中部経典『鋸喩経』

中部経典の第21は、『鋸喩経』です。

 

この経典は、どのような言葉を投げかけられても、どのような仕打ちをされても、鋸で手足を切断されようとしても、一切の世界を対象とした慈心=慈無量心であるべきだという教えです。

いろいろな例を挙げて、最後は、盗賊たちが自分の手足を切断しようとしても怒りを持たず心が変わらないようにするという、怖ろしいことが書かれています。

 

最初に書かれているのは、モーリヤパッグナという比丘の話です。

この人は、比丘尼たちと住んでいたらしく、誰かがその比丘尼たちを非難すると、モーリヤパッグナは怒ったり言い争いをしてしまうようでした。

その人に対し、仏陀はこう言います。

『あなたは、在家的なもろもろの欲や在家的なもろもろの考えを捨てるべきです。誰かが比丘尼たちを非難したり、手で殴ったり、棒で殴ったり、刀で切りつけても怒りを持たず、一切の世界を対象とした慈心を持つべきです。』と。

 

しかし、註では、このモーリヤパッグナという人は仏陀の誡めをちゃんと聞かなかったようで、このことを告げた比丘たちに説いて聞かせます。

 

註では、第一菩提(成道から最初の20年間)のことを仏陀は言ったとあります。

最初の20年間は、素直で真っ正直な比丘が多かったらしく、教戒しなくても念を起こすだけでみんな了解してくれたようです。

ですから、いまあ、あなたたちも、不善を捨てなさい、と説きます。

 

サーラ樹の曲がった枝を切り、まっすぐな枝を伸ばすように、不善を切り、善法に努めなさいと説きます。

 

そして、女性資産家ヴェーデーヒカーのことを話します。

この資産家はとても温和で良い評判が立っていたのですが、女性奴隷のカーリという人が、本性はどうか『観察してみよう』と思い立ちます。

そして、わざと遅くに起きます。さらに遅く起きます。

そうすると、この女性資産家は怒り、頭を殴りました。

それで、女性資産家ヴェーデーヒカーの評判は地に落ちます。

 

つまり、環境が良く、不快なことが何もないときには、人は温和だと言うことです。

不快なことが起きたときにこそ、慈心を持ち、善言者とならないといけないと説かれます。

 

すなわち、他の者が、自分にたいし

1、非時によって語る

2、非真実によって語る

3、粗暴によって語る

4、不利益を伴うものによって語る

5、怒りのある者として語る

 

この5つの言葉で語られても、

1、大地にも等しい、広大な、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心で満たし

2、虚空にも等しい、広大な、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心で満たし

3、ガンジス川にも等しい、広大な、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心で満たし

4、猫皮にも等しい、広大な、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心で満たし

5、そして、盗賊たちが鋸で自分の足を切断しようとするときも、一切の世界をその対象とし、慈しみとともなる、広大な、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心で満たして住むことにしよう

 

と説かれます。

 

つまり、この『鋸喩経』は、どんなことが起きても無量心に住みなさい、と説いた教えです。