仏教についてのひとりごと 129

仏教の根本教理と見なされ最も重要視されている【空】ですが、
歴史上の仏陀はあまり説いていません。

 

最古層の仏典『スッタニパータ』で【空】が説かれているのは
【つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を〈死の王〉は見ることがない。】の箇所くらいです。いかに仏陀は【空】を説かなかったか、です。


さて、それでは、仏陀がスッタニパータで説いた【世界を空なりと観ぜよ】の【空】とはどういう意味でしょうか。


それを解明するには、『ダンマパダ』の

【世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。】の言葉が参考になります。

 

ほとんど同じことを説いているからです。

さらに【この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであるとさとったならば、死王の見られないところに行くであろう。】とあります。


仏陀は、泡沫やかげろうをはかないという例えで使っているのです。

つまり、歴史上の仏陀が【空】というときは、

【泡沫のように生じては滅するはかないもの】と言う意味です。
非常に単純明快ですね。


『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』というのは、遙か後世に龍樹が現れて勝手に創り上げた教理です。これが、仏教の根本教理とされていきました。


しかし、歴史上の仏陀が『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』と説いている原始仏典はありません。

 

 

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<<空は何もない空っぽという事ではありません。 絶えず縁によって、変化している。 私たちの身心も絶えず縁により、変化している存在だととらえるべきでしょうね。  なにか、変わらない存在がありますか?>>

すべての存在は変滅している。これが歴史上の仏陀のメッセージです。
変わらない存在はありませんよ。
すべては変滅するものですから。

しかし、【縁起】と言う言葉は、仏陀と龍樹では全く違います。
<<私たちの身心も絶えず縁により、変化している存在だ>>??
そんなことを歴史上の仏陀は言いましたか?
それは龍樹が言い始めたことではないですか?
歴史上の仏陀が『私たちの身心も絶えず縁により、変化している存在だ』と言った原始仏典は存在しません。
あるとするなら、典拠を示してください。

 

 

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『私たちの身心も絶えず縁により変化している』と仏陀は説いたのではありません。

縁起とはそういう意味で仏陀は言っていません。

私たちの身心も含めすべての形成された存在は、『生じれば必ず滅する』存在であるから
【泡沫のように生じては滅するはかないもの】なのです。

 

 

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仏陀の死後直後(2,3ヶ月後)の第一結集で、仏陀の生前の説法がこういうものであったと内容を直弟子500人で確認し合いました。
第一結集でそのように確定した教えをサンガにてすべての比丘比丘尼が正確に伝達していきました。
第一結集で確定した教えかそうでないかは、決定的な違いです。

第一結集で確定した教えを文字に残し始めたのはそれから何百年か後からですが
最古層の仏典は、後世の夾雑物が少ないものと考えられています。

 

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<<釈尊の意志に出遭ったかぎりは>>

あなたが、釈尊の意志と思っているものは、釈尊ではなくてはるか後世の龍樹の意志ではないですか?(笑)

『生と死を比較対立させることのない観』なんて、歴史上の仏陀がどこで言っているのですか?
龍樹が言い始めただけではないのですか?

 

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そうですね。
最も古いものは、詩句、韻文の形で伝えられたというのが文献学の通説になっていますね。
私は散文の形でも古いものはあると考えていますが、比丘比丘尼たちが記憶するために韻文にしたというのは説得力はありますね。

 

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逆ですね。
私は龍樹の筏ではどこにも行き着かない、我塊も強まるだけだと考えて、歴史上の仏陀が本当は何を説いたかを探求し始めたのです。
龍樹から始まる大乗仏教で、激流が渡れる人はその筏が合っているということでその筏で渡ればいいと思っていますよ。
しかし、我空法空や諸法無我を毎日さかんに叫んで回っている和弘氏や春間氏に私は普通以上の自我、我執を感じますけどね。

私は大乗仏教を知らないわけではありません。この掲示板で大乗仏教の人も数多く訪れましたが、私が知らないことを書いてきた人はいませんでした。
といって、部派仏教、上座部仏教の立場に立っているわけではなく、いったん『仏教』と言われている歴史上の堆積物を全部取り除いて、白紙の状態から仏陀の言葉を捉えようとしたのです。

