仏教についてのひとりごと 112

<<以下↓に関しては特に異論反論はなかったと言うことで良いですネ^^>>

 

私は、仏陀が言ったことで外せないのは『苦』の真理だと思っています。

あなたが仏陀で外せないと思っているのが
<<(1)人は平等である>>
<<(2)輪廻に拘ってはいけない>>
<<(3)ただ独り歩め>>
というのはよくわかりましたので、そうですか、としか言えません。私は全面的にそうだとは思っていません。

 

<<(1)人は平等である>>と言っても、仏陀は身口意の行為によって、仏陀という最高の存在にもなれるしまた最低の存在にもなれると説いたのであって、行為による差はものすごくあるということです。

 

<<(2)輪廻に拘ってはいけない>>と言いますが、仏陀は輪廻からの解脱を説いたのは事実で、それは否定できませんね。

 

<<(3)ただ独り歩め>>も、誰にも依存せず、従属するな、という意味ではその通りですが、書きましたように、だんだん、良き修行仲間と修行するのが理想とされてきました。
集団生活の方に重心が移ってきたことも事実です。

 

 

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<<> 感謝していながら皮肉を言うのですか?タマには冗談も皮肉も言いますよ(笑)押してダメなら引いてみる^^>>

 

冗談と皮肉は違いますよ。
あなたたち2人の言うことがどうしても嘘くさいのは
言葉では『感謝感謝』『無数のご縁に生かされている。ありがたいありがたい。』『すべての人に感謝』と繰り返し言いながら
実際にやっていることは、嫌がらせであったり、皮肉であったり、粘着であったり、なのです。
本当に『無数のご縁に生かされている。ありがたいありがたい。』『すべての人に感謝』であれば、皮肉の言葉なんか出てきません。
嫌がらせなんかできるはずがありません。

あなたたち2人が頻繁に使う『感謝』の言葉をみるたびに、うすら寒い気持ちになるのですよ。
本当に自分が実行できることだけを書いたらどうですか?

 

 

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<<盤珪さんや親鸞の方法で、心安らかで人とも協力して生活していけた(いける)人というのは、自然のうちに、自分の心の観察をしていた(いる)人なのだと思います。自分が観察をしている、と、気づいているか否かは別として。>>

 

親鸞の教えから妙好人といわれる人たちが出たのは、とにかく一心に『救われていることへの感謝の念仏』を真剣に行なったからだと思います。

ここに来ては『感謝p(^_^)q』『努力と感謝を忘れないことよ˚✧₊⁎❝᷀ົཽ≀ˍ̮ ❝᷀ົཽ⁎⁺˳✧༚ 』『無数のご縁に生かされている、ありがたいありがたい。』とばかり言っている人たちのような口だけではなく、心から感謝し続けたのだと思いますね。

その人たちには、法然の教えと親鸞の教えの違いはなく、ただ有り難い一心で『南無阿弥陀仏』と唱え続けたのでしょう。
筏は重要だと思いますね。

 

 

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いや、このスレへのあなたの投稿は嫌がらせとは思ってないですよ。

ただ、あなたの過去投稿を見ると、私のスレ以外でいろいろ嫌がられても投稿されてるようで
そのことを言ったのです。

 

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え?また、この質問は全くの無視ですか?逃げないで答えてくださいね。
 ⇓⇓
さっき聞いたのですが答えていただけなかったのですが、あなたの言説のこれがどうしてもわからないので、あなたの頭の中でどういう整合性を保っているのかお答えください。
 ⇓⇓
<<自我を解体した後の、智慧です。ショーシャンク様の俯瞰の神心に対する反省を促す「皮肉」です。「皮肉」の必要な方もいるようです。>>
あなたは、【鳩は、真空では飛べない。鳩は、抵抗する風を揚力として空を舞う。逆風をありがとう。】と繰り返し言っていますね。
自分が空を舞う揚力として感謝する・・・と。
それなら、なぜ、自分が空を舞うことができる揚力に対して、皮肉を言い続けなければいけないのでしょうか?
【感謝】と言いながら、感謝する相手に皮肉を言い続ける・・・それは何故なのでしょうか?
皮肉もあなたの感謝の行ないの一部なのですか?

 

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あなたはよく言ってますね、
『すべての存在がご縁で、無数のご縁によって生かされている、ありがたいありがたい』と。

そして、あなたに批判的な人も向かい風としてあなたを空高く飛ばしてくれる揚力だから感謝する、と。

感謝する対象に、あなたは皮肉を言うのですか?
あなたにとって、感謝の中には皮肉が入ることができるものなのですか?

 

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<<「皮肉」は善でも悪でもないでしょう。>>

 

善とか悪とか言っているのではありません。

全面的な感謝の感情の中には皮肉は存在しない、と言っているのです。

あなたが本当に、自分を空高く舞い上げてくれる揚力だと思って感謝しているなら
その揚力に向かって皮肉は言わないですよね?

相手に気づきを与えたいというのは、自分が正しくて相手が間違っているので
相手を自分の考えに変えさせたいという気持ちからです。
それは感謝からではありません。
それがわかりませんか?

 

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あなたが本当に、自分を空高く舞い上げてくれる揚力だと思って感謝しているなら
せっかくの向かい風の揚力を
追い風に変えたいとは思わないですね?
追い風に変えたら、揚力ではなくなるからです。


もう、いい加減、自分の心を見つめたらどうですか?
自分の心に正直になったらどうですか?

