仏教についてのひとりごと 126

<<自我に実体は有るのだろうか?>>

 

自我に実体などありません。
『私』とは、五官の経験の記憶の束であり、思考や観念を寄せ集めたものにしか過ぎず
それを『私』という中心だと思っているだけです。

ただ、その思い込みは極めて強固なもので、その中心を消滅させるには、自我の成り立ちを洞察する以外にはないというのが私の結論です。

すべての存在は縁起によって生じているから自性がない、実体がない、空である、無我である、つまり諸法無我だ、という龍樹から始まった理論をどんなに振りかざしても、その観念自体は表象=五蘊の中の想 にしか過ぎず、自我を構成するだけです。

諸法無我を声高に叫んでいる人に限って、我塊や我執が非常に強固であったりします。

 

 

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四無量心が原始仏典で説かれているところということでしょうか。

慈悲喜捨の四無量心がそのまま説かれている原始仏典は比較的少なく
慈無量心だけ説かれていることが多いですが、慈悲喜捨すべてが説かれる原始仏典もあります。


例えば
『中阿含経』巻廿一 長壽王品「説処経」第十五
『阿難よ、私はおまえのために四無量について説こう。比丘は心に慈しみを具え、一方(の生けるもの全て)に遍く満すことを成しつつ遊行する。このように、二方・三方・四方・四維・上下のあらゆる方向(の生けるもの全て)に遍く(慈心を)廻らす。心に慈を具え、煩悩無く、恨み無く、怒り無く、争い無くして、極めて広く、甚だ大きく、限りない善を修め、(慈しみを)すべての世界に遍く満たすことを成しつつ遊行する。同様に、悲・喜もまた、捨とを具えて、煩悩無く、恨み無く、怒り無く、争い無くして、極めて広く、甚だ大きく、限りない善を修め、(慈心を)すべての世界に遍く満たすことを成しつつ遊行する。阿難よ、この四無量について、汝は諸々の出家して間もない比丘達に以上のように説教するべきである。もし諸々の出家して間もない比丘たちの為に、この四無量を説教したならば、すなわち安穏を得、力を得、楽を得て。身心に悩み煩いないであろう、終生これを行うことは崇高な行いである、と。』


スッタニパータでは慈経と言われる第一章の八(慈しみ)で慈無量心が説かれます。
また、第一章の三にある73では『慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。』とあり
慈悲喜捨すべてと解脱が同格に語られています。

 

 

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四無量心が原始仏典に出てきている箇所としては、もっと適切なものとして
四無量心による無量心解脱を説いた、『中部経典第43経 大有明経』があります。

『友よ、ここに比丘が慈愛のこもったこころを一つの方向に広げて住みます。同じく第二の方向に、第三の方向に、第四の方向に、同じく上に、下に、横に、あらゆるところに、全体に、全世界に、慈愛のこもった、広く大きく無量で敵意のない怒りのないこころを広げて住みます。
悲しみのこもったこころを・・・・喜びのこもったこころを・・・・中庸なこころを・・・・』
とあります。
訳は、春秋社『原始仏典』中部経典Ⅱです。

律蔵大品に関してはいろいろ本がありますが、Amazonプライム会員のkindle読み放題で無料のものとして『大蔵経 律蔵・犍度部・大品1~24 アオキ靖訳』があって無料なのでおすすめです。

 

 

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<<「律蔵」を、なぜ、「最古の仏典」と位置づけられるのですか?>>

 

律蔵大品が、『仏伝』の中で最古のものということで、『最古の仏伝』と言いました。
仏伝には後世、脚色されたものが多く、前世譚なども創作されました。
その中で、『仏伝』つまり仏陀の生涯を記述したものとしては、最古なのが律蔵大品だろうと思っています。

『最古の仏典』は、『スッタニパータ』第四章第五章であることは定説ですので
最古のスッタニパータよりは古層ではないですが、仏伝としては最古という意味です。

 

 

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華厳宗の宗密が書いた『註華嚴法界觀門 』に釈尊が明けの明星を見て悟ったときに発した言葉として『歎曰。奇哉。我今普見一切衆生。具有如來智慧徳相。但以妄想執著。』というのがあります。

中国の華厳宗が禅になっていきましたから、この言葉が禅宗で広まったものと思われます。
明けの明星を見て悟ったというのも、『歎曰。奇哉。我今普見一切衆生。具有如來智慧徳相。但以妄想執著。』と言ったというのも、歴史上の事実ではありません。

実際は、初夜・中夜・後夜、つまり夜の3つの時間帯に、仏陀は十二縁起を観じて、『すべての疑いがなくなった』としたのです。

 

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<<「前世譚」というのは、「ジャータカ」のことでしょう?!そうだとしますと、第一に、「真理のことば・感興のことば」に良く引用されている「”重要な教え”が、多々、含まれている”貴重な仏典”」と言えませんか?>>

 

『ジャータカ』は、『散文と韻文とで構成され、紀元前3世紀ごろの古代インドで伝承されていた説話などが元になっており、そこに仏教的な内容が付加されて成立したものと考えられている。』とされていますように、古代インドの伝承説話がベースになって後世できたものですので、仏教の要素はあるにしても仏陀の歴史的事実を扱った純粋な仏伝とは言えないとは思います。仏教の教えを盛り込んだ説話という意味では貴重な仏典であるかもしれませんが、歴史上の仏陀が本当は何を言ったか、という視点では、まずは純粋な仏伝を見たほうがいいかもしれません。

 

 

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<<F漢文部分」を訳していただけましたら、幸い至極です。>>

華厳経における『一切衆生皆有如来智慧徳相 但以妄想執著而不能證得』は
『一切衆生は皆如来智慧・徳相を具えている。ただ妄想・執著によって証得することができない』ということだと思います。


<<出典は、「ウダーナである旨」記載され>>

私は、仏陀成道のシーンは、ウダーナではなく、律蔵大品によっています。

 

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律蔵大品には、菩提樹下での仏陀の悟りから、様々な人たちが弟子になる場面までが書かれています。
どの訳で読んでも(訳の上手下手はあるにしても)同じです。

あなたが持っているという『ブッダが考えたこと』という本にも、律蔵大品=マハーヴァッガの成道場面はほとんどすべて引用されていますよ。
第二章の五(成道の過程)からは特に律蔵大品=マハーヴァッガの成道場面が記載されています。

大蔵経 律蔵・犍度部・大品1~24 アオキ靖訳』の成道場面では
十二縁起を、無知⇒行い⇒意識⇒名と形⇒六の国⇒接触⇒渇き⇒執着⇒存在⇒出生⇒老い・死・絶望など と訳してます。

訳に若干の違いはあっても、原典は同じですから、十二縁起を順逆観じたことも当然同じです。

これでいいでしょうか。

 

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