仏教についてのひとりごと 131

あくまでも、私が勝手に考えていることですが、
仏教が成立した最初期から仏教は仏陀の真意とは違う方向に行ってしまったと考えています。

仏陀は、正しいもの、善なるものを求めて修行し目覚めたのであって
決して仏教なるものをつくろうとか、自分が説いた教えがそれまでの考えを否定する独自のものだとか、思ってもいませんでした。
仏陀は、無常であり苦であるものを我、我が物、わが本体としてはいけないとして、五蘊非我を説き、五蘊を離れた本当の自己の確立、本当の主体の確立を説いたのですが、
弟子たちは、我に非ずを、我(アートマン)などはないと解釈してしまいました。
仏教が最勝最高の教えであり他の教えは外道としてすべて間違っていると強調していったこともあり、諸法無我バラモン教アートマン思想を徹底的に全否定する旗印となりました。

諸法無我といい、自己がない、アートマンがないなら、行為の結果は誰が受け取るのだ?善因善果悪因悪果ではないのか?輪廻する主体は何だ?と
他の宗教から総攻撃されます。

その苦し紛れの回答として、部派仏教の正量部は『非即非離蘊の我』を、説一切有部は『刹那滅の心の相続』という理論を、経量部は『相続転変差別』という理論を考え出します。

要は、一瞬一瞬滅しては次の瞬間同じようなものが生じる、という理論です。
連続しているとも言えないし、非連続とも言えない、だから、連続した主体など無いのだ、という何とも苦しい理論です。

こういう論戦も部派や他宗教との間で盛んになったこともあり、部派仏教は非常に煩瑣な教学に没頭するようになりました。
バラモン教と全く違う宗教だと強調するために、諸法無我はますます強調されていきました。

こうした中、大乗仏教は、部派仏教のアンチテーゼ、批判勢力として、失われた主体の復興運動、出家至上から在家仏教運動、煩瑣な哲学への批判運動として興ったと私は思っています。

 

 

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大乗仏典は、それまで見失われていた『大いなるもの』『無量のもの』そして絶対の主体を讃歌するもので、芸術的にも素晴らしいものです。

しかし、大乗仏典は第一結集で確定した仏陀の教えではなく、後世の人が創作したものでしたので、当然、今までの仏教からは『それは仏陀の教えではない』『非仏説だ』と非難轟々でした。

そのままでは、大乗仏教は広まらなかったと思います。
『それは仏陀の教えではない』と言われるとその通りでどうしようもなかったからです。

そこに出現したのが龍樹です。

龍樹は、『それは仏陀の言葉ではない』と非難する説一切有部などの部派仏教に対し、
『言葉で表すのは世俗諦、真諦は言葉という仮説を超えたところにある』として
言い負かしていきました。

仏陀の本当の言葉かそうでないかの論戦であれば勝ち目はなかったところ、言葉自体が相対的なもの、縁起(笑)によって『長いもの』という言葉は『短いもの』という言葉と相依しているので実体がない、と否定することにより、違う土俵を作った頭の良さで論破していったのです。

これで、大乗仏教は興隆しました。
龍樹が大乗仏教の祖とされるのは小乗仏教を言い負かしていったからです。

しかし、大乗仏教は、龍樹のせいで、悪い方向に行ったと私は見てます。

縁起という言葉から無我を導き出して、大乗仏教でも無我を確定させ、主体の回復が台無しになったこと。
煩瑣なアビダルマ哲学のアンチテーゼとして生まれたはずの大乗仏教を結局煩瑣な哲学体系にしてしまったこと。


いずれにせよ、このように仏教自体、『無我』=自己がない、アートマンがない、霊魂がない、主体がない、実体がない、というように進んできたものですから
浄土真宗の各派も、『無我なので死後の世界も輪廻転生もない』としているのです。
特に親鸞は龍樹の影響を強く受けていますから浄土真宗はそうしているのでしょうね。

仏陀は、死後の世界も輪廻も説いてますから、それを否定するのはおかしいのですが
今の仏教は仏陀の真意とはかけ離れているという証左ではあります。

 

 

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<<普通は不連続の連続で良いと思うね 心は絶えず縁により変化する。>>

 

心は五蘊ですよ。
五蘊は無常で、非我です。
心が変化するなんて当たり前です。

あなたは心が不連続の連続の我だとでも思っているのですか?

