『自洲法洲』の本当の意味

大般涅槃経の有名な言葉『自らを島とし、法を島とせよ』は、

自洲法洲とも、自燈明法燈明とも、自帰依法帰依とも言われますが、その本当の意味は何でしょうか。

 

大般涅槃経では、仏陀は、

『この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。』と説き

『では、修行僧が自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるということは、どうして起るのであるか?』と言った後、

四念処を説きます。

『身、受、心、法について観察すべし』ということです。

 

次に、『小サッチャカ経』では、色、受、想、行、識の五蘊を、『これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない』と如実に、正しく、慧をもって見るだけで、『自身を得る者』『他に依存しない者』となる、と言っています。

 

四念処は、身、受、心、法について不浄であり、苦であり、無常であって、私ではない、私のものではない、と洞察することです。

 

どちらにしても、『自身を得る』『島(中洲)を確立する』という結果が生じます。

 

ということは、仏陀は、人間の誰しも『これが自分だ』『これは自分のものだ』と考えているものすべてを非我と観じたところのものを『自身』『島』『中洲』だと言っているのです。

 

 

中部経典『小サッチャカ経』                                                                                                                                                                                                                                                  

中部経典の第35は、『小サッチャカ経』です。

 

サッチャカとは人の名前です。

ジャイナ教徒で、議論を好み、賢者を自称し、多くの人に善人と認められていた人のようです。

議論において自信満々な人であったようです。

 

仏陀が

 

色は無常である

受は無常である

想は無常である

もろもろの行は無常である

識は無常である

 

色は無我である

受は無我である

想は無我である

もろもろの行は無我である

識は無我である

一切の行は無常である

一切の行は無我である

 

と言うことを説いていると聞き、

論破してやろうと企みます。

 

そして、仏陀と会った時に

『識は私の我である。受は私の我である。想は私の我である。もろもろの行は私の我である。識は私の我である。』という、仏陀とは正反対の説をぶつけます。

 

仏陀は言います。

『王は自己の領土において、殺すべき者を殺したり、追放すべき者を追放したりする力を行使できます。』

『あなたは〈色は私の我である〉と言いましたが、その色に対して〈私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな。〉というように力を行使するのか?』

 

これにより、サッチャカは黙ってしまいます。

 

そして

色は無常である

受は無常である

想は無常である

もろもろの行は無常である

識は無常である

 

色は無我である

受は無我である

想は無我である

もろもろの行は無我である

識は無我である

一切の行は無常である

一切の行は無我である

 

ということに同意します。

 

仏陀はさらに、サッチャカにこう言います。

 

私の弟子は、

いかなる色も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

いかなる色も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

いかなる受も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

いかなる想も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

いかなるもろもろの行も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

いかなる識も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

私の弟子はこれだけをもって、教えに従う者となり、疑いを渡りきる者、自身を得る者、他に依存しない者として師の教えに住んでいます。

 

 いかなる色も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見、執着せず、解脱する者になります。

 

 いかなる受も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見、執着せず、解脱する者になります。

 

 いかなる想も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見、執着せず、解脱する者になります。

 

 いかなる行も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見、執着せず、解脱する者になります。

 

 いかなる識も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見、執着せず、解脱する者になります。

 

 

比丘は、これだけをもって、阿羅漢であり、煩悩が尽き、住み終え、なすべき事をなし、負担を下ろし、自己の目的に達し、生存の束縛を断ち、正しく知って、解脱する者になります。 

 

 

この『小サッチャカ経』で大変重要なのは、五蘊非我を観ずるだけで解脱し阿羅漢になれると断言していることです。

 

四念処を涅槃に至る一乗道と言った仏陀ですが、五蘊非我も涅槃に至る道ということです。

実は、四念処も五蘊非我もほとんど同じと考えていいでしょう。

災難をのがるる妙法

 遠佐 (126.77.139.124)  
ショーシャンクさん こんばんは。
良寛の災難に逢時節には災難に逢がよく候 ですが、私はこの言葉の意味をずっと考えていました。
そして、ふとした折、小林秀雄の「事変と文学」というエッセイを読み、その最後にこうあるのを知り、あ、これだなと思ったのです。
それは、こういう文です。  
困難な事態を、試練と受取るか災難と受取るかが、個人の生活ででも一生の別れ道となろう  と書かれています。
すなわち、良寛も、災難を試練と受け止めて、それを乗り越えろ、と励ました、と言うことだろうと思うのです。
災難に遭う時は遭えばいい、とはいいませんよ。
良寛は馬鹿じゃありません。
私は小林秀雄の文をよんで、アッと思ったのです。それは人生のとらえ方の根本を示していると思います。

