初期経典を整理すると

 くり (119.228.245.134)  
ショーシャンクさま おはようございます。
緑が美しい時期となりました。
いつも初期経典のご紹介ありがとうございます。
ショーシャンクさまの簡潔な解説を見ては{ああ、お釈迦様はそんなことを仰っているのかぁ~}って、いつも新な想いを巡らせて頂いています。
ありがとうございます。
本の執筆のほうはその後如何でしょう。
一冊の本を完成することは精神的に大変な重圧がかかると伺ったことがあります。
体調に十分に注意してゆっくりと進んでいってくださいね。
完成した時には、まさに「心材」を捉えた仏教の善き本となりますことを祈念しております。
 
石飛先生は問題の二人をとうとう制限されました。
これもネットや現実社会のありようをよく知っておられるショーシャンクさまの慧眼だったのだなと今は思っております。
それでは、また。

 

 

 

くりさん、こんにちは。

初期経典を整理していくと、だんだん仏陀の真意の輪郭がはっきりとしてきた感じがします。

後世の夾雑物を除去していって、歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのかを書きたいのですが、ますます今までの仏教なるもののイメージとは違ってきています。

原始仏典に繰り返し繰り返し出てくるものが、なぜかあまり仏教なるものに取り入れられていない気がします。

仏陀はほとんどの人が思っている以上に、実は詳しく自らの覚りの内容を語っています。

その根幹から考えていくと、必ず死後の世界はある結論になります。

輪廻も転生もあるでしょう。

そして、なぜ、仏陀は輪廻転生の終焉を目的としたのか、これも本当にわかってきました。

それとともに、いまの『仏教なるもの』を仏陀の教えと言って本当にいいのだろうか、とも思います。

その筏、本当に筏ですか?と言いたくなります。

 

仏陀の理法は、人類の至宝だと思います。

ところが、人類はその至宝を歴史の堆積物に埋もれさせてしまったという感がどんどん強くなっています。

 

これから、本当の仏陀の真意を探求する大きなうねりが来そうな気がします。

それは私が死んだ後になるとは思いますが、今までの仏教でない、仏陀の真意を探ろうという動きは出てくるでしょう。

 

マニカナホームページ、2人を隔離室に誘導できて、マジカナ道場が再開されたようですね。しばらくしたらまた道場で前のように対話できる環境に戻るでしょう。

よかったと思います。

 

中部経典『小心材喩経』

中部経典の第30は、『小心材喩経』です。

 

この経典は、第29の『大心材喩経』と同じ喩えです。

 

ただ、違うのは、『大心材喩経』では、心材とは不動の心の解脱を指しましたが、この『小心材喩経』では、

第一禅

第二禅

第三禅

第四禅

空無辺処定

識無辺処定

無所有処定

非想非非想処定

想受滅

慧によって見てもろもろの煩悩を滅尽

 

このすべてを、智見より優れた『心材』だとしていることです。

中部経典『大心材喩経』

中部経典の第29は、『大心材喩経』です。

 

この経典は、樹の心材の喩えです。

樹の心材とは、樹の中心部分、芯のことです。

硬くて腐りにくいことから、木材の最も価値ある部分です。

 

この経典は、提婆達多が離反して間もないころに説かれたもののようです。

提婆達多を念頭に説かれたものです。

 

苦の滅を目的に出家していながら、しかし、枝葉のことに捉われて離れてしまい、苦に住んでしまうとあります。

心材を欲しているのに、枝葉を心材と思ってしまうからです。

 

1、苦の滅を求めて出家しながら、得られた利得や尊敬、名声によって自賛し、他を貶し苦に住みます。

 

2、利得や名声に酔うことがない者でも、戒をそなえることを自賛し、他を貶し、苦に住みます。

 

3、名声や戒で自賛することはない者でも、定をそなえることを自賛し、他を貶し、苦に住みます。

 

4、名声や戒や定で自賛することがない者でも、智見をそなえることを自賛し、他を貶し、苦に住みます。

 

5、その智見に酔うことなく、不動の解脱に達した者こそ、心材を得たものです。

 

この梵行は、名声を功徳とせず、戒をそなえることを功徳とせず、定をそなえることを功徳とせず、智見を功徳としません。

不動の心の解脱こそ、心材なのです。このためにこの梵行があります。これが終結です。

中部経典『大象跡喩経』

中部経典の第28は、『大象跡喩経』です。

 

この経典は

『縁起を見る者は法を見る。法を見るものは縁起を見る。』という言葉で有名です。

 

この経典に書かれている『大きな象の足跡』というのは、四諦の法のことです。

ジャングルのいかなる生き物の足跡も、すべて象の足跡に包含されます。

それと同じように、四諦の法は、他のすべての法を包含しているということです。

そして、『縁起を見る者は法を見る』の『法』も四諦の法のことです。

 

 

四諦というのは、

1、苦諦  苦という真理

2、集諦  苦の集起(生起)という真理

3、滅諦  苦の滅という真理

4,道諦  苦の滅に至る道という真理

のことです。

 

苦諦とは、生まれることも苦、老いることも苦、死も苦、愁い・悲しみ・憂い・悩みも苦、求めて得られないのも苦、要するに五蘊の集まり(五取蘊)が苦である、とこの経典には説かれています。

厳密にはこの経典で書かれているのは四苦八苦そのものでないのですが、『要するに五取蘊が苦』というのが、苦諦の最大のキーポイントなのです。

 

五取蘊とは

1、色取蘊

2、受取蘊

3、想取蘊

4、行取蘊

5、識取蘊

の五つです。

 

色取蘊は、地水火風の四大から成ります。

 

地界には内の地界と外の地界があります。

内の地界とは、肉体を形成する、髪、毛、歯、爪、肉、骨などの固体。

外の地界とは、外界を形成する山や大地。

 

地界は堅固なものに思えるでしょうが、内の地界も外の地界も、『これは私のものでない、これは私ではない、これは私の我ではない』と正しく慧によって見られるべきです。

 

