仏教についてのひとりごと 137

hanaさん、こんにちは。
覚えていますよ。
このスレッドが荒らされていたときに、ご自分のスレッドも心無い人に荒らされて嫌な思いをされたと言われた方ですね。

 

<<私は宗教が苦手で嫌悪しているところがあります。>>

 

それは正しい感覚だと思います。
このスレッドの投稿者を見ても分かりますが、自分の信じる宗教が強固な自我を形成している人が多く、仏教に限らず宗教はお薦めはしません。

私はもうこのスレッドには書き込まないと思っていましたが、hanaさんのような真摯な質問にはできる限りレスさせていただきます。

今夜書き込めるかどうかわかりませんが、明日以降でも、書き込みしたいと思います。

このような真摯な書き込みがもっと前にあれば、このスレッドももっといろいろなことが話せたのにと残念です。

まとまった時間ができたときに書き込みさせていただきます。
ご投稿、ありがとうございました。

 

 

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hanaさん、おはようございます。

根本的な問題なので、何度かに分けて少しずつ投稿しますね。
その都度のレスはされなくて構いません。
かなり複雑な問題ですから、掲示板が終了するあと10日あまりで書けるかどうかはわかりませんが。


<<世の中には理不尽な出来事は沢山ありますよね。>>

これは本当にそうです。
世の中に理不尽なことは溢れています。
何の罪もない幼子が両親に虐待されて亡くなっています。
若くて美しく希望に溢れた女性が、ほとんど接点もない男に勝手に好意を持たれ、ストーカーされ殺される事件も後を絶ちません。
大災害で亡くなったり、飛行機や列車などの大規模事故で亡くなった方たちはどう見ても善人な人たちです。
そうかとおもうと、他人に迷惑をかけることも平気で、図々しく、声が大きなものが、この世の中ではのさばっています。

私もこの問題は考え続けてきました。
どの宗教も哲学もこの問題に満足のいく答えを持っていません。

例えば、仏教なら、こう言う人がいるでしょう。
今世だけ見れば理不尽だけど、人間にも前世も来世もあって、前世の悪業を今世で受け取っているのだ・・・と。

しかし、そうであれば、今世で何の罪もないのに殺された人は、前世でそのような結果に相応しいとんでもない悪行をし続けてきたことになります。
極悪人ですね。
しかし、そのような人が、今世では美しく親思いで周囲にも慕われ希望に溢れた人になっているというのです。
おかしな話です。

まずは、この世は理不尽さが溢れていること、そして、それをどの宗教もちゃんと説明できてないことは私ははっきりとそう思います。

また、時間がある時に、続きます。


それから、このレスは、hanaさんの投稿に対してのものですから、他の人が横から質問しても答えることはしません。ですから、横から割り込んでの質問や投稿はやめてくださいね。

 

 

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続けます。

もちろん、大事件や大事故などだけではなく、
わたしたちの日常生活でも理不尽極まりないことが毎日のように起こります。

善意のみから為したことを逆に捉えられて恨まれたり
その人の悪口ばかり陰で言っていた人が表向きのお世辞だけで評価されたり
どのようなわるいこともしてないのに濡れ衣を着せられたり
理不尽なことは数多いですね。

優しく正直でおとなしい善人が損をすることもあまりにも多いことですね。
口汚く図々しい者が評価されたり得をすることもよくある話です。

善因善果、悪因悪果、などというものは全く当てはまりませんね。

 

 

 

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しかし、『ダンマパダ』の最初は
『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。』という文章です。

善なる者がこの世では多くの損をし
悪なるものがのうのうと生きています。
さて、これをどう解釈するか、です。


誰かもし、このスレッドに書き込みたいのであれば
hanaさんの問いに自分なりの答えを書き込めばどうですか?

mic、最後の最後まで嫌がらせ投稿をしてないで
もし仏教がわかっているというのであれば、
どこも悪くない幼子や少女が殺されなければならないのか、
善なるものが悲惨な目に遭うことが多いこの世で、本当に善因善果と言えるのか
正面から答えたらどうですか?
理不尽極まりない現実に、答えることができてから、このスレに投稿しなさい。

 

 

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hanaさん
おはようございます。

最初に書いておかなければいけないのですが
私は、仏陀ゴータマ・シッダッタ)を仏教の開祖として見ていません。
いわゆる仏教は、仏陀が説いたものとはかけ離れてしまったと考えています。
仏教は後世のものが様々に作り上げていったもので埋め尽くされています。
ですから、仏教なるものをお知りになりたいのであれば、私は一番不適格です。
仏陀は仏教などという独自なものを開こうとは思ってもなかったのです。
仏教教団を主宰しているという感覚もありませんでした。

また、私には、偉人バイアスも有名人バイアスも一切ありません。
どのような歴史上の有名人であっても、そしてその人が高い悟りに達した人だと誰からも思われていても関係なく、その人の言葉や行動から判断しようとします。
ですから、宗祖や歴史上の有名人も辛らつに書くことも多いです。

しかし、仏陀は、あの膨大な資料の中で、そしてその長い人生で、怒った場面というのがたった1回しかありません。
いつも平静でした。
悟ったときから入滅するまで一貫してます。
これは凄いことだと思います。


私が、いわゆる仏教(特にウキペディアに書かれている仏教)とは、全く違う捉え方をしていることは最初におことわりしておきます。
伝統的な仏教の教理をお知りになりたいのであれば、他の方に聞かれたほうがいいと思うからです。

 

 

 

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私が人生で影響を受けた、または衝撃を受けた言葉はいろいろありますが
その中で最も衝撃だった言葉が2つあります。

どちらも学生の時に読んだ本の中にあったのですが、
その中の1つは確かヒッピー全盛期のアメリカで精神放浪した人の回想のような文章でした。
ある講演会にふらりと立ち寄ったところ、その講師の人が『すべては自分の想いでできている』という主旨の講演をしていたのです。
折しもベトナム戦争の時代だったようで、その講師は
ベトナムの赤ん坊は、自らに降り注ぐナパーム弾を自らが作ったのだ』と言ったらしいです。
当然、その講演会場はハチの巣を突いたような大騒ぎになり、非難や罵倒の激しい言葉が飛び交ったと言います。
しかし、その講師は平然と講演を続け、驚くことに静かになり、最後にはその講師への称賛で終わったらしいです。
その講演の内容は書かれていなかったのですが
ベトナムの赤ん坊は、自らに降り注ぐナパーム弾を自分が作ったのだ』という言葉は私にはとにかく衝撃で、意味も全くチンプンカンプンでした。

『すべては自分の想いでできている』としても、純粋無垢な赤ん坊の想いがなぜ?とどうしても理解できませんでした。

伝統的な仏教でも、唯心所現、唯識所変と言います。

私はずっと、その言葉を公案として生きてきた気がします。

 

 

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仏陀は中心のない空間から語っているのです。
ですから誰にも理解されないのです。
私たちは、まず『私』という中心から見たり語ったりしています。
その中心から離れることはありません。

中心などない・・というメッセージ・・・これを漢語に訳して「無我」とか「非我」とか言っているのです。
多くは「無我」と訳したために、アートマンという実体があるとかないとか、そういう不毛な論議ばかりするようになりました。龍樹などによって仏にも如来にも実体がないとまでされるようになってしまいました。
仏陀は、実体があるかどうかは無記として論議することを禁じたのにかかわらず、です。


さて、仏陀が発見した十二縁起は、私たちが中心を持ってしまい、苦の集積へと押し流されている過程です。
中心を持ってしまったために欠乏感が起き、その欠乏感という想いが現象に欠乏という姿を現していてますます欠乏感を生じ、その想いがまた欠乏を生じさせているのです。

この想念の流れを激流と呼びます。

つまり、私たちは一人残らず、苦の集積に向かって押し流されているのです。

 

 

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<<私は宗教は共感者が集まって教団化される内に
その本質から離れていってしまうように思ったんです。>>

その通りです。
どのような集団、団体でもそうですが、その集団の他集団に対する優越感を持ち自我を満足させたいために、いろいろなことをします。
自分のお師匠さんが他より極めて凄いことを強調したり、ひどいときには神格化したりします。
教義も独自性を強調し、他との共通性を排除していきます。
仏教教団に起こったこともまさしくそういうことです。

それによって、仏陀の真意は失われていきました。

 

 

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仏教についてのひとりごと 136

<<前に、徹底的な思考型瞑想してるっておっしゃってたと記憶してるのですが、
どのような感じで瞑想されるのかお聞きしてもいいですか?例えば七覚支なら、各項目はどのようなことについて述べてるのかを、具体的に考えながら、自分に現象を起せるなら起こしてみるかんじとか??十二因縁なら、各項目と、自分に起こる現象を照らし合わせて考察するとか??どんなふうに実践されてるのかなぁと思いまして、もし教えていただけるなら、教えていただけたら嬉しいなぁと思いました。>>

 

四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道の七科三十七菩提分法は重なっている項目が非常に多いですね。
特に、念・精進・定は七科のほとんどに出てきます。

私は、四諦の集諦滅諦は十二縁起の順観逆観だと思っていますので、四諦十二縁起は一体です。

七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 です。
私は、念は四念処、精進は四正勤、定は四神足、捨は四無量心の完成と捉えて瞑想しています。

ですから、実際の瞑想の順番は
四諦十二縁起⇒四念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒四神足⇒四無量心 です。
この瞑想を繰り返すことによって初めて正見解(sammā‑diṭṭhi)が生じる。
そのsammā‑diṭṭhiを基に日常生活で八正道を行なう、という順番です。

このうち、喜と軽安は、四念処・択法・四正勤の結果として身心に生じるものと考えています。
つまり、喜(pīti)が生じて、心も身体も軽くなる感じですね。
軽くなったときにsamādhiが生じる。

 

 

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続きですが
十二縁起の瞑想にしても三十七菩提分法にしてもすべて私独自の解釈ですので
役には立たないとは思いますが、一応。

十二縁起に関しては、無明から五蘊を集めようとする潜在力というか意志がはたらき
実際に五蘊を仮合させ感覚器官が生じ、外物に触れることによって感覚が生じ
それが好き嫌いなどを生じて自我が形成されることを解き明かしたものだと考えていますので
そのありさまをまざまざと観じます。
それは抽象的な観法ですることもあり、自らの実際の自我の成立過程を観じる観法ですることもあって、その両方をしています。

大まかに言えば以上です。
ネットの掲示板で書けるのはここまでです。
これ以上は自費出版で書きます。

また、これはpipitさんの質問に答えたものですので横から質問は遠慮ください。

 

 

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もし、歴史上の仏陀の真意を知りたいのであれば、
今まで2500年積み上げられてきた『仏教』なるものをいったん白紙にして
最古層の仏典から歴史上の仏陀を捉え直すことが必要でしょうね。

それほど、仏教なるものは仏陀の真意とかけ離れていったと思っています。
ある意味、真逆になってしまったということです。

教師に握り拳はないのです。
熱意さえあれば辿り着けると思いますよ。

 

 

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oyaさん
こんばんは。

誰にも依存せず自分で探求していく姿勢こそ道を開くものです。
仏陀がそうでした。
安易な精神は必ず誰かに依存し従属しそれをよしとします。

アインシュタイン ロマン』という番組がありました。
アインシュタインが死の直前に残した「私は神のパズルを全て解いてしまった」と書かれたメモが発見され、バレリー・デュポンという女性がその言葉の謎を解こうと旅に出ます。
そして、中国の山奥でアインシュタインと話をしたという老人を発見します。
その老人にアインシュタインの写真を見せると、老人は幼い頃、確かにその人に会った事があると答えた。
「その時彼とどんな話しをしたの?」という彼女の問いかけに、老人はおぼろげな記憶をゆっくりと辿っていった。
「そう、確か石の話しをした。」「石は何故下に落ちるのかと聞かれたような気がする。」
「重力の話しをしているに違いない。」そう思った彼女は続けて問いかけた。
「何て答えたの?」と。
すると老人はそばで遊んでいた子供を指さし、言った。「ワシの孫に聞いてくれ。」と。
「あなたに聞きたいのです。」と言うと、「誰に聞いても答えは同じだよ。」と言いながら、老人は去っていった。
 デュポンは、少年に聞いてみた。「どうして石は下に落ちるのかしら?」
 すると少年は答えた。「石が落ちたがっているからだよ。」
 「まるで石が生きているみたいね。」思わずそう言ったデュポンに、少年は「生き物だとかそうでないとかそういう区別はあまりしたことがないな。石は石でいたいから石なんだよ。」
「羊たちも山々もそうさ。」
「羊は羊でいたいから羊なんだし、山は山でいたいから山なんだよ。」と答えた。
「人はどうなの?」「人だって同じさ。」

石は石でいたいから石なんだ
山は山でいたいから山なんだ

最後にこの話をoyaさんに贈ります。

 

 

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今年いっぱいで、株式以外の掲示板はすべて消滅するのですね。
私の立てたスレッドですと
『映画についてのひとりごと』『仏教についてのひとりごと』『法律についてのひとりごと』がすべて消えるということですね。

この3つのスレッドに投稿してくださった皆さん、そして読んでくださった皆さん、ありがとうございました。

 

 

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<<大事なトピックの大事な投稿は、ブログなどに移したらどうでしょうか。まだ年末まで時間ありますし、ご検討下さい。>>

しまとりさん、ありがとうございます。

私が立てたスレッドのうち、特に『法律についてのひとりごと』は、読んで日常の金銭トラブルの解決に役立つ人がいると思いますので、そのまま残しておいてほしいとは思っています。
あれは、閲覧者の少ないサイトに書き込んでいたものですが、訪問者の少ないサイトであっても私の書き込みを見て救われたとか役に立ったといわれた人が何人もおられましたから。

今年いっぱいで消滅する『映画についてのひとりごと』『仏教についてのひとりごと』『法律についてのひとりごと』の3つのスレッドのどれも見ていただいている人がおられるようですので
しまとりさんの提案されるようにどのような形でも閲覧できるようにはしたいと思います。

ありがとうございました。

 

 

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高原へ行らっしゃい。 さん
おはようございます。

<<ショーシャンクさんには教えてもらうことばっかりで、本当に感謝しています。
ショーシャンクさんのお話を聞くのも楽しかったし、このトピは、サンガのように大切に思っていたので。ありがとうございました。>>

こちらこそ、ありがとうございました。
このスレッドの最初のころは、micとh2さんの罵詈雑言の大量投稿ばかりでしたが、高原さんのようにちゃんと聞いていただける人がおられてここまで続けることができました。
ヤフー掲示板は、悪意のあるアラシを防御することに脆弱でそのために株式版でも数多くの良質なスレッドが閉鎖に追い込まれました。
株式版で有名人と言われる人たちは全員、Twitterに移っていきました。(私のニセモノもTwitterに登場してます(笑))
そういう脆弱性は変わっていませんから、株式版がヤフーファイナンスに移行してもアラシを防ぐことはできないでしょうけど、とりあえず、株式版に新しいスレッドを立ち上げて、そちらに避難しそれでも荒らされるようであればブログに移行します。

 

 

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しまとりさん
おはようございます。

<<しかし、ショーシャンクさんの言われるように、それが釈尊の真意に叶うものだったかどうかは、よくわかりません。釈尊は、仏様のお名前をとなえる念仏や、仏界を湧現するための唱題に邁進するようにとは言われてはいないように感じます。>>

 

今までの仏教なるものを全否定して歴史上の仏陀の真意を探求してきましたが、その探求が終わって今は仏教の全肯定へと進んでいます。
仏教史全体は、絶対精神の自己展開であったと考えています。
大乗仏教は失われた仏陀の真意の復興運動であったとも考えます。

仏陀の教えの中で最も重要なのは『筏』という考えです。
仏陀の教えの核心である四諦十二縁起であっても彼岸に渡る筏にしか過ぎず
激流を超え彼岸に渡ってしまったら筏を担ぐ必要はないと言っていることです。
筏を絶対視してしまうと、moha(迷妄=痴)になってしまいます。
それが今のあらゆる宗教のありさまです。

激流を渡ることができる筏であれば、どのような筏でもいいですし
その人その人に合った筏があるはずです。
立派そうに見える筏でもすぐ沈んでしまったら何にもなりません。
要は自分に合った筏を見つければいいのだと思います。

 

 

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仏教についてのひとりごと 135

<<無我だ、無我だ、というのが好きな人は多いけれど、それは「この私」も、実体のない、儚いものと言っているわけで、自分を自ら、泡沫とか幻としてしまうのは、残念な感じもしませんか?>>
<<なんなら、特攻隊で若い命が多く失われようと、そんなの幻ならいいじゃない、となりませんか?アングリマーラが何人コロそうと、幻のようなものなら、平気となりませんか?>>

 

その通りだと思います。
非我を無我としたために、また縁起によってあらゆるものには実体がない、という思想を作り出したために、仏や如来にも実体がない、どこまでいっても実体がない、という空虚な思想に仏教は成り果てましたね。

歴史上の仏陀は、五蘊の集まりは私ではない、私のものではない、私の本体ではない、非我と説きました。
すべての人間は五蘊、つまり肉体、感覚、思考、記憶の束を『自分』『私という中心』だと思い込んでいます。
この思い込みを滅したときに、大いなる境地が『ある』のであって、仏や涅槃にも実体がないという虚無思想、空虚な思想を仏教だと思い込むのは間違いですね。
その大いなる境地に実体があるとかないとかという議論は迷妄で無意味なものなので仏陀は無記としました。
大いなる境地は、自分が五蘊の集まりである、自分という中心があるという思い込みを滅したときに実体験するものであって、観念でいくら想像してもしょせん五蘊の一つ『想』で非我なものですので、無意味なのです。

しかし、涅槃の境地は『虚妄ではない』のです。

 

 

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<<諸法無我仏陀真理の理法である三法印の一つです。無我ですから輪廻転生はありません。>>

 

あなたが挙げていたスッタニパータの言葉『この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた』と、はっきりと、仏陀は輪廻を説いていますよ。

仏陀は、無明という迷いがなくならない限り輪廻転生するといたるところで言っています。
自分も今の生で解脱するまでは、生まれ変わり苦しい生を続けてきたと言っています。

 

 

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<<しかしながら、中村元は斯様にフォローしてます。
ブッダは、あくまで現世における苦しみの超克をめざしたのであり、輪廻の主体は何であるかとか、自己の本性は有限なのか無限なのかといった実体を提示する形而上学的な思索には深い関心は払いませんでした。
インド思想・哲学の多くは、自己の実体(アートマン)の探求、霊魂の不滅性の実証といった面に関心が向かっていますが、ブッダにおいては「我無し」の価値観ですから、もともとそうしたことは、測る物差しがないのであります。したがって、ブッダは沈黙しました。>>


これに関しては、中村元の認識は違うと思いますよ。
『自己の本性は有限なのか無限なのかといった実体を提示する形而上学的な思索には深い関心は払いませんでした』ではなくて、そのような形而上学的な思索は、『厭離に赴かず、涅槃に赴かず、解脱に赴かない』から、しないように説いたとあります。
涅槃に赴く妨げになるから説かなかったと、私は考えています。

 

 

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しまとりさん
こんにちは。

<<常連さんと言うけど、ショーシャンクさんの独り言のトピックですよ。>>

 

そうなんです。このスレッドは私のひとりごとスレッドですから、常連という概念はないですね。
投稿数が多い人を常連というなら、ある時期までは、micやh2さんが投稿の半分以上を占めていました(笑)

 

<<ショーシャンクさんのご見解を無視して、常連になっていれば良いというものでもないでしょう。>>

 

これもその通りです(笑)
自分の信じるドグマや自分の悟りを開陳する場だと思っている人がいくら多くても迷惑なだけです。どの立場にもとらわれずに、歴史上の仏陀が本当に言いたかったことをパーリ語原典から解明していこうとする人がもっといるかと思いましたが無理でした。
私はもう探求は終わって、これからは瞑想の実践と原稿書きだけですので、もう誰とも論争をしたいとも思いませんのでいいのですが。

 

 

仏教についてのひとりごと 134

<<四念処が「仏教の初歩」と紹介されていたそうで>>

四念処は、相応部経典などでも、涅槃に至る一乗道とまで言われています。
また、大般涅槃経や相応部経典『念処相応』の何ヶ所かでも、四念処が自帰依法帰依(自燈明法燈明)の内容と書かれています。

四念処観がいかに重要な瞑想と考えられてきたか、それは四念処観によって諸法非我を完全に悟ることができ、涅槃に至ることができるからだと思います。


それにしても、四諦にせよ、八正道にせよ、十二縁起にせよ、四正勤、四念処観、七覚支にせよ、仏教の解説書で読んだときはどれもぐったりと死んだものだったのに、直に原始仏典で仏陀の説いたところを読むと、どれも活き活きと躍動しているように見えます。

