仏教についてのひとりごと 103

<<俺の場合は・・・
小5の時に人生とは何ぞや?に目覚め^^
修行の世界に入って・・・
長い修行の後に分かった答えは・・・
人生とは・・・楽しむモノと言うことv(^_^v)♪>>


あなたは、自分では自由気まま風に吹かれて何の執着も煩悩もなく人生を楽しんでいると思い込んでいますが、それはただ自分に対する洞察力がないだけです。

あなたの心は、自分の今の状況、つまり自分では悟っているし他の人よりも断トツに優れているのに誰からも認められていない・・・この状況に悲鳴を上げているのです。
誰か自分を認めてほしい、誰か自分を尊敬してほしい、俺はこんなに悟って他の奴とは全く違う存在なのになぜ誰も俺を尊敬しない?俺を先生と言ってくれない?なぜ誰も俺の生徒にならないんだ?

そして、尊敬してくれる人を求めて、ネットの掲示板を徘徊したり、自宅の周りを徘徊したりしているのです。
もちろん、何の執着もなく何のこだわりもない、自由の境地に達した達人のふりをして。
そしてひたすら声をかけられることを待っている、というわけです。

で、会った人会った人に、心の中で『尊敬してくれ』と念じるのですが、みんなあなたに承認欲求の飢えを感じて遠巻きにしてしまいます。
そうするとひどくあなたの心は傷付き、その人に執着してつきまとい復讐していくのです。

あなたは、いますぐ、自分の心を洞察したほうがいい。
あなたは自分が激流に巻き込まれ、毒矢が刺さっている状態だということを認識しないと、どんどん承認欲求の餓えが増大していきますよ。

 

 

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<<トンチンカンなお節介は・・・天に唾する行為だよ^^>>

 

そうですか?あなたが自分の心に向き合うきっかけになってくれるものと期待してますが。
書かれるのが嫌なら、このスレに来ないでください。
基本的には関心はないので来なければ一切書きませんから。

 

<<塾にいたこともあるが・・・予備校での期間の方が長いよ(笑) まあ・・・超一流と言っても過言ではない・・・とても居心地の良い企業にいたのだが・・・まあ・・・カッコよく?言えば・・・荒海がおいでおいでと呼ぶのよ(笑) で・・・3年半で卒業したのよ^^>>

 

ここの部分があなたを解くカギでしょうね。
超一流の予備校にいたということは、給料も高額なはずです。そして居心地も良かったと言っています。
それがたったの3年半しか続かなかったことに注目したいところです。
塾にいたのはそれよりももっと短かったということですから、2,3年で辞めているということです。
『荒海がおいでおいでと呼んだ』というのは海賊じゃないんですから苦しい言い訳です。
出る時間なのでまたあと書きますね。

 

 

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yamaさん、こんにちは。

最近、仏陀が言う『激流』や『汚泥』、『矢』の意味が実感を持ってわかってきて
『これは大変なことだな』と怖ろしくなっています。
仏陀が言う激流は大げさではなかったということです。

また出ますので、後で詳しく(今夜か明日)書きます。

簡単に言っておきますと、私が言う『仏陀が残した筏』とはこのスレの最初から書いてますように、四諦十二縁起です。
これも最初から書いていますが、いま仏教と呼ばれているものと仏陀の直接の教えとは全く違うものです。
仏陀は無我=アートマンがない などとは言っていません。
実体がないなどと言ったことも一度もありません。

仏陀が『世界は空と観じなさい』というのは『世界=つくりだされたもの は、生じれば必ず滅する無常であるものなのだ。生じては滅する泡のようなものだと観じなさい。』と言う意味です。
はるか後世の龍樹が勝手に、縁起=相依性=自性がない=実体がない=空 という哲学を作り上げたのです。
大乗仏教の国では龍樹の哲学が仏教の根本思想となってしまいました。
私は龍樹は釈迦仏教を根本から壊した張本人と思っています。

 

 

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<<企業を3年半で卒業した後に受験業界に入ったの^^>>
<<塾にいたこともあるが・・・予備校での期間の方が長いよ(笑) まあ・・・超一流と言っても過言ではない・・・とても居心地の良い企業にいたのだが・・・まあ・・・カッコよく?言えば・・・荒海がおいでおいでと呼ぶのよ(笑) で・・・3年半で卒業したのよ^^>>

上記はあなたが書いた文章です。
とすると
一般企業   3年半
塾      3年半より短い期間
超一流予備校 3年半
ということですね。

そして超一流予備校を止めた理由は前は『荒海がおいでおいでと呼んだ』でしたが
今回は『還暦直前に体調を壊して・・・惜しまれながら受験業界から身を引いたの』
になっていますが?
どういうことでしょう?

