仏教についてのひとりごと 118

<<釈尊の最後の言葉を紀野一義先生は、「比丘らよ、汝らに告げよう。こころ(サンカーラ・行)は移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ」と訳しましたが、私はそれに賛同しています。>>

 

さて、問題の仏陀最後の言葉は
vayadhammā saṅkhārā  appamādena sampādetha
です。

 

vayadhammā = 衰滅の法  衰滅の性質を持つ
saṅkhārā = 行  事象  すべてのものごと 
appamādena = 精励  努め励むこと 不放逸
sampādetha  = 行ず  成功する  成就する

 

これを中村元は『 もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修行を完成なさい。』と訳しました。

 

私が直訳するとしたら『すべてのものごとは衰滅するものである。不放逸によって行じなさい。』です。

 

このパーリ語の原文から、どうしたら
『こころは移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ。』になるでしょうか。
絶対になりません。

 

<<中国人って「インドの言葉を中国語に訳して、またそれを日本語に訳した仏道の翻訳家達」の誰かの事だと思う。>>


パーリ語から日本語に直接訳しても、上記の意味です。
紀野一義の訳は全くの間違いです。

 

<<釈尊は、「行」を重んじ、「行」そのものとして生きよ、決して知識としてとらえるな言われたという見解に、私は賛同しています。>>


行じることを重んじたから『 怠ることなく修行を完成なさい』と言ったのです。

 

 

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和弘という人も、他のスレッドでやってほしいんですよね。
私のこのスレッドで、仏陀の言葉をトンデモ解説されると、どうしても反論してしまいます。
もう、あまりにも仏陀の真意からかけ離れすぎているので、指摘するのも疲れてきました。

他のスレッドでいくら何を言っても私には何の興味もないですから、他のスレでお願いしたいです。
何度もそう言っているのですが、このスレにトンデモ解説を書き込んでいきます。
何が目的なのかがわかりません。

 

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<<「激流の中に居る」事が主訴だから、その翻訳になったのかな?>>
<<これを中国人は「怠ることなく精進せよ」と訳したため、「見落とすことなくそのなかに居よ」という忠告を、あきれた努力主義、あわれむべき苦行主義に解して、「根本苦悩からの自由」を遠いものにしてしまったということです。釈尊は、「行」を重んじ、「行」そのものとして生きよ、決して知識としてとらえるな言われたという見解に、私は賛同しています。「激流の心を見落とすことなく、注意深く、見落とすことなくそのなかに居よ」あくまで行において、激流の随所においてですが、「今・ここを、深刻にならずに真剣に生きる」ことを心がけたいと思います。〈いのち〉は刹那生滅という、激流の「今・ここ」の連続なのですから、かけがえのない「今・ここ」を大切にしたいものです。>>

 

このように書いているのは、仏陀とは正反対のことです。
激流の中に居よ????ですって?とんでもないことです。

私を含めすべての人類は、激流の中に居て圧倒的な力で押し流されているのです。
だから、仏陀は【自己を島(洲)とせよ。法を島(洲)とせよ。】と教えました。
激流の中に居てはいけない、島を作ってそこに避難しなさい、ということです。

そして、【自己を島(洲)とせよ。法を島(洲)とせよ。】とは何か、と言って
それは四念処観だと示しました。

仏陀はその生涯において、人類に向かって『あなたはいま激流の中に居るんだ。すぐそこから逃げなさい、離れなさい、島を作りなさい、向こう岸に渡りなさい』と言ったのです。
そして怠ることなく、島を作って激流に流されないようにするように言ったのです。

それを、『激流に居なさい』とか『怠るなというのは苦行主義』とかいうのは
仏陀の教えと正反対の妄言だとわかりませんか?

 

 

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和弘氏にあなたのような熱烈な賛同者ができたのは喜ばしいことです。

どうか、和弘氏の立てたスレッドで、お互いに研鑽し合っていただけませんか?
和弘氏の賛同者が多く集う、意義深いスレになると思います。

私のこのスレッドには書き込みは控えていただければ大変助かります。

 

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<<和弘さんの「激流の中に留まる」ということと、ショーシャンク さんの「激流から離れて、自洲法洲に避難する」というのは、結局同じことを言っているのだと思います。>>

 

それでは、『激流の中に留まらない』状態とは何なのでしょうか?

