仏教についてのひとりごと 104

<<汚泥を捨てたら、清らかな白蓮は死滅する。凡夫を捨てたら、清らかな聖者は死滅する。
煩悩の凡夫を捨てたら、菩提という智慧は死滅する。煩悩の菩提も不可分一体。これを後に、大乗仏教では「煩悩即菩提」と言った。汚泥というとすぐに「きたないもの」と思い込む偏見。
「浄らか」は素晴らしいと思う偏り。この、美醜、浄穢、益害、苦楽、有無などの二分割した見方、考え方。浄土も穢土は縁のゆかりのないと断定する対立概念。凡夫が下で聖者が上と、上下を作ってしまう二元対立。この相対論理の発想や価値観は根本的に間違っている。>>

 

どうしても現実世界と遊離した観念論に耽っているようにしか見えません。
どのような聖者も理に合わないものは排除してきましたね。
釈尊提婆達多を追放しましたし、道元は玄明を、親鸞善鸞を排除したではないですか。
そういう現実世界を見ずにあなたは、どうも、観念の中だけで、二元対立を異常に嫌い怖れているように思えます。
仏陀は、『無明こそ最大の汚れである。この汚れを捨てて、汚れなき者となれ。』というように言い切っており、浄穢という対立概念は間違いなんてどこにも言っていません。


<<唯識の潜在意識の奥まで直接除いた瑜伽行の成果です。龍樹の言語分析も、直接経験の成果です。大乗経典も仏弟子たちの、言語化できない直接経験を文学化したものです。禅の接心は、血の滲む直接経験です。親鸞の、煩悩を見つめる「内省力」には頭が下がります。>>

 

どの経典を読んでも、どの宗祖の本を読んでも、座禅をしても、やはり自分の心を洞察しないと我塊はそのままで、むしろ知識や経験が我執になってしまうような気がします。

 

 

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<<よく 無我とか 実体が無いとか言われる論理ですが その結論として生きている私たちに何を教えようとしているのですか?>>

ここは本当に微妙なところです。
私は、今までの仏教と言われるものを仏陀の真意ではないと思っているので
仏教を学び始めた人が、仏教のことを私に聞くのが適当かどうかはわかりません。
たぶん、適当ではないでしょう。
東哲のカテゴリーの誰かに聞いた方がいいかもしれません。

私の考えを言いますと
五蘊(色・受・想・行・識)は我ではない、非我ということです。
色は肉体、受・想・行・識は精神作用です。

私たちは、肉体を自分だと思っています。そして、感覚や記憶、思考を自分だと思っています。
それは、肉体や感覚や記憶や思考に自己同化しているからです。
無常である肉体や思考への自己同化を『どれも我ではない』とすべてはずしていったあとに残るものが本当の自己だと思っています。
それは無限定なもの。
無限定なものこそ本当の自己です。

無我や実体がないということにこだわって虚無思想になってはいけないと私は強く思っています。

 

 

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