理解が進めば進むほど、本当に凄いシステムです。

最近は、四諦八正道⇒十二縁起⇒四念処観⇒七覚支 の順で瞑想してます。

 

 

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<<第一に、散文と詩の成立時期を考えると、散文で経典が成立し、その後、音韻を踏んで詩にしませんか?!>>
<<第二に、ですから、増谷文雄は、「阿含経典」の翻訳に、「ブッダの肉声である」旨、主張したのですよ。>>
<<文字に変えただけで、変える前の経典成立時期は、ほぼ同時でしょう?!>>


上記のように書かれていましたから、一応、増谷文雄『阿含経典』(筑摩書房)を確かめてみました。増谷文雄がそんな仏教の常識と違うことを書いていたかな、と思ったからです。

確かめた結果、増谷文雄もやはり次のようなことを書いています。

①小部経典の中の『スッタニパータ』『ダンマパダ』は原初的で、有力な資料とされる。一つにはそれらが偈(韻文)を中心に成っているからだ。韻文は古形を保存するのに適している。

②『スッタニパータ』『ダンマパダ』以外で考えると、
 相応部経典⇒中部経典⇒長部経典⇒増支部経典 の順で出来たと考えられる。
 漢訳の阿含経で言えば
 雑阿含経⇒中阿含経⇒長阿含経⇒増一阿含経 の順番で、雑阿含経が一番古い。

③増一阿含経は、最も遅く出来た経典で、大衆部の所属と想定され大乗仏教の影響がみられる。

④遅く成立した経典になればなるほど、変化、増大、付加、再編集が行われていると想定される。

⑤故に、雑阿含経より中阿含経、中阿含経より長阿含経、長阿含経より増一阿含経の方が、変化や付加が多大になっている。

⑥しかし、古層である雑阿含経でも、成立時期はバラバラであり、変化、付加が大きいものもある。


以上のように、増谷文雄も仏教の常識を書いていますね。

 

 

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それは、中国浄土宗の善導の言った言葉ですよ。
善導の言葉を法然が書き記したものです。

親鸞は、龍樹・世親・曇鸞道綽・善導・源信法然浄土教の7高僧と言いましたが
その中の一人です。

法然は、善導の『観経疏』の一節に出会って、口称念仏によって凡夫もすべて救われるということを確信し立宗しました。
法然は『偏依善導』、親鸞は『善導独明仏正意』というくらい心酔していました。

sanさんの書いている通り、善導は自殺します。

法然の最期は静かな往生でした。
また、法然は、衆生には限りなく優しい人でしたが、芯は強く信念の人でした。
修行時代は師匠にもズケズケ言って師匠からボコボコに殴られるようなこともあったくらい曲げない人でしたよ。
間違っても、弱々しい人ではありません。


私は歴史の評価では、親鸞道元は過大評価、法然栄西は過小評価されすぎていると思っているので
一応、法然の名誉のために。

 

 

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<<ということで、釈尊が発見された「此縁性の縁起」を身心において深めたいと、志を新たにしています。>>

それはそれで素晴らしいことではないでしょうか。
人間は自分が信じる道を行くのが一番ですし、そもそも自分が信じたいものしか信じないのが人間です。

私も、歴史上の仏陀が言おうとしたことがはっきりとわかるようになってきました。
そして、それは驚くほど、今の日本仏教というものとは真逆なものでした。

龍樹の解釈した【縁起】
これから、今の日本仏教が形作られてきました・・・
そう、瀬戸内寂聴などほとんどの僧侶が説法している、
『私たちは他のすべての存在に縁って生かされているの。だって、そうでしょ。食べている米も農家の人が作ったもの、着ている服もその素材を作った人がいる。それには空気も水もいる。人は自分一人では生きていけないの。周囲のものに生かされているのよ。それが縁起。縁起だから自分なんてないの。』
これが仏教の真髄とされていますね。

あなたもそこを極めようとされているのでしょう。
それはそれでいいと思います。

ただ、私は、歴史上の仏陀の言葉を追いかけていったために、仏陀の言った『苦』『激流』の本当の意味が頭でなく実感としてわかってきました。すべての人間は激流に押し流され、苦の集積へと向かっているのですが、それに全く気がついていない。その凄まじさを知ると日本の仏教者が語る悟りすましたような言葉の羅列では何の力もないように思えてきました。

私はそれをこの掲示板で語ろうとは思いません。
人間は信じたいものしか信じないものだからです。

あなたもつつがなくお過ごしください。

 

 

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oyaさん、こんばんは。

その通りですね。
その僧侶は偉いですね。
その僧侶が「そこで初めて気がつきましたね 仏教に関わる者として言葉で理解して説教もしていましたが 実はその真髄は体得できていなかったことを」と言う前は
他の僧侶と同じく、悟りすましたような観念論ばかり言っていたと思います。
言葉では、そして文章では、何とでも悟りすましたことは言えるのです。
はっきり言って、仏教は、そのような悟りすましたものたちの空虚な言葉で満ちています。

誰でも、悟りすました言葉などいくらでも言えるのです。
実際に、現実生活に対処できるのか、です。
今の私には、今までの仏教というものは馬鹿馬鹿しすぎて仕方ないです。
『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候』と、自分が、そして自分が最も大切に思う人が災害に遭ったとき、死ぬような病に冒されているときに本当に言えるかどうか、です。
最近は特に地震が頻発しています。そのような災害に遭った方にそんなことが言えるのか、です。
自分の最愛の人が苦しんでいるのに『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候』と言えたとしたら最悪の人格ですし、言えなかったとしたら嘘つきです。
日本人は有名人の権威に騙されすぎですね。
例え、宗祖であっても、歴史上の偉人であっても、権威づけられずにその真実を求めることが大切でしょうね。

 

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1828年の新潟三条の大地震で子どもを亡くした俳人・山田杜皐にあてた良寛の手紙の全文はこうです。

地震は信に大変に候。野僧草庵は何事もなく、親類中死人もなくめでたく存じ候
   うちつけにしなばしなずてながらへてかゝるうきめを見るがはびしさ
 しかし災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候
 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候 かしこ』

地震は大変だ、でも自分の草庵は何事もなく自分の親類はみんな無事でめでたいことだ。・・
と書いた後、地震で子供を亡くした人に『災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 』とあります。

もし、最愛の貞心尼が死の病で苦しんでいるところでも、『災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 』と貞心尼に向かって悟りすましたことを言えるかどうかです。
一生懸命看病して全快を願うでしょう。
『災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 』などというものは自分の心に刻み付けておけばいいのであって、地震で最愛の子供を亡くした人に向かって言う言葉ではありませんね。

 

 

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こんにちは。
自分が実行できないことは他人に言うべきではないと思っていますよ。
宗教家の最も悪いところは、自分ができもしないことを悟りすまして
他人に説教することが非常に多いことです。
信者からの布施で生きているのですから、宗教家は、ここは真摯にならなければいけないでしょうね。

山田杜皐は酒屋ですね。そして、夕方になると酒をもらいに良寛が現れるので、良寛を蛍と言ってたのですよね。
つまり布施をする信者と宗教家の関係です。
夕方になると酒をもらいに来るということでわずらわしいということも少しは感じていたようで、わずらわしいと思っていたけど来なくなると寂しいものだ、というような歌も残っています。

信者から布施をもらって生きている宗教家が、信者に『災難に遭うときは遭うがいい。死ぬときは死ぬがいい。』と言うときは、自分自身が同じ境遇になったときにそう思えると確信や覚悟がないと言ってはいけないと思っています。
もし、最愛の子供が地震で亡くなった人に『災難に遭うときは遭うがいい。死ぬときは死ぬがいい。』というのであれば、少なくとも、自分自身の最愛の人、良寛なら貞心尼でしょうけど、その人が重病や亡くなったときでもそう思える覚悟が必要ということです。

もっと根本的なことを言えば、禅の場合、『病気になっても日々是好日』というような善悪の二元対立を超越する志向がありますから、『すべての人が現象的にもよくなってほしい』という慈悲の心がおろそかになっていることがあり、その部分が弱点のような気はします。

 

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そうですね。
悟りすましたような説教をする宗教家が多すぎますね。
悟り目線での説教より
『ひでりのときはなみだをながし さむさのなつはオロオロあるき』のように役には立たなくてもみんなの苦しみを感じてくれる人の方がいいですね。

 

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まあ、好みの問題でしょうね(笑)

悟り目線で『干ばつや冷夏で作物ができなくてもどうってこたあない。起きたことは仕方ないじゃん。受け入れなさい。』と言われるのが好きか
役立たずでボーとした男がいっしょにオロオロしてくれるのが好きか、
究極の選択ですね(笑)

 

 

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もうこの問題も何度もあなたから質問されてはっきりと答えています。
このような繰り返しは時間がもったいないので、今度からは
『すでにはっきりと答えています。過去投稿を読んでください。』とだけ言うことにします。

私はあなたの考えを変えたいというような気は全くなく、あなたはあなたなりの考えで自分のスレッドに書き込んでいたらいいではないですか。
本当に煩わしい限りですが、もう一度だけ書きましょう。

私は、今までの仏教解釈は仏陀の真意からかけ離れていると思っています。
どのような仏教学者も歴史上の仏陀の真意を把握してない、というところから出発しています。
ですから、中村元も思想家ではなく、優れたパーリ語の翻訳家として見ています。
中村元を教祖とする宗教に入っているわけではありませんから、中村元がどのような思想を持っていても何の興味もありません。イスラム教徒でも問題ないですよ、パーリ語を的確に訳してくれれば。

一番いいのは、自分がパーリ語で原始仏典を解読すればいいのですが、人生が3回あっても時間が足らないでしょうね。
ですから日本語訳を読んで、気になるところをパーリ語で確認するということをしています。
中村元パーリ語の翻訳は他の人よりずっと優れていますが、私から見てこの訳は違うという箇所もいくつもあって鵜呑みにしているわけではありません。

誰かが挙げていた
『この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、行き着く先は無明にのみ存する。この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることはない。』――スッタニパータ
の言葉で、歴史上の仏陀が輪廻転生に関してどう見ていたかははっきりとわかりませんか?
この言葉を見て、「釈尊は輪廻転生を否定した」と考える人もいるようですから、人それぞれです。
そして、そう思いたい人はそう思っていればいいと思いますよ。
それを変えたいとは全く思いませんね。
人間は信じたいものだけを信じますからね。

 

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仏教についてのひとりごと 133

相応部経典第2集因縁篇 第7篇 ラーフラの集成 第1節 眼

ラーフラよ、あなたはこれをどう思うか。眼は常住であるか、無常であるか。』
『師よ、無常です。』
『では、無常であるものは苦であるか、楽であるか。』
『師よ、苦です。』
『では、無常であり、苦であり、変易するものを、「これはわたしのものである。これはわたしである。これはわたしの我である。」と見なすことは適切であるか。』
『師よ、そうではありません。』


眼に限らず、この定型文は原始仏典に非常に多く出てきます。

『無常であり、苦であるものを、わたしのもの、わたし、わたしの本体と見なしていいであろうか。』という文です。

この文章を見ると、どう見ても、無常・苦・非我 ですね。

私が、仏陀の真意は諸法無我でなく、諸法非我というのは、このような典拠からです。

 

 

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赤い実さん、こんにちは。

そうですね。
何度も同じ質問や投稿をしてくる人も多く、うんざりなところはあります。
自分の質問には答えろとしつこく言うのに、私の質問には全く答えない人も数多いです。


投稿者には少ないのですが、ロム専門の人に真摯な人たちがいるだろうなとは感じています。
こころない投稿者のせいでやめてしまうと、そのような人に悪いような気がしてます。

ただ、時間は貴重ですから、feel goodな投稿にだけ厳選してレスするようにします。

ありがとうございます。

 

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リッチポンタさん、おはようございます。

心配しておりました。
先月は入退院されていたのですね。大変でしたね。もう大丈夫でしょうか。

【私という中心がない】ということでは、無我でも非我でもいいのですが
仏陀が古層の仏典で盛んに言っていることが『自己を確立すること』であり
身体も心もすべて自分ではないと否定していく四念処観を一乗道とまで言っていること、
そして何より、仏教では【無我】としたために、仏、如来にも涅槃にも実体がないというようなところにまで曲がりくねってしまったこと、から、やはり仏陀の真意通り非我としたほうがいいと思っています。

たぶん、これから、仏陀を仏教の開祖ではなく、今まで作り上げられた仏教に捉われず人類最大の教師として探求していく潮流が出てくるとは思います。
それが数年後か100年後かはわかりませんが。

 

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<<第一結集で確定した言葉を絶対視してしまうとすれば、それはいつも観念に対して批判的なショーシャンクさん自身の考えとも矛盾することになると思います>>

あなたは私の『第一結集で直弟子500人が確認した言葉かどうかは決定的なのです。』という言葉を取り上げて上記のように言いますが、この言葉はsanさんの投稿に対しての回答です。
ここに投稿してくる人は、最初からの流れも見ずに、誰かの質問に対する私の回答の言葉の一部を切り取って、横からそれについて質問してくるので、非常に困ります。

例えば、この『第一結集で直弟子500人が確認した言葉かどうかは決定的なのです』という言葉は、sanさんの『原始仏典と言っても大乗仏典と言っても、釈尊が死んでから何百年も経ってから文字にしたものなので、どれが釈尊が言ったことかなどわからない。』というような暴論に対しての回答です。

仏陀の死後直後に500人の直弟子で歴史上の仏陀の教えを確認し合ったのが第一結集であり、
第一結集で確認した言葉と後世に釈尊の言葉を聞いたことのないものが勝手に作り上げたものを『どちらも釈尊の死後何百年か経って文字にされたからどちらが釈尊の声だとは断定できない』などという無茶苦茶な論理に対する回答なのです。

その言葉だけを切り取って、『絶対視』していると言われてもそれも違います。
何度も言っているように、今は、歴史上の仏陀が何を言ったのかを探求しているのであって、
仏陀が言ったから正しい、仏陀が言わなかったから正しくない、ということを言っているのではありません。
これも何度も書きましたが、大乗仏教の人にはどうしてもわからないようです。

 

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<<「それは釈尊が言ったことではない」と言えるためには、「古層の仏典」の中に、釈尊が仰ったことの全てが、釈尊の意図通りに書かれているという前提がなければならないからです>>

 

仏陀の死後直後に、いつも傍にいたアーナンダをはじめ、直弟子500人が自分の耳で聞いた仏陀の肉声を間違いがないか徹底的に確かめていったのが第一結集です。
それを早い段階で文字にしたのが古層の原始仏典です。
大乗仏典は第一結集とか関係なく後世に創作されたものです。
原始仏典でも古層になればなるほど後世の夾雑物が少なくなり釈尊の肉声に近いものであるのは事実です。


<<『この法を説いても誰も理解できないだろう』と釈尊は思われたのだから、釈尊は「言葉」では伝えがたい法を伝えようとされたのでしょう。>>

 

成道のとき、なぜ釈尊は『この法を説いても誰も理解できないだろう』と思ったか、本当に知っていますか?
まずはそれから知ってください。
そして、梵天の勧めによってなぜ説こうと決意したのか、それも調べてから投稿してください。

今までは、全部それを自分で説明していっていたので、時間が膨大にかかってしまった。どうか、ちゃんと調べてから投稿してください。
あなたのいうように『「言葉」では伝えがたい』から説くのをやめようとしたのであれば、梵天の勧請があっても変わりませんよね。
言葉で伝えられないと思ったので説くのをやめようと思ったのであれば、なぜ、言葉で説いたのでしょう。

 

 

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<<ところで、ショーシャンクさんは大乗仏教の素晴らしさはわかっていると仰りながら、いつもこのように大乗仏教について否定的なこと、揶揄するようなことを書かずにはいられないようです。>>

 

私は、『大乗仏教』でなく『大乗仏典』は素晴らしい、と書いているはずです。
大乗仏典は、非常に意識の高い人が創作した芸術作品だと思っています。
バッハやマーラーモーツァルトの音楽のようなものです。
モーツァルトの音楽をいくら聴いても悟りには達しないでしょうけど
しかし、意識が拡がった状態でモーツァルトの音楽を聴けばその本当の良さがわかるでしょう。
そのようなものだと思います。
白隠も若いころ法華経を『こんなたとえ話ばかりのもの』と捨ててしまいましたが
悟った後に何気に法華経を読んでいたところ号泣したと言います。


仏陀が目覚めを体験したあと(悟った後)、なぜ十二縁起をひたすら瞑想しなければならなかったのか、です。
これは仏教学者の間でも謎とされてました。
仏陀は何を悟ったのか、悟った後にもかかわらず十二縁起を瞑想する必要は何か、ということはわからなかったのです。

人それぞれ、自分に合った筏があるでしょうね。
あなたもお元気で大乗仏教の道を進んでください。

 

 

 

 

仏教についてのひとりごと 132

仏陀が説いたことは非常に明快です。

人間は五蘊を我と思い、迷いの自我観念、行為の中心者、を形成している。
死んだ後は、善なる行為をしたものは天界に行き悪い行為ばかりしたものは地獄などの悪い境涯に行く。
また、再びこの世に戻ってくる。(輪廻転生)
しかし、迷いの自我観念から解脱したものは『この世とかの世をともに捨て去る。』『滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。』『生存の矢を断ち切って、これが最後の身体である。』『もはや家屋を作ることはない。』  

ゆえに、『ある人々は人の胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に落ち、行いの良い人々は天におもむき、汚れのない人々は全きnibbana(安らぎ・涅槃)に入る。』と説いたのです。


仏陀は迷いの自我が死後、天や地獄に行き、輪廻転生すると説いており
それから解脱したら、死後の世界に行くことも輪廻転生もないと考えていました。

その迷いの自我を霊魂と名付けることもありませんでした。
あくまでも迷いにしか過ぎませんから、迷いがなくなれば消滅するもので
霊魂という言葉からイメージするような不変の個性や永久な実体では全くありません。
しかし、解脱するまでは輪廻してますから、解脱してない者が死んだら何もなくなるわけではなく、ゆえに、死んだら何もない『断見』も霊魂が永久に存続する『常見』も間違いなのです。

仏陀が説いていることは非常に明快なのに、仏教なるものが分かれに分かれ混乱を極めているということです。

 

 

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<<『滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。』は理解できますが、無意味かもしれませんが、仏陀は悟った時から身心は安らぎの涅槃の世界だったと思われます、私は仏陀は六道に生じない生死を超えた常住の世界だと思っていますが、姿を隠した仏陀は涅槃といわれても、 ショーシャンクさんは、永久に消えてしまったのか? 或いは行方不明?  或いは自身の本地に帰った。 いかがですか?>>

 

中心が消滅したら無量になるしかないでしょう。
仮想された中心こそが無量であることを阻害してますから。
大乗仏典は無量のものを説き明かそうとしたものでしょうね。

 

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sabbe dhamma anatta
一切の事物は我(われ)ならざるものである。=諸法非我

これがパーリ聖典にあらわれる古い思想である。

ところがのちには「一切の事物は恒存する実体を持たない」=諸法無我
と解釈するようになった。
                            (中村元


anatta を パーリ語佛教辞典で見ると【無我 非有我 非我】の3つが挙げられています。

また、漢訳でも
【色無常。無常即苦。苦即非我。非我者亦非我所。】(大正・2・p・2a)
とあるようです。(雲井 パーリ語佛教辞典より)

 

 

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『スッタニパータのこの一連の詩句からみると、世俗の生活のままでニルヴァーナに達しうると考えていたことがわかる』(岩波書店 中村元ブッダのことば」より)

 

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宮崎哲弥
『では大乗の修行によって悟った者がどれほどいるか、というと疑問ですね。
宮元啓一氏が「大乗仏教の徒で、自他ともに仏となった、涅槃に入ったと認める人が、長い歴史のなかではたして登場したであろうか。答えは、まったく否なのである」と喝破している通りなのです。』

佐々木閑宮崎哲弥  『ごまかさない仏教』より)

この宮崎哲弥という人は、大乗仏教の祖である龍樹に心酔していて、自ら中観派と名乗っています。

私は、大乗仏教でも例えば臨済のように悟った人は多くいたと思っていますが
大乗仏教の人である宮崎哲弥は上記のように断言していますね。

 

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<<有難いですね。 仏陀は在家では涅槃に至れないとは言われない。 女性蔑視の言葉がありますが、これに関しての見解はいかがでしょいうか?>>

①歴史上の仏陀が女性蔑視の言葉を言ったという事実はありません。もしあるというなら、きちんと典拠を示してください。

②あなたは仏教徒ですよね?根本的なことを聞きますが、仏教徒であるものが、歴史上の仏陀を女性蔑視と糾弾するのですか?本当にそう思っているのであれば仏教徒などやめればいいではないですか?それとも、あなたの信じる久遠実成の釈尊と歴史上の仏陀は全く違うと思っているのですか?


