仏教についてのひとりごと 114

<<ヒンズー教には、ヒンズー教の特色という個性がある。キリスト教には、キリスト教の特色という個性がある。イスラム教には、イスラム教の特色という個性がある。それぞれの個性を尊重しながら、互いに習い合わせ、自らを深めて行く。>>

 

あなたは『自分は仏教徒ではない』とも言ってますね。
しかし、私には、あなたは、龍樹教、龍樹哲学、龍樹仏教に凝り固まっているように見えます。すべての実体をかたくなに否定することが仏教だと思っているようです。
宇宙の根源にも実体はなく、神という実体もない、と。
すべてに何の実体もない空論に執しています。

これは龍樹教にしか通用しない説です。仏陀の説いたことでもありません。
キリスト教の信者に、『あなたの信じる神には実体がない』と言ってみたらいいでしょう。
中東に行ってイスラム教徒に『あなたの信じる神には実体がない』と言ってみてください。
たぶん、あなたは生きて帰れないでしょう。

仏陀もそのようなことは言っていません。
宇宙の根源や自己の根源に実体があるかどうかは無記(答えない)と言ったのです。
『無常であり苦であるものはわれ、わがもの、わが本体としていいであろうか。』というのが仏陀の言説です。
『一切の形成されたものは無常である。一切の形成されたものは苦である。』と言いました。
これからわかることは、形成されたものは無常、苦、非我ということです。
形成されないもの=ニルヴァーナ を実体がないとは一言も言っていません。

仏陀の死後はるか後世に出てきた龍樹が作り上げた哲学にしか過ぎません。
仏陀の真意とは相容れません。

あなたが龍樹教の空論に固執している限り、ヒンズー教はもとより、キリスト教イスラム教も全否定せざるを得ないのですよ。
神道も、神に実体がないなどという冒涜は畏れ多くて、とんでもないことをいうやつだと見なされます。

仏陀はそのような形而上のものはあくまでも無記(言わない)としたのです。

 

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玉城康四郎(仏教学者・東京大学名誉教授)に
『ジッドゥ・クリシュナムルティの根本問題』という論文がありましたので引用します。
この論文では、『ザ・プロセス』『自分の話を聞いて目覚めたものが誰もいないと言ったこと』『死に対面したときの実際の態度』の3つについて論じています。

この中で私が注目したいのは、クリシュナムルティが自ら、『自分の話を聞いて変化したものは一人もいない』と言ったことです。
クリシュナムルティは真理に至るどのような方法をもすべて否定しました。
真理に至る道も方法も筏もない、としたのです。
確かに非常に惹かれるものではありますが、激流を見てしまうと、筏がなくて本当に渡れるのという気がしていたので、玉城博士の指摘は納得できるものでした。
この中でクリシュナというのはクリシュナムルティのことです。

  ※※※※※
クリシュナは次のように述べている。
それは一九七〇年、七月十六日から八月九日まで、スイスのザーネンで七つの講話が催されたなかで、第三回の講話のあとで、メアリー・ジンバリストMary zimbst 夫人とドライブしながら語ったものである。
夫人は、ニューヨーク財界の娘で、映画プロデューサーの夫と結婚し、未亡人となってからは誰よりも親しくクリシュナに寄りそっていた人である。

「他の場所よりは多く語ったインドでさえ、自分の話しを聞いて"変化した"changer ものは一人もいない。みんなは私を十分に活用していない。みんなは十分に真剣になっていない」

七十五歳にもなったクリシュナの発言としては驚くべきことである。
目覚めたものが一人もいないというのである。
もとよりクリシュナの指摘しているのは、真剣になるのはクリシュナにではなく、自己自身にである。
しかしかれは、それぞれの業熟体に真剣になれとは教えていない。
ただかれは、ありのままを経験し、経験したとおりに観察せよと強調するのみである。
解脱がそのように甘いものでないことは、かれ自身の人生経験が示しているとおりであろう。
なぜかれはそこに注目しなかったのか。これはひとごとではない。
  ※※※※※

 

 

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『ジッドゥ・クリシュナムルティの根本問題』(玉城康四郎)から【死について】(1)

第二の問題は「死」である。
死は、人間にとって最後の、そして最大の関心事である。
クリシュナがしばしばこれを問題にし、人々がこれについてかれにただしたことはいうまで
もない。
これらのなかには、自説を展開したものもあり、問いに答えたものもあり、またその説き方はさまざまであるが、結局は同じ視点である。
それは次の発言に要約されているといえよう。

「日々に死ぬこと、あらゆることに各分に死ぬこと、多くの昨日に死ぬこと、そして今過ぎたばかりの瞬間に死ぬこと、それがいかに必要なことか。死なしにはいかなる更新もなく、死なしにはいかなる創造もない」

これが、死を恐怖している人の問いに対するクリシュナの答えの帰着する所である。
死を恐れるということは、観察する主体と観察される死とが分裂しているためである。
そのような死の恐怖は単なる観念でしかない。
すべての観念が消滅するとき、すなわち真に死するとき、真の生が蘇ってくる。
それが更新であり、創造である。
観察者と観察される対象とが一体となっている世界である。
このようなクリシュナの立場は、道元の次のような一節を想い起させるであろう。

「諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり。その透脱といふは、あるいは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。このゆえに、出生死あり、入生死あり、ともに究尽の大道なり。捨生死あり、度生死あり、ともに究尽の大道なり。現成これ生なり、生これ現成なり。その現成のとき、生の全現成にあらずといふことなし、死の全現成にあらずといふことなし。この機関、よく生ならしめ、よく死ならしむ」

生を透脱してみれば、そのままが死も透脱しているのであり、死を透脱すれば同時に生も透脱している。
そしてそのままが、生死に出入すること自由自存である。
これこそ究尽の大道といわれる。
いいかえれば、生を全体的に実現することがすなわち死もまた全体的に実現することである。
道元をこのように見てくると、瞬間々々に死ぬことが、真に生きることであり、真の創造であるというクリシュナの見解と、質的にはまったく同一であるといわねばならない。

 

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『ジッドゥ・クリシュナムルティの根本問題』(玉城康四郎)から【死について】(2)

しかも注目すべきことは、クリシュナも道元も、このような生死一体の世界を、われわれ自身の超格的思惟において十分に頷くことができるという点である。
超格的思惟とは、全人格的思惟に形なきいのちが顕わになり、滲透し、通徹し、それによって単に人格体を超えているだけではなく、あらゆる格、あらゆるアスペクトを超えて営まれている所の思惟である。
そこでは、生死にかかわる一切の諸観念は絶滅し果てている。
クリシュナも道元も、このような超格的思惟において強烈な力を発揮していることを思えば右に挙げた如き見解の生ずることはきわめて当然であるといわねばならない。

しかしながら、その立場は業熟体の日常においてもまた自然に生まれているのであろうか。
クリシュナにおいてはいかがであろうか。
これこそがクリシュナの死に関する根本の問題である。

三つの例を挙げてみよう。

一九七一年の五月に、クリシュナはメアリージンバリストと一諸にオランダへ来て、アムステルダムで四回の講話を行なった後、五月の末に、イギリスのブロックウッドbrockWood、すなわちクリシュナルムティ財団の本部に帰り、六月末まで滞在した。
その間にひどい病気になった。
おそらく枯草熱hayfeveが悪化して気管支炎をおこしたらしい。
七十六歳になっている。
かれはメアリーに訴えている。

「もし戸外に出たら、死んでしまうかも知れない。生と死との間の壁が大変薄くなっている。死はいつも私とともにいたが、突然それがここにやってくるかも分らない。しかし今日ではない。どうか病気によって混乱させられないように。病気だけが私を混乱させる」

 

 

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『ジッドゥ・クリシュナムルティの根本問題』(玉城康四郎)から【死について】(3)

さらに一九七三年の四月末に、クリシュナとメアリーはニューヨークを経てパリに飛んだ。
そこでクリシュナは、サバ・ドゥ・マンチアリSach de Manziar が入院して危険な状態にあることを聞いた。
実はマンチァリ一家とは六十年来の友人である。
クリシュナが二十四歳、サバが二十歳、パリで互いに親しくなつて以来である。
そしてその姉妹たちもクリシュナに傾倒していた。
妹のマルセルMarle がクリシユナを病院につれてサバを見舞った。
クリシュナはひとりで病室に入ってサバに会い、ひどく心を動かされて出てきた。
後にかれはメアリーにつぶやいている。

「けっして私を病院では死なせてくれるな。家で静かに息を引きとりたい」
サバはその二日後に亡くなっている。

もう一つの例は、一九七七年の五月、ロスアンゼルスで手術を受けねばならなくなった時である。
クリシュナは八十二歳になっている。
その手術の前に、かれはメアリーに警告している。

「どうぞ見守っていてくれ。見放さないようにしてくれ。それによって自分自身が見守られていることを想いおこしたい。さもなければ、五十二年後に私は、もう沢山だと思うかも知れない。私はつねに、生と死との非常に微妙な限界を生きてきたのだ」

 

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『ジッドゥ・クリシュナムルティの根本問題』(玉城康四郎)から【死について】(4)

以上、三つの例を挙げてみたのである。
七十六歳、七十八歳、八十二歳の時である。
クリシュナ晩年の円熟した年齢である。
しかも死について人に説法しているのではなく、みずから死に面して発言したものである。
これら三つの例を見ると、クリシュナが平生ひとに説いていた死の見解とはひどく違っていることが感じられる。
いずれの例も、死にこだわっていることが確かである。
しかもそのこだわり方が常人の場合と同質であるといわねばならない。

第二の例は、六十年来の親友が瀕死の病床にあるのを見舞ったあとの発言としては、ほとんど常人とは変らない世俗の雰囲気を覚える。

ことに第三の例は、危険な手術の前だけに死への執着がひどい。
そのこだわり方は常人よりはさらに微妙である。

このようにみずから死に直面して思わず発言されているのを考察してみると、意識的に述べている死の見解とは違ったものが、いいかえれば、常人が死に関して疑惑している同じ性質のものが円熟してきたクリシュナの業熟体に潜んでいることを否認することはできないであろう。
円熟すればするほど、このような事実を確認することが、クリシュナに学ぶわれわれの重要な課題の一つであることを銘記すべきである。

 

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仏教についてのひとりごと 113

<<自分の思いどおりにしたい、という欲です。>>

 

それをエゴと呼ぶのであれば、私はエゴをなくしたいとは思いません。
むしろ、自分の思い描く、思い通りの現象が現れなくては本当ではないとまで思っています。
ですから、このカテゴリーで投稿されている人たちと私の『自我』『エゴ』に関する認識は全く違います。

 


<<お答えをお願いします。>>

 

端的に言えば、限定感でありそれによって起こされる欠乏感、分離感、無力感です。

 

<<ショーシャンクさんは、完全なものを求めすぎて、それがかえって我塊といわれるものの一部となってしまわれているように感じるのです。>>

 

全く、そうは思っていません。
実生活、仕事において、自分に有利な条件を得ることに心血を注いでいて、それをエゴとかも思っていません。
無量感でいたいだけですので、ストイックなわけでもなく、何かの団体に忠誠を誓うこともないです。
ただ、歴史上の仏陀の言いたかったことを探求すると、今までの仏教と呼ばれているものがあまりにもかけ離れていて、どこにも行き着かないものになっているという気がしてますので
それに対し強く批判してしまうことは多いです。
それももう、止める時期には来ています。
とにかく、自費出版で残さなければという思いが強いので、掲示板での投稿に割く時間は少なくしたいところです。

 

 

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<<ショーシャンクさんは、たまに、ご自分について「人格が卑小」とか書かれますよね。そこまで卑小だとは思えないんですよね。 そうは見えないというか。そしてそこまで完璧を求めることが、かえって苦しみ、エゴになっちゃっているのでは?ということを思ったのです。>>

 

これに関しては、謙遜しているとか、卑下して好感度を上げたいとか(笑)では全くなく、本当にそうなのです。
無量に気が付けば気が付くほど、中心=矢がはっきり見えてくるのです。
無量を感じれば感じるほど、自分が卑小だとひしひし感じるのですよ。
そういうと、今度は傲慢だという人が出てくるでしょうけど(笑)
自分の精神が無量そのものでないのは、卑小なのです。
自分を悟っていると言っている人は、全く『矢』を見ることができてないのです。
自分の近所のため池しかしらない山の中の人は、そのため池を大きいと思いますが
大海を見てしまうと、あまりにも小さい、ということです。
もし、大海のそばにいる人はもっとそう思うでしょう。

 

 

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確かにそうですね。
この和弘という人は、決まった語句に条件的に同じ反応しているだけなので
物事の本質ではなく周辺を観念で巡っている感じです。
時間ももったいないので、仏陀の言説を捻じ曲げる投稿以外は無視しようと思ってましたが
aozさんがレスされたので私見を述べます。

 

<<自己承認の欲求などそこには微塵もなく、西野監督の「自我の分別」は蹴飛ばされている>>


あの試合を見て、どうしてこのように断言できるかが不思議です。
西野監督は、自分のスタイル、信念として、攻撃こそ最大の防御、とにかく攻撃をやめないことをモットーとしています。
それは美しいことで、そのような信念に従って、第1戦、第2戦と素晴らしい試合となりました。攻撃を放棄して防御に専念していたらこの結果は生まれなかったでしょう。
しかし、第1戦、第2戦、うまくいきすぎて、心に余裕ができたと思います。
余裕というのはおごりでもあります。メンバーを大きく入れ替えて、好調の原動力の選手たちを休ませました。引き分けでも大丈夫という気の緩みがあったでしょうね。
好調な時にはメンバーを入れ替えないのが鉄則です。
しかし、その博打はうまくいかず、1点入れられてしまいます。
決勝トーナメント進出が非常に難しくなってきました。
しかし、運よく終盤にコロンビアがセネガルに1点入れて、急にまた16強という成果が目の前にぶら下がってきました。
その途端、西野監督は、自らの信念、今までのファイティングスタイル、前に向かう精神を全部捨て去って、負け試合でありながら闘うことを放棄してしまいました。

日本は、古来、柔道、剣道、華道、茶道、と勝負事や趣味のものを【道】という高い精神を磨き上げるものにまで昇華していきました。
目先の結果を貪ろうとするのでなく、高みに向かう精神を重んじたのです。

攻撃は最大の防御が西野監督の信念でした。自らの精神を最後の最後、捨ててしまったということです。

自らの起用失敗で1点負けていて終盤に差し掛かって追い詰められたところに非常に運よくコロンビアがセネガル相手に1点入れたので、あきらめかけた16強がコロンビアのおかげで目の前にぶらさがったのです。
そして、16強という結果や賞賛を、自らの精神をかなぐり捨てて取りに行ったのが真相で、
その精神は日本の【道】の精神ではないですね。

 

 

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<<「どうしたらトーナメントに行けるか」日本サッカー界のために、「自我の分別」を捨てた。非難を浴びることを覚悟の上で……。>>


たぶん、あの時点では、ここまで世界が非難するとは思わなかったでしょうね。
私も観ていて非常に失望してがっかりしたことを掲示板に書きましたが
書いた早朝の時点では、ネットのニュース記事でも『ああいうことも作戦のうち』という論調がかなり多かったですから。

もちろん、競技場の観衆は、やる気のない試合に大ブーイングでしたが、それはいつものことです。
そのあと、ここまで欧米のメディアが非難するとは西野監督もそれほど思ってなかったと思いますよ。

これは西野監督が自らの決断でしたことなのでこれ以上どう言っても意味ないのですが
あなたがあの決断を『菩薩』だとか、『自我を捨てた』とか言っていることがあまりにも現実と違いすぎるのでコメントしただけです。
16強になって最も称賛されるのは監督ですから、その目先の結果を姑息な手段で取りに行ったことを『自我の分別を捨てた』とまでいうのはどうかと思います。

仕事上の経験からしても、勝負は勢いが大事で、それを人は運を味方につけると言ったりしますが、第3戦はあの勢いのまま同じメンバーで行けば1位通過の可能性は高かったと思います。
1位通過と2位通過は対戦相手が天国と地獄ですから、最後の最後まで、1位通過を全力で勝ち取りに行くべきでした。

ただ、いずれにせよ、今まで培ってきた日本サッカーの評判を壊してしまったのですから
これから行われるベルギー戦は必ず勝たないといけません。
今夜、ベルギー戦で勝てば、西野監督はここで勝つためにああいうこともあえてした稀代の勝負師となります(笑)
そうなってもらえるように、ベルギー戦、西野監督を応援したいですね。

 

 

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仏教についてのひとりごと 112

<<以下↓に関しては特に異論反論はなかったと言うことで良いですネ^^>>

 

私は、仏陀が言ったことで外せないのは『苦』の真理だと思っています。

あなたが仏陀で外せないと思っているのが
<<(1)人は平等である>>
<<(2)輪廻に拘ってはいけない>>
<<(3)ただ独り歩め>>
というのはよくわかりましたので、そうですか、としか言えません。私は全面的にそうだとは思っていません。

 

<<(1)人は平等である>>と言っても、仏陀は身口意の行為によって、仏陀という最高の存在にもなれるしまた最低の存在にもなれると説いたのであって、行為による差はものすごくあるということです。

 

<<(2)輪廻に拘ってはいけない>>と言いますが、仏陀は輪廻からの解脱を説いたのは事実で、それは否定できませんね。

 

<<(3)ただ独り歩め>>も、誰にも依存せず、従属するな、という意味ではその通りですが、書きましたように、だんだん、良き修行仲間と修行するのが理想とされてきました。
集団生活の方に重心が移ってきたことも事実です。

 

 

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<<> 感謝していながら皮肉を言うのですか?タマには冗談も皮肉も言いますよ(笑)押してダメなら引いてみる^^>>

 

冗談と皮肉は違いますよ。
あなたたち2人の言うことがどうしても嘘くさいのは
言葉では『感謝感謝』『無数のご縁に生かされている。ありがたいありがたい。』『すべての人に感謝』と繰り返し言いながら
実際にやっていることは、嫌がらせであったり、皮肉であったり、粘着であったり、なのです。
本当に『無数のご縁に生かされている。ありがたいありがたい。』『すべての人に感謝』であれば、皮肉の言葉なんか出てきません。
嫌がらせなんかできるはずがありません。

あなたたち2人が頻繁に使う『感謝』の言葉をみるたびに、うすら寒い気持ちになるのですよ。
本当に自分が実行できることだけを書いたらどうですか?