 

 

 

 

遠佐さん、こんにちは。

 

良寛の住む新潟で1500人以上の死者を出す地震がありました。

そのとき、その地震で子供を亡くしてしまった山田杜皐に手紙を書きます。

 

「地震は信に大変に候。野僧草庵は何事もなく、親類中死人もなくめでたく存じ候。うちつけに、死なば死なずに永らえて、かかる憂きめを見るがわびしさ」

 

これが書き出しです。

地震は大変だよね、でも、自分の住居には何ごともなく、自分の親類にも死んだひとがなかったのでめでたいことだと思っている。

と言う意味です。

子供を亡くした人に対して、自分のほうは全員無事だったのでめでたい、と書き送る感性が理解できません。

私ならもし同じことを書き送るのでも、『自分の住居や親類は何ごともなかったですが、地震は本当に大変なことだと思います。』と書いて、『めでたい』と言う言葉は絶対に使わないでしょう。

 

そして、その後、

 

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候

 

と言う言葉が出てきます。

 

この意味については、いろいろな捉え方があるでしょう。

遠佐さんが言われるように、災難を試練と捉えて乗り越えよう、という意味ととらえるのが一般的かもしれません。

 

私はたぶん良寛はこういう意味で言ったと思っています。

 

いまで言えば、ワンネス、ノンデュアリティの人が言っている意味です。

 

災難はあっても災難に遭う『人』はいない

死ぬ『人』はいない

『私』というものがない以上、災難に遭う『私』もないし、死ぬ『私』もない。

このように『私』などないと見極めるのが、災難を逃れる妙法にて候。

 

つまり

災難に遭って、苦しみ、嘆き悲しみ、その災難を避けようとする『人』などいないということを見極め、

災難と見えていることもただ起こっているだけと見極めなさい、それを避けようとするのは自我の働きだ、と。

 

 

このようなことだろうと思います。

そして、それはある一面の悟りではあると思います。

 

悟りではあるのですが、一面にしか過ぎない。

 

悟りには、それ以上つまり、向上、があると考えます。

 

災難が起きていることをあきらめたり、災難を容認するのではなく

我此土安穏としていく働きがなければ、空一辺倒の虚無主義に留まります。

 

 

 

 遠佐 (126.77.139.124)  
このようなことだろうと思います。ってショーシャンクさんが思うのですよね。だけど、それは悟りの一面だ、と。ここで自我はないと仰った。じゃあ、ただおこっていることと見極めるのは誰ですか。悟りには向上があると仰る。では向上するのは、誰ですか。緊急の非常時に私は向上したいから、こうやろうと二元的に考えてやる人はいないでしょう。誰しも、必死になって我を忘れて対処するでしょう。それを試練ととらえて困難に向かうことだ、と言うのだと思います。大地震が起きた時、自我はないから、地震はないと考える人はいませんよ。
 
 
そうですよ。あくまでも、ここは私の考えを書いています。
それが正しいか間違っているかは、それぞれの人の判断でいいのです。
 
私が、たぶん良寛はこういう意味で言ったのではないかと思っただけです。
 
ノンデュアリティという考え方はご存じですか?
日本で最も有名なのは、大和田菜穂さんという女性です。
禅僧とコラボしており、禅の悟りがノンデュアリティだと考える人もかなりいます。
 
大和田菜穂さんの書いていることを読んだら、
『大地震はあるけど大地震に遭う『人』はいない』
『災害はあっても、災害に遭う『自分』はない』
などと言っています。
 
遠佐さんの考えは最も妥当だと思います。
 
私は、良寛はあまり評価していないので、また大和田菜穂という人も評価していないので、同じような一面的なワンネスの考えで発した言葉ではないかと思ったのです。
 
私は、災難に遭うのは全力で避ける努力をすべきだと考えていますので、良寛のこの言葉には批判的です。
 
 

中部経典『小牧牛者経』

中部経典の第34は、『小牧牛者経』です。

 

これは、前編の『大牧牛者経』を受けてより具体的な内容になっています。

これも無知な牧牛者の例え話です。

 

その昔、マガダ国に住む無知の牧牛者がいました。

 

ガンジス川のこちらの岸を確認せずあちらの岸も確認せず、渡し場でないところから牛たちを向こう岸に渡そうとしました。

その結果、牛たちは川の真ん中で溺れて死んでしまいました。

 