ちなみに、宮崎哲弥は本人も仏教が本職だというくらい、仏教に詳しいですよ。
生半可な仏教学者顔負けです。本を読んだこともないのに、「評論家で少し仏教を勉強したくらい」と決めつけるのは肩書で相手を見ているだけで情けない態度ですね。
東大教授が書いたから正しいわけではなく、要は内容なのです。

 

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「増一阿含経」は、かなりの部分、後世の創作物、夾雑物が入ったものがあります。
古層のものが少ない印象です。
パーリ語仏典『増支部経典』に典拠しないものも多くあります。
仏陀の在世中にはなかった仏像の記載があるのも「増一阿含経」です。

あなたが挙げた文章は、パーリ語の増支部経典の典拠はありますか?
私の方でも調べてみますが、もしパーリ語原典がないのであれば、後世付け加えられたものだと考えます。

それと②なのですが、もし、歴史上の仏陀がそのような女性蔑視の発言をしたとして、仏教徒であるあなたがそれを嬉々として糾弾するのは、仏教徒としておかしくないですか?
あなたは歴史上の仏陀女性差別者として見ることができるのですか?

 

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<<ならばなぜ、臨済の「狗子に還って仏性有りや無しや」(答えが無とする)ことは一切衆生悉有仏性を理解していないからですよね。 実体がないから無としたのかどうかは、知りませんが?  そこから答えがいくつもある、どうでも良い、公案なるもので、遊んでいる。 如何ですか?>>

あなたが禅について評価してないのはわかりましたが、禅の門外漢である私に聞かれても困ります。
ただ、大乗仏教の中でも、意識の高い人や優れた人はいると思っています。

しかし、原始仏典を見ると、非常に多くの人が涅槃に達しています。
仏陀が『矢を抜く最上の人』であったことは確かです。
それがどうしてかを探求してます。

もういいではないですか?
私は、歴史上の仏陀が本当は何を言ったのかを探求しているだけです。
大乗仏教小乗仏教 というような枠組みもどうでもいいのです。
私は、大乗仏教を捨てて小乗仏教のドグマに入ろうとしているわけではなく、
小乗大乗を問わず仏教なるものの知識をいったん白紙にして、最古層の仏典・・つまり仏陀の肉声に近いものから、仏陀が本当は何を言いたかったかを探求しているだけですから。

私は、仏教成立の最初期から仏教なるものは仏陀の教えとは離れていったと思っていますから。

これ以上、こんな掲示板で言っても無駄なことです。

自分のドグマに凝り固まった人たちが大勢やってきて、自説を滔滔と述べるだけがこれからも続くでしょうから、もううんざりなのです。

 

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仏教についてのひとりごと 131

あくまでも、私が勝手に考えていることですが、
仏教が成立した最初期から仏教は仏陀の真意とは違う方向に行ってしまったと考えています。

仏陀は、正しいもの、善なるものを求めて修行し目覚めたのであって
決して仏教なるものをつくろうとか、自分が説いた教えがそれまでの考えを否定する独自のものだとか、思ってもいませんでした。
仏陀は、無常であり苦であるものを我、我が物、わが本体としてはいけないとして、五蘊非我を説き、五蘊を離れた本当の自己の確立、本当の主体の確立を説いたのですが、
弟子たちは、我に非ずを、我(アートマン)などはないと解釈してしまいました。
仏教が最勝最高の教えであり他の教えは外道としてすべて間違っていると強調していったこともあり、諸法無我バラモン教アートマン思想を徹底的に全否定する旗印となりました。

諸法無我といい、自己がない、アートマンがないなら、行為の結果は誰が受け取るのだ?善因善果悪因悪果ではないのか?輪廻する主体は何だ?と
他の宗教から総攻撃されます。

その苦し紛れの回答として、部派仏教の正量部は『非即非離蘊の我』を、説一切有部は『刹那滅の心の相続』という理論を、経量部は『相続転変差別』という理論を考え出します。

要は、一瞬一瞬滅しては次の瞬間同じようなものが生じる、という理論です。
連続しているとも言えないし、非連続とも言えない、だから、連続した主体など無いのだ、という何とも苦しい理論です。

こういう論戦も部派や他宗教との間で盛んになったこともあり、部派仏教は非常に煩瑣な教学に没頭するようになりました。
バラモン教と全く違う宗教だと強調するために、諸法無我はますます強調されていきました。

こうした中、大乗仏教は、部派仏教のアンチテーゼ、批判勢力として、失われた主体の復興運動、出家至上から在家仏教運動、煩瑣な哲学への批判運動として興ったと私は思っています。

 

 

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大乗仏典は、それまで見失われていた『大いなるもの』『無量のもの』そして絶対の主体を讃歌するもので、芸術的にも素晴らしいものです。

しかし、大乗仏典は第一結集で確定した仏陀の教えではなく、後世の人が創作したものでしたので、当然、今までの仏教からは『それは仏陀の教えではない』『非仏説だ』と非難轟々でした。

そのままでは、大乗仏教は広まらなかったと思います。
『それは仏陀の教えではない』と言われるとその通りでどうしようもなかったからです。

そこに出現したのが龍樹です。

龍樹は、『それは仏陀の言葉ではない』と非難する説一切有部などの部派仏教に対し、
『言葉で表すのは世俗諦、真諦は言葉という仮説を超えたところにある』として
言い負かしていきました。

仏陀の本当の言葉かそうでないかの論戦であれば勝ち目はなかったところ、言葉自体が相対的なもの、縁起(笑)によって『長いもの』という言葉は『短いもの』という言葉と相依しているので実体がない、と否定することにより、違う土俵を作った頭の良さで論破していったのです。

これで、大乗仏教は興隆しました。
龍樹が大乗仏教の祖とされるのは小乗仏教を言い負かしていったからです。

しかし、大乗仏教は、龍樹のせいで、悪い方向に行ったと私は見てます。

縁起という言葉から無我を導き出して、大乗仏教でも無我を確定させ、主体の回復が台無しになったこと。
煩瑣なアビダルマ哲学のアンチテーゼとして生まれたはずの大乗仏教を結局煩瑣な哲学体系にしてしまったこと。


いずれにせよ、このように仏教自体、『無我』=自己がない、アートマンがない、霊魂がない、主体がない、実体がない、というように進んできたものですから
浄土真宗の各派も、『無我なので死後の世界も輪廻転生もない』としているのです。
特に親鸞は龍樹の影響を強く受けていますから浄土真宗はそうしているのでしょうね。

仏陀は、死後の世界も輪廻も説いてますから、それを否定するのはおかしいのですが
今の仏教は仏陀の真意とはかけ離れているという証左ではあります。

 

 

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<<普通は不連続の連続で良いと思うね 心は絶えず縁により変化する。>>

 

心は五蘊ですよ。
五蘊は無常で、非我です。
心が変化するなんて当たり前です。

あなたは心が不連続の連続の我だとでも思っているのですか?

そこから違うのです。

仏陀は、身心は五蘊五蘊は無常、苦、非我だと言っているのですよ。

 

 

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sabbe dhamma anatta を否定などしてませんよ。

sabbe dhamma anatta は最初期の仏教では諸法非我という意味であったと言っているだけですよ。

なぜなら、仏陀は、『無常で苦であるものを、我、我が物、わが本体とみなしていいであろうか。』と繰り返し説いており、これが仏陀の根本だからです。
この言葉からすると、無常で苦なるものは非我と説いていることは明確ですね。
違いますか?

 

 

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<<大谷派東本願寺***輪廻転生を肯定してません(死後、否定)
(西)本願寺派***仏教の無我説を支持しており、死後も輪廻転生も認めません。
両派とも死後を認めてませんが、それであれば、両派のバイブルとも言える無量寿経のこの記述は整合性を欠きますが?なぜ、こういうことが起きているのでしょうか?
そして、こうして地獄の説明も無量寿経にあるのに、なぜ、親鸞はすべての人の極楽往生を約束できたのでしょうか?>>

 

そうですね。
これは仏教の根本にかかわる大問題です。
仏教は混乱しているのです。
そして、その混乱は仏教が成立した最初期から存在しどんどん大きくなっていった感じです。

高原さんが問われた、この質問は、答えるにはなんとも複雑な原因が入り交じっていますので
少しまとめてから答えさせてください。

キーワードは『無我』です。
この『無我』をめぐって、仏教は混乱を極めていきます。

また、キリスト教における『聖書』が仏教にはないのです。
『般若心経』『法華経』『大無量寿経』『大日経』『華厳経』または原始仏典
宗派によって聖典が全く違います。

仏教で最も重要なものは仏法僧の三宝ですが
帰依仏の仏も、宗派によって全く違います。
帰依法の法も、宗派によって全く違います。
帰依僧に関しては、本来はサンガ(修行者集団)のことです。

 

<<こうして地獄の説明も無量寿経にあるのに、なぜ、親鸞はすべての人の極楽往生を約束できたのでしょうか?>>

 

無量寿経四十八願、特に第十八願からでしょうけど、経典には『唯除五逆誹謗正法』とありますから、この文を排除するために相当苦労したようです。

恵信尼消息を調べても、実際、親鸞その人が救われて本当に大往生したのかは疑問には思っています。

また、週末でも時間があるときに答えたいと思います。

 

 

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高原さんの質問に回答したのです。

最近、うんざりするのは、誰かの真摯な質問には答えようと思うのですが
その人の質問に答えると、他の人から質問攻めに遭ってしまって
それも繰り返し前に答えた同じ質問なので、時間を浪費してしまうことです。

あなたは、私が『諸法非我』だと書いたら必ず同じ質問をしてきますね。
何度も答えてきたことをまた回答しなくてはいけないのですか?

私はあなたがたが『仏教は諸法無我だ』というのは構わないのです。
その解釈でずっとおられればいいと思いますし、それを変えてやろうという気は全くないのです。

今回書いたのは、『無我』をめぐって仏教が混乱して、仏陀が説いた輪廻も死後の世界も否定する僧侶が増えているということです。その歴史的な経緯です。

『無常で苦であるものを、我、我が物、わが本体とみなしていいであろうか。』は、原始仏典では本当に頻繁に出てくる言葉です。
ですから、非常に根本的な重要な教えであるのです。
『無常で苦であるものを、我、我が物、わが本体とみなしていいであろうか。』という言葉を見ると、どう見ても、無常・苦・非我ですよね?

しかし、どう典拠を示して説明しても、今まで2500年にわたって仏教とはこうだと思ってきたのですから、虚しいだけです。
ですから、もうあまり説明したいとも思わないのです。
ただ、真摯な人が質問してきたときはなるべく答えたいのですが、このように横から前に受けた質問ばかりしてきますので、今度からは過去投稿を読んでくださいというしかないですね。

 

 

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<<そうなると、第一結集で無我は真理だと説かれた教えは間違いであるという解釈ですね。 常住不変の霊魂があるという解釈なのですか?>>

これも過去に何度も説明してきました。
これでその質問は最後にしてください。

第一結集ではsabbe dhamma anattaです。これは、『すべての事象はわたしではない』というのが最初期の原始仏教だということです。

<<常住不変の霊魂があるという解釈なのですか?>>
仏陀は、霊魂が死後存続するかどうかは無記としました。
あると断定するのも、ないと断定するのも、どちらも間違いです。

<<久遠実成教主は、法ですから私たちが眼にみるような実体は有るものではなく、無いものでもないという事になる>>

何を言ってるのですか?実体とは眼に見えるものという意味ではありませんよ。
久遠に存続するものということです。
久遠実成の釈迦如来は久遠に存続するのではないですか?

しかし、龍樹は如来にも実体がないと言ってますよね?
それはどうなのですか?

 

 

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<<浄土真宗がお浄土というものを信じ、輪廻はない、と言っているのと、「信仰である」点において変わらなくないですか。>>

浄土というのは死後に行くところと浄土系の経典ではなってますよね。
浄土真宗はその浄土系の経典を所依の経典としていますよね。
そして葬式もしてます。
その浄土真宗の僧が死後の世界を否定するというのは、自らの信仰を否定することではないですか?

 

~~~~~~

 

<<「死後のことなど誰にもわからない」というのが、真実なんじゃないか>>

そうでしょうね。
ただ、特に浄土教は、この世を穢土として、死後に浄土に生まれることを教えの根幹としてきました。
源信も死後の世界のことを細かに描いてますよね。
それが浄土教です。
死後の世界が大前提の浄土教という宗教において、その僧侶が死後の世界を否定したとすれば、それはおかしいとは思います。

 

 

~~~~~~

 

死後の世界があるか、ないか、を論じているのではありません。
それは証明できないことです。

私は、仏陀が言ったことと、仏教が違って行ったということを言っているだけです。

 

~~~~~~

 

<<仏陀は、死後の世界も輪廻も説いてますから、それを否定するのはおかしいのですが
今の仏教は仏陀の真意とはかけ離れているという証左ではあります。>>

赤い実さんは上記の私の言葉に関して聞かれましたよね。
<<浄土真宗がお浄土というものを信じ、輪廻はない、と言っているのと、「信仰である」点において変わらなくないですか。>>と。

仏教は仏陀の教えだというのが建前だと思いますが、仏教である浄土真宗は、もし仏陀が死後の世界も輪廻も説いているのだとしたら、それを否定しているのはおかしいと書いたのです。

浄土真宗仏陀の教えでなく、親鸞の教えだというのであれば何も言いません。

ただ、仏教と名乗っているところも仏陀の言っていることとはかけ離れてしまったことを指摘したのです。

 

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もう頼みますから、投稿するのであれば、ちゃんと最初からのやり取りを読んでからにしてください。

高原さんの
浄土真宗も宗教である限り、「死後」の質問は多いと見え、ここに限らず、どこの宗派でも公式の見解としてホームページに記載があります。
谷派東本願寺***輪廻転生を肯定してません(死後、否定)
(西)本願寺派***仏教の無我説を支持しており、死後も輪廻転生も認めません。
両派とも死後を認めてませんが、それであれば、両派のバイブルとも言える無量寿経のこの記述は整合性を欠きますが?
なぜ、こういうことが起きているのでしょうか?
そして、こうして地獄の説明も無量寿経にあるのに、なぜ、親鸞はすべての人の極楽往生を約束できたのでしょうか?】
この質問に答える形で私は回答したのです。

この質問において、浄土真宗は「仏教の無我説を支持しており、死後も輪廻転生も認めません。」とホームページに書いてあるということから、それに対しての回答です。

 

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<<あくまで私にとってはですが、区分などどうでもいいです。>>

私も本当にどうでもいいのです。
信じたいものを信じればいいと思いますし、仏教でもそうでなくてもどうでもいいのです。

仏教は仏陀が言ったこととかけ離れてしまったということを説明しただけですよ。

それだけなのですけどね。

 

~~~~~~

 

 

 

 

 

仏教についてのひとりごと 130

これらの解釈が全くの間違いであることは、前に指摘しましたよね。あなたは何も答えることができませんでしたよね。
これはたしか竹村とかいう学者か誰かの本のコピペですよね?
学者の本をコピペばかりしてないで自分の頭で徹底的に考え、自分で探求しようとしなさい。
龍樹もどきの教理で歴史上の仏陀の言葉を解釈するのはやめなさい。

 

<<「罪過なし×罪過あり」「清浄である×不浄である」といった分別の矛盾を見破り、その両極の実体を捨てられるべきだという>>
<<浄と穢の中で遊ぶところに、二元対立を越えた涅槃があるいうのである>>

 

あなたは一つの文の一部分だけを切り取って、二元対立の超越だとか、相対矛盾の克服だとかに無理やり持って行っているだけです。
逆に言うと、龍樹もどきの不二中道を証明するためだけにスッタニパータの文章を切り貼りして利用しているだけです。
求道者の態度ではない。

もし、あなたが引用するスッタニパータ900の文章の仏陀の真意を知りたいのなら、895~914を通して読まなければ絶対にわかりません。

仏陀は『浄と穢の中で遊ぶ』とか、『浄は内、穢も内』とか言っているわけではない。

仏陀は『他人に導かれてはいけない』ということを言っているのです。
『制戒によって清浄が得られる』と説かれていてそれに従って誓戒を受けている人は、罪過がなく清浄であることを願って誓戒を守っているが、しかし、誓戒を破ったなら罪過がある、不浄である、とおそれおののいている。
このようなことは妄執なので、そこから離れなさい、と説かれているのです。

あなたの解釈がいかに見当はずれのトンデモ解説か、です。
たぶん、これは大乗仏教の仏教学者の本からのコピペではないですか?
仏陀の言葉を大乗仏教の色眼鏡でみると全く間違えますよ。

 

