死後・輪廻はあるか、の論文

pipitさんが、ご自身の掲示板に貼られていた

森章司先生
『死後・輪廻はあるかーー「無記」「十二縁起」「無我」の再考ーー』
http://www.sakya-muni.jp/pdf/bunsho12.pdf

の論文がとても素晴らしかったです。

全文素晴らしいので、全文を載せようと思いましたが、やはり著作権の関係がありますので、ごく一部だけ載せます。

ごく一部ではありますが、それでも著作権者から不適切という指摘があればすぐ削除します。

 

 

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 死後・輪廻はあるか
      --「無記」「十二縁起」「無我」の再考--
                             森 章司


1、「無記」説の再考
通常の十無記(十難)は次のような内容で、これらに釈尊は無言をもって答えられたとす
る。
(1)世界は常住であるか(sassato loko)、世界は常住ではないか(asassato loko)
(2)世界は無辺であるか(antavA loko)、世界は無辺ではないか(anantavA loko)
(3)霊魂と身体は一つであるか(taM jIvaM taM sarIraM)、霊魂と身体は別である
か(aJJaM jIvaM aJJaM sarIraM)
(4)如来は死後に存在するか(hoti tathAgato param maraNA)、如来は死後に存在
しないか(na hoti tathAgato param maraNA)、如来は死後に存在しかつ存在し
ないか(hoti ca na ca hoti tathAgato param maraNA)、如来は死後に存在するの
でもなくかつ存在しないのでもないか(n'eva na hoti na na hoti tathAgato
param maraNA)


この外に十四無記があるわけであるが、これは世界は常住かつ無常、常住でもなくかつ無常でもない、世界は有辺かつ無辺、有辺でもなくかつ無辺でもない、を加えたものである。

無記説の中の「如来」が「衆生」を意味するということはありえない。無記説は輪廻を解脱した「如来」についての死後の有無を問われたときに無記をもって答えたのであって、「衆生」の死後は明確にある、衆生は明確に「輪廻」すると説いているわけである。したがって無記説によって輪廻や死後の世界を説くのは通俗説であるとする根拠の第一は崩れる。

 


2、「十二縁起」説の再考


縁起説は勝義の説であって、死後の輪廻を説くことは世俗の説であり、両者は次元を異にするという見解は、おそらく十二縁起説を三世両重的に解釈するのは低俗ないしは後世の説であって釈尊の真意ではなく、本来は論理的に解釈すべきであるという考えに基づくのであろう。

この最大の論拠は、

「これあるとき彼あり(imasmiM sati idaMhoti)、

 これ生じるがゆえに彼生ず(imass' uppAdA idaM uppajjati)、

 これなきとき彼なく(imasmiM asatiidaM na hoti)、

 これ滅するがゆえに彼滅す(imass' nirodhA idaM nirujjhati)」

という宇井伯寿氏の言うところの「相依縁起」が、縁起の真精神を表すと見るところにあるであろう。


これは確かに縁起を論理的にも、空間的にも広げて解釈しうる定型句である。


 しかしこの句は漢パの原始仏教聖典において 45 回現れるが、このうちの 41 回は十二縁起説の森のいう「説明型」に付帯して説かれ、独立して説かれるものは 4 回のみである(詳しくは拙著『原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究』1995 年 3 月 東京堂出版 第 5 章を参照されたい)から、この句はおそらく本来は十二縁起説と関連してあるものであり、これを十二縁起と切り離して解釈することは不適切であろう。

なぜなら十二縁起と関連して説かれるものは、

 これあるとき彼あり、

これ生じるがゆえに彼生ず、

これ無き時彼なく、

これ滅するがゆえに彼滅す。

すなわち(yadidaM)、

無明によって行あり(avijjhApaccayA saGkhArA)、

行によって識あり、……


というように示される。

 

要するに「これ」とか「彼」というのは、十二縁起の各項目を指し示す代名詞であって、この句はこの十二項目の間の関係を通則的に示したものであるとしか解釈できないからである。

そして十二縁起が縁起説としては遅い成立とするなら、この句もそう早くないはずである。
したがってこの句を独立させて解釈するのは、少なくとも原始仏教の縁起説の枠を越えるのであり、原始仏教の縁起説はあくまでも十二縁起を代表とする支分を有する縁起であると言わなければならない。

 


要するに原始仏教の縁起説は、「無明」があるが故に愛 ・ 取という煩悩が起こり、これが再生(有)のもととなって、生老病死を断ちきることができない、ということを説いたものということができる。

したがって三世両重ではないとしても輪廻を前提に解釈されていることは明らかである。

確かに十二縁起説は新しいかも知れないが、より古いとみられる愛から始まる五支縁起にしても、その本意は変わらない。

愛・取という煩悩があることによって、輪廻転生しなければならない生存の原理(有)が生じ、だから来世においても生・老死という苦しみを解決できないということを示すからである。


3、「無我」説の再考

 


それでは仏教における「無我(an-Atman)」説のなかのアートマンは何を意味するのであろうか。

 

先に紹介した無記を主題とする SN.44 の第 10 経は

 

