仏教についてのひとりごと 105

あなたは、自分の考えである二元対立が悪いという考えや自分が信奉する龍樹の不二中道の信念を強めるためだけに『スッタニパータ』『ダンマパダ』などの原始仏典を読んでいるのです。
そして、自分が信じるドグマに都合の良い文言を目を皿にして探しているのです。
ですから、自分に都合の悪い箇所は無視するのです。

私はあなたが『汚泥というとすぐに「きたないもの」と思い込む偏見。「浄らか」は素晴らしいと思う偏り。この、美醜、浄穢、益害、苦楽、有無などの二分割した見方、考え方。凡夫が下で聖者が上と、上下を作ってしまう二元対立。この相対論理の発想や価値観は根本的に間違っている。』と書いたので
ダンマパダ243の『無明こそ最大の汚れである。この汚れを捨てて、汚れなき者となれ。』を挙げました。
仏陀はあなたがいうような『浄穢の二元対立は間違っている』などとは言っておらず
はっきりと『この汚れを捨てて、汚れなき者となれ。』と汚れは捨てるべきものであるという見解を示しています。

しかし、あなたは、そういう都合の悪い経典の言葉は無視して、自分の観念にとって都合の良い文言を原始仏典から探し出してピックアップしているだけです。

そのような読み方は間違っています。
仏陀の肉声に近い最古層の仏典を読むのであれば、後世の夾雑物をまずは捨て去って白紙になって読まないと、ただあなたの観念論を強めるだけになります。

 

 

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例えば、あなたは、スッタニパータの文言のうち二元対立を否定するあなたに都合の良い文言をピックアップしています。そして、自分の都合のいい解釈をしています。

17、五つの蓋を捨て、悩みなく、疑惑を超え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、
この世とかの世をともに捨てる。
――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

これを<<有限の生を捨て、永遠の生も捨てる>>と解釈しています。

しかし、この本当の意味は、
『物質的領域(rupa)に生まれる諸々の生存者と非物質的領域(arupa)に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる』
『しかし物質的領域(rupa)を熟知し、非物質的領域(arupa)に安住し、消滅において解脱する人は、死を捨て去ったのである』
と書かれているように
この世も、物質的領域(rupa)も非物質的領域(arupa)も捨てて
消滅において解脱する、という意味です。

消滅においての解脱とは、nibbanaです。

 

 

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636、この世の禍福いずれにも執着することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人
――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。

あなたが挙げたこの言葉にも、『汚れなく、清らかな人』とありますよね。
あなたのいうように、汚れと清らかさの二元対立は間違いなどと仏陀は言ってないですね。
明らかに、汚れを捨てて、清らかになるのです。

また、《禍福の二元対立の超越(不二中道)である》とあなたは言っていますが
仏陀は、この世の禍福つまり、この世のことに執着しない、ということを言っているだけで
当然のことです。

 

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900、一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、
「清浄である」とか「不浄である」とかいって願い求めることもなく、それらにとらわれず行え。
――安らぎに固執することなく


この文を理解するには、この文の前後を全部読まないと、全くの間違いとなりますよ。
あなたは、自分の信じる観念を強めるためだけにスッタニパータを利用している。
仏陀に対する冒涜です。
この文章は一連の流れの中の一部ですから、その流れの全体を知らなければなりません。

あなたは、自分の信念に都合の良い言葉が見つかったとして大喜びしてこの文言をピックアップしたのでしょうけど。

この文章の『「清浄である」とか「不浄である」とかいって願い求めることもなく』を見て
あなたは『清浄・不浄といった二元対立が捨てられるべきだとある』と解釈しています。
しかし、この文は前の898、899から続いている文章です。
戒律によって清浄が得られる、この教えで清浄が得られるとして惹き込まれている、
また戒律を破ったら不浄であるとか言っておそれおののくような宗教的な行為にとらわれるな、と言っているのです。

あなたのいうような、清浄不浄の二元対立を捨てるという意味では全くなく、宗教や宗教的行事、戒律などにとらわれるのは束縛だと言っているのです。
私は大賛成です。
仏陀を仏教も開祖と思ってはいけないのです。

あと、この文章の『安らぎ』の原語はsantiです。nibbanaではないですね。

 

 

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520、安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生死を超越した人、
――このような人がまさにその故に〈道の人〉と呼ばれる。


これもそうです。
あなたは、自分の固執する二元対立の否定に都合のいい箇所だけを切り取って解釈するのです。
この文章は、遍歴の行者サビヤと仏陀の会話の場面であり、項目も《サビヤ》と名前がついています。
自分勝手に切り取っては自分の観念に当てはめていくのではなく、全部の文を読んでください。
それが求道する態度ですよ。