それにしても、どれも3年くらいでやめてますが、長続きしない理由は何でしょうか?
これが気になります。
自分では何故だと思いますか?

一般企業3年半、塾3年半より短い期間、超一流予備校3年半だと、足しても10年です。
40年くらいの社会生活でまともに勤務したのは10年ということですか?

 

 

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<<観音仏教者の和弘でございます。面白そうな命題に出会いましたので、お久しぶりに失礼します。>>

お久しぶりです。観音仏教者って何ですか?

<<『激流』『汚泥』『矢』が筏とはユニークで面白いですね>>
誰もそんなことは言ってませんが・・・四諦十二縁起が仏陀の残した筏だと思ってますよ。

<<『唯識三十頌』の「常に転ずるこ暴流の如し」が想起れます>>
<<一般的には、激流とは「生死輪廻の苦しみ」と取れるようですがいかがなものでしょうか?>>

感覚⇒経験⇒記憶⇒思考 と圧倒的に流れていく様は、そのどちらかで言えば、私が考えるのは、「常に転ずること暴流の如し」に近いでしょうね。

 

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<<汚泥というとすぐに「きたないもの」と思い込む偏見。「浄らか」は素晴らしいと思う偏り。この相対論理の発想や価値観は根本的に間違っている。汚れを知るから清浄を求め、過失があるから成長し、怪我をするから身を慎み、石に躓いて我に帰る。>>

たぶん龍樹の影響だとは思いますが、二元対立を嫌うあまり観念の迷路に入っているように思えます。
『汚れを知るから清浄を求め』ということは、『清浄も汚泥も平等不二』ではなく、清浄を目指しているのですよね。
これを悪平等な観念論に陥ったら、それこそ虚無思想、暗黒思想になってしまいますよ。
汚泥を汚泥と明らかに見て、汚泥から離れることこそが仏陀の道です。
『汚泥と清浄を差別してはいけません』『汚泥もいいものですよ』なんてごまかしていたら
全力で汚泥から離れる原動力がなくなり、『生まれたまんま、このまんま、ただそのまんま』で汚泥の底に沈んでいくでしょう。
あなたはのどが渇いたときに汚泥の水と清水があれば、取捨選択して清水を飲むのではありませんか?
観念論に陥ったら人生の時間を無駄にしてしまいますよ。

大乗仏教は、自分の心を洞察することなく、『矢』が何であるかを直接見ることなく、ひたすら観念のお遊びをしている印象です。

 

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<<ショーシャンクさんは、「釈尊が考えていたアートマン」というのはどういうものだ、とお考えですか?>>

仏陀は、アートマンがない、とも、アートマンがある、とも言っていません。
仏陀が言ったのは
sabbe dhamma anatta 一切の事物は我(われ)ならざるものである
つまり、諸法非我です。

『色は常であろうか、無常であろうか。』
『大徳よ、無常であります。』
『もし無常ならば、それは、苦であろうか、楽であろうか。』
『大徳よ、苦であります。』
『では、もし、無常、苦にして移ろい変わるものでならば、これを観じて、これはわが所有である、これは我である、これはわが本体であるとするのは適当であろうか。』
『大徳よ、そうではありません。』
 ↑↑
この『色』に続いて、『受・想・行・識』のつまり五蘊全部について同じ考察をして
『では、もし、無常、苦にして移ろい変わるものでならば、これを観じて、これはわが所有である、これは我である、これはわが本体であるとするのは適当であろうか。』
『大徳よ、そうではありません。』
という結論に達します。

『色・受・想・行・識』の五蘊がわが本体ではない、と言っています。
つまり諸法非我なのです。
一切の形成されたもの=現象すべて は、無常であって我ではない、ということです。

それでは、つくられざるものが永遠なのか、霊魂があって永遠なのか、この世界は永遠なのかそうでないのか、つまり実体のあるなしについては無記(答えない)としました。
ですから、アートマンなるもののあるなしについては無記です。

一切の形成されたもの=現象 はすべて無常です。
現象に恒久であるものは、爪の上の砂ほどもない、と言っています。

ただ、後世になって、仏陀が無記としたものまで、(自我でなく自己といわれるものまで)すべて実体がない、としてしまったのです。

 

 

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