外の地界が堅固な山に見えても、大洪水で消え去ることがあります。

どんなに広大でも、無常であり、滅尽するものであり、壊滅するものであり、変化するものです。

それなのに、このわずかな身体に私、私のもの、私がいると言えるでしょうか。

 

 

内の水界とは、血や唾液や汗や涙などの身体内の液体です。

外の水界とは、外界にある湖などです。

しかし、それが干上がることもあります。

無常です。

 

内の火界とは、身体内の熱になるものです。

外の火界が怒り、村や町や国を焼き尽くしても、水によって消えたり、燃料がなくなって消えたりします。

無常です。

 

内の風界とは、呼吸などです。

外の風界にしても、風がぴたっとなくなることがあります。

無常です。

 

 

例えば、木材によって、草によって、土によって虚空が囲まれたならば、家と呼ばれるように、骨によって、筋によって、肉によって、皮によって虚空が囲まれたなら、rupa=色、身体と呼ばれます。

 

外のもろもろの色が眼識に入ってくるなら

そのようにして色取蘊に、そして五取蘊に包摂され、集合されます。

これらの縁って起こったものが五取蘊です。

五取蘊に対する貪、愛着、執着が苦の集起です。

五取蘊に対する貪、愛着、執着の捨断が苦の滅尽です。

 

ここでこの言葉が出てきます。

『縁起を見る者は法を見る。法を見るものは縁起を見る。』

 

 

さて、これはどういう意味でしょうか。

 

私の解釈では、

 

骨によって、筋によって、肉によって、皮によって虚空が囲まれて

rupa =色 =身体 が生じます。

身体には六入があり、

触が起こり

受が起こります。

ここで、愛着や執着が起こり、苦の集起となります。

 

この経典で説かれているのは十二縁起の原型とも言えるものです。

この縁起の法を洞察することで、苦の集起・苦の滅尽のありさまを見ることになります。

 

つまり

『縁起を見る者は法を見る。法を見るものは縁起を見る。』

とは

十二縁起を洞察する者は、四諦の法を洞察する者であり

四諦の法を洞察する者は、十二縁起を洞察する者である

ということだと解釈しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中部経典『小象跡喩経』

中部経典の第27は、『小象跡喩経』です。

 

この経典は、ただ単に象の足跡が大きかったからといって象の専門家(笑)は『大きな象』の足跡とは見ない。大きな足跡を残す小さい象もいる。それでは何を見て『大きな象』と判断するのか?という喩えです。

なかなか面白い喩えです。

 

ヴァッチャーヤナという仏陀の弟子に、バラモンが尋ねます。

『沙門ゴータマは賢者だと思いますか?』

弟子は答えます。

『どうして、私が沙門ゴータマの聡明を知り得ましょうか?それを知ることができるのは、彼と同じようなお方です。』

『それでは、なぜあなたは沙門ゴータマに浄信があるのですか?』

 

それに弟子はこう答えます。

 

聡明でもろもろの邪見を打ち破る能力を持ったある王族の賢者が、ゴータマを打ち負かそうといろいろな質問を考えてきます。

しかし、直接、ゴータマから教示され激励されて、質問さえしません。まして論破など全くできません。

次に『バラモンの賢者』

次に『資産家の賢者』

次に『沙門の賢者』

この4者とも、全く質問もできず、論破など全くできません。

 

こういうような『足跡』を見たので、世尊は正自覚者という結論に達したのです。

 

このことを聞いたバラモンは、仏陀のところに行き、そのことを話しました。

 

仏陀は、『それでは充分に説明したことにならない』と言って、次の喩えを説きます。

 

象の大きな足跡を見たからと言って、『大きな象』の足跡とは限らない。

大きな足跡を持つ小さな象がいるから。

 

大きな足跡と高いところで擦っている箇所を見ても、『大きな象』の足跡とは限らない。

大きな足跡を持つ、背の高い、細い牙の象がいるから。

 

大きな足跡と高いところで擦っている箇所とさらに高いところで牙によって裂かれている箇所を見ても、『大きな象』の足跡とは限らない。

大きな足跡を持つ、背の高い、瘤の牙の象がいるから。

 

大きな足跡と高いところで擦っている箇所とさらに高いところで牙によって裂かれている箇所とさらに枝が折れていて、その象が、歩いたり立ったりしているのを見ます。

そうしてはじめて、大きな象であるという結論に達します。

 

この喩えを説き終わってから、仏陀は、

不善の法を滅する⇒四禅⇒三明⇒解脱

これが、この経典でも説かれます。

 

数多くの経典に繰り返し出てくる法は、極めて重要な法だということです。

 

この経典では、特に、〈不善の法を滅する〉に関して詳しく説かれます。

 

殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語などの悪しき不善の法から離れた者となり、

眼・耳・鼻・舌・身・意を防護して、そこから悪しき不善の法が流れ込まないようにします。

そして、五蓋=慧を弱める煩悩 を断ちます。

 

その後、

第一禅

第二禅

第三禅

第四禅

に達して住みます。

 

その後、

宿住智

天眼智

漏尽智を起こし

四諦を知り、解脱します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中部経典『聖求経』

中部経典の第26は、『聖求経』です。

 

この経典は、仏陀が、自らの出家の動機や、出家した後、アーラーラ・カーラーマやウダカ・ラーマプッタのところで禅定を学んだこと、しかしそれを捨てて去り、自ら修行して悟ったこと、梵天勧請や、初転法輪が書かれています。

中部経典の中でも有名な経典です。

しかし、成道の時に悟った内容は書かれてなく初転法輪で説かれたこともさらっとしか書かれていません。そして、その主な内容は、『餌食経』で説かれた鹿の群れの喩えそのままです。

 

註では、アーラーラ・カーラーマは、四禅や空無辺処定、識無辺処定、無所有処定を七つをマスターしていたらしく、ウダカ・ラーマプッタはそれに加えて非想非非想処定をマスターしていたようです。

