中部経典『山林経』

中部経典の第17は、『山林経』です。

 

この経典は、最初を読むと、山林に住むことについての心得のように思えるでしょう。

しかし、実は、山林だけではなく、村、町、都市、地方のどれにおいても、そこに住むべきかどうかの基準が語られています。

それどころか、ある人と住むべきかどうかの基準も同じように語られます。

本当に語りたかったのは、山林よりも実は人の方だったと思います。

という点で、この経典の構成は面白いと感じます。

 

住むかどうかの根拠として、次の2つが考慮されるものです。

 

1,念(sati)が確立し、心が安定し、煩悩が滅尽し、最上の安らぎに到達しているか

2,衣・食・薬という生活必需品が容易に手に入るか

 

山林に住む時、

1も2もないときは、去るべきで住むべきではない。

1がなく、2があるときも、去るべきで住むべきではない

1があり、2がないときは、去るべきではなく住むべきである

1も2もあるときは、去るべきではなく住むべきである

 

これが

ある村の近くに住むとき

ある町の近くに住むとき

ある都市の近くに住むとき

ある地方の近くに住むとき

全く同じように考えます。

 

そして、ある人の近くに住むときも、この基準で考えるべきと説かれます。

 

すなわち、生活必需品が容易に手に入るかどうかはどうでもよく、念(sati)が確立し、心が安定し、煩悩が滅尽し、最上の安らぎに到達しているかを住むかどうかの判断基準にすべきということです。

 

 

 

中部経典『心不毛経』

中部経典の第16は、『心不毛経』です。

 

この経典は、五つの心の不毛と、五つの心の束縛について説かれます。

 

そして、五つの心の不毛と五つの心の束縛が捨てられたとき、四神足と努力が起きます。

全部で十五の部分であり、これをそなえたならば、最上の無碍安穏の獲得が可能と説かれます。

 

五つの心の不毛とは、

1,仏(師)

2,法

3,僧(サンガ)

4,学

5,修行仲間

この五つを疑う、ということです。

 

五つの心の束縛とは、

1,欲

2,身

3,色

4,食や睡眠の楽しみに耽ること

5,戒や修行によって神になろうとすること

 

以上の、五つの心の不毛と五つの心の束縛が捨てられたときに、四神足が起こります。

 

四神足(四如意足)とは、

1,欲神足

2,精進神足

3,心神足

4,観神足(慧神足とも言う)

 

この経典では、四神足について、その本質がわかるようになっています。

 

1,欲神足

ですが

chandasamadhi-padhanasankhara-samannagata-iddhipada

つまり、意欲によって起こる禅定と精勤となる力をそなえた神足、と表現されています。

 

2,精進神足は

viriyasamadhi-padhanasankhara-samannagata-iddhipada

精進によって起こる禅定と精勤となる力をそなえた神足。

 

3,心神足は

cittasamadhi-padhanasankhara-samannagata-iddhipada

心によって起こる禅定と精勤となる力をそなえた神足。

 

4,観神足は

vimamsasamadhi-padhanasankhara-samannagata-iddhipada

観察によって起こる禅定と精勤となる力をそなえた神足。

 

 

神足とは、神通(iddhi)(完成という意味)の足(pada)(基礎・足場)という意味です。

 

 

欲神足は、意欲によって意識を集中していく禅定。

精進神足は、四正勤に意識を集中していく禅定。

心神足は、心の中の善法である観念に意識を集中していく禅定。

観神足は、洞察していく禅定。

 

 

これに努力(ussolhi)を加えて、十五の部分を備えると、

母鶏に正しく温められた卵が孵化し破殻し、雛が出てくるように

覚りが可能だと述べられます。

 

 

中部経典『推理経』

中部経典の第15は『推理経』です。

 

この経典は、

悪言業と善言業を作る諸々の法(それぞれ十六法ある)につき説かれ

その十六の法を『推理』すること

その十六の法を『観察』すること

が説かれます。

 

悪言業とは、悪言の行為(kamma)のことです。

善言業とは、悪言の行為をしない者になることから起こるとされます。

 

