hanaさん、こんにちは。
覚えていますよ。
このスレッドが荒らされていたときに、ご自分のスレッドも心無い人に荒らされて嫌な思いをされたと言われた方ですね。
<<私は宗教が苦手で嫌悪しているところがあります。>>
それは正しい感覚だと思います。
このスレッドの投稿者を見ても分かりますが、自分の信じる宗教が強固な自我を形成している人が多く、仏教に限らず宗教はお薦めはしません。
私はもうこのスレッドには書き込まないと思っていましたが、hanaさんのような真摯な質問にはできる限りレスさせていただきます。
今夜書き込めるかどうかわかりませんが、明日以降でも、書き込みしたいと思います。
このような真摯な書き込みがもっと前にあれば、このスレッドももっといろいろなことが話せたのにと残念です。
まとまった時間ができたときに書き込みさせていただきます。
ご投稿、ありがとうございました。
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hanaさん、おはようございます。
根本的な問題なので、何度かに分けて少しずつ投稿しますね。
その都度のレスはされなくて構いません。
かなり複雑な問題ですから、掲示板が終了するあと10日あまりで書けるかどうかはわかりませんが。
<<世の中には理不尽な出来事は沢山ありますよね。>>
これは本当にそうです。
世の中に理不尽なことは溢れています。
何の罪もない幼子が両親に虐待されて亡くなっています。
若くて美しく希望に溢れた女性が、ほとんど接点もない男に勝手に好意を持たれ、ストーカーされ殺される事件も後を絶ちません。
大災害で亡くなったり、飛行機や列車などの大規模事故で亡くなった方たちはどう見ても善人な人たちです。
そうかとおもうと、他人に迷惑をかけることも平気で、図々しく、声が大きなものが、この世の中ではのさばっています。
私もこの問題は考え続けてきました。
どの宗教も哲学もこの問題に満足のいく答えを持っていません。
例えば、仏教なら、こう言う人がいるでしょう。
今世だけ見れば理不尽だけど、人間にも前世も来世もあって、前世の悪業を今世で受け取っているのだ・・・と。
しかし、そうであれば、今世で何の罪もないのに殺された人は、前世でそのような結果に相応しいとんでもない悪行をし続けてきたことになります。
極悪人ですね。
しかし、そのような人が、今世では美しく親思いで周囲にも慕われ希望に溢れた人になっているというのです。
おかしな話です。
まずは、この世は理不尽さが溢れていること、そして、それをどの宗教もちゃんと説明できてないことは私ははっきりとそう思います。
また、時間がある時に、続きます。
それから、このレスは、hanaさんの投稿に対してのものですから、他の人が横から質問しても答えることはしません。ですから、横から割り込んでの質問や投稿はやめてくださいね。
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続けます。
もちろん、大事件や大事故などだけではなく、
わたしたちの日常生活でも理不尽極まりないことが毎日のように起こります。
善意のみから為したことを逆に捉えられて恨まれたり
その人の悪口ばかり陰で言っていた人が表向きのお世辞だけで評価されたり
どのようなわるいこともしてないのに濡れ衣を着せられたり
理不尽なことは数多いですね。
優しく正直でおとなしい善人が損をすることもあまりにも多いことですね。
口汚く図々しい者が評価されたり得をすることもよくある話です。
善因善果、悪因悪果、などというものは全く当てはまりませんね。
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しかし、『ダンマパダ』の最初は
『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。』という文章です。
善なる者がこの世では多くの損をし
悪なるものがのうのうと生きています。
さて、これをどう解釈するか、です。
誰かもし、このスレッドに書き込みたいのであれば
hanaさんの問いに自分なりの答えを書き込めばどうですか?
mic、最後の最後まで嫌がらせ投稿をしてないで
もし仏教がわかっているというのであれば、
どこも悪くない幼子や少女が殺されなければならないのか、
善なるものが悲惨な目に遭うことが多いこの世で、本当に善因善果と言えるのか
正面から答えたらどうですか?
