仏教についてのひとりごと 122

「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」がなぜ不可能なのですか?
たぶん、宮沢賢治はデクノボーとか役立たずとか言われていたことはあると思いますよ。

学校の先生を辞めてから農業指導の道を選びますが、しかし、1年ちょっとしか続きません。
その間も、農繁期に長期間東京に音楽を習いに行ったりです。
農業指導もアルカリ性にするため石灰を大量にばら撒いてしまったりして、石灰の会社と癒着しているのではないかと思われたりしました。
米作は酸性にも強いらしく極度にアルカリ性にしてはいけないようですが。
そんなこんなで、「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ」はそうだったと思います。
人は良くて、みんなのことをよく考えていたので嫌われたり苦にされることはなかったでしょうね。

ですから、「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」は、宮沢賢治その人だったと思いますよ。

何でもかんでも、達成するのは不可能で永遠にその道を完成することなく行くという観念にあなたは縛られているようですが(笑)

 

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どんな生き方を選択しようがあなたの自由です。

ただ、ここは歴史上の仏陀が本当は何を言ったかのスレッドです。

大乗仏教としても、あなたのいうように菩薩は永遠に菩薩として修行するというのはどの仏典にもない、あなただけのドグマです。
法蔵菩薩阿弥陀仏になったではありませんか?
あなたの言うことは、大乗仏教に照らしてもおかしいと思っています。
それはどうですか?

 

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いや、さっき書いたように、宮沢賢治は既に
「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ」だったと思いますし
「クニモサレズ」という感じだったと思いますよ。

人間は多かれ少なかれみんなそんな感じじゃないですかね。
誰からも無視されて、なんて一言も書いてないですよね。
みんな、そんなに褒められもせず、苦にもされないところで生きていませんか?

 

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釈尊が歩いた道というのは、本当は釈尊が何を言ったのかがわからないとわかりませんよ。

釈尊の顔も知らないはるか後世の龍樹が、不二中道だと言ったところで
それが本当に釈尊が言ったことか歩いた道なのかどうかは調べないとわかりませんよね。

 

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<<>みんな、そんなに褒められもせず、苦にもされないところで生きていませんか?>>
<<誰が??欲は生きる力です。そういう生きる力が無くなったら死ですね。>>

全く意味不明ですね。

そんなにみんな褒められてばっかりの人なんていませんし
あなたのようにみんなに苦にされている人も現実社会ではそう多くはないでしょう。

みんな、「そんなに褒められもせず、苦にもされない」人たちが多いと思いますよ。

 

 

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あなたもそこまで禅定が重要だと思っているのであれば
少し禅定してみればどうですか?

あなたがここに書いたところでは、1日に5分しか坐禅(しかも数息観)してないというではないですか。
それでよく、禅の実践とか言えますね。
あなたは妄想が次から次と多く湧き出るので、長時間の瞑想や坐禅ができないのではないですか?
そんな感じがします。

注意力不足からの誤記も多いですし。

坐禅」トピのスレ主のとりさんや参加者の水月さんにどうしたらいいか、聞かれたらいいと思います。
私は禅は門外漢なので言えませんが。

 

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<<それを感じて共に生きるのが愛でしょう。
人間の悲しみを見つめて下さいな。>>

口だけではなく、あなたがぜひ、それを実践してみてください。
人に説教するのは自分がちゃんとできてからにしましょうね。

 

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<<日蓮宗浄土真宗禅宗真言宗天台宗キリスト教イスラム教も宇宙のはたらき、
ですから、互いを認め合って仲良くしなければいけません。>>

これはその通りだと思う。
すべての教えは向こう岸に渡る筏にしか過ぎない。
クリシュナムルティは筏を否定したが、人間は筏がないとどうしても激流は渡れない。
クリシュナムルティは天才だったので筏がなくても渡れたのかと思っていたが
晩年『誰一人変わらなかった』と言ったようにやはり筏がないと変われない。

歴史上の仏陀の真意を探求するために、仏教の全否定から始めたが、仏陀の真意がわかってくると、仏教の全肯定へと進む。また、仏教以外の教えの全肯定へと進む。

大乗仏教は失われた主体の復興運動だと思う。
法華経において久遠実成の釈迦が説かれ、大乗涅槃経においてついに常楽我浄が説かれるに至った。『無常・苦・無我・不浄』から『常・楽・我・浄』への大転換。

大乗仏教ヒンドゥー教の大きな影響があることは数多くの仏教学者が認めざるを得ないところ。
そしてヒンドゥー教大乗仏教の大きな影響を受けた。
これは否定しようにも否定できないところ。

あなたのような従来の仏教者、特に大乗仏教者は、キリスト教イスラム教を肯定しても、バラモン教ヒンドゥー教は頑なに否定する。また大乗仏教仏陀の教えを小乗仏教として蔑ろにする。
大乗仏教の功罪の中の悪い部分だ。
現代において、ここまで文献学が進み、歴史上の仏陀が本当に言ったことが相当に明らかになってきたのだから、仏教者であればそこに最大限の敬意を払わなければならない。

歴史上の仏陀の真意がわかってくると、かえって大乗仏教の本当の良さもわかってくる。
法華経は素晴らしく有り難いお経だし、禅の公案の良さも感じられてくる。

あなたも、小乗否定、ヒンドゥー教否定はそろそろ脱却した方がいい。
大乗仏教成立以来の根強い偏見は捨て去ることだ。
宇宙の全肯定というあなたの言っていることに反することとなる。

 

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<<>あなたも、小乗否定、ヒンドゥー教否定はそろそろ脱却した方がいい。>>
<<いつ否定しましたか?>>

釈尊の在世時、阿羅漢は最高位の悟りの境地に至った人をあらわしていました。
最高位の悟りに達した人ですから、阿羅漢とは何をおいてもまず釈尊その人をあらわしたのです。そののち、釈尊と同じくらいの最高の悟りに達した人も阿羅漢と呼びましたが、第一義的には阿羅漢とは釈尊その人です。
あなたは歴史上の釈尊を『阿羅漢は自我の執着が取れていないただの凡夫さ。ただの凡夫が恰好つけているだけ。』と罵り否定したではないですか。
忘れましたか?

現代になって、文献学が急速に進化し、どの仏典が釈尊の肉声に近いものかが明らかになってきています。
どの経典が本物かがわからなかった時代を引き摺って、歴史上の釈尊の言ったことを蔑ろにするのはそろそろやめませんか?

 

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<<違いを確認し習い合わせる「習合」で、自我でごちゃ混ぜにする「融合」に反対しています>>

それでは、あなたのいう【習合】では具体的にはどうなるのですか?
キリスト教イスラム教もヒンドゥー教もおよそ龍樹仏教以外の宗教はすべて神には実体があり実在すると信じています。
実体のない神を信じている宗教はありません。
神は実在すると信じているのです。

さて、あなたの信奉する龍樹仏教ではすべてに実体がなく神にも実体がないのでしたよね。
神にも実体のない龍樹仏教と実体のある神を信じているキリスト教イスラムヒンドゥー教などとどう『習合』するのですか?

 

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<<不二中道という二元対立の超越>>
<<無常と常住の対立和合したところの常。(断常中道)苦と楽の対立を和合したところの楽。(苦楽中道)我と無我の対立を和合したところの我。(有無中道)浄と不浄の対立を和合したところの浄。(浄穢中道)>>

仏陀は、龍樹が言うような二元対立の超越などという観念論を説いたわけではありません。

快楽を追い求め快楽に耽る生き方も、肉体の苦行によって解脱しようとする生き方も、
どちらも肉体に捉われた生き方であって真実の道ではなく、八正道という中道を行きなさい、と説いたのです。
つまり、肉体に捉われる生き方を離れ、智慧の道である八正道を選んだということです。

『苦』と『楽』という二元対立を超越するだとかという観念論にしてしまうのは間違いです。

 

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仏教についてのひとりごと 121

<<そして、仏教と言いながら、やれ漢訳はおかしい。中村元訳はおかしい。英訳したパーリー語訳こそが正しいというのは、経典の物神化(偶像崇拝)であり、「自覚の宗教」である仏教とは対極するものである。>>

 

わけわからないことを言い出しましたね。
仏陀の真意を正確に知ろうとすれば、翻訳家の様々な訳を参考にしつつ、自分でもパーリ語原典を調べないとわかりませんよね。

あなたのように、原典を読もうとせず、ただ仏教学者の解説書を読み漁って理解できたつもりになっているのでは、その仏教学者のフィルター、色眼鏡を読み込んでいるにすぎません。
あなたは仏陀から直接教えてほしいとは思わないのですか。

 

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自分の方が正しい、自分の方が悟っているのに
他の人ばかり褒められて・・・これはおかしい・・・
というところから嫉妬し粘着していくパターンを延々と続けているということでしょうね。

早く、自分の中のドロドロした我塊を見つめてほしいところですね。

 

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この和弘という人の卑怯なところは
自分からさんざん石を投げておいて
いざこちらが向かって行こうとしたとたん
『喧嘩するつもりはない。釈尊も争いはいけないと言ってる。』と言うところです。

それなら初めから石など投げなければいいだけです。

こちらは、和弘という人が他のスレで何を言おうが何を信じようが何の興味もないのですから。

 

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<<「無視リスト対象」というのが二つあった。一人の方は、無視リストの利用をさせていただいている。>>

あなたは、自分を批判するものは逆風で、逆風がなければ鳩も空を高く飛ぶことができない、高く飛ぶための揚力なのでありがたいことだ、自分を高く飛ばしてくれる逆風に感謝、とずっと言ってましたよね?
また、あなたは「排除の論理」ということばで排除をものすごく嫌ってますよね。

無視リストに入れて排除して、答えられないと逃げて逃げて、自分の自我が傷つくのをひたすら怖れている・・・・
言っていることと実際にしていることが真逆ですよね。

あなたは口ではいろいろなことを書きまくりますが、実際にはひとつも実践できていません。
自分で言ったこととあなたがしていることはいつも矛盾しているのです。

あなたの言説のすべては、自己正当化だけのためです。
だから、その時その時で言うことやることがコロコロ変わるのです。

 

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<<●離婚は悪いことではない●>>
<<離婚する奴はダメな奴と言わんばかりに>>
<<偏見の強い者は釈尊がまるで見えていない証拠である>>

 

そんなに自我を守ろうとしなくても大丈夫ですよ。
離婚した人が駄目なやつだとか全く思ってないですから(笑)

私はあなたの経歴を全く知りませんが、ただ、あなたが再婚ではないかとふと思い浮かんだだけです。
私は時に、その人の全体像とかストーリーとかが思い浮かぶときがあって
それは人に限らず物事に関してもそうなのですが、
例えば、最近の卑近な例では、W杯のフランスーアルゼンチンを何気に見たあと、今回はフランスが優勝するというヴィジョンが見えたので、掲示板に投稿しました。
サッカーはにわかもいいとこで、どこが強いかも知りませんでしたが。
株でもこのようなヴィジョンで成功したところもあります。

あなたが昨日このスレで、『和弘は元営業マンですので、人の褒められることを言うことなど簡単ですが』と書いてたので初めてあなたが営業マンであったことを知りました。
あなたには営業マンは全く合ってないですね。非常に苦労したのではないですか?あなたは人の話をちゃんと聞くことができないので、相当成績は悪かったと思います。自分が売り込む商品のことを滔々と述べて、相手に対して表面的なおべんちゃらと笑顔を作っておけば売れると思っていたでしょう。
苦労しましたね。
今の奥さんとはどうしてもいっしょになりたかったのでしょう。
そんな感じがします。
これ以上は控えますが、私は別にあなたが離婚経験者だからと言って偏見なんか持ちませんよ。
私は実社会でも相談されることが多いですが、別れた方がいい例というのはごまんとあります。
日本独特の仏教のせいで『私は私以外のすべての人たちのおかげ様で生かされている』『すべては周囲の人やもののおかげ様で生きている、ありがたいありがたい。』などという思想が蔓延っていますから、どんなDVでも耐え忍んでいる人も多いのです。
馬鹿馬鹿しいことです。

ですから、私は離婚した人に偏見なんか持っていませんよ。
安心してください(笑)

 

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<<阿羅漢の「宿命通」は、平等の智慧を欠いた無明による妄想、虚妄分別である。>>

何いつまでもいつまでもネチネチとついて回ってるのですか(笑)馬鹿馬鹿しい。
花まつりさんが『まさか三種の明智に目覚めたのでは? ( ^_^)/~~~』と言ったのは、いつものジョーク、軽口、ギャグですよ。
このスレを見る人の誰も、私があなたの再婚やフランス優勝を推測したからと言って阿羅漢の神通力なんて思ってもないですよ。花まつりさんのギャグだとわかっています。
それをあなた一人がいつまでも、阿羅漢は駄目だとか、阿羅漢の宿命通は無明だとか、必死で打ち消しているのです。

誰もが社会生活していると、予測したり推測したりしますね。その延長線に過ぎません。
当たるときもあれば外れる時もある、ただの推測ですよ。
人を採用するときは、たった10分かの面接でその人の本質を見るようにしないといけないですよね。重要な交渉の時は、初めて会う人の人となりや望んでいること望んでいないことなどを短時間で見抜かないと有利な交渉はできないですね。
そういう日常の訓練によって人や物事を推測する癖がついているというだけです。
当然、当たるときも外れる時もあるでしょう。

阿羅漢とは何の関係もないですよ(笑)

あなたは禅をやってると言ってましたが、禅の実地は全くできてないですね。
ここまで一つの言葉について回るとは、禅の境地とは真逆です。
それは、あなたの中の妄想、ドロドロした自我が何も見られることなく触れられることもなくどんどん溜まっていっているからです。
このスレに来た人の中で闇を感じる人は2人いますが、あなたはその一人です。
闇を持っている人の特徴はネチネチしていることです。さっぱりしていない。
いつまでも言われたことを根に持ってそれを反復増殖させていくのです。

禅をやっているのであれば、過去はスパスパ断ち切ることから始めないと闇は大きくなりますよ。

 

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<<終点のあるのが阿羅漢。終点がないのが菩薩。>>
<<菩薩という「終わりなき旅」>>

あなたは大乗仏教の本質も分かってないですね。
永遠に菩薩が菩薩のまま修行するというようなことが書かれている大乗仏典があるのですか?
菩薩は仏になるために修行しているのです。

法蔵菩薩法蔵菩薩のまま永遠に修行しているのですか?
違いますね。
法蔵菩薩阿弥陀仏になりましたね。

法蔵菩薩は、四十八願が成就されないうちは仏とならないという誓願を立てました。
そして、阿弥陀仏になりました。
法蔵菩薩阿弥陀仏になったということは四十八願が成就されている、衆生の往生は決定している、というのが浄土教の根本です。

あなたのいうように法蔵菩薩が永遠に法蔵菩薩のまま終わりのない旅をしていたら
浄土教は生まれてないですね。

 

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世親は『浄土論』(『無量寿経優婆提舎願生偈』)において、大乗仏教の根幹にあるのは「厭離穢土欣求浄土」の思想であることを明らかにしました。
中国浄土教の始祖である曇鸞は、『浄土論』の注釈書である『浄土論註』(『無量寿経優婆提舎願生偈註』)をあらわしました。

浄土教はその最初から、「厭離穢土欣求浄土」の二元論が基本になっています。

天台本覚思想の影響を受けた親鸞が、絶対一元論に傾いた感じはしますが
それまでの浄土教は二元論が基本ですね。

 

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<<縁という要因は無数(無量)であって、因果律を知り得ることはできないのである。因果不可得である。>>

この際だから、あなたの書いていることは歴史上の仏陀の言っていることと全く違うということを指摘しておくね。
今後、仏陀が言ったことでもないことを得々とこのスレで言わないように。
仏陀の法でない偽は、他のスレで思う存分してください。
このスレで言わなければ、あなたが何を言おうと何の興味もないので、他で書いてください。


縁起の根本的な方程式は
『これあればかれあり、これ生ずるが故にかれ生ず、これなければかれなし、これ滅するが故にかれ滅す』
です。
かれが縁りて生ずるもの、これが縁です。
『苦の消滅』を目指していた仏陀はこの方程式を発見しこの方程式を『苦』に当てはめて『苦の消滅』へと至ったのです。
それが十二縁起です。
ですから、仏陀の言った『縁起』とは苦の縁って起こる原因のこと。
その原因をなくせば『苦』がなくなるということを発見したのです。
縁起の法とは十二縁起のことです。

あなたのいうように「縁という要因は無数である」ならば、それを滅することはできなくなりますね。仏陀は『縁の滅を知った』ので解脱したのですよ。
あなたのいうように「因果律を知り得ることはできないのである。因果不可得である」のであるならば、苦の消滅を明らかにすることもできないし、仏陀が解脱に至ることもできなくなりますよ。