ちょうどそのように、この世について巧みでない、あの世について巧みでない、魔の領域について巧みでない、魔を超えた領域について巧みでない、死の領域について巧みでない、死を超えた領域について巧みでない比丘たちがいます。

かれらの言を聞いたものは、長く不利益に、苦しみになるにちがいありません。

 

 

その昔、智慧を備えた牧牛者がいました。

ガンジス川のこちらの岸を観察し、あちらの岸を観察して、渡し場から牛たちを対岸に渡そうとしました。

最初に、父牛であり首領牛である牡牛を渡しました。

次に、力のある牛を渡しました。

つぎに、牡の仔牛を渡しました。

つぎに、力の弱い仔牛を渡しました。

そして、生まれたばかりの幼い仔牛も向こう岸に着きました。

 

ちょうどそのように、この世について巧みである、あの世について巧みである、魔の領域について巧みである、魔を超えた領域について巧みである、死の領域について巧みである、死を超えた領域について巧みである比丘たちがいます。

かれらの言を聞いたものは、長く利益に、安らぎになるにちがいありません。

 

父牛は、阿羅漢の喩え。

力のある牛は、不還者の喩え。

牡の仔牛は、一来者の喩え。

力の弱い仔牛は、預流者の喩え。

生まれたばかりの仔牛は、随信行者の喩え。

 

 

 

中部経典『大牧牛者経』

中部経典の第33は、『大牧牛者経』です。

 

この牧牛者の喩えは大変面白いのですが、マニアックすぎて最初に説明がないとその喩えの巧みさがわかりません。

 

ダメな牧牛者、つまり牝牛から乳を充分に取れず、牛を増やすこともできない牧牛者の特徴を11個挙げます。

どれもマニアックすぎて、聞いただけではわかりません。

 

1、形を知らない

 

註によると、自分の牛の数や色、形を知らないということのようです。

自分の牛の頭数を把握してない。白い牛が何頭で赤い牛が何頭ということも把握してない、という意味らしいです。

 

2、特徴に巧みでない

 

牝牛には何か印がつけられているようで、そのマークのことを知らない、と言う意味のようです。

 

3、虫の卵を駆除しない

 

牛の体内で繁殖する虫の卵を駆除しないと、病気になり、乳が出なくなり、死ぬこともあるそうです。

 

4、傷を覆わない

 

牛の傷を放置していると、病気になり、乳が出なくなり、死ぬこともあるということ。

 

5、煙を起こさない

 

牛舎で、煙を起こさなければ、牛が蚊などに悩まされ睡眠不足になり衰弱してしまう。

 

6、渡し場を知らない

 

渡し場の状況を知らなければ、牝牛を渡らせるときに、岩石などを踏んで足を折ったりするし、鰐に襲われたりする。

 

7、飲んでることを知らない

 

この牛は、水を飲む必要がある、飲む必要がない、ということを知らない。

 

8、道路を知らない

 

この道は安全か、盗賊や虎などがいて危険か、あついはでこぼこ道で危険か、ということを知らない。

 

9、牧草地に巧みでない

 

牧草地は牛が食べてから5日か7日しなければ青草が成長しないので、どの牧草地はいつ牛が通ったかを常に把握しておく必要がある。

 

10、余分を残さず乳を搾っている

 

仔牛が飲む乳のことを考えずに、すべての乳を搾ってしまうと、母牛は仔牛が心配で乳が出なくなってしまう。

 

11、かの父牛や首領牛である牡牛たちを充分に尊重しない

 

ダメな牧牛者は乳が出る牝牛ばかりを尊重して群れを守る牡牛を尊重しないので、牡牛は群れを守らなくなる。

 

 

 

さて、以上が、ダメな牧牛者の11の特徴です。

 

ちょうど、このように、これらの11の法を備えている比丘は、法において広大に到達することができません。

 

1、形を知らない

 

『およそ色という色は、すべて四大要素と四大要素を取る色からなる』ということを知らない。

 

2、特徴に巧みでない

 

『愚者は業を特徴とし、賢者は業を特徴とする』ということを知らない。

だから、愚者を避けることができない。

 

3、虫の卵を駆除しない

 

つぎつぎに生じている悪しき不善の法を除去しない。

 

4、傷を覆わない

 

眼によって色を見る場合、その外相を捉え、その細相を捉えます。

この眼の感官を防護しないで住むならば、もろもろの悪しき不善の法が、貪欲として憂いとして、流れ込むことになります。

眼・耳・鼻・舌・身・意による色・声・香・味・触・法すべてそうです。

 

5、煙を起こさない

 

