仏教についてのひとりごと 113

<<自分の思いどおりにしたい、という欲です。>>

 

それをエゴと呼ぶのであれば、私はエゴをなくしたいとは思いません。
むしろ、自分の思い描く、思い通りの現象が現れなくては本当ではないとまで思っています。
ですから、このカテゴリーで投稿されている人たちと私の『自我』『エゴ』に関する認識は全く違います。

 


<<お答えをお願いします。>>

 

端的に言えば、限定感でありそれによって起こされる欠乏感、分離感、無力感です。

 

<<ショーシャンクさんは、完全なものを求めすぎて、それがかえって我塊といわれるものの一部となってしまわれているように感じるのです。>>

 

全く、そうは思っていません。
実生活、仕事において、自分に有利な条件を得ることに心血を注いでいて、それをエゴとかも思っていません。
無量感でいたいだけですので、ストイックなわけでもなく、何かの団体に忠誠を誓うこともないです。
ただ、歴史上の仏陀の言いたかったことを探求すると、今までの仏教と呼ばれているものがあまりにもかけ離れていて、どこにも行き着かないものになっているという気がしてますので
それに対し強く批判してしまうことは多いです。
それももう、止める時期には来ています。
とにかく、自費出版で残さなければという思いが強いので、掲示板での投稿に割く時間は少なくしたいところです。

 

 

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<<ショーシャンクさんは、たまに、ご自分について「人格が卑小」とか書かれますよね。そこまで卑小だとは思えないんですよね。 そうは見えないというか。そしてそこまで完璧を求めることが、かえって苦しみ、エゴになっちゃっているのでは?ということを思ったのです。>>

 

これに関しては、謙遜しているとか、卑下して好感度を上げたいとか(笑)では全くなく、本当にそうなのです。
無量に気が付けば気が付くほど、中心=矢がはっきり見えてくるのです。
無量を感じれば感じるほど、自分が卑小だとひしひし感じるのですよ。
そういうと、今度は傲慢だという人が出てくるでしょうけど(笑)
自分の精神が無量そのものでないのは、卑小なのです。
自分を悟っていると言っている人は、全く『矢』を見ることができてないのです。
自分の近所のため池しかしらない山の中の人は、そのため池を大きいと思いますが
大海を見てしまうと、あまりにも小さい、ということです。
もし、大海のそばにいる人はもっとそう思うでしょう。

 

 

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確かにそうですね。
この和弘という人は、決まった語句に条件的に同じ反応しているだけなので
物事の本質ではなく周辺を観念で巡っている感じです。
時間ももったいないので、仏陀の言説を捻じ曲げる投稿以外は無視しようと思ってましたが
aozさんがレスされたので私見を述べます。

 

<<自己承認の欲求などそこには微塵もなく、西野監督の「自我の分別」は蹴飛ばされている>>


あの試合を見て、どうしてこのように断言できるかが不思議です。
西野監督は、自分のスタイル、信念として、攻撃こそ最大の防御、とにかく攻撃をやめないことをモットーとしています。
それは美しいことで、そのような信念に従って、第1戦、第2戦と素晴らしい試合となりました。攻撃を放棄して防御に専念していたらこの結果は生まれなかったでしょう。
しかし、第1戦、第2戦、うまくいきすぎて、心に余裕ができたと思います。
余裕というのはおごりでもあります。メンバーを大きく入れ替えて、好調の原動力の選手たちを休ませました。引き分けでも大丈夫という気の緩みがあったでしょうね。
好調な時にはメンバーを入れ替えないのが鉄則です。
しかし、その博打はうまくいかず、1点入れられてしまいます。
決勝トーナメント進出が非常に難しくなってきました。
しかし、運よく終盤にコロンビアがセネガルに1点入れて、急にまた16強という成果が目の前にぶら下がってきました。
その途端、西野監督は、自らの信念、今までのファイティングスタイル、前に向かう精神を全部捨て去って、負け試合でありながら闘うことを放棄してしまいました。

日本は、古来、柔道、剣道、華道、茶道、と勝負事や趣味のものを【道】という高い精神を磨き上げるものにまで昇華していきました。
目先の結果を貪ろうとするのでなく、高みに向かう精神を重んじたのです。

攻撃は最大の防御が西野監督の信念でした。自らの精神を最後の最後、捨ててしまったということです。

自らの起用失敗で1点負けていて終盤に差し掛かって追い詰められたところに非常に運よくコロンビアがセネガル相手に1点入れたので、あきらめかけた16強がコロンビアのおかげで目の前にぶらさがったのです。
そして、16強という結果や賞賛を、自らの精神をかなぐり捨てて取りに行ったのが真相で、
その精神は日本の【道】の精神ではないですね。

 

 

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<<「どうしたらトーナメントに行けるか」日本サッカー界のために、「自我の分別」を捨てた。非難を浴びることを覚悟の上で……。>>


たぶん、あの時点では、ここまで世界が非難するとは思わなかったでしょうね。
私も観ていて非常に失望してがっかりしたことを掲示板に書きましたが
書いた早朝の時点では、ネットのニュース記事でも『ああいうことも作戦のうち』という論調がかなり多かったですから。

もちろん、競技場の観衆は、やる気のない試合に大ブーイングでしたが、それはいつものことです。
そのあと、ここまで欧米のメディアが非難するとは西野監督もそれほど思ってなかったと思いますよ。

これは西野監督が自らの決断でしたことなのでこれ以上どう言っても意味ないのですが
あなたがあの決断を『菩薩』だとか、『自我を捨てた』とか言っていることがあまりにも現実と違いすぎるのでコメントしただけです。
16強になって最も称賛されるのは監督ですから、その目先の結果を姑息な手段で取りに行ったことを『自我の分別を捨てた』とまでいうのはどうかと思います。

仕事上の経験からしても、勝負は勢いが大事で、それを人は運を味方につけると言ったりしますが、第3戦はあの勢いのまま同じメンバーで行けば1位通過の可能性は高かったと思います。
1位通過と2位通過は対戦相手が天国と地獄ですから、最後の最後まで、1位通過を全力で勝ち取りに行くべきでした。

ただ、いずれにせよ、今まで培ってきた日本サッカーの評判を壊してしまったのですから
これから行われるベルギー戦は必ず勝たないといけません。
今夜、ベルギー戦で勝てば、西野監督はここで勝つためにああいうこともあえてした稀代の勝負師となります(笑)
そうなってもらえるように、ベルギー戦、西野監督を応援したいですね。

 

 

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