 

~~~~~~

 

 

あなた、自分の投稿の間違いをここまで指摘されて、それに対して一度も真摯に答えませんね。

今回はあなたの<<縁の要因は無数>><<因果律を知ることはできない>><<菩薩は菩薩として終点なく永遠に修行する>>という主張について、ちゃんと根拠を示してその間違いを指摘しました。

これまでも、大乗涅槃経の仏性はあなたのいうような仏になる可能性のことではなく、仏の基体、仏の本体という意味であることを原文の典拠を示して立証しました。
スッタニパータの中で仏陀が浄と穢という二元対立を説かず不二中道を説いたというあなたの自説につきその間違いを指摘しました。

真摯な求道者であれば、自説の間違いを指摘された場合、答えられなければ間違いを認めます。
もし、その指摘が違っているのであれば、それを説明します。

あなたは私の指摘に対してことごとく答えられていません。
それはあなたが、原典を読んでいないで、仏教学者の解説書から自分の気に入った個所を寄せ集めて理解したつもりになっているだけなので、原始仏典にしても大乗仏典にしても原典を示されると何も言えなくなってしまうのです。
普通の誠実な人であれば、自分が間違っていれば謝りますが、あなたは自我が傷つくので絶対に自分の間違いを認めないのです。

あなたには、仏教に限らず哲学や思想を語る資格はありません。

もう、ここのスレには投稿しないでください。
あなたのこのスレでの投稿だけから、私にはあなたのやってきたことや人となりがわかりましたから、禁止したにもかかわらずこれ以上投稿するとあまりうれしくないことになりますよ。

あなたが他のスレに投稿するのは私には全く興味がなく止めることもしません。
あなたが作ったスレだけに投稿すれば、みんなが幸せになるんじゃないですか。
私は私が作ったスレッドにしか投稿していません。

 

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<<その妄想をあるかのように装うのは、偉そうにしたい阿羅漢の権威付けだろう>>
<<阿羅漢は自我の執着が取れていないただの凡夫さ。ただの凡夫が恰好つけているだけ。>>
<<阿羅漢の天眼通が無量のゴミ>>
<<阿羅漢の天眼はなんとまあゴミみたいなことだろう>>

釈尊の在世時、阿羅漢とは釈尊のこと。

また、法華経などの大乗仏典でも頻繁に出る『仏の十号』のうち
応供は阿羅漢を漢訳した名号。
つまり、仏=応供=阿羅漢

釈尊をあらわす名号をここまで口汚く罵るとは・・・・

 

 

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別にあなたの思想やましてや経歴に対して何の興味もありませんでしたが
ある人が『どうして和弘さんはわざわざ奥さんと仲がいいことをアピールするんだろう』という意味のことを書いていたので、ふと思い当たることがあったのです。

それは、取引業者の男性社員で、前の奥さんと別れて10歳年下の女性と再婚したらしく、新しい奥さんと仲がいいことを周囲にさかんに言いふらしていたらしいのです。
自分よりずっと若い女性と結婚できたことが、その人にとっては自慢だったらしくて、新しい奥さんといっしょになれたことがうれしくて仕方ないようでした。
それを思い出したのです。

だから、ある人に私は唐突に『和弘さんは奥さんとは再婚ですか?なんとなくそういう気がするのですが。』と聞いたのです。
そうすると、前によくそういう投稿を自らしていたということでした。

あなたは、新しい若い女性といっしょになれたことがうれしくてたまらず、それを掲示板でさかんにアピールしていたのでしょう。

自分が知ってほしくて仕方なかっただけじゃないですか。

 

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<<二元対立の取捨分別の強い方で、真実を観察することできない 心の汚れた悲しい人だ。>>

そうそう。その通り。弱い善人なんかなる気は全くないので。

『法律についてのひとりごと』という私のスレでもさかんに言ってるように
私はずるくて人を騙す人間や搾取する人間、人を傷つける人間、人の幸せをぶち壊そうとする人間が大嫌いなので。

この世は、声の大きな奴や人を騙そうという連中によって、善良で法律に無知な人たちが虐げられているのが現状。

掲示板のアラシも大嫌い。
あなたの投稿歴を見てみたが
あなたは、このスレだけでなく『坐禅』というスレにも毎日いちゃもんをつけているね。

どうしてそういうことをする?
坐禅』というスレは、とりさんという方がスレ主のようで、スレ主も禅に真摯に取り組んでこられた方のようで、水月さんという穏やかな投稿者も、質の高い投稿をされていて
そういう人たちでそのスレのレベルが高く保たれているのに
なぜ、数少ない優良なスレッドに限って、あなたはぶち壊そうとする?

 

~~~~~

 

<<ここのトピ主さまが、これほどまでに低次元の方とは思わなかった。驚いている。>>

あなたのようなずるい人間、優良スレッドに対して敵愾心をもってぶっ壊そうとする人間に対しては、それを排除するためにどんな手段もとるよ。

善人は『善人に見られたい』という欲望があるのであなたのような悪に対してマナーのいいことしか言えない。
私は別に善人に見られたいとは思わない。
とにかく、あなたのような卑怯な人間が嫌い。

私は、株式の時からヤフー掲示板でスレ主が優秀でとてもいいスレッドが荒らされなくなってしまったのを無数に見ている。

あなたのような悪いのあるものが平気でのさばり、優良なスレッドは全滅してしまう。

株式の掲示板では、優秀な人はほとんどTwitterに行ってしまった。

ヤフー掲示板の一番の弱点はアラシに全く弱いこと、防御できないこと。

あなたのような人間がいる限り、優良なスレはなくなるよ。

 

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いや、この世は、善人が強くならなくてはいけない。

悪人がなぜのさばるか、というと道徳やマナーなどの縛りがないから。
善人は善人であろうとするので、悪人にいいように蹂躙される。

 

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いや、あなたはどんな本を読んでも何の意味もない。自分の勝手な観念を強めようとしているだけだから。

自分の心を洞察しなくてはいけない。

自分の過去も洞察して観なくてはいけない。

あなたのしてきたことを自分で見てみれば、あなたが他人のスレッドで説教しまくっている文章を自分が本当に書けるかどうか、すぐにわかるはず。
普通に自分を客観的に見ることができる人なら、恥ずかしくて書けないでしょうね。

 

~~~~~~

 

あなたの投稿歴を見てみたが、あなたは、このスレだけでなく『坐禅』というスレにも毎日いちゃもんをつけているね。
どうしてそういうことをする?

坐禅』というスレは、とりさんという方がスレ主のようで、スレ主は禅に真摯に取り組んでこられた方のようで、水月さんという穏やかな投稿者も、質の高い投稿をされていて
そういう人たちで『坐禅』スレのレベルが高く保たれているのに
なぜ、数少ない優良なスレッドに限って、あなたはぶち壊そうとする?

これについて、返答ください。

あなたがいちゃもんをつけていた、とりさんが書かれていた良寛さんの歌に関してとりさんは全く間違ってないですね。
間違いがないのに、あなたは強引に『間違っている』といちゃもんをつけたのですから
仏教者であればとりさんに謝ったらどうですか?

 

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また、間違ってますよ。
あなたは、異常に書き間違いが多い。
妄念が多すぎて注意力が散漫なのでは?
ちゃんと坐禅でもしたほうがいいですよ。

草の庵に 足さしのべて小山田の 山田のかはづ 聞くがたのしさ (良寛
という少し違った歌にもあるように
小山田が本当。
また、
草の庵に 足さしのべて小山田の かはづの声を聞かくしよしも
と、聞かくしよしも、が本当。

 

~~~~~

 

これも違っている。
なぜ、こんなに間違いが多い?

俳句や和歌などの短詩は特に、一語一語がとんでもなく大切なのに・・・

あなたには詩の心が欠けている。

心もよ言葉も遠く届かねば はしなくも御名をとなえこそすれ  (良寛

それを『はしなき御名を唱えこそすれ』とはひどすぎる。
どういう意味か分かっているのだろうか?

 

~~~~~

 

間違いを訂正してるのだから、ちゃんと謝って訂正しなさい。

草の庵に 足さしのべて小田山の かはづの声を聞かくしもよし
 ↓↓
草の庵に 足さしのべて小山田の かはづの声を聞かくしよしも

小田山でなく、小山田

聞かくしもよし ではなく、聞かくしよしも

2つも違う。

 

 

~~~~~~

 

これも言いたくないけど

窮々至無心    窮め窮めて無心に至り

が本当では?

 

~~~~~~

 

窮め窮めて無心に至り 

【窮々至無心】が本当です。

試しに【窮々至無心】と【窮々至無窮】で検索してみてください。

あなたの【窮々至無窮】の典拠は何ですか?

 

~~~~~~

 

あなたは詩が好きなようですが、
前に盛んに宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を出していて
「みんなにデクノボーと呼ばれ ほめられもせず」を「嫌われる勇気」と関連させていましたが
あの解釈はひどかったですよ。
「デクノボー」とは嫌われ者ではありません。
「役立たず」というほどの意味で、実務能力のないことをいうのでしょう。
あの「雨ニモマケズ」の詩は、宮沢賢治の人間像そのままを描いたものだと思いますね。

そんなに実務的には役に立たなかったかもしれませんが、本気で人の心配をするいい人で
あなたのいうような嫌われ者というものとは全く違います。
「苦にもされず」です。

あなたは自分があちこちで嫌われているのを正当化しようとして、「嫌われる勇気」だとか宮沢賢治の詩だとかを引っ張り出してきますが、本質が全く違います。
デクノボーをああいう解釈しては宮沢賢治に失礼かなと思いました。

仏教についてのひとりごと 120

Yahoo掲示板は、株式版以降、どんな投稿に対しても真摯に返信することを心掛けてきましたが
それに縛られていると時間がいくらあっても足りなくなり
そもそものライフワークが遅々として進まないことになってしまいました。
真摯でない迷惑投稿に対しても返信するという自分の中の縛りをなくしてしまったら
とても楽になって、時間も非常に有効に使えるようになりましたので
これからも投稿は時間がない時、相手が真摯でないと判断したときには返信はできないかもしれませんのでご了承ください。
知識があってもなくても本当に道を求めて探求する意志がある人なら歓迎しますが
知識もなく向上心もなくただ自分の考えと違うので攻撃したいという人との関わりは時間の無駄に終わってしまいます。

さて、あなたの投稿に関しては、前にあなたは一方的にスッタニパータのあなたの解釈を並べ立てて『ショーシャンクさんの解釈、認識が違っている。』とまで言ってきたのですが、
私がそのひとつひとつにつきあなたの解釈が間違っていることをすべて指摘しました。
それに対して、あなたから何の回答もありませんでした。
『大乗涅槃経』に関してもそうでした。
あなたは、一方的に私に対して論戦を仕掛けてくるのですが、私があなたの間違いを典拠を示して指摘するとそれに対して答えないのです。
答えられなくなると、スルーしてしまい、やっと間違いを認めて投稿しなくなるだろうと喜んでいたら
しらっと全く別のことで自説を展開していく、というあなたのその姿勢、精神に失望しているのです。

毎回、他人のスレッドに喧嘩腰で投稿してきますが、それであれば、こちらの指摘に逃げずにちゃんと正面から答えていくことはできますか?

あなたの過去投稿を今見てみましたが、どうもあなたは、会話のキャッチボールができないのではないかと思える節があります。
ひょっとすると、日常生活でも、会話や対話がスムースにいかないタイプではないですか?

 

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<<「お釈迦さま」とは「釈迦族さま」となってよろしくない。仏教徒ならば、釈迦族の尊者「釈尊」でというべきはなかろうか。>>

前にしまとりさんに対して、私は『こだわりはありませんが、属性を離れた仏陀に対して、釈迦も釈尊釈迦族という属性の呼び方は違和感があるので、私は仏陀と言うことが多いです』と答えています。
釈尊釈迦族の尊者ということですから属性で呼ぶことには変わりなく、仏陀というのが最も適切でしょうね。それほどこだわりませんが。


<<仏教徒ならば、釈迦族の尊者「釈尊」でというべきはなかろうか。>>

あなたは自分の過去投稿で『わたしは仏教徒ではありません』と言ってますね。
そういいながら仏教徒はこうあらねばならぬというのはどうなのですか?
整合性がないですね。


<<その「お釈迦さま」大好きのショーシャンクさんが、「龍樹の空仮中など仏教ではない」
「無我も仏教ではない」と仰せだが、仏教の旗印とは何か?>>

あなたのその独特な嫌味な言い方が本当に慈悲から来ていると思っていますか?
誰かが私を褒めた時に、あなたは不快になるはずです。その不快感が嫌らしい言い方をさせるのです。
あなたは、その心の動きを如実に見なければ、いくら龍樹の観念を強めたところで何にもなりませんよ。ただ、ドロドロした自我がより強まっているだけです。

 