あなたが挙げた文章の前後を読んでください。
仏陀は、『一切の悪を斥け』『内面的にも外面的にも一切の罪悪を洗い流し』『いかなる罪悪をもつくらず』と悪を徹底的に否定してます。

このサビヤの項を全部読めば、あなたのように『悪ではなく、善さえ捨て去るという。釈尊は、あらゆる二元対立の世界を超えるべきだと説いている。』などと解釈するのがいかに間違っていて馬鹿馬鹿しいものか、わかるはずです。


あなたがどのような本を何百回読んだかなんて興味もありません。
しかし、あなたが、どのような本を読もうとも、ただ自分の偏ったドグマを強めるためだけに読んでいるのですから、何の意味もないどころか、かえってあなたの迷いを深めるだけですよ。
本を読むなら、特に仏陀の肉声に近い最古層の仏典を読むのであれば、すべての先入観、すべての夾雑物、すべての教義、すべての哲学を捨てて白紙になって読まないといけません。
あなたはスッタニパータに龍樹や自分で作り上げた観念を投影しているだけです。

 

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<<仏教は四諦八正道ですが、ショーシャンクさんは八正道を歩んでいますか。>>

この八正道も、本当の意味は今まで解釈されてきたものとは全く違うと思っています。
八正道の本当の意味を知れば、驚くくらいよくできています。
1滴の水滴が無限の大海に行き着くようにできているのです。
今まで言われてきたような、8つの道徳項目とか、8つの倫理項目とか実践項目とかでは全くありませんでした。

正見⇒正思⇒正語⇒正業⇒正命⇒正精進⇒正念⇒正定 のこの順番には大きな意味があり
ひとつでも順番が違うと成り立ちません。
この順番を違えて書く人は八正道がわかっていないのです。


<<その正道が、ショーシャンクさんが観念論と批判する「不二中道」です。
世俗の対立概念を超えるからこそ、仏の智慧という宗教的叡智でしょう>>

仏陀が言った『中道』と龍樹が言った『不二中道』『八不中道』とは全く違います。
龍樹の作り上げた哲学で仏陀の解釈をしてはいけません。
仏陀の言った『中道』とは八正道のことです。
仏陀が悟ったときに、『快楽に耽ることでも苦行でもなく中道を行く』と言ったので
中道を快楽と苦行の中間と解釈する人も多いですが違います。
ほどほど快楽、ほどほど苦行、が中道ではありません。
快楽に耽るのも肉体、苦行も肉体、ですが、そのような肉体にこだわった道ではなく
八正道と言う智慧の道こそが中道だとしたのです。
八正道は実践道徳項目で智慧とは関係ないと思われてきましたが、私の解釈では智慧そのものです。

<<無我においてこそ、我を超越した「いのちの主体」が現成します>>

あなたは、たしか、そのいのちの主体さえ実体がないと言ってましたね。
どこまでいっても実体がないのですよね?
実体がないものを追い求めているのですね?


<<無我(縁起の自己)、不二中道を修さずして仏道は歩めないのではないのでしょうか>>

縁起の自己?そんな奇妙な言葉は仏陀は一言も言っていません。
仏陀がそんな言葉を使ったことがありますか?絶対にないです。
後世のものたちが勝手に作り上げた観念にしかすぎません。

不二中道?そんなことも仏陀は言っていません。
仏陀が言った中道とは八正道のことです。


あなたは、龍樹の作り上げた理論を仏教と思っています。
私は、仏陀が何を言いたかったかを探求してます。

 

 

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<<自己とは「無限定なもの」、と、別の投稿でショーシャンクさんは書かれていますね。
それをアートマンだとショーシャンクさんは考えられていますか?>>

私は、アートマンという言葉は嫌いで使いたくはないです。
この言葉も使う人によって全く意味が違ってきますから。
特に、霊魂という使い方で使う人が多いので嫌いなのです。

霊魂だと個になってしまいます。
個は幻想なので、霊魂という意味であればアートマンではないでしょう。

つくられざるもの、無限定なもの、意識の広がり、無量なるもの、これは、すべての限定を振り払ったときに現れるもので、これに何と名づけるかというのはできないことで、
特に個のイメージの強いアートマンとは言いたくないです。

形成されたものつまり肉体や思考、現象すべては実体がないのは赤い実さんが言われる通りです。
ただ、つくられざるもの、無量のもの、無限定なものは厳然としてあり、それまで実体がないというのは仏陀は言ってないと思っています。

 

 

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yamaさん、こんにちは。
<<その理論は 現在生きている私たちに何を教え どう考えるべきだと言っているのでしょうか?。>>
これはまた、根本的な問いですね。
このような掲示板では、質問者だけに答えたつもりでも、『横レス失礼』と言って四方八方から質問が来ますので、なかなか大変なのです。
根本的な問いなので、なるべく丁寧には答えたいので、また週末にでも書きます。

 

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