しかし、仏陀は『この法は、厭離のためにならない。離貪のためにならない。滅尽のためにならない。寂止のためにもならない。勝智のためにもならない。正しい覚りのためにならない。涅槃のためにもならない。』と思って、その法に満足せず、出て行きました。

 

それが、初転法輪が書かれる後半では、『餌食経』の鹿の喩えで、〈魔の見えないところ〉として、それらの禅定を挙げます。

 

この聖求経だけでは、捨てた禅定をなぜ説いたのかということはわかりません。

他の経典を見ないとわからないと思います。

 

中部経典『餌食経』

中部経典の第25は、『餌食経』です。

 

猟師が鹿を捕まえるために撒く餌の喩えです。

 

第一の鹿の群れは、猟師が撒いた餌の中に入り夢中になって食べました。もちろん、すぐ猟師に捕まってしまいました。

 

第二の鹿の群れは、第一の鹿の群れの有様を見ていたので、すべての餌食を避けることにしました。怖れによって食べることを離れ、深く森の中に入りました。

しかし、草や水がなくなり、気力をなくしてしまいました。

そして、結局、猟師の撒いた餌食の中に入り夢中で食べてしまい、捕まってしまいました。

 

第三の鹿の群れは、第一第二の群れを見ていたので、餌食に夢中にならないように気をつけようと決心しました。

そして、猟師の撒く餌食の近くの密林の茂みなどを住処として、猟師の注意が逸れたときに夢中にならずに餌食を食べてすぐ住処に帰るようにしました。

猟師は考えました。

猟師が注意をそらしたときに餌を食べに来るので、餌の近くに住んでいるはずだと。

それで、撒く餌一帯に大きな罠を仕掛けました。そして、住処を見つけ、捕まえました。

 

第四の鹿の群れは、第一第二第三の群れを見ていたので、こう考えました。

われわれは、猟師とその仲間が行かないところに住処を設けよう。

そして、猟師が撒く餌の中に入らず、夢中にならずに餌を食べよう。

 

この第四の鹿の群れは、猟師には住処がわからず、猟師から逃れられることができました。

 

 

〈餌〉とは、五種妙欲のこと。ここちよい色・声・香・味・触。

〈猟師〉とは、魔のこと。仏教では煩悩に引き込む力のこと。

〈鹿の群れ〉とは、沙門・バラモンのこと。

 

それでは、第四の鹿の群れが考えた〈猟師の行かないところ〉、つまり〈魔の行かないところ〉とはどこでしょうか。

 

ここで、仏陀は、

第一禅

第二禅

第三禅

第四禅

空無辺処

識無辺処

無所有処

非想非非想処

を挙げます。

そして、非想非非想処を超え、想受滅に達して住みます。

慧によって見、彼にはもろもろの煩悩が滅尽します。

 

ここでも、

禅定⇒漏尽智

が説かれています。

中部経典『中継車経』

中部経典の第24は、『中継車経』です。

 

サーリプッタとプンナという長老同士の対話です。

プンナが中継車の喩えをしたことから中継車経と呼ばれます。

 

プンナは貿易商であり、長者だった人です。

説法第一と言われていて、わかりやすく面白い説法で大人気であった人です。

社会的経験や人生経験の厚みがプンナの説法を魅力的なものにしたのでしょう。

 

この経典にある『中継車』の喩えも、商人であったプンナらしい喩えです。

 

サーリプッタは、プンナに聞きます。

『世尊のもとで梵行につとめ住みましたか?』

『はい。』

『では、友よ、戒の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

・・・・

以下、次のようなことのために梵行につとめ住んだのではないという対話が続きます。

『心の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『見の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『疑の超越の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『道・非道の智見の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『行道の智見の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『智見の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『それでは何のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『執着のない完全な涅槃のために、世尊のもとで梵行につとめ住んだのです。』

 

『戒の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『心の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『見の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『疑の超越の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『道・非道の智見の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『行道の智見の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『智見の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『では、これらの法以外に、執着のない完全な涅槃があるのですか?』

『そうではありません』

 

ここで、プンナは、中継車の喩えを言います。

 

ある地点から、サーケータの王宮の門まで行くのに、七台の中継車を使う喩えです。

第一の中継車に乗って出発して、第二の中継車に至り、そこで第一の中継車を乗り捨てて第二の中継車に乗り、第三の中継車まで至り、・・・・第七の中継車によって目的地に着いた、という喩えです。

 

その喩えのように、

戒の清浄は、心の清浄までを目的とし

心の清浄は、見の清浄までを目的とし

見の清浄は、疑の超越の清浄までを目的とし

疑の超越の清浄は、道・非道の智見の清浄までを目的とし

道・非道の智見の清浄は、行道の智見の清浄までを目的とし

行道の智見の清浄は、智見の清浄までを目的とし

智見の清浄は、執着のない完全な涅槃までを目的とするものです。

中部経典『蟻塚経』

中部経典の第23は、『蟻塚経』です。

 

クマーラカッサパという比丘のところに、ある神が訪ねてきて、次のような話をしたということです。

 

 

この蟻塚は夜に煙を出し、昼に燃えています。

バラモンは次のように言いました。

『賢者よ、剣を持ち、掘りなさい。』

賢者は剣を持ち、掘っているうちに、閂(かんぬき)を見ました。

『閂を取り除きなさい。賢者よ、剣を持ち、掘りなさい。』

賢者は剣を持ち、掘っているうちに、蛙を見ました。

『蛙を取り除きなさい。賢者よ、剣を持ち、掘りなさい。』

賢者は剣を持ち、掘っているうちに、岐路を見ました。

『岐路を取り除きなさい。賢者よ、剣を持ち、掘りなさい。』

賢者は剣を持ち、掘っているうちに、容器を見ました。

『容器を取り除きなさい。賢者よ、剣を持ち、掘りなさい。』

賢者は剣を持ち、掘っているうちに、亀を見ました。

『亀を取り除きなさい。賢者よ、剣を持ち、掘りなさい。』

賢者は剣を持ち、掘っているうちに、屠殺場を見ました。

『屠殺場を取り除きなさい。賢者よ、剣を持ち、掘りなさい。』

賢者は剣を持ち、掘っているうちに、肉片を見ました。

『肉片を取り除きなさい。賢者よ、剣を持ち、掘りなさい。』

賢者は剣を持ち、掘っているうちに、龍を見ました。

『龍はそのままにしておくように。龍を打ってはいけません。龍を礼拝しなさい。』

 

