仏教についてのひとりごと 135

<<無我だ、無我だ、というのが好きな人は多いけれど、それは「この私」も、実体のない、儚いものと言っているわけで、自分を自ら、泡沫とか幻としてしまうのは、残念な感じもしませんか?>>
<<なんなら、特攻隊で若い命が多く失われようと、そんなの幻ならいいじゃない、となりませんか?アングリマーラが何人コロそうと、幻のようなものなら、平気となりませんか?>>

 

その通りだと思います。
非我を無我としたために、また縁起によってあらゆるものには実体がない、という思想を作り出したために、仏や如来にも実体がない、どこまでいっても実体がない、という空虚な思想に仏教は成り果てましたね。

歴史上の仏陀は、五蘊の集まりは私ではない、私のものではない、私の本体ではない、非我と説きました。
すべての人間は五蘊、つまり肉体、感覚、思考、記憶の束を『自分』『私という中心』だと思い込んでいます。
この思い込みを滅したときに、大いなる境地が『ある』のであって、仏や涅槃にも実体がないという虚無思想、空虚な思想を仏教だと思い込むのは間違いですね。
その大いなる境地に実体があるとかないとかという議論は迷妄で無意味なものなので仏陀は無記としました。
大いなる境地は、自分が五蘊の集まりである、自分という中心があるという思い込みを滅したときに実体験するものであって、観念でいくら想像してもしょせん五蘊の一つ『想』で非我なものですので、無意味なのです。

しかし、涅槃の境地は『虚妄ではない』のです。

 

 

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<<諸法無我仏陀真理の理法である三法印の一つです。無我ですから輪廻転生はありません。>>

 

あなたが挙げていたスッタニパータの言葉『この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた』と、はっきりと、仏陀は輪廻を説いていますよ。

仏陀は、無明という迷いがなくならない限り輪廻転生するといたるところで言っています。
自分も今の生で解脱するまでは、生まれ変わり苦しい生を続けてきたと言っています。

 

 

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<<しかしながら、中村元は斯様にフォローしてます。
ブッダは、あくまで現世における苦しみの超克をめざしたのであり、輪廻の主体は何であるかとか、自己の本性は有限なのか無限なのかといった実体を提示する形而上学的な思索には深い関心は払いませんでした。
インド思想・哲学の多くは、自己の実体(アートマン)の探求、霊魂の不滅性の実証といった面に関心が向かっていますが、ブッダにおいては「我無し」の価値観ですから、もともとそうしたことは、測る物差しがないのであります。したがって、ブッダは沈黙しました。>>


これに関しては、中村元の認識は違うと思いますよ。
『自己の本性は有限なのか無限なのかといった実体を提示する形而上学的な思索には深い関心は払いませんでした』ではなくて、そのような形而上学的な思索は、『厭離に赴かず、涅槃に赴かず、解脱に赴かない』から、しないように説いたとあります。
涅槃に赴く妨げになるから説かなかったと、私は考えています。

 

 

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しまとりさん
こんにちは。

<<常連さんと言うけど、ショーシャンクさんの独り言のトピックですよ。>>

 

そうなんです。このスレッドは私のひとりごとスレッドですから、常連という概念はないですね。
投稿数が多い人を常連というなら、ある時期までは、micやh2さんが投稿の半分以上を占めていました(笑)

 

<<ショーシャンクさんのご見解を無視して、常連になっていれば良いというものでもないでしょう。>>

 

これもその通りです(笑)
自分の信じるドグマや自分の悟りを開陳する場だと思っている人がいくら多くても迷惑なだけです。どの立場にもとらわれずに、歴史上の仏陀が本当に言いたかったことをパーリ語原典から解明していこうとする人がもっといるかと思いましたが無理でした。
私はもう探求は終わって、これからは瞑想の実践と原稿書きだけですので、もう誰とも論争をしたいとも思いませんのでいいのですが。