中部経典『小有明経』

中部経典の第44は、『小有明経』です。

 

信者の問いにダンマディンナーという比丘尼が答えたものです。

 

『〈自身〉とは何でしょうか。』

『〈自身〉とは、色・受・想・行・識の五取蘊です。』

 

『〈自身の生起〉とは何でしょうか。』

『再生を起こし、歓び貪りを伴い、ここかしこで歓喜する渇愛です。すなわち、欲愛、有愛、無有愛です。』

 

『〈自身の滅尽〉とは何でしょうか。』

『その渇愛の消滅による完全なる滅尽、捨棄、解脱、無執着です。』

 

『〈自身の滅尽に至る道〉とは何でしょうか。』

『八正道です。』

 

『八正道は、有為のものでしょうか。それとも無為のものでしょうか。』

『有為のものです。』

 

『八正道によって三蘊はまとめられますか。それとも、三蘊によって八正道はまとめられますか。』

『三蘊によって八正道はまとめられます。

 正語・正業・正命は戒蘊に、正精進・正念・正定は定蘊に、正見・正思は慧蘊にまとまられます。』

 

『定とは何でしょうか。もろもろの定の相とはどのような法でしょうか。もろもろの定の資具とはどのような法でしょうか。定の修習とは何でしょうか。』

『心の統一、これが定です。

 四念処、これが定の相です。

 四正勤、これが定の資具(要素)です。

 それらの法の親近、修習、復習、これが定の修習です。』

 

以下、答えだけを書きます。

 

『出入息が身の行です。大まかな考察、細かな考察が語の行です。相と受が心の行です。』

 

『出入息は、身に属するものであり、身に結ばれています。ゆえに、身の行です。

 先に大まかに考え、細かに考え、後に語を発します。ゆえに語の行です。

 相と受は、心に属するものであり、心に結ばれています。ゆえに、心の行です。』

 

『想受滅定に入るには、私はこれだけの時間無心になろうと時間を限定する心が修習されています。』

 

『想受滅定に入る比丘には、最初に語の行が、次に身の行が、そして心の行が滅します。』

 

『想受滅定から出るには、私はこれだけの時間経ってから有心になろうと以前に修習されています』

 

『想受滅定から出る比丘には、最初に心の行が、次に身の行が、そして語の行が生じます。』

 

『想受滅定から出ている比丘には、空性の接触、無相の接触、無願の接触があります。』

 

『想受滅定から出ている比丘の心は、遠離(涅槃)に下り、遠離に傾き、遠離に向かいます。』

 

『楽受は、とどまりを楽とし、変化を苦とします。

 苦受は、とどまりを苦とし、変化を楽とします。

 非苦非楽受は、智を楽とし、無智を苦とします。』

 

『楽受は、貪りの煩悩が、

 苦受は、怒りの煩悩が、

 非苦非楽受は、無明の煩悩が潜在しています。』

 

『楽受は、貪りの煩悩が、

 苦受は、怒りの煩悩が、

 非苦非楽受は、無明の煩悩が断たれるべきです。』

 

 

『ここに比丘は、もろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じた喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。

それによって貪りを断ちます。

 

ここに比丘は、このように熟慮します。

〈私は聖者たちが達して住んでいるところに、いつ達して住むのであろうか〉と。

このようにして、無上の解脱に対する願いを起こす者には願いによって憂いが生じます。

それによって怒りを断ちます。

 

ここに比丘は、楽を断ち、苦を断ち、以前にすでに喜びと憂いが消滅していることから、苦もなく楽もない、平静による念の清浄のある、第四の禅に達して住みます。

それによって無明を断ちます。』

 

『苦の受が楽の受の対です。』

 

『無明が非苦非楽の対です。』

 

『明智が無明の対です。』

 

『解脱が明知の対です。』

 

『涅槃が解脱の対です。』

 

『涅槃は終極です。』(涅槃は対比のない法である)