仏教についてのひとりごと 106

たーぼーさん、こんにちは。
そうですね。
ただ、簡単か、といえばそうでもなくて、仏教者でも、根本に実体がある派とどこまでいっても実体がない派が分かれています。

仏陀が、無記とした気持ちはよくわかります。
実体があると言えばイメージで存続する我を捉えてしまって自我を形成してしまいますし
実体がないといえば虚無思想になる怖れがあり
どちらにしても、人間は思考や観念で捉えてしまうので
限定を取り除いたところを自分で体験しないと意味ないと思ったのだと思います。

 

 

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<<仰る通りですね。 あるがままに見ろといっても、煩悩が強い凡夫には結構難しい。これがしっかり分かれば、次の正思も正語も自然と理解できるようになる。>>

ほとんどの人と同じで、私も八正道はずっと軽視していました。
表面的な道徳項目にしか見えなかったからです。
そのような倫理道徳で苦の消滅に至るわけがないと思っていたからです。
しかし、八正道は倫理道徳項目などではありませんでした。
本当に広くて深いものでした。

<<天台一家では九識心王の都として、心魂をたてます。 悪の行為をすれば、当然神魂に傷がつき、曇る、だから曇っている心魂を善の行為によって、自ら磨くのでしょう。 私は心魂が実体だと理解しています。>>

九識論はとても好きな思想でした。
八識の阿頼耶識が根本とすると、根本識に迷いも全部蔵することになるので
私は阿摩羅識を立てる九識論のほうが好きでしたね。

 

 

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そうですね。
諸法非我がかなり早い段階で諸法無我になってしまった感じです。
大乗仏教は、そうやって失われた主体の復興運動ではなかったかとも思うことがあります。
法身や久遠実成の釈迦や大日如来を立てるのはそういうことかもしれません。
しかし、どこまでいっても実体がないにこだわる仏教者もかなりいて
仏教はかなりバラバラですね。

 

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<<だとしたらですが(仮定なのにすみません。)、実体だと考えられる理由というのは、どのようなものになりますか?>>

理由は2つですかね。
20歳くらいのとき、『宇宙意識の哲学的研究』という本を読みました。内容は、唯一の実在としての意識という理論で、私の哲学的な疑問のすべてが氷解しました。すべての謎が解けたので理論的には私には実在意識は確信に近いです。
もうひとつは、体験的にといっても大した体験ではありませんが意識の拡がりを垣間見たとき壊れないものという感覚が少しあることです。

 

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<<〈無我〉の理解できない者に仏教を語る資格はないだろう。>>

それでは、中村元は仏教を語る資格がないということですね。
それならなぜ、あなたはその中村元訳のスッタニパータやダンマパダを読んでいるのですか?
中村元ははっきりと『初期の仏教では、諸法無我ではなく諸法非我であった』と書いています。


中村元博士によれば

brahmabhutena attana viharati
ブラフマンとなったアートマンによって住する (中村元訳)

これは、初期仏典にしばしば出てくる定型句(DN Ⅲ P233 etc.)とのことです。

 

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あなたには、松本史朗『縁起と空』を読まれることをお薦めします。
松本史朗はあなたと同じ、仏教の根幹は縁起と無我であるという主張で
この本には
『原始仏典において、アートマンを認める表現が非常に多く見られることは、すでに中村元博士によって詳しく論じられたとおりである。』
『このように、初期仏教においてはアートマンを否認してないのみならず、積極的に承認していると中村博士は言われた』
中村博士は、初期仏教においては、非我説が説かれているだけで、無我説は説かれていないと詳しく論証された。』

そして
松本史朗は、『スッタニパータの所説全体が基本的に我論に立脚していると言っても過言ではない』として
スッタニパータをバラモン教ジャイナ教が入り込んだものとして否定しています。

あなたも松本史朗と同じ考えですから、スッタニパータを否定されればどうですか?

 

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松本史朗は、あなたと同じ考えですよ。
無我と縁起が仏教の根幹であるとし、それを否定するものは非仏教と決めつけています。
あなたの論理と同じです。
松本史朗が『仏教をかき乱した彼らは、単なる目立ちがり屋で、今では誰も相手しない「死に体」』であるなら、その論理は違うのではないですか。
そして同じことを主張するあなたも違うのではないですか?

