仏教についてのひとりごと 119

<<四念処観を調べたところ、身念処(身念住) - 身体の不浄を観ずる(不浄観)
受念処(受念住) - 一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦)心念処(心念住) - 心の無常を観ずる(諸行無常)法念処(法念住) - 法の無我(いかなる事象も自分に非ず)を観ずる(諸法無我)これでいいでしょうか。>>

 

はい。私は四念処観をそのように理解してます。自分に非ずなので、諸法無我のところは諸法非我にしてますが。

ただ、念=sati に関しては、テーラワーダ仏教では『気づき』というように捉えていますので、私のしている観法とは違うと思います。これはpipitさんが詳しいと思います。

 

<<想念をフルに使わねばならない現状におられるのでしたら、想念に気づくことは難しいというより、常に気づいているのではないのですか?>>

 

仕事の交渉のときなどは、想念に没頭しています。つまり、想念に自己同化して気づいていない状態ですね。私の場合は。

 

 

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<<釈迦の世界って、矢もない、激流もないところ、なんじゃないですか。>>


釈迦の到達した世界はそうでしょうね。
釈迦が残した筏によって激流を渡りたいということです。

 

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<<あなたは、まぎれもないあなたを持ってますか?精神の無量は、そんなあなたがもってるものじゃないでしょうか>>

 

私の理解では、精神の無量はわたしは持っていません。
わたしがあるか、無量があるか、どちらかです。

 

<<無の境地 それは禅のマインド。 これが真の調和。坐禅はたとえ座ってなくても座ってるつもりでということ    禅のマインドとは、「いますでにこれでよし」と素朴におもえることから、説かれるんじゃねーかな>>

 

禅については私は門外漢なので、無の境地というものが本当にあるのかはわかりません。

 

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<<その無我を宮沢賢治は、『雨ニモマケズ』の最後に、「デクノボウといわれ…」と表現した。「デクノボウ」と言われるくらいでなければ、「仏の本願」は達成できないのである。>>

 

あなたは何でも自分勝手に都合のいいところだけ切り取って自己正当化しています。
この宮沢賢治でもそうです。

この『デクノボー』のところはこうです。
・・・・
ひでりのときはなみだをながし
さむさのなつはオロオロあるき
みんなにデクノボーとよばれ
ほめられもせず
くにもされず
そういうものに
わたしはなりたい
・・・・

『みんなにデクノボーとよばれ ほめられもせず』の後に
『苦にもされず』が来るのです。

あなたはやめてほしいと言われても、他人のスレに大量に迷惑投稿してます。
苦にされているではないですか。

宮沢賢治の『くにもされず そういうものに わたしはなりたい』をよく読んでください。

 

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<<貴方が苦にして苦を作っているということです。>>

 

スレッドは、スレ主が『こういうスレを作りたい』『こういう話題をしたい』という願いでできています。
それはわかりますよね?
つまり、各スレには、スレ主のコンセプトがあるのです。

ところが、心無い者たちのアラシによって、数多くのスレッドが荒らされ廃れていきました。
そうしたくないのは、スレ主の共通の願いですし、そのスレに共感する人の願いですね。

あなたには自分で作ったスレッドがあると聞きました。また、なければ自分でスレを作ればいいだけです。

ここで聞きますが、あなたは何故、嫌がられても他人のスレッドに投稿しなければいけないのですか?
なぜ、自分のスレッドに投稿しないのですか?
その理由をお聞かせください。

 

 

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<<ハイ!「仏教についてのひとりごと」ですね。>>


それは、スレの題名であって、コンセプトではないです。
コンセプトの意味が分からないですか?

質問に答えてください。
あなたはなぜ自分で作ったスレには投稿しないのですか?