そして、この話の意味を仏陀に尋ねるべきだと神は言いました。

それで、クマーラカッサパは仏陀の元へ行きます。

 

仏陀は、この話を次のように解説します。

 

〈蟻塚〉とは、四大からなる身体。

〈夜に煙を出す〉とは、夜に細大漏らさず考察し続けること。

〈昼に燃える〉とは、昼には仕事に従事すること。

〈バラモン〉とは、阿羅漢であり正自覚者である如来のこと。

〈賢者〉とは、有学の比丘。

〈剣〉とは、聖なる慧のこと。

〈掘る〉とは、精進のこと。

〈閂〉とは、無明のこと。

〈蛙〉とは、忿怒・煩悶のこと。

〈岐路〉とは、疑惑のこと。

〈容器〉とは、五蓋(貪欲・怒り・沈鬱眠気・浮つき後悔・疑惑)のこと。

〈亀〉とは、五取蘊のこと。

〈屠殺場〉とは、五種の妙欲(好ましい色・声・香・味・触)

〈肉片〉とは、喜貪のこと。

〈龍〉とは、煩悩が尽きている比丘のこと。

 

中部経典『蛇喩経』

中部経典の第22は、『蛇喩経』です。

 

この経典には、有名な『筏の喩え』も出てきます。

本当は『筏喩経』のほうがいいのですが、蛇の喩えのほうを題名としたようです。

 

アリッタという比丘が、『世尊が障害であると述べられたこれらの法を行なっても、障害にはならない』という間違った見解を持っているので、それに対し、仏陀が説法することになります。

 

『もろもろの欲は、危難が多く、骨鎖のようで、肉片のようで、草の炬火のようで、炭火坑のようで、夢のようで、借り物のようで、木の実のよう、屠殺場のようで、刀と串のようで、蛇の頭のようで、苦が多く、悩みが多い。そなたは自分の誤った把握によってわれわれを誹謗し、自分を傷つけ、多くの罪を作り出している。

 

そして、他の比丘たちに言います。

 『法を学びながら、それらの法の意味を慧によって考察することがないときは、それらの法が現われることはありません。

法が誤って把握されているのは苦であり、蛇を胴体か尾のところで捕まえるようなものです。』と。

 

そして、『筏の喩え』を説かれます。

安全な向こう岸に渡るとき、筏を組んで渡るとする。

向こう岸に渡り終えたら、その筏を頭に乗せたり肩に担ぐかすることはない。

筏はそこに捨てるはずだ。

法も同じく、渡るためで、捉えるためではない。

そなたたあちはもろもろの法をも捨てるべきである。

ましてや、悪法においてはなおさらである。

 

 

聖者や善人の法に導かれない者は、

色について〈これは私のものである、これは私である、これは私の我である〉と見ます。

受について〈これは私のものである、これは私である、これは私の我である〉と見ます。

想について〈これは私のものである、これは私である、これは私の我である〉と見ます。

行について〈これは私のものである、これは私である、これは私の我である〉と見ます。

識について〈これは私のものである、これは私である、これは私の我である〉と見ます。

 

聖者や善人の法に導かれる者は、

色について〈これは私のものでない、これは私でない、これは私の我でない〉と見ます。

受について〈これは私のものでない、これは私でない、これは私の我でない〉と見ます。

想について〈これは私のものでない、これは私でない、これは私の我でない〉と見ます。

行について〈これは私のものでない、これは私でない、これは私の我でない〉と見ます。

識について〈これは私のものでない、これは私でない、これは私の我でない〉と見ます。

 

無常のもの、苦のもの、変化する性質のものを〈これは私のものである、これは私である、これは私の我である〉と認めることは適切ではない。

 

このように五蘊非我を正しい慧によって見た場合、解脱する。

 

その者は、根絶され、未来に生起しない者となる。

 

このように心が解脱している比丘を、〈見られない者である〉と言います。

 

このように語る私を、ある沙門やバラモンは『虚無論者であり、生ける者の断滅、破壊、破滅を説いている』と誹謗します。

 

私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。

 

それゆえに、そなたたちに属さないものを捨断しなさい。

色・受・想・行・識を捨断しなさい。

 

この法によって、不還者、一来者、預流者になる。

私に対するわずかな信、わずかな親愛がある比丘はすべて天に趣く者となります。

 

 

 

中部経典『鋸喩経』

中部経典の第21は、『鋸喩経』です。

 

この経典は、どのような言葉を投げかけられても、どのような仕打ちをされても、鋸で手足を切断されようとしても、一切の世界を対象とした慈心=慈無量心であるべきだという教えです。

いろいろな例を挙げて、最後は、盗賊たちが自分の手足を切断しようとしても怒りを持たず心が変わらないようにするという、怖ろしいことが書かれています。

 

最初に書かれているのは、モーリヤパッグナという比丘の話です。

この人は、比丘尼たちと住んでいたらしく、誰かがその比丘尼たちを非難すると、モーリヤパッグナは怒ったり言い争いをしてしまうようでした。

その人に対し、仏陀はこう言います。

『あなたは、在家的なもろもろの欲や在家的なもろもろの考えを捨てるべきです。誰かが比丘尼たちを非難したり、手で殴ったり、棒で殴ったり、刀で切りつけても怒りを持たず、一切の世界を対象とした慈心を持つべきです。』と。