 

 

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<<盤珪さんや親鸞の方法で、心安らかで人とも協力して生活していけた(いける)人というのは、自然のうちに、自分の心の観察をしていた(いる)人なのだと思います。自分が観察をしている、と、気づいているか否かは別として。>>

 

親鸞の教えから妙好人といわれる人たちが出たのは、とにかく一心に『救われていることへの感謝の念仏』を真剣に行なったからだと思います。

ここに来ては『感謝p(^_^)q』『努力と感謝を忘れないことよ˚✧₊⁎❝᷀ົཽ≀ˍ̮ ❝᷀ົཽ⁎⁺˳✧༚ 』『無数のご縁に生かされている、ありがたいありがたい。』とばかり言っている人たちのような口だけではなく、心から感謝し続けたのだと思いますね。

その人たちには、法然の教えと親鸞の教えの違いはなく、ただ有り難い一心で『南無阿弥陀仏』と唱え続けたのでしょう。
筏は重要だと思いますね。

 

 

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いや、このスレへのあなたの投稿は嫌がらせとは思ってないですよ。

ただ、あなたの過去投稿を見ると、私のスレ以外でいろいろ嫌がられても投稿されてるようで
そのことを言ったのです。

 

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え?また、この質問は全くの無視ですか?逃げないで答えてくださいね。
 ⇓⇓
さっき聞いたのですが答えていただけなかったのですが、あなたの言説のこれがどうしてもわからないので、あなたの頭の中でどういう整合性を保っているのかお答えください。
 ⇓⇓
<<自我を解体した後の、智慧です。ショーシャンク様の俯瞰の神心に対する反省を促す「皮肉」です。「皮肉」の必要な方もいるようです。>>
あなたは、【鳩は、真空では飛べない。鳩は、抵抗する風を揚力として空を舞う。逆風をありがとう。】と繰り返し言っていますね。
自分が空を舞う揚力として感謝する・・・と。
それなら、なぜ、自分が空を舞うことができる揚力に対して、皮肉を言い続けなければいけないのでしょうか?
【感謝】と言いながら、感謝する相手に皮肉を言い続ける・・・それは何故なのでしょうか?
皮肉もあなたの感謝の行ないの一部なのですか?

 

~~~~~~

 

あなたはよく言ってますね、
『すべての存在がご縁で、無数のご縁によって生かされている、ありがたいありがたい』と。

そして、あなたに批判的な人も向かい風としてあなたを空高く飛ばしてくれる揚力だから感謝する、と。

感謝する対象に、あなたは皮肉を言うのですか?
あなたにとって、感謝の中には皮肉が入ることができるものなのですか?

 

~~~~~~

 

<<「皮肉」は善でも悪でもないでしょう。>>

 

善とか悪とか言っているのではありません。

全面的な感謝の感情の中には皮肉は存在しない、と言っているのです。

あなたが本当に、自分を空高く舞い上げてくれる揚力だと思って感謝しているなら
その揚力に向かって皮肉は言わないですよね?

相手に気づきを与えたいというのは、自分が正しくて相手が間違っているので
相手を自分の考えに変えさせたいという気持ちからです。
それは感謝からではありません。
それがわかりませんか?

 

~~~~~~

 

 

あなたが本当に、自分を空高く舞い上げてくれる揚力だと思って感謝しているなら
せっかくの向かい風の揚力を
追い風に変えたいとは思わないですね?
追い風に変えたら、揚力ではなくなるからです。


もう、いい加減、自分の心を見つめたらどうですか?
自分の心に正直になったらどうですか?

あなたは自分の理論が論破された、言い負かされたことに腹が立って仕方ないので
いつか言い負かそうとして皮肉を言っているだけなのです。
『向かい風に感謝』とか『批判に感謝』とか、
あなたは頭だけでそう思おうと努力しているのでしょうけど
どうしても自分の中の自我、我執、自己イメージが傷ついて痛くて仕方なくて
皮肉を言ってしまうのです。
攻撃しようとしているのです。

どうか、自分の心をみつめてください。
観念をいかに弄んでも、自我は増大するばかりです。
本当に怖ろしいことなのですよ。
私もそうですから言っているのです。

 

~~~~~~

 

<<六道輪廻――なんてことはない、この私の心だった。なんと重たい話ではないか。>>

そう。あなたの理論は観念論にしか過ぎません。私が中学生の時からさんざんしてきた過ちです。
20歳の時には、私もただの観念論で悟った気になっていました。本当に馬鹿でした。
自分の自我、我執、我塊はなくなるどころか増大していたのに、観念で悟った気になっていました。
このスレで様々な人たちの訪問を受けましたが、例えば大乗仏教の知識を披露してくる人も多かったですが、その知識のすべては知っていることでした。
インドの聖者たちも数多く知っています。シャンカラは大好きですし、ラーマ・クリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ、ラマナ・マハリシ、ヨガ・ナンダなど面白くて仕方ないですし、クリシュナムルティの本は全部持っています。もし、無人島で残りの人生を過ごすとして1冊だけ持っていくとしたらたぶん『クリシュナムルティの瞑想録』と思うほどの私ですが
クリシュナムルティではどこにも行き着かないと今ははっきり思っています。

あなたには全く見えていないでしょうけど、我塊というのはとんでもなく強固なものです。
『ただ観る』『気づく』は、私には無理でした。
私には筏がどうしても必要なようです。

筏なんかいらない、ただ観るだけとか、ただ信じるだけとか、簡単なように言う人を今は全く信用していません。
クリシュナムルティも、親友の妻と不倫していますし、人間関係はドロドロでした。
観念論ではどこにも行き着かないのですよ。

仏陀だけは、成道時から亡くなるまで言っていることが一貫しています。
人類の最大の教師は仏陀かなと思っています。
イエス・キリストは、私にとってはスーパースターですが
なにせ説いた期間が3年あまりで短すぎたことと、弟子たちのレベルが低かったですね。

 

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<<>あなたには全く見えていないでしょうけど、我塊というのはとんでもなく強固なものです。こうした言葉をたまに拝見すると思うのですが。 もしかしたら、ショーシャンクさんは、ご自身に完璧なものを求めすぎていらっしゃらないですか?完全に自我を消し去りたい、とか、考えていらっしゃいますか?>>

特に、『自我』や『我塊』は人によって全く違う捉え方がなされている言葉の一つだと思います。
仏陀は『わたしは矢を抜く最上の人である』と言いました。
その意味が最近ひしひしとわかるのです。そしてその矢をはっきりと見たら、誰もが抜きたいと思うでしょう。私は抜きたいと思っています。
自我を矢と思う人はほとんどいないでしょう。自我の意味が人によって、人の認識、洞察によって全く違うので、自我は必要なもの、消し去ることができないもの、と考える人が多いはずです。自我という言葉は人によってあまりにも指す範囲が違っていますから、私には、矢という言葉がぴったりきます。矢が刺さっているということがはっきり見えたら、抜きたいと思うはずです。刺さった矢の痛みで無量が見えないのが人間ですから。

<<そうしようというのは無理だと思うからです。それとのうまい付き合い方ができればいいと考えています>>というときの『自我』は私の認識している『矢』『我塊』とは違うものだと思います。
『煩悩』という言葉が人によっては思考全部を指すように。思考は実生活や仕事には絶対必要なものですから思考をなくすことなどできません。もし思考全部を煩悩と呼んでいる人がいれば、その人は『煩悩を完全に消し去ることはできない。それとうまいつきあいができればいい。』と言うでしょう。
それは言葉をそれぞれの人が全く違う意味で使うからです。

仏陀は、人間に毒矢が刺さっているのをありありとみて、それを抜こうとした人でした。
そして、矢を抜く道具、激流を渡る筏、を用意してくれてました。
クリシュナムルティのように、『真理に至る方法はない、道具はない、筏はない』『ただ観なさい』『向こう岸から始めなさい』という言説には惹かれるものはありますが、人間はそれでは何も変わらないのです。

 

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<<この「自我」というのは、エゴという意味合いで私は書きました。つまり、完全にエゴをなくすことは不可能だろう、ということを書きました>>

『自我』といい『エゴ』と言っても、どちらも非常に漠然とした言葉です。
人によって全く違う意味に使われている言葉でもあります。
赤い実さんが使われている『エゴ』とは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか。


<<その「矢」って別の言葉に言い換えるとどうなりますか?>>

どのような言葉に置き換えても実感を伴わない観念になってしまいます。
このような掲示板で言っても知的好奇心を少し満たすただの観念的なもので終わります。

もし、ただの知的好奇心ではなく、求道ということであれば、
例えば
四苦八苦の四苦『生老病死』の『生苦』とは何だと思いますか?
これを参究してみてください。
それが実感をもってわかるようになると『矢』の姿が少し見えてくると思います。

 

 

仏教についてのひとりごと 111

<<『法華経』というは文学作品です。それが創作であると思っていたのですが、それは浅はかであったと、経典制作者の仏弟子たちに懺悔しています。今では、『法華経』は、仏弟子たちの深い禅定体験の中で聞いた釈尊の言葉を経典としてまとめたと思っています。詩・文学・音楽…等、そして、森羅万象の中に真実が隠されているのでしょう。>>

そうですね。私もそう思ってますよ。
法華経クラシック音楽のような芸術作品だと思っています。
クラシック音楽を何千回聴いたところで悟りには達しないように、法華経などの大乗仏典を何千回読誦しても悟りには達しないでしょう。
しかし、意識が拡がっていけば理解できなかったクラシック音楽が号泣するくらいわかるようなもので、意識が拡がったときに法華経を読めば号泣するでしょうね。
こう書くとまた、『お前は白隠くらいの悟りに達したのか』と言われそうですが(笑)


<<それで私も、朝夕観音を念ずるという『十句観音経』を唱えています。高尚な『法華経』の文字の底に触れることだと信じて。ショーシャンク様には「ガキの遊び」とお笑いになるかもしれませんが、その「ガキの遊び」の中にも真実が秘されているようです。>>

私も毎日、『延命十句観音経』は唱えていますよ。


<<高尚なショーシャンク様の眼から見たら>><<ご立派なショーシャンクさんは、ご立派な「観想法」を実践されていると存じますが>>

さらりと自然体でいることを心掛けてるのではないのですか?このような言い回しは強固な自我を感じてしまいますから、そこはいつも言われている『粉骨解体』されてください。

 

 

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<<四諦を捨てたら仏教ではないでしょう。>>


四諦十二縁起を瞑想する宗はどこにも現れなかったですね。
三十七菩提分法は、仏陀の在世中には整えられていなかったですね。
後世に付け加えられ整えられたものが多いですね。(原始仏典でも最古層でなく浅い層で完成形がでてきますがでてきます)
仏陀が最初から説いたのは四諦でしょうね。

 

<<筏がなくて簡単に激流を渡れるという人たちも数多く出てきましたが、その人たちは慈悲の心から言ったのだと思いますが>>

 

私が言っているのは、修行法を否定していった仏教者たちです。盤珪のように『不生の仏心でござれ』とだけ言う人とかのことです。
法然の口称念仏の中で生活しなさいと言った教えを、修行は不要で信仰だけあればいいといった親鸞のようなことを言っています。
この人たちが慈悲の心から言ったのは確かでしょうけど、やはり人間には筏=方法が必要なのです。

 

<<激流を渡り切ったショーシャンク様には、さぞかし、深い「仏の慈悲」を
お持ちなのでしょうね。凡夫からみたら羨ましい限りです。>>


うーん、あなたのこういう言い回しに、あなたの歪んだ自我を感じてしまいます。
このような自我は粉骨解体しないのですか?

 

 

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<<自我を解体した後の、智慧です。ショーシャンク様の俯瞰の神心に対する反省を促す「皮肉」です。「皮肉」の必要な方もいるようです。>>

 

あなたは、【鳩は、真空では飛べない。鳩は、抵抗する風を揚力として空を舞う。逆風をありがとう。】と繰り返し言っていますね。
自分が空を舞う揚力として感謝する・・・と。
それなら、なぜ、自分が空を舞うことができる揚力に対して、皮肉を言い続けなければいけないのでしょうか?
あなたの言説に真実味がないのは、こういうところなのですよ。

観念で書いているだけなので、【自我を粉骨解体】と言っても強固な自我、ドロドロした我執があるのに気がつかない。
【感謝】と言いながら、感謝する相手に皮肉を言い続ける・・・

あなたは結局、観念論を弄んでいるだけで、実際の心のなかの我執は全く粉骨解体できてませんね。

 

 

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<<その相念相続(念)による定慧に救いの道があると思います。>>

 

法然は無知な衆生をも救われる道を必死に探し求めました。
観想念仏ができない人、ほとんどの人がそうだと思いますが、そのような人が救われる道です。
あなたがいう<<相念相続(念)による定慧に救いの道があると思います。>>というのは、その本質が分かっていません。
『念によって仏を観想することができない人たち』のために法然は苦しまれたのです。
正念相続などできないのですよ。
ですから、法然は念はさておき、口で『南無阿弥陀仏』と唱えることのみだと言ったのです。
親鸞は、信じるという念を絶対とし、念仏は救われた感謝として唱えると言いました。
親鸞法然の教えを徹底したものとして後世で激賞されています。
確かに、インテリからすれば、親鸞の教えの方が徹底していて高度だと思います。
後世、法然より親鸞の方が評価はずっと高いですね。
しかし、実際には、親鸞の教えは難中の難です。
親鸞の教えは天台本覚思想なのです。
実際には、人間には筏が必要なので、法然の教えのほうがはるかに救われた人が多いと思います。

 

 

~~~~~~

 

私は、歴史上の仏陀が本当は何を言ったかを調べているだけです。
そのために重要なのは最古層の仏典に何が書かれてあるか、です。
後世に付け加えられた夾雑物をどんどんはぎ取っていって何が残るか、です。

私はべつに、龍樹や道元親鸞を信じてはいけないと言ってるわけではありません。
それは歴史上の仏陀が説いた教えではないと言っているのです。
優劣を言っているわけでもないのです。
キリスト教は当然、仏陀が説いた教えではありませんが、素晴らしい教えだと思っていますよ。
ただ、歴史上の仏陀が説いた教えではない、ということを言っているだけです。

あなたが何を信じようと、micが親鸞を信じようと、それはその人その人の自由です。
ただ、わざわざここにきて、皮肉や罵詈雑言を書いていくので、それらは歴史上の仏陀の教えとは違うということを書いているだけです。


<<天と地の両方を歩く。彼岸と此岸の両方を歩く。自分の足で歩く、というのが自燈明ではないのでしょうか。涙を禁じ得ない釈尊ならばこそ「両足尊」と呼ばれるのではないのでしょうか。>>

 

あなたの解釈もなかなか詩的でそれでいいと思いますよ。両足尊を天と地の両方を歩く。彼岸と此岸の両方を歩く、という解釈はあなたらしくていいと思います。
本来の両足尊の意味は、無足、多足、二本足で歩く生き物の中で、二本足で歩く人間で最も尊い人という意味で両足尊なのだとは思いますが、大乗的な禅的な解釈をするのはその人の自由です。

 

 

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<<横レス失礼^^>>


あなたに聞いているのではありません。書いた本人に聞いているのです。

 

<<逆風を起こす相手に逆風を扇ぐ相手に皮肉を言っているのです^^>>


自分を批判する人が出てきても、それを揚力として空を舞う、揚力となる風に感謝・・・と言っているのです。
向かい風がなければ空を飛べないのですから、向かい風に感謝と言っているのです。
自分を空に舞わせてくれる逆風を起こす相手は感謝の対象ですよね?
それに、あなたたちはよく言ってますね、すべての存在がご縁で、無数のご縁によって生かされている、感謝感謝・・・と。
感謝していながら皮肉を言うのですか?

 

<<その揚力で空高く舞い上がり・・・俯瞰するのですよ(笑)>>


本人は、俯瞰は天界の所業で否定してますよ。
あなたも代弁するならよく本人の投稿を読んでくださいね。

 

 

~~~~~

 

 

 

 

 

 

仏教についてのひとりごと 110

<<本題^^『歴史上の仏陀が本当は何を言ったのか』歴史上の仏陀(ゴータマ)が本当に言いたかったことのいくつかのうち・・・(1)人は平等である(2)輪廻に拘ってはいけない(3)ただ独り歩め   この3つは外せないと思っている^^>>


multitudeさん、やればできるじゃないですか。
何の関係もないスレッドに、スレッドの集う仲間たちに嫌がられながら自分の汚泥のような記憶の束から色あせたセピア色の想い出を取り出して自慢するよりも、スレッドのコンセプトに関係のある話題を投稿して会話するほうが楽しいのではないですか?