ですから、正しい正しくないを言っているのではなく、それは歴史上の仏陀が言ったことかそうでないか、を探求しているのです。
これを繰り返していくと、今まで『仏教』と言われてきたものとは全く違う全貌が見えてきた感じです。
2000年以上積もりに積もってきた堆積物が膨大にありますから、本当に仏陀はこういうことを言っていると言ってもまずわかってもらえないでしょう。仏教徒はこういうものだという強固な観念がありますから。

大乗仏典も素晴らしいものですし、正しい正しくないを言うつもりはありません。
歴史上の仏陀が言ったことかどうかだけ言うようにしてます。

前の投稿【つまり、歴史上の仏陀が【空】というときは、【泡沫のように生じては滅するはかないもの】と言う意味です。非常に単純明快ですね。『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』というのは、遙か後世に龍樹が現れて勝手に創り上げた教理です。これが、仏教の根本教理とされていきました。しかし、歴史上の仏陀が『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』と説いている原始仏典はありません。】も事実に基づいて書いているつもりです。

もし、そうではないと言われるのであれば、典拠を示して、指摘してください。

 

 

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<<これに関して、ショーシャンク さんは空は【泡沫のように生じては滅するはかないもの】とされた。 ならば自我は無常ではなく、常という形成された実体だという見解ですか?>>

なぜ、そういう結論になるのかがわかりません。
無常の法とは生滅の法です。
生じたものは必ず滅する、ということです。
自我を構成する五蘊=色受想行識 は泡沫のように滅していくものです。
無常で苦であるものは非我なのです。
自我は無常であり幻想なのです。
『私という中心』が幻想であることにはっきりと気づくことが大切です。

しかし、玉城康四郎の『ダンマの顕現』を読んでも、
玉城氏は禅の印可も数多く受け徹底的に禅の修行をした人で親鸞浄土門にも精通していましたが
どうしても我塊がなくならなかったようです。
そして、宮元氏によると、最晩年の玉城氏は『自分がやってきた修行方法ないし仏教解釈には重大な誤りがあった』と述懐していたそうです。
何かが足らないのではないかという感じがします。

仏陀は最初の目覚めのあと、十二縁起を観じて、すべての疑いをなくします。
なぜ、仏陀は、悟った後で、十二縁起を観じなければならなかったのか、です。

 

 

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<<『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』というのは、遙か後世に龍樹が現れて勝手に創り上げた教理です といわれても、非我でも無我であっても、私という中心は妄想ですよね。だから私という中心は(有)でない。しかし実際に私達は多くの因縁起によって、生起している。だから(無)ではない。ようするにまずは空と観る。龍樹菩薩の空は仏陀の教えに反していない>>


何度も言いますが、私は龍樹の創り上げた教理が正しい正しくないを言っているのではありません。それは歴史上の仏陀が言ったことではない、ということを言っています。
龍樹の教理で救われる人はその道を進んでいけばいいだけのことです。
歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか、が探求目的ですから、そこは理解してください。
イエス・キリストが説いた教えが正しい正しくないは私にはわかりません。しかし一つだけはっきりしているのは、それは歴史上の仏陀が説いた教えではない、ということです。当然ですね。それと同じように、龍樹が作り上げた教理は歴史上の仏陀が説いたものではないと言っているのです。

龍樹出現からもう2000年も経っています。その間も様々な仏典が作られてきました。仏典の数も膨大なのに、それに関する論書も更に膨大にでき、さらに様々な宗祖が現れて様々な教えを説いてきたわけですから、堆積物の量は凄まじく、歴史上の仏陀の真意はその堆積物に隠れてしまっているのが現状です。
特に、龍樹出現からは、仏教の根本教理は龍樹の縁起と空となっていますので、いくら仏陀の真意は龍樹の説いたものとは全く違うと言っても、このようなネット掲示板でわかってもらえるわけがありません。もう、『仏教とはこういうものだ』という固定観念が出来上がっていますから、理解してもらえるとは思ってません。
自費出版しても、わかってもらえる人はまずいないと思ってますよ。
私の生きている間は無理でしょう。
ただ、私が死んだあと、本という形にしておけば、何十年か後に分かってもらえる人がでてきたらいいなというほぼ可能性のない自己満足です。

あなたの龍樹に関する考えを変えたい欲望も私にはないのです。そのまま龍樹の説く縁起や空が仏陀の教えそのものと思われていたらいいと思います。

どの原始仏典でも、縁起が出てくる仏典を読めばわかるかもしれません。

 

