中部経典の第28は、『大象跡喩経』です。
この経典は
『縁起を見る者は法を見る。法を見るものは縁起を見る。』という言葉で有名です。
この経典に書かれている『大きな象の足跡』というのは、四諦の法のことです。
ジャングルのいかなる生き物の足跡も、すべて象の足跡に包含されます。
それと同じように、四諦の法は、他のすべての法を包含しているということです。
そして、『縁起を見る者は法を見る』の『法』も四諦の法のことです。
四諦というのは、
1、苦諦 苦という真理
2、集諦 苦の集起(生起)という真理
3、滅諦 苦の滅という真理
4,道諦 苦の滅に至る道という真理
のことです。
苦諦とは、生まれることも苦、老いることも苦、死も苦、愁い・悲しみ・憂い・悩みも苦、求めて得られないのも苦、要するに五蘊の集まり(五取蘊)が苦である、とこの経典には説かれています。
厳密にはこの経典で書かれているのは四苦八苦そのものでないのですが、『要するに五取蘊が苦』というのが、苦諦の最大のキーポイントなのです。
五取蘊とは
1、色取蘊
2、受取蘊
3、想取蘊
4、行取蘊
5、識取蘊
の五つです。
色取蘊は、地水火風の四大から成ります。
地界には内の地界と外の地界があります。
内の地界とは、肉体を形成する、髪、毛、歯、爪、肉、骨などの固体。
外の地界とは、外界を形成する山や大地。
地界は堅固なものに思えるでしょうが、内の地界も外の地界も、『これは私のものでない、これは私ではない、これは私の我ではない』と正しく慧によって見られるべきです。
外の地界が堅固な山に見えても、大洪水で消え去ることがあります。
どんなに広大でも、無常であり、滅尽するものであり、壊滅するものであり、変化するものです。
それなのに、このわずかな身体に私、私のもの、私がいると言えるでしょうか。
内の水界とは、血や唾液や汗や涙などの身体内の液体です。
外の水界とは、外界にある湖などです。
しかし、それが干上がることもあります。
無常です。
内の火界とは、身体内の熱になるものです。
外の火界が怒り、村や町や国を焼き尽くしても、水によって消えたり、燃料がなくなって消えたりします。
無常です。
内の風界とは、呼吸などです。
外の風界にしても、風がぴたっとなくなることがあります。
無常です。
例えば、木材によって、草によって、土によって虚空が囲まれたならば、家と呼ばれるように、骨によって、筋によって、肉によって、皮によって虚空が囲まれたなら、rupa=色、身体と呼ばれます。
外のもろもろの色が眼識に入ってくるなら
そのようにして色取蘊に、そして五取蘊に包摂され、集合されます。
これらの縁って起こったものが五取蘊です。
五取蘊に対する貪、愛着、執着が苦の集起です。
五取蘊に対する貪、愛着、執着の捨断が苦の滅尽です。
ここでこの言葉が出てきます。
『縁起を見る者は法を見る。法を見るものは縁起を見る。』
さて、これはどういう意味でしょうか。
私の解釈では、
骨によって、筋によって、肉によって、皮によって虚空が囲まれて
rupa =色 =身体 が生じます。
身体には六入があり、
触が起こり
受が起こります。
ここで、愛着や執着が起こり、苦の集起となります。
この経典で説かれているのは十二縁起の原型とも言えるものです。
この縁起の法を洞察することで、苦の集起・苦の滅尽のありさまを見ることになります。
つまり
『縁起を見る者は法を見る。法を見るものは縁起を見る。』
とは
十二縁起を洞察する者は、四諦の法を洞察する者であり
四諦の法を洞察する者は、十二縁起を洞察する者である
ということだと解釈しています。