あなたが大事にしまっている記憶の束こそが苦である・・・のですよ。
これが心底わかってくると、仏陀の本質が見えてきます。


<<認識を異にする人を排除しようとしても・>>


認識を異にする人を排除しようとは思いませんよ。
第一、私は、今の仏教が仏陀の真意を伝えていないという確信がありますから
小乗大乗問わずすべての人と『認識を異にしている』のですよ。

全く違う意見も歓迎します。
ただ、こちらがその間違いを指摘したら、それに対して答えないと対話は成り立ちませんね。
私が指摘したことが間違いだと思ったら、典拠を明らかにしてその指摘の間違いをまた書けばいいのです。
そのようにして対話は成立するのであって
和弘という人のように、間違いを指摘されて答えられないと逃げてしまってまた関係のない自説を垂れ流す態度では、対話は成り立たないと言っているだけです。

逃げないのであれば、どのような異なった意見も大歓迎ですよ。
異なった意見があったほうが盛り上がりますから。

 

 

~~~~~~

 

たーぼーさん、おはようございます。
最近、ひしひし思うのですが、仏陀の言った言葉を、観念で理解するのか、物凄い実感で把握するのか、ですね。
『苦』や『激流』、『汚泥』、『矢』・・・これらの恐ろしさを実感できるかどうか。

その力の凄さを本当に見てしまうと、人類にはどうしても『筏』が必要だとわかります。

仏陀が見たこの世のあり様は、すべての人にとってとんでもなく大げさに思えるでしょう。
人生にはほんの少しの苦しみはあるけどそれを凌駕する楽しみがいっぱいあって
食べていけててまあまあ平穏で・・・
仏陀が言うような『すべてが苦』のわけはないし、自分に『毒矢』が刺さってもないし
『激流』にも巻き込まれているはずもないし、『汚泥』なんて無関係・・・・・

ほとんどの人はそう思って生きています。

しかし、はっきりと言えます。すべての人は苦の集積に向かっている、と。

 

~~~~~~

 

<<で・・・ショーくんにとって、この3つ以外で・・・外せないと思っていることは何ですか?(この3つは外せると思うならそう応えて下さいネ^^)>>

私は仏陀の教えの本質は『苦』だと思います。
これは難題中の難題なのです。
仏陀の言う『苦』が本当に理解できれば、ゴールに近いと思っています。
ただ、本当の理解が非常に難しいものだと思います。


<<(1)人は平等である>>
人は生まれによってではなく行いによってバラモンである、行いはただの行動という意味でなく身口意の行為ですから想念が重要になってきますね。想念によって大きな差が生まれてくるとは思います。

<<(2)輪廻に拘ってはいけない>>
輪廻のすべてを滅することが仏陀の言いたかったことでした。

<<(3)ただ独り歩め>>
最初期には特に重要視されていますね。
時間が経つと、良き修行仲間と修行するのが重要という感じになってきます。
私は、ただ独り歩め、は好きですね。

 

~~~~~~

 

<<まーさんを理解するのも、結構楽しい面があります^^>>


和弘さんもmultitudeさんもmicさんも悪い人ではなくむしろいい人だと思いますよ。
自分を含めてすべての人はそうですが、承認欲求の飢えによって意固地になるのです。


<<いや、実は簡単なのかも^^他者の「苦」をみて、あーだこーだ騒いでないで、見てる、その目玉を180度、外を見るのではなく、自分自身をみつめることができれば^^>>


そうですか。
私が見る限りでは、簡単ではなくとんでもなく難しいと思っています。
自殺する人は大きな苦を抱えているから仏陀の言う『苦』がわかると思いがちですが
仏陀の言う『苦』はわからないと思うのです。
自分の心を洞察しても、なかなか仏陀の言う『苦』まではたどり着けない感じです。
かなりの程度、俯瞰して観るときに、『苦』の本当の意味を知るのだと思います。
日本の仏教者で仏陀の言う『苦』のありさまを本当に観た人は白隠あたりですかね。

 

 

~~~~~~~

 

<<まあ、難しいと思っている間は難しいでしょうね^^>>


簡単だと言い切れる人は凄いことだと思いますよ。少なくとも私には簡単でないので。

 

<<案外つまらないことで「苦」と勘違いしているのかと・・・^^>>


つまり、【苦】といっても大したことでなく、勘違いしているだけということですね。

 

<<誰かが「自分の心を洲(島?)とし、よりどころとせよ」と言ったような(笑)>>


仏陀は【比丘たちよ、あなた方は、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、住しなさい。】と言いました。
そして、【しからば比丘たちよ、いかに比丘は、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、住するのでしょうか。】と言って四念処観が説かれます。
ですから、自燈明法燈明とは四念処観のことで、自分の心(受想行識)をよりどころにするのとは正反対でしょうね。

 

<<この俯瞰は誰がしてるの?>>


誰という哲学的問いはあまり意味はないと思っています。自分の心や世のありさまを俯瞰して観ているような感じになったことはないですか。

 

<<白隠は本当にみてると達観できるあなたも、白隠以上なんですね^^>>


私は卑小な精神で悟りとは程遠いです。
白隠は若い時に、法華経を読んで『くだらない。こんな喩え話ばかりのものに功徳があるなら講談本にでもあるはず。』と言って捨てましたが
悟った後に法華経を読んで号泣しましたよね。
白隠はなぜ号泣したか、です。
禅の人たちは、牛が窓を通過したのに尻尾だけ通過できなかった、などという禅問答ではなく、白隠がなぜ号泣したのか、というところに参究したほうがいいとは思っています。

 

~~~~~~

 

<<この俯瞰は誰がしてるの?>><<?逃げてるの?哲学的問い?単純に聞いているだけですよ?>>


他者でないことは明白なので、自分が観ている、ということでしょうけど、
『自分』にはいろいろな意味があって、『五官』『自我』『自我を超えた何か』という形而上の迷宮に入ることになるので、しいていうなら『他者ではない私』でしょうね。

 

<<↑これと ↓これは、矛盾していると思いませんか?>>


いえ、矛盾しているとは思いません。
誰か、偉人伝を読んで、この人は素晴らしい魂の人だ、と感動することは数多くありますね。
フィクションであっても映画で感動することもあります。
イエス・キリスト以上でないと聖書で感動しないか、といえばそんなことはないですね。
それだと、誰も聖書で感動する人、イエスキリストが素晴らしい魂の人だと思えなくなりますね。
映画を観て感動する人は多いですが、法華経を読んで号泣するのは、何かをそこに観たからだと思うのですよ。そこを探求したいと思っているということです。

 

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<<自宗を絶対視する方にはお叱りを受けそうですが、それが「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」等の真言行法でしょう。四念処という修行についていけない私のような凡夫にもできる簡易な行法が、『観音経』だと思いまして、一心称名によります「念・定・慧」の道を歩んでいます>>

そうですね。
私も、仏陀の言った『激流』の凄まじさ、怖さがひしひしと感じられてきたので
これは人類には『筏』が絶対に必要だと思っていますよ。
仏陀が残した筏は四諦十二縁起だと私は思っていますが、小乗仏教大乗仏教もそれを捨ててしまったため、天才的な宗祖たちが「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」などの筏を生み出したのだと思います。

筏がなくて簡単に激流を渡れるという人たちも数多く出てきましたが、その人たちは慈悲の心から言ったのだと思いますが、結果はひどいものになっています。
筏はやはり重要ですね。

仏教についてのひとりごと 109

bwv602さん、詳しい解説ありがとうございます。
bwv602さんが書かれた理論は実は大乗仏教の大きな論争の論点であり続けました。

天台哲学と華厳哲学の論争。天台哲学の中での、山家派と山外派の論争。

真如の中に現象界や迷いは具わってるのか、具わっていないのか、で大論争をし続けたのです。

そして、その論争の果てに、挙げられたような結論に達したりした歴史があります。
『現実の絶対否定を真如が要求するからといって、現実と真如とは全く違ったものかというと、そうではない。真如の方からみると、現実と真如との間には寸分の違いがない。この場合には、現実といわれるものは、否定されるべき現実ではなくして、絶対的に肯定された現実である』

現実の絶対肯定が天台本覚思想にまでなっていきました。
煩悩の絶対肯定へと進み、凄まじく堕落していきました。

この歴史を考察すると、観念論を弄んだところで、どこにも行き着かないということです。
どこにも行き着かないだけならいいのですが、観念の迷路に迷いこんで精神が腐っていくのです。
ですから、仏陀は、形而上的な論争はするなと言っています。
仏陀が無記(言わない)としたものを、観念であれこれ言うのは仏陀の意に反すると思っています。

真如といい、仏性といい、大我といってもすべて観念です。

いくら観念で、真如を思い浮かべても、悟った気分にはなれるのですが
自分の心を洞察しない限り、我塊を強めるだけになります。

はっきりいって、煩悩とは何か、さえ、自分の心を見たこともない人は、現実と遊離した概念で使っています。
まず、煩悩とは何だと思っているのか、が出発点でしょうね。

 

~~~~~~

 

<<自トピを私有物と思ってはいけない^^ テキム(テキストリーム)はヤフーの管理下にある・・・フォーラム(広場)であり・・・テキム参加者が他の参加者にアーしろコーしろと・・・
言う資格は誰にも無いと言うことを認識し自覚する必要があります^^>>

あなたは、世の中について事の本質を洞察する能力がないので、こういう問題に対して法律を全く知らないのに『私有物』とか『資格』とか『権利』とか法律用語めいたものを使いたがります。的外れです。
前にも私に同じ事を言ってましたね。そのとき私は『誰もスレッドを自分の私有物だとか所有権を有しているなんて思ってないし言ってないですよ。』と言いました。
こういうことに所有権を持ち出すことが幼稚な頭なのです。
法律を知っている人はこういうことに対し所有権なんて概念は持ち出しません。

あなたは『アーしろコーしろと言う資格は誰にも無い』と言っていますが、言うことは自由です。強制力がないだけです。
あなたは強制力がないことをいいことに人が嫌がることをしているのです。
それが事の本質です。
女性専用車両に乗り込んでは『俺にも乗る権利がある』と声高に言う卑劣な男のようなものです。
ほんの少しの優しさがあれば、人が嫌がることを嫌がっているとわかっていてわざわざするようなことはしません。
あなたも和弘という人も悟っていると自分で思い込んでいるようですが
そしていつも爆笑することにこの2人とも『感謝が大事』と人に説いて回ってるのに
人が嫌がっていることをわざわざしつこくするのです。

自分の心の醜さを見つめた方がいいですよ。

 

~~~~~~

 

いや、全然トンチンカンではないですよ。
あなたが理解できないだけです。

女性専用車両にわざわざ乗り込む男は、鉄道会社に『強制力がない』と思っているのです。
女性専用車両の定めが法律であって強制力があれば乗り込まない。
強制力がないから、大きな顔で『どこに乗ろうが俺の自由だ』と言っているのです。

普通の人間、人を少しでも思いやることが出来る人間であれば、人が嫌がることをわざわざしません。
満員電車での痴漢被害が如何に多発してなくならないか、それで大きな苦痛を受けている人がどれだけ多いか、という想像力や優しさがないものが、なんとかしていい解決を見いだそうとする努力を踏みにじって『俺の自由だ』と声高に叫ぶのです。
ほら、あなたにぴったりな喩えでしょう?

 

~~~~~~

 

鉄道会社が女性専用車両をつくったのは、何とか、快適で苦痛がない電車であってほしい、という願いからです。

スレッドの各スレ主も、自分がこういうテーマで同じ考えを持つ人たちに集まってもらって向上していきたいという願いがあってスレッドを立てるのです。

あなたは、平気で、そういう人の願いを踏みにじることができる人なのです。
『スレッドはスレ主のものではない』と声高に叫んで、スレ主とそれに共感して書き込んでいる人たちの迷惑を考えることもなく、荒らしていくのです。

あなたは、釈尊イエス・キリストソクラテスと同じ悟りの境地に達したと言っていますね(笑)
たいした悟りですね。

 

~~~~~~

 

ここは、『歴史上の仏陀が本当は何を言ったのか』を探求するスレッドです。

そのテーマに関心がない人が、自らの承認欲求のために自分のドグマを披露するスレではありません。
『歴史上の仏陀が本当は何を言ったのか』というテーマに関心もなく、原始仏典の内容を捏造してまで自分の主張を通そうとするのは、人間の精神としても最悪です。

間違いの指摘には逃げずに真正面から受け止めて考えることができるのが最低条件でしょうね。

 

~~~~~~

 

このスレにとって、私が迷惑だと思う投稿は
①会話のやり取り、対話ができず、自分の主張ばかり垂れ流す人。
 どんなに間違いを指摘しても全く無視して、その間違いに向き合わない人。
 今のところ、和弘という人はこの代表ですね。
 multitudeやmicもそういう傾向はありますが、和弘という人のような酷さではないですね。
②原始仏典などの内容を捏造する人。これは論外ですね。
 いい加減な典拠で自説を滔滔と述べて、仏教を知らない人を丸め込もうというのは最悪です。
 もし、求道者というのであれば、典拠の間違いを指摘されたら、
 その指摘に向き合うことが必要です。

基本的に、和弘という人は、仏教に真摯に向き合う求道者としての精神ではないですね。
すでに自分は悟っていると思い込んでいて、自分の観念論を延々と披露することに酔っていたいだけの人でしょう。

sanさんは、大乗仏教の人ですが、真摯な精神の人だと思いますよ。

 

~~~~~~

 

和弘という人でも、multitudeやmicでも、だれでも
逃げずにちゃんと答えてくれるのであれば、歓迎しますよ。

ただ、この3人は自分の主張を一方的に投稿し続けるだけで
答えられない質問や指摘はスルーして、また投稿を続けるだけですので
会話が成り立たないのです。

和弘という人は、
スッタニパータの文言を自分勝手な解釈で説明した後、
<<まだまだありますが、この位にしておきましょう。私は、『スッタニパータ』『ダンマパダ』『パリニッバーナ』を座右の書として参究しています。ショーシャンク様は『スッタニパータ』を何度位読んでいますか。私は参考書代わりに読んでいて10回近く呼んでいます。ショーシャンク様の参究不足が目につき過ぎです。また、仏教は「自己の探求」ですが、「自己探求」を等閑にして、大乗との分断対立に明け暮れているだけのように感じます。自分を無にして、一から出直しましょうよ。>>
とまで言っています。

そこまで言うからには、自分のスッタニパータの解釈には責任を持つはずですね。
しかし、私が、そのトンデモ解釈の間違いをいちいち全部指摘すると、
それを全くスルーして、今度はなぜか唯識論の著作の引用を始めたのです。

上記のように大見得きって言ったのですから
自分がしたスッタニパータの解釈には責任を持たないといけませんし
私の指摘が正しければ、自分の間違いを認めて
私の指摘が間違っているのであればその間違いを指摘しなければいけません。

和弘という人は自分の間違いを認めることができない人で
答えられなくなるとすぐ逃げてしまう人です。
それは真摯な求道者の精神ではありません。

もし、真摯に向き合える人であれば、和弘という人も歓迎しますよ。

 

 

~~~~~~

 

 

仏教についてのひとりごと 108

<<●想受滅定から因果確定法(此縁性)へ●パーリ経典『大品』等が示しているよう、釈尊は、想受滅定を修した後、七日間、解脱の楽を味わいながら>>

これも嘘です。
『大品』に書かれているのは、『仏陀菩提樹の下で最初の目覚めを体験された。そのあと7日間解脱の楽しみを味わいながら坐した。7日目に十二縁起を順逆に考察された。』です。
想受滅定などどこに出てきますか?