悪言業を作る十六の法とは

1,悪欲に支配される者になること

2,自分を誉め、他人を貶す者になること

3,忿怒に征服される者になること

4,忿怒によって恨みを抱く者となること

5,忿怒によって執念を抱く者となること

6,忿怒ある言葉を発する者になること

7,叱責者によって叱責され、叱責者に敵対する者になること

8,叱責者によって叱責され、叱責者を非難する者になること

9,叱責者によって叱責され、叱責者に言い返す者になること

10,叱責者によって叱責され、話をそらし、怒りや嫌を顕わにする者になること

11,叱責者によって叱責され、所業について語ることができない者になること

12,被覆のある、脳害のある者になること

13,嫉妬のある、吝嗇のある者になること

14,誑かしのある、諂いのある者になること

15,強情のある、過慢のある者になること

16,我見に固執し、捨てることができない者になること

 

 

善言業を作る十六の法は、以上の悪言業を作る十六の法の反対です。

以上の悪言業を作る十六の法を『しない者になること』です。

 

 

その十六の法を『推理』するとは

悪言業を作る十六の法のひとつひとつにつき、もしある人がそのような者であれば好ましくないと知って、自分はそのような者になるまいと心を起こすことです。

 

その十六の法を『観察』するとは

悪言業を作る十六の法のひとつひとつにつき、自分はそのような者であるか、そのような者でないかを観察することです。

そのような者であるならば、その不善の法を断つ為に努力する、

そのような者でないなら、その歓びと満足によって諸々の善法を学び住むべき、

と説かれます。

 

 

 

 

 

中部経典『小苦蘊経』

中部経典の第14は、『小苦蘊経』です。

 

この経の前半は、第13の『大苦蘊経』と同じことを語っています。

『大苦蘊経』との違いは、後半のニガンタ(ジャイナ教徒)たちとの問答です。

 

仏陀がジャイナ教徒に『なぜあなたたちは苦行するのか?』という意味のことを問いかけます。

ジャイナ教徒は、『楽は楽によっては到達できない。楽は苦によって到達できる』

『もし、楽が楽によって到達できるならば、ビビサーラ王はゴータマ尊者より楽に住んでいるはずです。』

と答えます。

 

それに対し、仏陀はこう答えます。

『私は身体を動かすこともなく、言葉を発することもなく、一昼夜ないし七昼夜の間、もっぱら楽を享受し、住むことができます。

ビンビサーラ王と私とどちらが楽に住んでいると思いますか?』

中部経典『大苦蘊経』

中部経典の第13は、『大苦蘊経』です。

 

この経は、異教の行者たちの質問『ゴータマもわれわれも、欲・色・感受の知悉を主張している。どのような違いがあるのであろうか?』に答えた説法です。

 

仏陀は、こう言います。

 

欲の  楽味(assada)・危難(adinava)・出離(nissarana)

色の  楽味(assada)・危難(adinava)・出離(nissarana)

感受の 楽味(assada)・危難(adinava)・出離(nissarana)

を知っているかいないかが違いである、と。

 

欲の楽味とは、眼耳鼻舌身によって識られる好ましい色声香味触のこと。

 

欲の危難とは、そのような欲の楽味を得るための労苦、得られないときの愚痴、奪われる恐怖、奪い合いの争い、そしてその争いが口論から刃物での戦い、殺し合いまで発展すること、このようなことを言います。

 

欲の出離とは、欲貪の捨断を言います。

 

色の楽味とは、例えて言うなら、15,6歳の少女のような輝いている状態。

色の危難とは、例えて言うなら、そのような少女が年老いて、病み、死んで墓場に捨てられ、獣に食べられ、骨が散乱し、腐食しているような状態。

色の出離とは、そのような色の楽味と色の危難を知って、色に対する欲貪を捨断すること。

 

感受の楽味とは、諸々の欲を離れ、不善の法を離れ、第一禅、第二禅、第三禅、第四禅に達して住み、ただ不害の感受のみを感じる、そのような最上の不害を感受の楽味という。

感受の危難とは、感受は無常であり苦であり、壊滅する性質のものであるから、感受は危難である。

感受の出離とは、諸々の感受に対する欲貪の捨断のことである。

 