その比丘は、学んでいるとおりに、法を広く他のものたちに説くことがない。

 

6、渡し場を知らない

 

その比丘は、多聞の比丘に『この意味は何ですか?』と充分に問うことがない。

だから疑いを除去することができない。これを渡し場を知らないという。

 

7、飲んでいることを知らない

 

如来によって法が説かれたとき、法の歓び、満足を得ない。

 

8、道路を知らない

 

八正道を知らない。

 

9、牧草地に巧みではない

 

四念処を知らない。

 

10、余分を残さず乳を搾っている

 

信者である資産家たちが、衣・食など『必要なだけどうぞ』と言うときに、受け取る適量を知らない。

 

11、長老たちを充分に尊重しない

 

長老たちに、慈しみのある、身・口・意の行為をしない。

 

 

そして、これらの反対の11の法をそなえている比丘は法において増大や広大に到達できます。

 

 

 

中部経典『大ゴーシンガ経』

中部経典の第32は、『大ゴーシンガ経』です。

 

これは、前編の『小ゴーシンガ経』と同じ、ゴーシンガのサーラ森林にて説かれたものです。

『小』のほうは、釈尊と3人の比丘(アヌルッダ、ナンディヤ、キミラ)が登場人物でしたが、『大』は、オールスターです。

サーリプッタ、マハーモッガッラーナ、マハーカッサパ、アーナンダなどの長老が勢揃いです。

 

サーリプッタがそれぞれの人に問いかけます。

『このゴーシンガのサーラ森林は楽しいところです。夜は明るく、サーラの花は満開し、天の香りのように馥郁としています。友よ、どのような比丘が、ゴーシンガのサーラ森林を輝かすことができるでしょうか?』

 

アーナンダ『多聞の比丘でしょう。』

レーヴァタ『禅定の比丘でしょう。』

アヌルッダ『天眼の比丘でしょう。』

マハーカッサパ『頭陀の比丘でしょう。』

マハーモッガッラーナ『2人の比丘が勝れた法の話をし、互いに質問し、互いに質問に答え、放棄することがなく、法に関する話が進んでいきます。そのような比丘が輝かすことができます。』

 

ここで、マハーモッガッラーナはサーリプッタに同じ質問をしました。

サーリプッタ『心を自在に使い、しかも心の自在にならない比丘でしょう。』

 

答えが出そろったところで、釈尊のもとに行って聞きます。

 

釈尊は、そのすべての答えを褒めます。

どの人の答えに対しても、

『よいことです。よいことです。正しく答えることができています。』と。

 

サーリプッタは聞きます。

『誰のものがよく語られているでしょうか?』と。

釈尊は答えます。

『そなたたちのすべてのものは、道理によってよく語られています。

しかし、私の言うことも聞きなさい。

サーリプッタよ、ここに、比丘が、食後、托鉢食を離れ、跏趺を組み、まっすぐに身体をたもち、全面に念を凝らし〈私は、とらわれがなくなり、もろもろの煩悩から心が解脱しない限り、この跏趺を破らない〉と坐ります。

このような比丘が、ゴーシンガのサーラ森林を輝かすことができます。』

 

 

これは素晴らしい説法です。

弟子たちはそれぞれの特徴を言っていきます。そのような性質、能力が輝かすことができるのだ、と。

釈尊がそのすべてを褒めながら、最後のこの言葉はやはり他を圧しています。

 

これは釈尊ご自身が、菩提樹下に坐ったときの決意です。

このような決意ができるものが本当に輝かすことができる、ということなのでしょう。

 

中部経典『小ゴーシンガ経』

中部経典の第31は、『小ゴーシンガ経』です。

 

仏陀の弟子である3人の尊者が住み、そこで仏陀の説法が行なわれたのが、ゴーシンガのサーラ森林と呼ばれる森であったので、題名にゴーシンガがついています。

 

3人の尊者、アヌルッダとナンディヤとキミラがいるところに仏陀は行きます。

 

そして、仏陀は3人に問いかけます。

『元気であろうか?』

『食べ物は得やすいか?』

『争いなく和合し、敬愛の眼で見て住んでいるか?』と。

 

答えて言います。

慈しみのある身業

慈しみのある語業

慈しみのある意業を確立しています。

 

そして、日常生活では、声を出すことなく、手で合図して意思疎通していると。

また、5日ごとに、夜を徹して法話のためにともに坐っている、と。

 

仏陀は聞きます。

『安楽な住まいというものはありますか?』と。

 

答えて言います。

 