少なくとも、
『原始仏典において、アートマンを認める表現が非常に多く見られることは、すでに中村元博士によって詳しく論じられたとおりである。』
『このように、初期仏教においてはアートマンを否認してないのみならず、積極的に承認していると中村博士は言われた』
中村博士は、初期仏教においては、非我説が説かれているだけで、無我説は説かれていないと詳しく論証された。』
という中村元博士はいまも仏教学の権威ですね。

あなたによれば『〈無我〉の理解できない者に仏教を語る資格はない』のではないですか?

 

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竹村牧男は、『唯識の探求』『華厳とは何か』など何冊かは持ってますし読んでいますが
それが何だというのでしょう。
あなたは、自分の知識があなたの自我を構成していることを観た方がいいですよ。

私が松本史朗の『縁起と空』を挙げたのは、
その本には、スッタニパータを始めとした原始仏典はアートマンを説いているという論証がふんだんにとりあげてあるからです。
松本史朗は、その反対者でありながらそれを認めているところが、その事実を裏付けるものということです。

しかし、あなたは、それを知識量や読書量、つまり自慢の材料と捉えて、自分はこんなものを読んでいるとアピールしなければいられない、その心の動きを洞察しないと、何万冊仏教書を読んでも悪くなるばかりです。

あなたは無我といいながら、仏教をしてない人よりずっと強固な自我、承認欲求を持っています。

私がこのカテゴリーで見る限り、multitude という人と、あなたと、春間氏の3人には
強烈な承認欲求の渇望を感じます。

 

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<<実体があれば、人と人との関係性が成立しません。人と人の間という「人間」が成立しません。というのが、釈尊の縁起の思想です。>>

そんなことは、仏陀は一言も言っていません。
もし、言ってるというなら、どの原始仏典にあるか、示してください。
あるわけないです。
仏陀が言いもしないことを釈尊の思想などと言うのは仏陀に対する冒涜です。

 

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<<>ブラフマンとなったアートマンによって住する (中村元訳)
アートマンの無量化。アートマンの粉骨解体したところにブラフマンという創造原理が自覚される。ということですよ。>>

ということは、アートマンブラフマンも認めるのですね?
アートマンがあるものだから、それが無量化したり粉骨解体したりできるのですから、あなたはアートマンの存在を認めるということでいいでしょうか?
そしてアートマンを無量化したものがブラフマンということは、ブラフマンの存在も認めたということですね?

 

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中村元訳ダンマパダ『真理のことば』(岩波書店)124ページに
『一切の事物は我(われ)ならざるものである。これがパーリ聖典にあらわれる古い思想である。ところがのちには「一切の事物は恒存する実体を持たない(無我)」と解釈するようになった』とあります。

この中村元の言うことは認めますか、それとも否定しますか?

 

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<<自我を粉骨解体すると、無量と共にある自己が現成します。その直接経験を表現しているだけです。>>

自分が本をどういう本を何百冊読んだという自慢が『直接体験の表現』ですか。
自我を粉骨解体してないから、承認欲求の亡者となっているのではないですか?
無量が現れれば、承認欲求の渇望は消滅しますが、あなたはなぜ、自分がスッタニパータやダンマパダを何十回と読んだとか、数多い仏教学者の名前を並べて「俺はこんなにも本を読んでいる」と主張し、他人に認められようとするのでしょう。

本を読んで自分の観念を強めているだけで、自分の心を洞察してないから、自分は自我を解体して悟っていると思い込んでいるのです。
自分を悟ったと思い込んでいる人は、全く悟ってなんかいないのですよ。
悟っていて他の人とは違うという自我を持っているだけなのです。
宗教をしていない人より余計悪いですよ。
そのことに、あなたもmultitude も気が付いたほうがいい。

あなたもmultitudeも、本当に悟っていて無量に触れているのであれば、あなたがたの文章に誰もが、愛や慈悲や大らかさ、安心感、穏やかさ、静謐さを感じるはずです。
文は人なり、ですよ。

 

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<<「すべてのものは我がものに非ず」――自分の身体も心の私のものではない。
認めますよ。>>

そうですか。
では、仏陀の在世中には、諸法非我という意味だったものが、後世、無我論になったということを認めるということですね?


