仏教についてのひとりごと 127

<<『十二支縁起説』は、最も整備された形のもので、おそらく後代における経典編纂の過程の中で、徐々に現在のような形になったものだと思われます。これに関してはいかがですか?>>

 

私は、宮元啓一氏が書いているように、成道時には無明を始めとする十二支縁起の原型はできていたと思っています。
その理由は、最古層のスッタニパータで、苦の原因として、無明・行・識・触・受・愛・取・生存という順番で記載されていることが挙げられます。
十二縁起そのままではないですが、苦の原因として無明が挙げられ、重要な項目についてはほぼ同じ形となっていることから、最初期から十二縁起の原型はあったものと見ています。
原始仏典には、識から始まる十支縁起や渇愛から始まる五支縁起など、短いものも多く出てきますが、それは短縮形であり、やはり無明を智慧によって滅ぼして縁の滅に至ったとありますので、最初が無明であるのは根本だと考えています。

 

 

~~~~~~

 

 

輪廻からの解脱が難しいからといって
歴史上の仏陀が説いたことを探求しないのはどうでしょうか。

仏陀の説いたことで無明を克服することが難しいのであれば
他の誰が説いたら簡単になるのでしょうか。

仏教徒であれば、まず、歴史上の仏陀が本当は何を説いたかを探求すべきではないですか。

世界の主である梵天が頼み込んだほどの真理ですから、探究しなければもったいないのではないですか。

 

 

~~~~~~

 

 

> ですから、大乗仏教も含めて仏教は多くの手立てをもって、真理に至らしめようとしているのでは?

 

基本的な問いですが、仏教の開祖は釈尊ですよね?
それなのに、なぜ、釈尊が説いた四諦十二縁起を実践しないのでしょうか?
不思議です。

 

 

~~~~~~~

 

pipitさん
こんばんは。

ダーナヴァルガ(感興のことば)に
『四念処を楽しみ、またさとりを得るための七つのよすが(七覚支)を楽しみ』
『四神足と八つの部分よりなる道(八正道)を楽しむならば』
とわざわざ、
【四念処】【七覚支】【四神足】【八正道】の4つが挙げられています。

【八正道】【四念処】【七覚支】については、自分なりに納得できるようになって
特に【七覚支】は、意外と究極なのではないかとひそかに思ったりしてます。
仏陀は【四念処観】を一乗道としていますので、【四念処観】が極めて重要な法であることは確かですが。

これから残りの【四神足】の解明に取りかかりたいのですが
欲神足、心神足と欲・心という仏教では否定的なニュアンスの語が使われていて
面食らいます。
解明が非常に難しそうです。

pipitさんは、【四神足】についてはどんな解釈をされていますか?

 

 

~~~~~~

 

 

pipitさん、ありがとうございます。

《意欲主、精進主、心主、観主》の四主や
『神足』はiddhi-pAdaで『成就の基礎』という解釈をすると
とたんにわかりやすくなりますね。

そして、pipitさんの『この四主がめちゃ強力になった状態を『四神足』とよんでるかんじ』というのは素晴らしくよくわかる解釈です。

ただ、意欲主、精進主、観(智慧)主というのはぴったりきますが
いまいち、心citta主がぴったりきません。

心は四念処観で、身、受、心、法とある中で心無常と観じるものなので
その心=cittaを強力にするということがどういうことか、これから探求してみます。

とてもわかりやすい解釈、ありがとうございます。

 

 

~~~~~~

 

 

ケロッグさん、わかりました。
まだまだ先になるとは思いますが、本ができましたらこのスレッドで『本が完成しました』と書きますから
本の題名とネームが知りたい人はそう書き込んでいただければ、Yahoo!メールか何かで題名とネームをお知らせします。(Yahoo!メールのやり方はよく知りませんがその時は何とか送ります)
しまとりさんとは約束しているのでそうしようと思っていましたが。(もちろん、その時になったら興味をなくされているかもしれませんのであらためて言っていただいたほうがいいですね)

 

 

~~~~~~

 

<<この事(この言及 こそ)は 観念論ではないとどう明かしますか ?>>

話し合うためには言葉の定義がそれぞれで違っていては話し合いは成り立ちませんね。
ですから、私は『観念論』という言葉を『頭の中で組み立てた考え』という意味で使っていますよ、と最初に自分の定義を述べただけです。投稿してきた相手の人が、『観念論はカントが言う意味なのかどうか』と書いてきたので、私が使った『観念論』という言葉を私がどういう意味で使ったかをレスしただけです。


<<仏教でどうあろうと、わたしには関係がないのではありませんか ?>>

言っている意味が分かりません。
私は『表象作用は、仏教では五蘊(色・受・想・行・識)の想です。つまり非我であるものです。』と言っただけです。
仏陀が原始仏典でそう言っていますよね?違いますか?その書いてあることを述べただけですよ。