 

~~~~~~

 

 

<<善悪を捨て去れという。善悪と二元対立の相対矛盾を自覚し、善悪ともに実体ない(無我)なることを知れということだろう。そこにおいてどうなるか。常識的な善にも悪にも固執せず、善と悪の中を自在に遊ぶことができる。そこにおいて、悪人として虐げられている人を排除しない、仏の大悲も発動するのかもしれない。>>

これも前に指摘しましたよね?
これはスッタニパータ200でなく520ですよ。
これもあなたは、520の文の中の『善悪を捨て去り』だけを切り取って、鬼の首を取ったように【二元対立の相対矛盾の超越】という結論にしたいようです。
しかし、この文章は、518~522で一つの内容になっています。

518で遍歴の行者サビヤが『何を得た人をバラモンと呼ぶのですか?』と聞きます。
519では『一切の悪を斥け、汚れなく』
521では『一切の罪悪を洗い落とし』
522では『いかなる罪悪をもつくらず』
と徹底的に、悪、罪悪の消滅を説いています。

あなたはこれらの多くを占める文言をわざと無視して、【二元対立の相対矛盾の超越】という結論になるような言葉を切り取って披露しているだけです。

 

 

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歴史上の仏陀の言葉がどうやって伝えられてきたか、を知れば
最古層の仏典も遙か後世に創作された大乗仏典も、どちらも同じくらいに仏陀の言葉そのものや後世の夾雑物で出来ているのでどちらが仏陀の言葉でどちらが仏陀の真意じゃないとは言えない、などと言えるでしょうか。

仏陀の言葉は、仏陀の死後直後(2,3ヶ月後)には第一結集が開かれ
仏陀の直接の説法をその耳で聞いた直弟子500人が仏陀の生前の言葉を確認し合いました。
第一結集で確認した仏陀の言葉をサンガで膨大な数の弟子が毎日毎時間毎瞬繰り返し繰り返し反復確認したのです。
仏陀の説いた真理を記憶し記憶を反復することが最も重大な修行であったからです。
念=satiテーラワーダ協会では『気づき』と訳していますが
本来は『記憶』のことです。
記憶した真理を意識的に反復すること、これがsatiであり、正念でした。

インド人は記憶力が抜群だと言われていますが、その中でも相当高いレベルの記憶力の人たちがサンガには非常に数多く集まり、毎日毎時間毎瞬、確認しあっていました。

私の解釈ですが
三宝(仏法僧)の
帰依仏とは、釈尊が涅槃に至る教えを説いたということに絶対の信頼を置くこと。
帰依法とは、釈尊が説いた教えが涅槃に至る教えであると絶対の信頼を置くこと。
帰依僧とは、釈尊がつくったサンガ(修行者集団)に釈尊が説いた教えが存続していることに絶対の信頼を置くこと。
です。

第一結集で直弟子500人が確認した言葉かどうかは決定的なのです。

 

 

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何度も言っていますが、私も大乗仏典は素晴らしいと思っていますよ。
私は釈尊だけが世界で高い意識に達した人だとは思ってもいません。
大乗仏典を創作した人は、非常に高い意識に到達した人たちだったのだろうと思っています。

また、仏教に限らず、キリスト教でもイスラム教でもヒンドゥー教でもジャイナ教でも他の宗教でも宗派に属さなくても高い意識に到達した人は今まで世界に無数に存在したと思っています。
むしろ、本当に高い意識に到達した人の中には、何も説かずに死んでいった人も数多くいるだろうと思っていますよ。
釈尊が悟った後、『この法を説いても誰も理解できないだろうし無駄だ。』と思ったように。

ただ、いま、歴史上の仏陀を探求しているのは、仏陀自ら『私はよく矢を抜く者だ』と言っているからです。
そして実際に、釈尊在世中には数多くの人たちが悟り涅槃に至りました。

龍樹の信者であり自ら中観派を自認している宮崎哲弥は対談本のなかで『釈尊のときは数多くの人が悟ったけれど、大乗仏教では悟った人がいない』とまで言っています。

その言葉が本当かどうかはわかりませんが、少なくとも釈尊が優れた教師であったことは確かです。
なぜ、釈尊のもとでは数多くの人が悟りに至ったのか、です。

そして、私は大乗仏教に親しんできましたが、自分自身、卑小な精神、卑小な人格は何一つ変わりませんでした。
ですから、私は大乗仏教から離れて、歴史上の仏陀が本当は何を言ったかを探求し始めています。

これは私個人のことですので、何度も言っていますように、大乗仏教で救われる人は大乗仏教を進んでいけばいいのではないでしょうか。
大乗仏典の素晴らしさは私もそう思います。

 

 

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<<歴史上の仏陀が本当は何を言ったか」は、誰にも、永遠にわからへんからです>>

 

文献学が急速に進歩した現代になって初めて、かなりの精度でどの仏典のどの部分がより古層なのかが明らかになってきました。
2500年にも及ぶ仏教の歴史の中で、また日本に伝来して1500年もの時間が経ちましたが
その1500年の歴史のほとんど、どの仏典がより歴史上の仏陀の肉声に近いかなんて全くわからない状態でしたね。
歴史のほとんどを五時教判による価値観が支配してきました。
また、インドで作られた経典はすべて本物、中国で初めて作られた経典は偽経という判断材料しかなかったのですよ。

現代になって初めて、歴史上の仏陀の肉声に近い仏典は何かが明らかになってきたのですから、人類はやっと、『歴史上の仏陀が本当は何を言ったか』を探求できるようになったということです。

 

 

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<<第一に、常識で考えて、「詩」よりも、「散文」の方が、成立は古いはずです。
ところが、中村元が、古層として、第一に挙げたのは、「スッタニパータ」、第二に挙げたのは、「ダンマパタ」ではありませんか。>>

<<「詩」よりも「散文」の方が成立は古い>>と考えるのは何故でしょうか?
スッタニパータの特に第4章第5章があらゆる仏典の中で最古層であることは、中村元だけでなく、ほぼ通説に近いものになっていると思います。
文献学ではその理由は様々にあるようですが、例えば第4章は註によると、古くから独立の経典として非常に古い時代から読誦されていたことが原始仏典の聖典のうちに記されている、とあります。

<<第二に、ブッダの一代で説かれた原始仏典に、古層も新層もないのではありませんか。>>

仏陀一代の説法ではありますが、文字になったのはかなり後です。つまり、経典成立の時期には古い新しいがあるようです。
後世にならなければ現れなかったものが記されていれば、それは古層でなく新しい層の経典と見なされるようです。


<<第二に、あなたは、要は、「大乗仏教でも、キリスト教でも、イスラム教でも、さとりは開けます」とされます。
が、それぞれ内容は、まったく異なるのではありませんか(キリスト教イスラム教ですが)。>>

私が言ったのは『仏教に限らず、キリスト教でもイスラム教でもヒンドゥー教でもジャイナ教でも他の宗教でも宗派に属さなくても高い意識に到達した人は今まで世界に無数に存在したと思っています』です。
どの宗教でもそして何の宗教に属さなくても、高い意識に達した人は無数にいたでしょうね。
私は、すべての教えは筏だと思っていますから、究極には自分に合うか合わないか、ではないでしょうか。
人間の個性はそれぞれ違いますから、それに合う筏も異なるのではないでしょうか。

 

 

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<<中村元は、大乗は仏説ではないと決めつけ、そのうえでスッタニパータで説かれる地獄や餓鬼の世界は悪い事をさせないための方便で言われたとし、輪廻は基本的には認めていないようです。 サンスクリット語を訳する事に長けていると思うが、所詮、仏教の信仰者ではありません。>>

前にも同じことを聞かれていますが、私は中村元を非常に優れたパーリ語の訳者だと思っています。もちろん、中村元の訳でも、この語は全く違う訳だと思うことはありますが。
私は中村元を教祖と考えているわけではないですから、中村元が私と違う思想を持っていても関心はありません。まずはパーリ語の訳者として見ています。


<<本当に参考にされているなら、ニカーヤのゴータマ以前の過去仏との関係を無視したら仏陀の悟りはなんであったか、わからないのではないですか?  私は菩提樹の下で悟られたゴータマは自分は時間や空間を超越した存在だったと思覚られたと思っています。>>

菩提樹下での成道の場面はかなり詳しく残っていますが、成道の場面に過去仏が出てきた仏典を知りません。典拠を教えてください。


<<十二因縁、八正道、では、よほどの修業でもしない限り、 迷いからは離れられないでしょうね。>>

仏陀は、ガンガーが大海に流れ入るがごとく、八正道をするものは必ず涅槃へと流れ入ると言っていますが、それが嘘だと言うことですか?

 

 

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<<第一に、常識で考えて、「詩」よりも、「散文」の方が、成立は古いはずです。>>

あなたが主張しているのは、経典の成立時期に古い新しいはないということですか?
<<成立は古いはずです>>というのは、成立時期の古い新しいはあるということですね。
スッタニパータの第4章第5章が最古層であることは中村元の独説ではなくほとんどの学者が認めていると考えていましたが、それに反対している学者がいるのでしょうか?


<<原始仏典は、ブッダが作ったのではありませんか?!
他の者の「加乗」の多いか少ないかの問題と錯覚しておられませんか。>>

原始仏典を仏陀が作ったというのはどういう意味でしょうか?
仏陀は自ら著作を残しませんでした。
仏陀の言った教説を第一結集で確認して、口承により伝えていきましたが、文字として経典が成立するのはかなり後です。
後世の成立になればなるほど夾雑物が多くなるのは仕方ないことだと思います。
古層の方が後世の夾雑物が少ないとは思います。

<<ブッダが、「正等覚者」を自称したこと、ご存知ないのですか?!>>

それは知っていますが、それは自分以外には悟った者はいないということではないですよね。
スッタニパータにも、目覚めた人たち=ブッダたち とブッダが複数形になっていたりする箇所があります。

 

 

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<<第一に、散文と詩の成立時期を考えると、散文で経典が成立し、その後、音韻を踏んで詩にしませんか?!>>

私は前に書きましたように、散文の中にも古い成立のものはあると思っていますし、詩の形式の中にも新しいものはあると思っていますから、すべての詩や韻文の形態の方が散文形態より古いとは考えていません。しかし、学者の中には、口承で伝える時に覚えやすく間違って伝えられる可能性が少なくなるということから、詩や韻文の形で伝えたものが多いとする説があります。

原始仏典の成立時期は、かなり多岐にわたっており、成立時期の幅は古層から新しい層まで数百年もの差があります。


<<第二に、ですから、増谷文雄は、「阿含経典」の翻訳に、「ブッダの肉声である」旨、主張したのですよ。>>

仏陀の肉声に近いことは確かですが、原始仏典の中でもより肉声に近いものとはるか後世になって成立したものとがあります。


<<文字に変えただけで、変える前の経典成立時期は、ほぼ同時でしょう?!>>

文字にした時が経典の成立時期です。
それまでは、比丘比丘尼の頭の中にあるだけです。
後世の我々が知りうるのは文字にしたものだけです。


<<「個人的な真理」ではなく、「正等覚」、つまり、「普遍的に妥当する真理」ですから、「ブッダ達」になる、のです。>>

「普遍的に妥当する真理」に目覚めた人は釈尊ひとりとは思ってないですよね?
釈尊自身も、『私は覚者たちが見つけた古城に至る古道を見つけただけだ』と言っていますし
自分以外にも多数の覚者たちがいることを否定などしてないですね。

 

 

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<<繰り返しになりますが、論理的に考えて、「散文」が先で、因や恩を踏む必要がある「詩」は後ではありませんか。>>

ですから、既に答えていますが。私は散文でも古層のものはあると思っています。仏教学者の中には、韻文の形のほうがより古層だと考える人がいるということです。その理由は、覚えやすい韻文にして伝承したということらしいです。
スッタニパータ第4章第5章が仏典最古層とされているのは、そういう理由よりも、パーリ語文法でないマガダ語の残滓があるということ、他の古い経典に引用されているということ、などから最古層とされているようです。

<<「古層ならば正確」、という概念は、撤回されて、「詩」の形が、後世の加乗を受けにくい点、認められたのですね。>>

撤回してませんが。古層の方が後世の夾雑物は少ないでしょうね。歴史上の仏陀の肉声により近いと思ってますよ。

<<「古層の仏典」を否定された現在、何をもって、経典の正確さを判断されるのですか。>>

スッタニパータ特に第4章第5章が最古層の仏典であることは定説だと思いますが。
あなたはそれを否定するのですか?
スッタニパータ特に第4章第5章が最古層でないとする学者が一人でもいるのですか?
私は、スッタニパータが最も歴史上の仏陀の肉声に近いと思ってますよ。


<<スマナサナ―ラの言では、スリランカでは、現在でも、経典だけでなく、民法や刑法を含め、「丸暗記」という手段は、日常的にもちいられているそうです。>>

何万人もいる比丘比丘尼の全員が、あの膨大な原始仏典全部、一言一句違わずに記憶していたと思いますか?
インド人の記憶力が優れているのは聞いたことがありますが、さすがにそれまでは無理でしょうね。
また、全員が仏陀の説法をすべて聞いたわけではなく、それぞれ自分が聞いた説法を第一結集で確認し合ったのです。
経典の成立が古ければ古いほどより正確なのは、伝言ゲームをしたことがあればわかりますよね?10人で伝言ゲームをするより、3人でしたほうがより正確ですよね。
古い段階で経典として文字にされたのはより正確ということです。

 

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<<釈尊自身も、『私は覚者たちが見つけた古城に至る古道を見つけただけだ』と言っていますし自分以外にも多数の覚者たちがいることを否定などしてないですね。(
第一に、「過去、七仏の話」もありますが、「ブッダは実践された価値」を重んじたので、作り話ではありませんか。>>

 

比丘たちよ、私も同じように過去の仏たちがたどった古道、古径を発見したのだ。
比丘たちよ、過去の仏たちのたどった古道、古径とは何であろうか。
それはかの八正道である。・・・これが過去の仏たちのたどった古道、古径であって、この道を歩んでいきながら、私もまた老死を知り、老死の生じる原因を知り、老死の滅を知り、老死の滅に至る道を知ったのである。
(「サンユッタニカーヤ」)


<<第二に、あなたは、「自分一人が悟ればよい』とされたので、その反論に「ブッダは”正等覚”を自称した旨」、指摘したこと、忘れておられませんか。>>

 

自分一人が悟れば良いなどと言ったわけではありません。
どの宗教を辿っても、あるいは宗教などなくとも、高い意識に達した人は多く存在すると思う、ということを言ったのです。
そうすると、あなたは、釈尊が正等覚を自称したことを知らないのか、と言ったのですよ。
あなたは、釈尊だけが覚者だと思っているのですか?
それはそれでその人その人の好きに思っていればいいと思います。
私は、世界には無数に意識の高い人は存在すると思っていますから。
仏陀はその中の一人で、しかし、自分で言ってるように『矢を抜く最上の人である』と思います。ですから、仏陀の筏を探求しているのです。

 

 

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<<スッタニパータの四・五章が古いのは認めます。が、他にも、はるかに多くの仏典がなければ、ブッダの思想の全貌は解明できないのではありませんか。それらの莫大な仏典をどこで探され、何をもって、経典の正確さを判断されるのですか。>>

 

原始仏典は当然尊重しますよ。
そして、原始仏典でも、矛盾する記載があることがあります。
その時はより古層の仏典のほうを優先します。
また、最も重要なことは、最古層の仏典には書いてあると思っています。
それだけは残したい、よく仏陀が言っていた、というようなものであるものはある程度最古層の仏典に書かれていると思うからです。

 

 

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<<スマサラーナの話では、「人間には、もの凄い量の、しかも、正確な記憶力」があるのです。ですから、今でも、法律を始め、多くのことを丸暗記する、ということが、スリランカでは行われているのです>>

 

インド人やスリランカ人が全員、あの膨大な原始仏典をすべて一言一句の違いもなく記憶できるのですか?
インド人やスリランカ人は日本人にも一人もいないそんな天才ばかりだというのですか?
それであれば、インド人やスリランカ人が日本に来たら、司法試験を一発で合格できる人ばかりということですか?
六法全書の何十倍もの量ですよ、原始仏典は。
常識的に見て、あり得ないです。

 

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私が書いたのは
『私は釈尊だけが世界で高い意識に達した人だとは思ってもいません。
大乗仏典を創作した人は、非常に高い意識に到達した人たちだったのだろうと思っています。
また、仏教に限らず、キリスト教でもイスラム教でもヒンドゥー教でもジャイナ教でも他の宗教でも宗派に属さなくても高い意識に到達した人は今まで世界に無数に存在したと思っています。
むしろ、本当に高い意識に到達した人の中には、何も説かずに死んでいった人も数多くいるだろうと思っていますよ。釈尊が悟った後、『この法を説いても誰も理解できないだろうし無駄だ。』と思ったように。』
と言う言葉です。

世界で、高い意識に達した人は釈尊以外にも多くいただろう、ということを言ってるのですよ。
全部同じ悟りだとどこで言っているのですか?
言葉を勝手に変えないでください。

それでは、あなたは高い意識に達した人は世界中で釈尊だけと思っているのですね?

 

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仏教についてのひとりごと 129

仏教の根本教理と見なされ最も重要視されている【空】ですが、
歴史上の仏陀はあまり説いていません。

 

最古層の仏典『スッタニパータ』で【空】が説かれているのは
【つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を〈死の王〉は見ることがない。】の箇所くらいです。いかに仏陀は【空】を説かなかったか、です。


さて、それでは、仏陀がスッタニパータで説いた【世界を空なりと観ぜよ】の【空】とはどういう意味でしょうか。


それを解明するには、『ダンマパダ』の

【世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。】の言葉が参考になります。

 

ほとんど同じことを説いているからです。

さらに【この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであるとさとったならば、死王の見られないところに行くであろう。】とあります。


仏陀は、泡沫やかげろうをはかないという例えで使っているのです。

つまり、歴史上の仏陀が【空】というときは、

【泡沫のように生じては滅するはかないもの】と言う意味です。
非常に単純明快ですね。


『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』というのは、遙か後世に龍樹が現れて勝手に創り上げた教理です。これが、仏教の根本教理とされていきました。


しかし、歴史上の仏陀が『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』と説いている原始仏典はありません。

 

 

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<<空は何もない空っぽという事ではありません。 絶えず縁によって、変化している。 私たちの身心も絶えず縁により、変化している存在だととらえるべきでしょうね。  なにか、変わらない存在がありますか?>>

すべての存在は変滅している。これが歴史上の仏陀のメッセージです。
変わらない存在はありませんよ。
すべては変滅するものですから。

しかし、【縁起】と言う言葉は、仏陀と龍樹では全く違います。
<<私たちの身心も絶えず縁により、変化している存在だ>>??
そんなことを歴史上の仏陀は言いましたか?
それは龍樹が言い始めたことではないですか?
歴史上の仏陀が『私たちの身心も絶えず縁により、変化している存在だ』と言った原始仏典は存在しません。
あるとするなら、典拠を示してください。

 

 

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『私たちの身心も絶えず縁により変化している』と仏陀は説いたのではありません。

縁起とはそういう意味で仏陀は言っていません。

私たちの身心も含めすべての形成された存在は、『生じれば必ず滅する』存在であるから
【泡沫のように生じては滅するはかないもの】なのです。

 

 

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仏陀の死後直後(2,3ヶ月後)の第一結集で、仏陀の生前の説法がこういうものであったと内容を直弟子500人で確認し合いました。
第一結集でそのように確定した教えをサンガにてすべての比丘比丘尼が正確に伝達していきました。
第一結集で確定した教えかそうでないかは、決定的な違いです。

第一結集で確定した教えを文字に残し始めたのはそれから何百年か後からですが
最古層の仏典は、後世の夾雑物が少ないものと考えられています。

 

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<<釈尊の意志に出遭ったかぎりは>>

あなたが、釈尊の意志と思っているものは、釈尊ではなくてはるか後世の龍樹の意志ではないですか?(笑)

『生と死を比較対立させることのない観』なんて、歴史上の仏陀がどこで言っているのですか?
龍樹が言い始めただけではないのですか?

 

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そうですね。
最も古いものは、詩句、韻文の形で伝えられたというのが文献学の通説になっていますね。
私は散文の形でも古いものはあると考えていますが、比丘比丘尼たちが記憶するために韻文にしたというのは説得力はありますね。

 

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逆ですね。
私は龍樹の筏ではどこにも行き着かない、我塊も強まるだけだと考えて、歴史上の仏陀が本当は何を説いたかを探求し始めたのです。
龍樹から始まる大乗仏教で、激流が渡れる人はその筏が合っているということでその筏で渡ればいいと思っていますよ。
しかし、我空法空や諸法無我を毎日さかんに叫んで回っている和弘氏や春間氏に私は普通以上の自我、我執を感じますけどね。

私は大乗仏教を知らないわけではありません。この掲示板で大乗仏教の人も数多く訪れましたが、私が知らないことを書いてきた人はいませんでした。
といって、部派仏教、上座部仏教の立場に立っているわけではなく、いったん『仏教』と言われている歴史上の堆積物を全部取り除いて、白紙の状態から仏陀の言葉を捉えようとしたのです。

ですから、正しい正しくないを言っているのではなく、それは歴史上の仏陀が言ったことかそうでないか、を探求しているのです。
これを繰り返していくと、今まで『仏教』と言われてきたものとは全く違う全貌が見えてきた感じです。
2000年以上積もりに積もってきた堆積物が膨大にありますから、本当に仏陀はこういうことを言っていると言ってもまずわかってもらえないでしょう。仏教徒はこういうものだという強固な観念がありますから。

大乗仏典も素晴らしいものですし、正しい正しくないを言うつもりはありません。
歴史上の仏陀が言ったことかどうかだけ言うようにしてます。

前の投稿【つまり、歴史上の仏陀が【空】というときは、【泡沫のように生じては滅するはかないもの】と言う意味です。非常に単純明快ですね。『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』というのは、遙か後世に龍樹が現れて勝手に創り上げた教理です。これが、仏教の根本教理とされていきました。しかし、歴史上の仏陀が『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』と説いている原始仏典はありません。】も事実に基づいて書いているつもりです。

もし、そうではないと言われるのであれば、典拠を示して、指摘してください。

 

 

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<<これに関して、ショーシャンク さんは空は【泡沫のように生じては滅するはかないもの】とされた。 ならば自我は無常ではなく、常という形成された実体だという見解ですか?>>

なぜ、そういう結論になるのかがわかりません。
無常の法とは生滅の法です。
生じたものは必ず滅する、ということです。
自我を構成する五蘊=色受想行識 は泡沫のように滅していくものです。
無常で苦であるものは非我なのです。
自我は無常であり幻想なのです。
『私という中心』が幻想であることにはっきりと気づくことが大切です。

しかし、玉城康四郎の『ダンマの顕現』を読んでも、
玉城氏は禅の印可も数多く受け徹底的に禅の修行をした人で親鸞浄土門にも精通していましたが
どうしても我塊がなくならなかったようです。
そして、宮元氏によると、最晩年の玉城氏は『自分がやってきた修行方法ないし仏教解釈には重大な誤りがあった』と述懐していたそうです。
何かが足らないのではないかという感じがします。

仏陀は最初の目覚めのあと、十二縁起を観じて、すべての疑いをなくします。
なぜ、仏陀は、悟った後で、十二縁起を観じなければならなかったのか、です。

 

 

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<<『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』というのは、遙か後世に龍樹が現れて勝手に創り上げた教理です といわれても、非我でも無我であっても、私という中心は妄想ですよね。だから私という中心は(有)でない。しかし実際に私達は多くの因縁起によって、生起している。だから(無)ではない。ようするにまずは空と観る。龍樹菩薩の空は仏陀の教えに反していない>>


何度も言いますが、私は龍樹の創り上げた教理が正しい正しくないを言っているのではありません。それは歴史上の仏陀が言ったことではない、ということを言っています。
龍樹の教理で救われる人はその道を進んでいけばいいだけのことです。
歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか、が探求目的ですから、そこは理解してください。
イエス・キリストが説いた教えが正しい正しくないは私にはわかりません。しかし一つだけはっきりしているのは、それは歴史上の仏陀が説いた教えではない、ということです。当然ですね。それと同じように、龍樹が作り上げた教理は歴史上の仏陀が説いたものではないと言っているのです。

龍樹出現からもう2000年も経っています。その間も様々な仏典が作られてきました。仏典の数も膨大なのに、それに関する論書も更に膨大にでき、さらに様々な宗祖が現れて様々な教えを説いてきたわけですから、堆積物の量は凄まじく、歴史上の仏陀の真意はその堆積物に隠れてしまっているのが現状です。
特に、龍樹出現からは、仏教の根本教理は龍樹の縁起と空となっていますので、いくら仏陀の真意は龍樹の説いたものとは全く違うと言っても、このようなネット掲示板でわかってもらえるわけがありません。もう、『仏教とはこういうものだ』という固定観念が出来上がっていますから、理解してもらえるとは思ってません。
自費出版しても、わかってもらえる人はまずいないと思ってますよ。
私の生きている間は無理でしょう。
ただ、私が死んだあと、本という形にしておけば、何十年か後に分かってもらえる人がでてきたらいいなというほぼ可能性のない自己満足です。

あなたの龍樹に関する考えを変えたい欲望も私にはないのです。そのまま龍樹の説く縁起や空が仏陀の教えそのものと思われていたらいいと思います。

どの原始仏典でも、縁起が出てくる仏典を読めばわかるかもしれません。

 

 

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龍樹について、ネットで解説しているものがありましたので2つ転載します。
※※※※

 西暦紀元前後ごろから、『般若経』『無量寿経』『維摩経』『法華経』といった大乗経典が次々と世に現れた。その中でも特に影響力をもった経典が『般若経』である。
 この経は、般若波羅蜜(極限まで智慧を高める修行)、具体的には無執着の徹底的な実践を説いたが、その実践を支える理論の一つに、すべてのものは「空」である、つまり固有の性質をもたないという考えがあった。
 固有の性質をもたず、恒常のものでないとすれば、そのものへの執着は虚しいものになるというわけだ。

 この「空」を、伝統教説である縁起と関連づけたのが龍樹(ナーガールジュナ。一五〇~二五〇年頃)である。
 原始仏教では、縁起(依って生じること)は、「無明に依って……老死あり」「無明の滅に依って……老死の滅あり」というように、輪廻生存の原因をたどり、その原因の消滅が輪廻生存の消滅に至るという因果関係を表す言葉であった。

 それに対して龍樹は縁起を、一方向の因果関係ではなく、あらゆるものが相依・相関的な関係にあること、つまり他の様々なものに依って成り立っていることを示す言葉として捉えなおした。
 たとえば、「長いもの」と言った場合、確かに短いものと比べれば長い。しかし、より長いものと比べれば「短いもの」になる。
 このように「長いもの」は他との関係によって成り立っており、常に「長いもの」と呼ばれるような固有の性質を持つわけではない。
 このように考えた龍樹は、すべてのものは縁起するのであるから、固有の性質をもたず、空であると主張したのである。

 さらに、龍樹は、空思想が理解され難いのは人々が言語表現に基づいて物事を区別立てるからだと考えた。
 しかし、空を理解するためには、それを説く言葉も必要である。
 そこで、空思想を勝義諦(最高の真理)、伝統教説や言語表現を世俗諦(慣習的な真理)とする二諦説をとなえ、言葉によりつつも、最終的には言葉から離れるという態度を促した。

 

 

