仏教についてのひとりごと 110

<<本題^^『歴史上の仏陀が本当は何を言ったのか』歴史上の仏陀(ゴータマ)が本当に言いたかったことのいくつかのうち・・・(1)人は平等である(2)輪廻に拘ってはいけない(3)ただ独り歩め   この3つは外せないと思っている^^>>


multitudeさん、やればできるじゃないですか。
何の関係もないスレッドに、スレッドの集う仲間たちに嫌がられながら自分の汚泥のような記憶の束から色あせたセピア色の想い出を取り出して自慢するよりも、スレッドのコンセプトに関係のある話題を投稿して会話するほうが楽しいのではないですか?

あなたが大事にしまっている記憶の束こそが苦である・・・のですよ。
これが心底わかってくると、仏陀の本質が見えてきます。


<<認識を異にする人を排除しようとしても・>>


認識を異にする人を排除しようとは思いませんよ。
第一、私は、今の仏教が仏陀の真意を伝えていないという確信がありますから
小乗大乗問わずすべての人と『認識を異にしている』のですよ。

全く違う意見も歓迎します。
ただ、こちらがその間違いを指摘したら、それに対して答えないと対話は成り立ちませんね。
私が指摘したことが間違いだと思ったら、典拠を明らかにしてその指摘の間違いをまた書けばいいのです。
そのようにして対話は成立するのであって
和弘という人のように、間違いを指摘されて答えられないと逃げてしまってまた関係のない自説を垂れ流す態度では、対話は成り立たないと言っているだけです。

逃げないのであれば、どのような異なった意見も大歓迎ですよ。
異なった意見があったほうが盛り上がりますから。

 

 

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たーぼーさん、おはようございます。
最近、ひしひし思うのですが、仏陀の言った言葉を、観念で理解するのか、物凄い実感で把握するのか、ですね。
『苦』や『激流』、『汚泥』、『矢』・・・これらの恐ろしさを実感できるかどうか。

その力の凄さを本当に見てしまうと、人類にはどうしても『筏』が必要だとわかります。

仏陀が見たこの世のあり様は、すべての人にとってとんでもなく大げさに思えるでしょう。
人生にはほんの少しの苦しみはあるけどそれを凌駕する楽しみがいっぱいあって
食べていけててまあまあ平穏で・・・
仏陀が言うような『すべてが苦』のわけはないし、自分に『毒矢』が刺さってもないし
『激流』にも巻き込まれているはずもないし、『汚泥』なんて無関係・・・・・

ほとんどの人はそう思って生きています。

しかし、はっきりと言えます。すべての人は苦の集積に向かっている、と。

 

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<<で・・・ショーくんにとって、この3つ以外で・・・外せないと思っていることは何ですか?(この3つは外せると思うならそう応えて下さいネ^^)>>

私は仏陀の教えの本質は『苦』だと思います。
これは難題中の難題なのです。
仏陀の言う『苦』が本当に理解できれば、ゴールに近いと思っています。
ただ、本当の理解が非常に難しいものだと思います。


<<(1)人は平等である>>
人は生まれによってではなく行いによってバラモンである、行いはただの行動という意味でなく身口意の行為ですから想念が重要になってきますね。想念によって大きな差が生まれてくるとは思います。

<<(2)輪廻に拘ってはいけない>>
輪廻のすべてを滅することが仏陀の言いたかったことでした。

<<(3)ただ独り歩め>>
最初期には特に重要視されていますね。
時間が経つと、良き修行仲間と修行するのが重要という感じになってきます。
私は、ただ独り歩め、は好きですね。

 

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<<まーさんを理解するのも、結構楽しい面があります^^>>


和弘さんもmultitudeさんもmicさんも悪い人ではなくむしろいい人だと思いますよ。
自分を含めてすべての人はそうですが、承認欲求の飢えによって意固地になるのです。


<<いや、実は簡単なのかも^^他者の「苦」をみて、あーだこーだ騒いでないで、見てる、その目玉を180度、外を見るのではなく、自分自身をみつめることができれば^^>>