 

~~~~~~

 

 

<<「龍樹の空仮中など仏教ではない」「無我も仏教ではない」と仰せだが>>

私が言っているのはこうです。
仏教は仏陀の真意を伝えていない。仏陀の真意からかけ離れている。
歴史上の堆積物で埋もれている。
仏陀が言ったのは諸法無我ではなくて、諸法非我である。
『無常』『苦』『無我』が仏教の根幹だと言われてきたが
仏陀が繰り返し言ったのは
『無常であり苦であるものを、われ、わがもの、わが本体と言っていいであろうか』です。
この言葉は原始仏典に繰り返し数多く出てきます。
この言葉が根幹です。

<<「縁起であるところのものを、すべてわれわれは空と説く」(中論)。>>

縁起だから空、などとは仏陀は一言も言っていません。
縁起だから空、縁起だから実体がない、と言ったのは龍樹です。
仏陀が言ったのであれば、どこで言ってるか示してくださいと私は何度もあなたに言いましたが
今に至るまで答えがありません。
答えられないのに、あなたはまた同じ主張をするのです。

日本仏教は龍樹が基になっています。八宗の祖ですから。
あなたが龍樹を信じるのはいいことです。
龍樹を信じることで救われるのであれば大いに信じてください。
私は、龍樹が正しいとか間違っていると言っているわけではないのです。
歴史上の仏陀の言ったこととは全く違うということを言っているだけです。
仏陀が正しくて龍樹が間違いと言うことを言っているわけではありません。
歴史上の仏陀は本当は何を言ったかが探求テーマですから
縁起だから空、とか、縁起だから中道、などとは仏陀は言っていないということだけです。
仏陀の言った中道とは八正道のことです。

 

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<<戒・定・慧の三学は仏教の旗印(たてまえ)であり「修道方法」である。
「戒より始めよ」であり、戒は三学にはなくてはならないものである。>>

あなたの主張は支離滅裂なのです。
あなたは親鸞をよく肯定的に引用しますね。
法然親鸞も『末法無戒』、つまり末法においては戒律は意味をなさない、という考えが基本です。
そして、親鸞は肉食妻帯しましたね。
親鸞を尊敬するのであれば『戒律なんて無意味』という前提に立たなければいけません。
また、阿弥陀仏を信じればどのような破戒も許されるということです。
法然はここにおいて改革者だったのです。
あなたはどういう立場なのですか?戒律を少しは意味あると思ってますか、無意味と思ってますか?
<<戒を前提とした「凡夫の自覚」であり、旗印の戒を蔑ろのしていないのである。>>というのであれば、法然親鸞は受け入れられないはずです。
あなたの論理はぐちゃぐちゃなのです。

あと、どうでもいいことですが、『戒より始めよ』はジョークですよね?この質問を見てすぐウィキペディアを見そうですが、さすがにジョークと言ってほしいですね(笑)

 

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私も別に、ゴータマ・シッダッタとわかればいいと思ってますよ。

ただ『仏教徒釈尊と呼ぶべきだ』という人がいて困るのですが。

仏陀自身は、『目覚めた人=仏陀』と呼ぶべきとは言ったような気がしますが
釈迦族の尊者』と呼べとは絶対言わなかったですね。
釈迦族』を出すこと自体、仏陀の本質が分かってないと思います。

 

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<<若い頃、絵画において、自分の深層を探っていて、ドロドロしたものに堪えられなくなり逃げた。
そして、ドロドロした自分を覆い隠すように、50号のカンバスを青一色に塗りつぶし、ただ、同系色の球体を五つ描いた。その絵は装飾品となり居間の壁にかけてある。>>

 

これ読んでぞっとしました。そして心配になっています。
自分が描く絵は、自分の心象風景です。
高校のとき、美術の授業で、とても絵の上手な同級生がいました。
その絵は上手ではあったのですが、とんでもなく暗かったのです。
なぜそんな暗い絵を描くのか不思議でした。
その同級生は10年後に自殺しました。
実生活で同じような事例をもう1件知っています。
自分が描く絵はその人の心象風景だと私はそういう体験から思っています。
ネットで知る情報でも、その人の精神状態とその人の描く絵は密接に関連していることがわかります。

口で言う言葉や、文章などはいくらでも綺麗ごとは言えるのですが
描く絵や共鳴する音楽などは、かなり正確にその人の精神を表わすと思っています。

私が見る限りでは、あなたはちょっと危うい感じがします。
自分のドロドロした自我を見ることなくして、ただ龍樹の観念論で
『自我を粉骨解体する』と言って、敵対視しているからです。
何もわからずやみくもに自我を否定していけば、その自我は悲鳴を上げて自己主張し出します。
あなたにとって、龍樹の哲学が本当に為になるのか非常に疑問です。

 

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赤い実さん、こんばんは。

前にも、たしかaokさんでしたかの投稿にそういうことが書いてあり、レスしました。
私は、仏教徒が他の宗教を外道というのには反対で、それこそ、仏教が仏陀の真意からかけ離れた原因の一つだと思っています。
バラモン教仏陀の関係は、ユダヤ教とキリストの関係と似ています。
仏陀バラモン教を否定しておらず、キリストはユダヤ教を否定していません。
というより、ほとんどその影響下にあります。

仏教なら仏教という一つの派閥を作ってしまうとそれは人間の精神にとって牢獄となります。
これが世界中に宗教戦争を引き起こしている原因です。

私は、仏陀を人類の教師の一人と思っており、仏教の開祖として崇めているわけではありません。
キリストも人類の教師の一人です。

ですから、このカテのどの人とも立場が違います。

私が今まで宗祖などを否定していたのは、歴史上の仏陀の教えと違うということを知ってほしかったからです。
いまは、仏陀の真意がわかってきたので、仏教の全否定から仏教の全肯定に進みつつあります。
親鸞の教えも仏陀とは違うものですが、その教えで救われるのであればどんどん信じればいいと思います。
どの教えも筏にしか過ぎませんから。

無限の大海に達するのであればどの筏も正解です。
大海に達する前に、排他主義は消え失せなければならないでしょうね。

 

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和弘氏の経歴については全く知らないのですが、奥さんとは再婚ですか?何となくそう思ったのですが。

私のスレは、和弘氏以外にもmultitude氏やmic氏の訪問を受けましたが
multitude氏やmic氏には、闇の部分やドロドロしたところをあまり感じないのですが
和弘氏には少し感じることがあります。
そう感じていた時に絵の投稿が出て、少し心配になってきました。

 

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わかりました。ありがとうございます。

和弘氏は、このスレに投稿していながら私に対しては返信してきません。
負ける論争は逃げる人なのでしょう。
こういうところが、自分の中のドロドロした自我を固く守っていると感じられるところです。
本人はそれに気が付いていないのです。

自我を見ることなしに、『粉骨解体』なんて敵視するものだから
和弘氏の中のドロドロした自我が悲鳴を上げて存在を主張しているのです。
このまま進むとどんどん自我が膨張していくと思います。

今日もあそこまで私を名指ししてきたのですから、正面から対話するべきだと思いますけどね。

やはり再婚でしたか。新しい奥さんは10歳くらい年下ではないですか。
あとは本人に聞ければ聞いてみます。
ありがとうございます。

 

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仏教についてのひとりごと 119

<<四念処観を調べたところ、身念処(身念住) - 身体の不浄を観ずる(不浄観)
受念処(受念住) - 一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦)心念処(心念住) - 心の無常を観ずる(諸行無常)法念処(法念住) - 法の無我(いかなる事象も自分に非ず)を観ずる(諸法無我)これでいいでしょうか。>>

 

はい。私は四念処観をそのように理解してます。自分に非ずなので、諸法無我のところは諸法非我にしてますが。

ただ、念=sati に関しては、テーラワーダ仏教では『気づき』というように捉えていますので、私のしている観法とは違うと思います。これはpipitさんが詳しいと思います。

 

<<想念をフルに使わねばならない現状におられるのでしたら、想念に気づくことは難しいというより、常に気づいているのではないのですか?>>

 

仕事の交渉のときなどは、想念に没頭しています。つまり、想念に自己同化して気づいていない状態ですね。私の場合は。

 

 

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<<釈迦の世界って、矢もない、激流もないところ、なんじゃないですか。>>


釈迦の到達した世界はそうでしょうね。
釈迦が残した筏によって激流を渡りたいということです。

 

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<<あなたは、まぎれもないあなたを持ってますか?精神の無量は、そんなあなたがもってるものじゃないでしょうか>>

 

私の理解では、精神の無量はわたしは持っていません。
わたしがあるか、無量があるか、どちらかです。

 

<<無の境地 それは禅のマインド。 これが真の調和。坐禅はたとえ座ってなくても座ってるつもりでということ    禅のマインドとは、「いますでにこれでよし」と素朴におもえることから、説かれるんじゃねーかな>>

 

禅については私は門外漢なので、無の境地というものが本当にあるのかはわかりません。

 

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<<その無我を宮沢賢治は、『雨ニモマケズ』の最後に、「デクノボウといわれ…」と表現した。「デクノボウ」と言われるくらいでなければ、「仏の本願」は達成できないのである。>>

 

あなたは何でも自分勝手に都合のいいところだけ切り取って自己正当化しています。
この宮沢賢治でもそうです。

この『デクノボー』のところはこうです。
・・・・
ひでりのときはなみだをながし
さむさのなつはオロオロあるき
みんなにデクノボーとよばれ
ほめられもせず
くにもされず
そういうものに
わたしはなりたい
・・・・

『みんなにデクノボーとよばれ ほめられもせず』の後に
『苦にもされず』が来るのです。

あなたはやめてほしいと言われても、他人のスレに大量に迷惑投稿してます。
苦にされているではないですか。

宮沢賢治の『くにもされず そういうものに わたしはなりたい』をよく読んでください。

 

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<<貴方が苦にして苦を作っているということです。>>

 

スレッドは、スレ主が『こういうスレを作りたい』『こういう話題をしたい』という願いでできています。
それはわかりますよね?
つまり、各スレには、スレ主のコンセプトがあるのです。

ところが、心無い者たちのアラシによって、数多くのスレッドが荒らされ廃れていきました。
そうしたくないのは、スレ主の共通の願いですし、そのスレに共感する人の願いですね。

あなたには自分で作ったスレッドがあると聞きました。また、なければ自分でスレを作ればいいだけです。

ここで聞きますが、あなたは何故、嫌がられても他人のスレッドに投稿しなければいけないのですか?
なぜ、自分のスレッドに投稿しないのですか?
その理由をお聞かせください。

 

 

~~~~~~

 

<<ハイ!「仏教についてのひとりごと」ですね。>>


それは、スレの題名であって、コンセプトではないです。
コンセプトの意味が分からないですか?

質問に答えてください。
あなたはなぜ自分で作ったスレには投稿しないのですか?

 

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hanaさん、はじめまして。

そうなんですよね。
仏教の言葉を悪用して、自己の正当化をしているのです。
その自分の中の自我を見るのが仏教だと思うのですが、
困ったものです。

 

~~~~~~

 

ありがとうございます。
悪意のない方であれば、知識とか関係なくどなたでも歓迎です。

そうですか。
hanaさんのスレッドも荒らされたことがあるのですね。
自分のスレッドにはスレ主の想いや願いが込められていますから
荒らされるのは嫌なものですよね。
よくわかります。

 

~~~~~~

 

<<仏教は釈迦の教えと聞いています。そうであれば この際 大乗仏教は仏教から独立して他宗教として存立する方がお互いに良いのでは。>>

 

そうですね。確かにそう思います。
歴史上の仏陀の言ったことと矛盾する教えはそうしたほうがいいでしょうね。
大乗仏教が仏教というからには、少なくとも帰依仏の仏は仏陀であってほしいですね。

 

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pipitさん
お久しぶりです。

pipitさんに教えていただいたパーリ語原典サイトで大きく進むことができましたので
pipitさんには本当に感謝しています。
いま、原典サイトにアクセスできないのですが、pipitさんはアクセスできていますか。

私は自分なりにつかめてきましたので、掲示板はそろそろいいかな、という感じです。
それよりも、自費出版の原稿のほうに時間を注ぎこみたいところです。
株式版からの姿勢で、投稿があったらレス必ずしていましたので
時間がそれに取られすぎる面があります。

<<私も私で、がんばりたいです。>>
pipitさんはとても真摯ですので、ぜひ頑張ってくださいね。

 

~~~~~

 

<<それは、釈迦の教えですか。>>

いえ。私がそう思っています。

 

<<「激流から逃げる」というのが違うように感じた>>
<<激流は起きないと思います。実践しているなら。>>

ですから、『激流』の意味するものがあなたと私では違うと思います。
『激流から逃げてはいけない』と誰かが言ったので
私の思う激流は逃げようと思って簡単に逃げられるようなものではないことを言ったのです。

あなたの意味する『激流』とは何ですか?
それは、実践したらすぐなくなるものなのですか?
そして『激流から逃げてはいけない』と言えるくらい簡単に逃げられるものなのですか?

 

~~~~~~

 

こういう流れです

<<激流から逃げたら、何の解決にもなりません。>>
    ⇓⇓⇓
精進しない限り、逃れられないくらいの激流なのですよ。
<<激流から逃げたら、何の解決にもなりません。>>というようなものではないのです。
そして島や洲を作って、その激流から逃れろということなのですよ。
    ⇓⇓⇓
<<その状況から逃げるようなことでしょうかね。妄想して誤魔化すとか?
言い訳するとか、自己正当化するとか。>>
    ⇓⇓⇓
その妄想、自己正当化、こそが激流の流れなのです。
ですから、妄想してごまかすとか自己正当化するとかは、まさに激流の中にいることなのです。

 

~~~~~~

 

<<あなたは釈迦の言葉を研究し、大乗仏教の間違いを指摘する本を出すことを目的としていて、修行する気はないのですか?>>

大乗仏教の間違いを指摘する本を出すことを目的とはしていません。
歴史上の仏陀の本当に言いたかったことは何だろうか、ということです。

<<修行する気はないのですか?>>
この意味が分かりません。
もし、このスレを読んでいるのであれば、十二縁起の瞑想をしている、四念処観をしている、と書いていますが・・・

 

~~~~~

 

その妄想、自己正当化、こそが激流の流れなのです。
ですから、妄想してごまかすとか自己正当化するとかは、まさに激流の中にいることなのです。
  ⇑⇑⇑
無量から引き離そうとする、肉体の感覚、五官、記憶、イメージ、妄想、観念・・・・
そのすべてを私は『激流』と言っているのです。

これも、前に書いたことです。

 

~~~~~

 

<<精進すれば、激流は起きなくなりますよ。>>

島を作るのは、激流があるからです。
生きている間、激流はあります。
肉体の感覚があり、思考がありますから、いつも押し流される危険はあるのです。

ただ、これは見解の違いですし、私の考えに合わせていただこうという気は全くありません。
私が勝手に思っているだけですから。

本も誰でも出せる自費出版ですし、読む人は全くいなくても、死後残しておきたいという自己満足だけのことです。大層なことではありません。
よく、自分史を出す人がいますが、それのようなものです。

 

~~~~~

 

<<釈迦の言葉ではく、自分の見解だということですね。ありがとうございました。
本が出版できることを祈っています。>>

ありがとうございます。

<<激流がない時には、島もないということですか?「自分」か「無量」かどちらかだと仰っていたのは。>>

激流は五蘊が集まったときに、つまり肉体を持ってから、いつも流れています。
そのままだと流されてしまうので、法の島を作れと言ったのです。
これも私のただの考えです。
自分というのは五蘊の集まりです。
あるいは、五蘊の集まりを自分と考えている観念です。(感覚も含めて)

こういう意味で、自分か、無量か、です。

 

~~~~~

 

<<精進すれば、激流は起きなくなりますよ>>
<<激流そのものが「自洲」なんじゃないでしょうか。>>
<<激流から逃れたいために作った島は、激流の影響を受けていると思います。激流の続きというか、激流の一部というか。そうじゃなくて、激流を見定めたところにあるものじゃないですか。>>

前も言いましたが、私の考えている『激流』とあなたの考えている『激流』は全く違うものだと思います。
あなたの上のことばがそう示しています。
①<<精進すれば、激流は起きなくなりますよ>>
私は精進しても激流は生きている限りあるという『激流』を想定してます。

②<<激流そのものが「自洲」なんじゃないでしょうか。>>
自洲は激流の中に作られるものと思ってますから、私は激流そのものが『自洲』ではないと思っています。

③<<激流から逃れたいために作った島は、激流の影響を受けていると思います。激流の続きというか、激流の一部というか。そうじゃなくて、激流を見定めたところにあるものじゃないですか。>>
激流も洲(島)もどちらも仏陀が使った比喩ですので、そのものを指しているわけではありませんが
私は、洲(島)は、激流に押し流されないための避難場所を作れ、と言ったのだと解釈しています。

ただ、他の人が全然別の意味で、激流も洲(島)も捉えたとしても、それはそれでいいのではないでしょうか。
ただ一つ言えるのは、私は、洲(島)は、激流に押し流されないための避難場所を作れ、と言ったのだと解釈しているということだけです。
間違ってるかもしれませんし合っているかもしれませんが、私はそう思っているというだけです。

 

~~~~~

 

世の欲望と嫌悪を制御している『自分』を
四念処観によって整えられている『自分』を
島(洲)とせよ。
ということだと思いますが。

つまり、、四念処観によって整えられた自分を、そして四念処観という法を
激流の避難場所とせよ・・・ということだと思っています。

 

~~~~~~

 

肉体の感覚もすべて、分離、限定へと押し流す激流ですから
肉体を持っている間は激流はあると考えています。

修行が進むと、洲にいる時間が多くなるのではないでしょうか。

 

~~~~~~

 

妄想を継ぎ足すことや、連想することが少なくなるので
おっしゃるように激流は弱まるかもしれません。
肉体の感覚はそのままですので、目の前の激流はいつもあるとは思います。

 

~~~~~~

 

島も喩えですが
彼岸という喩えもあります。
それは激流を渡り終えたところの比喩です。

ただ、激流がなくなる比喩は知りません。

 

~~~~~~

 

自燈明法燈明は、仏陀が亡くなる前の説法です。

たぶん、他者をよりどころとするな、ということの強調でもあったと思います。

 

~~~~~~

 

この『仏教についてのひとりごと』スレッドを立ち上げて1年以上が経過しました。
その間、数多くの人に閲覧いただき、また多くの人の訪問を受けました。
感謝いたします。

最初から掲示板では投稿があったり質問があったら必ず返信してきたのですが
このままではいつになってもライフワークの自費出版の原稿ができません。
人生の時間は限られています。
今後はライフワークを最優先にしていきますので、投稿していただいても返信できないことも多くあると思います。
ご了承ください。
株式版以来、どんな質問にも必ず真摯に答えてきましたので、残念ですが。

この哲学や東哲カテゴリーには、仏教の知識があり、時間があり、そして人に教えてあげたい親切な人が沢山おられますので、仏教に関して聞きたいことがあればそういう人たちに聞いていただければ助かります。

もう時間がないので今年は無理となりましたが、来年あたりに自費出版できたとしても、このスレに自費出版の報告や宣伝は一切しません。
こういうものは縁のある人に自然に渡るものだと思いますので。

もちろん、全く掲示板に投稿しないわけではなく、ライフワークを最優先にして、余った時間でできる範囲で、としたいと思います。
質問には絶対に答えなければならないという自分の縛りをなくして
ライフワークのほうにより多くの時間を振り分けたいと思っています。
ご理解ください。

仏教についてのひとりごと 118

<<釈尊の最後の言葉を紀野一義先生は、「比丘らよ、汝らに告げよう。こころ(サンカーラ・行)は移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ」と訳しましたが、私はそれに賛同しています。>>

 

さて、問題の仏陀最後の言葉は
vayadhammā saṅkhārā  appamādena sampādetha
です。

 

vayadhammā = 衰滅の法  衰滅の性質を持つ
saṅkhārā = 行  事象  すべてのものごと 
appamādena = 精励  努め励むこと 不放逸
sampādetha  = 行ず  成功する  成就する

 

これを中村元は『 もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修行を完成なさい。』と訳しました。

 

私が直訳するとしたら『すべてのものごとは衰滅するものである。不放逸によって行じなさい。』です。

 

このパーリ語の原文から、どうしたら
『こころは移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ。』になるでしょうか。
絶対になりません。

 

<<中国人って「インドの言葉を中国語に訳して、またそれを日本語に訳した仏道の翻訳家達」の誰かの事だと思う。>>


パーリ語から日本語に直接訳しても、上記の意味です。
紀野一義の訳は全くの間違いです。

 

<<釈尊は、「行」を重んじ、「行」そのものとして生きよ、決して知識としてとらえるな言われたという見解に、私は賛同しています。>>


行じることを重んじたから『 怠ることなく修行を完成なさい』と言ったのです。

 

 

~~~~~~

 

和弘という人も、他のスレッドでやってほしいんですよね。
私のこのスレッドで、仏陀の言葉をトンデモ解説されると、どうしても反論してしまいます。
もう、あまりにも仏陀の真意からかけ離れすぎているので、指摘するのも疲れてきました。

他のスレッドでいくら何を言っても私には何の興味もないですから、他のスレでお願いしたいです。
何度もそう言っているのですが、このスレにトンデモ解説を書き込んでいきます。
何が目的なのかがわかりません。

 

~~~~~~

 

<<「激流の中に居る」事が主訴だから、その翻訳になったのかな?>>
<<これを中国人は「怠ることなく精進せよ」と訳したため、「見落とすことなくそのなかに居よ」という忠告を、あきれた努力主義、あわれむべき苦行主義に解して、「根本苦悩からの自由」を遠いものにしてしまったということです。釈尊は、「行」を重んじ、「行」そのものとして生きよ、決して知識としてとらえるな言われたという見解に、私は賛同しています。「激流の心を見落とすことなく、注意深く、見落とすことなくそのなかに居よ」あくまで行において、激流の随所においてですが、「今・ここを、深刻にならずに真剣に生きる」ことを心がけたいと思います。〈いのち〉は刹那生滅という、激流の「今・ここ」の連続なのですから、かけがえのない「今・ここ」を大切にしたいものです。>>

 

このように書いているのは、仏陀とは正反対のことです。
激流の中に居よ????ですって?とんでもないことです。

私を含めすべての人類は、激流の中に居て圧倒的な力で押し流されているのです。
だから、仏陀は【自己を島(洲)とせよ。法を島(洲)とせよ。】と教えました。
激流の中に居てはいけない、島を作ってそこに避難しなさい、ということです。

そして、【自己を島(洲)とせよ。法を島(洲)とせよ。】とは何か、と言って
それは四念処観だと示しました。

仏陀はその生涯において、人類に向かって『あなたはいま激流の中に居るんだ。すぐそこから逃げなさい、離れなさい、島を作りなさい、向こう岸に渡りなさい』と言ったのです。
そして怠ることなく、島を作って激流に流されないようにするように言ったのです。

それを、『激流に居なさい』とか『怠るなというのは苦行主義』とかいうのは
仏陀の教えと正反対の妄言だとわかりませんか?

 

 