第一禅に達して住んでおります。

第ニ禅に達して住んでおります。

第三禅に達して住んでおります。

第四禅に達して住んでおります。

空無辺処に達して住んでおります。

識無辺処に達して住んでおります。

無所有処に達して住んでおります。

非想非非想処に達して住んでおります。

想受滅に達して住んでおります。

慧によって見、煩悩は滅尽しています。

これが安楽な住まいです。

 

この対話の後、

神々が口々に讃えていった。

『ヴァッジ国に住む人は利得がある。世尊が来られ、3人の尊者が住んでおられるから。』

 

仏陀は言われた。

その通りです。

その家が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、その家には長く利益と安楽があるはずです。

その村が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、その村には長く利益と安楽があるはずです。

その町が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、その町には長く利益と安楽があるはずです。

その都市が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、その都市には長く利益と安楽があるはずです。

その地方が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、その地方には長く利益と安楽があるはずです。

すべての王族が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、そのすべての王族には長く利益と安楽があるはずです。

すべてのバラモンが、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、そのすべてのバラモンには長く利益と安楽があるはずです。

すべての庶民が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、そのすべての庶民には長く利益と安楽があるはずです。

すべての隷民が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、そのすべての隷民には長く利益と安楽があるはずです。

神々や魔や梵天を含む世界が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、その神々や魔や梵天を含む世界には長く利益と安楽があるはずです。

 

初期経典を整理すると

 くり (119.228.245.134)  
ショーシャンクさま おはようございます。
緑が美しい時期となりました。
いつも初期経典のご紹介ありがとうございます。
ショーシャンクさまの簡潔な解説を見ては{ああ、お釈迦様はそんなことを仰っているのかぁ~}って、いつも新な想いを巡らせて頂いています。
ありがとうございます。
本の執筆のほうはその後如何でしょう。
一冊の本を完成することは精神的に大変な重圧がかかると伺ったことがあります。
体調に十分に注意してゆっくりと進んでいってくださいね。
完成した時には、まさに「心材」を捉えた仏教の善き本となりますことを祈念しております。
 
石飛先生は問題の二人をとうとう制限されました。
これもネットや現実社会のありようをよく知っておられるショーシャンクさまの慧眼だったのだなと今は思っております。
それでは、また。

 

 

 

くりさん、こんにちは。

初期経典を整理していくと、だんだん仏陀の真意の輪郭がはっきりとしてきた感じがします。

後世の夾雑物を除去していって、歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのかを書きたいのですが、ますます今までの仏教なるもののイメージとは違ってきています。

原始仏典に繰り返し繰り返し出てくるものが、なぜかあまり仏教なるものに取り入れられていない気がします。

仏陀はほとんどの人が思っている以上に、実は詳しく自らの覚りの内容を語っています。

その根幹から考えていくと、必ず死後の世界はある結論になります。

輪廻も転生もあるでしょう。

そして、なぜ、仏陀は輪廻転生の終焉を目的としたのか、これも本当にわかってきました。

それとともに、いまの『仏教なるもの』を仏陀の教えと言って本当にいいのだろうか、とも思います。

その筏、本当に筏ですか?と言いたくなります。

 

仏陀の理法は、人類の至宝だと思います。

ところが、人類はその至宝を歴史の堆積物に埋もれさせてしまったという感がどんどん強くなっています。

 

これから、本当の仏陀の真意を探求する大きなうねりが来そうな気がします。

それは私が死んだ後になるとは思いますが、今までの仏教でない、仏陀の真意を探ろうという動きは出てくるでしょう。

 

マニカナホームページ、2人を隔離室に誘導できて、マジカナ道場が再開されたようですね。しばらくしたらまた道場で前のように対話できる環境に戻るでしょう。

よかったと思います。

 

中部経典『小心材喩経』

中部経典の第30は、『小心材喩経』です。

 

この経典は、第29の『大心材喩経』と同じ喩えです。

 

ただ、違うのは、『大心材喩経』では、心材とは不動の心の解脱を指しましたが、この『小心材喩経』では、

第一禅

第二禅

第三禅

第四禅

空無辺処定

識無辺処定

無所有処定

非想非非想処定

想受滅

慧によって見てもろもろの煩悩を滅尽

 

このすべてを、智見より優れた『心材』だとしていることです。

中部経典『大心材喩経』

中部経典の第29は、『大心材喩経』です。

 

この経典は、樹の心材の喩えです。

樹の心材とは、樹の中心部分、芯のことです。

硬くて腐りにくいことから、木材の最も価値ある部分です。

 

この経典は、提婆達多が離反して間もないころに説かれたもののようです。

提婆達多を念頭に説かれたものです。

 

