仏教についてのひとりごと 101

<<「前世」「来世」 また「無我」etcは 納得できないです  これだと 仏教ではないのですよね?。>>

 

前世や来世、生まれ変わり、そして死後の世界は、仏陀の教えの本質ではありません。
しょせん、そんなものは現象にしかすぎないのです。
ゆえに仏陀
『修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る』と言ったのです。

 

<<また 極端な例ですが。。「鰯の頭も信心から」 自分が素直に信じられる教え その教えが世間では受け入れられることが少なくても 要するに自分が最高に信じることが出来る教えであれば それがベターである?。>>

 

その通りです。
旅のお坊さんが無学なお婆さんに『南無大師遍照金剛という言葉は非常にありがたい言葉なので信じて唱えなさい』と言いました。
そのお婆さんは『南無大師遍照金剛』を聞き間違えて『生麦大豆二升五合』だと思い込んで
毎日熱心に生麦大豆二升五合と唱えました。
そのうち、人の病を治すくらいの神通力となりました。
旅のお坊さんがまた訪れたところ、お婆さんが間違って『生麦大豆二升五合』と唱えているので
『何てことをしてるんだ。間違ってる。南無大師遍照金剛が本当。』と諭しました。
お婆さんは恥じ入ってそれからは『南無大師遍照金剛』と唱えましたが、神通力はなくなってしまったということです。

お婆さんにとっては意味も分からない『南無大師遍照金剛』よりも『生麦大豆二升五合』を力強く唱えていたほうが法力があったということです。

あなたにとっての『生麦大豆二升五合』を探していけばよいのです。

 

 

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<<涅槃の意味は分かりますが生存欲を捨てながらの生き方は本当にそれは正しいのでしょうか
もし人生に喜びが無い場合でも その境遇を素直に受け入れて それ以上のことを求めない人生が正だとするのでしょうか>>

一般に、小乗仏教は、煩悩を捨て去って涅槃に入る、大乗仏教は、煩悩即菩提、生死即涅槃といいます。
私に言わせれば、どちらも大間違いです。
仏陀の真意はそんなところにはないです。
煩悩即菩提なんて観念のお遊戯にしかすぎません。

<<それ以上のことを求めない人生が正だとするのでしょうか>>

私も高校時代に仏教に凝っていましたから、執着が悪い、煩悩が悪いと思ってきました。
それは人生に決定的に悪かったと思っています。
欲望否定の思想では、人生の原動力が失われ、ぐったりと死んだような人生になります。
ですから、今の間違った解釈の仏教など、捨て去ったほうがいいのです。
こういう後悔があるので、私は、これから人生を生きる人のために、仏陀が本当に言おうとしたことを残しておきたいと思うのです。


<<お釈迦さんの「中道」 若い頃の快楽いっぱい  修行時代の苦行 どちらからも得るところがなかった
この中道の教え ひょっとしたらお釈迦さん 私を理解して下さるのではと思ってしまう 身勝手な私です(笑)。>>

若いころは、ギラギラして生きたほうがいいでしょうね。
大きな欲望を持って、人生を十全に生きたほうがいいです。
ですから、私は、出家制度もやめにして
若い時はお金儲けに邁進して、一生暮らしていけるお金ができたところで隠遁生活して修行に専念するというスタイルがいいと思います。
これだと、宗教者がお布施ばかりを気にし世の中に寄生することがなくなるので
これこそ、新時代の出家だと思います。

 

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pipitさん、こんにちは。
<<涅槃とは渇愛(タンハー)の滅尽、という考え方を、ショーシャンクさんは肯定されますか?否定されますか?無明が滅すれば渇愛も滅するので、文が正しければ、苦の滅尽した状態の中には渇愛はないと私は思います。ショーシャンクさんは、苦の滅尽した状態の中に「渇愛」があると断言されるのですか?それとも「渇愛」はないと断言されるのですか?>>

pipitさんのその質問に答える前に、先に書いたように、煩悩や渇愛などの用語は人それぞれに違った意味で使っていることが多いので、pipitさんは『欲望』『煩悩』『執着』『tanha=渇愛』『raga=貪』の5つの言葉の定義や意味の違いをどう考えているのかを教えてください。