~~~~~~

 

和弘氏にあなたのような熱烈な賛同者ができたのは喜ばしいことです。

どうか、和弘氏の立てたスレッドで、お互いに研鑽し合っていただけませんか?
和弘氏の賛同者が多く集う、意義深いスレになると思います。

私のこのスレッドには書き込みは控えていただければ大変助かります。

 

~~~~~

 

<<和弘さんの「激流の中に留まる」ということと、ショーシャンク さんの「激流から離れて、自洲法洲に避難する」というのは、結局同じことを言っているのだと思います。>>

 

それでは、『激流の中に留まらない』状態とは何なのでしょうか?

すべての人は激流の中に居ます。
わざわざ、『そのなかに居よ』と言われなくても、激流の真っただ中にいるのです。

また、saṅkhārāには心の意味はありません。
『こころは移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ』とすると
移ろっている心に居ろ、ということになり、これは仏陀の教えとは真逆です。

 

 

~~~~~~

 

<<激流から逃げたら、何の解決にもなりません。>>

 

そもそも、『激流』ということを何を指すかが、私とあなたでは全く違うようですから
言い合っても意味がありません。

たぶん、あなたや和弘氏は、『激流』を現実生活のように捉えているのでしょう。
現実から逃げるな、ということが言いたいのでしょうね。
しかし、私が言う『激流』とはそういう意味ではありません。
人類は激流から逃げられないのですよ。
逃げれるようなものと思っているのであれば、私の意味するものと全く違います。

逃げられない激流に、島を作ってそこに避難しろということです。
おし流されるなということです。

 

 

~~~~~~

 

そうですよ。
精進しない限り、逃れられないくらいの激流なのですよ。
<<激流から逃げたら、何の解決にもなりません。>>というようなものではないのです。
そして島や洲を作って、その激流から逃れろということなのですよ。

 

~~~~~~

 

<<その状況から逃げるようなことでしょうかね。妄想して誤魔化すとか?
言い訳するとか、自己正当化するとか。>>

 

その妄想、自己正当化、こそが激流の流れなのです。
ですから、妄想してごまかすとか自己正当化するとかは、まさに激流の中にいることなのです。

 

~~~~~

 

自燈明法燈明が四念処観であることは、私は、6月27日の投稿(無依さんへのレス)でこう言いました。
 ↓↓
<<誰かが「自分の心を洲(島?)とし、よりどころとせよ」と言ったような(笑)>>
仏陀は【比丘たちよ、あなた方は、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、住しなさい。】と言いました。
そして、【しからば比丘たちよ、いかに比丘は、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、住するのでしょうか。】と言って四念処観が説かれます。
ですから、自燈明法燈明とは四念処観のことで、自分の心(受想行識)をよりどころにするのとは正反対でしょうね。
 ↑↑
このレスを見て、和弘氏は自燈明法燈明が四念処観であることを知ったと思います。
ほとんどの人(特に大乗仏教の人)は、自燈明法燈明が四念処観であることは知らないと思います。

自燈明法燈明の解釈一つとってみても、仏陀が言ったこととはかけ離れて捉えられているのが現状なのです。

 

~~~~~

 

pipitさん
おはようございます。

仏陀の言葉を探求するうえで最もやってはいけないことは
大乗仏教の観念を基に仏陀の言葉を解釈しようとすることだと思っています。
私は、ずっと大乗仏教に親しんできて、多くの本も読んできました。
ですから、このスレを作ったときも多くの大乗仏教の人たちが大乗仏教の知識をレスしてくれましたが、そのすべては知っていることでした。
そのような知識を捨てるのはつらいことですが、本当の仏陀が何を言ったかを探求するためには
後世に堆積された夾雑物をまずはすべて取り除いてから、真っ新の状態で仏陀の言葉に向き合おうと思いました。

そのことは本当に良かったと思います。
いまは、仏陀の言葉のひとつひとつが大きな実感を伴って迫ってきます。
観念で捉えていたら絶対にわからないことでした。

有名な仏教学者も、大乗仏教の知識で、仏陀の言葉を無理やり解釈している人があまりにも多く、仏陀の真意からかけ離れたものになっているのです。

 

~~~~~~

 

<<私のトピにも、本当にもうどうしようもない人が生息しています。>>

株の掲示板のときもアラシはいるにはいましたが、哲学カテは確信犯が多いですからやっかいですね。

和弘氏の目的がわかりません。
私は株の掲示板の時から、レスがあればどんなに忙しくても必ず返信してきましたので、その姿勢は崩したくなかったのです。

この前も、和弘氏が禅の十牛図山田無文の本の内容をこのスレに貼っていましたので
十牛図が懐かしくなって、
十牛図、懐かしいですね。高校の時に、十牛図が面白くて嵌りました。最近は、全く見てないですが、私が学生の時に到達した結論は、第一図⇒第七図 は修行の段階を表しますが第八図・第九図・第十図は段階で捉えてはならず、第八図・第九図・第十図の3つの図でひとつなのです。』とレスしたのですが、この投稿にはレスありませんでした。

和弘氏は、対話をして理解を深めようという気はなく。自説をあちこちで貼って、多くの人に読んでほしいだけなのかなと思いました。
それで私のスレを埋め尽くされるのも迷惑な話です。

 

~~~~~~

 

<<「自洲法洲」の「自洲」は、「自分の心」のことではなく、自己(今・ここ ではないもの)のことであるということかな。>>

仏陀は、心(受想行識)は非我と言っていますので、自分の心をよりどころにしてはいけないと思います。

四念処観の念(sati)につきましては、『気づく』という瞑想法が主流になってきていますね。

私は『無常・苦・非我・不浄』を観じるという方法の四念処観をしていますが。
(現実問題、難しい交渉事などがあると想念をフルに使わなくてはならないことが多く、私にはどうしても想念に『気づく』ことが難しいので)

 

~~~~~~

 

<<お仕事で難しい交渉事に取り組む、取り組んでいる最中、例えば、交渉で人と会話している時に想念に気づくのが難しい、ということですか?  そんなに難しいですか?>>

私の能力のせいかもしれませんが、私には難しいです。
交渉事となると、自分の利益を最大限に持っていくために様々な知識(法律や商売のほうの専門知識など)からどのような対話に持っていくかなど思考をフル動員していきますので、積極的に思考に自己同化していく感じになります。
思考のすべてに気づきながら思考をフルに駆使することが私にはできませんので
むしろ、徹底思考型の瞑想(四念処観にしても)をしています。
十二縁起も徹底思考型の瞑想です。

 

~~~~~~

 

<<あなたは、まず釈迦を目指されるのですか?>>

 

いえ。釈迦に限らず、誰か特定の人物を目指すことはしません。
精神が無量でありたいだけです。
そのためには、矢を抜かなくてはならず、釈迦の教えを矢を抜く道具、激流を渡る筏としたいと思っています。

 

 

~~~~~~

 

<<レスがなかったというのは、その話に関して「特に言いたいことはなかった」のか「同意」なのか、そんなところかなと思います。>>


絶対に同意ではないと思います(笑)
和弘氏はこのスレッドに、いきなり山田無文の『十牛図』の文章を長々と貼りました。私は山田無文の『十牛図』の本は持っていて内容も知っていますので貼られても意味のないものでした。ただ、十牛図という言葉は懐かしかったので、和弘氏が十牛図についてどんな見解を持っているのかと思い、私の解釈を書きました。しかし、それに対して全く返答もなく、十牛図を貼ることもしなくなりました。
和弘氏は禅に一番親しい感じですが、本に書かれてある解説を後生大事に貼る行為は全く禅ではないと思います。
十牛図なら十牛図公案なら公案に、自分の独自の言葉で著語しなければ禅と言えないでしょうね。和弘氏独自の著語を期待したのですがありませんでした。

 

 

~~~~~

 

 

<<私は逆に、どんな時にでも絶対に同化はしないです。 気づきが主体になっているので。>>
それは素晴らしいことです。私には無理でした。

<<私の場合はですが、あらためて十二縁起の瞑想、四念処観をする必要はないのです。>>

常にどんなときにも同化せずに気づいていられるのでしたら、あらためた瞑想は必要ないでしょうね。私は、想念に自己同化していることが多いので、徹底思考型の十二縁起の瞑想をしています。

<<そこで言われている知識については知りたいと思うのですが、なにかまどろっこしいものも正直感じてしまいます。>>

常に気づいていられるのでしたら、ここで言うところの知識は全く必要ではないと思いますよ。そういういう人にとっては、まどろっこしいものだと思います。

 

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仏教についてのひとりごと 117

<<仏教は最悪の教えだと解りました。>>

 

いいんじゃないでしょうか。
『仏教』という統一されたものも、現状、ないですよね。
浄土教、禅、法華系、真言密教上座部仏教、どれを見ても仏教すべてに共通する点など何もないですね。
信じる経典もバラバラ、信じる対象や仏もバラバラ、教義も全く違いますし
『仏教』という統一されたものがあるとは思えません。

特に私は仏教には仏陀の真意は伝わっていないと思って、歴史上の仏陀が本当に言ったことを探求していますから、小乗大乗問わず既存仏教の全否定から始めました。

仏教にとらわれず、自分に合ったものを探求していけばいいと思います。

仏陀が言った中で最も凄いことは、自分が説いたものでさえ『筏』だと言ったことです。
筏は向こう岸に渡ったら捨てるものです。陸地に上がっても筏を抱えて歩くことは馬鹿馬鹿しいことなのです。

この考え方はとにかく素晴らしい。
そして、現在の『仏教』といわれるものがなくしてしまったのも『筏』の考え方です。

 

 

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<<『十牛図』>>

十牛図、懐かしいですね。
高校の時に、十牛図が面白くて嵌りました。
最近は、全く見てないですが、
私が学生の時に到達した結論は、
第一図⇒第七図 は修行の段階を表しますが
第八図・第九図・第十図は段階で捉えてはならず、
第八図・第九図・第十図の3つの図でひとつなのです。

 

 

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仏陀がなぜあれほど『怠るな』と言ったのか、どうしてもわかりませんでしたが
最近、そのわけがはっきりと見えてきたような感じです。

無量の精神がおぼろげながらでも感じられてくると、人間というものが、肉体の感覚、五官によって毎瞬毎瞬、いかに制限され、限定され、欠乏感へと押し流されているかが見えてきます。
それはもの凄い激流であり万力のような強い力であり、引き摺り込まれる汚泥なのです。
今、この瞬間でも、無量のものから引き離そうとする力がいかに強力なものであるか、これを本当に見ると、仏陀の言う言葉の一つ一つが身に沁みてきます。

特に大乗仏教は悟りや救いの大安売りですが、『激流』を見てしまうと、そんな甘いものではないなと思ってしまいます。

 

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<<大乗の場合は、「諸行無常に渦中にある自己」を覚る。言い換えれば「激流の渦中の主体」の自覚でしょうか。>>

 

あなたは、『激流』を見ていません。ただ、本の中、掲示板の中の『激流』という言葉を『煩悩』だとか『無常』だとか『自我』だとかいう言葉に置き換えて観念で理解したつもりになっているだけです。

 

<<釈尊の最後の言葉を紀野一義先生は、「比丘らよ、汝らに告げよう。こころ(サンカーラ・行)は移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ」と訳しましたが、私はそれに賛同しています。>>

 

数々の凡庸な仏教学者が仏教なるものを仏陀の真意からかけ離れた似非仏教に仕立て上げていきました。紀野一義もそうですね。「比丘らよ、汝らに告げよう。こころ(サンカーラ・行)は移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ」などとよくそんな馬鹿な訳ができたものです。サンカーラ=行 を『こころ』と訳すのも大間違いですが、『見落とすことなくその中に居よ』???勘弁してほしいところです。
仏陀が生涯をかけてあれほど『厭離しなさい』と繰り返した意味がまるでわかっていません。

さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。
 ⇑⇑⇑
この訳はパーリ語から日本語に直接訳したもので、あなたのいうような『中国人』は関係ないですね。

 

<<これを中国人は「怠ることなく精進せよ」と訳したため、「見落とすことなくそのなかに居よ」という忠告を、あきれた努力主義、あわれむべき苦行主義に解して、「根本苦悩からの自由」を遠いものにしてしまったということです>>

 

あなたには仏陀の理解は無理のようです。
龍樹の観念論に心酔して、自分が心で捏ねくりあげた理論を無理やり原始仏典や大乗仏典の解釈に当てはめて独善的な観念を強めているだけだからです。
「怠ることなく精進せよ」をこともあろうに『あきれた努力主義、あわれむべき苦行主義』と言うとは、あなたには仏陀を語る資格もない。
八正道の6番目は正精進です。仏陀の教えの根本である精進が『あわれむべき苦行主義』???

精進を苦行というとは!!!あなたの捏ねくりあげた観念論ははっきり言って似非仏教です。

 

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<<そうした文化圏の違いの理解において、歓迎すべきものと、受容に慎重を要するものがあることは明らかである>>

 

現代になってようやく、歴史上の仏陀が本当は何を言ったかが明らかになってきています。
これは現代文献学の急速な進歩のおかげです。
仏教なるものが、歴史上の仏陀が説いたことと全く違うものになっていることはもう常識です。

『受容に慎重を要するものがある』というのは何故ですか?
仏陀が本当に言ったことがわかったらまずい人がいるのですか?
そうです。仏教にはごまんといるのです。
今まで仏陀と全く違った理論を作り上げてきた人やその人を信仰している人たちです。

仏教というのは仏陀が説いた教えですね?
仏陀が説いた教えと矛盾しているのであれば、それは仏教ではないですね。

あなたがこれほど、歴史上の仏陀が言った本当の言葉に拒否反応を示しているのは
あなたの観念体系、理論体系が崩れることを怖れているからです。

ひとつ、質問しますね。
歴史上の仏陀が言ったことと龍樹が言ったことが違っていたらどちらを取りますか?
あるいは、歴史上の仏陀が言ったことと道元が言ったことが違っていたらどちらを取りますか?
答えてください。

 

 

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仏教についてのひとりごと 116

あなたの引用する田上太秀の『涅槃経を読む』では、他にもこうあります。

『そこで経典は、仏性についてその特質を7つ挙げている。』
『1、常住であること(限りなく、いつもあること)』
『3、実在であること(事実として存在していること)』

あれ?あなたのいう『常住なものはない』『実在であるものなどない』ということと全く正反対なことが書かれていますね。
これはどうなのですか?