<<言葉を発する あなたが 非我 なら 言葉を受ける わたしも 非我 に 住処を置かざるを得ない そうでなければ あなたは  「 有 」 我  です これこそ非我でなくて どうしますか ?>>
<<我が非我 ではないから 非我が説かれます  我は 我か 非我 か  はっきりさせてください>>

これも言っている意味が全く分かりません。
五蘊(色・受・想・行・識)が『わたし』ではない、つまり非我であることは、仏陀が繰り返し言っていることです。これは認めますか?認めませんか?
そして、私は、五蘊の集まりを『わたし』だと強烈に思い込んでいる事実があります。
五蘊の集まりがあり、名前があります。
それを『わたし』と思い込んでいます。あなたもそうでしょう?そうでないと生活できないですね?
自分の名前を呼ばれて『わたしではない』と思っていたら日常生活が成り立たないですね?
仏陀五蘊は非我というけど、私は『わたし』だと深く思い込んでいるわけです。
あなたは違うのですか?


<<部品 こそ 「我」です 「我」は常に部品に投影されて「我」を形成する  「我」こそ実体です (我が非我なら 非我は実体です)>>

『「我」こそ実体です』というのは、あなたの考えですか?
あなたの言っている言葉の意味が全く分かりません。

 

ところで、いつまで、そのような言葉遊びをするつもりですか?
その言葉遊びはあなたに何をもたらせましたか?

 

 

~~~~~~~

 

 

<<自我が あなたに あって あなたは 記述していますか あなたに自我はないのですか>>

あなたはさっきの私の投稿を読んでいないのですか?
仏陀五蘊は非我というけど、私は『わたし』だと深く思い込んでいるわけです。』と書いているのが分かりませんか。
『わたし』だと深く思い込んでいるのが自我です。

 

~~~~~~~

 

 

あなたは私が書いたことを理解していない。
私はそもそも仏教で『諸法無我』と言われているのは実は『諸法非我』だと思っているのです。
また、龍樹が言ったような、『すべての存在は縁起によって成り立っているから、自性がない、空である、無我である、実体がない』というのは歴史上の仏陀が言ったことではないと批判しているのです。
その上で
『すべての存在は縁起によって生じているから自性がない、実体がない、空である、無我である、つまり諸法無我だ、という龍樹から始まった理論をどんなに振りかざしても、その観念自体は表象=五蘊の中の想 にしか過ぎず、自我を構成するだけです。諸法無我を声高に叫んでいる人に限って、我塊や我執が非常に強固であったりします。』
と書いたのです。

つまり、龍樹仏教を振りかざして、無我だ、空だ、どんなものも実体がない、と声高に言っている人が果たして自我がないだろうか?と言っているのですよ。

投稿するならちゃんと読んでほしいものです。

 

~~~~~~~

 

 

<<それでもわたしの記述が悪いとするならどこが悪くて、分からないかを明らかにする気はありますか ?>>

では、一例として、あなたの次の文章を見てみましょう。
<<あなたの無明を 晴らすことではなく  わたしの無明を 晴らすことが あなたにどう関係するかで  仏説も成り立ちます>>

わたしには、この文章を何度読んでも意味が分からないのです。
<<わたしの無明を晴らすことがあなたにどう関係するかで、仏説も成り立つ>>
この文章に何の意味があるのでしょうか?
春間氏の無明を晴らす(無明を晴らすという言葉は私は使いませんので、無明を滅すると理解します)ことは、春間氏自身の問題であり、私には何の関係もありません。
仮にどのように関係したとしても、それと関係なく、仏説は仏説ですよ。

まずは、<<あなたの無明を 晴らすことではなく  わたしの無明を 晴らすことが あなたにどう関係するかで  仏説も成り立ちます>>はどういう意味なのですか?

 

~~~~~~

 

あなたと和弘氏は、こちらの質問には一切答えず
ただの自分独自の言葉遊び、観念の遊びでごまかすだけなので
会話が成り立たないのです。

今回も私はあなたに真摯に質問をしました。
しかし、どうしても正面から答えませんね。

童子のたわむれに  砂をあつめて仏塔とせる』のは、砂浜か公園の砂場でやってください。
砂で仏塔をつくっても皆仏道を成じるということですから。

 

~~~~~~

 

<<これは、春間氏が「大乗仏教は利他であるから、ショーシャンクさんの自分の無明を晴らす前に、春間氏の無明を晴らして春間氏を仏の極楽を渡してみなさい。それが、菩薩業、菩薩行だ」と言っているのでは、ないでしょうか?>>

 

なるほど。そうであれば、春間氏本人の口からそう説明すればいいと思いますね。
ただ、自分の無明を晴らせない者が、他人の無明を晴らせるわけないですね。
私は強固な自我があると言っているのですが。
それに、春間氏と和弘氏の思考パターンでは、自分はすでに悟っていると思っていて、悟っている自分がこの掲示板で他人の無明を取り除こうと菩薩業に邁進しているみたいなので、まさか春間氏が自分の無明を晴らしてみなさいとは言わないでしょうね(笑)

和弘氏も『衆生を開示悟入させるために掲示板に投稿している』らしいです。『開示悟入』は仏の出世の本懐で、衆生をして仏知見を開かしめ、示し、悟らしめ、入らしめることを言います。仏がそのためにこの世に生まれた一大目的です。

このカテゴリーには菩薩たちがいっぱい跋扈してますから凄いですね。

 

 