 

しかし、註では、このモーリヤパッグナという人は仏陀の誡めをちゃんと聞かなかったようで、このことを告げた比丘たちに説いて聞かせます。

 

註では、第一菩提(成道から最初の20年間)のことを仏陀は言ったとあります。

最初の20年間は、素直で真っ正直な比丘が多かったらしく、教戒しなくても念を起こすだけでみんな了解してくれたようです。

ですから、いまあ、あなたたちも、不善を捨てなさい、と説きます。

 

サーラ樹の曲がった枝を切り、まっすぐな枝を伸ばすように、不善を切り、善法に努めなさいと説きます。

 

そして、女性資産家ヴェーデーヒカーのことを話します。

この資産家はとても温和で良い評判が立っていたのですが、女性奴隷のカーリという人が、本性はどうか『観察してみよう』と思い立ちます。

そして、わざと遅くに起きます。さらに遅く起きます。

そうすると、この女性資産家は怒り、頭を殴りました。

それで、女性資産家ヴェーデーヒカーの評判は地に落ちます。

 

つまり、環境が良く、不快なことが何もないときには、人は温和だと言うことです。

不快なことが起きたときにこそ、慈心を持ち、善言者とならないといけないと説かれます。

 

すなわち、他の者が、自分にたいし

1、非時によって語る

2、非真実によって語る

3、粗暴によって語る

4、不利益を伴うものによって語る

5、怒りのある者として語る

 

この5つの言葉で語られても、

1、大地にも等しい、広大な、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心で満たし

2、虚空にも等しい、広大な、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心で満たし

3、ガンジス川にも等しい、広大な、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心で満たし

4、猫皮にも等しい、広大な、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心で満たし

5、そして、盗賊たちが鋸で自分の足を切断しようとするときも、一切の世界をその対象とし、慈しみとともなる、広大な、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心で満たして住むことにしよう

 

と説かれます。

 

つまり、この『鋸喩経』は、どんなことが起きても無量心に住みなさい、と説いた教えです。

 

中部経典『考相経』

中部経典の第20は、『考相経』です。

 

この経典は、不善の法が心に起こったときの5つの対処法について説かれます。

不善の法とは不善の考え、悪い想いです。

そして、ここでも、

不善の法を滅する⇒定

ということが説かれます。

これは数多くの経典に出てきますので、ここは絶対に抑えておかなくてはいけない部分なのですが、後世において仏教なるものは、禅定だけを重要視するようになっていきます。

しかし、原始仏典を見ると、

不善の法(悪い考え)を滅する⇒喜が起き身も心も軽くなり心が静まり安定して自然に定に入る

という流れであることがわかります。

 

もうひとつ、この経典で重要なのは、sati を憶念するという意味であることがわかることです。というのは、asati を〈憶念しない〉という意味で使っているからです。

 

sati=念 とは、ある考え、観念を心(記憶)に留めそれを繰り返し念ずることであると私は思っています。

それを裏付けるものです。

 

1、心に不善の法(欲をともなったものでも、怒りをともなったものでも、愚かさをともなったものでも)が起こったときには、その相とは別の善を伴った相を思惟すべきである。

別の善の考えをすれば、起こった不善の考えは消滅する。

 

 

2、次に、1によって別の善を伴った相を思惟しているときに、もろもろの悪しき不善の考えが起こったならば、その悪しき考えの危難(adinavo  upaparikkhitabbo)を観察すべきである。

〈これらの考えは不善である、罪過がある、苦の果報がある〉と観察すれば、その不善の考えは消滅する。

 

 

3、次に、2によってその不善の考えの危難を観察しているときに、もろもろの悪しき不善の考えが起こったならば、それらの考えを億念せず(asati)思惟しないようにすべきである。

それらの考えを億念せず(asati)思惟しないならば、その不善の考えは消滅する。

例えるならば、目の見える人が、視野に入ったものを見たくない場合、目を閉じるか別のものを眺めるか、するようなものである。

 

 

4、次に、3によってそれらの考えを億念せず(asati)思惟しないようにしているとき、もろもろの悪しき不善の考えが起こったならば、それらの考えの考えを形成する相を思惟すべきである。

【考えを形成する相】とは、〈この考えは何によるのか、いかなる縁により、いかなる根拠によって起こるのか〉と、もろもろの考えの根本と根本因とを思惟すべきであるという意味。

 

 

5、次に、4によってそれらの考えの、考えを形成する相を思惟しているときに、もろもろの悪しき不善の考えが起こったならば、歯に歯を置き、舌で顎を圧し、心で心を抑えるべきであり、押さえつけるべきであり、砕くべきである。

 

 

不善の考えについて、このように説かれます。

1、別の善の考えをする

2、悪しき考えの危難(悪い結果を引き起すこと)を観察する

3、悪しき考えを憶念しないようにする

4、悪しき考えが起こった縁(根本因のこと)を考える

5、それでもだめなら、歯を食いしばって強い意志で悪しき考えを打ち砕く

 

 

そうすれば、〈もろもろの考えの法門の道に自在の者〉〈希望する考えを考える者〉〈希望しない考えを考えない者〉〈渇愛を断った者〉〈正しく慢を止滅し、苦の終わりを作った者〉となる。

 

 

この経典では、悪しき考えに対する、歴史上の仏陀のそれを滅しようとする強い意志が感じられます。

 

天台本覚思想の影響をもろに受けた日本仏教では、「煩悩はそのままでいい」「煩悩があるから悟れる」「煩悩即菩提」などとなってしまいましたが、仏陀の真意とはほど遠いものです。 

 