すべての人は激流の中に居ます。
わざわざ、『そのなかに居よ』と言われなくても、激流の真っただ中にいるのです。

また、saṅkhārāには心の意味はありません。
『こころは移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ』とすると
移ろっている心に居ろ、ということになり、これは仏陀の教えとは真逆です。

 

 

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<<激流から逃げたら、何の解決にもなりません。>>

 

そもそも、『激流』ということを何を指すかが、私とあなたでは全く違うようですから
言い合っても意味がありません。

たぶん、あなたや和弘氏は、『激流』を現実生活のように捉えているのでしょう。
現実から逃げるな、ということが言いたいのでしょうね。
しかし、私が言う『激流』とはそういう意味ではありません。
人類は激流から逃げられないのですよ。
逃げれるようなものと思っているのであれば、私の意味するものと全く違います。

逃げられない激流に、島を作ってそこに避難しろということです。
おし流されるなということです。

 

 

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そうですよ。
精進しない限り、逃れられないくらいの激流なのですよ。
<<激流から逃げたら、何の解決にもなりません。>>というようなものではないのです。
そして島や洲を作って、その激流から逃れろということなのですよ。

 

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<<その状況から逃げるようなことでしょうかね。妄想して誤魔化すとか?
言い訳するとか、自己正当化するとか。>>

 

その妄想、自己正当化、こそが激流の流れなのです。
ですから、妄想してごまかすとか自己正当化するとかは、まさに激流の中にいることなのです。

 

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自燈明法燈明が四念処観であることは、私は、6月27日の投稿(無依さんへのレス)でこう言いました。
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<<誰かが「自分の心を洲(島?)とし、よりどころとせよ」と言ったような(笑)>>
仏陀は【比丘たちよ、あなた方は、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、住しなさい。】と言いました。
そして、【しからば比丘たちよ、いかに比丘は、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、住するのでしょうか。】と言って四念処観が説かれます。
ですから、自燈明法燈明とは四念処観のことで、自分の心(受想行識)をよりどころにするのとは正反対でしょうね。
 ↑↑
このレスを見て、和弘氏は自燈明法燈明が四念処観であることを知ったと思います。
ほとんどの人(特に大乗仏教の人)は、自燈明法燈明が四念処観であることは知らないと思います。

自燈明法燈明の解釈一つとってみても、仏陀が言ったこととはかけ離れて捉えられているのが現状なのです。

 

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pipitさん
おはようございます。

仏陀の言葉を探求するうえで最もやってはいけないことは
大乗仏教の観念を基に仏陀の言葉を解釈しようとすることだと思っています。
私は、ずっと大乗仏教に親しんできて、多くの本も読んできました。
ですから、このスレを作ったときも多くの大乗仏教の人たちが大乗仏教の知識をレスしてくれましたが、そのすべては知っていることでした。
そのような知識を捨てるのはつらいことですが、本当の仏陀が何を言ったかを探求するためには
後世に堆積された夾雑物をまずはすべて取り除いてから、真っ新の状態で仏陀の言葉に向き合おうと思いました。

そのことは本当に良かったと思います。
いまは、仏陀の言葉のひとつひとつが大きな実感を伴って迫ってきます。
観念で捉えていたら絶対にわからないことでした。

有名な仏教学者も、大乗仏教の知識で、仏陀の言葉を無理やり解釈している人があまりにも多く、仏陀の真意からかけ離れたものになっているのです。

 

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<<私のトピにも、本当にもうどうしようもない人が生息しています。>>