身の毛のよだつ教え

前に、大般涅槃経(大乗涅槃経も同じ題名なので、区別するためパーリ涅槃経という)の仏陀のメッセージによって、後に大乗仏教が興ったと書きました。

 

そして、『大獅子吼経』でも、同じ感想を持ちます。

 

『大獅子吼経』も、パーリ涅槃経と同じく、仏陀80歳の入滅の年に仏陀が語ったことが書かれています。

 

それまで仏陀は、自らの智慧や神通力を誇示することはありませんでした。

しかし、入滅の年に、自らの智慧の全貌を打ち明けます。

そして、こう言います。

 

サーリプッタよ、もし正しく語る者がいて

『迷妄のない生けるものが、多くの人々の利益のため、多くの人々の安らぎのため、世界への憐れみのために、人天の目的のため、利益のため、安らぎのために、世界に現れている』と語るならば

それは、私についてのみ正しく語っているのです。

 

 

これは、法華経方便品の一大事因縁故出現於世そのままです。

 

仏陀はその入滅の年に、自らの真意の全貌を明かしたと思います。

そして、そのメッセージを正しく受け取った後世の比丘たちが大乗仏典を作り上げていったということでしょう。

 

この発見によって、仏陀の真意と大乗仏典が繋がりました。

 

 

中部経典『大獅子吼経』

中部経典の第12は、『大獅子吼経』です。

 

この経典は、仏陀が80歳、つまり入滅の年に説かれたらしく、仏陀自身の智をさらけ出したような内容です。

この説法を聞いていたナーガサマーラと言う尊者が聞いて『身の毛がよだった』ということから、『身毛のよだちの教え』と受け止めなさいと仏陀が言ったということです。

 

しかし、種々様々な教えが出てくるので、何が言いたいのか、その核がわからなければ難解な経典でもあります。

 

この経典は、『沙門ゴータマには、人法を超えた最勝智見がない』という誹謗に対し、自らの智の全貌を説き明かしたものです。

入滅の年、最晩年だったからこそ、自らの智の全貌をさらけ出したとも言える、まさに『身の毛がよだつ』教えとなりました。

 

 

仏陀のサンガを離れ、還俗したばかりのスナッカッタが仏陀の悪口を言いふらします。

『沙門ゴータマには、人法を超えた最勝智見がない。』という誹謗をします。

 

それに対し、仏陀は弟子に、自ら得ているものをこう説きます。

 

まず、仏の十徳、これは仏の十号と同じです。

 

つぎに、神足通、天耳通、他心通。

 

つぎに、如来の十力が明かされます。

  • 処非処智力 - 道理と、非道理との違いをはっきりと見分ける力
  • 業異熟智力 - 業とその果報因と果の関係を知る力
  • 静慮解脱等持等至智力 - 禅定を知る力
  • 根上下智力 - 衆生の精神の優劣を知る力
  • 種種勝解智力 - 衆生のまことの望みを知る力
  • 種種界智力 - 衆生の本性を知る力
  • 遍趣行智力 - 衆生が地獄涅槃など種々に赴くことになる行因を知る力
  • 宿住随念智力 - 自分や他者の過去世を思い起こす力
  • 死生智力 - 衆生が死ぬ道理、むこうに生まれる道理を知る力
  • 漏尽智力 - 涅槃に達するための手段を知る力

 

つぎに、如来の四無畏が説かれます。

一切智無畏・漏永尽無畏・説障道無畏・説尽苦道無畏の4つの無畏です。

 

 

(続きます)

中部経典『小獅子吼経』

中部経典の第11は、『小獅子吼経』です。

 

獅子吼とは、註に、最上の咆哮、無畏の咆哮、無敵の咆哮のこととあります。

 

仏陀のサンガにこそ、沙門、第二の沙門、第三の沙門、第四の沙門がいて、他の異教にはそのような沙門を欠いている、と獅子吼しなさい、と説かれます。

沙門、第二の沙門、第三の沙門、第四の沙門とは、預流者、一来者、不還者、阿羅漢のことです。

 

なぜ、仏陀のサンガには、それらのものがいて、他の異教にはいないのか、という理由が語られます。

 