そこから違うのです。

仏陀は、身心は五蘊五蘊は無常、苦、非我だと言っているのですよ。

 

 

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sabbe dhamma anatta を否定などしてませんよ。

sabbe dhamma anatta は最初期の仏教では諸法非我という意味であったと言っているだけですよ。

なぜなら、仏陀は、『無常で苦であるものを、我、我が物、わが本体とみなしていいであろうか。』と繰り返し説いており、これが仏陀の根本だからです。
この言葉からすると、無常で苦なるものは非我と説いていることは明確ですね。
違いますか?

 

 

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<<大谷派東本願寺***輪廻転生を肯定してません(死後、否定)
(西)本願寺派***仏教の無我説を支持しており、死後も輪廻転生も認めません。
両派とも死後を認めてませんが、それであれば、両派のバイブルとも言える無量寿経のこの記述は整合性を欠きますが?なぜ、こういうことが起きているのでしょうか?
そして、こうして地獄の説明も無量寿経にあるのに、なぜ、親鸞はすべての人の極楽往生を約束できたのでしょうか?>>

 

そうですね。
これは仏教の根本にかかわる大問題です。
仏教は混乱しているのです。
そして、その混乱は仏教が成立した最初期から存在しどんどん大きくなっていった感じです。

高原さんが問われた、この質問は、答えるにはなんとも複雑な原因が入り交じっていますので
少しまとめてから答えさせてください。

キーワードは『無我』です。
この『無我』をめぐって、仏教は混乱を極めていきます。

また、キリスト教における『聖書』が仏教にはないのです。
『般若心経』『法華経』『大無量寿経』『大日経』『華厳経』または原始仏典
宗派によって聖典が全く違います。

仏教で最も重要なものは仏法僧の三宝ですが
帰依仏の仏も、宗派によって全く違います。
帰依法の法も、宗派によって全く違います。
帰依僧に関しては、本来はサンガ(修行者集団)のことです。

 

<<こうして地獄の説明も無量寿経にあるのに、なぜ、親鸞はすべての人の極楽往生を約束できたのでしょうか?>>

 

無量寿経四十八願、特に第十八願からでしょうけど、経典には『唯除五逆誹謗正法』とありますから、この文を排除するために相当苦労したようです。

恵信尼消息を調べても、実際、親鸞その人が救われて本当に大往生したのかは疑問には思っています。

また、週末でも時間があるときに答えたいと思います。

 

 

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高原さんの質問に回答したのです。

最近、うんざりするのは、誰かの真摯な質問には答えようと思うのですが
その人の質問に答えると、他の人から質問攻めに遭ってしまって
それも繰り返し前に答えた同じ質問なので、時間を浪費してしまうことです。

あなたは、私が『諸法非我』だと書いたら必ず同じ質問をしてきますね。
何度も答えてきたことをまた回答しなくてはいけないのですか?

私はあなたがたが『仏教は諸法無我だ』というのは構わないのです。
その解釈でずっとおられればいいと思いますし、それを変えてやろうという気は全くないのです。

今回書いたのは、『無我』をめぐって仏教が混乱して、仏陀が説いた輪廻も死後の世界も否定する僧侶が増えているということです。その歴史的な経緯です。

『無常で苦であるものを、我、我が物、わが本体とみなしていいであろうか。』は、原始仏典では本当に頻繁に出てくる言葉です。
ですから、非常に根本的な重要な教えであるのです。
『無常で苦であるものを、我、我が物、わが本体とみなしていいであろうか。』という言葉を見ると、どう見ても、無常・苦・非我ですよね?