そうですか。
私が見る限りでは、簡単ではなくとんでもなく難しいと思っています。
自殺する人は大きな苦を抱えているから仏陀の言う『苦』がわかると思いがちですが
仏陀の言う『苦』はわからないと思うのです。
自分の心を洞察しても、なかなか仏陀の言う『苦』まではたどり着けない感じです。
かなりの程度、俯瞰して観るときに、『苦』の本当の意味を知るのだと思います。
日本の仏教者で仏陀の言う『苦』のありさまを本当に観た人は白隠あたりですかね。

 

 

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<<まあ、難しいと思っている間は難しいでしょうね^^>>


簡単だと言い切れる人は凄いことだと思いますよ。少なくとも私には簡単でないので。

 

<<案外つまらないことで「苦」と勘違いしているのかと・・・^^>>


つまり、【苦】といっても大したことでなく、勘違いしているだけということですね。

 

<<誰かが「自分の心を洲(島?)とし、よりどころとせよ」と言ったような(笑)>>


仏陀は【比丘たちよ、あなた方は、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、住しなさい。】と言いました。
そして、【しからば比丘たちよ、いかに比丘は、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、住するのでしょうか。】と言って四念処観が説かれます。
ですから、自燈明法燈明とは四念処観のことで、自分の心(受想行識)をよりどころにするのとは正反対でしょうね。

 

<<この俯瞰は誰がしてるの?>>


誰という哲学的問いはあまり意味はないと思っています。自分の心や世のありさまを俯瞰して観ているような感じになったことはないですか。

 

<<白隠は本当にみてると達観できるあなたも、白隠以上なんですね^^>>


私は卑小な精神で悟りとは程遠いです。
白隠は若い時に、法華経を読んで『くだらない。こんな喩え話ばかりのものに功徳があるなら講談本にでもあるはず。』と言って捨てましたが
悟った後に法華経を読んで号泣しましたよね。
白隠はなぜ号泣したか、です。
禅の人たちは、牛が窓を通過したのに尻尾だけ通過できなかった、などという禅問答ではなく、白隠がなぜ号泣したのか、というところに参究したほうがいいとは思っています。

 

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<<この俯瞰は誰がしてるの?>><<?逃げてるの?哲学的問い?単純に聞いているだけですよ?>>


他者でないことは明白なので、自分が観ている、ということでしょうけど、
『自分』にはいろいろな意味があって、『五官』『自我』『自我を超えた何か』という形而上の迷宮に入ることになるので、しいていうなら『他者ではない私』でしょうね。

 

<<↑これと ↓これは、矛盾していると思いませんか?>>


いえ、矛盾しているとは思いません。
誰か、偉人伝を読んで、この人は素晴らしい魂の人だ、と感動することは数多くありますね。
フィクションであっても映画で感動することもあります。
イエス・キリスト以上でないと聖書で感動しないか、といえばそんなことはないですね。
それだと、誰も聖書で感動する人、イエスキリストが素晴らしい魂の人だと思えなくなりますね。
映画を観て感動する人は多いですが、法華経を読んで号泣するのは、何かをそこに観たからだと思うのですよ。そこを探求したいと思っているということです。

 

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<<自宗を絶対視する方にはお叱りを受けそうですが、それが「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」等の真言行法でしょう。四念処という修行についていけない私のような凡夫にもできる簡易な行法が、『観音経』だと思いまして、一心称名によります「念・定・慧」の道を歩んでいます>>

そうですね。
私も、仏陀の言った『激流』の凄まじさ、怖さがひしひしと感じられてきたので
これは人類には『筏』が絶対に必要だと思っていますよ。
仏陀が残した筏は四諦十二縁起だと私は思っていますが、小乗仏教大乗仏教もそれを捨ててしまったため、天才的な宗祖たちが「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」などの筏を生み出したのだと思います。

筏がなくて簡単に激流を渡れるという人たちも数多く出てきましたが、その人たちは慈悲の心から言ったのだと思いますが、結果はひどいものになっています。
筏はやはり重要ですね。