それは、常見(有見)bhava-ditthi   か、断見(非有見)vibhava-ditthi のどちらかにとらわれているからです。

 

四つの取著から離れることができないと言います。

四つの取著とは、欲の取著、見の取著、戒禁の取著、我語の取著、です。

 

この四つの取著は、何を因縁にし、生起とし、起源とし、発生とするか、ということを説かれます。

 

この四つの取著は、渇愛を因縁(原因)としています。

渇愛(tanha)は感受を因縁(原因)としています。

感受(vedana)は接触を因縁(原因)としています。

接触(phassa)は六処を因縁(原因)としています。

六処(salayatana)は名色を因縁(原因)としています。

名色(nama-rupa)は識を因縁(原因)としています。

識(vinnana)は行を因縁(原因)としています。

行(sankhara)は無明を因縁(原因)としています。

 

無明(avijja)が断たれれば、明智(vijja)が生じます。

そうすれば、四つの取著にとらわれることがなくなり、涅槃に到達します。

 

七菩提分

マニカナで、石飛先生が、『阿弥陀経』の中の、

またさらに舎利弗よ、かの仏の国土には、常に、見事で彩り豊かな様々な鳥がいる。白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利、迦陵頻伽・共命の鳥などである。これらの鳥は、一日に六回、美しく優雅な声でさえずることで、

五根・五力・七菩提分・八正道分などの教えを説いている。この国の人々は、この声を聞き終わって、皆ことごとく、仏を思い、法を思い、僧を思う気持ちが起こるのだ。

 

について、

五根五力の次が、七菩提分と飛んでいるのはなぜか?

四念処、四正勤、四神足がない理由は?

 

という質問をされていました。

 

これにつき、私なりの考えを書きます。

 

阿弥陀経のこの記述こそ、今まで私が書いていたことを裏付けるものです。

 

七菩提分とは、七覚支のことです。

七覚支に七菩提分という別名があること自体が、七覚支が三十七菩提分法の骨子であることをうかがわせます。

 

四念処、四正勤、四神足がない理由は、七覚支の中にすべて入っているからです。

 

七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 です。

 

このうち、

念が、四念処

精進が、四正勤

定が、四神足

です。

 

五根・五力は、私の説では、概説、総論です。ですから、これは別に記載されています。

詳説の中の骨子が七覚支(七菩提分)です。

八正道は、四諦の中の道諦ですが、三十七菩提分法には四諦がありませんから、八正道が入っています。

 

ですから、阿弥陀経に、五根・五力と七菩提分(七覚支)と八正道だけ記載されているというわけです。

 

大乗仏典作成者は、サンガの中の比丘です。

サンガの中で、ひそかに大乗仏典を作っていた人がいました。

見つかって、非難されて、サンガから追い出されて還俗した人もいたと思います。

当然、仏典(原始仏典)に非常に詳しい人たちが作ったものです。

七覚支に四念処、四正勤、四神足が含まれていることは当然、知悉していました。

 

 

 

中部経典『念処経』

中部経典の第10は、『念処経』です。

 

念処経については、すでに書いているものがありますので、それを再び載せます。

 ⬇

中部経典『念処経』も

長部経典『大念処経』も、

四念処について説かれています。

内容はほとんど同じです。

 

四念処の、身⇒受⇒心⇒法 で、

 

身の随観では、

出息・入息の部

威儀の部

正知の部

厭逆観察の部

要素観察の部

九墓地の部

が説かれ

 

受は、受の随観の1つ

心も、心の随観の1つ

が説かれ

 

法の随観は

五蓋の法

五取蘊の法

十二処の部

七覚支の法

四諦の法

が説かれています。

 

 

四念処の随観は2種類あると思います。

 

身随観のうち、出息・入息の部、威儀の部、正知の部と

受随観、心随観は、マインドフルネス瞑想でsatiを『気づき』とするそのものでしょう。

 

しかし、身随観のうち、厭逆観察の部、要素観察の部、九墓地の部は、自分の心臓や腎臓を観じたり、地水火風の要素に分けて観じたり、死体が腐っていく様を観じたりするのですから、イメージによる観法です。

