中部経典『中継車経』

中部経典の第24は、『中継車経』です。

 

サーリプッタとプンナという長老同士の対話です。

プンナが中継車の喩えをしたことから中継車経と呼ばれます。

 

プンナは貿易商であり、長者だった人です。

説法第一と言われていて、わかりやすく面白い説法で大人気であった人です。

社会的経験や人生経験の厚みがプンナの説法を魅力的なものにしたのでしょう。

 

この経典にある『中継車』の喩えも、商人であったプンナらしい喩えです。

 

サーリプッタは、プンナに聞きます。

『世尊のもとで梵行につとめ住みましたか?』

『はい。』

『では、友よ、戒の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

・・・・

以下、次のようなことのために梵行につとめ住んだのではないという対話が続きます。

『心の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『見の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『疑の超越の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『道・非道の智見の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『行道の智見の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『智見の清浄のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『そうではありません』

『それでは何のために世尊のもとで梵行につとめ住んだのですか?』

『執着のない完全な涅槃のために、世尊のもとで梵行につとめ住んだのです。』

 

『戒の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『心の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『見の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『疑の超越の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『道・非道の智見の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『行道の智見の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『智見の清浄は執着のない完全な涅槃ですか?』

『そうではありません』

『では、これらの法以外に、執着のない完全な涅槃があるのですか?』

『そうではありません』

 

ここで、プンナは、中継車の喩えを言います。

 

ある地点から、サーケータの王宮の門まで行くのに、七台の中継車を使う喩えです。

第一の中継車に乗って出発して、第二の中継車に至り、そこで第一の中継車を乗り捨てて第二の中継車に乗り、第三の中継車まで至り、・・・・第七の中継車によって目的地に着いた、という喩えです。

 

その喩えのように、

戒の清浄は、心の清浄までを目的とし

心の清浄は、見の清浄までを目的とし

見の清浄は、疑の超越の清浄までを目的とし

疑の超越の清浄は、道・非道の智見の清浄までを目的とし

道・非道の智見の清浄は、行道の智見の清浄までを目的とし

行道の智見の清浄は、智見の清浄までを目的とし

智見の清浄は、執着のない完全な涅槃までを目的とするものです。