 

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hanaさん、はじめまして。

そうなんですよね。
仏教の言葉を悪用して、自己の正当化をしているのです。
その自分の中の自我を見るのが仏教だと思うのですが、
困ったものです。

 

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ありがとうございます。
悪意のない方であれば、知識とか関係なくどなたでも歓迎です。

そうですか。
hanaさんのスレッドも荒らされたことがあるのですね。
自分のスレッドにはスレ主の想いや願いが込められていますから
荒らされるのは嫌なものですよね。
よくわかります。

 

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<<仏教は釈迦の教えと聞いています。そうであれば この際 大乗仏教は仏教から独立して他宗教として存立する方がお互いに良いのでは。>>

 

そうですね。確かにそう思います。
歴史上の仏陀の言ったことと矛盾する教えはそうしたほうがいいでしょうね。
大乗仏教が仏教というからには、少なくとも帰依仏の仏は仏陀であってほしいですね。

 

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pipitさん
お久しぶりです。

pipitさんに教えていただいたパーリ語原典サイトで大きく進むことができましたので
pipitさんには本当に感謝しています。
いま、原典サイトにアクセスできないのですが、pipitさんはアクセスできていますか。

私は自分なりにつかめてきましたので、掲示板はそろそろいいかな、という感じです。
それよりも、自費出版の原稿のほうに時間を注ぎこみたいところです。
株式版からの姿勢で、投稿があったらレス必ずしていましたので
時間がそれに取られすぎる面があります。

<<私も私で、がんばりたいです。>>
pipitさんはとても真摯ですので、ぜひ頑張ってくださいね。

 

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<<それは、釈迦の教えですか。>>

いえ。私がそう思っています。

 

<<「激流から逃げる」というのが違うように感じた>>
<<激流は起きないと思います。実践しているなら。>>

ですから、『激流』の意味するものがあなたと私では違うと思います。
『激流から逃げてはいけない』と誰かが言ったので
私の思う激流は逃げようと思って簡単に逃げられるようなものではないことを言ったのです。

あなたの意味する『激流』とは何ですか?
それは、実践したらすぐなくなるものなのですか?
そして『激流から逃げてはいけない』と言えるくらい簡単に逃げられるものなのですか?

 

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こういう流れです

<<激流から逃げたら、何の解決にもなりません。>>
    ⇓⇓⇓
精進しない限り、逃れられないくらいの激流なのですよ。
<<激流から逃げたら、何の解決にもなりません。>>というようなものではないのです。
そして島や洲を作って、その激流から逃れろということなのですよ。
    ⇓⇓⇓
<<その状況から逃げるようなことでしょうかね。妄想して誤魔化すとか?
言い訳するとか、自己正当化するとか。>>
    ⇓⇓⇓
その妄想、自己正当化、こそが激流の流れなのです。
ですから、妄想してごまかすとか自己正当化するとかは、まさに激流の中にいることなのです。

 

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<<あなたは釈迦の言葉を研究し、大乗仏教の間違いを指摘する本を出すことを目的としていて、修行する気はないのですか?>>

大乗仏教の間違いを指摘する本を出すことを目的とはしていません。
歴史上の仏陀の本当に言いたかったことは何だろうか、ということです。

<<修行する気はないのですか?>>
この意味が分かりません。
もし、このスレを読んでいるのであれば、十二縁起の瞑想をしている、四念処観をしている、と書いていますが・・・

 

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その妄想、自己正当化、こそが激流の流れなのです。
ですから、妄想してごまかすとか自己正当化するとかは、まさに激流の中にいることなのです。
  ⇑⇑⇑
無量から引き離そうとする、肉体の感覚、五官、記憶、イメージ、妄想、観念・・・・
そのすべてを私は『激流』と言っているのです。

これも、前に書いたことです。

 

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<<精進すれば、激流は起きなくなりますよ。>>

島を作るのは、激流があるからです。
生きている間、激流はあります。
肉体の感覚があり、思考がありますから、いつも押し流される危険はあるのです。

ただ、これは見解の違いですし、私の考えに合わせていただこうという気は全くありません。
私が勝手に思っているだけですから。

本も誰でも出せる自費出版ですし、読む人は全くいなくても、死後残しておきたいという自己満足だけのことです。大層なことではありません。
よく、自分史を出す人がいますが、それのようなものです。

 

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<<釈迦の言葉ではく、自分の見解だということですね。ありがとうございました。
本が出版できることを祈っています。>>