苦の滅を目的に出家していながら、しかし、枝葉のことに捉われて離れてしまい、苦に住んでしまうとあります。

心材を欲しているのに、枝葉を心材と思ってしまうからです。

 

1、苦の滅を求めて出家しながら、得られた利得や尊敬、名声によって自賛し、他を貶し苦に住みます。

 

2、利得や名声に酔うことがない者でも、戒をそなえることを自賛し、他を貶し、苦に住みます。

 

3、名声や戒で自賛することはない者でも、定をそなえることを自賛し、他を貶し、苦に住みます。

 

4、名声や戒や定で自賛することがない者でも、智見をそなえることを自賛し、他を貶し、苦に住みます。

 

5、その智見に酔うことなく、不動の解脱に達した者こそ、心材を得たものです。

 

この梵行は、名声を功徳とせず、戒をそなえることを功徳とせず、定をそなえることを功徳とせず、智見を功徳としません。

不動の心の解脱こそ、心材なのです。このためにこの梵行があります。これが終結です。

中部経典『大象跡喩経』

中部経典の第28は、『大象跡喩経』です。

 

この経典は

『縁起を見る者は法を見る。法を見るものは縁起を見る。』という言葉で有名です。

 

この経典に書かれている『大きな象の足跡』というのは、四諦の法のことです。

ジャングルのいかなる生き物の足跡も、すべて象の足跡に包含されます。

それと同じように、四諦の法は、他のすべての法を包含しているということです。

そして、『縁起を見る者は法を見る』の『法』も四諦の法のことです。

 

 

四諦というのは、

1、苦諦  苦という真理

2、集諦  苦の集起(生起)という真理

3、滅諦  苦の滅という真理

4,道諦  苦の滅に至る道という真理

のことです。

 

苦諦とは、生まれることも苦、老いることも苦、死も苦、愁い・悲しみ・憂い・悩みも苦、求めて得られないのも苦、要するに五蘊の集まり(五取蘊)が苦である、とこの経典には説かれています。

厳密にはこの経典で書かれているのは四苦八苦そのものでないのですが、『要するに五取蘊が苦』というのが、苦諦の最大のキーポイントなのです。

 

五取蘊とは

1、色取蘊

2、受取蘊

3、想取蘊

4、行取蘊

5、識取蘊

の五つです。

 

色取蘊は、地水火風の四大から成ります。

 

地界には内の地界と外の地界があります。

内の地界とは、肉体を形成する、髪、毛、歯、爪、肉、骨などの固体。

外の地界とは、外界を形成する山や大地。

 

地界は堅固なものに思えるでしょうが、内の地界も外の地界も、『これは私のものでない、これは私ではない、これは私の我ではない』と正しく慧によって見られるべきです。

 

外の地界が堅固な山に見えても、大洪水で消え去ることがあります。

どんなに広大でも、無常であり、滅尽するものであり、壊滅するものであり、変化するものです。

それなのに、このわずかな身体に私、私のもの、私がいると言えるでしょうか。

 

 

内の水界とは、血や唾液や汗や涙などの身体内の液体です。

外の水界とは、外界にある湖などです。

しかし、それが干上がることもあります。

無常です。

 

内の火界とは、身体内の熱になるものです。

外の火界が怒り、村や町や国を焼き尽くしても、水によって消えたり、燃料がなくなって消えたりします。

無常です。

 

内の風界とは、呼吸などです。

外の風界にしても、風がぴたっとなくなることがあります。

無常です。

 

 

例えば、木材によって、草によって、土によって虚空が囲まれたならば、家と呼ばれるように、骨によって、筋によって、肉によって、皮によって虚空が囲まれたなら、rupa=色、身体と呼ばれます。

 

外のもろもろの色が眼識に入ってくるなら

そのようにして色取蘊に、そして五取蘊に包摂され、集合されます。

これらの縁って起こったものが五取蘊です。

五取蘊に対する貪、愛着、執着が苦の集起です。

五取蘊に対する貪、愛着、執着の捨断が苦の滅尽です。

 

ここでこの言葉が出てきます。

『縁起を見る者は法を見る。法を見るものは縁起を見る。』

 

 

さて、これはどういう意味でしょうか。

 

私の解釈では、

 

骨によって、筋によって、肉によって、皮によって虚空が囲まれて

rupa =色 =身体 が生じます。

身体には六入があり、

触が起こり

受が起こります。

ここで、愛着や執着が起こり、苦の集起となります。

 