 

~~~~~~

 

あなたの卑怯なところは、あなたの投稿の間違いをいちいち指摘しているのに
それを全部スルーして、また自分のドクマを延々と貼り続けることです。

自分が間違っていた、自分が挙げた仏典の内容を間違えて書いていた、という自分の間違いを認めると自分の強固な自我がひどく傷つくので、間違いの指摘をすべて無視して、次から次へと自分のドグマの投稿を上塗りしていくのです。

あなたの投稿の間違いを今まで何十も指摘しましたが
あなたは何も答えられませんね。
間違っているなら間違っていると認めるのが求道者ですよ。

 

~~~~~~~

 

 

はあ?
スッタニパータには成道時のことなど記載されてないですよ。

あなたはこう書いたのです。
<<●想受滅定から因果確定法(此縁性)へ●パーリ経典『大品』等が示しているよう、釈尊は、想受滅定を修した後、七日間、解脱の楽を味わいながら>>

あなたの文章では、釈尊は、想受滅定を修した後、七日間、解脱の楽を味わったことになっていますが、それは嘘です。
どの仏典にそんな記載がありますか?

 

~~~~~~

 

<<八正道を歩んでいますか?私は、念・定・慧を歩んでいまして、
念・定・慧に他の八正道が含まれています。>>

そんなことを書いているようでは、あなたは八正道は全くわかっていませんね。
自分の独善で解釈してもそれは八正道ではありません。
仏陀が八正道とは念・定・慧などと言いましたか?
仏陀が言ってもないことをなぜあなたは勝手に作り上げるのですか?

 

~~~~~

 

<<貴方は「間違いが指摘できる『神』」なのですか。>>

仏典にあるかどうかは誰でも検証可能ですね。それを指摘してます。
私の指摘が間違いであれば、そしてあなたの投稿が正しいのであれば仏典を基に説明すればいいだけです。


<<私は、「実体のない」事実を語って、遊んでいるだけです。>>

遊ぶのであれば、人が嫌がらない範囲でするべきです。
自分のスレッドで遊べばいいではないですか?
なぜ、それをしないのですか?
皆さんの言うことだとあなたは十年以上前からこのカテに投稿しているようですから、賛同する人もあなたの人格に惹かれる人もいるのではないですか?
その人たちのために自分のスレですればいいでしょう。

 

~~~~~~

 

<<人間の考えることはみんな間違っています。>>

いえ、みんな間違っているのではなく、あなたが間違っているのです。


<<それを承知で、私は、私の直接経験からの比量(観察)をした結果を報告しています。>>

間違っていることを承知でその結果を報告してもらっても迷惑です。
間違ってないと確信出来てから、人のスレに書き込んだらどうですか。

 

 

~~~~~~

 

それ、あなたが勝手に八正道を3つにしているだけで
仏陀はそんなことどこでも言ってないですよ。

あなた、仏陀が言いもしないことを勝手に作り上げるのはやめなさい。

あなたの仏陀に関する知識がほとんどないのはわかりました。
しかし、勝手に仏陀が言ってないことに捻じ曲げるのは謗法ですよ。

 

~~~~~~~

 

<<すべてのものは我がものに非ずという非我(無我)の真実を信じれないから、
慈悲の心が分らない。>>

慈悲が一番ないのはあなただと思いますよ。
人が嫌がることをするのはなぜですか?
あなたに慈悲が全くないからですね?

 

~~~~~~

 

<<迷惑ね??このトピは、公共のもの、みんなのものでしょう。>>
<<このトピは貴方のものではありません。>>

あのね、いい歳して、社会性ゼロですね。
まともに働いたことありますか?

公共のものなら何してもいいと?
公園は公共のものですが、いたるところに大便してはいけないですね。
あなたの投稿は大便なのです。

スレを立てるのはスレ主のコンセプトがあるのです。
そのコンセプト、理念に沿おうとするのがまともな人間です。
あなたは仏教などする以前の普通の人間以下の精神ですね。

 

~~~~~~

 

ご忠告ありがとうございます。

しかし、和弘という人は迷惑な存在ですね。
micは、私にも迷惑でしたが、その人はなぜか奇妙な人気がありましたね。
女性たちもあまりmicは嫌いでないようでした。
和弘という人はそういうところもないですね。

 

~~~~~~

 

ああ、そうですか。
奥さんのほうが柱となって働いておられるのですか。
なるほど。
社会性のない人だと思いましたが、その理由の一端が分かったような気がします。

 

~~~~~~

 

そうなんですか。
長く掲示板にいるのであれば、わざわざスレ主が迷惑がっているスレッドに大量投稿しなくても、仲のいい人はおられると思うのです。
その人たちとなぜ、自分のスレッドで楽しまないのでしょうか。

 

~~~~~~~

 

<<トピ主さんにとっては、我慢ならない、本当に迷惑なことだと思いますよ。
私のトピにもそのような人が居座っていて、いくら言ってもやめてくれないので、あなたの気持ちはよくわかるのですよ。>>
ありがとうございます。そうなんですか。みんな迷惑しているのですね。

<<まぁ、自分の目的を持って投稿し、他のアラシ的な投稿をする人のことはさっさと無視リストに入れるというのがいいんじゃないでしょうか。>>
そうですね。そうしようと思います。
自分のスレに、勝手に仏陀が言ったことでないものを仏陀の言葉としてねつ造しないかがとても気になるのですが、なるべく見ないようにします。
時々見て、あまりに仏陀の事実と違うねつ造をしていたら指摘するかもしれませんが。

 

~~~~~~

 

そうですね。
multitudeは、和弘という人のように、原始仏典をトンデモ解釈するとか、ねつ造するとかはしないので安心して放置できるのですが
この和弘という人は、よりにもよって仏陀の言説をねつ造したりするので放っておけないところがあるのです。

 

~~~~~~

 

 

仏教についてのひとりごと 107

<<●無我=百千万のご先祖さんのおかげ様●無我=実体という永遠に変わらないものは何もなく、他とのかかわりによって存在できる。そうです。私たちの命は、父ちゃん、母ちゃんを始め、その父ちゃん母ちゃん、そのまた父ちゃん母ちゃん……、百千万の父ちゃん母ちゃん、百千万臆の父ちゃん母ちゃんのお蔭様の命。>>

このような日本独自の通俗仏教であなたの心が救われるのであればそれでいいと思いますよ。瀬戸内寂聴に感動する人も多いですし救われる人もいるのですから。それに、感謝することはいいことですから、おおいにすればいいでしょう。
しかし、ここは歴史上の仏陀が本当は何を言ったか、のスレです。

仏陀が言った『縁起』はそのようなものとは全く違います。
『ご縁を大切に』『私たちの命は百千万億の父ちゃん母ちゃんのお蔭様の命』『ご縁によって生かされている。ありがたいありがたい。』
仏陀がいま、これが仏教だと言われたらびっくりしてそれこそ無余涅槃に入ってしまうでしょうね。

第一、仏陀ほど、あなたのいう『ご縁』を大事にしなかった人はいないですよ。
国王の一人息子、皇太子として生まれたのですよ。
国王である父、そして多くの国民がいて、妻がいて、息子も生まれました。
あなたのいう多くのありがたい『ご縁』に囲まれていたのですよ。
そのすべての『ご縁』を捨て去ったのが仏陀です。
国王の世継ぎの責任も、夫の責任も、父の責任もすべて放り出してしまったのですよ。
その仏陀が『私たちの命は父ちゃん母ちゃんのお蔭様の命』『ご縁を大切に』って言ったと思います?

 

 

~~~~~~

 

あなたは、仏陀が本当に言ったことの探究ではなく、自分が築き上げた観念論が絶対正しいことを人に認めさせるためだけに投稿しているのです。

あれほど、スッタニパータの文言を引用して、また多くの仏教学者や仏教書を並べ立てていたのに、すべて論破されると、今度は『行』が大事だという。
しかし、原始仏典が全く分かっていないあなたが、仏陀が言った『いま眼のあたり体得されるこの理法』がわかるわけはないのです。

道に対してもっと真摯になったらどうですか?
道に対して真摯とは、自分が間違っていたらそれを認めて精進するということです。

例えば、今回あなたが挙げた仏陀の文言ですが
あなたのいう二元対立は間違いという理論とは真逆ですね。
「心の汚れから解脱し、心は生存の汚れから解脱し、心は無明の汚れから解脱した。解脱しおわったときに、『解脱した』という智が起こった。『生は尽きはてた。清浄行が完成した。なすべきことはすでなされた。もはやかかる生存の状態に達することはない』と知り終わった」

あなたの二元対立が間違いという理論だと、汚れと清浄を対立させて汚れを捨てて清浄を取るのは間違いだと言ってましたね。
しかし、仏陀ははっきりと、『汚れから解脱し清浄行が完成した』と言ってますね。

また、仏陀は、修行の初期段階で、アーラーラ・カーラーマやウッダカ・ラーマブッタの下で無所有処定や非想非非想処定にすぐ達しましたが、そのような禅定は解脱には達しないと見て、離れていきました。
禅定だけでは、解脱には赴かないのです。

 

~~~~~~

 

 

<<パーリ経典『大品』等が示しているよう、釈尊は、想受滅定を修した後、七日間、解脱の楽を味わいながら、経験的事実をしっかり観察し、自ら開発された「此縁性」という「因果確定法」も照らし合わせて、「縁起の真実」を発見された。
「これがあれば、かれが成立し、これが生ずればかれが生じ、これがなければ彼が成立せず、これが滅すれば彼が滅する」
『スッタニパータ』に説かれる二元対立を超越する「不二中道の智慧」。の「本体なき現象の生成」を、諸行無常諸法無我としてまとめた。縁起(因縁生起)だから無常。縁起(因縁生起)だから無我。それ自身として存在できるものはなく(実体否定)、因縁という多くの関わりにおいて、すべての者は生起する。>>

はい。全部、大ウソです。
『大品』の名前を出しているのであれば、書いてある事実を書きなさい。
あなたは、『大品』の名前を出しながら、そこに書いてない、自分のドグマを延々と書いて、さも最古の仏伝『大品』にその内容が書いてあるように見せかけている。とんでもない謗法です。
仏陀に関して嘘はやめなさい。

『大品』において、仏陀が最初の目覚めの後に観じたのは十二縁起です。
仏陀が『縁起』というときは十二縁起を主とした苦の縁って起こる原因のことです。
あなたがいうような『縁起(因縁生起)だから無常。縁起(因縁生起)だから無我。それ自身として存在できるものはなく(実体否定)、因縁という多くの関わりにおいて、すべての者は生起する。』などということは、『大品』にも『スッタニパータ』にもありません。

あるのであれば、どの箇所か、示してください。

仏教についてのひとりごと 106

たーぼーさん、こんにちは。
そうですね。
ただ、簡単か、といえばそうでもなくて、仏教者でも、根本に実体がある派とどこまでいっても実体がない派が分かれています。

仏陀が、無記とした気持ちはよくわかります。
実体があると言えばイメージで存続する我を捉えてしまって自我を形成してしまいますし
実体がないといえば虚無思想になる怖れがあり
どちらにしても、人間は思考や観念で捉えてしまうので
限定を取り除いたところを自分で体験しないと意味ないと思ったのだと思います。

 

 

~~~~~~

 

 

<<仰る通りですね。 あるがままに見ろといっても、煩悩が強い凡夫には結構難しい。これがしっかり分かれば、次の正思も正語も自然と理解できるようになる。>>

ほとんどの人と同じで、私も八正道はずっと軽視していました。
表面的な道徳項目にしか見えなかったからです。
そのような倫理道徳で苦の消滅に至るわけがないと思っていたからです。
しかし、八正道は倫理道徳項目などではありませんでした。
本当に広くて深いものでした。

<<天台一家では九識心王の都として、心魂をたてます。 悪の行為をすれば、当然神魂に傷がつき、曇る、だから曇っている心魂を善の行為によって、自ら磨くのでしょう。 私は心魂が実体だと理解しています。>>

九識論はとても好きな思想でした。
八識の阿頼耶識が根本とすると、根本識に迷いも全部蔵することになるので
私は阿摩羅識を立てる九識論のほうが好きでしたね。

 

 

~~~~~~

 

そうですね。
諸法非我がかなり早い段階で諸法無我になってしまった感じです。
大乗仏教は、そうやって失われた主体の復興運動ではなかったかとも思うことがあります。
法身や久遠実成の釈迦や大日如来を立てるのはそういうことかもしれません。
しかし、どこまでいっても実体がないにこだわる仏教者もかなりいて
仏教はかなりバラバラですね。

 

~~~~~

 

<<だとしたらですが(仮定なのにすみません。)、実体だと考えられる理由というのは、どのようなものになりますか?>>

理由は2つですかね。
20歳くらいのとき、『宇宙意識の哲学的研究』という本を読みました。内容は、唯一の実在としての意識という理論で、私の哲学的な疑問のすべてが氷解しました。すべての謎が解けたので理論的には私には実在意識は確信に近いです。
もうひとつは、体験的にといっても大した体験ではありませんが意識の拡がりを垣間見たとき壊れないものという感覚が少しあることです。

 

~~~~~~

 

<<〈無我〉の理解できない者に仏教を語る資格はないだろう。>>

それでは、中村元は仏教を語る資格がないということですね。
それならなぜ、あなたはその中村元訳のスッタニパータやダンマパダを読んでいるのですか?
中村元ははっきりと『初期の仏教では、諸法無我ではなく諸法非我であった』と書いています。


中村元博士によれば

brahmabhutena attana viharati
ブラフマンとなったアートマンによって住する (中村元訳)

これは、初期仏典にしばしば出てくる定型句(DN Ⅲ P233 etc.)とのことです。

 

~~~~~~

 

あなたには、松本史朗『縁起と空』を読まれることをお薦めします。
松本史朗はあなたと同じ、仏教の根幹は縁起と無我であるという主張で
この本には
『原始仏典において、アートマンを認める表現が非常に多く見られることは、すでに中村元博士によって詳しく論じられたとおりである。』
『このように、初期仏教においてはアートマンを否認してないのみならず、積極的に承認していると中村博士は言われた』
中村博士は、初期仏教においては、非我説が説かれているだけで、無我説は説かれていないと詳しく論証された。』

そして
松本史朗は、『スッタニパータの所説全体が基本的に我論に立脚していると言っても過言ではない』として
スッタニパータをバラモン教ジャイナ教が入り込んだものとして否定しています。

あなたも松本史朗と同じ考えですから、スッタニパータを否定されればどうですか?

 

~~~~~~

 

松本史朗は、あなたと同じ考えですよ。
無我と縁起が仏教の根幹であるとし、それを否定するものは非仏教と決めつけています。
あなたの論理と同じです。
松本史朗が『仏教をかき乱した彼らは、単なる目立ちがり屋で、今では誰も相手しない「死に体」』であるなら、その論理は違うのではないですか。
そして同じことを主張するあなたも違うのではないですか?

少なくとも、
『原始仏典において、アートマンを認める表現が非常に多く見られることは、すでに中村元博士によって詳しく論じられたとおりである。』
『このように、初期仏教においてはアートマンを否認してないのみならず、積極的に承認していると中村博士は言われた』
中村博士は、初期仏教においては、非我説が説かれているだけで、無我説は説かれていないと詳しく論証された。』
という中村元博士はいまも仏教学の権威ですね。

あなたによれば『〈無我〉の理解できない者に仏教を語る資格はない』のではないですか?