 

法随観は、自分の心の中の観念を総点検することだと思っていますが、不善法である

五蓋の法、五取蘊の法、十二処の部はともかく、善法である七覚支の法と四諦の法はsatiを憶念という意味で捉えないと難しいと思います。

 

補注に、

satima は、『身を把握する念をそなえ』ということ。なぜなら、『念によって所縁を把握し、慧によって観つづけ、念を欠く随観というものはないからである。』

なお『念(sati)とは、憶念を特相とし、不亡失を作用とし、守護を現状とする。』

とあります。

中部経典『正見経』

中部経典の第9は『正見経』です。

 

この経典は、『正見』について、真正面から説き明かしたものです。

 

正見のある者になるにはどうしたらいいのか、という問いかけに対する答えです。

 

1,善・不善の法を知ること

2,四食を知ること

3,四諦を知ること

4,十二縁起を知ること

5,煩悩と煩悩の生起(無明から起こる)と煩悩の滅尽(無明の滅尽から起こる)と煩悩の滅尽に至る道(八正道)を知ること

 

この中でわかりにくいのは、2の四食です。

 

四食とは、

1,物質食

2,接触食

3,意思食

4,意識食

の4つです。

 

私たちが〈食〉と呼んでいるのは、1,の物質食です。

接触食は、眼触などの六触で、苦受・楽受・非苦非楽受を運ぶものです。

意思食は、有漏の善悪の意思で、三有(欲有・色有・無色有)を運ぶものです。

意識食は、結生識で、結生の名色を運ぶものです。

 

ですから、物質食以外は、十二縁起の項目と重なります。

 

 

 

中部経典『削減経』

中部経典の第8は『削減経』です。

 

削減とは変わった題名ですが、ここでいう削減(sallekha)とは、煩悩を正しくすべて削るという意味です。

 

さて、この経典も見落としがちですが、非常に重要なことを含んでいます。

 

まず、我説(色を我と見るなど)や世界説(我も世界も常住であるなど)の誤った見解は、〈これはわたしのものではない〉〈これはわたしではない〉〈これはわたしの我ではない〉と、如実に正しい智慧をもって見る者は断つことができると説かれます。

 

それから

色界と無色界の禅定について説かれます。

第一禅も、第二禅も、第三禅も、第四禅も、空無辺処定、識無辺処定、無所有定、非想非非想定も、削減とは言われないと説かれます。

これらはどれも、現世の楽住と言われるとのこと。

 

そして、〈そなたたちは、ここに削減を行なうべきである〉と言います。

具体的には、殺生や両舌、悪口、綺語、貪求、瞋恚、邪見、邪思などの不善法を削減すべきだと説かれます。

 

つまり、禅定至上主義では絶対にダメなんだと言うことです。

 

後世、仏教は、禅定ばかりを重要視してきました。

しかし、どれも、現世の楽住にしかすぎないということです。

仏陀も、楽しみのために禅定をたびたび行ないました。

それは、楽住であったためです。

 

しかし、仏陀の真意は、行為(kamma)が最重要と言うことです。

 

中部経典『布経』

中部経典の第7は『布経』です。

『布喩経』とも言います。

 

これは前に解説しましたので、その文を載せます。

 

中部経典『布喩経』には、歴史上の仏陀の教説を理解するために非常に重要な鍵が多くあるように思えます。

特に、三宝や五根・五力、七覚支、そして四無量心の関係が解読できるので、本当に貴重な経だと思います。

 

五根・五力は

信⇒精進⇒念⇒定⇒慧

です。

いわゆる信仰を説かなかったのが仏陀ですので、五根・五力の最初に『信』がきていることに違和感がありました。

 

『布喩経』によると、欲張り、物ほしがり、悪意、怒り、妬み、偽善、冷酷、嫉み、吝嗇、偽り騙し、裏切り、頑なさ、性急さ、驕り、怠慢、これらの心の汚れを捨離していけば(心の浄化

 

①仏陀に対して絶対の信を持つに至る。

②仏陀の説く法に対して絶対の信を持つに至る。

③サンガに対して絶対の信を持つに至る。(仏法僧の三宝帰依

 

