今回は、長部経典の『大因縁経』を取り上げます。
次回からはまた、中部経典に戻りますが。
『大因縁経』は『縁起』の意味を知る上で欠かせない経典です。
『縁起』は仏教の根幹と見られていますが、今の仏教で言う『縁起』と歴史上の仏陀が説いた『縁起』とはかなり意味が違っています。
『縁起』というと、相依性という言葉で説明されることが多いですが、
相応部経典で、十二縁起の内、相依性があるとされているのは、
『識』と『名色』の間だけです。
十二縁起は
無明⇒行⇒識⇒名色⇒六処⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死
です。
このうち、相依性があるのは、識⇒名色 だけです。
ですから、
縁起=相依性 ではありません。
なぜ、識と名色だけ相依性なのでしょうか。
この答えが、長部経典『大因縁経』に書いてあります。
『識を縁として名色がある』というのは次のような理由です。
『識が母胎に入らなかったとするならば、名色は母胎の中で育たない』
『識が母胎に入った後に外れたならば、生まれることはない』
『識が若いときに断たれたら、名色は成長し成熟し老大とはならない』
ゆえに、識は名色の因であり縁である、と説かれます。
つまり、『識』とは結生識のことであり、その後、名色(五蘊)が生長していく因とされます。
『名色を縁として識がある』というのは、次のような理由です。
『識が名色において根拠を得ることがなかったとすれば、未来に生・老・死という苦の集まりの発生は知られない。』
ゆえに、名色は識の因であり縁である、と説かれます。
そして、
『実に、この名色が識とともに互いの縁として起こる場合、これだけによって、生まれたり、老いたり、死んだり、没したり、生まれ変わったりすることになります。
これだけによって、名称の路・語源の路・告知の路・慧の領域があります。
輪転であるこの状態が、告知のために起こります。』
ここの最後の訳語は意味を理解しづらいのですが、
識と名色にだけ相依性があることと、それが非常に重要な意味を持っていることはわかりました。