それと、次のものは、pipitさんは『欲望』『煩悩』『執着』『tanha=渇愛』『raga=貪』のどれだと思っていますか?
煩悩は〇番と〇番と〇番。というふうに答えていただけませんか?重複はいくらでも結構です。例えば、2番は欲望でもあり煩悩でもあり執着でもある、というように。

①将来医者になって苦しんでいる難病の人を救いたい。医学部に入るために一生懸命勉強している。
②将来医者になってお金儲けして女性にもてたい。そのために一生懸命勉強している。
高校野球の選手で、自分のチームを甲子園に出場させるために一生懸命練習している。
④精神的に落ち込んだ時、モーツァルト短調の曲を聴きたくなった。
⑤主婦で家事が一段落したときにケーキとコーヒーで一服するのが楽しみだ。
⑥ペットの猫をなでるのが楽しみだ。
⑦ペットの猫を長生きさせるために様々な健康食品を買う。
⑧健康で長生きするためにウォーキングをする。
⑨明日も生きておいしいものを食べ、楽しく人と話したい。
⑩自分の子供には世の中の役に立つ人間になってもらいたい。
⑪中学生の息子が煙草を吸っていたので平手打ちした。
⑫夫が喜ぶ顔が見たくて夫の大好物の料理を作った。

 

 

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pipitさんは、私の文章の『一般に、小乗仏教は、煩悩を捨て去って涅槃に入る、大乗仏教は、煩悩即菩提、生死即涅槃といいます。私に言わせれば、どちらも大間違いです。』を問題としているのだと思います。

それをpipitさんは、煩悩という言葉ではなく渇愛が涅槃の状態の中にあるかどうか、と質問されました。
ですから、煩悩と渇愛という言葉を同じと捉えているのかどうかを聞いたのです。

答えていただけないようですから、私の解釈を言いますと
『煩悩を捨て去って涅槃に入る』というのは間違いだと思っています。
十二縁起によって苦の原因は無明とされています。
無明があるために、中心を持って限定が起き欠乏が起きたのです。
そこから煩悩が繁殖しているのです。
つまり、煩悩は中心を持つ原因ではなく、結果なのです。

結果である煩悩をいかになくそうと思っても、その中心=矢がなくならない限り、そこから痛みが起きて煩悩が増殖するのです。
煩悩を滅しようとする努力、少なくしようとする努力は、矢を抜かずに痛み止めを塗り続けているようなものです。

pipitさんの質問に答えるなら、涅槃、つまり中心=矢が消滅した状態になれば、渇愛は消えます。
煩悩も消えます。
しかし、煩悩を少なくしていたりなくそうとしても、それは矢がある限り無理です。

戒律や道徳、法律で抑えようとしても、煩悩はますます増殖します。
それはカトリックの歴史を見ても、仏教の歴史を見ても、禁欲は逆効果です。
律蔵を読むとまことにおぞましい事例がいっぱいあります。

ですから、煩悩を抑えたり、少なくしようとしても、根本の矢を抜かない限り無理だということがはっきりとわかったのです。

 

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<<根本の矢 というのは、「主体があると思う」ことですよね。全体としての運動があるだけ というのが本来なのだけれど、「私」という個人が実在していると思うことにより執着は強まる。しかし、すべては、無自性-空であり、自分というものもそうである。という考え方からすれば、そもそも、欲望も空です。それ(欲望)を、個人だけの問題として過大に必要以上に罪のように考えるから、欲望にさらに囚われてしまう、というのはあると思います。十二縁起の瞑想により根本の矢を抜く、という方法だけでなく、大乗のこうした考え方でも十分、根本の矢を抜く道ではあるとは思います。>>

うーん、どうでしょうか。
ここに来るたーぼーさんにしてもaozさんにしても、とても真摯で繊細な人だと思います。
例えば『苦の原因は執着である。だから執着をなくせば苦は消滅する。それが仏教の教えだ。』と言われるとします。
『すべては無自性で空だから自分も空。欲望だって空。』とも言われるとします。
理論で、そして観念で自分も空と思い込むことはできるでしょうし、真面目な人ほど真剣にそうしていくでしょう。
そうすると、底の底の我塊が悲鳴を上げ始めます。
否定されるために前よりもっと存在を主張し始めるのです。
前より我が強くなることが多くあるのです。
わかってもらえないかもしれませんが。