すると、法にともなって、歓喜が湧いてくる。歓喜する者には喜悦が湧いてくる。喜ぶものは身体が軽安となる。軽安となれば楽しみを受ける。楽しみを受けたものは自然と定が生じる。(七覚支のうち、喜⇒軽安⇒定

 

そうなったときに、智慧を生じる。(五力・五根の

 

そのとき、彼は、

慈しみにつながる心をもって、あまねく一切を覆うて住する。

悲  につながる心をもって、あまねく一切を覆うて住する。

喜  につながる心をもって、あまねく一切を覆うて住する。

捨  につながる心をもって、あまねく一切を覆うて住する。

       (四無量心

 

これこそ感覚の世界からの出離である。

そのように知る時、

欲望の惑わしから心が解脱し

存在の惑わしから心が解脱し

無智の惑わしから心が自由となって

彼はみずから自由であるとの自覚を生じ

『わが迷いの生はすでに尽きた』と知るに至る。

        (解脱

 

この経により、三十七菩提分法がすべてつながりました。

そして、後世には色界の最下層の境地として解脱までには至らないとされた四無量心が、実は、慧であり、解脱に至るとされていたことがわかりました。

中部経典『希望経』

中部経典の第6は、『希望経』です。

 

『希望』という仏教にはあまり出ない言葉で語られます。

 

どのような希望でしょうか。

 

『尊敬される者になりたい』『衣や食や臥坐所や医薬品を得るものになりたい』『親族や死者たちに大きな功徳があってほしい』『恐怖を征服したい』『四禅を得たい』『解脱の境地に住みたい』『悟りに赴く者になりたい』『六神通を得たい』というような希望です。

神通力は、神足通、天耳通、他心通、宿住智、天眼智、漏尽智がそれぞれ挙げられ、その神通力を得たいと希望するならば・・としています。

 

仏陀在世の時代の仏教は決して神通力を得たいと希望することを排除していません。

それどころか、仏陀が使った神通力の様子は縦横無尽に出てきます。(マハーヴァッカなど)

 

さて、上のようなことを希望するなら、どうしたらいいのでしょう。

 

【もろもろの戒を充分に満たし、自己の心の寂止に努め、禅を疎かにせず、観をそなえ、もろもろの空屋の増益者になることです】と説かれます。

中部経典『無垢経』

中部経典の第5は『無垢経』です。

 

世界には、4種類の人がいると説きます。

 

 

 

1,垢があっても、〈私には内に垢がある〉と如実に知ることのない人

 

2,垢があっても、〈私には内に垢がある〉と如実に知る人

 

3,無垢であっても、〈私には内に垢がない〉と如実に知ることがない人

 

4,無垢であって、〈私には内に垢がない〉と如実に知る人

 

 

 

このうち、2と4の、如実に知る人を優れた人と説きます。

 

なぜ、その人が優れた人と言われるのか?

 

その因は何でしょうか?

その縁は何でしょうか?

と大目連は聞きます。

 

ここで興味深いことがあります。

〈因〉と〈縁〉です。

後世では、因を直接的な原因、縁を補助的な原因または条件という解釈が生まれました。

 

たとえば、果物は、種子を直接の原因である〈因〉とし、土や水や空気を補助的な原因または条件である〈縁〉という解釈がなされたりします。

 

しかし、縁は、十二縁起を見てもわかりますが、縁起の公式に当てはまるような根本的な原因のことです。

それがあればこれがあり、それが生じればこれが生じ、それがなければこれはなく、それが滅すればこれも滅する、まさしく根本的な原因です。

 

この無垢経でも、〈因〉も〈縁〉も根本的な原因、根本的な理由という意味で使っています。

 

 なぜ、〈私には垢がある〉あるいは〈私には垢がない〉と如実に知る者は優れた者と言われるのか、の理由ですが、

如実に知る者は努力するからです。垢を断つために努力したり、垢がつかないように努力するからです。

 

次に、〈垢〉とは何ですか?

という質問に、

いろいろな例を挙げて、垢とは怒りなるものや不満なるもののことだと答えます。