~~~~~~

 

龍樹に関してもう一つ転載します。
※※※※※


 龍樹は西暦150~250年頃の人で、ナーガールジュナといいます。
 初期般若経典の空をもって大乗仏教の地位を確立した大論師です。
 
 龍樹の功績はなんといっても、大乗仏教を体系づけ、理論武装して伝統的な部派仏教(小乗)に比肩するに値するものとならしめたことにあります。
 龍樹の出現がなければ、大乗仏教はただの異端な在俗信徒による俗信に留まっていたかもしれません。

 龍樹は、仏教の原初からあった「空」の考えかたを、般若経の「空」の解釈により深め体系化しました。
 その「空」の思想は中観派として後に多大な影響を及ぼします。龍樹以後の大乗仏教は多かれ少なかれ彼の影響下にあり、龍樹は八宗の祖とたたえられます。

 ただし、その仏教は在俗信徒をも含めた在家仏教的な初期大乗を、出家仏教にならしめてしまったという面があります。
 さらには、上座部仏教の煩瑣な教理に対峙していた大衆的で平易な初期大乗を、煩瑣で難解なものにしてしまったかも知れません。

 「空」のサンスクリットの原語は sunya であり、欠如という意味です。
 また、インド人が発見した0(ゼロ)という数字を表します。
 当初の仏教経典では単に「空虚」や「欠如」という意味に用いられていたようです。
 紀元前後に『般若経』が成立する以前には、「空」が仏教の中心思想であるような主張はないそうです。

 初期大乗の『般若経』が成立しだすと、『般若経』は部派仏教(小乗)を批判します。
 上座部仏教の固定化した型に対して、「空」の立場から批判するのです。
 また、『般若経』では何ものにもとらわれない「空」の立場に立ち、またその境地に至るための菩醍の行(六波羅蜜)の実践を説きます。その中でも般若波羅蜜の体得が強調されます。

 龍樹はこれを受けて、空の思想を論理的・哲学的に整理し、それまでの部派仏教の思想がその原理を固定化・実体化すると矛盾に陥ることを示して論破しています。
 すべてのものは実体がなく空である(無自性)という立場を表明しています。

 

 

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仏教についてのひとりごと 128

掲示板から離れたい理由の一つは、ある人へのレスにいろいろな人が横から割り込んできて一つの言葉だけを捉えて質問してくるので、時間がいくらあっても足らなくなってくることです。

話には相手とのやり取りの流れがあってその言葉を使っているのですから
前後の文脈をちゃんと読めば、その言葉がどういう意味で使われたかははっきりとわかるはずです。
文脈を読まないで、その言葉だけを取り上げて、それに対して質問され、それに答えることがいかに時間の膨大な浪費になることか。

例えば、あなたが質問してきた『わたしにも強固な自我が厳然としてあり』という文の中の『自我』という言葉だけを取り上げて質問されても困ります。
言葉には様々な意味があり、自我という言葉も我執という意味やアートマンという意味もあるでしょう。しかし、前後の文脈をちゃんと読めば簡単に判断できるものです。

あなたは私のその前からの文脈を読んでから質問していますか?

前から続くやり取りの中で、私は『五蘊(色・受・想・行・識)が『わたし』ではない、つまり非我であることは、仏陀が繰り返し言っていることです。これは認めますか?認めませんか?
そして、私は、五蘊の集まりを『わたし』だと強烈に思い込んでいる事実があります。
五蘊の集まりがあり、名前があります。それを『わたし』と思い込んでいます。あなたもそうでしょう?そうでないと生活できないですね?』と書いています。

仏陀が非我と言われている五蘊の集まりを、私は『わたし』としてそう思い込んで生活してます。その流れがあり、そういう意味で『わたしにも強固な自我が厳然としてあり』と書いているのがわかりませんか?

それを『自我』という言葉だけを取り上げて、アートマンかどうか、という質問は、全く投稿を読んでいないということです。

どうか、他の人にもお願いしたいですが、もし質問してくるのであれば、ちゃんと投稿を読んでから質問してください。
質問にはすべて真摯に答えることを信条としてきましたが、全く投稿を読まずに言葉だけをピックアップして質問してくる人があまりにも多く、それに真摯に答えようとすると時間を膨大に浪費してしまいます。

最低限、ちゃんと文章を読んでからにしてください。

 

 

~~~~~~

 

 

大乗仏教一辺倒の日本に生まれ、仏教に関心があるものであれば、まずは大乗仏教を研究するでしょう。私もそうでした。
ですから、大乗仏教の考えはわかっています。
もし、あなたが、大乗仏教をすることで人生が自分の理想的な方向に向かうのであれば、それは素晴らしいことで応援します。

このスレにもいろいろ書いてきたことを読んでいただければわかりますが、私は大乗仏教に物足りなさを感じて、いったんそれまでの知識をすべて捨て去って、白紙の状態から、歴史上の仏陀が本当は何を言ったかを探求し始めたのです。
その『物足りなさ』は何かは多く書いてきましたので読んでください。

大乗仏教を素晴らしいという人は多く、それはそれでいいことです。私も大乗仏典のすばらしさは身に沁みてわかっていますよ。
ただ、大乗仏教は観念的になりすぎて、そのような観念論で本当に人間が、人生が、変わるものだろうか、と思っただけです。

仏陀は人類最大の教師だと私は思っています。
そして、現代になって文献学が発達してやっと、仏陀の肉声に近い経典がどの経典かがはっきりとわかってきました。
人類最大の教師の肉声に迫りたいというのが私の希望なのです。

ですから、他の人が大乗仏教を信仰しようと、キリスト教を信仰しようと、イスラム教を信仰しようとそれはそれでその人に合った人生を送ればいいと思っていますよ。

私は歴史上の仏陀が言っていないから間違いだとは言ったことはないのです。
『それは歴史上の仏陀が言ったことでない』ということはあります。
それが事実だから。
間違いか正しいかを言っているわけではありません。
歴史上の仏陀が言っていなくとも正しいことはごまんとあるでしょう。そういうことです。

 

 

~~~~~~

 

 

こちらの質問に正面から答えず、言葉遊びではぐらかす行為が真摯ですか?
答えてください。

例えばあなたは私の質問、
【<<あなたの無明を 晴らすことではなく  わたしの無明を 晴らすことが あなたにどう関係するかで  仏説も成り立ちます>>はどういう意味なのですか?】
に答えていません。

あなたが本当に真摯で、他人に自分が言うことを理解してもらおうとする思いがあるのであれば
自分が書いた文章の意味を聞かれたら答えるはずです。

あなたの書いた文章、
<<あなたの無明を 晴らすことではなく  わたしの無明を 晴らすことが あなたにどう関係するかで  仏説も成り立ちます>>
は、仏陀の説いた教えからするととんでもない文章のように思えます。

第一、自分の無明は自分でしか滅することはできないのが仏教の根本です。
あなたの文章は仏教の根本に反していると感じられたので、書いた意味を聞いているのです。
答えてください。

この質問に答えないようであれば、今後、あなたは真摯でないただの時間つぶしの人として無視しまうので、必ず答えてください。

 

 

~~~~~~

 

 

<<ジャンヌダルク は 正しき裁判によって 魔女とされました その魔女は バチカンで 聖人として並んでいます>>

ジャンヌダルクの裁判が正しい裁判?
ジャンヌダルクの裁判は違法だらけであったのは常識です。
教会法に規定する弁護士もつけてもらえませんでした。完全な法律違反です。
女囚に男性の監視員をつけるのは禁止されていますが、それも法律違反です。
宗教裁判は教会の牢に入れられなければいけませんが、そうされず、法律違反です。

あなたは何をもって、<<ジャンヌダルク は 正しき裁判によって 魔女とされました>>と書いたのですか?
その根拠を答えてください。

 

~~~~~~

 

<<今の裁判制度は正しい裁判制度ですか  今における正しさは これから変わることはありませんか ?>>

何を馬鹿なことを言ってるのですか?
裁判はその時の法律に基づき行われないならば、正しい裁判でないことはあなたにもわかりませんか?
ジャンヌダルクの裁判は、裁判とは名ばかりの違法そのものでした。
裁判長自体がその資格を有してなかったのです。
ジャンヌダルクが火あぶりにされたのは、何故か知ってますか?
男装したという理由だけです。
とてもではないけど、まともな裁判ではありません。
だから復権裁判が行われたのです。

あなたは何をもって、ジャンヌダルクの裁判が正しい裁判だと書いたのですか?
答えてください。

これから出ますので、必ずはぐらかさずに答えておいてください。

 

~~~~~~

 

 

<<弥陀に賜る 信心が 無明を滅します  「 仏法の大海へは 信より入る 」(  仏法の大海は信を能入とする  「 大知度論 」 )>>


龍樹の『大智度論』の言葉は『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』です。

あなたは勝手に言葉を切り取っては自分の都合のいいように解釈しているだけです。

龍樹は、入るのは信で入るが、渡るのは智がなければならない、と言っているのです。

弥陀の信心が無明を滅するなどという意味ではありません。

 

 

~~~~~~

 

 

春間氏と和弘氏は何から何までよく似ていますね。
人の話は聞かず人の質問には答えず自説を他人のスレッドに大量投稿。

龍樹、道元親鸞の3人に心酔しているところもそっくりです。

何もかもがごちゃまぜで、自力の禅の話をしているかと思ったら他力の親鸞のことばかり言い出したり。
龍樹、道元親鸞の教えをすべて中途半端に切り貼りしているので、曹洞宗の人から見てもまがい物だし、浄土真宗の人から見てもまがい物なのですが、本人は気がついていないようです。

親鸞の教えをかたくなにしているmicの方が格段にマシですね。

 

 

~~~~~~

 

いいですか?
ジャンヌダルクの裁判が正しい裁判と判断したのはあなたですよ?

そして、歴史上の事実として、ジャンヌダルクの裁判は教会法で決められた弁護士もつけられず、すべての処遇が当時の法律からしても違法そのものでした。
この史実をあなたは否定するのですか?

史実からすると、正しい裁判ではないことは明白なのです。
ここで『正しい裁判』とは『法律に基づいた裁判』のことです。

なのに、あなたはジャンヌダルクの裁判が正しい裁判だと断定しています。
ですから、その理由を聞いたのです。

 

~~~~~

 

<<あなたはそう切りとる>>

 

あなたが勝手に切り取っているのですよ。

本当は『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』なのに
『仏法の大海へは 信より入る 』だけを切り取って、<<信心が 無明を滅します>>という結論を勝手に出している。
しかし、原文はその後に『智を能度と為す』があって、智を重要視しているのです。

あなたが自分勝手に切り貼りしているだけです。

 

 

~~~~~~

 

<<原文には 『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』とはなってはいません
 鳩摩羅什 漢訳 の 翻訳文を 切り取ると「佛法大海信為能入智為能度如是義者即是信」 です  義者即是信  と  知りなさい>>

 

う~ん(笑)
私は龍樹には何の興味もありませんが、あなたの文を見ていると、本当に龍樹の言っていることを把握しているかどうか疑問です。
あなたは、意気揚々と『『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』とはなってはいません』と書いていますが
『佛法大海信為能入智為能度如是義者即是信』を読み下すと、『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す。如是の義とは、即ち是れ信なり。』です。
『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』が一つの文です。
一つの文をあなたは『仏法の大海は、信を能入と為す』とだけ切り取ったのです。
次が『如是の義とは、即ち是れ信なり。』という一文です。
あなたのように『義者即是信』と切り取ったら意味がなくなります。

ここで龍樹が言っている『如是』とは、摩訶般若波羅蜜経の最初の『如是我聞』の『如是』を解説したものです。

『如是』が信だと言っているのです。
そして、その前の一文『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』では
仏法の大海に入るのに信をもってして、大海を渡って彼岸に至るのは智によるということを言っているのです。

あなたは龍樹の書いている意味を把握していないように思えます。

 

 

~~~~~~

 

今回はあなたがしつこく自説を展開するので、これを機に、あなたの論理の欺瞞性を証明してみようと思ったのです。

あなたは、龍樹に関しても、ジャンヌ・ダルクに関しても、中途半端な知識、思い込みで断定を下しているのです。
あなたは、『ジャンヌ・ダルクは正しい裁判によって魔女とされた。その魔女はバチカンで聖女とされた。バチカンがどう扱おうと殺せ殺せと言った者です。』と書きました。
あなたは、ジャンヌ・ダルクが『正しい裁判』によって決められた『魔女』と断定しているのです。

それに対し、ジャンヌ・ダルクの裁判は法律違反満載であったことは誰もが知る歴史上の事実なので、私はあなたに『正しい裁判と判断する根拠は何ですか?』と聞きました。

そうすると、また、いつものように、『正しいことは正しいことと判断される その場所において正しいこととされる』『それは正当ではないという正しい判断を(あなたが)不当化する根拠はその場所においてはない』などと支離滅裂なことを書いて煙に巻くのです。
他人に対しては『正しい』『正しくない』の判断はできないという論理を繰り出すのに、自分は勝手に『正しい裁判』などと断定を下すのです。

この論理の欺瞞性は、あなたと和弘氏に共通です。
他人は断定してはいけない、自分は勝手に断定する、のです。
あなたと和弘氏に共通なのは、龍樹に毒されていることです。
私は、龍樹の本質は相手を言い負かすための論理だと思っています。
龍樹は説一切有部などと生涯、論争に明け暮れました。
相手が『本当の仏陀が言ったことによるとこれが正しい』と言うと、『正しい』『正しくない』の判断はできないという論理を繰り出すのです。

また今度もそうなることはわかっていましたから、『ジャンヌ・ダルクの裁判の正当性』『龍樹の大智度論最初の文言』という具体例に絞ったのです。

そうすると、『あなたには今は機にない それだけです』という捨て台詞を残して逃げました。
あなたの論理によると、『あなたは今は機にない』という断定、判断は下せないはずですよね。

あなたの論理はすべて、相手を言い負かすためだけのものです。
龍樹の最期を知っていますか?
相手を言い負かすために論争に明け暮れていてはいけないということです。

 

 

~~~~~~

 

 

<<どこで どのように 行われようと 裁きは 常に そこに於いてのみ 正しいことを基準として 為されます>>

あなたが『ジャンヌダルクは正しい裁判で決められた魔女だ。バチカンが何と言おうとも。』と断定したのですよ。
あなたの論理であれば、歴史上起きた『魔女狩り裁判』はすべて正しいということですね?

 

~~~~~~

 

ごまかさないで、ちゃんと答えてください。

<<その裁きで魔女とする>>のはあなたですよ。
あなたは『ジャンヌダルクは正しい裁判で決められた魔女だ。バチカンが何と言おうとも。』と書きましたね?それは認めますか?

あなたの言葉<<どこで どのように 行われようと 裁きは 常に そこに於いてのみ 正しいことを基準として 為されます>>であれば
あなたは、すべての魔女狩り裁判を正しいと言っているのですよね?

 

~~~~~~

 

<<あなたはいつも 当事者として 歴史のどこへでも 登場する>>
<<わたしが間違っていてあなたの裁きが正しいとあなたは裁く>>

いいですか?
あなたが最初に『ジャンヌダルクは正しい裁判で決められた魔女だ。バチカンが何と言おうとも。』と書いたのですよ。
あなたがジャンヌダルクが魔女だと裁いたのですよ。

復権裁判も開かれて、ジャンヌダルクの裁判は間違いだったと証明されたにもかかわらず。

あなたの<<どこで どのように 行われようと 裁きは 常に そこに於いてのみ 正しいことを基準として 為されます>>という言葉だと、すべての魔女裁判も正しいことを基準にして為されたということですよね?
逃げないで、ごまかさないで、ちゃんと答えてください。

 

~~~~~~

 

<<ジャンヌダルク は 正しき裁判によって 魔女とされました
  その魔女は バチカンで 聖人として並んでいます
  その聖人はイギリス人を殺せと 先頭に立って 民衆を奮い立たせました
  バチカンがどう扱おうと 殺せ殺せと 言った者です >>

この言葉を読みますと
ジャンヌダルクは正しき裁判によって魔女とされた
②その魔女はバチカンでは聖人とされたが、バチカンがどう扱おうと殺せ殺せと言った者だ

ということですね?
この文章からは、あなたは、ジャンヌダルクを魔女として火あぶりにした裁判を『正しき裁判』と断定していること、あなたはバチカンで聖人とされていようともジャンヌダルクを魔女とした裁判を肯定していること、の2つはその通りですね?
それ以外の解釈があるのであれば、ちゃんとした日本語で説明してください。

 

~~~~~~

 

私が聞いているのはあなたが最初に書いた、<<ジャンヌダルク は 正しき裁判によって 魔女とされました >>の中の【正しき裁判】という言葉です。

これにつき、何を根拠に【正しき裁判】というのですか?と聞いたのです。

ですから、要約した文章との差は何も関係ありません。
答えられなくなるとそういう本質でない些末なことにいちゃもんをつけて言い負かそうとするのがあなたのやり方です。

私は最初からあなたの文章の【正しき裁判】という言葉に関して聞いているだけです。

それに対するあなたの答えが
<<どこで どのように 行われようと 裁きは 常に そこに於いてのみ 正しいことを基準として 為されます>>
でした。

そうであれば、今までのすべての魔女裁判も正しいことを基準として為されたということですか?
と聞いているのです。

 

~~~~~

 

<<魔女とする裁判は そうする裁判において 正当なる 理由を付されています>>

バチカンが聖人に列したことに関しては聞いていません。
あなたが『正しき裁判』と断定したことについてだけです。

ジャンヌ・ダルクの裁判において、彼女が生まれ育った小さな村に聞き取りにまで行きましたが
敬虔なキリスト信者という評判ばかりで魔女という証拠はまるで出てきませんでした。
身体検査までされましたがクリアーしていますし、どこをどう調べても魔女ではありませんでした。
彼女は性的な被害から身を守るため男装していましたが、男装をしないと無理やり誓約させられました。しかし、貴族の男が牢獄の彼女を襲おうとしたため身を守るためにふたたび男装したのです。
裁判所は彼女が男装したため魔女とみなし火あぶりにしたのです。
あなたはジャンヌ・ダルクの裁判の経緯を少しでも知っているのですか?
復権裁判の記録を少しでも読んだことがあるのですか?