私も、最近になってこのような仏陀の真意を知るまでは、このような仏陀とはかけ離れた考えを仏教だと思ってきたので、悔やまれます。

死後・輪廻はあるか、の論文

pipitさんが、ご自身の掲示板に貼られていた

森章司先生
『死後・輪廻はあるかーー「無記」「十二縁起」「無我」の再考ーー』
http://www.sakya-muni.jp/pdf/bunsho12.pdf

の論文がとても素晴らしかったです。

全文素晴らしいので、全文を載せようと思いましたが、やはり著作権の関係がありますので、ごく一部だけ載せます。

ごく一部ではありますが、それでも著作権者から不適切という指摘があればすぐ削除します。

 

 

※※※※※

 死後・輪廻はあるか
      --「無記」「十二縁起」「無我」の再考--
                             森 章司


1、「無記」説の再考
通常の十無記(十難)は次のような内容で、これらに釈尊は無言をもって答えられたとす
る。
(1)世界は常住であるか(sassato loko)、世界は常住ではないか(asassato loko)
(2)世界は無辺であるか(antavA loko)、世界は無辺ではないか(anantavA loko)
(3)霊魂と身体は一つであるか(taM jIvaM taM sarIraM)、霊魂と身体は別である
か(aJJaM jIvaM aJJaM sarIraM)
(4)如来は死後に存在するか(hoti tathAgato param maraNA)、如来は死後に存在
しないか(na hoti tathAgato param maraNA)、如来は死後に存在しかつ存在し
ないか(hoti ca na ca hoti tathAgato param maraNA)、如来は死後に存在するの
でもなくかつ存在しないのでもないか(n'eva na hoti na na hoti tathAgato
param maraNA)


この外に十四無記があるわけであるが、これは世界は常住かつ無常、常住でもなくかつ無常でもない、世界は有辺かつ無辺、有辺でもなくかつ無辺でもない、を加えたものである。

無記説の中の「如来」が「衆生」を意味するということはありえない。無記説は輪廻を解脱した「如来」についての死後の有無を問われたときに無記をもって答えたのであって、「衆生」の死後は明確にある、衆生は明確に「輪廻」すると説いているわけである。したがって無記説によって輪廻や死後の世界を説くのは通俗説であるとする根拠の第一は崩れる。

 


2、「十二縁起」説の再考


縁起説は勝義の説であって、死後の輪廻を説くことは世俗の説であり、両者は次元を異にするという見解は、おそらく十二縁起説を三世両重的に解釈するのは低俗ないしは後世の説であって釈尊の真意ではなく、本来は論理的に解釈すべきであるという考えに基づくのであろう。

この最大の論拠は、

「これあるとき彼あり(imasmiM sati idaMhoti)、

 これ生じるがゆえに彼生ず(imass' uppAdA idaM uppajjati)、

 これなきとき彼なく(imasmiM asatiidaM na hoti)、

 これ滅するがゆえに彼滅す(imass' nirodhA idaM nirujjhati)」

という宇井伯寿氏の言うところの「相依縁起」が、縁起の真精神を表すと見るところにあるであろう。


これは確かに縁起を論理的にも、空間的にも広げて解釈しうる定型句である。


 しかしこの句は漢パの原始仏教聖典において 45 回現れるが、このうちの 41 回は十二縁起説の森のいう「説明型」に付帯して説かれ、独立して説かれるものは 4 回のみである(詳しくは拙著『原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究』1995 年 3 月 東京堂出版 第 5 章を参照されたい)から、この句はおそらく本来は十二縁起説と関連してあるものであり、これを十二縁起と切り離して解釈することは不適切であろう。

なぜなら十二縁起と関連して説かれるものは、

 これあるとき彼あり、

これ生じるがゆえに彼生ず、

これ無き時彼なく、

これ滅するがゆえに彼滅す。

すなわち(yadidaM)、

無明によって行あり(avijjhApaccayA saGkhArA)、

行によって識あり、……


というように示される。

 

要するに「これ」とか「彼」というのは、十二縁起の各項目を指し示す代名詞であって、この句はこの十二項目の間の関係を通則的に示したものであるとしか解釈できないからである。

そして十二縁起が縁起説としては遅い成立とするなら、この句もそう早くないはずである。
したがってこの句を独立させて解釈するのは、少なくとも原始仏教の縁起説の枠を越えるのであり、原始仏教の縁起説はあくまでも十二縁起を代表とする支分を有する縁起であると言わなければならない。

 


要するに原始仏教の縁起説は、「無明」があるが故に愛 ・ 取という煩悩が起こり、これが再生(有)のもととなって、生老病死を断ちきることができない、ということを説いたものということができる。

したがって三世両重ではないとしても輪廻を前提に解釈されていることは明らかである。

確かに十二縁起説は新しいかも知れないが、より古いとみられる愛から始まる五支縁起にしても、その本意は変わらない。

愛・取という煩悩があることによって、輪廻転生しなければならない生存の原理(有)が生じ、だから来世においても生・老死という苦しみを解決できないということを示すからである。


3、「無我」説の再考

 


それでは仏教における「無我(an-Atman)」説のなかのアートマンは何を意味するのであろうか。

 

先に紹介した無記を主題とする SN.44 の第 10 経は

 

ヴァッチャ姓の遊行者は世尊に尋ねた。

「アートマンはありますか(kiM nu khobho Gotama atthattA)」と。

世尊は黙っていられた。

また尋ねた。

「アートマンはないのですか(natthAttA)」と。

世尊は黙っていられた。

ヴァッチャ姓の遊行者は去っていった。


その様子を見ていた阿難が「どうして黙っておられたのですか」と尋ねた。

世尊は「アートマンはある(atthattA)」と答えたら、常住論者(sassatavAda)に同じることになるないと答えれば断滅論者(ucchedavAda)に同じることになる」と答えられ、そして阿難に反問された。

「もしアートマンがあるかと問われて『ある』と答えたら、諸法無我(sabbe dhammA anattA)という智が生じるのに順じるだろうか。

もし『ない』と答えたら、愚昧なヴァッチャ姓の遊行者は前にはアートマンがあったのに、今はない(ahu vA me nUna pubbe attA, attAso etarahi natthi)と混乱(sammoha)がますます増大するだろう」と。