 

 

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田上太秀『涅槃経を読む』第3章仏性とは何か には

一切衆生のみなに仏性がある。これは我(アートマン)というべきである。
如来性品第4の4)

また、田上太秀『涅槃経を読む』第5章多彩な比喩説法を読む では

他の宗教が我(アートマン)があると説いているのは、虫が木をかじってたまたま字の形を作ったこととおなじと知らなければならない。だから、私は、仏陀の教えには我(アートマン)がないと説いたが、それは人々の心を落ち着かせるために説いたのである。
ただ、いま私は理由があって、ここで我(仏性)があると説かなければならない。

とあります。
大乗涅槃経に至って、仏教は我を全面的に認めたのです。

無常・苦・無我・不浄から常楽我浄に変わったのです。

大乗涅槃経はあなたの説と真逆です。
わざわざ出してこない方がよかったですね(笑)
無我を否定して、我を打ち出しているのですから。

 

 

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<<『涅槃経』はあくまで「空」「中道」を説きますから、常住と言っても、断滅と相対する常住ではなく、断滅と常住の相対を絶した「空・中道」としての常住です。>>

 

何でもかんでも『空』『中道』を説いたことにしたいのは、龍樹哲学一辺倒のあなたです。
涅槃経の大テーマは『常楽我浄』ですよ。
小乗の『無常・苦・無我・不浄』を『常楽我浄』に大転換したのです。

涅槃経の『仏性』の原語は『buddha-dhatu』です。
『dhatu』は基体という意味です。
ですから、『buddha-dhatu』は仏の基体です。
成仏の可能性という意味はありません。そう解釈するのは間違いです。
仏である基体、根源という意味です。

 

<<実在は実体ではありません>>


それもあなたの解釈にしか過ぎません。
実在というのは本当に存在することです。
幻ではなく、空虚なものでもなく、厳然と存在するという意味です。
実体も変化するものの根源にあって厳然と存在するものです。

 

もし、<<「実体なきところに真実の実在がある」と『涅槃経』は説きます。>>と断言できるなら、涅槃経の経文でそのように説かれているところを挙げてください。
道元の詩などでなく、経典の文言です。

 

 

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仏性(buddha-dhatu)が『成仏する可能性』『ブッダになる可能性』という意味でないことを証明しましょう。

涅槃経には
一切衆生に仏性(buddha-dhatu)があり、その基体(dhatu)は各自の身中に備わっている。
と断言しています。

その後に、『衆生は煩悩の相を尽くしてから仏となる。ただし、一闡提を除く。』とあります。

これの意味は、一闡提も基体(dhatu)は備わっているが、煩悩の覆いがあまりにも厚いため『成仏する可能性』『ブッダになる可能性』がない、という意味です。

ですから、基体(dhatu)は可能性という意味ではなく、仏性(buddha-dhatu)は『ブッダになる可能性』ではなく、仏の基体という意味であることが明らかなのです。

 

 

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<<はやい話、アートマンアートマンであっても、その中身を解体し「空性」にしているのです。いわば、「空性という法」が常住して在るということです。>>

 

それは、あなたのいつもの持論を述べたにすぎません。
大乗涅槃経のどこに、『アートマンアートマンであっても、その中身を解体し「空性」にしている。アートマンとは、「空性という法」だ。』と書いてあるのですか?
「空性という法」を我(アートマン)と呼ぶ経典作者なんていません。


『一切衆生のみなに仏性がある。これは我(アートマン)というべきである。
如来性品第4の4)』
あなたの解釈では、仏性は「ブッダになる可能性」ということですが、「ブッダになる可能性」を我(アートマン)というべきだと思う人なんていません。
あなたがこれから歌手になる可能性もゼロではなく可能性はありますが、その可能性をもって我(アートマン)とは言わないですね。
これは、仏性が仏の基体=基盤となる本体 という意味ですから、我(アートマン)といったのです。

 

 

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あなたはいつものように、答えられなくなると私のレスをスルーしますが
大乗涅槃経について、あなたの投稿に対しての反論をスルーということは
私の意見が正しいとしていいのですね。

私もあなたと論議したくもないのです。時間ももったいないので。
ただ、あなたが私がスレ主であるこのスレッドに、スレとは全く無関係な自説を大量に貼り付けるので、追い出すために、あなたの自説の間違ったところを指摘しているのです。

仏教者というのは、宗論や問答に負けたら死んだり処罰されたりもあり、少なくとも二度と自説を公に説くことはしませんでした。
それほどの覚悟をもって、自説を説いていたのです。
その覚悟がないのであれば、自分のスレッドで『ひとりごと』を言っていればいいではないですか。
私は、自分のスレッドでのみ、発言しています。
だから『ひとりごと』です。

あなたは他人のスレッドを自説の垂れ流しで荒らしているのですから、間違いを指摘されてそれに答えられないのであれば、二度と他人のスレッドを荒らさない覚悟はないといけませんよ。

仏教についてのひとりごと 115

<<そこでも満足できなかった釈尊は、そこで“師を離れ”ネーランジャ河のほとりにある森に入って、ひとり修行を深め、そこで「明けの明星」に出遭ったという。後に仏弟子たちはそれを「想滅定」と命名する>>

 

あなたが書いている仏陀の記述は嘘ですので、仏陀には触れずに、今までのように龍樹教だけを宣伝しておいてください。

仏陀は、アーラーラ・カーラーマで無所有処定(無所得有処定ではありません。あなたの間違いです。)に、ウッダカ・ラーマプッタで非想非非想処定にすばやく達しましたが
禅定は解脱に達するものではないと見切って離れたのです。

 

それからの長い苦行生活には師はいませんでしたから、<<そこで“師を離れ”ネーランジャ河のほとりにある森に入って>>というのは間違いです。

 

<<ひとり修行を深め、そこで「明けの明星」に出遭ったという。後に仏弟子たちはそれを「想滅定」と命名する>>


仏陀が明けの明星を見て悟ったというのは嘘です。成道時に滅受想定に入っていたというのも嘘です。

 

あなたは、仏陀の記述はしない方がいい。嘘が多すぎます。
龍樹や道元を解説していたらいいでしょう。

 

 

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【実体】とは、『さまざまに変化してゆく物の根底にあって持続的だと考えるもの』という意味です。

現象すべては、様々に変化していきます。
【自己】【私】というのも、一時的な現象であり、現象が集まったものを仮に【自分】と言っているのですから、実体などないでしょう。
ですが、現象の根底にあるもの、このことを言っています。

これを多くの宗教では神と言います。
現象の根底、背後に厳然としてある神を否定するのであれば
キリスト教イスラム教の全否定となります。
あなたは、キリスト教イスラム教の根本を全否定するのですね?

そして、仏陀は、そのような現象の根底にあるものを実体があるとか実体がないとか、論議することを禁じました。

あなたはその実体があるとかないとかの形而上の論議を禁じた仏陀の教えに背き、『すべてに実体はない』と断言しているのです。

 

 

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<<ハイ!全否定します。仏教も否定します。言語も否定します。人間も否定します。否定も否定します。この絶対否定において、すべての宗教をあるがままに肯定できる絶対肯定の世界が現成します。>>

 

これ、いかに馬鹿馬鹿しいことを言っているかわかりませんか?
キリスト教イスラム教、仏教、すべての宗教を全否定すると、すべての宗教をあるがままに肯定できる絶対肯定の世界が現成するのですか?
現象の背後の神というものを全否定して、なぜ『すべての宗教をあるがままに肯定』できるのですか?
キリスト教をあるがままに肯定するということは、絶対神を認め信じるということですよ。
頭から神を全否定しておいて、『絶対肯定』などというのは、あなたが観念の迷宮に入っているからです。

実体否定、二元対立否定という観念論に陥っているからそのような無意味なことが言えるのです。

仏陀の言う中道は八正道のことでそれ以外ではありません。
仏陀が言う『空』とは、泡のように消えるもの、という意味です。
龍樹が作り上げた意味とは違います。

龍樹は空仮中ではないですか。仏陀のいう意味と全く違うことはわかりますよね。

 

 

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<<同じことを言っていますよ。(^^)>>


そうですか。じゃ、龍樹の言った空仮中の中とは八正道のことなのですか?

 

<<貴兄が実体に執着するから、絶対肯定するという仏知を自覚できずに、仲良く、お手手つないで 歩けないのではないのでしょうか。>>

 

全く、逆です。
私は、実体があるとか実体がないとかは、形而上学、観念論なので、論議してはいけないという仏陀に賛成しているのです。
ですから、あなたのように神にも実体がない、などとは言っていないのです。
ですから、私はキリスト教も尊敬してますよ。
あなたが、仏陀に背いて、『神にも実体がない』と断言しているだけです。
その実体否定に固執していることこそ、対立を呼ぶのですよ。

イスラム教の人に向かって『あなたの神には実体がない』とあなたは言えるのですか?言えないことを掲示板だからといって書いてはいけません。

 

 

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<<本当に相対的議論になるとヤッカイです。>>

 

そうですよ。
だから、仏陀は、形而上のことは無記とし、論議するな、と言ったのです。
それを、龍樹に心酔しているあなたが、『仏教は縁起だからどんなものにも実体はない』『神という者にも実体はない』と哲学的断言をしているのです。

仏陀の教えから遠く離れていることが分かりませんか?

 

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<<すべては縁起生ですから、空にも「第一義諦」と「俗諦」の両義があります――断常中道。>>
<<この二元対立を、形式論理を超えた智慧によって和合させていくのが中道(不二中道)というのが、四諦の正道ではないのでしょうか。>>

 

仏陀が言ったのは、断見も常見も迷妄ということです。

 

<<『中論』というのは、人間を超えた無量なるものに頭をさげる「信仰の論理」でもありますから、龍樹も在家には阿弥陀如来の念仏を勧めています>>

 

その『人間を超えた無量なるもの』にも、あなたによれば、実体はないのですよね?
あなたの観念では、実体も何もないものに頭を下げるということですね。
あなたによれば、阿弥陀如来にも実体がないのですね。
つまり、実体のない幻を信仰せよ、と言っているのですね?

 

<<非ず非ず、無し無し…と俗諦そのもの否定し尽くしたときに真実が現成するというのが空の論理です。>>

 

その『俗諦そのもの否定し尽くしたときに現成する』という『真実』も、あなたによれば、すべては縁起なので実体がないのですよね?

つまり、あなたの理論ではどこまで行っても実体がない幻なのです。
究極の虚無思想ですね。

龍樹もこういう人たちを多く生み出してしまったのですから、困ったものです。

 

 

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あなたの●因中有果説と因中無果説●という文章は、田上太秀の『涅槃経を読む』という本の記述ですね。
その本には、こうもありますね。

大乗仏教の涅槃経では、右に挙げた1、諸行無常諸法無我 2、衆縁和合説 3、業報説の3つのうち、1の考えに対して、諸行は必ずしも無常ばかりではないと言い、また、生類には不滅のものが内在していると言い、これが仏説であると説いている。』

 

 

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仏教についてのひとりごと 114

<<ヒンズー教には、ヒンズー教の特色という個性がある。キリスト教には、キリスト教の特色という個性がある。イスラム教には、イスラム教の特色という個性がある。それぞれの個性を尊重しながら、互いに習い合わせ、自らを深めて行く。>>

 

あなたは『自分は仏教徒ではない』とも言ってますね。
しかし、私には、あなたは、龍樹教、龍樹哲学、龍樹仏教に凝り固まっているように見えます。すべての実体をかたくなに否定することが仏教だと思っているようです。
宇宙の根源にも実体はなく、神という実体もない、と。
すべてに何の実体もない空論に執しています。

これは龍樹教にしか通用しない説です。仏陀の説いたことでもありません。
キリスト教の信者に、『あなたの信じる神には実体がない』と言ってみたらいいでしょう。
中東に行ってイスラム教徒に『あなたの信じる神には実体がない』と言ってみてください。
たぶん、あなたは生きて帰れないでしょう。

仏陀もそのようなことは言っていません。
宇宙の根源や自己の根源に実体があるかどうかは無記(答えない)と言ったのです。
『無常であり苦であるものはわれ、わがもの、わが本体としていいであろうか。』というのが仏陀の言説です。
『一切の形成されたものは無常である。一切の形成されたものは苦である。』と言いました。
これからわかることは、形成されたものは無常、苦、非我ということです。
形成されないもの=ニルヴァーナ を実体がないとは一言も言っていません。

仏陀の死後はるか後世に出てきた龍樹が作り上げた哲学にしか過ぎません。
仏陀の真意とは相容れません。

あなたが龍樹教の空論に固執している限り、ヒンズー教はもとより、キリスト教イスラム教も全否定せざるを得ないのですよ。
神道も、神に実体がないなどという冒涜は畏れ多くて、とんでもないことをいうやつだと見なされます。

仏陀はそのような形而上のものはあくまでも無記(言わない)としたのです。

 

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玉城康四郎(仏教学者・東京大学名誉教授)に
『ジッドゥ・クリシュナムルティの根本問題』という論文がありましたので引用します。
この論文では、『ザ・プロセス』『自分の話を聞いて目覚めたものが誰もいないと言ったこと』『死に対面したときの実際の態度』の3つについて論じています。

この中で私が注目したいのは、クリシュナムルティが自ら、『自分の話を聞いて変化したものは一人もいない』と言ったことです。
クリシュナムルティは真理に至るどのような方法をもすべて否定しました。
真理に至る道も方法も筏もない、としたのです。
確かに非常に惹かれるものではありますが、激流を見てしまうと、筏がなくて本当に渡れるのという気がしていたので、玉城博士の指摘は納得できるものでした。
この中でクリシュナというのはクリシュナムルティのことです。

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クリシュナは次のように述べている。
それは一九七〇年、七月十六日から八月九日まで、スイスのザーネンで七つの講話が催されたなかで、第三回の講話のあとで、メアリー・ジンバリストMary zimbst 夫人とドライブしながら語ったものである。
夫人は、ニューヨーク財界の娘で、映画プロデューサーの夫と結婚し、未亡人となってからは誰よりも親しくクリシュナに寄りそっていた人である。

「他の場所よりは多く語ったインドでさえ、自分の話しを聞いて"変化した"changer ものは一人もいない。みんなは私を十分に活用していない。みんなは十分に真剣になっていない」

七十五歳にもなったクリシュナの発言としては驚くべきことである。
目覚めたものが一人もいないというのである。
もとよりクリシュナの指摘しているのは、真剣になるのはクリシュナにではなく、自己自身にである。
しかしかれは、それぞれの業熟体に真剣になれとは教えていない。
ただかれは、ありのままを経験し、経験したとおりに観察せよと強調するのみである。
解脱がそのように甘いものでないことは、かれ自身の人生経験が示しているとおりであろう。
なぜかれはそこに注目しなかったのか。これはひとごとではない。
  ※※※※※

 

 

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『ジッドゥ・クリシュナムルティの根本問題』(玉城康四郎)から【死について】(1)

第二の問題は「死」である。
死は、人間にとって最後の、そして最大の関心事である。
クリシュナがしばしばこれを問題にし、人々がこれについてかれにただしたことはいうまで
もない。
これらのなかには、自説を展開したものもあり、問いに答えたものもあり、またその説き方はさまざまであるが、結局は同じ視点である。
それは次の発言に要約されているといえよう。

「日々に死ぬこと、あらゆることに各分に死ぬこと、多くの昨日に死ぬこと、そして今過ぎたばかりの瞬間に死ぬこと、それがいかに必要なことか。死なしにはいかなる更新もなく、死なしにはいかなる創造もない」

これが、死を恐怖している人の問いに対するクリシュナの答えの帰着する所である。
死を恐れるということは、観察する主体と観察される死とが分裂しているためである。
そのような死の恐怖は単なる観念でしかない。
すべての観念が消滅するとき、すなわち真に死するとき、真の生が蘇ってくる。
それが更新であり、創造である。
観察者と観察される対象とが一体となっている世界である。
このようなクリシュナの立場は、道元の次のような一節を想い起させるであろう。

「諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり。その透脱といふは、あるいは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。このゆえに、出生死あり、入生死あり、ともに究尽の大道なり。捨生死あり、度生死あり、ともに究尽の大道なり。現成これ生なり、生これ現成なり。その現成のとき、生の全現成にあらずといふことなし、死の全現成にあらずといふことなし。この機関、よく生ならしめ、よく死ならしむ」

生を透脱してみれば、そのままが死も透脱しているのであり、死を透脱すれば同時に生も透脱している。
そしてそのままが、生死に出入すること自由自存である。
これこそ究尽の大道といわれる。
いいかえれば、生を全体的に実現することがすなわち死もまた全体的に実現することである。
道元をこのように見てくると、瞬間々々に死ぬことが、真に生きることであり、真の創造であるというクリシュナの見解と、質的にはまったく同一であるといわねばならない。

