁起』の意味では全く意味が通じなくなる部分については、無視、スルーしている人ばかりです。

 

ですから、仏陀の真意を知るには、まずは後世に発展してきた煩雑で膨大な理論の数々をいったん白紙にして、仏陀の言葉と向き合わなければならないのです。

そうしないと、ほとんどの人がしているように、後世の理論を無理矢理、仏陀に投影させて満足していることになります。