仏教についてのひとりごと 111

<<『法華経』というは文学作品です。それが創作であると思っていたのですが、それは浅はかであったと、経典制作者の仏弟子たちに懺悔しています。今では、『法華経』は、仏弟子たちの深い禅定体験の中で聞いた釈尊の言葉を経典としてまとめたと思っています。詩・文学・音楽…等、そして、森羅万象の中に真実が隠されているのでしょう。>>

そうですね。私もそう思ってますよ。
法華経クラシック音楽のような芸術作品だと思っています。
クラシック音楽を何千回聴いたところで悟りには達しないように、法華経などの大乗仏典を何千回読誦しても悟りには達しないでしょう。
しかし、意識が拡がっていけば理解できなかったクラシック音楽が号泣するくらいわかるようなもので、意識が拡がったときに法華経を読めば号泣するでしょうね。
こう書くとまた、『お前は白隠くらいの悟りに達したのか』と言われそうですが(笑)


<<それで私も、朝夕観音を念ずるという『十句観音経』を唱えています。高尚な『法華経』の文字の底に触れることだと信じて。ショーシャンク様には「ガキの遊び」とお笑いになるかもしれませんが、その「ガキの遊び」の中にも真実が秘されているようです。>>

私も毎日、『延命十句観音経』は唱えていますよ。


<<高尚なショーシャンク様の眼から見たら>><<ご立派なショーシャンクさんは、ご立派な「観想法」を実践されていると存じますが>>

さらりと自然体でいることを心掛けてるのではないのですか?このような言い回しは強固な自我を感じてしまいますから、そこはいつも言われている『粉骨解体』されてください。

 

 

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<<四諦を捨てたら仏教ではないでしょう。>>


四諦十二縁起を瞑想する宗はどこにも現れなかったですね。
三十七菩提分法は、仏陀の在世中には整えられていなかったですね。
後世に付け加えられ整えられたものが多いですね。(原始仏典でも最古層でなく浅い層で完成形がでてきますがでてきます)
仏陀が最初から説いたのは四諦でしょうね。

 

<<筏がなくて簡単に激流を渡れるという人たちも数多く出てきましたが、その人たちは慈悲の心から言ったのだと思いますが>>

 

私が言っているのは、修行法を否定していった仏教者たちです。盤珪のように『不生の仏心でござれ』とだけ言う人とかのことです。
法然の口称念仏の中で生活しなさいと言った教えを、修行は不要で信仰だけあればいいといった親鸞のようなことを言っています。
この人たちが慈悲の心から言ったのは確かでしょうけど、やはり人間には筏=方法が必要なのです。

 

<<激流を渡り切ったショーシャンク様には、さぞかし、深い「仏の慈悲」を
お持ちなのでしょうね。凡夫からみたら羨ましい限りです。>>


うーん、あなたのこういう言い回しに、あなたの歪んだ自我を感じてしまいます。
このような自我は粉骨解体しないのですか?

 

 

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<<自我を解体した後の、智慧です。ショーシャンク様の俯瞰の神心に対する反省を促す「皮肉」です。「皮肉」の必要な方もいるようです。>>

 

あなたは、【鳩は、真空では飛べない。鳩は、抵抗する風を揚力として空を舞う。逆風をありがとう。】と繰り返し言っていますね。
自分が空を舞う揚力として感謝する・・・と。
それなら、なぜ、自分が空を舞うことができる揚力に対して、皮肉を言い続けなければいけないのでしょうか?
あなたの言説に真実味がないのは、こういうところなのですよ。

観念で書いているだけなので、【自我を粉骨解体】と言っても強固な自我、ドロドロした我執があるのに気がつかない。
【感謝】と言いながら、感謝する相手に皮肉を言い続ける・・・

あなたは結局、観念論を弄んでいるだけで、実際の心のなかの我執は全く粉骨解体できてませんね。

 

 

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<<その相念相続(念)による定慧に救いの道があると思います。>>

 

法然は無知な衆生をも救われる道を必死に探し求めました。
観想念仏ができない人、ほとんどの人がそうだと思いますが、そのような人が救われる道です。
あなたがいう<<相念相続(念)による定慧に救いの道があると思います。>>というのは、その本質が分かっていません。
『念によって仏を観想することができない人たち』のために法然は苦しまれたのです。
正念相続などできないのですよ。
ですから、法然は念はさておき、口で『南無阿弥陀仏』と唱えることのみだと言ったのです。
親鸞は、信じるという念を絶対とし、念仏は救われた感謝として唱えると言いました。
親鸞法然の教えを徹底したものとして後世で激賞されています。
確かに、インテリからすれば、親鸞の教えの方が徹底していて高度だと思います。
後世、法然より親鸞の方が評価はずっと高いですね。
しかし、実際には、親鸞の教えは難中の難です。
親鸞の教えは天台本覚思想なのです。
実際には、人間には筏が必要なので、法然の教えのほうがはるかに救われた人が多いと思います。

 

 

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私は、歴史上の仏陀が本当は何を言ったかを調べているだけです。
そのために重要なのは最古層の仏典に何が書かれてあるか、です。
後世に付け加えられた夾雑物をどんどんはぎ取っていって何が残るか、です。

私はべつに、龍樹や道元親鸞を信じてはいけないと言ってるわけではありません。
それは歴史上の仏陀が説いた教えではないと言っているのです。
優劣を言っているわけでもないのです。
キリスト教は当然、仏陀が説いた教えではありませんが、素晴らしい教えだと思っていますよ。
ただ、歴史上の仏陀が説いた教えではない、ということを言っているだけです。

あなたが何を信じようと、micが親鸞を信じようと、それはその人その人の自由です。
ただ、わざわざここにきて、皮肉や罵詈雑言を書いていくので、それらは歴史上の仏陀の教えとは違うということを書いているだけです。


<<天と地の両方を歩く。彼岸と此岸の両方を歩く。自分の足で歩く、というのが自燈明ではないのでしょうか。涙を禁じ得ない釈尊ならばこそ「両足尊」と呼ばれるのではないのでしょうか。>>

 

あなたの解釈もなかなか詩的でそれでいいと思いますよ。両足尊を天と地の両方を歩く。彼岸と此岸の両方を歩く、という解釈はあなたらしくていいと思います。
本来の両足尊の意味は、無足、多足、二本足で歩く生き物の中で、二本足で歩く人間で最も尊い人という意味で両足尊なのだとは思いますが、大乗的な禅的な解釈をするのはその人の自由です。

 

 

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<<横レス失礼^^>>


あなたに聞いているのではありません。書いた本人に聞いているのです。

 

<<逆風を起こす相手に逆風を扇ぐ相手に皮肉を言っているのです^^>>


自分を批判する人が出てきても、それを揚力として空を舞う、揚力となる風に感謝・・・と言っているのです。
向かい風がなければ空を飛べないのですから、向かい風に感謝と言っているのです。
自分を空に舞わせてくれる逆風を起こす相手は感謝の対象ですよね?
それに、あなたたちはよく言ってますね、すべての存在がご縁で、無数のご縁によって生かされている、感謝感謝・・・と。
感謝していながら皮肉を言うのですか?

 

<<その揚力で空高く舞い上がり・・・俯瞰するのですよ(笑)>>


本人は、俯瞰は天界の所業で否定してますよ。
あなたも代弁するならよく本人の投稿を読んでくださいね。

 

 

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