中部経典の第22は、『蛇喩経』です。
この経典には、有名な『筏の喩え』も出てきます。
本当は『筏喩経』のほうがいいのですが、蛇の喩えのほうを題名としたようです。
アリッタという比丘が、『世尊が障害であると述べられたこれらの法を行なっても、障害にはならない』という間違った見解を持っているので、それに対し、仏陀が説法することになります。
『もろもろの欲は、危難が多く、骨鎖のようで、肉片のようで、草の炬火のようで、炭火坑のようで、夢のようで、借り物のようで、木の実のよう、屠殺場のようで、刀と串のようで、蛇の頭のようで、苦が多く、悩みが多い。そなたは自分の誤った把握によってわれわれを誹謗し、自分を傷つけ、多くの罪を作り出している。』
そして、他の比丘たちに言います。
『法を学びながら、それらの法の意味を慧によって考察することがないときは、それらの法が現われることはありません。
法が誤って把握されているのは苦であり、蛇を胴体か尾のところで捕まえるようなものです。』と。
そして、『筏の喩え』を説かれます。
安全な向こう岸に渡るとき、筏を組んで渡るとする。
向こう岸に渡り終えたら、その筏を頭に乗せたり肩に担ぐかすることはない。
筏はそこに捨てるはずだ。
法も同じく、渡るためで、捉えるためではない。
そなたたあちはもろもろの法をも捨てるべきである。
ましてや、悪法においてはなおさらである。
聖者や善人の法に導かれない者は、
色について〈これは私のものである、これは私である、これは私の我である〉と見ます。
受について〈これは私のものである、これは私である、これは私の我である〉と見ます。
想について〈これは私のものである、これは私である、これは私の我である〉と見ます。
行について〈これは私のものである、これは私である、これは私の我である〉と見ます。
識について〈これは私のものである、これは私である、これは私の我である〉と見ます。
聖者や善人の法に導かれる者は、
色について〈これは私のものでない、これは私でない、これは私の我でない〉と見ます。
受について〈これは私のものでない、これは私でない、これは私の我でない〉と見ます。
想について〈これは私のものでない、これは私でない、これは私の我でない〉と見ます。
行について〈これは私のものでない、これは私でない、これは私の我でない〉と見ます。
識について〈これは私のものでない、これは私でない、これは私の我でない〉と見ます。
無常のもの、苦のもの、変化する性質のものを〈これは私のものである、これは私である、これは私の我である〉と認めることは適切ではない。
このように五蘊非我を正しい慧によって見た場合、解脱する。
その者は、根絶され、未来に生起しない者となる。
このように心が解脱している比丘を、〈見られない者である〉と言います。
このように語る私を、ある沙門やバラモンは『虚無論者であり、生ける者の断滅、破壊、破滅を説いている』と誹謗します。
私は、以前も今も、苦と苦の消滅のみを説いているのです。
それゆえに、そなたたちに属さないものを捨断しなさい。
色・受・想・行・識を捨断しなさい。
この法によって、不還者、一来者、預流者になる。
私に対するわずかな信、わずかな親愛がある比丘はすべて天に趣く者となります。