この経典で説かれているのは十二縁起の原型とも言えるものです。

この縁起の法を洞察することで、苦の集起・苦の滅尽のありさまを見ることになります。

 

つまり

『縁起を見る者は法を見る。法を見るものは縁起を見る。』

とは

十二縁起を洞察する者は、四諦の法を洞察する者であり

四諦の法を洞察する者は、十二縁起を洞察する者である

ということだと解釈しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中部経典『小象跡喩経』

中部経典の第27は、『小象跡喩経』です。

 

この経典は、ただ単に象の足跡が大きかったからといって象の専門家(笑)は『大きな象』の足跡とは見ない。大きな足跡を残す小さい象もいる。それでは何を見て『大きな象』と判断するのか?という喩えです。

なかなか面白い喩えです。

 

ヴァッチャーヤナという仏陀の弟子に、バラモンが尋ねます。

『沙門ゴータマは賢者だと思いますか?』

弟子は答えます。

『どうして、私が沙門ゴータマの聡明を知り得ましょうか?それを知ることができるのは、彼と同じようなお方です。』

『それでは、なぜあなたは沙門ゴータマに浄信があるのですか?』

 

それに弟子はこう答えます。

 

聡明でもろもろの邪見を打ち破る能力を持ったある王族の賢者が、ゴータマを打ち負かそうといろいろな質問を考えてきます。

しかし、直接、ゴータマから教示され激励されて、質問さえしません。まして論破など全くできません。

次に『バラモンの賢者』

次に『資産家の賢者』

次に『沙門の賢者』

この4者とも、全く質問もできず、論破など全くできません。

 

こういうような『足跡』を見たので、世尊は正自覚者という結論に達したのです。

 

このことを聞いたバラモンは、仏陀のところに行き、そのことを話しました。

 

仏陀は、『それでは充分に説明したことにならない』と言って、次の喩えを説きます。

 

象の大きな足跡を見たからと言って、『大きな象』の足跡とは限らない。

大きな足跡を持つ小さな象がいるから。

 

大きな足跡と高いところで擦っている箇所を見ても、『大きな象』の足跡とは限らない。

大きな足跡を持つ、背の高い、細い牙の象がいるから。

 

大きな足跡と高いところで擦っている箇所とさらに高いところで牙によって裂かれている箇所を見ても、『大きな象』の足跡とは限らない。

大きな足跡を持つ、背の高い、瘤の牙の象がいるから。

 

大きな足跡と高いところで擦っている箇所とさらに高いところで牙によって裂かれている箇所とさらに枝が折れていて、その象が、歩いたり立ったりしているのを見ます。

そうしてはじめて、大きな象であるという結論に達します。

 

この喩えを説き終わってから、仏陀は、

不善の法を滅する⇒四禅⇒三明⇒解脱

これが、この経典でも説かれます。

 

数多くの経典に繰り返し出てくる法は、極めて重要な法だということです。

 

この経典では、特に、〈不善の法を滅する〉に関して詳しく説かれます。

 

殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語などの悪しき不善の法から離れた者となり、

眼・耳・鼻・舌・身・意を防護して、そこから悪しき不善の法が流れ込まないようにします。

そして、五蓋=慧を弱める煩悩 を断ちます。

 

その後、

第一禅

第二禅

第三禅

第四禅

に達して住みます。

 

その後、

宿住智

天眼智

漏尽智を起こし

四諦を知り、解脱します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中部経典『聖求経』

中部経典の第26は、『聖求経』です。

 

この経典は、仏陀が、自らの出家の動機や、出家した後、アーラーラ・カーラーマやウダカ・ラーマプッタのところで禅定を学んだこと、しかしそれを捨てて去り、自ら修行して悟ったこと、梵天勧請や、初転法輪が書かれています。

中部経典の中でも有名な経典です。

しかし、成道の時に悟った内容は書かれてなく初転法輪で説かれたこともさらっとしか書かれていません。そして、その主な内容は、『餌食経』で説かれた鹿の群れの喩えそのままです。

 

註では、アーラーラ・カーラーマは、四禅や空無辺処定、識無辺処定、無所有処定を七つをマスターしていたらしく、ウダカ・ラーマプッタはそれに加えて非想非非想処定をマスターしていたようです。

しかし、仏陀は『この法は、厭離のためにならない。離貪のためにならない。滅尽のためにならない。寂止のためにもならない。勝智のためにもならない。正しい覚りのためにならない。涅槃のためにもならない。』と思って、その法に満足せず、出て行きました。

 