 

~~~~~~

 

竹村牧男は、『唯識の探求』『華厳とは何か』など何冊かは持ってますし読んでいますが
それが何だというのでしょう。
あなたは、自分の知識があなたの自我を構成していることを観た方がいいですよ。

私が松本史朗の『縁起と空』を挙げたのは、
その本には、スッタニパータを始めとした原始仏典はアートマンを説いているという論証がふんだんにとりあげてあるからです。
松本史朗は、その反対者でありながらそれを認めているところが、その事実を裏付けるものということです。

しかし、あなたは、それを知識量や読書量、つまり自慢の材料と捉えて、自分はこんなものを読んでいるとアピールしなければいられない、その心の動きを洞察しないと、何万冊仏教書を読んでも悪くなるばかりです。

あなたは無我といいながら、仏教をしてない人よりずっと強固な自我、承認欲求を持っています。

私がこのカテゴリーで見る限り、multitude という人と、あなたと、春間氏の3人には
強烈な承認欲求の渇望を感じます。

 

~~~~~~

 

<<実体があれば、人と人との関係性が成立しません。人と人の間という「人間」が成立しません。というのが、釈尊の縁起の思想です。>>

そんなことは、仏陀は一言も言っていません。
もし、言ってるというなら、どの原始仏典にあるか、示してください。
あるわけないです。
仏陀が言いもしないことを釈尊の思想などと言うのは仏陀に対する冒涜です。

 

~~~~~~

 

<<>ブラフマンとなったアートマンによって住する (中村元訳)
アートマンの無量化。アートマンの粉骨解体したところにブラフマンという創造原理が自覚される。ということですよ。>>

ということは、アートマンブラフマンも認めるのですね?
アートマンがあるものだから、それが無量化したり粉骨解体したりできるのですから、あなたはアートマンの存在を認めるということでいいでしょうか?
そしてアートマンを無量化したものがブラフマンということは、ブラフマンの存在も認めたということですね?

 

~~~~~

 

中村元訳ダンマパダ『真理のことば』(岩波書店)124ページに
『一切の事物は我(われ)ならざるものである。これがパーリ聖典にあらわれる古い思想である。ところがのちには「一切の事物は恒存する実体を持たない(無我)」と解釈するようになった』とあります。

この中村元の言うことは認めますか、それとも否定しますか?

 

~~~~~~

 

<<自我を粉骨解体すると、無量と共にある自己が現成します。その直接経験を表現しているだけです。>>

自分が本をどういう本を何百冊読んだという自慢が『直接体験の表現』ですか。
自我を粉骨解体してないから、承認欲求の亡者となっているのではないですか?
無量が現れれば、承認欲求の渇望は消滅しますが、あなたはなぜ、自分がスッタニパータやダンマパダを何十回と読んだとか、数多い仏教学者の名前を並べて「俺はこんなにも本を読んでいる」と主張し、他人に認められようとするのでしょう。

本を読んで自分の観念を強めているだけで、自分の心を洞察してないから、自分は自我を解体して悟っていると思い込んでいるのです。
自分を悟ったと思い込んでいる人は、全く悟ってなんかいないのですよ。
悟っていて他の人とは違うという自我を持っているだけなのです。
宗教をしていない人より余計悪いですよ。
そのことに、あなたもmultitude も気が付いたほうがいい。

あなたもmultitudeも、本当に悟っていて無量に触れているのであれば、あなたがたの文章に誰もが、愛や慈悲や大らかさ、安心感、穏やかさ、静謐さを感じるはずです。
文は人なり、ですよ。

 

~~~~~~

 

 

<<「すべてのものは我がものに非ず」――自分の身体も心の私のものではない。
認めますよ。>>

そうですか。
では、仏陀の在世中には、諸法非我という意味だったものが、後世、無我論になったということを認めるということですね?


初期仏典に繰り返し出てくる言葉は
『無常であり苦であるものを、わがもの、われ、わが本体としていいであろうか。』です。

 

~~~~~~

 

あなたの文章は私にとって都合がいいも悪いもなく、どうでもいいことです。

あなたが、スッタニパータの文章を自分勝手なトンデモ解釈をしていたので
その間違いを指摘しましたが、それについての反論もあなたから全くありません。
少なくとも真摯、誠実ではないということです。

あなたは、どこここ限らずスレ主の願いも意向も無視して自分の主張を延々とし続けるだけです。
そして、自分が答えられなかったりすると、スルーして、また自分の主張を延々としまくる、ということです。

そのような精神が愛や慈悲に達してるとでも思っているのですか?
この質問はスルーしないで答えてもらえますか?
あなたは、本当に愛や慈悲から、投稿をしているのでしょうか?

 

~~~~~~

 

<<ところで、ショーシャンク様。諸法非我(すべてのものは私のものではない)としたら、
ショーシャンク様の身心は誰のものですか。>>

身心つまり五蘊の集まりは誰のものでもないですよ。
ただ、感覚があって記憶があって名前がついて、その記憶の束を『私』と呼んでいる現実があるというだけです。
そして、その『私』が身心に執着しているというわけです。

 

~~~~~~

 

<< >>それについての反論もあなたから全くありません。
 議論が闘争になるので、議論する気はありせん。凡夫の自己の、馬鹿さ加減を、素直に表現しているだけですよ。ごめんさいね (-"-)>>

笑ってしまいました。議論が闘争になるので反論しないということでしたか。
それは失礼しました。
あなたが最初にスッタニパータのいろいろな文章を挙げて、次のように言ってきたので、議論や闘争したい人なんだと思っていました。
そして、あなたのスッタニパータの解釈がトンデモ解釈だったので、いちいち間違いを正しました。
それについてあなたはスルーで何も答えず、また全く関係のない自分の主張を延々と貼り始めたので、自分から議論を仕掛けて答えられなくなると逃げる人なんだな、と思ってしまいました。
今聞くと、議論や闘争を避けたい人ということですね(笑)それは失礼いたしました。
次の文章があなたが最初にスッタニパータの文章を解釈してきたときのものです。
  ↓↓↓

<<まだまだありますが、この位にしておきましょう。私は、『スッタニパータ』『ダンマパダ』『パリニッバーナ』を座右の書として参究しています。ショーシャンク様は『スッタニパータ』を何度位読んでいますか。私は参考書代わりに読んでいて10回近く呼んでいます。ショーシャンク様の参究不足が目につき過ぎです。また、仏教は「自己の探求」ですが、「自己探求」を等閑にして、大乗との分断対立に明け暮れているだけのように感じます。自分を無にして、一から出直しましょうよ。>>

 

~~~~~~

 

<<>>初期仏典に繰り返し出てくる言葉は『無常であり苦であるものを、わがもの、われ、わが本体としていいであろうか。』です
はい本体(アートマン)があると思うから苦だということでしょう。
梵語には両義性があるというのが、仏語を読む基本です。>>

全く違います。
なぜ素直に読まず曲がりくねって読むのですか?なぜ自分が信じる観念に無理やり合わせようとするのですか?あなたのそういう姿勢は大間違いですよ。
自分が作り上げてきたドグマを差しはさまずに本当の意味を読もうとするべきです。

無常であり苦であるものというのは、五蘊や現象のことです。
五蘊や現象を、わがもの、われ、わが本体としていいであろうか?
と言っているのです。
わが本体があるとかないとか言っているのではなく、五蘊はわが本体ではない、と言っているのです。
よくここまでねじ曲がった解釈ができますね。
あなたはどんな原始仏典を読んでも、自分のドグマに無理やり捻じ曲げてしまうだけなので読まないほうがいいのではないでしょうか。

<< 梵語には両義性があるというのが、仏語を読む基本です。>>
これも全く意味の分からない妄言です。
第一、初期仏典は梵語で書かれているのではなくパーリ語です。

 

~~~~~~

 

<<>身心つまり五蘊の集まりは誰のものでもないですよ。
虚無ですね。ショーシャンク様は、虚無主義でいらっしゃるわけですね。了解です。(-"-)>>

はあ?
頭は大丈夫ですか?
私の文章『身心つまり五蘊の集まりは誰のものでもないですよ。ただ、感覚があって記憶があって名前がついて、その記憶の束を『私』と呼んでいる現実があるというだけです。
そして、その『私』が身心に執着しているというわけです。』
を読んで、そういう反応をするとは、本当に大丈夫ですか?

 

~~~~~~

 

<<>俺の身心は・・・>宇宙(神)からの借り(預かり授かり)モノよ\(^o^)/
>だから・・・死んだら・・・身も心も・・・
  おお! いいね!>>

うーん(笑)やはり、あなたは支離滅裂で、どなたかも言ってたように、だれかを議論で負かそう、しか考えていない人のようだ。そして答えられなくなったら逃げてしまって、また自分のくだらない主張だけを延々と貼り続ける人のようです。

あなたはずっと何とかの一つ覚えのように『宇宙には実体がない、本体がない』と言い続けていたのに『身心は宇宙(神)からの借り物』という言葉に同意する。
それで自己矛盾に気付かない。ちゃんと話せる人ではなかったということです。

全部きちんとレスして時間を損してしまった。

掲示板の身勝手な遊び人として丸出しで生きていってください。

できれば、あなたとmultitudeは、似た者同士で他の場所で遊んでくださいね。

 

~~~~~

 

<<意識=空間 と考えていいのでしょうか?
なんにしろ、空間が存在しなければ何物もそこに現象しえないと思うのですが・・・。
ということは、意識=空間だけは実在ということになりますか?
意識=空間だけが実在して、私たち人間は、意識が具現化して思考ももつようになった物、なのでしょうか?>>

いえ、意識=空間 ではありません。
空間とは何でしょうか?時間とは何でしょうか?

宇宙や森羅万象、どんな現象も、観られる対象物もなく意識だけの状態を考えてみてください。
そこに時間や空間はあるでしょうか?

 

~~~~~~~~

 

そうですね。一気にこのスレッドの環境が悪くなりましたね。
スレ主の私が『ここに来ないでくれ』と言ったのは今まで3人。その3人が揃い踏みですから、もう私も投稿する気がなくなってきています。
この3人(和弘、multitude 、mic)は、スレ主の意向など無視して多投稿し続けます。
このような環境下では投稿は難しいですね。

この3人の共通点は自ら悟っていると思い込んでいることです。
これが日本仏教の現状そのものです。
ですから、私は仏教は勧めません。
日本の仏教は仏陀の教えとはかけ離れていますし、自我や我執を強めるだけになっている人が多いです。

それに掲示板に投稿するのも時間を多く使ってしまいます。
この夏は勝負だと思っているので、時間を無駄にしたくないのです。

yamaさんも、時間を無駄にしないためにも、仏教からいったん離れて、このスレッドも見ないで、様々な分野の本を読み、最高レベルの音楽を聴き、自分に合うものを見つけてください。

 

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<<「真の自己」こそを、最初期の仏教はあくまで目ざしていた、これはスレ主さんの説>>

その通りです。
五蘊が仮合してできた我、限定された我、自我、個我は幻想、迷いであって実体はなく消滅するべきものですが、限定されざるもの、形成されざるもの、まで実体がないとは仏陀は一言も言っていません。無記(言わない)としたのです。
仏陀が無記としたのは、それを論じることが厭離に赴かず解脱に赴かず涅槃に赴かないからだと、仏陀ははっきりと言っています。
自己の根源、宇宙の根源が実体があるとかないとかを観念であれこれ考えることは涅槃に向かう妨げとなるということで、無記としたのです。

それを、何とかの一つ覚えで、本体はない、実体はない、実体がないのが仏教で実体があるというのは外道だとばかり言っているのです。

仏陀が『実体があるかないかは無記』といい、論じてはいけないと言ったことを、仏陀の意に反して『実体はない』と断言するのです。

相応部経典『道に関する集成』(春秋社原始仏典Ⅱ相応部経典p49)には
『修行者らよ、朝日が昇るとき、先駆けるもの、前兆となるものがある。それが、あけぼのである。そのように、修行者が八正道を始めるとき、先駆けるもの、前兆となるものがある。それが、我の完成である。』とあります。

仏教についてのひとりごと 105

あなたは、自分の考えである二元対立が悪いという考えや自分が信奉する龍樹の不二中道の信念を強めるためだけに『スッタニパータ』『ダンマパダ』などの原始仏典を読んでいるのです。
そして、自分が信じるドグマに都合の良い文言を目を皿にして探しているのです。
ですから、自分に都合の悪い箇所は無視するのです。

私はあなたが『汚泥というとすぐに「きたないもの」と思い込む偏見。「浄らか」は素晴らしいと思う偏り。この、美醜、浄穢、益害、苦楽、有無などの二分割した見方、考え方。凡夫が下で聖者が上と、上下を作ってしまう二元対立。この相対論理の発想や価値観は根本的に間違っている。』と書いたので
ダンマパダ243の『無明こそ最大の汚れである。この汚れを捨てて、汚れなき者となれ。』を挙げました。
仏陀はあなたがいうような『浄穢の二元対立は間違っている』などとは言っておらず
はっきりと『この汚れを捨てて、汚れなき者となれ。』と汚れは捨てるべきものであるという見解を示しています。

しかし、あなたは、そういう都合の悪い経典の言葉は無視して、自分の観念にとって都合の良い文言を原始仏典から探し出してピックアップしているだけです。

そのような読み方は間違っています。
仏陀の肉声に近い最古層の仏典を読むのであれば、後世の夾雑物をまずは捨て去って白紙になって読まないと、ただあなたの観念論を強めるだけになります。

 

 

~~~~~~

 

 

例えば、あなたは、スッタニパータの文言のうち二元対立を否定するあなたに都合の良い文言をピックアップしています。そして、自分の都合のいい解釈をしています。

17、五つの蓋を捨て、悩みなく、疑惑を超え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、
この世とかの世をともに捨てる。
――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

これを<<有限の生を捨て、永遠の生も捨てる>>と解釈しています。

しかし、この本当の意味は、
『物質的領域(rupa)に生まれる諸々の生存者と非物質的領域(arupa)に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる』
『しかし物質的領域(rupa)を熟知し、非物質的領域(arupa)に安住し、消滅において解脱する人は、死を捨て去ったのである』
と書かれているように
この世も、物質的領域(rupa)も非物質的領域(arupa)も捨てて
消滅において解脱する、という意味です。

消滅においての解脱とは、nibbanaです。

 

 

~~~~~~

 

636、この世の禍福いずれにも執着することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人
――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。

あなたが挙げたこの言葉にも、『汚れなく、清らかな人』とありますよね。
あなたのいうように、汚れと清らかさの二元対立は間違いなどと仏陀は言ってないですね。
明らかに、汚れを捨てて、清らかになるのです。

また、《禍福の二元対立の超越(不二中道)である》とあなたは言っていますが
仏陀は、この世の禍福つまり、この世のことに執着しない、ということを言っているだけで
当然のことです。

 

~~~~~

 

900、一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、
「清浄である」とか「不浄である」とかいって願い求めることもなく、それらにとらわれず行え。
――安らぎに固執することなく


この文を理解するには、この文の前後を全部読まないと、全くの間違いとなりますよ。
あなたは、自分の信じる観念を強めるためだけにスッタニパータを利用している。
仏陀に対する冒涜です。
この文章は一連の流れの中の一部ですから、その流れの全体を知らなければなりません。

あなたは、自分の信念に都合の良い言葉が見つかったとして大喜びしてこの文言をピックアップしたのでしょうけど。

この文章の『「清浄である」とか「不浄である」とかいって願い求めることもなく』を見て
あなたは『清浄・不浄といった二元対立が捨てられるべきだとある』と解釈しています。
しかし、この文は前の898、899から続いている文章です。
戒律によって清浄が得られる、この教えで清浄が得られるとして惹き込まれている、
また戒律を破ったら不浄であるとか言っておそれおののくような宗教的な行為にとらわれるな、と言っているのです。

あなたのいうような、清浄不浄の二元対立を捨てるという意味では全くなく、宗教や宗教的行事、戒律などにとらわれるのは束縛だと言っているのです。
私は大賛成です。
仏陀を仏教も開祖と思ってはいけないのです。

あと、この文章の『安らぎ』の原語はsantiです。nibbanaではないですね。

 

 

~~~~~~

 

 

520、安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生死を超越した人、
――このような人がまさにその故に〈道の人〉と呼ばれる。


これもそうです。
あなたは、自分の固執する二元対立の否定に都合のいい箇所だけを切り取って解釈するのです。
この文章は、遍歴の行者サビヤと仏陀の会話の場面であり、項目も《サビヤ》と名前がついています。
自分勝手に切り取っては自分の観念に当てはめていくのではなく、全部の文を読んでください。
それが求道する態度ですよ。

あなたが挙げた文章の前後を読んでください。
仏陀は、『一切の悪を斥け』『内面的にも外面的にも一切の罪悪を洗い流し』『いかなる罪悪をもつくらず』と悪を徹底的に否定してます。

このサビヤの項を全部読めば、あなたのように『悪ではなく、善さえ捨て去るという。釈尊は、あらゆる二元対立の世界を超えるべきだと説いている。』などと解釈するのがいかに間違っていて馬鹿馬鹿しいものか、わかるはずです。


あなたがどのような本を何百回読んだかなんて興味もありません。
しかし、あなたが、どのような本を読もうとも、ただ自分の偏ったドグマを強めるためだけに読んでいるのですから、何の意味もないどころか、かえってあなたの迷いを深めるだけですよ。
本を読むなら、特に仏陀の肉声に近い最古層の仏典を読むのであれば、すべての先入観、すべての夾雑物、すべての教義、すべての哲学を捨てて白紙になって読まないといけません。
あなたはスッタニパータに龍樹や自分で作り上げた観念を投影しているだけです。