もし、ジャンヌ・ダルクの裁判を少しでも知っていて、他の魔女裁判を少しでも知っていてなお、<<魔女とする裁判は そうする裁判において 正当なる 理由を付されています>>とあなたが言ってのけるのであれば、私はあなたを軽蔑します。

 

~~~~~~

 

<<わたしが正当としたのではなく 裁判を取り仕切る者が 正当としたのです>>

つまり、こういうことですね。

<<ジャンヌダルク は 正しき裁判によって 魔女とされました >>
<<どこで どのように 行われようと 裁きは 常に そこに於いてのみ 正しいことを基準として 為されます>>
<<正当な判決を下す その下す権威をその場においてもつ者の 正当とする理由です>>
<<魔女とする裁判は そうする裁判において 正当なる 理由を付されています>>

とあなたが書いているのは結局、
【裁判を取り仕切る者が正当としたのだから、正しき裁判なのだ!】ということなのですね。

びっくりです。
頭の悪い小学生でも言わないような論理ですね。

ということは歴史上存在したどのような冤罪裁判でも誤審裁判でも、『正しき裁判』とあなたは言うのですね。


あなたと和弘という人の文章には内容がないのです。
中身を探して皮を剥いていったら結局皮だけだったという玉ねぎのような感じです。

そう言うと、必ずあなたと和弘という人はお決まりのように
『断定するな』『判断するな』『裁くな』と言うでしょうね。

あなたがたのすべては
【他の人は断定してはいけない。自分は勝手に断定する。】
なのです。

今回のことでそれが鮮明にわかりました。
『あなたに正しいか正しくないかは判断できない』といいながら
自分は『ジャンヌダルク は 正しき裁判によって 魔女とされました』と正しいと判断しているのです。

あなたがたの文章は
【他の人は断定してはいけない。自分は勝手に断定する。】
で、すべて説明できます。

 

~~~~~~

 

> 春間さんのような「話を広げていくタイプ」とやりとりする際は、広げてきた部分については触れないで、もともとの話にあった部分についてだけやりとりしていく、というのがいいのだと思います。
> (今の例で言うなら、春間さんは自分の話をさておいてジャンヌダルクを出し、話を広げていますよね。)

確かにおっしゃる通りだと思います。
ジャンヌ・ダルクに関しては、本や映画などで思い入れもあり、ジャンヌ・ダルクの処刑裁判に関してはいろいろな想いもありますので、あの処刑裁判を【正しき裁判】と言ったのには反応してしまったところがあります。
この人は後の文章で書いていたように「民衆を扇動した」ということでジャンヌ・ダルクを非難する考えを持っているんだということがわかり、それであればそれについて話し合いたかったのですが
どこまで行っても、【正しい】という言葉の弄びだけに終始した感じです。
もっとお互いの歴史観まで深く掘り下げる会話ができることが希望でしたが、無理でした。

 

 

~~~~~~

 

【主観】と【客観】
【正しい】と【正しくない】
【天動説】と【地動説】
あなたはいつもこのように、二元対立の図式に持っていき
その二元対立の図式が虚妄だということに持っていこうとしているのです。
龍樹のやり方がそうですから。

私は、一般論での【正しい】と【正しくない】とはどういうことかを論じているわけではなく
具体的な歴史の事実としてのジャンヌ・ダルクの裁判をあなたがどう見ているかを論じたいのですよ。
ジャンヌ・ダルクが民衆を扇動してイギリス人を殺せ殺せと言ったことであなたはジャンヌ・ダルクが魔女とされても仕方ないという感情を持っているのではないですか?
そのような歴史上の具体例に関しての考えを聞きたかったのですが、いつものように延々と【正しい】【正しくない】の構図の虚妄性の問題に持って行ってしまうので、会話が深まらないのです。

ジャンヌ・ダルクに関して、あなたがどう思っているかを聞かせてください。

 

 

~~~~~~

 

 

> 「民衆を扇動した」という文言は、たしかに春間さんの投稿中にありますよね。
> でも、春間さん的には、それは事実を書いただけであって、そこに春間さんの「思い」を付加しているつもりはない、というふうになっているのじゃないかな、と私は感じます。
> おそらく、「非難」するつもりなどないですよ、というところじゃないかな、と。

赤い実さん、こんにちは。
確かにそう言いそうですね。
人に対しては『あなたの 客観 では そうなる そういうことを 主観 という』と言うのですが、自分は主観を交えずに事実を書けるみたいです(笑)


> なにせ春間さんは、「自分の思い」というところを超越した形で語っているというテイなんだと、私は思っています。(笑)
> ですので、「私は個人的にこう思います。」なんてことは言わないでしょうね。 
> あくまで自分は「空」である、ところから離れない語りがなにより春間さんにとっては大切なのだと思います。
> 和弘さんと春間さんはやはり似ているところがありますね。
> お二人は自分は「すごい」と思っているのに、誰かが「そう思っているだろう?」と匂わせると否定します。
> 凡夫だ、みたいに言います。
> でも、貶されたと感じると、自らを高める投稿をはじめます。

何とも疲れる二人ですね。
『唯仏与仏』とか『開示悟入』とか言って自分を仏、悟っていると言いたくて仕方ないくせに
自分で仏と言ってしまうと傲慢と言われるので凡夫と言って最大限謙遜するのですが
悟ってないと言われると自分で凡夫と言ってるはずなのに怒り出してこれだけの本を読んでるとか知識自慢を始めたりします。
困った人たちです。

私はいつも思うのですが、春間氏と和弘氏が仲良くなって二人で自分のスレで会話できるようになったら周囲の人は本当に助かりますよね。
しかし、この二人の会話が成り立つ様子がどうしても想像できません(笑)

 

 

~~~~~~

 

 

>>具体的な歴史の事実としてのジャンヌ・ダルクの裁判をあなたがどう見ているかを論じたいのですよ。
>具体的な事実 などと言うモノは論じて 勝論にあるのみ なんら 具体性の根拠 を 持ってはいない( 持っているという “思い” に “のみ”  存在する )
具体的な 動かぬ事実を 提示してみてください( わたしが、動かして見せますがあなたどう受けとめるかは あなた次第 )


いいですか?
こういうところが、あなたとの会話が成り立たず、ただの言葉遊びになってしまうところなのです。
私が『一般論での【正しい】と【正しくない】とはどういうことかを論じているわけではなく
具体的な歴史の事実としてのジャンヌ・ダルクの裁判をあなたがどう見ているかを論じたいのですよ』と書いたときに、その文章の意味を理解する気があるのであれば『ジャンヌ・ダルクの裁判をどう見ているか?』と素直に受け止めるでしょう。
そして、自分が把握している範囲でジャンヌダルクの裁判についての感想を答えるでしょう。

しかし、あなたは本質でない周辺の言葉の一つ一つにイチャモンを付けて回るので本質部分がいつまでたっても始まらないのです。
それはわざとですか?
あなたの知識の範囲内、あなたの把握しているジャンヌダルク裁判についてあなたがどう思っているか、と聞いているのです。
あなたが知らない範囲のことを聞いてもあなたは答えようがないですよね。
ですから、あなたが知っている範囲のジャンヌダルク裁判についてどのような感想なのかを聞いているだけです。
【具体的な 動かぬ事実】は何か?などを論じようとしているのではありません。

ジャンヌダルクについて知らないのであれば、知らないと素直に言ってくれればそれでもうそれ以上は聞きません。
あるいは、ジャンヌダルクに関して何の感想も持たない、ということであれば、それでもう聞きません。

またまたいつものように【具体的な動かぬ事実があるかないか】という抽象論に付き合いたくはないのです。
あなたはどうしても、抽象論に持っていきたいようですが。

ジャンヌダルクの裁判について感想を言いたくないのであればそう言ってくれれば、もう聞くことはないですよ。

 

~~~~~~

 

結局、あなたは
ジャンヌダルクの裁判について感想を言いたいのですか?言いたくないのですか?

言いたいのであれば言ってください。
言いたくないのであれば言わなくて結構です。

はっきりとしてください。
グダグダ抽象論に付き合うのは時間の無駄です。

 

~~~~~~

 

私と誰かとの対話中に私のスレに勝手に割り込んできて自説を語り始めたのはあなたです。
それに対してレスしているのに<<もう放かっておいてください>><<あなたに付き合いたいけれど付き合いきれない>>はないでしょう。

<<あなたは それで 十分だと 思う わたしには 何も伝わってこない>>

伝わってこないのではなく、人のレスをちゃんと読んでいないだけですよ。
あなたがジャンヌダルクのことをいきなり出してきたのです。【正しき裁判】と言って。
私はそれに対して、いろいろな史実を挙げて、裁判が正当でないことを指摘しましたよね?それも読んでいないのですか?
あきれた人ですね。


あなたも和弘という人もそうですが、結局自分の抽象論を他人のスレッドでまくし立てていい気分になりたいだけの人なのではないですか?
こちらが具体的に質問したものには一切答えられないのも二人共通です。


とりあえず、私はジャンヌダルクの裁判に関しては理由を複数個挙げて、それが正当でないことを指摘しています。過去投稿を見ればわかります。
あなたがジャンヌダルクを知らない、または意見を持たないのであれば、あなたの意見を言う必要はありませんよ。
ただ、私の意見を先に言わないからだとか、変な言いがかりをするのだけはやめてくださいね。
私は既に意見を言っていますから。

 

~~~~~~

 

>春間さんは、ジャンヌダルクのことを戦犯だと言っているんじゃないですか。

そうなんですよね。春間氏のあの文からすると、そして後の投稿からすると、春間氏はジャンヌ・ダルクを戦争の煽動者と考えていますよね。
春間氏本人は否定しますが。
もう少し素直になってほしいですね。

 

~~~~~~

 

そうですね。
春間氏のいう『ジャンヌ・ダルクが民衆を煽動した』事実はないですね。
ジャンヌ・ダルクは兵士を鼓舞したのです。
イングランドという他国に占領されていたフランスを解放するために。

ジャンヌ・ダルク復権裁判の記録は中世では稀な非常に詳細で正確な資料と言われています。
それを読むと、ジャンヌ・ダルクの処刑裁判を正当化するのは、信じられないほどにものを知らない人だな、と思います。

 

~~~~~~

 

あなたが最初にジャンヌ・ダルクの話を持ち出したのです。

しかし、あなたはごく表面的にしか、ジャンヌ・ダルクのことを知りません。

あなたはジャンヌ・ダルクの映画を1作も見てないでしょう?
ジャンヌ・ダルク復権裁判の記録も1回も読んだことはないでしょう?

もし、ジャンヌ・ダルクのことをよく知っていて、あなたのような感想しか持てないような者は、私には軽蔑の念しか持てないですね。
はっきり言いますが、あなたはモノを知らなさすぎる。

 

 

~~~~~~

 

 

 

 

仏教についてのひとりごと 127

<<『十二支縁起説』は、最も整備された形のもので、おそらく後代における経典編纂の過程の中で、徐々に現在のような形になったものだと思われます。これに関してはいかがですか?>>

 

私は、宮元啓一氏が書いているように、成道時には無明を始めとする十二支縁起の原型はできていたと思っています。
その理由は、最古層のスッタニパータで、苦の原因として、無明・行・識・触・受・愛・取・生存という順番で記載されていることが挙げられます。
十二縁起そのままではないですが、苦の原因として無明が挙げられ、重要な項目についてはほぼ同じ形となっていることから、最初期から十二縁起の原型はあったものと見ています。
原始仏典には、識から始まる十支縁起や渇愛から始まる五支縁起など、短いものも多く出てきますが、それは短縮形であり、やはり無明を智慧によって滅ぼして縁の滅に至ったとありますので、最初が無明であるのは根本だと考えています。

 

 

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輪廻からの解脱が難しいからといって
歴史上の仏陀が説いたことを探求しないのはどうでしょうか。

仏陀の説いたことで無明を克服することが難しいのであれば
他の誰が説いたら簡単になるのでしょうか。

仏教徒であれば、まず、歴史上の仏陀が本当は何を説いたかを探求すべきではないですか。

世界の主である梵天が頼み込んだほどの真理ですから、探究しなければもったいないのではないですか。

 

 

~~~~~~

 

 

> ですから、大乗仏教も含めて仏教は多くの手立てをもって、真理に至らしめようとしているのでは?

 

基本的な問いですが、仏教の開祖は釈尊ですよね?
それなのに、なぜ、釈尊が説いた四諦十二縁起を実践しないのでしょうか?
不思議です。

 

 

~~~~~~~

 

pipitさん
こんばんは。

ダーナヴァルガ(感興のことば)に
『四念処を楽しみ、またさとりを得るための七つのよすが(七覚支)を楽しみ』
『四神足と八つの部分よりなる道(八正道)を楽しむならば』
とわざわざ、
【四念処】【七覚支】【四神足】【八正道】の4つが挙げられています。

【八正道】【四念処】【七覚支】については、自分なりに納得できるようになって
特に【七覚支】は、意外と究極なのではないかとひそかに思ったりしてます。
仏陀は【四念処観】を一乗道としていますので、【四念処観】が極めて重要な法であることは確かですが。

これから残りの【四神足】の解明に取りかかりたいのですが
欲神足、心神足と欲・心という仏教では否定的なニュアンスの語が使われていて
面食らいます。
解明が非常に難しそうです。

pipitさんは、【四神足】についてはどんな解釈をされていますか?

 

 

~~~~~~

 

 

pipitさん、ありがとうございます。

《意欲主、精進主、心主、観主》の四主や
『神足』はiddhi-pAdaで『成就の基礎』という解釈をすると
とたんにわかりやすくなりますね。

そして、pipitさんの『この四主がめちゃ強力になった状態を『四神足』とよんでるかんじ』というのは素晴らしくよくわかる解釈です。

ただ、意欲主、精進主、観(智慧)主というのはぴったりきますが
いまいち、心citta主がぴったりきません。

心は四念処観で、身、受、心、法とある中で心無常と観じるものなので
その心=cittaを強力にするということがどういうことか、これから探求してみます。

とてもわかりやすい解釈、ありがとうございます。

 

 

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ケロッグさん、わかりました。
まだまだ先になるとは思いますが、本ができましたらこのスレッドで『本が完成しました』と書きますから
本の題名とネームが知りたい人はそう書き込んでいただければ、Yahoo!メールか何かで題名とネームをお知らせします。(Yahoo!メールのやり方はよく知りませんがその時は何とか送ります)
しまとりさんとは約束しているのでそうしようと思っていましたが。(もちろん、その時になったら興味をなくされているかもしれませんのであらためて言っていただいたほうがいいですね)

 

 

~~~~~~

 

<<この事(この言及 こそ)は 観念論ではないとどう明かしますか ?>>

話し合うためには言葉の定義がそれぞれで違っていては話し合いは成り立ちませんね。
ですから、私は『観念論』という言葉を『頭の中で組み立てた考え』という意味で使っていますよ、と最初に自分の定義を述べただけです。投稿してきた相手の人が、『観念論はカントが言う意味なのかどうか』と書いてきたので、私が使った『観念論』という言葉を私がどういう意味で使ったかをレスしただけです。


<<仏教でどうあろうと、わたしには関係がないのではありませんか ?>>

言っている意味が分かりません。
私は『表象作用は、仏教では五蘊(色・受・想・行・識)の想です。つまり非我であるものです。』と言っただけです。
仏陀が原始仏典でそう言っていますよね?違いますか?その書いてあることを述べただけですよ。


<<言葉を発する あなたが 非我 なら 言葉を受ける わたしも 非我 に 住処を置かざるを得ない そうでなければ あなたは  「 有 」 我  です これこそ非我でなくて どうしますか ?>>
<<我が非我 ではないから 非我が説かれます  我は 我か 非我 か  はっきりさせてください>>

これも言っている意味が全く分かりません。
五蘊(色・受・想・行・識)が『わたし』ではない、つまり非我であることは、仏陀が繰り返し言っていることです。これは認めますか?認めませんか?
そして、私は、五蘊の集まりを『わたし』だと強烈に思い込んでいる事実があります。
五蘊の集まりがあり、名前があります。
それを『わたし』と思い込んでいます。あなたもそうでしょう?そうでないと生活できないですね?
自分の名前を呼ばれて『わたしではない』と思っていたら日常生活が成り立たないですね?
仏陀五蘊は非我というけど、私は『わたし』だと深く思い込んでいるわけです。
あなたは違うのですか?


<<部品 こそ 「我」です 「我」は常に部品に投影されて「我」を形成する  「我」こそ実体です (我が非我なら 非我は実体です)>>

『「我」こそ実体です』というのは、あなたの考えですか?
あなたの言っている言葉の意味が全く分かりません。

 

ところで、いつまで、そのような言葉遊びをするつもりですか?
その言葉遊びはあなたに何をもたらせましたか?

 

 

~~~~~~~

 

 

<<自我が あなたに あって あなたは 記述していますか あなたに自我はないのですか>>

あなたはさっきの私の投稿を読んでいないのですか?
仏陀五蘊は非我というけど、私は『わたし』だと深く思い込んでいるわけです。』と書いているのが分かりませんか。
『わたし』だと深く思い込んでいるのが自我です。

 

~~~~~~~

 

 

あなたは私が書いたことを理解していない。
私はそもそも仏教で『諸法無我』と言われているのは実は『諸法非我』だと思っているのです。
また、龍樹が言ったような、『すべての存在は縁起によって成り立っているから、自性がない、空である、無我である、実体がない』というのは歴史上の仏陀が言ったことではないと批判しているのです。
その上で
『すべての存在は縁起によって生じているから自性がない、実体がない、空である、無我である、つまり諸法無我だ、という龍樹から始まった理論をどんなに振りかざしても、その観念自体は表象=五蘊の中の想 にしか過ぎず、自我を構成するだけです。諸法無我を声高に叫んでいる人に限って、我塊や我執が非常に強固であったりします。』
と書いたのです。

つまり、龍樹仏教を振りかざして、無我だ、空だ、どんなものも実体がない、と声高に言っている人が果たして自我がないだろうか?と言っているのですよ。

投稿するならちゃんと読んでほしいものです。

 

~~~~~~~

 

 

<<それでもわたしの記述が悪いとするならどこが悪くて、分からないかを明らかにする気はありますか ?>>

では、一例として、あなたの次の文章を見てみましょう。
<<あなたの無明を 晴らすことではなく  わたしの無明を 晴らすことが あなたにどう関係するかで  仏説も成り立ちます>>

わたしには、この文章を何度読んでも意味が分からないのです。
<<わたしの無明を晴らすことがあなたにどう関係するかで、仏説も成り立つ>>
この文章に何の意味があるのでしょうか?
春間氏の無明を晴らす(無明を晴らすという言葉は私は使いませんので、無明を滅すると理解します)ことは、春間氏自身の問題であり、私には何の関係もありません。
仮にどのように関係したとしても、それと関係なく、仏説は仏説ですよ。

まずは、<<あなたの無明を 晴らすことではなく  わたしの無明を 晴らすことが あなたにどう関係するかで  仏説も成り立ちます>>はどういう意味なのですか?

 

~~~~~~

 

あなたと和弘氏は、こちらの質問には一切答えず
ただの自分独自の言葉遊び、観念の遊びでごまかすだけなので
会話が成り立たないのです。

今回も私はあなたに真摯に質問をしました。
しかし、どうしても正面から答えませんね。

童子のたわむれに  砂をあつめて仏塔とせる』のは、砂浜か公園の砂場でやってください。
砂で仏塔をつくっても皆仏道を成じるということですから。

 

~~~~~~

 

<<これは、春間氏が「大乗仏教は利他であるから、ショーシャンクさんの自分の無明を晴らす前に、春間氏の無明を晴らして春間氏を仏の極楽を渡してみなさい。それが、菩薩業、菩薩行だ」と言っているのでは、ないでしょうか?>>

 

なるほど。そうであれば、春間氏本人の口からそう説明すればいいと思いますね。
ただ、自分の無明を晴らせない者が、他人の無明を晴らせるわけないですね。
私は強固な自我があると言っているのですが。
それに、春間氏と和弘氏の思考パターンでは、自分はすでに悟っていると思っていて、悟っている自分がこの掲示板で他人の無明を取り除こうと菩薩業に邁進しているみたいなので、まさか春間氏が自分の無明を晴らしてみなさいとは言わないでしょうね(笑)

和弘氏も『衆生を開示悟入させるために掲示板に投稿している』らしいです。『開示悟入』は仏の出世の本懐で、衆生をして仏知見を開かしめ、示し、悟らしめ、入らしめることを言います。仏がそのためにこの世に生まれた一大目的です。

このカテゴリーには菩薩たちがいっぱい跋扈してますから凄いですね。

 

 

~~~~~~

 

 

あなたはさかんに『唯仏与仏 乃能究尽』という言葉を使い、和弘氏は『開示悟入』という言葉を使います。
どちらも、自分が仏であるという強い思いがなければ使えない言葉です。

私が『このカテゴリーには菩薩たちがいっぱい跋扈してますから凄いですね。』と言ったときの『菩薩』は自称、菩薩です。でないと、『跋扈』なんて言葉は使いません(笑)

しかし、それにしても、龍樹や道元に心酔しているところなど春間氏と和弘氏は共通点が多いですね。
お互いに研鑽し合ったらいいのではないでしょうか。

私は龍樹にも道元にも興味はないので、興味分野が共通のお二人で切磋琢磨しあったらどうですか?

 

 