それが、初転法輪が書かれる後半では、『餌食経』の鹿の喩えで、〈魔の見えないところ〉として、それらの禅定を挙げます。

 

この聖求経だけでは、捨てた禅定をなぜ説いたのかということはわかりません。

他の経典を見ないとわからないと思います。

 

中部経典『餌食経』

中部経典の第25は、『餌食経』です。

 

猟師が鹿を捕まえるために撒く餌の喩えです。

 

第一の鹿の群れは、猟師が撒いた餌の中に入り夢中になって食べました。もちろん、すぐ猟師に捕まってしまいました。

 

第二の鹿の群れは、第一の鹿の群れの有様を見ていたので、すべての餌食を避けることにしました。怖れによって食べることを離れ、深く森の中に入りました。

しかし、草や水がなくなり、気力をなくしてしまいました。

そして、結局、猟師の撒いた餌食の中に入り夢中で食べてしまい、捕まってしまいました。

 

第三の鹿の群れは、第一第二の群れを見ていたので、餌食に夢中にならないように気をつけようと決心しました。

そして、猟師の撒く餌食の近くの密林の茂みなどを住処として、猟師の注意が逸れたときに夢中にならずに餌食を食べてすぐ住処に帰るようにしました。

猟師は考えました。

猟師が注意をそらしたときに餌を食べに来るので、餌の近くに住んでいるはずだと。

それで、撒く餌一帯に大きな罠を仕掛けました。そして、住処を見つけ、捕まえました。

 

第四の鹿の群れは、第一第二第三の群れを見ていたので、こう考えました。

われわれは、猟師とその仲間が行かないところに住処を設けよう。

そして、猟師が撒く餌の中に入らず、夢中にならずに餌を食べよう。

 

この第四の鹿の群れは、猟師には住処がわからず、猟師から逃れられることができました。

 

 

〈餌〉とは、五種妙欲のこと。ここちよい色・声・香・味・触。

〈猟師〉とは、魔のこと。仏教では煩悩に引き込む力のこと。

〈鹿の群れ〉とは、沙門・バラモンのこと。

 

それでは、第四の鹿の群れが考えた〈猟師の行かないところ〉、つまり〈魔の行かないところ〉とはどこでしょうか。

 

ここで、仏陀は、

第一禅

第二禅

第三禅

第四禅

空無辺処

識無辺処

無所有処

非想非非想処

を挙げます。

そして、非想非非想処を超え、想受滅に達して住みます。

慧によって見、彼にはもろもろの煩悩が滅尽します。

 

ここでも、

禅定⇒漏尽智

が説かれています。

中部経典『中継車経』

中部経典の第24は、『中継車経』です。

 

サーリプッタとプンナという長老同士の対話です。

プンナが中継車の喩えをしたことから中継車経と呼ばれます。

 

プンナは貿易商であり、長者だった人です。

説法第一と言われていて、わかりやすく面白い説法で大人気であった人です。

社会的経験や人生経験の厚みがプンナの説法を魅力的なものにしたのでしょう。

 

この経典にある『中継車』の喩えも、商人であったプンナらしい喩えです。

 

サーリプッタは、プンナに聞きます。

『世尊のもとで梵行につとめ住みましたか?』

『はい。』

『では、友よ、戒の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

・・・・

以下、次のようなことのために梵行につとめ住んだのではないという対話が続きます。

『心の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『見の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『疑の超越の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『道・非道の智見の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『行道の智見の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『智見の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『それでは何のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『執着のない完全な涅槃のために、世尊のもとで梵行につとめ住んだのです。』

 

『戒の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『心の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『見の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『疑の超越の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『道・非道の智見の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『行道の智見の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『智見の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『では、これらの法以外に、執着のない完全な涅槃があるのですか?』

『そうではありません』

 

ここで、プンナは、中継車の喩えを言います。

 

ある地点から、サーケータの王宮の門まで行くのに、七台の中継車を使う喩えです。

第一の中継車に乗って出発して、第二の中継車に至り、そこで第一の中継車を乗り捨てて第二の中継車に乗り、第三の中継車まで至り、・・・・第七の中継車によって目的地に着いた、という喩えです。

 

その喩えのように、

戒の清浄は、心の清浄までを目的とし

心の清浄は、見の清浄までを目的とし

見の清浄は、疑の超越の清浄までを目的とし

疑の超越の清浄は、道・非道の智見の清浄までを目的とし

道・非道の智見の清浄は、行道の智見の清浄までを目的とし

行道の智見の清浄は、智見の清浄までを目的とし

智見の清浄は、執着のない完全な涅槃までを目的とするものです。