初期仏典に繰り返し出てくる言葉は
『無常であり苦であるものを、わがもの、われ、わが本体としていいであろうか。』です。

 

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あなたの文章は私にとって都合がいいも悪いもなく、どうでもいいことです。

あなたが、スッタニパータの文章を自分勝手なトンデモ解釈をしていたので
その間違いを指摘しましたが、それについての反論もあなたから全くありません。
少なくとも真摯、誠実ではないということです。

あなたは、どこここ限らずスレ主の願いも意向も無視して自分の主張を延々とし続けるだけです。
そして、自分が答えられなかったりすると、スルーして、また自分の主張を延々としまくる、ということです。

そのような精神が愛や慈悲に達してるとでも思っているのですか?
この質問はスルーしないで答えてもらえますか?
あなたは、本当に愛や慈悲から、投稿をしているのでしょうか?

 

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<<ところで、ショーシャンク様。諸法非我(すべてのものは私のものではない)としたら、
ショーシャンク様の身心は誰のものですか。>>

身心つまり五蘊の集まりは誰のものでもないですよ。
ただ、感覚があって記憶があって名前がついて、その記憶の束を『私』と呼んでいる現実があるというだけです。
そして、その『私』が身心に執着しているというわけです。

 

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<< >>それについての反論もあなたから全くありません。
 議論が闘争になるので、議論する気はありせん。凡夫の自己の、馬鹿さ加減を、素直に表現しているだけですよ。ごめんさいね (-"-)>>

笑ってしまいました。議論が闘争になるので反論しないということでしたか。
それは失礼しました。
あなたが最初にスッタニパータのいろいろな文章を挙げて、次のように言ってきたので、議論や闘争したい人なんだと思っていました。
そして、あなたのスッタニパータの解釈がトンデモ解釈だったので、いちいち間違いを正しました。
それについてあなたはスルーで何も答えず、また全く関係のない自分の主張を延々と貼り始めたので、自分から議論を仕掛けて答えられなくなると逃げる人なんだな、と思ってしまいました。
今聞くと、議論や闘争を避けたい人ということですね(笑)それは失礼いたしました。
次の文章があなたが最初にスッタニパータの文章を解釈してきたときのものです。
  ↓↓↓

<<まだまだありますが、この位にしておきましょう。私は、『スッタニパータ』『ダンマパダ』『パリニッバーナ』を座右の書として参究しています。ショーシャンク様は『スッタニパータ』を何度位読んでいますか。私は参考書代わりに読んでいて10回近く呼んでいます。ショーシャンク様の参究不足が目につき過ぎです。また、仏教は「自己の探求」ですが、「自己探求」を等閑にして、大乗との分断対立に明け暮れているだけのように感じます。自分を無にして、一から出直しましょうよ。>>

 

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<<>>初期仏典に繰り返し出てくる言葉は『無常であり苦であるものを、わがもの、われ、わが本体としていいであろうか。』です
はい本体(アートマン)があると思うから苦だということでしょう。
梵語には両義性があるというのが、仏語を読む基本です。>>

全く違います。
なぜ素直に読まず曲がりくねって読むのですか?なぜ自分が信じる観念に無理やり合わせようとするのですか?あなたのそういう姿勢は大間違いですよ。
自分が作り上げてきたドグマを差しはさまずに本当の意味を読もうとするべきです。

無常であり苦であるものというのは、五蘊や現象のことです。
五蘊や現象を、わがもの、われ、わが本体としていいであろうか?
と言っているのです。
わが本体があるとかないとか言っているのではなく、五蘊はわが本体ではない、と言っているのです。
よくここまでねじ曲がった解釈ができますね。
あなたはどんな原始仏典を読んでも、自分のドグマに無理やり捻じ曲げてしまうだけなので読まないほうがいいのではないでしょうか。

<< 梵語には両義性があるというのが、仏語を読む基本です。>>
これも全く意味の分からない妄言です。
第一、初期仏典は梵語で書かれているのではなくパーリ語です。

 

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<<>身心つまり五蘊の集まりは誰のものでもないですよ。
虚無ですね。ショーシャンク様は、虚無主義でいらっしゃるわけですね。了解です。(-"-)>>

はあ?
頭は大丈夫ですか?
私の文章『身心つまり五蘊の集まりは誰のものでもないですよ。ただ、感覚があって記憶があって名前がついて、その記憶の束を『私』と呼んでいる現実があるというだけです。
そして、その『私』が身心に執着しているというわけです。』
を読んで、そういう反応をするとは、本当に大丈夫ですか?