~~~~~~

 

<<あなたにだけ は 自我(の行使)は 許されているのですか ?>>

またまた意味のないことを。
わたしにも強固な自我が厳然としてあり、他の人にも自我があります。
許されるも何も、みんな自我があって生活してますね。

前に書いたのは、『諸法無我』と声高に主張する人は、本当に自我がないのですか?と問うたのです。
無我だ、空だ、と表象で考えても『わたしという中心』は厳然としてありますね?
そのことを言ったのです。
中心を消滅させるためには、表象では無理なのではないかということです。

 

 

~~~~~~

 

 

確かに、龍樹の後世への影響は凄まじく、龍樹独自の理論(縁起から無自性、空、無我を導いたこと)が仏教の根本教義となっていきました。
これにより、仏陀が説いた縁起の法などは龍樹の理論に取って替わられてしまいました。

仏陀は言いました。
『私の正しい法は500年しか続かない』
『贋金が現れた時に本物が滅びる。贋金が現れるまでは滅びない。』

 

 

~~~~~~~

 

<<自称ではない 菩薩 と 自称菩薩   と では どこが  どのように 違いますか ? どちらが 正しき 菩薩であるか が 確立できなければ確立する根拠が 菩薩としての 道になければ あなたの根拠は どこからきていますか>>

 

日本語では、本当かどうかわからないけど本人だけが言っている、ということを『自称』と言うのです。
それもわかりませんか?

あなたも和弘氏も、仏や菩薩かどうかはわかりませんが、自分では『唯仏与仏』とか『開示悟入』と言っているので、本人は自分が仏か菩薩だと思っている、ということで『自称』です。

 

 

~~~~~~

 

ちゃんと文章読んで投稿してますか?

『本当かどうかわからないけど本人だけが言っている』『あなたも和弘氏も、仏や菩薩かどうかはわかりませんが』
と書いているでしょう?

私は判断はしてないのですよ。
あなたが菩薩か菩薩でないか、という判断もしてないし、わからない、と言っています。
正直、私にとって、あなたが菩薩でもそうでなくてもどうでもいい話です。
自分の判断無しに、ただ、本人が言っていることを『自称』と言うのです。

ちょっと、もう馬鹿馬鹿しくて時間がもったいないので、言葉遊びはやめてほしいですね。
和弘氏と他のスレで言葉遊びしていたらいいではないですか。

それでは忙しいので、これで。

 

~~~~~~

 

 

根拠はすでに書いています。
あなたは相手にレスするとき『唯仏与仏 乃能究尽』という言葉を頻繁に使って諭しています。
和弘氏は自分が投稿するのは『開示悟入』のためと書いています。
『唯仏与仏 乃能究尽』も『開示悟入』も全面的に仏の立場に立って初めて言える言葉です。

いくら表面上、『自分は仏や菩薩とは自称していない』と言っても、あなたと和弘氏の投稿はすべて『自分は悟っていて衆生を教え導くために投稿している』という意識から出ているのです。
ですから、間違いの指摘も真摯に受け止めることはできないのですよ。
自分は悟っていて、他の人はすべて悟っていない、という大前提があるからです。
自分がまだまだ何もわかっていない、という意識があれば、他人が投稿したこともちゃんと受け止めてそれへの真摯な返信をするでしょう。
それがあなた方2人は全くできていないのです。

 

 

~~~~~~

 

 

 

 

 

仏教についてのひとりごと 126

<<自我に実体は有るのだろうか?>>

 

自我に実体などありません。
『私』とは、五官の経験の記憶の束であり、思考や観念を寄せ集めたものにしか過ぎず
それを『私』という中心だと思っているだけです。

ただ、その思い込みは極めて強固なもので、その中心を消滅させるには、自我の成り立ちを洞察する以外にはないというのが私の結論です。

すべての存在は縁起によって生じているから自性がない、実体がない、空である、無我である、つまり諸法無我だ、という龍樹から始まった理論をどんなに振りかざしても、その観念自体は表象=五蘊の中の想 にしか過ぎず、自我を構成するだけです。

諸法無我を声高に叫んでいる人に限って、我塊や我執が非常に強固であったりします。

 

 

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四無量心が原始仏典で説かれているところということでしょうか。

慈悲喜捨の四無量心がそのまま説かれている原始仏典は比較的少なく
慈無量心だけ説かれていることが多いですが、慈悲喜捨すべてが説かれる原始仏典もあります。


例えば
『中阿含経』巻廿一 長壽王品「説処経」第十五
『阿難よ、私はおまえのために四無量について説こう。比丘は心に慈しみを具え、一方(の生けるもの全て)に遍く満すことを成しつつ遊行する。このように、二方・三方・四方・四維・上下のあらゆる方向(の生けるもの全て)に遍く(慈心を)廻らす。心に慈を具え、煩悩無く、恨み無く、怒り無く、争い無くして、極めて広く、甚だ大きく、限りない善を修め、(慈しみを)すべての世界に遍く満たすことを成しつつ遊行する。同様に、悲・喜もまた、捨とを具えて、煩悩無く、恨み無く、怒り無く、争い無くして、極めて広く、甚だ大きく、限りない善を修め、(慈心を)すべての世界に遍く満たすことを成しつつ遊行する。阿難よ、この四無量について、汝は諸々の出家して間もない比丘達に以上のように説教するべきである。もし諸々の出家して間もない比丘たちの為に、この四無量を説教したならば、すなわち安穏を得、力を得、楽を得て。身心に悩み煩いないであろう、終生これを行うことは崇高な行いである、と。』


スッタニパータでは慈経と言われる第一章の八(慈しみ)で慈無量心が説かれます。
また、第一章の三にある73では『慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。』とあり
慈悲喜捨すべてと解脱が同格に語られています。

 

 

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四無量心が原始仏典に出てきている箇所としては、もっと適切なものとして
四無量心による無量心解脱を説いた、『中部経典第43経 大有明経』があります。

『友よ、ここに比丘が慈愛のこもったこころを一つの方向に広げて住みます。同じく第二の方向に、第三の方向に、第四の方向に、同じく上に、下に、横に、あらゆるところに、全体に、全世界に、慈愛のこもった、広く大きく無量で敵意のない怒りのないこころを広げて住みます。
悲しみのこもったこころを・・・・喜びのこもったこころを・・・・中庸なこころを・・・・』
とあります。
訳は、春秋社『原始仏典』中部経典Ⅱです。

律蔵大品に関してはいろいろ本がありますが、Amazonプライム会員のkindle読み放題で無料のものとして『大蔵経 律蔵・犍度部・大品1~24 アオキ靖訳』があって無料なのでおすすめです。

 

 

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<<「律蔵」を、なぜ、「最古の仏典」と位置づけられるのですか?>>

 

律蔵大品が、『仏伝』の中で最古のものということで、『最古の仏伝』と言いました。
仏伝には後世、脚色されたものが多く、前世譚なども創作されました。
その中で、『仏伝』つまり仏陀の生涯を記述したものとしては、最古なのが律蔵大品だろうと思っています。

『最古の仏典』は、『スッタニパータ』第四章第五章であることは定説ですので
最古のスッタニパータよりは古層ではないですが、仏伝としては最古という意味です。

 

 

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華厳宗の宗密が書いた『註華嚴法界觀門 』に釈尊が明けの明星を見て悟ったときに発した言葉として『歎曰。奇哉。我今普見一切衆生。具有如來智慧徳相。但以妄想執著。』というのがあります。

中国の華厳宗が禅になっていきましたから、この言葉が禅宗で広まったものと思われます。
明けの明星を見て悟ったというのも、『歎曰。奇哉。我今普見一切衆生。具有如來智慧徳相。但以妄想執著。』と言ったというのも、歴史上の事実ではありません。

実際は、初夜・中夜・後夜、つまり夜の3つの時間帯に、仏陀は十二縁起を観じて、『すべての疑いがなくなった』としたのです。

 

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<<「前世譚」というのは、「ジャータカ」のことでしょう?!そうだとしますと、第一に、「真理のことば・感興のことば」に良く引用されている「”重要な教え”が、多々、含まれている”貴重な仏典”」と言えませんか?>>

 

『ジャータカ』は、『散文と韻文とで構成され、紀元前3世紀ごろの古代インドで伝承されていた説話などが元になっており、そこに仏教的な内容が付加されて成立したものと考えられている。』とされていますように、古代インドの伝承説話がベースになって後世できたものですので、仏教の要素はあるにしても仏陀の歴史的事実を扱った純粋な仏伝とは言えないとは思います。仏教の教えを盛り込んだ説話という意味では貴重な仏典であるかもしれませんが、歴史上の仏陀が本当は何を言ったか、という視点では、まずは純粋な仏伝を見たほうがいいかもしれません。

 

 

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<<F漢文部分」を訳していただけましたら、幸い至極です。>>

華厳経における『一切衆生皆有如来智慧徳相 但以妄想執著而不能證得』は
『一切衆生は皆如来智慧・徳相を具えている。ただ妄想・執著によって証得することができない』ということだと思います。


<<出典は、「ウダーナである旨」記載され>>

私は、仏陀成道のシーンは、ウダーナではなく、律蔵大品によっています。

 

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律蔵大品には、菩提樹下での仏陀の悟りから、様々な人たちが弟子になる場面までが書かれています。
どの訳で読んでも(訳の上手下手はあるにしても)同じです。

あなたが持っているという『ブッダが考えたこと』という本にも、律蔵大品=マハーヴァッガの成道場面はほとんどすべて引用されていますよ。
第二章の五(成道の過程)からは特に律蔵大品=マハーヴァッガの成道場面が記載されています。

大蔵経 律蔵・犍度部・大品1~24 アオキ靖訳』の成道場面では
十二縁起を、無知⇒行い⇒意識⇒名と形⇒六の国⇒接触⇒渇き⇒執着⇒存在⇒出生⇒老い・死・絶望など と訳してます。

訳に若干の違いはあっても、原典は同じですから、十二縁起を順逆観じたことも当然同じです。

これでいいでしょうか。

 

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仏教についてのひとりごと 125

<<仏教で言われている「悟り」と、菩薩の「悟り」とは同じ意味なのでしょうか?>>

 

菩薩とは、本来は、悟るため、仏になるために努力している修行者を意味しています。
古くは、修行の身であった前世の仏陀のことを菩薩と呼んだりしています。
悟るために修行しているのですから菩薩に悟りはありません。悟ったら仏と言われるからです。
これが本来的な意味での菩薩です。
あくまでも仏の前段階の修行者にしか過ぎません。

ところが、大乗仏教では、法蔵菩薩四十八願を立ててそれが成就するまで仏とならないと誓ったとする経典などの影響があり、『いつでも仏になれる境地に至っているけれども、あえて仏とならないで菩薩としてとどまる』というものが菩薩とされるようになってきました。
自分が悟る前に、すべての衆生を悟りに導く、
自分が彼岸に渡る前に、すべての衆生を彼岸に渡す、
という人格を菩薩というようになりました。

これは、自分の悟りだけを追求する小乗仏教のアンチテーゼとして生まれた大乗仏教ならではの考えで、『自分の悟りだけを考えるのはエゴイスト』『大乗仏教は自分より先に他人の悟りを考える』としたのです。

まあ、こんな考えに従えば、歴史上の仏陀は、自分の悟りだけのために、妻も生まれたばかり息子も捨て、国王である父も捨て、家臣団も数多くの国民も捨てたのですから、史上まれにみるエゴイストとなってしまいます。
そのため、大乗仏教では釈尊衆生を救うために出家したということになっていますが、事実としては、自らの苦の消滅、悟りのためにすべてを捨てたのです。

『すべての衆生を救うために、なれるのに仏とならずに菩薩のまま衆生を彼岸に渡す』
『人をのみ 渡し渡して おのが身は岸に渡らぬ 渡し守かな』なんていう思想、『自分の悟りだけを考えるのはエゴイスト』なんていう思想は、真理からほど遠いものです。

本当に悟ったら『自分』『私という中心』はなくなるのであって『自分の悟り』などというものがあるわけではありません。
私という中心がなくなってはじめて無量なのですから、悟らないままで他人を彼岸に導こうというのはあり得ないことなのです。
迷ったものが人を導いたら迷路に入ってしまうだけです。
大乗仏教はあまりにも観念的になりすぎましたね。

 

 

~~~~~~

 

 

確かにそうかもしれませんね。
ただ、日本では『悟り』というのは一般語になっているくらいポピュラーな仏教語なので
逆に他の言葉で替えがきかない感じもありますね。

『悟りというのは日本だけの言葉だ』と言っている上座部仏教スマナサーラ
ブッダの実践心理学―アビダンマ講義シリーズ〈第7巻〉瞑想と悟りの分析』『小さな「悟り」を積み重ねる』という本を出していますし、共著も多い藤本晃という人も『悟りの4つのステージ: 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果』『悟りの階梯―テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』という本を出していますから
上座部仏教であってもやはり『悟り』という言葉は使ってしまうのでしょうね。

 

 

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あなたの前に、釈尊の示す『不死の門』が開かれたのなら素晴らしいことです。
『感謝の意を称して、これにて失礼いたします。』とのことですから、
別れに際し、禅の造詣が深いあなたに禅の公案をはなむけとさせていただきます。

長沙の『南泉遷化』です。

長沙因三聖令秀上座問師曰、南泉遷化向甚麼處去。
師曰、石頭作沙弥時参見六祖。
秀曰、不問石頭見六祖。南泉遷化向甚麼處去。
師曰、教伊尋思去。
秀曰、和尚雖有千尺寒松。且無抽條石筍。
師黙然。
秀曰、謝和尚答話。
師亦黙然。
秀回挙似三聖。
聖曰。若恁麼猶勝臨済七歩。然雖如此、得我更験看。
至明日三聖上問、承問和尚昨日答南泉遷化一則語。可謂光前絶後今古空聞。
師亦黙然。


長沙の黙然の境地にぜひ到達して、釈尊の『不死の門』に入られるように願っています。

 

 

~~~~~~

 

 

私が言っている『観念』というのは、『人間が意識の対象についてもつ、主観的な像。表象。』のことです。
そして『観念論』と言っているのは『頭の中で組み立てた考え』『表象の組み合わせで出来た考え』のことです。

表象作用は、仏教では五蘊(色・受・想・行・識)の想です。
つまり非我であるものです。

また、四念処観の身・受・心・法の法です。
眼耳鼻舌身意の対象は色声香味触法ですが、その、意識の対象たる法です。


五蘊は非我であり、五蘊の一つ『想』=観念・表象をいかに積み上げても自我を構成するだけです。

さて、仏教者のほとんどすべてが、仏教とは無我の教えで、すべての存在は縁起によって生じているので自性がない、実体がない、空である、無我である、というのが仏教の根本だと思っています。
車は車輪やハンドルや様々な部品によって組み立てられているもので、車という実体はない、空である、車という名前だけのものである、と言います。

これを本気で考察したことがありますか?
そしてその結果自我がなくなり空になりましたか?

 

 

~~~~~~

 

 

<<例えば大乗仏教では慚愧が重視されていますが>>

そうですか。懺悔文を唱えることは知っていますが、大乗仏教で特に慚愧や懺悔が重要視されているようには見えませんでした。
具体的にはどのようなやり方でしているのでしょうか。

 

 

~~~~~~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仏教についてのひとりごと 124

<<「仏法の本義」って「ひと組ずつ」でしょう。最澄と徳一も“ひと組ずつ”です。
それを勝ち負けの論争すると、神に成り下がり仏道から落ちる。論争したのがまずかった。>>

 

あなたが拠り所にする龍樹なんかは、さかんに説一切有部などと論争に明け暮れましたよね。あなたの説では論争ばかりの龍樹は神なのですか?

 

<<私は車に「ジュンくん」と名前をつけて「ジュンくん今日もよろしく」と乗り込みます。南無車観世音菩薩です。また、朝店で、商品に「おはようございます」と挨拶します。
南無商品観世音菩薩です。>>

 

車や商品やエレベーターやエスカレーターに名前を付けて拝むのはあなたの自由ですが
肝心なのは対人間ですよね。
あなたの過去投稿を見てみましたら、あなたがさかんに言っている『有情に生かされ、非情に生かされている。一切は、「おかげ様の存在」という諸法無我でしょう。』というふうには全く見えません。

 

pipitさんが『『如是我聞』は『えーわんめーすたん、という音』だなぁ』と書いただけで
あなたは『精進の意味さえ分かっていませ能天気です。能天気の貴女のでいいのですよ』
『貴女には中道が分からないから「真剣さ」がない。正精進が分からないということです。
仏教の言葉に縛られないで、ありがままに生きて下さいな。 頭が悪くて能天気の貴女でいいのです。』
『貴女は、自分は善人だと思っている悪人です。内省しましょうね。』

なぜあなたは他人の全く悪意のない投稿にここまで口汚く罵らないといけないのですか?

あなたこそ、自分のなかのドロドロした強固な自我を洞察しなければいけない。
はっきり言って、あなたの攻撃性は普通ではないですよ。

とりさんや水月さんにも随分とひどい言葉で罵っていますね。

あなたに真摯に禅を修行しているあの人たちを罵る資格はないですよ。
あなたは、朝5分だけ数息観をするだけであとは禅の解説書を読んで分かった気になっている、禅の人たちから言えば最も馬鹿にされる『本で分かった気になっているだけ』の人です。
とりさんや水月さんの投稿には真摯さを感じますよ。

あなたのそのドロドロしたねちっこい攻撃性がなくなってから『すべてはお蔭様で生かされている』などと言ってくださいね。

 

 

~~~~~~

 

 

ちょっと時間がないので、今まであなたにしてきた質問で答えていただけなかったものばかりですので、ここで答えてくださいね。

①あなたがさかんに振り回す仏教というのはあなたの定義は何ですか?私の仏教の定義は、歴史上の仏陀が説いた教えのことです。
②もし、歴史上の仏陀と龍樹が違う考えだった場合でも、仏陀と全く違う考えをあなたは仏教と認めるのですか?
③大乗涅槃経の仏性は原語は、buddha-dhatu です。
dhatuは基体、本体という意味です。原語からすると、buddha-dhatu (仏性)は仏の基体という意味です。これに異論はありますか?
④あなたのいう識が毒というのは誰が説いているのですか?全くの間違いですね?
阿頼耶識は蔵識で、真妄の種子を蒔かれる場所ですから善悪はないですね?違いますか?
⑤九識も毒というのがあなたの大間違いであることが分かりませんか?
間違ったら謝って訂正するのが本当の仏教徒の態度ではないですか?