ここでは「アートマン」の有無が、「如来の死後」と同様に無記とされているのである。


先にも書いたように原始仏教では無常・苦・無我を説くが、これは五取蘊を主語に語られる。要するに煩悩を有する凡夫はʻanAtmanʼとされるのである。

さりとて上記のように、
それでは如来のような煩悩を断じた者はʻAtmanʼを有するとされているわけではない。

しかし大乗の『涅槃経』では如来は「常・楽・我・浄」であって、「無常・苦・無我・不浄」と見てはならないとされている。仏はけっして「無我」ではなく、「我」すなわちアートマン を 獲得 した 者 として 把握 されているわけである 。

そし て 実 は 原 始 仏 教 で も 、PaTisambhidAmagga(『無礙解道』)には
五 蘊 を 無 常 と し て 観 じ て 随 順 忍 を 得 ( paJcakkhandhe aniccato passanto
anulomikaM khantiM paTilabhati) 、

五蘊の滅は常である涅槃であると観じて、正性決定 に 入 る ( paJcannamkhandhAnaM nirodho niccaM nibbAnaM ti passantosammattaniyAmaM okkamati )。

五蘊を苦として観じて随順忍を得、五蘊の滅は楽である涅槃(sukhaM nibbAnaM) であると観じて、正性決定に入る。

……五蘊を無我として観じて随順忍を得、

五蘊の滅は勝義である涅槃(paramattaM nibbAnaM) であると観じて、正性決定に入る。
とされている(32)。

 

下線を施した部分は、今手元にある NAlandA DevanAgarI PAli Series 版や ChaTTha SaGgAyana CD-ROM 版ではʻparamatthaʼとされているが、ここは五蘊が無常であるに対して、五蘊の滅は常である涅槃であるというように、病(roga)に対して無病(aroga)である涅槃、……空(suJJa)に対して勝義空(paramasuJJa)である涅槃、……
有漏に対して無漏である涅槃、有為に対して無為である涅槃などと反対概念が掲げられるの
であるから、ここはʻparamatthaʼではなくʻparamattaʼすなわち「勝我」と解すべきで
あろう。南伝大蔵経の訳者である渡辺照宏氏も「1本には paramattaM とあり。『勝性』又は『勝我』と訳すべきか」と註されている(33)。

このように解釈することが許されるとすれば、原始仏教にも涅槃や如来はアートマンとする考え方があったことが判る。

そうすれば、原始仏教がアートマンが存在すると説かなかったのは、原始仏教の教えが凡夫を主題として、仏の境地を説くことがなかったまでの話ということになる。
もしそうなら、仏教のアートマンは実はウパニシャッドが説くアートマンと同じようなものを指していたと解釈することができるかもしれない。

ウパニシャッドでもわれわれ衆生がアートマンと合一していないから輪廻を繰り返すとするのであって、構造的には仏教と共通しているということができるからである。
それはともかく、この「無常・苦・無我」説は先にも紹介したように、色受想行識が無常・苦・無我であることを如実知見すれば、色受想行識において厭離し、離貪し、解脱し、解脱したとの知見が生じ、「生已につき、梵行已に立ち、所作已に弁じ、再びこの状態に戻ってこないと知る」とされる。

最後の句は原始仏教聖典での悟りを表す定型句であって、阿羅漢果を得たということを表し、この中の「再びこの状態に戻ってこない(nAparaM itthattAye)」
という「この状態」というのは「輪廻の生存」をさし、この輪廻の生存を解脱するのが悟りということになる。

ここからも無我説は阿羅漢果を得ないかぎり衆生は輪廻転生を繰り返すということを前提とする教えであることが解る。

 

※※※※※

 

 

私も全く同じ考えです。

衆生が、死後、その心の展開のままの世界に赴くことは繰り返し出てきます。

死後の世界を肯定する言説には溢れていますが、死後の世界を否定する言説は一切ありません。

ただ、如来が死後どうなるかは、『測る基準が存在しない』と言っています。

如来の死後の世界のみ、無記なのです。

それは如来は中心を持たないからです。不可測なものになっているのです。

 

歴史上の仏陀が説く『縁起』とは、十二縁起のこと、つまり、苦の縁って起こる原因のことです。

これも全く同じ考えです。

 

『無我』という言葉でアートマンを否定したというのが今までの仏教の定説でしたが、しかし原始仏典では明らかに『非我』であり、アートマンつまり存在の根源については仏陀は無記でした。

五蘊や個我や『私という中心』が『無我』であるのであって、私という中心を滅した境地まで『無』だとは言っていません。むしろ、涅槃は虚妄ならざるものだと言っています。

 

この論文に大いに賛同します。

中部経典『二種考経』

中部経典の第19は、『二種考経』です。

 

この経典は、仏陀の修業時代(まだ正しい覚りを得ていない菩薩の時代)の回想です。

菩薩という言葉が、原始仏教では、まだ正しい覚りを得ていない修行者という意味で使われていることに注目です。

 

そして、この経典でも、

煩悩(不善の法)を滅する⇒四禅定⇒三明(宿住智・天眼智・漏尽智)⇒解脱

という道筋が示されています。

 

この道筋は極めて重要なために、数多くの経典において説かれています。

 

仏陀はこう言います。

 

私は、まだ正しい覚りを得ていない菩薩であったとき、こう思いました。

「私は、二種ずつにして考えの中に住んでみてはどうであろうか」と。

欲の考えになるもの、怒りの考えになるもの、害意の考えになるもの、これを一の部分にしました。

欲のない考えになるもの、怒りのない考えになるもの、害意のない考えになるもの、これを第二の部分にしました

 

そして、一の部分の考えが起こったときに、「これは、自らを、他を、両者を害するためになる」「涅槃のためにならないものである」と熟慮するようにしているうちに、一の部分の考えは消えていったと言います。

 