 

~~~~~~

 

<<仏教は四諦八正道ですが、ショーシャンクさんは八正道を歩んでいますか。>>

この八正道も、本当の意味は今まで解釈されてきたものとは全く違うと思っています。
八正道の本当の意味を知れば、驚くくらいよくできています。
1滴の水滴が無限の大海に行き着くようにできているのです。
今まで言われてきたような、8つの道徳項目とか、8つの倫理項目とか実践項目とかでは全くありませんでした。

正見⇒正思⇒正語⇒正業⇒正命⇒正精進⇒正念⇒正定 のこの順番には大きな意味があり
ひとつでも順番が違うと成り立ちません。
この順番を違えて書く人は八正道がわかっていないのです。


<<その正道が、ショーシャンクさんが観念論と批判する「不二中道」です。
世俗の対立概念を超えるからこそ、仏の智慧という宗教的叡智でしょう>>

仏陀が言った『中道』と龍樹が言った『不二中道』『八不中道』とは全く違います。
龍樹の作り上げた哲学で仏陀の解釈をしてはいけません。
仏陀の言った『中道』とは八正道のことです。
仏陀が悟ったときに、『快楽に耽ることでも苦行でもなく中道を行く』と言ったので
中道を快楽と苦行の中間と解釈する人も多いですが違います。
ほどほど快楽、ほどほど苦行、が中道ではありません。
快楽に耽るのも肉体、苦行も肉体、ですが、そのような肉体にこだわった道ではなく
八正道と言う智慧の道こそが中道だとしたのです。
八正道は実践道徳項目で智慧とは関係ないと思われてきましたが、私の解釈では智慧そのものです。

<<無我においてこそ、我を超越した「いのちの主体」が現成します>>

あなたは、たしか、そのいのちの主体さえ実体がないと言ってましたね。
どこまでいっても実体がないのですよね?
実体がないものを追い求めているのですね?


<<無我(縁起の自己)、不二中道を修さずして仏道は歩めないのではないのでしょうか>>

縁起の自己?そんな奇妙な言葉は仏陀は一言も言っていません。
仏陀がそんな言葉を使ったことがありますか?絶対にないです。
後世のものたちが勝手に作り上げた観念にしかすぎません。

不二中道?そんなことも仏陀は言っていません。
仏陀が言った中道とは八正道のことです。


あなたは、龍樹の作り上げた理論を仏教と思っています。
私は、仏陀が何を言いたかったかを探求してます。

 

 

~~~~~~~

 

 

<<自己とは「無限定なもの」、と、別の投稿でショーシャンクさんは書かれていますね。
それをアートマンだとショーシャンクさんは考えられていますか?>>

私は、アートマンという言葉は嫌いで使いたくはないです。
この言葉も使う人によって全く意味が違ってきますから。
特に、霊魂という使い方で使う人が多いので嫌いなのです。

霊魂だと個になってしまいます。
個は幻想なので、霊魂という意味であればアートマンではないでしょう。

つくられざるもの、無限定なもの、意識の広がり、無量なるもの、これは、すべての限定を振り払ったときに現れるもので、これに何と名づけるかというのはできないことで、
特に個のイメージの強いアートマンとは言いたくないです。

形成されたものつまり肉体や思考、現象すべては実体がないのは赤い実さんが言われる通りです。
ただ、つくられざるもの、無量のもの、無限定なものは厳然としてあり、それまで実体がないというのは仏陀は言ってないと思っています。

 

 

~~~~~

 

yamaさん、こんにちは。
<<その理論は 現在生きている私たちに何を教え どう考えるべきだと言っているのでしょうか?。>>
これはまた、根本的な問いですね。
このような掲示板では、質問者だけに答えたつもりでも、『横レス失礼』と言って四方八方から質問が来ますので、なかなか大変なのです。
根本的な問いなので、なるべく丁寧には答えたいので、また週末にでも書きます。

 

~~~~~~

 

 

 

仏教についてのひとりごと 104

<<汚泥を捨てたら、清らかな白蓮は死滅する。凡夫を捨てたら、清らかな聖者は死滅する。
煩悩の凡夫を捨てたら、菩提という智慧は死滅する。煩悩の菩提も不可分一体。これを後に、大乗仏教では「煩悩即菩提」と言った。汚泥というとすぐに「きたないもの」と思い込む偏見。
「浄らか」は素晴らしいと思う偏り。この、美醜、浄穢、益害、苦楽、有無などの二分割した見方、考え方。浄土も穢土は縁のゆかりのないと断定する対立概念。凡夫が下で聖者が上と、上下を作ってしまう二元対立。この相対論理の発想や価値観は根本的に間違っている。>>

 

どうしても現実世界と遊離した観念論に耽っているようにしか見えません。
どのような聖者も理に合わないものは排除してきましたね。
釈尊提婆達多を追放しましたし、道元は玄明を、親鸞善鸞を排除したではないですか。
そういう現実世界を見ずにあなたは、どうも、観念の中だけで、二元対立を異常に嫌い怖れているように思えます。
仏陀は、『無明こそ最大の汚れである。この汚れを捨てて、汚れなき者となれ。』というように言い切っており、浄穢という対立概念は間違いなんてどこにも言っていません。


<<唯識の潜在意識の奥まで直接除いた瑜伽行の成果です。龍樹の言語分析も、直接経験の成果です。大乗経典も仏弟子たちの、言語化できない直接経験を文学化したものです。禅の接心は、血の滲む直接経験です。親鸞の、煩悩を見つめる「内省力」には頭が下がります。>>

 

どの経典を読んでも、どの宗祖の本を読んでも、座禅をしても、やはり自分の心を洞察しないと我塊はそのままで、むしろ知識や経験が我執になってしまうような気がします。

 

 

~~~~~~

 

 

<<よく 無我とか 実体が無いとか言われる論理ですが その結論として生きている私たちに何を教えようとしているのですか?>>

ここは本当に微妙なところです。
私は、今までの仏教と言われるものを仏陀の真意ではないと思っているので
仏教を学び始めた人が、仏教のことを私に聞くのが適当かどうかはわかりません。
たぶん、適当ではないでしょう。
東哲のカテゴリーの誰かに聞いた方がいいかもしれません。

私の考えを言いますと
五蘊(色・受・想・行・識)は我ではない、非我ということです。
色は肉体、受・想・行・識は精神作用です。

私たちは、肉体を自分だと思っています。そして、感覚や記憶、思考を自分だと思っています。
それは、肉体や感覚や記憶や思考に自己同化しているからです。
無常である肉体や思考への自己同化を『どれも我ではない』とすべてはずしていったあとに残るものが本当の自己だと思っています。
それは無限定なもの。
無限定なものこそ本当の自己です。

無我や実体がないということにこだわって虚無思想になってはいけないと私は強く思っています。

 

 

~~~~~~

 

 

 

 

 

 

 

仏教についてのひとりごと 103

<<俺の場合は・・・
小5の時に人生とは何ぞや?に目覚め^^
修行の世界に入って・・・
長い修行の後に分かった答えは・・・
人生とは・・・楽しむモノと言うことv(^_^v)♪>>


あなたは、自分では自由気まま風に吹かれて何の執着も煩悩もなく人生を楽しんでいると思い込んでいますが、それはただ自分に対する洞察力がないだけです。

あなたの心は、自分の今の状況、つまり自分では悟っているし他の人よりも断トツに優れているのに誰からも認められていない・・・この状況に悲鳴を上げているのです。
誰か自分を認めてほしい、誰か自分を尊敬してほしい、俺はこんなに悟って他の奴とは全く違う存在なのになぜ誰も俺を尊敬しない?俺を先生と言ってくれない?なぜ誰も俺の生徒にならないんだ?

そして、尊敬してくれる人を求めて、ネットの掲示板を徘徊したり、自宅の周りを徘徊したりしているのです。
もちろん、何の執着もなく何のこだわりもない、自由の境地に達した達人のふりをして。
そしてひたすら声をかけられることを待っている、というわけです。

で、会った人会った人に、心の中で『尊敬してくれ』と念じるのですが、みんなあなたに承認欲求の飢えを感じて遠巻きにしてしまいます。
そうするとひどくあなたの心は傷付き、その人に執着してつきまとい復讐していくのです。

あなたは、いますぐ、自分の心を洞察したほうがいい。
あなたは自分が激流に巻き込まれ、毒矢が刺さっている状態だということを認識しないと、どんどん承認欲求の餓えが増大していきますよ。

 

 

~~~~~~

 

 

<<トンチンカンなお節介は・・・天に唾する行為だよ^^>>

 

そうですか?あなたが自分の心に向き合うきっかけになってくれるものと期待してますが。
書かれるのが嫌なら、このスレに来ないでください。
基本的には関心はないので来なければ一切書きませんから。

 

<<塾にいたこともあるが・・・予備校での期間の方が長いよ(笑) まあ・・・超一流と言っても過言ではない・・・とても居心地の良い企業にいたのだが・・・まあ・・・カッコよく?言えば・・・荒海がおいでおいでと呼ぶのよ(笑) で・・・3年半で卒業したのよ^^>>

 

ここの部分があなたを解くカギでしょうね。
超一流の予備校にいたということは、給料も高額なはずです。そして居心地も良かったと言っています。
それがたったの3年半しか続かなかったことに注目したいところです。
塾にいたのはそれよりももっと短かったということですから、2,3年で辞めているということです。
『荒海がおいでおいでと呼んだ』というのは海賊じゃないんですから苦しい言い訳です。
出る時間なのでまたあと書きますね。

 

 

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yamaさん、こんにちは。

最近、仏陀が言う『激流』や『汚泥』、『矢』の意味が実感を持ってわかってきて
『これは大変なことだな』と怖ろしくなっています。
仏陀が言う激流は大げさではなかったということです。

また出ますので、後で詳しく(今夜か明日)書きます。

簡単に言っておきますと、私が言う『仏陀が残した筏』とはこのスレの最初から書いてますように、四諦十二縁起です。
これも最初から書いていますが、いま仏教と呼ばれているものと仏陀の直接の教えとは全く違うものです。
仏陀は無我=アートマンがない などとは言っていません。
実体がないなどと言ったことも一度もありません。

仏陀が『世界は空と観じなさい』というのは『世界=つくりだされたもの は、生じれば必ず滅する無常であるものなのだ。生じては滅する泡のようなものだと観じなさい。』と言う意味です。
はるか後世の龍樹が勝手に、縁起=相依性=自性がない=実体がない=空 という哲学を作り上げたのです。
大乗仏教の国では龍樹の哲学が仏教の根本思想となってしまいました。
私は龍樹は釈迦仏教を根本から壊した張本人と思っています。

 

 

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<<企業を3年半で卒業した後に受験業界に入ったの^^>>
<<塾にいたこともあるが・・・予備校での期間の方が長いよ(笑) まあ・・・超一流と言っても過言ではない・・・とても居心地の良い企業にいたのだが・・・まあ・・・カッコよく?言えば・・・荒海がおいでおいでと呼ぶのよ(笑) で・・・3年半で卒業したのよ^^>>

上記はあなたが書いた文章です。
とすると
一般企業   3年半
塾      3年半より短い期間
超一流予備校 3年半
ということですね。

そして超一流予備校を止めた理由は前は『荒海がおいでおいでと呼んだ』でしたが
今回は『還暦直前に体調を壊して・・・惜しまれながら受験業界から身を引いたの』
になっていますが?
どういうことでしょう?

それにしても、どれも3年くらいでやめてますが、長続きしない理由は何でしょうか?
これが気になります。
自分では何故だと思いますか?

一般企業3年半、塾3年半より短い期間、超一流予備校3年半だと、足しても10年です。
40年くらいの社会生活でまともに勤務したのは10年ということですか?

 

 

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<<観音仏教者の和弘でございます。面白そうな命題に出会いましたので、お久しぶりに失礼します。>>

お久しぶりです。観音仏教者って何ですか?

<<『激流』『汚泥』『矢』が筏とはユニークで面白いですね>>
誰もそんなことは言ってませんが・・・四諦十二縁起が仏陀の残した筏だと思ってますよ。

<<『唯識三十頌』の「常に転ずるこ暴流の如し」が想起れます>>
<<一般的には、激流とは「生死輪廻の苦しみ」と取れるようですがいかがなものでしょうか?>>

感覚⇒経験⇒記憶⇒思考 と圧倒的に流れていく様は、そのどちらかで言えば、私が考えるのは、「常に転ずること暴流の如し」に近いでしょうね。

 

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<<汚泥というとすぐに「きたないもの」と思い込む偏見。「浄らか」は素晴らしいと思う偏り。この相対論理の発想や価値観は根本的に間違っている。汚れを知るから清浄を求め、過失があるから成長し、怪我をするから身を慎み、石に躓いて我に帰る。>>

たぶん龍樹の影響だとは思いますが、二元対立を嫌うあまり観念の迷路に入っているように思えます。
『汚れを知るから清浄を求め』ということは、『清浄も汚泥も平等不二』ではなく、清浄を目指しているのですよね。
これを悪平等な観念論に陥ったら、それこそ虚無思想、暗黒思想になってしまいますよ。
汚泥を汚泥と明らかに見て、汚泥から離れることこそが仏陀の道です。
『汚泥と清浄を差別してはいけません』『汚泥もいいものですよ』なんてごまかしていたら
全力で汚泥から離れる原動力がなくなり、『生まれたまんま、このまんま、ただそのまんま』で汚泥の底に沈んでいくでしょう。
あなたはのどが渇いたときに汚泥の水と清水があれば、取捨選択して清水を飲むのではありませんか?
観念論に陥ったら人生の時間を無駄にしてしまいますよ。

大乗仏教は、自分の心を洞察することなく、『矢』が何であるかを直接見ることなく、ひたすら観念のお遊びをしている印象です。

 

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<<ショーシャンクさんは、「釈尊が考えていたアートマン」というのはどういうものだ、とお考えですか?>>

仏陀は、アートマンがない、とも、アートマンがある、とも言っていません。
仏陀が言ったのは
sabbe dhamma anatta 一切の事物は我(われ)ならざるものである
つまり、諸法非我です。

『色は常であろうか、無常であろうか。』
『大徳よ、無常であります。』
『もし無常ならば、それは、苦であろうか、楽であろうか。』
『大徳よ、苦であります。』
『では、もし、無常、苦にして移ろい変わるものでならば、これを観じて、これはわが所有である、これは我である、これはわが本体であるとするのは適当であろうか。』
『大徳よ、そうではありません。』
 ↑↑
この『色』に続いて、『受・想・行・識』のつまり五蘊全部について同じ考察をして
『では、もし、無常、苦にして移ろい変わるものでならば、これを観じて、これはわが所有である、これは我である、これはわが本体であるとするのは適当であろうか。』
『大徳よ、そうではありません。』
という結論に達します。

『色・受・想・行・識』の五蘊がわが本体ではない、と言っています。
つまり諸法非我なのです。
一切の形成されたもの=現象すべて は、無常であって我ではない、ということです。

それでは、つくられざるものが永遠なのか、霊魂があって永遠なのか、この世界は永遠なのかそうでないのか、つまり実体のあるなしについては無記(答えない)としました。
ですから、アートマンなるもののあるなしについては無記です。

一切の形成されたもの=現象 はすべて無常です。
現象に恒久であるものは、爪の上の砂ほどもない、と言っています。

ただ、後世になって、仏陀が無記としたものまで、(自我でなく自己といわれるものまで)すべて実体がない、としてしまったのです。

 

 

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仏教についてのひとりごと 102

<<ショーシャンクさんは、『煩悩を捨て去って涅槃に入る』は大間違いと断定されますか?>>

 

通説として、小乗仏教は煩悩を滅していって涅槃に至る、と考えられてきました。
煩悩が100あったら、それをどんどん少なくしてゼロになったときに涅槃の状態になると思われてきたのです。
そして、出てくる煩悩をことごとく滅していく方法がとられました。
具体的には出てくる思考、想念に気を付けながらそれをなくしていく方法です。

しかし、無明によって中心ができ、中心ができることで限定、欠乏感が生まれ欠乏感が渇愛となり、その渇愛のうずきから煩悩の想念が湧き出るのです。
中心を滅しない限り、煩悩は湧き出ます。
中心を滅するには無明を滅すること、自我の形成過程を洞察することしかありません。

 

 

【比丘たちよ、これが苦の生起という聖諦です。それは再生をもたらし、歓喜・愛着を伴い、あちこちに歓喜する渇愛です。すなわち、欲愛、有愛、無有愛です。比丘たちよ、これが苦の滅尽という聖諦です。それはその渇愛の、消滅による残りなき滅尽、捨棄、破棄、解脱、無執着です。】

 

これはその通りだと思いますよ。
そして、苦の消滅には八正道が必要で、八正道の正見こそ、四諦十二縁起のことだと思っています。

 

 

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<<『八正道の実践で煩悩を捨て去って涅槃に入る』という文章になっても、なお間違いと思われますか?>>

八正道によって、中心が消滅するのです。
中心の消滅⇒渇愛の消滅⇒煩悩の消滅 ですから
煩悩が消えて涅槃になることはその通りです。


前にも書きましたが、『煩悩を滅して涅槃になる』ということから
自我=中心の成立過程を洞察せずに、いま湧き上がっている煩悩を消そう消そうとして果てしない努力をしてきたのは、間違いと言っています。
それは無理なのです。

中心の形成過程を洞察するのが十二縁起と考えていますが
十二縁起は歴史上まともに瞑想されることはありませんでした。

 

 

 

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仏教には『三界唯心』『唯心所現』『唯識所変』という言葉があります。
仏陀も『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。――影がそのからだから離れないように。』と言っています。

心が現象をつくっているのです。
現象は心の影にしか過ぎません。

これを潜在意識に徹底的にたたき込んだら、あなたの環境は一変するでしょう。

仏教をやっていると言いながら、あるいは唯識論をマスターしたと言いながら、自分の環境に無量が現れないようでは、その人の理解はニセモノです。ただの観念論、戯論にしかすぎないのです。

古今東西、大人物になったり大成功している人は、非常に過酷な環境に生まれた人が多いです。
現代の日本を代表する成功者の孫正義は、幼少期、差別に苦しみ貧乏のどん底でもありました。
坂の上の雲』の主人公兄弟の父はいつも子供たちに『昔から大人物は貧乏な家から生まれている。だから、うちも貧乏にしているので、自分に甲斐性がないのではない。』と言い聞かせています。

貧乏な家で育った人の方が成功するのは、願望が強く想念が強いことが多いからです。

 

 

 

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もちろん、裕福な家に生まれた人が成功することもあります。
古今東西、大人物になったり大成功している人は、過酷な環境に生まれた人が多い』と言っているので、すべてそうだとは言ってません。

ただ、三大宗教の開祖で言えば、仏陀は一国の皇太子として生まれましたが、イエス・キリストは田舎の大工の家、マホメットは生まれる前に父親は死に生まれてすぐ母親も死にます。
宗教家は成功者とするには特殊ですが、それでも、三大宗教で言えば、裕福な家より貧しい家に生まれたほうが多い、とは言えますね。

 

 

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残念ながら、それがこの地球という星の現実です。
戦争に勝った国であること、そしていち早く核兵器を持った既成事実を作り上げた国、それが現在、核を保有しています。
核を持った上で、これ以上、世界に核を拡散するのはやめよう、というわけです。
はっきり言って、自分勝手な論理です。
しかし、それがこの世界の現実なのです。

『金(きん)がなければ銀を、銀がなければ銅をもって宝とせよ』という言葉がありますが
理想としては、世界から核兵器がなくなることです。
しかし、それは力関係から言って不可能です。
そうであれば、少なくとも倫理や良心の欠片もない国が新たに核兵器を持つことだけは避けないと、いつテロ組織に核兵器が渡るかわからなくなります。
それは最悪の事態ですから、今はアメリカに頑張ってもらうしかないのです。

しかし、今回の米朝合意は、日本にとっては最悪に近い、内容のないもので、北朝鮮の勝利ですね。
予想はしていましたが、ちょっとひどすぎます。

 

 

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<<アメリカに倫理や良心の欠片がありますか?>>

 

あるでしょうね。少なくとも、史実を見ても北朝鮮や韓国や中国やロシアよりははるかにあります。司法もマスコミも東洋のどの国よりも機能しているでしょうね。
もちろん、地球上に完璧な国なんてありません。アメリカも自分勝手な国ではありますが、上記の国と比較すればはるかにましです。


<<安倍総理も何故アメリカには、核兵器の削減を言えないのか情けないです。>>

 

地球上唯一の超大国、一強のアメリカに対し正面から核兵器の削減を言える国はどこもありません。第二次世界大戦の時の連合国であっても言えるわけはなく、ましてファシズムで敗戦国の日本、ドイツ、イタリアが言えるわけもありません。


<<日本がアメリカにもロシアにも中国にも堂々と正論が言える、物を言える様な国になって欲しい>>

 

いや、日本の外交力はいまがピークです。これから、国力も外交力も凋落していきます。
安部首相は頑張ったと思いますし、日本の歴代総理の中では珍しく外交出来ていたと思います。
しかしもう限界ですね。
安倍首相が続投しても凋落は避けられないですし、他の人例えば石破などがなったら国力は一気に崩れるでしょうね。
近い将来、日本が5位から10位くらいの中堅の経済力の国になってもみんなが幸せを感じられるような社会にしていくことが重要ですね。国力はあまりなくても、国民の幸福度が大きい国は結構ありますから。

 

 

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それでは聞きますが
あなたは観念論でなく、自分の心を洞察してその文章を書いていますか?
『煩悩』とは何か?
『矢』とは何か?を洞察して書いていますか?
私は中心=煩悩だとは一度も書いていませんし、思ってもいません。
煩悩が縁って起こるところをはっきりと洞察しないと、経典を読めば読むほど観念のお遊びになってしまいます。

質問します。
①愛欲と怒りと愚かさとの本性とは何ですか?
②あなたのいう【空化され、執着されていない現実】において、存在する『愚かさ』とは何ですか?
③あなたの書いた訳文の『愛欲と怒りと愚かさ』は、貪瞋痴の三毒の訳だと思いますが
 そうであれば、解脱した後も貪瞋痴の三毒はあるということですね?

 

 