 

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『ジッドゥ・クリシュナムルティの根本問題』(玉城康四郎)から【死について】(2)

しかも注目すべきことは、クリシュナも道元も、このような生死一体の世界を、われわれ自身の超格的思惟において十分に頷くことができるという点である。
超格的思惟とは、全人格的思惟に形なきいのちが顕わになり、滲透し、通徹し、それによって単に人格体を超えているだけではなく、あらゆる格、あらゆるアスペクトを超えて営まれている所の思惟である。
そこでは、生死にかかわる一切の諸観念は絶滅し果てている。
クリシュナも道元も、このような超格的思惟において強烈な力を発揮していることを思えば右に挙げた如き見解の生ずることはきわめて当然であるといわねばならない。

しかしながら、その立場は業熟体の日常においてもまた自然に生まれているのであろうか。
クリシュナにおいてはいかがであろうか。
これこそがクリシュナの死に関する根本の問題である。

三つの例を挙げてみよう。

一九七一年の五月に、クリシュナはメアリージンバリストと一諸にオランダへ来て、アムステルダムで四回の講話を行なった後、五月の末に、イギリスのブロックウッドbrockWood、すなわちクリシュナルムティ財団の本部に帰り、六月末まで滞在した。
その間にひどい病気になった。
おそらく枯草熱hayfeveが悪化して気管支炎をおこしたらしい。
七十六歳になっている。
かれはメアリーに訴えている。

「もし戸外に出たら、死んでしまうかも知れない。生と死との間の壁が大変薄くなっている。死はいつも私とともにいたが、突然それがここにやってくるかも分らない。しかし今日ではない。どうか病気によって混乱させられないように。病気だけが私を混乱させる」

 

 

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『ジッドゥ・クリシュナムルティの根本問題』(玉城康四郎)から【死について】(3)

さらに一九七三年の四月末に、クリシュナとメアリーはニューヨークを経てパリに飛んだ。
そこでクリシュナは、サバ・ドゥ・マンチアリSach de Manziar が入院して危険な状態にあることを聞いた。
実はマンチァリ一家とは六十年来の友人である。
クリシュナが二十四歳、サバが二十歳、パリで互いに親しくなつて以来である。
そしてその姉妹たちもクリシュナに傾倒していた。
妹のマルセルMarle がクリシユナを病院につれてサバを見舞った。
クリシュナはひとりで病室に入ってサバに会い、ひどく心を動かされて出てきた。
後にかれはメアリーにつぶやいている。

「けっして私を病院では死なせてくれるな。家で静かに息を引きとりたい」
サバはその二日後に亡くなっている。

もう一つの例は、一九七七年の五月、ロスアンゼルスで手術を受けねばならなくなった時である。
クリシュナは八十二歳になっている。
その手術の前に、かれはメアリーに警告している。

「どうぞ見守っていてくれ。見放さないようにしてくれ。それによって自分自身が見守られていることを想いおこしたい。さもなければ、五十二年後に私は、もう沢山だと思うかも知れない。私はつねに、生と死との非常に微妙な限界を生きてきたのだ」

 

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『ジッドゥ・クリシュナムルティの根本問題』(玉城康四郎)から【死について】(4)

以上、三つの例を挙げてみたのである。
七十六歳、七十八歳、八十二歳の時である。
クリシュナ晩年の円熟した年齢である。
しかも死について人に説法しているのではなく、みずから死に面して発言したものである。
これら三つの例を見ると、クリシュナが平生ひとに説いていた死の見解とはひどく違っていることが感じられる。
いずれの例も、死にこだわっていることが確かである。
しかもそのこだわり方が常人の場合と同質であるといわねばならない。

第二の例は、六十年来の親友が瀕死の病床にあるのを見舞ったあとの発言としては、ほとんど常人とは変らない世俗の雰囲気を覚える。

ことに第三の例は、危険な手術の前だけに死への執着がひどい。
そのこだわり方は常人よりはさらに微妙である。

このようにみずから死に直面して思わず発言されているのを考察してみると、意識的に述べている死の見解とは違ったものが、いいかえれば、常人が死に関して疑惑している同じ性質のものが円熟してきたクリシュナの業熟体に潜んでいることを否認することはできないであろう。
円熟すればするほど、このような事実を確認することが、クリシュナに学ぶわれわれの重要な課題の一つであることを銘記すべきである。

 

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仏教についてのひとりごと 113

<<自分の思いどおりにしたい、という欲です。>>

 

それをエゴと呼ぶのであれば、私はエゴをなくしたいとは思いません。
むしろ、自分の思い描く、思い通りの現象が現れなくては本当ではないとまで思っています。
ですから、このカテゴリーで投稿されている人たちと私の『自我』『エゴ』に関する認識は全く違います。

 


<<お答えをお願いします。>>

 

端的に言えば、限定感でありそれによって起こされる欠乏感、分離感、無力感です。

 

<<ショーシャンクさんは、完全なものを求めすぎて、それがかえって我塊といわれるものの一部となってしまわれているように感じるのです。>>

 

全く、そうは思っていません。
実生活、仕事において、自分に有利な条件を得ることに心血を注いでいて、それをエゴとかも思っていません。
無量感でいたいだけですので、ストイックなわけでもなく、何かの団体に忠誠を誓うこともないです。
ただ、歴史上の仏陀の言いたかったことを探求すると、今までの仏教と呼ばれているものがあまりにもかけ離れていて、どこにも行き着かないものになっているという気がしてますので
それに対し強く批判してしまうことは多いです。
それももう、止める時期には来ています。
とにかく、自費出版で残さなければという思いが強いので、掲示板での投稿に割く時間は少なくしたいところです。

 

 

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<<ショーシャンクさんは、たまに、ご自分について「人格が卑小」とか書かれますよね。そこまで卑小だとは思えないんですよね。 そうは見えないというか。そしてそこまで完璧を求めることが、かえって苦しみ、エゴになっちゃっているのでは?ということを思ったのです。>>

 

これに関しては、謙遜しているとか、卑下して好感度を上げたいとか(笑)では全くなく、本当にそうなのです。
無量に気が付けば気が付くほど、中心=矢がはっきり見えてくるのです。
無量を感じれば感じるほど、自分が卑小だとひしひし感じるのですよ。
そういうと、今度は傲慢だという人が出てくるでしょうけど(笑)
自分の精神が無量そのものでないのは、卑小なのです。
自分を悟っていると言っている人は、全く『矢』を見ることができてないのです。
自分の近所のため池しかしらない山の中の人は、そのため池を大きいと思いますが
大海を見てしまうと、あまりにも小さい、ということです。
もし、大海のそばにいる人はもっとそう思うでしょう。

 

 

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確かにそうですね。
この和弘という人は、決まった語句に条件的に同じ反応しているだけなので
物事の本質ではなく周辺を観念で巡っている感じです。
時間ももったいないので、仏陀の言説を捻じ曲げる投稿以外は無視しようと思ってましたが
aozさんがレスされたので私見を述べます。

 

<<自己承認の欲求などそこには微塵もなく、西野監督の「自我の分別」は蹴飛ばされている>>


あの試合を見て、どうしてこのように断言できるかが不思議です。
西野監督は、自分のスタイル、信念として、攻撃こそ最大の防御、とにかく攻撃をやめないことをモットーとしています。
それは美しいことで、そのような信念に従って、第1戦、第2戦と素晴らしい試合となりました。攻撃を放棄して防御に専念していたらこの結果は生まれなかったでしょう。
しかし、第1戦、第2戦、うまくいきすぎて、心に余裕ができたと思います。
余裕というのはおごりでもあります。メンバーを大きく入れ替えて、好調の原動力の選手たちを休ませました。引き分けでも大丈夫という気の緩みがあったでしょうね。
好調な時にはメンバーを入れ替えないのが鉄則です。
しかし、その博打はうまくいかず、1点入れられてしまいます。
決勝トーナメント進出が非常に難しくなってきました。
しかし、運よく終盤にコロンビアがセネガルに1点入れて、急にまた16強という成果が目の前にぶら下がってきました。
その途端、西野監督は、自らの信念、今までのファイティングスタイル、前に向かう精神を全部捨て去って、負け試合でありながら闘うことを放棄してしまいました。

日本は、古来、柔道、剣道、華道、茶道、と勝負事や趣味のものを【道】という高い精神を磨き上げるものにまで昇華していきました。
目先の結果を貪ろうとするのでなく、高みに向かう精神を重んじたのです。

攻撃は最大の防御が西野監督の信念でした。自らの精神を最後の最後、捨ててしまったということです。

自らの起用失敗で1点負けていて終盤に差し掛かって追い詰められたところに非常に運よくコロンビアがセネガル相手に1点入れたので、あきらめかけた16強がコロンビアのおかげで目の前にぶらさがったのです。
そして、16強という結果や賞賛を、自らの精神をかなぐり捨てて取りに行ったのが真相で、
その精神は日本の【道】の精神ではないですね。

 

 

~~~~~~

 

<<「どうしたらトーナメントに行けるか」日本サッカー界のために、「自我の分別」を捨てた。非難を浴びることを覚悟の上で……。>>


たぶん、あの時点では、ここまで世界が非難するとは思わなかったでしょうね。
私も観ていて非常に失望してがっかりしたことを掲示板に書きましたが
書いた早朝の時点では、ネットのニュース記事でも『ああいうことも作戦のうち』という論調がかなり多かったですから。

もちろん、競技場の観衆は、やる気のない試合に大ブーイングでしたが、それはいつものことです。
そのあと、ここまで欧米のメディアが非難するとは西野監督もそれほど思ってなかったと思いますよ。

これは西野監督が自らの決断でしたことなのでこれ以上どう言っても意味ないのですが
あなたがあの決断を『菩薩』だとか、『自我を捨てた』とか言っていることがあまりにも現実と違いすぎるのでコメントしただけです。
16強になって最も称賛されるのは監督ですから、その目先の結果を姑息な手段で取りに行ったことを『自我の分別を捨てた』とまでいうのはどうかと思います。

仕事上の経験からしても、勝負は勢いが大事で、それを人は運を味方につけると言ったりしますが、第3戦はあの勢いのまま同じメンバーで行けば1位通過の可能性は高かったと思います。
1位通過と2位通過は対戦相手が天国と地獄ですから、最後の最後まで、1位通過を全力で勝ち取りに行くべきでした。

ただ、いずれにせよ、今まで培ってきた日本サッカーの評判を壊してしまったのですから
これから行われるベルギー戦は必ず勝たないといけません。
今夜、ベルギー戦で勝てば、西野監督はここで勝つためにああいうこともあえてした稀代の勝負師となります(笑)
そうなってもらえるように、ベルギー戦、西野監督を応援したいですね。

 

 

~~~~~

 

 

 

 

 

仏教についてのひとりごと 112

<<以下↓に関しては特に異論反論はなかったと言うことで良いですネ^^>>

 

私は、仏陀が言ったことで外せないのは『苦』の真理だと思っています。

あなたが仏陀で外せないと思っているのが
<<(1)人は平等である>>
<<(2)輪廻に拘ってはいけない>>
<<(3)ただ独り歩め>>
というのはよくわかりましたので、そうですか、としか言えません。私は全面的にそうだとは思っていません。

 

<<(1)人は平等である>>と言っても、仏陀は身口意の行為によって、仏陀という最高の存在にもなれるしまた最低の存在にもなれると説いたのであって、行為による差はものすごくあるということです。

 

<<(2)輪廻に拘ってはいけない>>と言いますが、仏陀は輪廻からの解脱を説いたのは事実で、それは否定できませんね。

 

<<(3)ただ独り歩め>>も、誰にも依存せず、従属するな、という意味ではその通りですが、書きましたように、だんだん、良き修行仲間と修行するのが理想とされてきました。
集団生活の方に重心が移ってきたことも事実です。

 

 

~~~~~

 

<<> 感謝していながら皮肉を言うのですか?タマには冗談も皮肉も言いますよ(笑)押してダメなら引いてみる^^>>

 

冗談と皮肉は違いますよ。
あなたたち2人の言うことがどうしても嘘くさいのは
言葉では『感謝感謝』『無数のご縁に生かされている。ありがたいありがたい。』『すべての人に感謝』と繰り返し言いながら
実際にやっていることは、嫌がらせであったり、皮肉であったり、粘着であったり、なのです。
本当に『無数のご縁に生かされている。ありがたいありがたい。』『すべての人に感謝』であれば、皮肉の言葉なんか出てきません。
嫌がらせなんかできるはずがありません。

あなたたち2人が頻繁に使う『感謝』の言葉をみるたびに、うすら寒い気持ちになるのですよ。
本当に自分が実行できることだけを書いたらどうですか?

 

 

~~~~~~

 

 

<<盤珪さんや親鸞の方法で、心安らかで人とも協力して生活していけた(いける)人というのは、自然のうちに、自分の心の観察をしていた(いる)人なのだと思います。自分が観察をしている、と、気づいているか否かは別として。>>

 

親鸞の教えから妙好人といわれる人たちが出たのは、とにかく一心に『救われていることへの感謝の念仏』を真剣に行なったからだと思います。

ここに来ては『感謝p(^_^)q』『努力と感謝を忘れないことよ˚✧₊⁎❝᷀ົཽ≀ˍ̮ ❝᷀ົཽ⁎⁺˳✧༚ 』『無数のご縁に生かされている、ありがたいありがたい。』とばかり言っている人たちのような口だけではなく、心から感謝し続けたのだと思いますね。

その人たちには、法然の教えと親鸞の教えの違いはなく、ただ有り難い一心で『南無阿弥陀仏』と唱え続けたのでしょう。
筏は重要だと思いますね。

 

 

~~~~~~

 

いや、このスレへのあなたの投稿は嫌がらせとは思ってないですよ。

ただ、あなたの過去投稿を見ると、私のスレ以外でいろいろ嫌がられても投稿されてるようで
そのことを言ったのです。

 

~~~~~~

 

え?また、この質問は全くの無視ですか?逃げないで答えてくださいね。
 ⇓⇓
さっき聞いたのですが答えていただけなかったのですが、あなたの言説のこれがどうしてもわからないので、あなたの頭の中でどういう整合性を保っているのかお答えください。
 ⇓⇓
<<自我を解体した後の、智慧です。ショーシャンク様の俯瞰の神心に対する反省を促す「皮肉」です。「皮肉」の必要な方もいるようです。>>
あなたは、【鳩は、真空では飛べない。鳩は、抵抗する風を揚力として空を舞う。逆風をありがとう。】と繰り返し言っていますね。
自分が空を舞う揚力として感謝する・・・と。
それなら、なぜ、自分が空を舞うことができる揚力に対して、皮肉を言い続けなければいけないのでしょうか?
【感謝】と言いながら、感謝する相手に皮肉を言い続ける・・・それは何故なのでしょうか?
皮肉もあなたの感謝の行ないの一部なのですか?

 

~~~~~~

 

あなたはよく言ってますね、
『すべての存在がご縁で、無数のご縁によって生かされている、ありがたいありがたい』と。

そして、あなたに批判的な人も向かい風としてあなたを空高く飛ばしてくれる揚力だから感謝する、と。

感謝する対象に、あなたは皮肉を言うのですか?
あなたにとって、感謝の中には皮肉が入ることができるものなのですか?

 

~~~~~~

 

<<「皮肉」は善でも悪でもないでしょう。>>

 

善とか悪とか言っているのではありません。

全面的な感謝の感情の中には皮肉は存在しない、と言っているのです。

あなたが本当に、自分を空高く舞い上げてくれる揚力だと思って感謝しているなら
その揚力に向かって皮肉は言わないですよね?

相手に気づきを与えたいというのは、自分が正しくて相手が間違っているので
相手を自分の考えに変えさせたいという気持ちからです。
それは感謝からではありません。
それがわかりませんか?