ありがとうございます。

<<激流がない時には、島もないということですか?「自分」か「無量」かどちらかだと仰っていたのは。>>

激流は五蘊が集まったときに、つまり肉体を持ってから、いつも流れています。
そのままだと流されてしまうので、法の島を作れと言ったのです。
これも私のただの考えです。
自分というのは五蘊の集まりです。
あるいは、五蘊の集まりを自分と考えている観念です。(感覚も含めて)

こういう意味で、自分か、無量か、です。

 

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<<精進すれば、激流は起きなくなりますよ>>
<<激流そのものが「自洲」なんじゃないでしょうか。>>
<<激流から逃れたいために作った島は、激流の影響を受けていると思います。激流の続きというか、激流の一部というか。そうじゃなくて、激流を見定めたところにあるものじゃないですか。>>

前も言いましたが、私の考えている『激流』とあなたの考えている『激流』は全く違うものだと思います。
あなたの上のことばがそう示しています。
①<<精進すれば、激流は起きなくなりますよ>>
私は精進しても激流は生きている限りあるという『激流』を想定してます。

②<<激流そのものが「自洲」なんじゃないでしょうか。>>
自洲は激流の中に作られるものと思ってますから、私は激流そのものが『自洲』ではないと思っています。

③<<激流から逃れたいために作った島は、激流の影響を受けていると思います。激流の続きというか、激流の一部というか。そうじゃなくて、激流を見定めたところにあるものじゃないですか。>>
激流も洲(島)もどちらも仏陀が使った比喩ですので、そのものを指しているわけではありませんが
私は、洲(島)は、激流に押し流されないための避難場所を作れ、と言ったのだと解釈しています。

ただ、他の人が全然別の意味で、激流も洲(島)も捉えたとしても、それはそれでいいのではないでしょうか。
ただ一つ言えるのは、私は、洲(島)は、激流に押し流されないための避難場所を作れ、と言ったのだと解釈しているということだけです。
間違ってるかもしれませんし合っているかもしれませんが、私はそう思っているというだけです。

 

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世の欲望と嫌悪を制御している『自分』を
四念処観によって整えられている『自分』を
島(洲)とせよ。
ということだと思いますが。

つまり、、四念処観によって整えられた自分を、そして四念処観という法を
激流の避難場所とせよ・・・ということだと思っています。

 

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肉体の感覚もすべて、分離、限定へと押し流す激流ですから
肉体を持っている間は激流はあると考えています。

修行が進むと、洲にいる時間が多くなるのではないでしょうか。

 

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妄想を継ぎ足すことや、連想することが少なくなるので
おっしゃるように激流は弱まるかもしれません。
肉体の感覚はそのままですので、目の前の激流はいつもあるとは思います。

 

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島も喩えですが
彼岸という喩えもあります。
それは激流を渡り終えたところの比喩です。

ただ、激流がなくなる比喩は知りません。

 

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自燈明法燈明は、仏陀が亡くなる前の説法です。

たぶん、他者をよりどころとするな、ということの強調でもあったと思います。

 

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この『仏教についてのひとりごと』スレッドを立ち上げて1年以上が経過しました。
その間、数多くの人に閲覧いただき、また多くの人の訪問を受けました。
感謝いたします。

最初から掲示板では投稿があったり質問があったら必ず返信してきたのですが
このままではいつになってもライフワークの自費出版の原稿ができません。
人生の時間は限られています。
今後はライフワークを最優先にしていきますので、投稿していただいても返信できないことも多くあると思います。
ご了承ください。
株式版以来、どんな質問にも必ず真摯に答えてきましたので、残念ですが。

この哲学や東哲カテゴリーには、仏教の知識があり、時間があり、そして人に教えてあげたい親切な人が沢山おられますので、仏教に関して聞きたいことがあればそういう人たちに聞いていただければ助かります。

もう時間がないので今年は無理となりましたが、来年あたりに自費出版できたとしても、このスレに自費出版の報告や宣伝は一切しません。
こういうものは縁のある人に自然に渡るものだと思いますので。

もちろん、全く掲示板に投稿しないわけではなく、ライフワークを最優先にして、余った時間でできる範囲で、としたいと思います。
質問には絶対に答えなければならないという自分の縛りをなくして
ライフワークのほうにより多くの時間を振り分けたいと思っています。
ご理解ください。