仏教についてのひとりごと 115

<<そこでも満足できなかった釈尊は、そこで“師を離れ”ネーランジャ河のほとりにある森に入って、ひとり修行を深め、そこで「明けの明星」に出遭ったという。後に仏弟子たちはそれを「想滅定」と命名する>>

 

あなたが書いている仏陀の記述は嘘ですので、仏陀には触れずに、今までのように龍樹教だけを宣伝しておいてください。

仏陀は、アーラーラ・カーラーマで無所有処定(無所得有処定ではありません。あなたの間違いです。)に、ウッダカ・ラーマプッタで非想非非想処定にすばやく達しましたが
禅定は解脱に達するものではないと見切って離れたのです。

 

それからの長い苦行生活には師はいませんでしたから、<<そこで“師を離れ”ネーランジャ河のほとりにある森に入って>>というのは間違いです。

 

<<ひとり修行を深め、そこで「明けの明星」に出遭ったという。後に仏弟子たちはそれを「想滅定」と命名する>>


仏陀が明けの明星を見て悟ったというのは嘘です。成道時に滅受想定に入っていたというのも嘘です。

 

あなたは、仏陀の記述はしない方がいい。嘘が多すぎます。
龍樹や道元を解説していたらいいでしょう。

 

 

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【実体】とは、『さまざまに変化してゆく物の根底にあって持続的だと考えるもの』という意味です。

現象すべては、様々に変化していきます。
【自己】【私】というのも、一時的な現象であり、現象が集まったものを仮に【自分】と言っているのですから、実体などないでしょう。
ですが、現象の根底にあるもの、このことを言っています。

これを多くの宗教では神と言います。
現象の根底、背後に厳然としてある神を否定するのであれば
キリスト教イスラム教の全否定となります。
あなたは、キリスト教イスラム教の根本を全否定するのですね?

そして、仏陀は、そのような現象の根底にあるものを実体があるとか実体がないとか、論議することを禁じました。

あなたはその実体があるとかないとかの形而上の論議を禁じた仏陀の教えに背き、『すべてに実体はない』と断言しているのです。

 

 

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<<ハイ!全否定します。仏教も否定します。言語も否定します。人間も否定します。否定も否定します。この絶対否定において、すべての宗教をあるがままに肯定できる絶対肯定の世界が現成します。>>

 

これ、いかに馬鹿馬鹿しいことを言っているかわかりませんか?
キリスト教イスラム教、仏教、すべての宗教を全否定すると、すべての宗教をあるがままに肯定できる絶対肯定の世界が現成するのですか?
現象の背後の神というものを全否定して、なぜ『すべての宗教をあるがままに肯定』できるのですか?
キリスト教をあるがままに肯定するということは、絶対神を認め信じるということですよ。
頭から神を全否定しておいて、『絶対肯定』などというのは、あなたが観念の迷宮に入っているからです。

実体否定、二元対立否定という観念論に陥っているからそのような無意味なことが言えるのです。

仏陀の言う中道は八正道のことでそれ以外ではありません。
仏陀が言う『空』とは、泡のように消えるもの、という意味です。
龍樹が作り上げた意味とは違います。

龍樹は空仮中ではないですか。仏陀のいう意味と全く違うことはわかりますよね。

 

 

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<<同じことを言っていますよ。(^^)>>


そうですか。じゃ、龍樹の言った空仮中の中とは八正道のことなのですか?

 

<<貴兄が実体に執着するから、絶対肯定するという仏知を自覚できずに、仲良く、お手手つないで 歩けないのではないのでしょうか。>>

 

全く、逆です。
私は、実体があるとか実体がないとかは、形而上学、観念論なので、論議してはいけないという仏陀に賛成しているのです。
ですから、あなたのように神にも実体がない、などとは言っていないのです。
ですから、私はキリスト教も尊敬してますよ。
あなたが、仏陀に背いて、『神にも実体がない』と断言しているだけです。
その実体否定に固執していることこそ、対立を呼ぶのですよ。

イスラム教の人に向かって『あなたの神には実体がない』とあなたは言えるのですか?言えないことを掲示板だからといって書いてはいけません。

 

 

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<<本当に相対的議論になるとヤッカイです。>>

 

そうですよ。
だから、仏陀は、形而上のことは無記とし、論議するな、と言ったのです。
それを、龍樹に心酔しているあなたが、『仏教は縁起だからどんなものにも実体はない』『神という者にも実体はない』と哲学的断言をしているのです。

仏陀の教えから遠く離れていることが分かりませんか?

 

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<<すべては縁起生ですから、空にも「第一義諦」と「俗諦」の両義があります――断常中道。>>
<<この二元対立を、形式論理を超えた智慧によって和合させていくのが中道(不二中道)というのが、四諦の正道ではないのでしょうか。>>

 

仏陀が言ったのは、断見も常見も迷妄ということです。

 

<<『中論』というのは、人間を超えた無量なるものに頭をさげる「信仰の論理」でもありますから、龍樹も在家には阿弥陀如来の念仏を勧めています>>

 

その『人間を超えた無量なるもの』にも、あなたによれば、実体はないのですよね?
あなたの観念では、実体も何もないものに頭を下げるということですね。
あなたによれば、阿弥陀如来にも実体がないのですね。
つまり、実体のない幻を信仰せよ、と言っているのですね?

 

<<非ず非ず、無し無し…と俗諦そのもの否定し尽くしたときに真実が現成するというのが空の論理です。>>

 

その『俗諦そのもの否定し尽くしたときに現成する』という『真実』も、あなたによれば、すべては縁起なので実体がないのですよね?

つまり、あなたの理論ではどこまで行っても実体がない幻なのです。
究極の虚無思想ですね。

龍樹もこういう人たちを多く生み出してしまったのですから、困ったものです。

 

 

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あなたの●因中有果説と因中無果説●という文章は、田上太秀の『涅槃経を読む』という本の記述ですね。
その本には、こうもありますね。

大乗仏教の涅槃経では、右に挙げた1、諸行無常諸法無我 2、衆縁和合説 3、業報説の3つのうち、1の考えに対して、諸行は必ずしも無常ばかりではないと言い、また、生類には不滅のものが内在していると言い、これが仏説であると説いている。』

 

 

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