理不尽極まりない現実に、答えることができてから、このスレに投稿しなさい。
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hanaさん
おはようございます。
最初に書いておかなければいけないのですが
私は、仏陀(ゴータマ・シッダッタ)を仏教の開祖として見ていません。
いわゆる仏教は、仏陀が説いたものとはかけ離れてしまったと考えています。
仏教は後世のものが様々に作り上げていったもので埋め尽くされています。
ですから、仏教なるものをお知りになりたいのであれば、私は一番不適格です。
仏陀は仏教などという独自なものを開こうとは思ってもなかったのです。
仏教教団を主宰しているという感覚もありませんでした。
また、私には、偉人バイアスも有名人バイアスも一切ありません。
どのような歴史上の有名人であっても、そしてその人が高い悟りに達した人だと誰からも思われていても関係なく、その人の言葉や行動から判断しようとします。
ですから、宗祖や歴史上の有名人も辛らつに書くことも多いです。
しかし、仏陀は、あの膨大な資料の中で、そしてその長い人生で、怒った場面というのがたった1回しかありません。
いつも平静でした。
悟ったときから入滅するまで一貫してます。
これは凄いことだと思います。
私が、いわゆる仏教(特にウキペディアに書かれている仏教)とは、全く違う捉え方をしていることは最初におことわりしておきます。
伝統的な仏教の教理をお知りになりたいのであれば、他の方に聞かれたほうがいいと思うからです。
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私が人生で影響を受けた、または衝撃を受けた言葉はいろいろありますが
その中で最も衝撃だった言葉が2つあります。
どちらも学生の時に読んだ本の中にあったのですが、
その中の1つは確かヒッピー全盛期のアメリカで精神放浪した人の回想のような文章でした。
ある講演会にふらりと立ち寄ったところ、その講師の人が『すべては自分の想いでできている』という主旨の講演をしていたのです。
折しもベトナム戦争の時代だったようで、その講師は
『ベトナムの赤ん坊は、自らに降り注ぐナパーム弾を自らが作ったのだ』と言ったらしいです。
当然、その講演会場はハチの巣を突いたような大騒ぎになり、非難や罵倒の激しい言葉が飛び交ったと言います。
しかし、その講師は平然と講演を続け、驚くことに静かになり、最後にはその講師への称賛で終わったらしいです。
その講演の内容は書かれていなかったのですが
『ベトナムの赤ん坊は、自らに降り注ぐナパーム弾を自分が作ったのだ』という言葉は私にはとにかく衝撃で、意味も全くチンプンカンプンでした。
『すべては自分の想いでできている』としても、純粋無垢な赤ん坊の想いがなぜ?とどうしても理解できませんでした。
伝統的な仏教でも、唯心所現、唯識所変と言います。
私はずっと、その言葉を公案として生きてきた気がします。
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仏陀は中心のない空間から語っているのです。
ですから誰にも理解されないのです。
私たちは、まず『私』という中心から見たり語ったりしています。
その中心から離れることはありません。
中心などない・・というメッセージ・・・これを漢語に訳して「無我」とか「非我」とか言っているのです。
多くは「無我」と訳したために、アートマンという実体があるとかないとか、そういう不毛な論議ばかりするようになりました。龍樹などによって仏にも如来にも実体がないとまでされるようになってしまいました。
仏陀は、実体があるかどうかは無記として論議することを禁じたのにかかわらず、です。
さて、仏陀が発見した十二縁起は、私たちが中心を持ってしまい、苦の集積へと押し流されている過程です。
中心を持ってしまったために欠乏感が起き、その欠乏感という想いが現象に欠乏という姿を現していてますます欠乏感を生じ、その想いがまた欠乏を生じさせているのです。
この想念の流れを激流と呼びます。
つまり、私たちは一人残らず、苦の集積に向かって押し流されているのです。
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<<私は宗教は共感者が集まって教団化される内に
その本質から離れていってしまうように思ったんです。>>
その通りです。
どのような集団、団体でもそうですが、その集団の他集団に対する優越感を持ち自我を満足させたいために、いろいろなことをします。
自分のお師匠さんが他より極めて凄いことを強調したり、ひどいときには神格化したりします。
教義も独自性を強調し、他との共通性を排除していきます。
仏教教団に起こったこともまさしくそういうことです。
それによって、仏陀の真意は失われていきました。
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