 

~~~~~~

 

 

あなたが本当に、自分を空高く舞い上げてくれる揚力だと思って感謝しているなら
せっかくの向かい風の揚力を
追い風に変えたいとは思わないですね?
追い風に変えたら、揚力ではなくなるからです。


もう、いい加減、自分の心を見つめたらどうですか?
自分の心に正直になったらどうですか?

あなたは自分の理論が論破された、言い負かされたことに腹が立って仕方ないので
いつか言い負かそうとして皮肉を言っているだけなのです。
『向かい風に感謝』とか『批判に感謝』とか、
あなたは頭だけでそう思おうと努力しているのでしょうけど
どうしても自分の中の自我、我執、自己イメージが傷ついて痛くて仕方なくて
皮肉を言ってしまうのです。
攻撃しようとしているのです。

どうか、自分の心をみつめてください。
観念をいかに弄んでも、自我は増大するばかりです。
本当に怖ろしいことなのですよ。
私もそうですから言っているのです。

 

~~~~~~

 

<<六道輪廻――なんてことはない、この私の心だった。なんと重たい話ではないか。>>

そう。あなたの理論は観念論にしか過ぎません。私が中学生の時からさんざんしてきた過ちです。
20歳の時には、私もただの観念論で悟った気になっていました。本当に馬鹿でした。
自分の自我、我執、我塊はなくなるどころか増大していたのに、観念で悟った気になっていました。
このスレで様々な人たちの訪問を受けましたが、例えば大乗仏教の知識を披露してくる人も多かったですが、その知識のすべては知っていることでした。
インドの聖者たちも数多く知っています。シャンカラは大好きですし、ラーマ・クリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ、ラマナ・マハリシ、ヨガ・ナンダなど面白くて仕方ないですし、クリシュナムルティの本は全部持っています。もし、無人島で残りの人生を過ごすとして1冊だけ持っていくとしたらたぶん『クリシュナムルティの瞑想録』と思うほどの私ですが
クリシュナムルティではどこにも行き着かないと今ははっきり思っています。

あなたには全く見えていないでしょうけど、我塊というのはとんでもなく強固なものです。
『ただ観る』『気づく』は、私には無理でした。
私には筏がどうしても必要なようです。

筏なんかいらない、ただ観るだけとか、ただ信じるだけとか、簡単なように言う人を今は全く信用していません。
クリシュナムルティも、親友の妻と不倫していますし、人間関係はドロドロでした。
観念論ではどこにも行き着かないのですよ。

仏陀だけは、成道時から亡くなるまで言っていることが一貫しています。
人類の最大の教師は仏陀かなと思っています。
イエス・キリストは、私にとってはスーパースターですが
なにせ説いた期間が3年あまりで短すぎたことと、弟子たちのレベルが低かったですね。

 

~~~~~

 

<<>あなたには全く見えていないでしょうけど、我塊というのはとんでもなく強固なものです。こうした言葉をたまに拝見すると思うのですが。 もしかしたら、ショーシャンクさんは、ご自身に完璧なものを求めすぎていらっしゃらないですか?完全に自我を消し去りたい、とか、考えていらっしゃいますか?>>

特に、『自我』や『我塊』は人によって全く違う捉え方がなされている言葉の一つだと思います。
仏陀は『わたしは矢を抜く最上の人である』と言いました。
その意味が最近ひしひしとわかるのです。そしてその矢をはっきりと見たら、誰もが抜きたいと思うでしょう。私は抜きたいと思っています。
自我を矢と思う人はほとんどいないでしょう。自我の意味が人によって、人の認識、洞察によって全く違うので、自我は必要なもの、消し去ることができないもの、と考える人が多いはずです。自我という言葉は人によってあまりにも指す範囲が違っていますから、私には、矢という言葉がぴったりきます。矢が刺さっているということがはっきり見えたら、抜きたいと思うはずです。刺さった矢の痛みで無量が見えないのが人間ですから。

<<そうしようというのは無理だと思うからです。それとのうまい付き合い方ができればいいと考えています>>というときの『自我』は私の認識している『矢』『我塊』とは違うものだと思います。
『煩悩』という言葉が人によっては思考全部を指すように。思考は実生活や仕事には絶対必要なものですから思考をなくすことなどできません。もし思考全部を煩悩と呼んでいる人がいれば、その人は『煩悩を完全に消し去ることはできない。それとうまいつきあいができればいい。』と言うでしょう。
それは言葉をそれぞれの人が全く違う意味で使うからです。

仏陀は、人間に毒矢が刺さっているのをありありとみて、それを抜こうとした人でした。
そして、矢を抜く道具、激流を渡る筏、を用意してくれてました。
クリシュナムルティのように、『真理に至る方法はない、道具はない、筏はない』『ただ観なさい』『向こう岸から始めなさい』という言説には惹かれるものはありますが、人間はそれでは何も変わらないのです。

 

~~~~~~

 

<<この「自我」というのは、エゴという意味合いで私は書きました。つまり、完全にエゴをなくすことは不可能だろう、ということを書きました>>

『自我』といい『エゴ』と言っても、どちらも非常に漠然とした言葉です。
人によって全く違う意味に使われている言葉でもあります。
赤い実さんが使われている『エゴ』とは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか。


<<その「矢」って別の言葉に言い換えるとどうなりますか?>>

どのような言葉に置き換えても実感を伴わない観念になってしまいます。
このような掲示板で言っても知的好奇心を少し満たすただの観念的なもので終わります。

もし、ただの知的好奇心ではなく、求道ということであれば、
例えば
四苦八苦の四苦『生老病死』の『生苦』とは何だと思いますか?
これを参究してみてください。
それが実感をもってわかるようになると『矢』の姿が少し見えてくると思います。

 

 

仏教についてのひとりごと 111

<<『法華経』というは文学作品です。それが創作であると思っていたのですが、それは浅はかであったと、経典制作者の仏弟子たちに懺悔しています。今では、『法華経』は、仏弟子たちの深い禅定体験の中で聞いた釈尊の言葉を経典としてまとめたと思っています。詩・文学・音楽…等、そして、森羅万象の中に真実が隠されているのでしょう。>>

そうですね。私もそう思ってますよ。
法華経クラシック音楽のような芸術作品だと思っています。
クラシック音楽を何千回聴いたところで悟りには達しないように、法華経などの大乗仏典を何千回読誦しても悟りには達しないでしょう。
しかし、意識が拡がっていけば理解できなかったクラシック音楽が号泣するくらいわかるようなもので、意識が拡がったときに法華経を読めば号泣するでしょうね。
こう書くとまた、『お前は白隠くらいの悟りに達したのか』と言われそうですが(笑)


<<それで私も、朝夕観音を念ずるという『十句観音経』を唱えています。高尚な『法華経』の文字の底に触れることだと信じて。ショーシャンク様には「ガキの遊び」とお笑いになるかもしれませんが、その「ガキの遊び」の中にも真実が秘されているようです。>>

私も毎日、『延命十句観音経』は唱えていますよ。


<<高尚なショーシャンク様の眼から見たら>><<ご立派なショーシャンクさんは、ご立派な「観想法」を実践されていると存じますが>>

さらりと自然体でいることを心掛けてるのではないのですか?このような言い回しは強固な自我を感じてしまいますから、そこはいつも言われている『粉骨解体』されてください。

 

 

~~~~~

 

 

<<四諦を捨てたら仏教ではないでしょう。>>


四諦十二縁起を瞑想する宗はどこにも現れなかったですね。
三十七菩提分法は、仏陀の在世中には整えられていなかったですね。
後世に付け加えられ整えられたものが多いですね。(原始仏典でも最古層でなく浅い層で完成形がでてきますがでてきます)
仏陀が最初から説いたのは四諦でしょうね。

 

<<筏がなくて簡単に激流を渡れるという人たちも数多く出てきましたが、その人たちは慈悲の心から言ったのだと思いますが>>

 

私が言っているのは、修行法を否定していった仏教者たちです。盤珪のように『不生の仏心でござれ』とだけ言う人とかのことです。
法然の口称念仏の中で生活しなさいと言った教えを、修行は不要で信仰だけあればいいといった親鸞のようなことを言っています。
この人たちが慈悲の心から言ったのは確かでしょうけど、やはり人間には筏=方法が必要なのです。

 

<<激流を渡り切ったショーシャンク様には、さぞかし、深い「仏の慈悲」を
お持ちなのでしょうね。凡夫からみたら羨ましい限りです。>>


うーん、あなたのこういう言い回しに、あなたの歪んだ自我を感じてしまいます。
このような自我は粉骨解体しないのですか?

 

 

~~~~~~

 

 

<<自我を解体した後の、智慧です。ショーシャンク様の俯瞰の神心に対する反省を促す「皮肉」です。「皮肉」の必要な方もいるようです。>>

 

あなたは、【鳩は、真空では飛べない。鳩は、抵抗する風を揚力として空を舞う。逆風をありがとう。】と繰り返し言っていますね。
自分が空を舞う揚力として感謝する・・・と。
それなら、なぜ、自分が空を舞うことができる揚力に対して、皮肉を言い続けなければいけないのでしょうか?
あなたの言説に真実味がないのは、こういうところなのですよ。

観念で書いているだけなので、【自我を粉骨解体】と言っても強固な自我、ドロドロした我執があるのに気がつかない。
【感謝】と言いながら、感謝する相手に皮肉を言い続ける・・・

あなたは結局、観念論を弄んでいるだけで、実際の心のなかの我執は全く粉骨解体できてませんね。

 

 

~~~~~~

 

 

<<その相念相続(念)による定慧に救いの道があると思います。>>

 

法然は無知な衆生をも救われる道を必死に探し求めました。
観想念仏ができない人、ほとんどの人がそうだと思いますが、そのような人が救われる道です。
あなたがいう<<相念相続(念)による定慧に救いの道があると思います。>>というのは、その本質が分かっていません。
『念によって仏を観想することができない人たち』のために法然は苦しまれたのです。
正念相続などできないのですよ。
ですから、法然は念はさておき、口で『南無阿弥陀仏』と唱えることのみだと言ったのです。
親鸞は、信じるという念を絶対とし、念仏は救われた感謝として唱えると言いました。
親鸞法然の教えを徹底したものとして後世で激賞されています。
確かに、インテリからすれば、親鸞の教えの方が徹底していて高度だと思います。
後世、法然より親鸞の方が評価はずっと高いですね。
しかし、実際には、親鸞の教えは難中の難です。
親鸞の教えは天台本覚思想なのです。
実際には、人間には筏が必要なので、法然の教えのほうがはるかに救われた人が多いと思います。

 

 

~~~~~~

 

私は、歴史上の仏陀が本当は何を言ったかを調べているだけです。
そのために重要なのは最古層の仏典に何が書かれてあるか、です。
後世に付け加えられた夾雑物をどんどんはぎ取っていって何が残るか、です。

私はべつに、龍樹や道元親鸞を信じてはいけないと言ってるわけではありません。
それは歴史上の仏陀が説いた教えではないと言っているのです。
優劣を言っているわけでもないのです。
キリスト教は当然、仏陀が説いた教えではありませんが、素晴らしい教えだと思っていますよ。
ただ、歴史上の仏陀が説いた教えではない、ということを言っているだけです。

あなたが何を信じようと、micが親鸞を信じようと、それはその人その人の自由です。
ただ、わざわざここにきて、皮肉や罵詈雑言を書いていくので、それらは歴史上の仏陀の教えとは違うということを書いているだけです。


<<天と地の両方を歩く。彼岸と此岸の両方を歩く。自分の足で歩く、というのが自燈明ではないのでしょうか。涙を禁じ得ない釈尊ならばこそ「両足尊」と呼ばれるのではないのでしょうか。>>

 

あなたの解釈もなかなか詩的でそれでいいと思いますよ。両足尊を天と地の両方を歩く。彼岸と此岸の両方を歩く、という解釈はあなたらしくていいと思います。
本来の両足尊の意味は、無足、多足、二本足で歩く生き物の中で、二本足で歩く人間で最も尊い人という意味で両足尊なのだとは思いますが、大乗的な禅的な解釈をするのはその人の自由です。

 

 

~~~~~

 

<<横レス失礼^^>>


あなたに聞いているのではありません。書いた本人に聞いているのです。

 

<<逆風を起こす相手に逆風を扇ぐ相手に皮肉を言っているのです^^>>


自分を批判する人が出てきても、それを揚力として空を舞う、揚力となる風に感謝・・・と言っているのです。
向かい風がなければ空を飛べないのですから、向かい風に感謝と言っているのです。
自分を空に舞わせてくれる逆風を起こす相手は感謝の対象ですよね?
それに、あなたたちはよく言ってますね、すべての存在がご縁で、無数のご縁によって生かされている、感謝感謝・・・と。
感謝していながら皮肉を言うのですか?

 

<<その揚力で空高く舞い上がり・・・俯瞰するのですよ(笑)>>


本人は、俯瞰は天界の所業で否定してますよ。
あなたも代弁するならよく本人の投稿を読んでくださいね。

 

 

~~~~~

 

 

 

 

 

 

仏教についてのひとりごと 110

<<本題^^『歴史上の仏陀が本当は何を言ったのか』歴史上の仏陀(ゴータマ)が本当に言いたかったことのいくつかのうち・・・(1)人は平等である(2)輪廻に拘ってはいけない(3)ただ独り歩め   この3つは外せないと思っている^^>>


multitudeさん、やればできるじゃないですか。
何の関係もないスレッドに、スレッドの集う仲間たちに嫌がられながら自分の汚泥のような記憶の束から色あせたセピア色の想い出を取り出して自慢するよりも、スレッドのコンセプトに関係のある話題を投稿して会話するほうが楽しいのではないですか?

あなたが大事にしまっている記憶の束こそが苦である・・・のですよ。
これが心底わかってくると、仏陀の本質が見えてきます。


<<認識を異にする人を排除しようとしても・>>


認識を異にする人を排除しようとは思いませんよ。
第一、私は、今の仏教が仏陀の真意を伝えていないという確信がありますから
小乗大乗問わずすべての人と『認識を異にしている』のですよ。

全く違う意見も歓迎します。
ただ、こちらがその間違いを指摘したら、それに対して答えないと対話は成り立ちませんね。
私が指摘したことが間違いだと思ったら、典拠を明らかにしてその指摘の間違いをまた書けばいいのです。
そのようにして対話は成立するのであって
和弘という人のように、間違いを指摘されて答えられないと逃げてしまってまた関係のない自説を垂れ流す態度では、対話は成り立たないと言っているだけです。

逃げないのであれば、どのような異なった意見も大歓迎ですよ。
異なった意見があったほうが盛り上がりますから。

 

 

~~~~~~

 

たーぼーさん、おはようございます。
最近、ひしひし思うのですが、仏陀の言った言葉を、観念で理解するのか、物凄い実感で把握するのか、ですね。
『苦』や『激流』、『汚泥』、『矢』・・・これらの恐ろしさを実感できるかどうか。

その力の凄さを本当に見てしまうと、人類にはどうしても『筏』が必要だとわかります。

仏陀が見たこの世のあり様は、すべての人にとってとんでもなく大げさに思えるでしょう。
人生にはほんの少しの苦しみはあるけどそれを凌駕する楽しみがいっぱいあって
食べていけててまあまあ平穏で・・・
仏陀が言うような『すべてが苦』のわけはないし、自分に『毒矢』が刺さってもないし
『激流』にも巻き込まれているはずもないし、『汚泥』なんて無関係・・・・・

ほとんどの人はそう思って生きています。

しかし、はっきりと言えます。すべての人は苦の集積に向かっている、と。

 

~~~~~~

 

<<で・・・ショーくんにとって、この3つ以外で・・・外せないと思っていることは何ですか?(この3つは外せると思うならそう応えて下さいネ^^)>>

私は仏陀の教えの本質は『苦』だと思います。
これは難題中の難題なのです。
仏陀の言う『苦』が本当に理解できれば、ゴールに近いと思っています。
ただ、本当の理解が非常に難しいものだと思います。


<<(1)人は平等である>>
人は生まれによってではなく行いによってバラモンである、行いはただの行動という意味でなく身口意の行為ですから想念が重要になってきますね。想念によって大きな差が生まれてくるとは思います。

<<(2)輪廻に拘ってはいけない>>
輪廻のすべてを滅することが仏陀の言いたかったことでした。

<<(3)ただ独り歩め>>
最初期には特に重要視されていますね。
時間が経つと、良き修行仲間と修行するのが重要という感じになってきます。
私は、ただ独り歩め、は好きですね。

 

~~~~~~

 

<<まーさんを理解するのも、結構楽しい面があります^^>>


和弘さんもmultitudeさんもmicさんも悪い人ではなくむしろいい人だと思いますよ。
自分を含めてすべての人はそうですが、承認欲求の飢えによって意固地になるのです。


<<いや、実は簡単なのかも^^他者の「苦」をみて、あーだこーだ騒いでないで、見てる、その目玉を180度、外を見るのではなく、自分自身をみつめることができれば^^>>


そうですか。
私が見る限りでは、簡単ではなくとんでもなく難しいと思っています。
自殺する人は大きな苦を抱えているから仏陀の言う『苦』がわかると思いがちですが
仏陀の言う『苦』はわからないと思うのです。
自分の心を洞察しても、なかなか仏陀の言う『苦』まではたどり着けない感じです。
かなりの程度、俯瞰して観るときに、『苦』の本当の意味を知るのだと思います。
日本の仏教者で仏陀の言う『苦』のありさまを本当に観た人は白隠あたりですかね。

 

 

~~~~~~~

 

<<まあ、難しいと思っている間は難しいでしょうね^^>>


簡単だと言い切れる人は凄いことだと思いますよ。少なくとも私には簡単でないので。

 