~~~~~~

 

 

あなたはさかんに『唯仏与仏 乃能究尽』という言葉を使い、和弘氏は『開示悟入』という言葉を使います。
どちらも、自分が仏であるという強い思いがなければ使えない言葉です。

私が『このカテゴリーには菩薩たちがいっぱい跋扈してますから凄いですね。』と言ったときの『菩薩』は自称、菩薩です。でないと、『跋扈』なんて言葉は使いません(笑)

しかし、それにしても、龍樹や道元に心酔しているところなど春間氏と和弘氏は共通点が多いですね。
お互いに研鑽し合ったらいいのではないでしょうか。

私は龍樹にも道元にも興味はないので、興味分野が共通のお二人で切磋琢磨しあったらどうですか?

 

 

~~~~~~

 

<<あなたにだけ は 自我(の行使)は 許されているのですか ?>>

またまた意味のないことを。
わたしにも強固な自我が厳然としてあり、他の人にも自我があります。
許されるも何も、みんな自我があって生活してますね。

前に書いたのは、『諸法無我』と声高に主張する人は、本当に自我がないのですか?と問うたのです。
無我だ、空だ、と表象で考えても『わたしという中心』は厳然としてありますね?
そのことを言ったのです。
中心を消滅させるためには、表象では無理なのではないかということです。

 

 

~~~~~~

 

 

確かに、龍樹の後世への影響は凄まじく、龍樹独自の理論(縁起から無自性、空、無我を導いたこと)が仏教の根本教義となっていきました。
これにより、仏陀が説いた縁起の法などは龍樹の理論に取って替わられてしまいました。

仏陀は言いました。
『私の正しい法は500年しか続かない』
『贋金が現れた時に本物が滅びる。贋金が現れるまでは滅びない。』

 

 

~~~~~~~

 

<<自称ではない 菩薩 と 自称菩薩   と では どこが  どのように 違いますか ? どちらが 正しき 菩薩であるか が 確立できなければ確立する根拠が 菩薩としての 道になければ あなたの根拠は どこからきていますか>>

 

日本語では、本当かどうかわからないけど本人だけが言っている、ということを『自称』と言うのです。
それもわかりませんか?

あなたも和弘氏も、仏や菩薩かどうかはわかりませんが、自分では『唯仏与仏』とか『開示悟入』と言っているので、本人は自分が仏か菩薩だと思っている、ということで『自称』です。

 

 

~~~~~~

 

ちゃんと文章読んで投稿してますか?

『本当かどうかわからないけど本人だけが言っている』『あなたも和弘氏も、仏や菩薩かどうかはわかりませんが』
と書いているでしょう?

私は判断はしてないのですよ。
あなたが菩薩か菩薩でないか、という判断もしてないし、わからない、と言っています。
正直、私にとって、あなたが菩薩でもそうでなくてもどうでもいい話です。
自分の判断無しに、ただ、本人が言っていることを『自称』と言うのです。

ちょっと、もう馬鹿馬鹿しくて時間がもったいないので、言葉遊びはやめてほしいですね。
和弘氏と他のスレで言葉遊びしていたらいいではないですか。

それでは忙しいので、これで。

 

~~~~~~

 

 

根拠はすでに書いています。
あなたは相手にレスするとき『唯仏与仏 乃能究尽』という言葉を頻繁に使って諭しています。
和弘氏は自分が投稿するのは『開示悟入』のためと書いています。
『唯仏与仏 乃能究尽』も『開示悟入』も全面的に仏の立場に立って初めて言える言葉です。

いくら表面上、『自分は仏や菩薩とは自称していない』と言っても、あなたと和弘氏の投稿はすべて『自分は悟っていて衆生を教え導くために投稿している』という意識から出ているのです。
ですから、間違いの指摘も真摯に受け止めることはできないのですよ。
自分は悟っていて、他の人はすべて悟っていない、という大前提があるからです。
自分がまだまだ何もわかっていない、という意識があれば、他人が投稿したこともちゃんと受け止めてそれへの真摯な返信をするでしょう。
それがあなた方2人は全くできていないのです。

 

 

~~~~~~