株の掲示板のときもアラシはいるにはいましたが、哲学カテは確信犯が多いですからやっかいですね。

和弘氏の目的がわかりません。
私は株の掲示板の時から、レスがあればどんなに忙しくても必ず返信してきましたので、その姿勢は崩したくなかったのです。

この前も、和弘氏が禅の十牛図山田無文の本の内容をこのスレに貼っていましたので
十牛図が懐かしくなって、
十牛図、懐かしいですね。高校の時に、十牛図が面白くて嵌りました。最近は、全く見てないですが、私が学生の時に到達した結論は、第一図⇒第七図 は修行の段階を表しますが第八図・第九図・第十図は段階で捉えてはならず、第八図・第九図・第十図の3つの図でひとつなのです。』とレスしたのですが、この投稿にはレスありませんでした。

和弘氏は、対話をして理解を深めようという気はなく。自説をあちこちで貼って、多くの人に読んでほしいだけなのかなと思いました。
それで私のスレを埋め尽くされるのも迷惑な話です。

 

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<<「自洲法洲」の「自洲」は、「自分の心」のことではなく、自己(今・ここ ではないもの)のことであるということかな。>>

仏陀は、心(受想行識)は非我と言っていますので、自分の心をよりどころにしてはいけないと思います。

四念処観の念(sati)につきましては、『気づく』という瞑想法が主流になってきていますね。

私は『無常・苦・非我・不浄』を観じるという方法の四念処観をしていますが。
(現実問題、難しい交渉事などがあると想念をフルに使わなくてはならないことが多く、私にはどうしても想念に『気づく』ことが難しいので)

 

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<<お仕事で難しい交渉事に取り組む、取り組んでいる最中、例えば、交渉で人と会話している時に想念に気づくのが難しい、ということですか?  そんなに難しいですか?>>

私の能力のせいかもしれませんが、私には難しいです。
交渉事となると、自分の利益を最大限に持っていくために様々な知識(法律や商売のほうの専門知識など)からどのような対話に持っていくかなど思考をフル動員していきますので、積極的に思考に自己同化していく感じになります。
思考のすべてに気づきながら思考をフルに駆使することが私にはできませんので
むしろ、徹底思考型の瞑想(四念処観にしても)をしています。
十二縁起も徹底思考型の瞑想です。

 

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<<あなたは、まず釈迦を目指されるのですか?>>

 

いえ。釈迦に限らず、誰か特定の人物を目指すことはしません。
精神が無量でありたいだけです。
そのためには、矢を抜かなくてはならず、釈迦の教えを矢を抜く道具、激流を渡る筏としたいと思っています。

 

 

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<<レスがなかったというのは、その話に関して「特に言いたいことはなかった」のか「同意」なのか、そんなところかなと思います。>>


絶対に同意ではないと思います(笑)
和弘氏はこのスレッドに、いきなり山田無文の『十牛図』の文章を長々と貼りました。私は山田無文の『十牛図』の本は持っていて内容も知っていますので貼られても意味のないものでした。ただ、十牛図という言葉は懐かしかったので、和弘氏が十牛図についてどんな見解を持っているのかと思い、私の解釈を書きました。しかし、それに対して全く返答もなく、十牛図を貼ることもしなくなりました。
和弘氏は禅に一番親しい感じですが、本に書かれてある解説を後生大事に貼る行為は全く禅ではないと思います。
十牛図なら十牛図公案なら公案に、自分の独自の言葉で著語しなければ禅と言えないでしょうね。和弘氏独自の著語を期待したのですがありませんでした。

 

 

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<<私は逆に、どんな時にでも絶対に同化はしないです。 気づきが主体になっているので。>>
それは素晴らしいことです。私には無理でした。

<<私の場合はですが、あらためて十二縁起の瞑想、四念処観をする必要はないのです。>>

常にどんなときにも同化せずに気づいていられるのでしたら、あらためた瞑想は必要ないでしょうね。私は、想念に自己同化していることが多いので、徹底思考型の十二縁起の瞑想をしています。

<<そこで言われている知識については知りたいと思うのですが、なにかまどろっこしいものも正直感じてしまいます。>>

常に気づいていられるのでしたら、ここで言うところの知識は全く必要ではないと思いますよ。そういういう人にとっては、まどろっこしいものだと思います。

 

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