しかし、どう典拠を示して説明しても、今まで2500年にわたって仏教とはこうだと思ってきたのですから、虚しいだけです。
ですから、もうあまり説明したいとも思わないのです。
ただ、真摯な人が質問してきたときはなるべく答えたいのですが、このように横から前に受けた質問ばかりしてきますので、今度からは過去投稿を読んでくださいというしかないですね。

 

 

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<<そうなると、第一結集で無我は真理だと説かれた教えは間違いであるという解釈ですね。 常住不変の霊魂があるという解釈なのですか?>>

これも過去に何度も説明してきました。
これでその質問は最後にしてください。

第一結集ではsabbe dhamma anattaです。これは、『すべての事象はわたしではない』というのが最初期の原始仏教だということです。

<<常住不変の霊魂があるという解釈なのですか?>>
仏陀は、霊魂が死後存続するかどうかは無記としました。
あると断定するのも、ないと断定するのも、どちらも間違いです。

<<久遠実成教主は、法ですから私たちが眼にみるような実体は有るものではなく、無いものでもないという事になる>>

何を言ってるのですか?実体とは眼に見えるものという意味ではありませんよ。
久遠に存続するものということです。
久遠実成の釈迦如来は久遠に存続するのではないですか?

しかし、龍樹は如来にも実体がないと言ってますよね?
それはどうなのですか?

 

 

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<<浄土真宗がお浄土というものを信じ、輪廻はない、と言っているのと、「信仰である」点において変わらなくないですか。>>

浄土というのは死後に行くところと浄土系の経典ではなってますよね。
浄土真宗はその浄土系の経典を所依の経典としていますよね。
そして葬式もしてます。
その浄土真宗の僧が死後の世界を否定するというのは、自らの信仰を否定することではないですか?

 

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<<「死後のことなど誰にもわからない」というのが、真実なんじゃないか>>

そうでしょうね。
ただ、特に浄土教は、この世を穢土として、死後に浄土に生まれることを教えの根幹としてきました。
源信も死後の世界のことを細かに描いてますよね。
それが浄土教です。
死後の世界が大前提の浄土教という宗教において、その僧侶が死後の世界を否定したとすれば、それはおかしいとは思います。

 

 

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死後の世界があるか、ないか、を論じているのではありません。
それは証明できないことです。

私は、仏陀が言ったことと、仏教が違って行ったということを言っているだけです。

 

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<<仏陀は、死後の世界も輪廻も説いてますから、それを否定するのはおかしいのですが
今の仏教は仏陀の真意とはかけ離れているという証左ではあります。>>

赤い実さんは上記の私の言葉に関して聞かれましたよね。
<<浄土真宗がお浄土というものを信じ、輪廻はない、と言っているのと、「信仰である」点において変わらなくないですか。>>と。

仏教は仏陀の教えだというのが建前だと思いますが、仏教である浄土真宗は、もし仏陀が死後の世界も輪廻も説いているのだとしたら、それを否定しているのはおかしいと書いたのです。

浄土真宗仏陀の教えでなく、親鸞の教えだというのであれば何も言いません。

ただ、仏教と名乗っているところも仏陀の言っていることとはかけ離れてしまったことを指摘したのです。

 

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もう頼みますから、投稿するのであれば、ちゃんと最初からのやり取りを読んでからにしてください。

高原さんの
浄土真宗も宗教である限り、「死後」の質問は多いと見え、ここに限らず、どこの宗派でも公式の見解としてホームページに記載があります。
谷派東本願寺***輪廻転生を肯定してません(死後、否定)
(西)本願寺派***仏教の無我説を支持しており、死後も輪廻転生も認めません。
両派とも死後を認めてませんが、それであれば、両派のバイブルとも言える無量寿経のこの記述は整合性を欠きますが?
なぜ、こういうことが起きているのでしょうか?
そして、こうして地獄の説明も無量寿経にあるのに、なぜ、親鸞はすべての人の極楽往生を約束できたのでしょうか?】
この質問に答える形で私は回答したのです。

この質問において、浄土真宗は「仏教の無我説を支持しており、死後も輪廻転生も認めません。」とホームページに書いてあるということから、それに対しての回答です。

 

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<<あくまで私にとってはですが、区分などどうでもいいです。>>

私も本当にどうでもいいのです。
信じたいものを信じればいいと思いますし、仏教でもそうでなくてもどうでもいいのです。

仏教は仏陀が言ったこととかけ離れてしまったということを説明しただけですよ。

それだけなのですけどね。

 

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