 

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龍樹について、ネットで解説しているものがありましたので2つ転載します。
※※※※

 西暦紀元前後ごろから、『般若経』『無量寿経』『維摩経』『法華経』といった大乗経典が次々と世に現れた。その中でも特に影響力をもった経典が『般若経』である。
 この経は、般若波羅蜜(極限まで智慧を高める修行)、具体的には無執着の徹底的な実践を説いたが、その実践を支える理論の一つに、すべてのものは「空」である、つまり固有の性質をもたないという考えがあった。
 固有の性質をもたず、恒常のものでないとすれば、そのものへの執着は虚しいものになるというわけだ。

 この「空」を、伝統教説である縁起と関連づけたのが龍樹(ナーガールジュナ。一五〇~二五〇年頃)である。
 原始仏教では、縁起(依って生じること)は、「無明に依って……老死あり」「無明の滅に依って……老死の滅あり」というように、輪廻生存の原因をたどり、その原因の消滅が輪廻生存の消滅に至るという因果関係を表す言葉であった。

 それに対して龍樹は縁起を、一方向の因果関係ではなく、あらゆるものが相依・相関的な関係にあること、つまり他の様々なものに依って成り立っていることを示す言葉として捉えなおした。
 たとえば、「長いもの」と言った場合、確かに短いものと比べれば長い。しかし、より長いものと比べれば「短いもの」になる。
 このように「長いもの」は他との関係によって成り立っており、常に「長いもの」と呼ばれるような固有の性質を持つわけではない。
 このように考えた龍樹は、すべてのものは縁起するのであるから、固有の性質をもたず、空であると主張したのである。

 さらに、龍樹は、空思想が理解され難いのは人々が言語表現に基づいて物事を区別立てるからだと考えた。
 しかし、空を理解するためには、それを説く言葉も必要である。
 そこで、空思想を勝義諦(最高の真理)、伝統教説や言語表現を世俗諦(慣習的な真理)とする二諦説をとなえ、言葉によりつつも、最終的には言葉から離れるという態度を促した。

 

 

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龍樹に関してもう一つ転載します。
※※※※※


 龍樹は西暦150~250年頃の人で、ナーガールジュナといいます。
 初期般若経典の空をもって大乗仏教の地位を確立した大論師です。
 
 龍樹の功績はなんといっても、大乗仏教を体系づけ、理論武装して伝統的な部派仏教(小乗)に比肩するに値するものとならしめたことにあります。
 龍樹の出現がなければ、大乗仏教はただの異端な在俗信徒による俗信に留まっていたかもしれません。

 龍樹は、仏教の原初からあった「空」の考えかたを、般若経の「空」の解釈により深め体系化しました。
 その「空」の思想は中観派として後に多大な影響を及ぼします。龍樹以後の大乗仏教は多かれ少なかれ彼の影響下にあり、龍樹は八宗の祖とたたえられます。

 ただし、その仏教は在俗信徒をも含めた在家仏教的な初期大乗を、出家仏教にならしめてしまったという面があります。
 さらには、上座部仏教の煩瑣な教理に対峙していた大衆的で平易な初期大乗を、煩瑣で難解なものにしてしまったかも知れません。

 「空」のサンスクリットの原語は sunya であり、欠如という意味です。
 また、インド人が発見した0(ゼロ)という数字を表します。
 当初の仏教経典では単に「空虚」や「欠如」という意味に用いられていたようです。
 紀元前後に『般若経』が成立する以前には、「空」が仏教の中心思想であるような主張はないそうです。

 初期大乗の『般若経』が成立しだすと、『般若経』は部派仏教(小乗)を批判します。
 上座部仏教の固定化した型に対して、「空」の立場から批判するのです。
 また、『般若経』では何ものにもとらわれない「空」の立場に立ち、またその境地に至るための菩醍の行(六波羅蜜)の実践を説きます。その中でも般若波羅蜜の体得が強調されます。

 龍樹はこれを受けて、空の思想を論理的・哲学的に整理し、それまでの部派仏教の思想がその原理を固定化・実体化すると矛盾に陥ることを示して論破しています。
 すべてのものは実体がなく空である(無自性)という立場を表明しています。

 

 

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