 

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<<>俺の身心は・・・>宇宙(神)からの借り(預かり授かり)モノよ\(^o^)/
>だから・・・死んだら・・・身も心も・・・
  おお! いいね!>>

うーん(笑)やはり、あなたは支離滅裂で、どなたかも言ってたように、だれかを議論で負かそう、しか考えていない人のようだ。そして答えられなくなったら逃げてしまって、また自分のくだらない主張だけを延々と貼り続ける人のようです。

あなたはずっと何とかの一つ覚えのように『宇宙には実体がない、本体がない』と言い続けていたのに『身心は宇宙(神)からの借り物』という言葉に同意する。
それで自己矛盾に気付かない。ちゃんと話せる人ではなかったということです。

全部きちんとレスして時間を損してしまった。

掲示板の身勝手な遊び人として丸出しで生きていってください。

できれば、あなたとmultitudeは、似た者同士で他の場所で遊んでくださいね。

 

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<<意識=空間 と考えていいのでしょうか?
なんにしろ、空間が存在しなければ何物もそこに現象しえないと思うのですが・・・。
ということは、意識=空間だけは実在ということになりますか?
意識=空間だけが実在して、私たち人間は、意識が具現化して思考ももつようになった物、なのでしょうか?>>

いえ、意識=空間 ではありません。
空間とは何でしょうか?時間とは何でしょうか?

宇宙や森羅万象、どんな現象も、観られる対象物もなく意識だけの状態を考えてみてください。
そこに時間や空間はあるでしょうか?

 

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そうですね。一気にこのスレッドの環境が悪くなりましたね。
スレ主の私が『ここに来ないでくれ』と言ったのは今まで3人。その3人が揃い踏みですから、もう私も投稿する気がなくなってきています。
この3人(和弘、multitude 、mic)は、スレ主の意向など無視して多投稿し続けます。
このような環境下では投稿は難しいですね。

この3人の共通点は自ら悟っていると思い込んでいることです。
これが日本仏教の現状そのものです。
ですから、私は仏教は勧めません。
日本の仏教は仏陀の教えとはかけ離れていますし、自我や我執を強めるだけになっている人が多いです。

それに掲示板に投稿するのも時間を多く使ってしまいます。
この夏は勝負だと思っているので、時間を無駄にしたくないのです。

yamaさんも、時間を無駄にしないためにも、仏教からいったん離れて、このスレッドも見ないで、様々な分野の本を読み、最高レベルの音楽を聴き、自分に合うものを見つけてください。

 

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<<「真の自己」こそを、最初期の仏教はあくまで目ざしていた、これはスレ主さんの説>>

その通りです。
五蘊が仮合してできた我、限定された我、自我、個我は幻想、迷いであって実体はなく消滅するべきものですが、限定されざるもの、形成されざるもの、まで実体がないとは仏陀は一言も言っていません。無記(言わない)としたのです。
仏陀が無記としたのは、それを論じることが厭離に赴かず解脱に赴かず涅槃に赴かないからだと、仏陀ははっきりと言っています。
自己の根源、宇宙の根源が実体があるとかないとかを観念であれこれ考えることは涅槃に向かう妨げとなるということで、無記としたのです。

それを、何とかの一つ覚えで、本体はない、実体はない、実体がないのが仏教で実体があるというのは外道だとばかり言っているのです。

仏陀が『実体があるかないかは無記』といい、論じてはいけないと言ったことを、仏陀の意に反して『実体はない』と断言するのです。

相応部経典『道に関する集成』(春秋社原始仏典Ⅱ相応部経典p49)には
『修行者らよ、朝日が昇るとき、先駆けるもの、前兆となるものがある。それが、あけぼのである。そのように、修行者が八正道を始めるとき、先駆けるもの、前兆となるものがある。それが、我の完成である。』とあります。