仏教についてのひとりごと 117

<<仏教は最悪の教えだと解りました。>>

 

いいんじゃないでしょうか。
『仏教』という統一されたものも、現状、ないですよね。
浄土教、禅、法華系、真言密教上座部仏教、どれを見ても仏教すべてに共通する点など何もないですね。
信じる経典もバラバラ、信じる対象や仏もバラバラ、教義も全く違いますし
『仏教』という統一されたものがあるとは思えません。

特に私は仏教には仏陀の真意は伝わっていないと思って、歴史上の仏陀が本当に言ったことを探求していますから、小乗大乗問わず既存仏教の全否定から始めました。

仏教にとらわれず、自分に合ったものを探求していけばいいと思います。

仏陀が言った中で最も凄いことは、自分が説いたものでさえ『筏』だと言ったことです。
筏は向こう岸に渡ったら捨てるものです。陸地に上がっても筏を抱えて歩くことは馬鹿馬鹿しいことなのです。

この考え方はとにかく素晴らしい。
そして、現在の『仏教』といわれるものがなくしてしまったのも『筏』の考え方です。

 

 

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<<『十牛図』>>

十牛図、懐かしいですね。
高校の時に、十牛図が面白くて嵌りました。
最近は、全く見てないですが、
私が学生の時に到達した結論は、
第一図⇒第七図 は修行の段階を表しますが
第八図・第九図・第十図は段階で捉えてはならず、
第八図・第九図・第十図の3つの図でひとつなのです。

 

 

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仏陀がなぜあれほど『怠るな』と言ったのか、どうしてもわかりませんでしたが
最近、そのわけがはっきりと見えてきたような感じです。

無量の精神がおぼろげながらでも感じられてくると、人間というものが、肉体の感覚、五官によって毎瞬毎瞬、いかに制限され、限定され、欠乏感へと押し流されているかが見えてきます。
それはもの凄い激流であり万力のような強い力であり、引き摺り込まれる汚泥なのです。
今、この瞬間でも、無量のものから引き離そうとする力がいかに強力なものであるか、これを本当に見ると、仏陀の言う言葉の一つ一つが身に沁みてきます。

特に大乗仏教は悟りや救いの大安売りですが、『激流』を見てしまうと、そんな甘いものではないなと思ってしまいます。

 

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<<大乗の場合は、「諸行無常に渦中にある自己」を覚る。言い換えれば「激流の渦中の主体」の自覚でしょうか。>>

 

あなたは、『激流』を見ていません。ただ、本の中、掲示板の中の『激流』という言葉を『煩悩』だとか『無常』だとか『自我』だとかいう言葉に置き換えて観念で理解したつもりになっているだけです。

 

<<釈尊の最後の言葉を紀野一義先生は、「比丘らよ、汝らに告げよう。こころ(サンカーラ・行)は移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ」と訳しましたが、私はそれに賛同しています。>>

 

数々の凡庸な仏教学者が仏教なるものを仏陀の真意からかけ離れた似非仏教に仕立て上げていきました。紀野一義もそうですね。「比丘らよ、汝らに告げよう。こころ(サンカーラ・行)は移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ」などとよくそんな馬鹿な訳ができたものです。サンカーラ=行 を『こころ』と訳すのも大間違いですが、『見落とすことなくその中に居よ』???勘弁してほしいところです。
仏陀が生涯をかけてあれほど『厭離しなさい』と繰り返した意味がまるでわかっていません。

さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。
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この訳はパーリ語から日本語に直接訳したもので、あなたのいうような『中国人』は関係ないですね。

 

<<これを中国人は「怠ることなく精進せよ」と訳したため、「見落とすことなくそのなかに居よ」という忠告を、あきれた努力主義、あわれむべき苦行主義に解して、「根本苦悩からの自由」を遠いものにしてしまったということです>>

 

あなたには仏陀の理解は無理のようです。
龍樹の観念論に心酔して、自分が心で捏ねくりあげた理論を無理やり原始仏典や大乗仏典の解釈に当てはめて独善的な観念を強めているだけだからです。
「怠ることなく精進せよ」をこともあろうに『あきれた努力主義、あわれむべき苦行主義』と言うとは、あなたには仏陀を語る資格もない。
八正道の6番目は正精進です。仏陀の教えの根本である精進が『あわれむべき苦行主義』???

精進を苦行というとは!!!あなたの捏ねくりあげた観念論ははっきり言って似非仏教です。

 

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<<そうした文化圏の違いの理解において、歓迎すべきものと、受容に慎重を要するものがあることは明らかである>>

 

現代になってようやく、歴史上の仏陀が本当は何を言ったかが明らかになってきています。
これは現代文献学の急速な進歩のおかげです。
仏教なるものが、歴史上の仏陀が説いたことと全く違うものになっていることはもう常識です。

『受容に慎重を要するものがある』というのは何故ですか?
仏陀が本当に言ったことがわかったらまずい人がいるのですか?
そうです。仏教にはごまんといるのです。
今まで仏陀と全く違った理論を作り上げてきた人やその人を信仰している人たちです。

仏教というのは仏陀が説いた教えですね?
仏陀が説いた教えと矛盾しているのであれば、それは仏教ではないですね。

あなたがこれほど、歴史上の仏陀が言った本当の言葉に拒否反応を示しているのは
あなたの観念体系、理論体系が崩れることを怖れているからです。

ひとつ、質問しますね。
歴史上の仏陀が言ったことと龍樹が言ったことが違っていたらどちらを取りますか?
あるいは、歴史上の仏陀が言ったことと道元が言ったことが違っていたらどちらを取りますか?
答えてください。

 

 

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