仏教についてのひとりごと 116

あなたの引用する田上太秀の『涅槃経を読む』では、他にもこうあります。

『そこで経典は、仏性についてその特質を7つ挙げている。』
『1、常住であること(限りなく、いつもあること)』
『3、実在であること(事実として存在していること)』

あれ?あなたのいう『常住なものはない』『実在であるものなどない』ということと全く正反対なことが書かれていますね。
これはどうなのですか?

 

 

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田上太秀『涅槃経を読む』第3章仏性とは何か には

一切衆生のみなに仏性がある。これは我(アートマン)というべきである。
如来性品第4の4)

また、田上太秀『涅槃経を読む』第5章多彩な比喩説法を読む では

他の宗教が我(アートマン)があると説いているのは、虫が木をかじってたまたま字の形を作ったこととおなじと知らなければならない。だから、私は、仏陀の教えには我(アートマン)がないと説いたが、それは人々の心を落ち着かせるために説いたのである。
ただ、いま私は理由があって、ここで我(仏性)があると説かなければならない。

とあります。
大乗涅槃経に至って、仏教は我を全面的に認めたのです。

無常・苦・無我・不浄から常楽我浄に変わったのです。

大乗涅槃経はあなたの説と真逆です。
わざわざ出してこない方がよかったですね(笑)
無我を否定して、我を打ち出しているのですから。

 

 

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<<『涅槃経』はあくまで「空」「中道」を説きますから、常住と言っても、断滅と相対する常住ではなく、断滅と常住の相対を絶した「空・中道」としての常住です。>>

 

何でもかんでも『空』『中道』を説いたことにしたいのは、龍樹哲学一辺倒のあなたです。
涅槃経の大テーマは『常楽我浄』ですよ。
小乗の『無常・苦・無我・不浄』を『常楽我浄』に大転換したのです。

涅槃経の『仏性』の原語は『buddha-dhatu』です。
『dhatu』は基体という意味です。
ですから、『buddha-dhatu』は仏の基体です。
成仏の可能性という意味はありません。そう解釈するのは間違いです。
仏である基体、根源という意味です。

 

<<実在は実体ではありません>>


それもあなたの解釈にしか過ぎません。
実在というのは本当に存在することです。
幻ではなく、空虚なものでもなく、厳然と存在するという意味です。
実体も変化するものの根源にあって厳然と存在するものです。

 

もし、<<「実体なきところに真実の実在がある」と『涅槃経』は説きます。>>と断言できるなら、涅槃経の経文でそのように説かれているところを挙げてください。
道元の詩などでなく、経典の文言です。

 

 

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仏性(buddha-dhatu)が『成仏する可能性』『ブッダになる可能性』という意味でないことを証明しましょう。

涅槃経には
一切衆生に仏性(buddha-dhatu)があり、その基体(dhatu)は各自の身中に備わっている。
と断言しています。

その後に、『衆生は煩悩の相を尽くしてから仏となる。ただし、一闡提を除く。』とあります。

これの意味は、一闡提も基体(dhatu)は備わっているが、煩悩の覆いがあまりにも厚いため『成仏する可能性』『ブッダになる可能性』がない、という意味です。

ですから、基体(dhatu)は可能性という意味ではなく、仏性(buddha-dhatu)は『ブッダになる可能性』ではなく、仏の基体という意味であることが明らかなのです。

 

 

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<<はやい話、アートマンアートマンであっても、その中身を解体し「空性」にしているのです。いわば、「空性という法」が常住して在るということです。>>

 

それは、あなたのいつもの持論を述べたにすぎません。
大乗涅槃経のどこに、『アートマンアートマンであっても、その中身を解体し「空性」にしている。アートマンとは、「空性という法」だ。』と書いてあるのですか?
「空性という法」を我(アートマン)と呼ぶ経典作者なんていません。


『一切衆生のみなに仏性がある。これは我(アートマン)というべきである。
如来性品第4の4)』
あなたの解釈では、仏性は「ブッダになる可能性」ということですが、「ブッダになる可能性」を我(アートマン)というべきだと思う人なんていません。
あなたがこれから歌手になる可能性もゼロではなく可能性はありますが、その可能性をもって我(アートマン)とは言わないですね。
これは、仏性が仏の基体=基盤となる本体 という意味ですから、我(アートマン)といったのです。

 

 

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あなたはいつものように、答えられなくなると私のレスをスルーしますが
大乗涅槃経について、あなたの投稿に対しての反論をスルーということは
私の意見が正しいとしていいのですね。

私もあなたと論議したくもないのです。時間ももったいないので。
ただ、あなたが私がスレ主であるこのスレッドに、スレとは全く無関係な自説を大量に貼り付けるので、追い出すために、あなたの自説の間違ったところを指摘しているのです。

仏教者というのは、宗論や問答に負けたら死んだり処罰されたりもあり、少なくとも二度と自説を公に説くことはしませんでした。
それほどの覚悟をもって、自説を説いていたのです。
その覚悟がないのであれば、自分のスレッドで『ひとりごと』を言っていればいいではないですか。
私は、自分のスレッドでのみ、発言しています。
だから『ひとりごと』です。

あなたは他人のスレッドを自説の垂れ流しで荒らしているのですから、間違いを指摘されてそれに答えられないのであれば、二度と他人のスレッドを荒らさない覚悟はないといけませんよ。