<<案外つまらないことで「苦」と勘違いしているのかと・・・^^>>


つまり、【苦】といっても大したことでなく、勘違いしているだけということですね。

 

<<誰かが「自分の心を洲(島?)とし、よりどころとせよ」と言ったような(笑)>>


仏陀は【比丘たちよ、あなた方は、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、住しなさい。】と言いました。
そして、【しからば比丘たちよ、いかに比丘は、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、住するのでしょうか。】と言って四念処観が説かれます。
ですから、自燈明法燈明とは四念処観のことで、自分の心(受想行識)をよりどころにするのとは正反対でしょうね。

 

<<この俯瞰は誰がしてるの?>>


誰という哲学的問いはあまり意味はないと思っています。自分の心や世のありさまを俯瞰して観ているような感じになったことはないですか。

 

<<白隠は本当にみてると達観できるあなたも、白隠以上なんですね^^>>


私は卑小な精神で悟りとは程遠いです。
白隠は若い時に、法華経を読んで『くだらない。こんな喩え話ばかりのものに功徳があるなら講談本にでもあるはず。』と言って捨てましたが
悟った後に法華経を読んで号泣しましたよね。
白隠はなぜ号泣したか、です。
禅の人たちは、牛が窓を通過したのに尻尾だけ通過できなかった、などという禅問答ではなく、白隠がなぜ号泣したのか、というところに参究したほうがいいとは思っています。

 

~~~~~~

 

<<この俯瞰は誰がしてるの?>><<?逃げてるの?哲学的問い?単純に聞いているだけですよ?>>


他者でないことは明白なので、自分が観ている、ということでしょうけど、
『自分』にはいろいろな意味があって、『五官』『自我』『自我を超えた何か』という形而上の迷宮に入ることになるので、しいていうなら『他者ではない私』でしょうね。

 

<<↑これと ↓これは、矛盾していると思いませんか?>>


いえ、矛盾しているとは思いません。
誰か、偉人伝を読んで、この人は素晴らしい魂の人だ、と感動することは数多くありますね。
フィクションであっても映画で感動することもあります。
イエス・キリスト以上でないと聖書で感動しないか、といえばそんなことはないですね。
それだと、誰も聖書で感動する人、イエスキリストが素晴らしい魂の人だと思えなくなりますね。
映画を観て感動する人は多いですが、法華経を読んで号泣するのは、何かをそこに観たからだと思うのですよ。そこを探求したいと思っているということです。

 

~~~~~~

 

<<自宗を絶対視する方にはお叱りを受けそうですが、それが「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」等の真言行法でしょう。四念処という修行についていけない私のような凡夫にもできる簡易な行法が、『観音経』だと思いまして、一心称名によります「念・定・慧」の道を歩んでいます>>

そうですね。
私も、仏陀の言った『激流』の凄まじさ、怖さがひしひしと感じられてきたので
これは人類には『筏』が絶対に必要だと思っていますよ。
仏陀が残した筏は四諦十二縁起だと私は思っていますが、小乗仏教大乗仏教もそれを捨ててしまったため、天才的な宗祖たちが「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」などの筏を生み出したのだと思います。

筏がなくて簡単に激流を渡れるという人たちも数多く出てきましたが、その人たちは慈悲の心から言ったのだと思いますが、結果はひどいものになっています。
筏はやはり重要ですね。

仏教についてのひとりごと 109

bwv602さん、詳しい解説ありがとうございます。
bwv602さんが書かれた理論は実は大乗仏教の大きな論争の論点であり続けました。

天台哲学と華厳哲学の論争。天台哲学の中での、山家派と山外派の論争。

真如の中に現象界や迷いは具わってるのか、具わっていないのか、で大論争をし続けたのです。

そして、その論争の果てに、挙げられたような結論に達したりした歴史があります。
『現実の絶対否定を真如が要求するからといって、現実と真如とは全く違ったものかというと、そうではない。真如の方からみると、現実と真如との間には寸分の違いがない。この場合には、現実といわれるものは、否定されるべき現実ではなくして、絶対的に肯定された現実である』

現実の絶対肯定が天台本覚思想にまでなっていきました。
煩悩の絶対肯定へと進み、凄まじく堕落していきました。

この歴史を考察すると、観念論を弄んだところで、どこにも行き着かないということです。
どこにも行き着かないだけならいいのですが、観念の迷路に迷いこんで精神が腐っていくのです。
ですから、仏陀は、形而上的な論争はするなと言っています。
仏陀が無記(言わない)としたものを、観念であれこれ言うのは仏陀の意に反すると思っています。

真如といい、仏性といい、大我といってもすべて観念です。

いくら観念で、真如を思い浮かべても、悟った気分にはなれるのですが
自分の心を洞察しない限り、我塊を強めるだけになります。

はっきりいって、煩悩とは何か、さえ、自分の心を見たこともない人は、現実と遊離した概念で使っています。
まず、煩悩とは何だと思っているのか、が出発点でしょうね。

 

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<<自トピを私有物と思ってはいけない^^ テキム(テキストリーム)はヤフーの管理下にある・・・フォーラム(広場)であり・・・テキム参加者が他の参加者にアーしろコーしろと・・・
言う資格は誰にも無いと言うことを認識し自覚する必要があります^^>>

あなたは、世の中について事の本質を洞察する能力がないので、こういう問題に対して法律を全く知らないのに『私有物』とか『資格』とか『権利』とか法律用語めいたものを使いたがります。的外れです。
前にも私に同じ事を言ってましたね。そのとき私は『誰もスレッドを自分の私有物だとか所有権を有しているなんて思ってないし言ってないですよ。』と言いました。
こういうことに所有権を持ち出すことが幼稚な頭なのです。
法律を知っている人はこういうことに対し所有権なんて概念は持ち出しません。

あなたは『アーしろコーしろと言う資格は誰にも無い』と言っていますが、言うことは自由です。強制力がないだけです。
あなたは強制力がないことをいいことに人が嫌がることをしているのです。
それが事の本質です。
女性専用車両に乗り込んでは『俺にも乗る権利がある』と声高に言う卑劣な男のようなものです。
ほんの少しの優しさがあれば、人が嫌がることを嫌がっているとわかっていてわざわざするようなことはしません。
あなたも和弘という人も悟っていると自分で思い込んでいるようですが
そしていつも爆笑することにこの2人とも『感謝が大事』と人に説いて回ってるのに
人が嫌がっていることをわざわざしつこくするのです。

自分の心の醜さを見つめた方がいいですよ。

 

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いや、全然トンチンカンではないですよ。
あなたが理解できないだけです。

女性専用車両にわざわざ乗り込む男は、鉄道会社に『強制力がない』と思っているのです。
女性専用車両の定めが法律であって強制力があれば乗り込まない。
強制力がないから、大きな顔で『どこに乗ろうが俺の自由だ』と言っているのです。

普通の人間、人を少しでも思いやることが出来る人間であれば、人が嫌がることをわざわざしません。
満員電車での痴漢被害が如何に多発してなくならないか、それで大きな苦痛を受けている人がどれだけ多いか、という想像力や優しさがないものが、なんとかしていい解決を見いだそうとする努力を踏みにじって『俺の自由だ』と声高に叫ぶのです。
ほら、あなたにぴったりな喩えでしょう?

 

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鉄道会社が女性専用車両をつくったのは、何とか、快適で苦痛がない電車であってほしい、という願いからです。

スレッドの各スレ主も、自分がこういうテーマで同じ考えを持つ人たちに集まってもらって向上していきたいという願いがあってスレッドを立てるのです。

あなたは、平気で、そういう人の願いを踏みにじることができる人なのです。
『スレッドはスレ主のものではない』と声高に叫んで、スレ主とそれに共感して書き込んでいる人たちの迷惑を考えることもなく、荒らしていくのです。

あなたは、釈尊イエス・キリストソクラテスと同じ悟りの境地に達したと言っていますね(笑)
たいした悟りですね。

 

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ここは、『歴史上の仏陀が本当は何を言ったのか』を探求するスレッドです。

そのテーマに関心がない人が、自らの承認欲求のために自分のドグマを披露するスレではありません。
『歴史上の仏陀が本当は何を言ったのか』というテーマに関心もなく、原始仏典の内容を捏造してまで自分の主張を通そうとするのは、人間の精神としても最悪です。

間違いの指摘には逃げずに真正面から受け止めて考えることができるのが最低条件でしょうね。

 

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このスレにとって、私が迷惑だと思う投稿は
①会話のやり取り、対話ができず、自分の主張ばかり垂れ流す人。
 どんなに間違いを指摘しても全く無視して、その間違いに向き合わない人。
 今のところ、和弘という人はこの代表ですね。
 multitudeやmicもそういう傾向はありますが、和弘という人のような酷さではないですね。
②原始仏典などの内容を捏造する人。これは論外ですね。
 いい加減な典拠で自説を滔滔と述べて、仏教を知らない人を丸め込もうというのは最悪です。
 もし、求道者というのであれば、典拠の間違いを指摘されたら、
 その指摘に向き合うことが必要です。

基本的に、和弘という人は、仏教に真摯に向き合う求道者としての精神ではないですね。
すでに自分は悟っていると思い込んでいて、自分の観念論を延々と披露することに酔っていたいだけの人でしょう。

sanさんは、大乗仏教の人ですが、真摯な精神の人だと思いますよ。

 

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和弘という人でも、multitudeやmicでも、だれでも
逃げずにちゃんと答えてくれるのであれば、歓迎しますよ。

ただ、この3人は自分の主張を一方的に投稿し続けるだけで
答えられない質問や指摘はスルーして、また投稿を続けるだけですので
会話が成り立たないのです。

和弘という人は、
スッタニパータの文言を自分勝手な解釈で説明した後、
<<まだまだありますが、この位にしておきましょう。私は、『スッタニパータ』『ダンマパダ』『パリニッバーナ』を座右の書として参究しています。ショーシャンク様は『スッタニパータ』を何度位読んでいますか。私は参考書代わりに読んでいて10回近く呼んでいます。ショーシャンク様の参究不足が目につき過ぎです。また、仏教は「自己の探求」ですが、「自己探求」を等閑にして、大乗との分断対立に明け暮れているだけのように感じます。自分を無にして、一から出直しましょうよ。>>
とまで言っています。

そこまで言うからには、自分のスッタニパータの解釈には責任を持つはずですね。
しかし、私が、そのトンデモ解釈の間違いをいちいち全部指摘すると、
それを全くスルーして、今度はなぜか唯識論の著作の引用を始めたのです。

上記のように大見得きって言ったのですから
自分がしたスッタニパータの解釈には責任を持たないといけませんし
私の指摘が正しければ、自分の間違いを認めて
私の指摘が間違っているのであればその間違いを指摘しなければいけません。

和弘という人は自分の間違いを認めることができない人で
答えられなくなるとすぐ逃げてしまう人です。
それは真摯な求道者の精神ではありません。

もし、真摯に向き合える人であれば、和弘という人も歓迎しますよ。

 

 

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仏教についてのひとりごと 108

<<●想受滅定から因果確定法(此縁性)へ●パーリ経典『大品』等が示しているよう、釈尊は、想受滅定を修した後、七日間、解脱の楽を味わいながら>>

これも嘘です。
『大品』に書かれているのは、『仏陀菩提樹の下で最初の目覚めを体験された。そのあと7日間解脱の楽しみを味わいながら坐した。7日目に十二縁起を順逆に考察された。』です。
想受滅定などどこに出てきますか?

 

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あなたの卑怯なところは、あなたの投稿の間違いをいちいち指摘しているのに
それを全部スルーして、また自分のドクマを延々と貼り続けることです。

自分が間違っていた、自分が挙げた仏典の内容を間違えて書いていた、という自分の間違いを認めると自分の強固な自我がひどく傷つくので、間違いの指摘をすべて無視して、次から次へと自分のドグマの投稿を上塗りしていくのです。

あなたの投稿の間違いを今まで何十も指摘しましたが
あなたは何も答えられませんね。
間違っているなら間違っていると認めるのが求道者ですよ。

 

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はあ?
スッタニパータには成道時のことなど記載されてないですよ。

あなたはこう書いたのです。
<<●想受滅定から因果確定法(此縁性)へ●パーリ経典『大品』等が示しているよう、釈尊は、想受滅定を修した後、七日間、解脱の楽を味わいながら>>

あなたの文章では、釈尊は、想受滅定を修した後、七日間、解脱の楽を味わったことになっていますが、それは嘘です。
どの仏典にそんな記載がありますか?

 

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<<八正道を歩んでいますか?私は、念・定・慧を歩んでいまして、
念・定・慧に他の八正道が含まれています。>>

そんなことを書いているようでは、あなたは八正道は全くわかっていませんね。
自分の独善で解釈してもそれは八正道ではありません。
仏陀が八正道とは念・定・慧などと言いましたか?
仏陀が言ってもないことをなぜあなたは勝手に作り上げるのですか?

 

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<<貴方は「間違いが指摘できる『神』」なのですか。>>

仏典にあるかどうかは誰でも検証可能ですね。それを指摘してます。
私の指摘が間違いであれば、そしてあなたの投稿が正しいのであれば仏典を基に説明すればいいだけです。


<<私は、「実体のない」事実を語って、遊んでいるだけです。>>

遊ぶのであれば、人が嫌がらない範囲でするべきです。
自分のスレッドで遊べばいいではないですか?
なぜ、それをしないのですか?
皆さんの言うことだとあなたは十年以上前からこのカテに投稿しているようですから、賛同する人もあなたの人格に惹かれる人もいるのではないですか?
その人たちのために自分のスレですればいいでしょう。

 

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<<人間の考えることはみんな間違っています。>>

いえ、みんな間違っているのではなく、あなたが間違っているのです。


<<それを承知で、私は、私の直接経験からの比量(観察)をした結果を報告しています。>>

間違っていることを承知でその結果を報告してもらっても迷惑です。
間違ってないと確信出来てから、人のスレに書き込んだらどうですか。

 

 

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それ、あなたが勝手に八正道を3つにしているだけで
仏陀はそんなことどこでも言ってないですよ。

あなた、仏陀が言いもしないことを勝手に作り上げるのはやめなさい。

あなたの仏陀に関する知識がほとんどないのはわかりました。
しかし、勝手に仏陀が言ってないことに捻じ曲げるのは謗法ですよ。

 

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<<すべてのものは我がものに非ずという非我(無我)の真実を信じれないから、
慈悲の心が分らない。>>

慈悲が一番ないのはあなただと思いますよ。
人が嫌がることをするのはなぜですか?
あなたに慈悲が全くないからですね?

 

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<<迷惑ね??このトピは、公共のもの、みんなのものでしょう。>>
<<このトピは貴方のものではありません。>>

あのね、いい歳して、社会性ゼロですね。
まともに働いたことありますか?

公共のものなら何してもいいと?
公園は公共のものですが、いたるところに大便してはいけないですね。
あなたの投稿は大便なのです。

スレを立てるのはスレ主のコンセプトがあるのです。
そのコンセプト、理念に沿おうとするのがまともな人間です。
あなたは仏教などする以前の普通の人間以下の精神ですね。

 

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ご忠告ありがとうございます。

しかし、和弘という人は迷惑な存在ですね。
micは、私にも迷惑でしたが、その人はなぜか奇妙な人気がありましたね。
女性たちもあまりmicは嫌いでないようでした。
和弘という人はそういうところもないですね。

 

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ああ、そうですか。
奥さんのほうが柱となって働いておられるのですか。
なるほど。
社会性のない人だと思いましたが、その理由の一端が分かったような気がします。

 

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そうなんですか。
長く掲示板にいるのであれば、わざわざスレ主が迷惑がっているスレッドに大量投稿しなくても、仲のいい人はおられると思うのです。
その人たちとなぜ、自分のスレッドで楽しまないのでしょうか。

 

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<<トピ主さんにとっては、我慢ならない、本当に迷惑なことだと思いますよ。
私のトピにもそのような人が居座っていて、いくら言ってもやめてくれないので、あなたの気持ちはよくわかるのですよ。>>
ありがとうございます。そうなんですか。みんな迷惑しているのですね。

<<まぁ、自分の目的を持って投稿し、他のアラシ的な投稿をする人のことはさっさと無視リストに入れるというのがいいんじゃないでしょうか。>>
そうですね。そうしようと思います。
自分のスレに、勝手に仏陀が言ったことでないものを仏陀の言葉としてねつ造しないかがとても気になるのですが、なるべく見ないようにします。
時々見て、あまりに仏陀の事実と違うねつ造をしていたら指摘するかもしれませんが。

 

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そうですね。
multitudeは、和弘という人のように、原始仏典をトンデモ解釈するとか、ねつ造するとかはしないので安心して放置できるのですが
この和弘という人は、よりにもよって仏陀の言説をねつ造したりするので放っておけないところがあるのです。

 

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