仏教についてのひとりごと 122

「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」がなぜ不可能なのですか?
たぶん、宮沢賢治はデクノボーとか役立たずとか言われていたことはあると思いますよ。

学校の先生を辞めてから農業指導の道を選びますが、しかし、1年ちょっとしか続きません。
その間も、農繁期に長期間東京に音楽を習いに行ったりです。
農業指導もアルカリ性にするため石灰を大量にばら撒いてしまったりして、石灰の会社と癒着しているのではないかと思われたりしました。
米作は酸性にも強いらしく極度にアルカリ性にしてはいけないようですが。
そんなこんなで、「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ」はそうだったと思います。
人は良くて、みんなのことをよく考えていたので嫌われたり苦にされることはなかったでしょうね。

ですから、「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」は、宮沢賢治その人だったと思いますよ。

何でもかんでも、達成するのは不可能で永遠にその道を完成することなく行くという観念にあなたは縛られているようですが(笑)

 

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どんな生き方を選択しようがあなたの自由です。

ただ、ここは歴史上の仏陀が本当は何を言ったかのスレッドです。

大乗仏教としても、あなたのいうように菩薩は永遠に菩薩として修行するというのはどの仏典にもない、あなただけのドグマです。
法蔵菩薩阿弥陀仏になったではありませんか?
あなたの言うことは、大乗仏教に照らしてもおかしいと思っています。
それはどうですか?

 

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いや、さっき書いたように、宮沢賢治は既に
「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ」だったと思いますし
「クニモサレズ」という感じだったと思いますよ。

人間は多かれ少なかれみんなそんな感じじゃないですかね。
誰からも無視されて、なんて一言も書いてないですよね。
みんな、そんなに褒められもせず、苦にもされないところで生きていませんか?

 

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釈尊が歩いた道というのは、本当は釈尊が何を言ったのかがわからないとわかりませんよ。

釈尊の顔も知らないはるか後世の龍樹が、不二中道だと言ったところで
それが本当に釈尊が言ったことか歩いた道なのかどうかは調べないとわかりませんよね。

 

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<<>みんな、そんなに褒められもせず、苦にもされないところで生きていませんか?>>
<<誰が??欲は生きる力です。そういう生きる力が無くなったら死ですね。>>

全く意味不明ですね。

そんなにみんな褒められてばっかりの人なんていませんし
あなたのようにみんなに苦にされている人も現実社会ではそう多くはないでしょう。

みんな、「そんなに褒められもせず、苦にもされない」人たちが多いと思いますよ。

 

 

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あなたもそこまで禅定が重要だと思っているのであれば
少し禅定してみればどうですか?

あなたがここに書いたところでは、1日に5分しか坐禅(しかも数息観)してないというではないですか。
それでよく、禅の実践とか言えますね。
あなたは妄想が次から次と多く湧き出るので、長時間の瞑想や坐禅ができないのではないですか?
そんな感じがします。

注意力不足からの誤記も多いですし。

坐禅」トピのスレ主のとりさんや参加者の水月さんにどうしたらいいか、聞かれたらいいと思います。
私は禅は門外漢なので言えませんが。

 

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<<それを感じて共に生きるのが愛でしょう。
人間の悲しみを見つめて下さいな。>>

口だけではなく、あなたがぜひ、それを実践してみてください。
人に説教するのは自分がちゃんとできてからにしましょうね。

 

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<<日蓮宗浄土真宗禅宗真言宗天台宗キリスト教イスラム教も宇宙のはたらき、
ですから、互いを認め合って仲良くしなければいけません。>>

これはその通りだと思う。
すべての教えは向こう岸に渡る筏にしか過ぎない。
クリシュナムルティは筏を否定したが、人間は筏がないとどうしても激流は渡れない。
クリシュナムルティは天才だったので筏がなくても渡れたのかと思っていたが
晩年『誰一人変わらなかった』と言ったようにやはり筏がないと変われない。