次に、第二の部分の考えが起こったときに、「これは、自らを、他を、両者を害するものにならない。涅槃のためになるものである。」と考え続けたといいます。

 

その結果、その通りに意向、心の傾向性が生じたといいます。

 

そこで、精進が始まり、念が現前し、心が安定したといいます。

 

そして、第一禅定、第二禅定、第三禅定、第四禅定に達して住んだといいます。

 

その後、過去の生存を想起する智に心を傾注し向けた、といいます。

(宿住智)

次に、生ける者たちの死と再生の智に心を傾注し向けた、といいます。

(天眼智)

次に、もろもろの煩悩を滅する智に心を傾注し向けた、といいます。

そして

これは苦である

これは苦の生起である

これは苦の滅尽である

これは苦の滅尽に至る道である

これは煩悩である

これは煩悩の生起である

これは煩悩の滅尽である

これは煩悩の滅尽に至る道である

と如実に知りました。

(漏尽智)

 

 

 

 

 

中部経典『蜜玉経』

中部経典の第18は、『蜜玉経』です。

 

この経典は、仏陀が『この法門を〈蜜玉の法門〉として受け止めなさい』と言ったとあります。

蜜玉とは、蜜と砂糖で作られたお菓子ということです。

現代の感覚では、コンビニで100円あれば買えるようなものですが、古代の世界はそこに降り立った感覚で読まなくてはいけません。

古代の世界において、蜜や砂糖や米や牛乳がいかに貴重品であったかを知らなければ、原始仏典の世界は感じ取れないでしょう。

 

たとえば、スジャーターが仏陀に乳粥を差し上げる場面があります。

これを仏教解説書では、『貧しい村娘のスジャーターが乳粥のような貧しい食べ物を釈尊に差し上げた。』というように解説しているものがあります。

とんでもないです。

その当時、米と牛乳と砂糖(あるいは蜜)でできた乳粥は極めて貴重な食べ物だったのです。

貧しい村娘が提供できる食べ物とは思えません。

事実、スジャーターは、村長の娘、長者の娘と書かれています。

仏陀の父親が『浄飯王』とわざわざ呼ばれていたのは、白米のような貴重なものを多く所有する国の王であったからです。

人類の歴史を見ると、ほとんどの時代、ほとんどの地域において、米、牛乳、砂糖、蜜は極めて貴重で得難いものであったのです。

現代の日本の感覚を持ち込むと全くの的外れになることでしょう。

 

というわけで、蜜玉の法門は極めて価値の高い法門なのでしょう。

こころして読んでいかなければなりません。

 

仏陀は言います。

 

人に妄執想の諸部分が起こる根拠があるとき、

もしここに歓喜すべきもの、歓迎すべきもの、愛着すべきものがなければ、

これこそ、もろもろの貪という潜在煩悩の終わりです。

これこそ、もろもろの瞋という潜在煩悩の終わりです。

これこそ、もろもろの見という潜在煩悩の終わりです。

これこそ、もろもろの疑という潜在煩悩の終わりです。

これこそ、もろもろの慢という潜在煩悩の終わりです。

これこそ、もろもろの有貪という潜在煩悩の終わりです。

これこそ、もろもろの無明という潜在煩悩の終わりです。

これこそ、棒を取ること、刀を取ること、言い争い、論争、口論、喧嘩、中傷、虚言の終わりです。

ここには、これら悪しき不善の法が残りなく滅します。

 

 

この言葉につき、マハーカッチャーナ尊者が詳しく解説し、仏陀もそれを認めたものが次の言葉です。

 

 

眼と色を縁として、眼識が生じます。

三者(眼・色・識)の和合が触です。

触を縁として受が生じます。

感受するものを想念します。

想念するものを尋思します。

尋思するものを妄執します。

それより妄執する人に、過去・未来・現在の眼に知られるもろもろの色について、妄執想の諸部分が起こります。

 

耳と声を縁として、耳識が生じます。

三者の和合が触です。

触を縁として受が生じます。

感受するものを想念します。

想念するものを尋思します。

尋思するものを妄執します。

それより妄執する人に、過去・未来・現在の耳に知られるもろもろの声について、妄執想の諸部分が起こります。

 

鼻と香を縁として、鼻識が生じます。

三者の和合が触です。

触を縁として受が生じます。

感受するものを想念します。

想念するものを尋思します。

尋思するものを妄執します。

それより妄執する人に、過去・未来・現在の鼻に知られるもろもろの香について、妄執想の諸部分が起こります。

 

舌と味を縁として、舌識が生じます。

三者の和合が触です。

触を縁として受が生じます。

感受するものを想念します。

想念するものを尋思します。

尋思するものを妄執します。

それより妄執する人に、過去・未来・現在の舌に知られるもろもろの味について、妄執想の諸部分が起こります。

 

身と触を縁として、身識が生じます。

三者の和合が触です。

触を縁として受が生じます。

感受するものを想念します。

想念するものを尋思します。

尋思するものを妄執します。

それより妄執する人に、過去・未来・現在の身に知られるもろもろの触について、妄執想の諸部分が起こります。

 

意と法を縁として、意識が生じます。

三者の和合が触です。

触を縁として受が生じます。

感受するものを想念します。

想念するものを尋思します。

尋思するものを妄執します。

それより妄執する人に、過去・未来・現在の意に知られるもろもろの法について、妄執想の諸部分が起こります。

 

 

ここで、マハーカッチャーナ尊者は、『妄執想の諸部分が起こる根拠』について詳しく解説しています。

そして、この妄執想が起こる過程において、『歓喜すべきもの、歓迎すべきもの、愛着すべきもの』がなければ、『悪しき不善の法が残りなく滅します』ということです。

 

『歓喜すべきもの』とは、「私が」「私のもの」と歓喜すべきものという意味です。

 

すなわち

触(三者の和合)⇒受⇒想念⇒尋思⇒妄執

の過程において、自己同化、感情移入がなければ、すべての不善の法は残りなく滅するということです。