 

~~~~~~

 

<<その基体(実体)に対して、非を唱えて、非基体(諸法無我)を唱えたのが釈尊です。>>

だから、あなたがさかんに引用する『大乗涅槃経』を調べればわかりますよ。
『大乗涅槃経』に出てくる『仏性』は、buddha-dhatu です。
『すべての衆生はbuddha-dhatu を持っている。』
dhatuは『基体』と訳されます。
非基体を唱えたのが仏教であれば、『大乗涅槃経』は仏教ではないとあなたは言うのですか?
如来蔵思想は仏教ではないという学者もいますから、大乗涅槃経が仏教ではないとあなたが言ってもかまいませんよ。

ただ、大乗仏教の歴史を知れば、中期大乗以降かなり実体化しているのは確かですね。
初期大乗の般若経華厳経法華経にたいし
中期大乗の大乗涅槃経を中心とした如来蔵経典。
後期大乗の密教経典。
どんどん実体化はしてますね。

ほとんどの仏教学者は大乗仏教ヒンドゥー教の大きな影響を認めています。
大乗仏教ヒンドゥー教の影響を認めない仏教学者っていますか?
原始仏教にもバラモン教ジャイナ教の大きな影響があります。

その影響を否定し排除してきたのが後世の凡庸な仏教者たちです。
しかし、古層の仏典になればなるほどバラモン教ジャイナ教の用語が肯定的に数多く使われています。

原始仏教におけるジャイナ教の影響、大乗仏教におけるヒンドゥー教の影響は、もの凄く大きいですよ。
あなたは一切認めたくないでしょうけど。

 

~~~~~~

 

 

別に、大乗仏教に興味があるわけではなく、唯識論にも九識論にも関心はないですが
あなたがあまりにも大乗仏教唯識論、九識論もデタラメを私のスレッドで垂れ流しているので見ていられなくなっただけですよ。
私は大乗仏教の限界を知って、歴史上の仏陀の教えを探求しているので、当然、大乗仏教は知っています。ですから、あなたが大乗仏教についてデタラメを披露し続けていると言いたくなってしまうのですよ。

仏教を全く知らない人があなたの垂れ流すデタラメを大乗仏教と思い込むのはちょっとつらいですからね。
それにしても、私のスレ以外で、特にあなた自身のスレッドでどんなトンデモ説を垂れ流そうが全くどうでもいいので、そうしてください。

私のスレッドは、やはりデタラメは禁止したいですね(笑)

 

 

~~~~~~

 

 

私は創価学会も大嫌いだし、あなたが会員の真如苑も嫌いですよ。
いかなる宗教団体も精神の牢獄だと思っていますから
ほんの少しでも関りになることはないですね。
新興、既成問わず好きな団体は一つもありません。

あなたの投稿を見ていて強く感じるのは、自分で書いていることと実際にやっていることが全く違うということです。
あなたは龍樹の考えによって、言葉によるレッテル貼りを嫌ってましたよね。
しかし、実際のあなたは、あなたの『九識も毒だ』というトンデモ説が間違いだと指摘しただけで
『九識を実体化するということは創価学会だ』などと極めて杜撰で幼稚なレッテル貼りばかりしています。
書いていることと全く違う行動ばかりなのです。

私は大乗仏教に見切りをつけて原始仏典を探求しているのですから
別に唯識論も九識論もどうでもいいのです。
ただ、仏教史を客観的に俯瞰して観ると、大乗仏教になって、初期から中期、後期となるに従ってかなり実体化の方向に行っているのは確かのようです。
私は大乗仏教を信じているわけではないので、大乗仏教史が実体化の方に行こうがどうしようがどうでもいいのですが、
縁起や空の思想から、如来蔵思想が仏教でないと主張する学者もいますから
仏性、真如、法身を実体として捉える見方もかなり多いのでしょう。

私は、仏性を実体として捉えることも仏性に実体がないと断言することにも反対です。
仏陀が言ったように、涅槃や如来に実体があるか無いかの論争など、解脱に、涅槃に赴かないからです。
あなたのような頑迷で観念的な人たちによって、『仏教は実体がないことを説く教え』という固定観念で語られてきましたが、それが仏教がどこにも行き着かない観念のお遊びになった原因です。

五蘊や自我が空であり実体がないのは仏陀も言っています。
一切の形成されたものは空であると言っています。
そして、形成されざるものは無記です。
これが仏陀の本当の教えです。

 

 

~~~~~~~

 

 

また、答えられない質問はすべてスルーですか?(笑)

このスレに書き込むのであれば、きちんと聞かれたことくらいは逃げないで答えてくださいね。

①あなたがさかんに振りかざす仏教というのは何ですか?私の仏教の定義は、歴史上の仏陀が説いた教えのことです。あなたの仏教の定義を教えてください。

②歴史上の仏陀と全く違う考え、正反対の考えでも、仏教と言えますか?

③大乗涅槃経の仏性は原語は、buddha-dhatu です。
dhatuは基体、本体という意味です。原語からすると、buddha-dhatu (仏性)は仏の基体という意味です。これに異論はありますか?

阿頼耶識が毒とあなたは言いましたが、全くの間違いですね?
阿頼耶識は蔵識で、真妄の種子を蒔かれる場所ですから阿頼耶識自体には善悪はありません。違いますか?

⑤九識も毒というのがあなたの考えですが、阿摩羅識は清浄識です。間違いですね?

⑥あなたは『自分は仏教徒ではない』と書いたことがありますね。しかし、さかんに『仏教とはこうだ』『それは仏教ではない』と仏教にこだわっていますね。どちらが本当なのですか?

⑦あなたは『おかげ様の自己を自覚する』『縁起によって無数のものに生かされている。ありがたい。』が仏教の本質だと信じ込んでいるようですが
歴史上の仏陀が『縁起によって無数のものに生かされている。ありがたい。ありがたい。』などと言ったことは一度もありません。あるのであれば、典拠を示してください。
あなたが仏教と言っているものは日本独自の通俗仏教であって仏陀が説いたこととは全く関係ありません。むしろ、仏陀が説いたこととは真逆です。違いますか?

⑧あなたはさかんに『すべてに実体がない』のが仏教だと言います。
しかし、仏陀は、如来が死後も存続するかどうか、霊魂が存続するかどうか、世界が永遠か、無限か、このようなものはすべて無記としました。
そのような形而上の概念を弄ぶことを禁止しました。
『一切の形成されたもの』『五蘊の集まり』『現象』『自我』は当然、空であり、実体がありません。
しかし、形成されざるもの=涅槃 そして涅槃に至った如来に実体があるか実体がないかは仏陀は無記としました。
如来についてあなたのように実体がないと断言するのも、如来に実体があると断言するのも、仏陀の教えからすれば大間違いです。違いますか?

 

 

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<<枯れ木も山の賑わいくらいに思っておいた方が良いのかも知れませんね。しかし、何を聞いても、押し黙って答えが返ってこないのは解せませんね。>>

しかし、あまりにも程度が酷いですね。
他人のスレッドに、13連続投稿ですよ。
自分の投稿で埋め尽くす気のようです(笑)

あきれますね・・・

 

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仏教についてのひとりごと 123

<<無常と常住の対立和合したところの常。(断常中道)苦と楽の対立を和合したところの楽。(苦楽中道)我と無我の対立を和合したところの我。(有無中道)浄と不浄の対立を和合したところの浄。(浄穢中道)>>

仏陀はこう言っています。
『現れている以上、無とは言えない。
滅するものである以上、有とは言えない。』

非常にわかりやすいですね。

仏陀の言う『空』とは、『生じたものは必ず滅する。泡のようなものだ。』という意味で
誰が聞いても真実だと理解できるものです。

決して、『空とは有と無の二元対立を超越したもの』などという観念論ではないのです。

 

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卑弥呼さん、ありがとうございます。

この和弘という人は、他人のスレッドに自説を連続投稿するだけで
こちらの質問には正面から答えないので困っています。

せめて、ちゃんと質問や指摘には答える常識があれば対話が成り立つのですが
他人のスレも自説を披露する場としか考えていないのでしょう。
その自己中心性は、自ら主張している無我とは正反対なのに気がついていないようです。

 

 

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<<自分の思い通りにはならないのが苦諦でしょう。苦諦を覚っていただきたい。>>

ということは、あなたは他人に苦を与えると認識してわざと苦を与えているということですね。
無差別の殺傷犯と変わりないですね。
その自分の心の中のドロドロしたものを洞察していかないとあなたは悪い方向に行っていると思いますよ。


<<戦う只中に真理があります。戦いながら調和するものでしょう。>>

だんだん、言っていることが危ない人のようになってきていますね。
仏教の基本、仏陀の基本は「戦うな」ですけどね。
あなたの思想は危ないですよ。

 

 

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<<「平和」だけを取捨することを偏見といいまして、偏りは逆に危険なのです。>>

 

全くの間違いですね。
あなたは観念論の迷路に入り込んでいて、自らの心がドロドロになってしかもズタズタに引き裂かれていますね。

スッタニパータ
275 もしもかれが荒々しいことばを語り、他人を苦しめ悩ますことを好み、獣のごとくであるならば、その人の生活はさらに悪いものとなり、自分の塵汚れを増す。

276 争論を楽しみ、迷妄の性質に蔽われている修行者は、ブッダの説きたもうた理法を、説明されても理解しない。

277 かれは無明に誘われて、修養をつんだ他の人を苦しめ悩まし、煩悩が地獄に赴く道であることを知らない。

 

 

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あなたは、自分のドグマを他人のスレで披露したいという自己中心的な欲望に駆られているだけなので、自分が答えられないもの、都合の悪いものはすべて無視するのです。
自分が答えられる箇所、得意な箇所だけには勢い込んで返答するのです。

これは求道の基本的な精神ではないということです。

あなたが答えられないのは、ただ仏教学者の解説書の中から自分が気に入ったことを切り貼りして自説にしているだけだからです。
ブッダがどう言ったのか、は調べようともしないし、典拠もあやふやなものばかりです。

本当に仏陀の教えに触れたいのであれば、仏陀の言葉の理解からです。
それなしに、釈尊の精神を直接体験するなどというのは、オウムのような怪しげな者たちがいう危ない考えです。

 

 

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<<「自他不二とはこういうことだ!」と言ってのけた方がいた。>>
<<人間の分別で自他不二という、対立する者の和合ができるわけはないのである。
それができると思うのは妄想である。その方の言ってのけたことも妄想である。>>

 

いや。卑弥呼さんの言われたことは正しいですよ。
あなたが本当に自他不二の境地にいるのであれば、他人が迷惑がっていること、他人が苦痛と思っていることはわざわざできない、ということを言われているのです。

あなたが、いくら、自分は釈尊の無我を直接経験した、自他不二になったと言ったところで
あなたが自分の止められない承認欲求・我執から投稿し続けていることがみんなからは見え見えなのです。
裸の王様は恥ずかしいので、そろそろやめて、私のように自分のスレッドだけに細々と書き込めばいいのではないですか。

 

 

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<<仏陀を真剣に考え抜いていけば人間の思惟の限界にいたり>>

今までの仏教学者の仏陀解説書を読んだだけで「直接経験」した気になっているのがあなたですから
仏陀を真剣に考え抜いたことなどないでしょうね。

あなたは、「仏陀を考え抜いたふりをすること」はやめたほうがいい。
あなたが行なっているのは、いろいろな遍歴の末に龍樹の解説書を読んで感激し
龍樹の思想を基に、原始仏典から「二元対立を超越するような文言」を目を皿にして探し求め
無理矢理、「仏陀の言っていることと龍樹の言っていることは同じ、不二中道だ」と結論付けたことだけです。

それは何ら「歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったか」という探求ではなく
最初から龍樹の哲学という結論があって、その観念を強めるためだけにスッタニパータなどの古層の仏典を読んだに過ぎません。

それをあなたは『釈尊の直接経験』と言っているのです。

あなたには最初から結論があるので、対話して修正することもしたくないのです。

 

 

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<<サーンキヤ派・ヴァイシェシカ派・順世派・ジャイナ教などあらゆる外道すなわち仏教以外の教えがひとしく仏への道となり得ることを説いている。これらはいずれも大乗仏教の起こったころインドで行われていた教派である。空の肯定の意味を徹底的に考えれば、そうならざるを得ないであろう。>>

 

それは素晴らしいことですよ。
それでは、バラモン教もそれが発展したヒンドゥー教も、仏の道と、あなたは考えているのですね?
あなたはいつも、バラモン教ヒンドゥー教を外道と貶していたのですが、そうではなく、ヒンドゥー教も解脱の道になり得るということですね?

 

 

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<<間違ったことを放って置いたら、私のようなおバカさんは、何でも本気にするし、間違った解釈が身について仕舞います。ソレを未然に食い止めようとする人が居ても良いじゃあありませんか。>>

その通りです。
もし、誰かの書いていることが間違いだと思っていて、その間違いの指摘をするのはいいと思いますよ。
和弘という人は、このスレに『スッタニパータ』や『大乗涅槃経』の自分の解釈を書いてきました。
それに対し、私は『スッタニパータ』や『大乗涅槃経』の典拠を示して、和弘氏の解釈の間違いをひとつひとつ指摘していきました。
もし、私のその指摘が間違いと思うのであれば、それに対し、ちゃんと典拠を示してその間違いを指摘してくれれば、どちらが正しいか間違いかが、このスレを読む人にもはっきりしますので
それは私も望むところです。
しかし、和弘という人は、私の指摘に対して一度も答えてくれませんし、その指摘と関係のない自説をまた貼り続けるだけなのです。
私は、原典を探求してますので、和弘という人の主張の間違いの点がよくわかりますし、それを何十となく指摘し続けていますが、それについての意見は一切してきません。
それでは対話は成り立ちませんし、あなたのいうようにどちらが間違った解釈なのかがわかりません。
他人のスレッドに自分の主張を大量に貼り続けるのであれば、私から原典を示しての間違いの指摘があった場合は真摯に説明するべきでしょう。
それを全くしないで、ただ自説を張り続けるのでは迷惑投稿以外ではなくなります。

 

 

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<<和さんばかりでなく、私までショーシャンク様には不愉快な思いをお掛けし、申し訳ありません。>>
<<「何が言いたくて何を訴えているのかな?」と言う姿勢で臨んで頂けたら少しは問題解決の方向へと向かうのではないかと思います。>>
<<また、分らないこと等ありましたらお教え頂きたく、ココを訪れるかも知れませんが、よろしくお願い致します。>>

 

和弘氏が勉強熱心で読書家であることは誰もが認めていると思います。大乗仏教に詳しいですので、ぜひあなたも和弘氏のスレッドで勉強されたらいいのではないかと思います。

私がこのスレッドを立てたのは、『歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか』を探求するためです。
それには、いったん今までの仏教理解をすべて白紙にして、仏陀の肉声に近いものを読んでいくことから始めようと思ったのです。
仏教の全否定から入りましたので、仏教をあまり知らない人にはこのスレは全く役に立たないと思います。
今まで、仏教を深く探求してきて、どうしても今までの仏教では自分が変わらない、仏陀は本当は何を言ったのだろうかというところまで行った人のためと考えてください。
ですから、仏教をあまり知らない人には、他の大乗仏教に詳しい人に聞かれることをお薦めしています。

そして、仏教の全否定から白紙の状態で仏陀の肉声を聞こうとしたのはよかったと思います。
わたしなりに納得がいきましたし、あとは自費出版を書いて残せば私の人生は自己満足で終われるのです。
ですから、このスレもすでに必要ではありません。
気の向いたときに気の向いたことを書くようにしたいと思っています。
ヤフー掲示板は悪意のあるアラシには非常に脆弱で防御できません。ですから、数多くの優良なスレッドが閉鎖していきました。
やはりTwitterやブログに行った方がいいかもしれないとは考えています。
その前に自費出版を何としても残したいとは思っていますが。
読んでくれる人が生前は一人もいなくても私の死後にたまたま読んだ人が少しでもプラスになれば生きてきた甲斐があるというもので完全な自己満足です。

もし、あなたが和弘氏に恩義を感じておられるのであれば、和弘氏のスレッドに頻繁に投稿して盛り上げてあげるのが最もいいと思います。
親切に教えてくれるはずです。

 

 

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pipitさん、こんにちは。
ありがとうございます。

<<【忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は〈道の人〉ではない。】>>

その通りですね。

今月、オウム真理教事件の死刑囚が全員刑を執行されましたね。
哲学や宗教などの精神世界に関心のある人なら避けて通れないテーマかもしれませんので
いろいろ考えることがありました。
日本のトップともいえるくらい頭のいい人たちがなぜ大量殺人までしてしまったのか、です。
あの頃、日本の偏差値トップの東大医学部にも1学年に必ず1人以上はオウム真理教の信者がいたと言います。

彼らはのめり込むまでに引き返すことができなかったのか、あるいはどうすれば引き返すことができたのか、をいま考えている最中です。

一つ確実に言えることは、口で言うことと実際に行なっていることが違う人は、それが分かった時点で絶対に信用してはいけない、ということです。
麻原は信者には愛欲を断て、と強要していながら、自分は100人もの愛人がいたと言います。
もちろん、理屈は何とでもつけられるのです。少し精神世界をかじった人なら、他の学問と違いファジーな世界ですから、悟った人は煩悩があるように見えてもそれに捉われていないからいいのだ、とか、わざわざ慈愛のために自分のエネルギーを分け与えるとか、馬鹿みたいな理屈はいくらでもつけられます。
しかし、根本の根本、自分が実践してないものを他人に言う人間は信用してはいけないということだけは最低限、そうですね。

それだけでも心に留めておけば、あのように優秀な人たちが大量殺人などにまで至る前に引き返せたのではないかと思います。

口ではいくらでも綺麗ごとは言えますが、『他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は〈道の人〉ではない。』と仏陀が言われたように、
いくら口先で慈悲だとか慈愛だとか言っても、他人を害したり殺したりするものは到底、道の人ではないということでしょうね。
私も深く肝に銘じなければいけない言葉です。

 

 

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卑弥呼さん、ありがとうございます。

<<和弘さんの考えをショーシャンクさんのトピに書き連ねるのは仏心というよりも悪行になるかもしれません。阿修羅だとか戦いだとか遊びとか言ってますが、和弘さんはこの世で悪行を積んでいるのだとしたら、遊びでは済まされませんね。>>

この卑弥呼さんの投稿に対して、和弘という人はこう言っています。
『『法華経』は絶対肯定の世界ですね。しかし、人々をその絶対肯定の「一乗の菩薩道」に導く厳しさもある。導く方向性が違うとしても、SANさんがしている広宣流布ですよ。
開示悟入。私もそんなことで、悪行三昧と言われています。』

徐々に和弘という人の本音が出てきましたね。
自分の行為は【開示悟入】だそうです。
これには本当に驚きました。
私には、自分の行為を開示悟入などとは絶対に言えないですし言えるわけがないです。

【開示悟入】とは、法華経に出てくる【諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得しめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。】という経文のことです。

釈尊などの仏が、この世に出現する本懐、一大目的のことです。

衆生に、仏知見を開かしめ、示し、悟らしめ、入らしめん、というのは仏にしかできず
釈尊の出世の本懐であるのですが、和弘という人は、自分が掲示板に自説を大量投稿するのは、仏の本懐である開示悟入だと言っているのです。

だんだん、和弘という人の本音が出てきました。
自分を仏と同じ悟りに達していると思い込んでいるようです。
そう考えると、投稿の間違いの指摘にも全く答えない理由が分かりました。
この掲示板で歴史上の仏陀は本当には何を言ったのかを探求しようという気はなく
ただ、「仏と同じ悟りを得ている自分」の高説を大量に貼り続けることで
自分以外の迷いの衆生を仏知見に【開示悟入】させようとしているのだ、ということです。

最初から、教えてやる、救ってやる、悟らしてやるという立場で臨んでいますから、対話が成り立つはずもなく、自説の間違いをいくら指摘されても全く無視するはずです。

これが、和弘という人の本音でした。

 

 

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あなたの投稿を見ると、いろいろな意味で危うさを感じます。
まずは、自分の勤務先名などの個人情報は書かない方がいいですよ。
あなたは、他人が自分の個人情報を云々すると言いますが、すべて自分のことを語りたいというあなたの欲望、衝動から積極的に自らのことをアピールしている結果です。
あなたが自分語りをしてきたために、古くからいる人はみんなあなたの個人情報を知っているのです。
あなたが語らなければ知りようがありません。

契約更新になったことは祝したいですが、そのやりとりを見ても、ちょっと危うさを感じます。
あなたは日常生活でかなりクレーマーに近いことをしてませんか?
自分が接客を一生懸命している自負が人一倍あるので、それをしていない人を許せないのではないですか?

クレームをつけたい自分、説教をしたくてたまらない自分、自分語りしたくてたまらない自分、を一度きちんと洞察した方がいいですよ。

それがどこから来るか、です。

 

 

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ちょっと、どんどん酷くなっているので一言。

大乗仏教にしても唯識論にしても九識論にしてもこんなに間違いだらけを並べ立てるのはいい加減やめたほうがいい。
対話もせずに自分のドグマを一方的に披露するだけなら自分のスレでしてください。
それが大人というものです。

<<識は毒ですが、その毒を〈自性清浄心〉という薬に変えることができるというのが、如来蔵思想、すなわち〈仏性〉です。>>
阿頼耶識でさえ、『毒』ではないですよ。真妄どちらの種子も蒔かれますから阿頼耶識自体は善悪どちらにも属しません。
ですから、阿頼耶識も『毒』ではなく、ましてや阿摩羅識は清浄識です。

<<阿頼耶識が大円鏡智という仏智に変わるように、九識(阿摩羅識)も修行によって智慧に変えこそ仏智でしょう。>>
<<「九識は唱題という行によって仏性に変わる」のではないのでしょうか。>>

これも全く違います。
九識こそ仏性です。仏の基体です。
九識が唱題という行によって仏性に変わるのではなく、仏性である九識が唱題によって呼び覚まされるのです。隠れていた本質が輝いてくるというのが九識論です。

<<九識という毒を、仏の行のよって薬に変える>>

よく、ここまで唯識論、九識論についてデタラメが書けますね。
デタラメは自分のスレッドにだけ書いてくださいね。
<<九識という毒>>、よくそんなことが書けますね。
これはさすがにどんな馬鹿な仏教学者でも言わないでしょうね。
あなたの勝手なドグマです。

 

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