~~~~~~

 

 

何を言っているのですか?
私は、『愛欲と怒りと愚かさとを離れて解脱するというのは、慢心のある者に対して説かれたのです。慢心のない者においては、愛欲と怒りと愚かさとの本性が、そのまま解脱なのです』なんて思ってもないですし、そんなこと、つまり煩悩即菩提などはただの観念のお遊びだと否定しているのです。
その否定した文章に対して、bwv602 さんが『「どちらも大間違い」ではなくて「どちらも正しい」と私は思います』という意見を出され、維摩経のその文を書いてきたのですよ。

その経緯があなた、わかって言っているのですか?

ここは私のスレッドですよ。
そして、自分のスレッドにbwv602 さんが書いてきた内容を質問したのですよ。
それの何が礼儀に反するのか、説明してもらえますか?

 

 

~~~~~

 

 

自分のスレッドに、ある人が投稿して、その投稿の内容に対して質問することが
なぜ試すことになるのですか?

 

~~~~~

 

あなたの『もっと礼儀を身につけなさい^^』という投稿に対して、書いたあなたに対して『礼儀に反することなど全くしてないが、ちゃんと経緯を把握して言ってるのか?経緯が分かっているなら、どこが礼儀に反するとあなたは考えているのか?』と聞いているのです。


私・・・
『一般に、小乗仏教は、煩悩を捨て去って涅槃に入る、大乗仏教は、煩悩即菩提、生死即涅槃といいます。私に言わせれば、どちらも大間違いです。』

 

bwv602 さん・・・
『「どちらも大間違い」ではなくて「どちらも正しい」と私は思います。例えば維摩経で、煩悩即菩提ということの意味を理解していないシャーリプトラの問いに対して天女が次のように答えています。「問う。『天女よ、愛欲と怒りと愚かさとを離れるからこそ、解脱があるのではありませんか』天女が答える。『愛欲と怒りと愚かさとを離れて解脱するというのは、慢心のある者に対して説かれたのです。慢心のない者においては、愛欲と怒りと愚かさとの本性が、そのまま解脱なのです』」。』

 

私・・・
『質問します。
①愛欲と怒りと愚かさとの本性とは何ですか?
②あなたのいう【空化され、執着されていない現実】において、存在する『愚かさ』とは何ですか?
③あなたの書いた訳文の『愛欲と怒りと愚かさ』は、貪瞋痴の三毒の訳だと思いますが
 そうであれば、解脱した後も貪瞋痴の三毒はあるということですね?』

⇑⇑⇑
このやりとりのどこが礼儀を欠いているのですか?
私の投稿に対してのレスに対して、真摯に質問をしているのですよ。

 


あなたは、他人のスレッドで他の人とやり取りしている最中に割り込んできて
いきなり『もっと礼儀を身につけなさい』などと偉そうに説教しているのですよ。
あなたこそ、礼儀を知りなさい。

答えられなくなると『自分で考えなさい^^』といつも逃げてしまう。
自分の中の卑小性に少しは気づきなさい。

 

 

~~~~~~

 

 

あなたは、日本語の文章をまともに読めていますか?

『ここは私のスレッドですよ』だけを取り上げて、『自トピは私有物ではありません』などとくだらないことを言い返す。
幼稚な思考です。

私は『ここは私のスレッドですよ。そして、自分のスレッドにbwv602 さんが書いてきた内容を質問したのですよ。それの何が礼儀にはんするのか、説明してもらえますか?』と言ったのです。
自分のスレッドに書いてきた投稿に対し、真摯に質問したことが何故礼儀に反するのかという主旨です。
誰も、所有権は主張してないですよ(笑)

それを『ここは私のスレッドですよ』だけに対して、『自トピは私有物ではありません』などと小学生のような幼稚な法律論で反応しているのです。
いま、ちょっと、あなたの過去投稿を見てみました。
誰かが『ここはあなたがスレ主ではない』と書くと、必ず、『自トピは私有物ではありません』という論理で反応しているようです。オートマティックですね(笑)

馬鹿馬鹿しいことに、憲法の『検閲の禁止』を引用している箇所もありました。
笑ってしまいました。
これ、本気ですか?
憲法を少しでもわかって言っているのですか?

 

 

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たーぼーさん、おはようございます。
<<中東辺りの国では、日本の常識では計れないある程度は独裁的なリーダーでやっていくしかないんではないかと思っています>>
確かに、おっしゃる通りです。独裁国家で独裁者が倒されたあと治安が悪化したことは多いのです。
地球上で完璧な政治システムはないようです。

<<くだらない国内の揚げ足取りに負けず、もっと長期政権を築いて欲しいなと思ってます>>
私もそう思いますが、しかしもういっぱいいっぱいですね。
いっぱいいっぱいというのは、次も安倍首相となったにしても、日本はこれから国内的にも国際的にもかなり厳しい状況になっていくことは避けられないということです。
来年からの日本の状況はかなり厳しいものになるだろうと見ています。

 

 

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<<あなたの主張は論理もきちんとしており、正しいものと見えます。>>


ありがとうございます。

 

<<件のmulti(旧マジャン通称スカンクのてつじろう)が、哲学板の厄介者である先入観無しに読んでも、彼がアラシ的行為に及んでいるのは誰の目にも明らかです。ええ、哲学板では【てつじろうくん】のことを、殆んどの参加者が虫籠に入れているか相手にもしていません。>>


そうなんですか。私は、自分のスレッドに投稿してこられる人の過去投稿はあまり見る習慣がなかったので知りませんでした。
いま、こういうことがあって見てみますと、どこでも『自トピは私有物ではありません』という幼稚な言葉で自分のアラシ行為を正当化しているようです。
私の精神も卑小そのものですが、このmultitudeという人の精神も卑小ですね。自分で悟った気分になっているから非常にたちが悪いパターンですね。
すべての人から相手にされていない人なのですか。

 

<<お節介かも知れませんが、あなたもそうされることをお勧め致します。>>


わかりました。今度来るレスがあまりにも馬鹿馬鹿しいものであったらそうします。
ご忠告ありがとうございます。

 

 

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あなたの過去投稿を見るとこういうやり取りをしていますね。
 ⇓⇓⇓
【トピ主様の意向は、「私の好き嫌い」になっていませんか。
その「私の好き嫌い」が「検閲」になると、「表現の自由」という人権を侵しはしませんか。
その人権の根本は「差別をしない」ということでないのでしょうか。
それは、トピ主の意向で、レスを差別して検閲をしないということではないのでしょうか。
日本国憲法にも、基本的人権の多くの項目がありますが、第二十一条に「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。
通信の秘密は、これを侵してはならない。」という「表現の自由」があります。
その憲法に基づいて、個人情報の暴露や、極端な個人攻撃はヤフーが責任をもって管理していますんで、私は「ヤフーの管理」にお任せしています。
だいたいにおいて、トピは、それを開設した者のモノではないでしょう。
公共のものを、「私の意向のモノ」と思い、私の意向で検閲できると思うことが、「表現の自由」という日本国憲法第二十条を犯すことになりやしませんか。】

という投稿に対し

【> しかし、トピ主様の意向は、「私の好き嫌い」になっていませんか。
その通り^^
 > その「私の好き嫌い」が「検閲」になると、「表現の自由」という人権を侵しはしませんか。
侵している^^
> んで、私は「ヤフーの管理」にお任せしています。
その選択が正しいのです^^
> だいたいにおいて、トピは、それを開設した者のモノではないでしょう。
その通り^^
自トピを私有物と思っている間はダメでしょうネ^^
ー風に吹かれてー】

というように、スレ主の意向に反した投稿をしないようにしてくださいというお願いを、日本国憲法第二十一条の【検閲の禁止】を持ち出して、憲法違反だという主旨に賛同しています。

法律を知らない者ほど、知ったかぶりして、出してくる場面でもないのに生噛りの法律用語を必死に繰り出しては自分の正当性を主張したがります。
それは、少しでも法律を知っている者から見ると滑稽そのものです。

日本国憲法第二十一条の【検閲の禁止】の【検閲】とは、国家が、表現物や言論を検査し、国家が不都合・不適当と判断したものについて取り締まる行為のことを言います。

 

 

~~~~~~

 

 

憲法を論じたいのであれば、最高裁判例を知っていなければなりません。

日本国憲法二十一条の検閲の禁止における検閲とは、最高裁判例昭和59年12月12日民集38-12-1308では、
①行政権が主体であること
思想統制であること
③網羅的・一般的な禁止であること
④事前規制であること
です。

このような掲示板で、スレ主が、スレッドの主旨に反した投稿はやめてくださいとお願いをしていることを、憲法の検閲の禁止に反するなどと、およそ小学生でも恥ずかしくて言わないことをよく言いましたね。

 

 

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<<表装的な礼儀などどうでも良いのですよ^^自分から問題提起したら・・・
先ず自分の考えを述べてから・・・相手の考えを聞きなさいと言っているだけです^^>>

あなた、何を言ってるのですか。
きちんとスレ主の私とbwv602という投稿者とのやり取りをちゃんと読みましたか?
答えなさい。
その上で言ってるのですか?

私の考えは『一般に、小乗仏教は、煩悩を捨て去って涅槃に入る、大乗仏教は、煩悩即菩提、生死即涅槃といいます。私に言わせれば、どちらも大間違いです。』です。
その考えの根拠も詳しく書いています。

それに対してbwv602さんが『「どちらも大間違い」ではなくて「どちらも正しい」と私は思います。例えば維摩経ではこう書いてます。』と投稿してきたので
私がその維摩経の文に対して質問したのですよ。

それがわかっていますか?

私の考えはすでに述べているのがわかりませんか?