あなたは自分の理論が論破された、言い負かされたことに腹が立って仕方ないので
いつか言い負かそうとして皮肉を言っているだけなのです。
『向かい風に感謝』とか『批判に感謝』とか、
あなたは頭だけでそう思おうと努力しているのでしょうけど
どうしても自分の中の自我、我執、自己イメージが傷ついて痛くて仕方なくて
皮肉を言ってしまうのです。
攻撃しようとしているのです。

どうか、自分の心をみつめてください。
観念をいかに弄んでも、自我は増大するばかりです。
本当に怖ろしいことなのですよ。
私もそうですから言っているのです。

 

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<<六道輪廻――なんてことはない、この私の心だった。なんと重たい話ではないか。>>

そう。あなたの理論は観念論にしか過ぎません。私が中学生の時からさんざんしてきた過ちです。
20歳の時には、私もただの観念論で悟った気になっていました。本当に馬鹿でした。
自分の自我、我執、我塊はなくなるどころか増大していたのに、観念で悟った気になっていました。
このスレで様々な人たちの訪問を受けましたが、例えば大乗仏教の知識を披露してくる人も多かったですが、その知識のすべては知っていることでした。
インドの聖者たちも数多く知っています。シャンカラは大好きですし、ラーマ・クリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ、ラマナ・マハリシ、ヨガ・ナンダなど面白くて仕方ないですし、クリシュナムルティの本は全部持っています。もし、無人島で残りの人生を過ごすとして1冊だけ持っていくとしたらたぶん『クリシュナムルティの瞑想録』と思うほどの私ですが
クリシュナムルティではどこにも行き着かないと今ははっきり思っています。

あなたには全く見えていないでしょうけど、我塊というのはとんでもなく強固なものです。
『ただ観る』『気づく』は、私には無理でした。
私には筏がどうしても必要なようです。

筏なんかいらない、ただ観るだけとか、ただ信じるだけとか、簡単なように言う人を今は全く信用していません。
クリシュナムルティも、親友の妻と不倫していますし、人間関係はドロドロでした。
観念論ではどこにも行き着かないのですよ。

仏陀だけは、成道時から亡くなるまで言っていることが一貫しています。
人類の最大の教師は仏陀かなと思っています。
イエス・キリストは、私にとってはスーパースターですが
なにせ説いた期間が3年あまりで短すぎたことと、弟子たちのレベルが低かったですね。

 

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<<>あなたには全く見えていないでしょうけど、我塊というのはとんでもなく強固なものです。こうした言葉をたまに拝見すると思うのですが。 もしかしたら、ショーシャンクさんは、ご自身に完璧なものを求めすぎていらっしゃらないですか?完全に自我を消し去りたい、とか、考えていらっしゃいますか?>>

特に、『自我』や『我塊』は人によって全く違う捉え方がなされている言葉の一つだと思います。
仏陀は『わたしは矢を抜く最上の人である』と言いました。
その意味が最近ひしひしとわかるのです。そしてその矢をはっきりと見たら、誰もが抜きたいと思うでしょう。私は抜きたいと思っています。
自我を矢と思う人はほとんどいないでしょう。自我の意味が人によって、人の認識、洞察によって全く違うので、自我は必要なもの、消し去ることができないもの、と考える人が多いはずです。自我という言葉は人によってあまりにも指す範囲が違っていますから、私には、矢という言葉がぴったりきます。矢が刺さっているということがはっきり見えたら、抜きたいと思うはずです。刺さった矢の痛みで無量が見えないのが人間ですから。

<<そうしようというのは無理だと思うからです。それとのうまい付き合い方ができればいいと考えています>>というときの『自我』は私の認識している『矢』『我塊』とは違うものだと思います。
『煩悩』という言葉が人によっては思考全部を指すように。思考は実生活や仕事には絶対必要なものですから思考をなくすことなどできません。もし思考全部を煩悩と呼んでいる人がいれば、その人は『煩悩を完全に消し去ることはできない。それとうまいつきあいができればいい。』と言うでしょう。
それは言葉をそれぞれの人が全く違う意味で使うからです。

仏陀は、人間に毒矢が刺さっているのをありありとみて、それを抜こうとした人でした。
そして、矢を抜く道具、激流を渡る筏、を用意してくれてました。
クリシュナムルティのように、『真理に至る方法はない、道具はない、筏はない』『ただ観なさい』『向こう岸から始めなさい』という言説には惹かれるものはありますが、人間はそれでは何も変わらないのです。

 

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<<この「自我」というのは、エゴという意味合いで私は書きました。つまり、完全にエゴをなくすことは不可能だろう、ということを書きました>>

『自我』といい『エゴ』と言っても、どちらも非常に漠然とした言葉です。
人によって全く違う意味に使われている言葉でもあります。
赤い実さんが使われている『エゴ』とは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか。


<<その「矢」って別の言葉に言い換えるとどうなりますか?>>

どのような言葉に置き換えても実感を伴わない観念になってしまいます。
このような掲示板で言っても知的好奇心を少し満たすただの観念的なもので終わります。

もし、ただの知的好奇心ではなく、求道ということであれば、
例えば
四苦八苦の四苦『生老病死』の『生苦』とは何だと思いますか?
これを参究してみてください。
それが実感をもってわかるようになると『矢』の姿が少し見えてくると思います。