中部経典『コーサンビヤ経』

中部経典の第48は、『コーサンビヤ経』です。

 

コーサンビーという町で説かれた説法です。

 

不和になって口論していたコーサンビーの比丘たちに説いたものです。

 

 憶念すべきもの、敬愛を生むもの、尊重を生むもの、愛護のため、口論のないため、和合のため、一致のための、六つの法です。

 

1、慈しみのある身の行為が同梵行者たちに対し、陰に陽に現れます。

 

2、慈しみのある語の行為が同梵行者たちに対し、陰に陽に現れます。

 

3、慈しみのある意の行為が同梵行者たちに対し、陰に陽に現れます。

 

4、(托鉢などで)正しく得られたものを同梵行者と共通に受用する。

 

5、同梵行者と陰に陽に戒を等しくするものとして住みます。

 

6、聖なる、解脱に資する、正しく苦の滅尽に導く見があり、同梵行者と陰に陽にそのような見を等しくするものとして住みます。 

 

 

そして、これら六つの法のうち、〈聖なる、解脱に資する、正しく苦の滅尽に導く見〉が最上であり、集約的であり、統合的なものです。

 

 

それでは、〈聖なる、解脱に資する、正しく苦の滅尽に導く見〉とはどのようなものでしょうか。

 

 

【第一の智】

【私には、心が纏わいつかれて如実に知ることも見ることもできない、内に断たれていない煩悩はない。私の意はもろもろの諦(四諦)を覚ることに向けられている。】

 

もし比丘が欲貪に纏わいつかれているならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘が瞋恚に纏わいつかれているならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘が沈鬱・眠気に纏わいつかれているならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘が浮つき・後悔に纏わいつかれているならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘が疑いに纏わいつかれているならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘がこの世の思いに熱中するならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘があの世の思いに熱中するならば、心が纏わいつかれている者になる。

もし比丘が論争し、不和となり、口論に及び、互いに舌鋒をもって突き合い、住むならば、心が纏わいつかれている者になる。 

 

【私には、心が纏わいつかれて如実に知ることも見ることもできない、内に断たれていない煩悩はない。私の意はもろもろの諦(四諦)を覚ることに向けられている。】と知るならば、これが最初の智であり、もろもろの凡夫と共通しない、聖なる、出世間のものです。

 

出世間法(lokuttaram)とは、聖者のみにあり凡夫にないから、出世間のものと言われる。

 

 

【第二の智】

【私は、この見に従い、修習し、繰り返し行なっているが、自己の寂止を得ている。自己の寂滅を得ている。】

 

 

【第三の智】

【私がそなえているような見をそなえた沙門・バラモンは、これより外に、他にいない。】

 

 

【第四の智】

【見を成就した人がそなえているような法性(違犯をしても、すぐ示し開き明らかにするような法性(自性・習慣・習性))を、私もそなえている。】

 

 

【第五の智】

【見を成就した人がそなえているような法性(仕事をしていてもさらに優れた戒定慧を学ぼうとする強い願いがある)を、私もそなえている。】

 

 

【第六の智】

【如来が説かれた法と律が示されているとき、目的を定め、意を注ぎ、あらゆる心をもって集中し、耳を傾けて法を聞く力量をそなえている。】

 

 

【第七の智】

【如来が説かれた法と律が示されているとき、義の悦びを得、法の悦びを得、法を伴った満足を得る力量をそなえている。】