スレ主と投稿者のやり取りにいきなり割り込んできて『礼儀を知りなさい』などと上から目線で説教するあなたが無礼なのです。
あなたが逃げてばかりできちんとした答えをしないのであれば
ちゃありーさんの忠告に従って、あなたを無視するしかありません。

きちんと正面から答えなさい。

 

 

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あなたは、スレ主と投稿者のやり取りに割り込んできて
上から目線で『礼儀を知りなさい』と言ったのですから
責めたその根拠を示さないといけません。
それが社会人としての良識というものです。

正当な根拠もなくほとんど知りもしない人に対して『礼儀知らず』と罵ったのであれば
あなたは相手にするべきレベルの人ではないということです。
無差別殺人の犯人のように、関わってはいけない人というのがこの世には存在します。
根拠なく他人を罵ったり傷つける行為は、その延長線上には犯罪があるのです。
ですから、正当な根拠を示しなさいと言っています。

自分でその根拠を示さないのであれば、今後、このスレッドには来ないでください。
『スレはスレ主の私有物ではない』などという幼稚な法律論は恥ずかしいので持ち出さないでくださいね(笑)

 

 

~~~~~

 

 

ちゃありーさんの言う通りの人のようですね。
良識を持ち合わせていない人のようです。

今後は、このスレッドには来ないでくださいね。
もし来たら、その都度あなたを糾弾しなければならないので
面倒くさいですから。

 

~~~~~

 

<<ハトです。>>
ハトと言われるのですか?そうであれば、表示名を『ハト』にされた方がいいですよ。
私は、表示名で呼ぶので、あなたならsanさんと呼んでましたが。

<<当然解脱した仏陀でも、迷いの心である、餓鬼や地獄の心まで具わっています。>>

天台の十界互具ですね。
どのような教えであれ、筏にすぎませんから、その人に合う筏で激流を渡ればいいと思います。
親鸞の教えであっても妙好人を生み出しましたし、イスラム教でもスーフィーを生み出しましたから、どのような教えであっても、その人に合えばいいと思います。

私は、最近特に、仏陀の言った『激流』『汚泥』『矢』などが大きな実感をもって見えてきたので、そして自分には、仏陀の残してくれた筏が最も合っていると確信しているので
その筏でいきます。

私の実感では、すべての人は激流に流されている最中なのです。洪水の激流、それにのみこまれ汚泥の底、苦の集積に向かっているのです。
その激流は『万力のような』強さです。
しかし、だれも激流に流されていることに気が付かないのです。

別の表現で言えば、矢が刺さっているのです。それも毒矢です。
早く抜かないと毒が回るのです。

仏陀は言いました。『私は、矢を抜く最上の人である』と。
この言葉は大きな理解をもたらせてくれました。

矢とは何か?激流とは何か?
これは、自分の心を洞察しない限り、本当にはわからないのです。

仏陀の死のはるか後に、様々な人が勝手に作り上げた理論や観念をいくら積み上げても
矢とは何か?激流とは何か?苦とは何か?はわからないと思います。

 

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あなたには、このスレッドには来ないようにお願いしました。
スレ主がスレに来ないように言っているのに、なぜ、あなたは来るのか、書き込もうとするのか、自分の心の動きがわかっていますか?
全くわかっていないでしょうね。あなたは、自分の心を洞察したことなど一度もないからです。
このスレに書き込むな、と言われて書き込まなくなったら私に負けた気になる、自分の自我が傷つくからあなたは書き込むのです。
止められると余計にしてしまう幼稚な子供の精神なのです。
子供は親や先生に禁止されていることをわざとして『俺は自由だ』と自己満足するのです。

私のお願いを無視してこのスレッドに書き込むのであれば
あなたを題材に自我というものがいかに人間を不幸に追い込むかを考察していきますね。
あなたは題材としては最適だと思いますから。

 

~~~~~~

 

赤い実さん、おはようございます。
私も同じことを考えていました。
multitude と言う人は、全く自分の心を洞察してないです。
最も悪いことは、自分が悟ってると思い込んでいることです。
他人を思いやれない人が道を説こうとしていますね。

 

~~~~~~

 

<<なんていうか・・・マージャンさんの姿を見ていると、せつなくなってしまうようなところがあるんです。>>

それは、赤い実さんの意識が拡がっているからです。
あのような人を不快感や嫌悪感でなく、可哀そうな人と見ることができるのは、意識の拡がりからです。

あるお坊さんが頼まれて刑務所に説教に行きました。
刑務所の囚人たちを前にしてそのお坊さんは『ああ、仏さんがこんな姿になって・・・』と言ってあとは涙をポロポロ出してずっと泣いているだけだったといいます。
囚人たちもみんな泣いていたそうです。

 

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仏教についてのひとりごと 101

<<「前世」「来世」 また「無我」etcは 納得できないです  これだと 仏教ではないのですよね?。>>

 

前世や来世、生まれ変わり、そして死後の世界は、仏陀の教えの本質ではありません。
しょせん、そんなものは現象にしかすぎないのです。
ゆえに仏陀
『修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る』と言ったのです。

 

<<また 極端な例ですが。。「鰯の頭も信心から」 自分が素直に信じられる教え その教えが世間では受け入れられることが少なくても 要するに自分が最高に信じることが出来る教えであれば それがベターである?。>>

 

その通りです。
旅のお坊さんが無学なお婆さんに『南無大師遍照金剛という言葉は非常にありがたい言葉なので信じて唱えなさい』と言いました。
そのお婆さんは『南無大師遍照金剛』を聞き間違えて『生麦大豆二升五合』だと思い込んで
毎日熱心に生麦大豆二升五合と唱えました。
そのうち、人の病を治すくらいの神通力となりました。
旅のお坊さんがまた訪れたところ、お婆さんが間違って『生麦大豆二升五合』と唱えているので
『何てことをしてるんだ。間違ってる。南無大師遍照金剛が本当。』と諭しました。
お婆さんは恥じ入ってそれからは『南無大師遍照金剛』と唱えましたが、神通力はなくなってしまったということです。

お婆さんにとっては意味も分からない『南無大師遍照金剛』よりも『生麦大豆二升五合』を力強く唱えていたほうが法力があったということです。

あなたにとっての『生麦大豆二升五合』を探していけばよいのです。

 

 

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<<涅槃の意味は分かりますが生存欲を捨てながらの生き方は本当にそれは正しいのでしょうか
もし人生に喜びが無い場合でも その境遇を素直に受け入れて それ以上のことを求めない人生が正だとするのでしょうか>>

一般に、小乗仏教は、煩悩を捨て去って涅槃に入る、大乗仏教は、煩悩即菩提、生死即涅槃といいます。
私に言わせれば、どちらも大間違いです。
仏陀の真意はそんなところにはないです。
煩悩即菩提なんて観念のお遊戯にしかすぎません。

<<それ以上のことを求めない人生が正だとするのでしょうか>>

私も高校時代に仏教に凝っていましたから、執着が悪い、煩悩が悪いと思ってきました。
それは人生に決定的に悪かったと思っています。
欲望否定の思想では、人生の原動力が失われ、ぐったりと死んだような人生になります。
ですから、今の間違った解釈の仏教など、捨て去ったほうがいいのです。
こういう後悔があるので、私は、これから人生を生きる人のために、仏陀が本当に言おうとしたことを残しておきたいと思うのです。


<<お釈迦さんの「中道」 若い頃の快楽いっぱい  修行時代の苦行 どちらからも得るところがなかった
この中道の教え ひょっとしたらお釈迦さん 私を理解して下さるのではと思ってしまう 身勝手な私です(笑)。>>

若いころは、ギラギラして生きたほうがいいでしょうね。
大きな欲望を持って、人生を十全に生きたほうがいいです。
ですから、私は、出家制度もやめにして
若い時はお金儲けに邁進して、一生暮らしていけるお金ができたところで隠遁生活して修行に専念するというスタイルがいいと思います。
これだと、宗教者がお布施ばかりを気にし世の中に寄生することがなくなるので
これこそ、新時代の出家だと思います。

 

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pipitさん、こんにちは。
<<涅槃とは渇愛(タンハー)の滅尽、という考え方を、ショーシャンクさんは肯定されますか?否定されますか?無明が滅すれば渇愛も滅するので、文が正しければ、苦の滅尽した状態の中には渇愛はないと私は思います。ショーシャンクさんは、苦の滅尽した状態の中に「渇愛」があると断言されるのですか?それとも「渇愛」はないと断言されるのですか?>>

pipitさんのその質問に答える前に、先に書いたように、煩悩や渇愛などの用語は人それぞれに違った意味で使っていることが多いので、pipitさんは『欲望』『煩悩』『執着』『tanha=渇愛』『raga=貪』の5つの言葉の定義や意味の違いをどう考えているのかを教えてください。

それと、次のものは、pipitさんは『欲望』『煩悩』『執着』『tanha=渇愛』『raga=貪』のどれだと思っていますか?
煩悩は〇番と〇番と〇番。というふうに答えていただけませんか?重複はいくらでも結構です。例えば、2番は欲望でもあり煩悩でもあり執着でもある、というように。

①将来医者になって苦しんでいる難病の人を救いたい。医学部に入るために一生懸命勉強している。
②将来医者になってお金儲けして女性にもてたい。そのために一生懸命勉強している。
高校野球の選手で、自分のチームを甲子園に出場させるために一生懸命練習している。
④精神的に落ち込んだ時、モーツァルト短調の曲を聴きたくなった。
⑤主婦で家事が一段落したときにケーキとコーヒーで一服するのが楽しみだ。
⑥ペットの猫をなでるのが楽しみだ。
⑦ペットの猫を長生きさせるために様々な健康食品を買う。
⑧健康で長生きするためにウォーキングをする。
⑨明日も生きておいしいものを食べ、楽しく人と話したい。
⑩自分の子供には世の中の役に立つ人間になってもらいたい。
⑪中学生の息子が煙草を吸っていたので平手打ちした。
⑫夫が喜ぶ顔が見たくて夫の大好物の料理を作った。

 

 

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pipitさんは、私の文章の『一般に、小乗仏教は、煩悩を捨て去って涅槃に入る、大乗仏教は、煩悩即菩提、生死即涅槃といいます。私に言わせれば、どちらも大間違いです。』を問題としているのだと思います。

それをpipitさんは、煩悩という言葉ではなく渇愛が涅槃の状態の中にあるかどうか、と質問されました。
ですから、煩悩と渇愛という言葉を同じと捉えているのかどうかを聞いたのです。

答えていただけないようですから、私の解釈を言いますと
『煩悩を捨て去って涅槃に入る』というのは間違いだと思っています。
十二縁起によって苦の原因は無明とされています。
無明があるために、中心を持って限定が起き欠乏が起きたのです。
そこから煩悩が繁殖しているのです。
つまり、煩悩は中心を持つ原因ではなく、結果なのです。

結果である煩悩をいかになくそうと思っても、その中心=矢がなくならない限り、そこから痛みが起きて煩悩が増殖するのです。
煩悩を滅しようとする努力、少なくしようとする努力は、矢を抜かずに痛み止めを塗り続けているようなものです。

pipitさんの質問に答えるなら、涅槃、つまり中心=矢が消滅した状態になれば、渇愛は消えます。
煩悩も消えます。
しかし、煩悩を少なくしていたりなくそうとしても、それは矢がある限り無理です。

戒律や道徳、法律で抑えようとしても、煩悩はますます増殖します。
それはカトリックの歴史を見ても、仏教の歴史を見ても、禁欲は逆効果です。
律蔵を読むとまことにおぞましい事例がいっぱいあります。

ですから、煩悩を抑えたり、少なくしようとしても、根本の矢を抜かない限り無理だということがはっきりとわかったのです。

 

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<<根本の矢 というのは、「主体があると思う」ことですよね。全体としての運動があるだけ というのが本来なのだけれど、「私」という個人が実在していると思うことにより執着は強まる。しかし、すべては、無自性-空であり、自分というものもそうである。という考え方からすれば、そもそも、欲望も空です。それ(欲望)を、個人だけの問題として過大に必要以上に罪のように考えるから、欲望にさらに囚われてしまう、というのはあると思います。十二縁起の瞑想により根本の矢を抜く、という方法だけでなく、大乗のこうした考え方でも十分、根本の矢を抜く道ではあるとは思います。>>

うーん、どうでしょうか。
ここに来るたーぼーさんにしてもaozさんにしても、とても真摯で繊細な人だと思います。
例えば『苦の原因は執着である。だから執着をなくせば苦は消滅する。それが仏教の教えだ。』と言われるとします。
『すべては無自性で空だから自分も空。欲望だって空。』とも言われるとします。
理論で、そして観念で自分も空と思い込むことはできるでしょうし、真面目な人ほど真剣にそうしていくでしょう。
そうすると、底の底の我塊が悲鳴を上げ始めます。
否定されるために前よりもっと存在を主張し始めるのです。
前より我が強くなることが多くあるのです。
わかってもらえないかもしれませんが。

仏教についてのひとりごと 100

<<人生は生老病死の四苦をはじめとしてすべて苦である(一切皆苦)ととらえる。この人生の苦を解決するために苦、集、滅、道の四諦(四つの真理)を説く。苦諦は人生はすべて苦であるという真理、集諦(じったい)は苦の原因は心の迷い、煩悩にあるという真理、滅諦は煩悩を滅ぼすことで苦を取り除くことが出来る真理、道諦は正しい実践によって苦をなくすことが出来るという真理、である。正しい実践とは、正しく見(正見)、正しく考え(正思)、正しく話し(正語)、正しく行動し(正業)、正しく生活し(正命)、正しく努力し(正精進)、正しく思いめぐらし(正念)、心を正しく置く(正定)の八正道である。またその世界観の中心には諸行無常諸法無我涅槃寂静三法印(教理)がある。>>


仏陀の教えと言うと、たいていの人はこういうふうにまとめます。
しかし、このまとめでは、何もわかりませんし、最も悪いのはこういうふうにまとめただけでわかった気になってきたことです。

 

①人生がすべて苦。なんてどうしてですか?人生には苦もあれば楽もありますね?
②苦の原因が心の迷いにある?そんなことはないですね。老いるのは心が迷わなくても老いますね。
③煩悩を取り除くことで苦を取り除くことができる?煩悩とは何ですか?生存欲、食欲は煩悩ですか?煩悩としたら取り除くことなどできますか?
④正しい実践によって苦を滅することができる?生老病死がなくなりますか?なくなりませんね。


仏陀の真意が伝わってこなかったのは、このように愚にもつかない表面的な解釈で仏陀が分かった気になってきたことからだと思っています。

 

 

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<<今現在は煩悩はない^^
多分、今後の人生において煩悩を持つことは無いだろうとの実感^^>>

それは凄いですね!
いま現在煩悩がなく、今後も煩悩を持つことがないと断言できるのは、覚者か、勘違いしているのか、大ウソつきかのどれかです。

煩悩=心身を悩まし,乱し,煩わせ,惑わし,汚す心の作用
と捉えているのですね。

それでは、質問します。
次のうち、どれが煩悩でどれが煩悩でないと考えているでしょうか?

①将来医者になって苦しんでいる難病の人を救いたい。医学部に入るために一生懸命勉強している。
②将来医者になってお金儲けして女性にもてたい。そのために一生懸命勉強している。
高校野球の選手で、自分のチームを甲子園に出場させるために一生懸命練習している。
④精神的に落ち込んだ時、モーツァルト短調の曲を聴きたくなった。
⑤主婦で家事が一段落したときにケーキとコーヒーで一服するのが楽しみだ。
⑥ペットの猫をなでるのが楽しみだ。
⑦ペットの猫を長生きさせるために様々な健康食品を買う。
⑧健康で長生きするためにウォーキングをする。
⑨明日も生きておいしいものを食べ、楽しく人と話したい。
⑩自分の子供には世の中の役に立つ人間になってもらいたい。

 

 

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aozさん、おはようございます。
<<ある女僧さんの釈迦講座を5回 時間で7時間半を受講したことがあります>>
経歴からすると 勝本華蓮さんですかね。
この人は宮崎哲弥の『仏教教理問答』という対談本に出ていました。
専門学校を出て広告デザイナーの仕事をしていたこの人が仏教学を志したきっかけが語られていて面白いです。
浄土真宗系の秘事法門、つまり異安心系の霊能者に出会ったことがきっかけのようです。
この人の釈迦講座はどのような内容でしたか?興味あります。

<<上記のような解釈から 見えない「前世」「来世」とかが入った教えに拒否反応が強いのです(笑)。
①それで私は「現世内」のみでクローズする仏教を求めてしまう。
それと 間違っていたら ごめんなさい
②以前にショーシャンクさんでしたと思うのですが 仏教の目的は「涅槃に入る 悟りの境地を得る」と書かれていた?。>>

さて、どこから話したらいいか、論点が複雑に絡み合っているので。

まず、私は、『涅槃』とか『悟り』とか『煩悩』といったよく使われる用語はなるべく使わないようにしています。これは人によって全く違うものを指すのです。その人その人で勝手勝手に独自の意味で使っており、誤解が生まれやすい言葉です。

私が目指しているのは、精神の無量性です。それだけです。精神が無量になったときには現象にも無量が現れると思っています。現象に無量が現れなくては本物ではないのです。

精神が無量になるのであれば、どんなものでもいいのです。すべては筏ですから。
仏教でなくてもいいし、キリスト教でもイスラム教でもヒンズー教でもいいのです。
宗教でなく、バッハやマーラーの音楽でもいいのです。宗教は強烈な宗我、我執が形成されることが多いですから、本当は宗教より音楽のほうがいいのです。
宗教をやってる人にろくな人がいないのは、その宗教が鎖になり束縛になり牢獄になっているからです。

私は、歴史上の仏陀の真意が仏教に伝わっていないという強い思いがあるので、日本仏教などを批判していますが、しかし、親鸞の教えで救われる人もいるのです。
妙好人のエピソードを読んでいると素晴らしいと感じます。
瀬戸内寂聴でも、私が考える仏陀の教えとは違うかもしれませんが、その人が説いたことで救われる人もたくさんいるわけで、大人気ですよね。

 

 

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