ヴァッチャ姓の遊行者は世尊に尋ねた。

「アートマンはありますか(kiM nu khobho Gotama atthattA)」と。

世尊は黙っていられた。

また尋ねた。

「アートマンはないのですか(natthAttA)」と。

世尊は黙っていられた。

ヴァッチャ姓の遊行者は去っていった。


その様子を見ていた阿難が「どうして黙っておられたのですか」と尋ねた。

世尊は「アートマンはある(atthattA)」と答えたら、常住論者(sassatavAda)に同じることになるないと答えれば断滅論者(ucchedavAda)に同じることになる」と答えられ、そして阿難に反問された。

「もしアートマンがあるかと問われて『ある』と答えたら、諸法無我(sabbe dhammA anattA)という智が生じるのに順じるだろうか。

もし『ない』と答えたら、愚昧なヴァッチャ姓の遊行者は前にはアートマンがあったのに、今はない(ahu vA me nUna pubbe attA, attAso etarahi natthi)と混乱(sammoha)がますます増大するだろう」と。

ここでは「アートマン」の有無が、「如来の死後」と同様に無記とされているのである。


先にも書いたように原始仏教では無常・苦・無我を説くが、これは五取蘊を主語に語られる。要するに煩悩を有する凡夫はʻanAtmanʼとされるのである。

さりとて上記のように、
それでは如来のような煩悩を断じた者はʻAtmanʼを有するとされているわけではない。

しかし大乗の『涅槃経』では如来は「常・楽・我・浄」であって、「無常・苦・無我・不浄」と見てはならないとされている。仏はけっして「無我」ではなく、「我」すなわちアートマン を 獲得 した 者 として 把握 されているわけである 。

そし て 実 は 原 始 仏 教 で も 、PaTisambhidAmagga(『無礙解道』)には
五 蘊 を 無 常 と し て 観 じ て 随 順 忍 を 得 ( paJcakkhandhe aniccato passanto
anulomikaM khantiM paTilabhati) 、

五蘊の滅は常である涅槃であると観じて、正性決定 に 入 る ( paJcannamkhandhAnaM nirodho niccaM nibbAnaM ti passantosammattaniyAmaM okkamati )。

五蘊を苦として観じて随順忍を得、五蘊の滅は楽である涅槃(sukhaM nibbAnaM) であると観じて、正性決定に入る。

……五蘊を無我として観じて随順忍を得、

五蘊の滅は勝義である涅槃(paramattaM nibbAnaM) であると観じて、正性決定に入る。
とされている(32)。

 

下線を施した部分は、今手元にある NAlandA DevanAgarI PAli Series 版や ChaTTha SaGgAyana CD-ROM 版ではʻparamatthaʼとされているが、ここは五蘊が無常であるに対して、五蘊の滅は常である涅槃であるというように、病(roga)に対して無病(aroga)である涅槃、……空(suJJa)に対して勝義空(paramasuJJa)である涅槃、……
有漏に対して無漏である涅槃、有為に対して無為である涅槃などと反対概念が掲げられるの
であるから、ここはʻparamatthaʼではなくʻparamattaʼすなわち「勝我」と解すべきで
あろう。南伝大蔵経の訳者である渡辺照宏氏も「1本には paramattaM とあり。『勝性』又は『勝我』と訳すべきか」と註されている(33)。

このように解釈することが許されるとすれば、原始仏教にも涅槃や如来はアートマンとする考え方があったことが判る。

そうすれば、原始仏教がアートマンが存在すると説かなかったのは、原始仏教の教えが凡夫を主題として、仏の境地を説くことがなかったまでの話ということになる。
もしそうなら、仏教のアートマンは実はウパニシャッドが説くアートマンと同じようなものを指していたと解釈することができるかもしれない。

ウパニシャッドでもわれわれ衆生がアートマンと合一していないから輪廻を繰り返すとするのであって、構造的には仏教と共通しているということができるからである。
それはともかく、この「無常・苦・無我」説は先にも紹介したように、色受想行識が無常・苦・無我であることを如実知見すれば、色受想行識において厭離し、離貪し、解脱し、解脱したとの知見が生じ、「生已につき、梵行已に立ち、所作已に弁じ、再びこの状態に戻ってこないと知る」とされる。

最後の句は原始仏教聖典での悟りを表す定型句であって、阿羅漢果を得たということを表し、この中の「再びこの状態に戻ってこない(nAparaM itthattAye)」
という「この状態」というのは「輪廻の生存」をさし、この輪廻の生存を解脱するのが悟りということになる。

ここからも無我説は阿羅漢果を得ないかぎり衆生は輪廻転生を繰り返すということを前提とする教えであることが解る。

 

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私も全く同じ考えです。

衆生が、死後、その心の展開のままの世界に赴くことは繰り返し出てきます。

死後の世界を肯定する言説には溢れていますが、死後の世界を否定する言説は一切ありません。

ただ、如来が死後どうなるかは、『測る基準が存在しない』と言っています。

如来の死後の世界のみ、無記なのです。

それは如来は中心を持たないからです。不可測なものになっているのです。

 

歴史上の仏陀が説く『縁起』とは、十二縁起のこと、つまり、苦の縁って起こる原因のことです。

これも全く同じ考えです。

 

『無我』という言葉でアートマンを否定したというのが今までの仏教の定説でしたが、しかし原始仏典では明らかに『非我』であり、アートマンつまり存在の根源については仏陀は無記でした。

五蘊や個我や『私という中心』が『無我』であるのであって、私という中心を滅した境地まで『無』だとは言っていません。むしろ、涅槃は虚妄ならざるものだと言っています。

 

この論文に大いに賛同します。