歴史上の仏陀の真意を探求するために、仏教の全否定から始めたが、仏陀の真意がわかってくると、仏教の全肯定へと進む。また、仏教以外の教えの全肯定へと進む。

大乗仏教は失われた主体の復興運動だと思う。
法華経において久遠実成の釈迦が説かれ、大乗涅槃経においてついに常楽我浄が説かれるに至った。『無常・苦・無我・不浄』から『常・楽・我・浄』への大転換。

大乗仏教ヒンドゥー教の大きな影響があることは数多くの仏教学者が認めざるを得ないところ。
そしてヒンドゥー教大乗仏教の大きな影響を受けた。
これは否定しようにも否定できないところ。

あなたのような従来の仏教者、特に大乗仏教者は、キリスト教イスラム教を肯定しても、バラモン教ヒンドゥー教は頑なに否定する。また大乗仏教仏陀の教えを小乗仏教として蔑ろにする。
大乗仏教の功罪の中の悪い部分だ。
現代において、ここまで文献学が進み、歴史上の仏陀が本当に言ったことが相当に明らかになってきたのだから、仏教者であればそこに最大限の敬意を払わなければならない。

歴史上の仏陀の真意がわかってくると、かえって大乗仏教の本当の良さもわかってくる。
法華経は素晴らしく有り難いお経だし、禅の公案の良さも感じられてくる。

あなたも、小乗否定、ヒンドゥー教否定はそろそろ脱却した方がいい。
大乗仏教成立以来の根強い偏見は捨て去ることだ。
宇宙の全肯定というあなたの言っていることに反することとなる。

 

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<<>あなたも、小乗否定、ヒンドゥー教否定はそろそろ脱却した方がいい。>>
<<いつ否定しましたか?>>

釈尊の在世時、阿羅漢は最高位の悟りの境地に至った人をあらわしていました。
最高位の悟りに達した人ですから、阿羅漢とは何をおいてもまず釈尊その人をあらわしたのです。そののち、釈尊と同じくらいの最高の悟りに達した人も阿羅漢と呼びましたが、第一義的には阿羅漢とは釈尊その人です。
あなたは歴史上の釈尊を『阿羅漢は自我の執着が取れていないただの凡夫さ。ただの凡夫が恰好つけているだけ。』と罵り否定したではないですか。
忘れましたか?

現代になって、文献学が急速に進化し、どの仏典が釈尊の肉声に近いものかが明らかになってきています。
どの経典が本物かがわからなかった時代を引き摺って、歴史上の釈尊の言ったことを蔑ろにするのはそろそろやめませんか?

 

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<<違いを確認し習い合わせる「習合」で、自我でごちゃ混ぜにする「融合」に反対しています>>

それでは、あなたのいう【習合】では具体的にはどうなるのですか?
キリスト教イスラム教もヒンドゥー教もおよそ龍樹仏教以外の宗教はすべて神には実体があり実在すると信じています。
実体のない神を信じている宗教はありません。
神は実在すると信じているのです。

さて、あなたの信奉する龍樹仏教ではすべてに実体がなく神にも実体がないのでしたよね。
神にも実体のない龍樹仏教と実体のある神を信じているキリスト教イスラムヒンドゥー教などとどう『習合』するのですか?

 

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<<不二中道という二元対立の超越>>
<<無常と常住の対立和合したところの常。(断常中道)苦と楽の対立を和合したところの楽。(苦楽中道)我と無我の対立を和合したところの我。(有無中道)浄と不浄の対立を和合したところの浄。(浄穢中道)>>

仏陀は、龍樹が言うような二元対立の超越などという観念論を説いたわけではありません。

快楽を追い求め快楽に耽る生き方も、肉体の苦行によって解脱しようとする生き方も、
どちらも肉体に捉われた生き方であって真実の道ではなく、八正道という中道を行きなさい、と説いたのです。
つまり、肉体に捉われる生き方を離れ、智慧の道である八正道を選んだということです。

『苦』と『楽』という二元対立を超越するだとかという観念論にしてしまうのは間違いです。

 

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