仏教についてのひとりごと 125

<<仏教で言われている「悟り」と、菩薩の「悟り」とは同じ意味なのでしょうか?>>

 

菩薩とは、本来は、悟るため、仏になるために努力している修行者を意味しています。
古くは、修行の身であった前世の仏陀のことを菩薩と呼んだりしています。
悟るために修行しているのですから菩薩に悟りはありません。悟ったら仏と言われるからです。
これが本来的な意味での菩薩です。
あくまでも仏の前段階の修行者にしか過ぎません。

ところが、大乗仏教では、法蔵菩薩四十八願を立ててそれが成就するまで仏とならないと誓ったとする経典などの影響があり、『いつでも仏になれる境地に至っているけれども、あえて仏とならないで菩薩としてとどまる』というものが菩薩とされるようになってきました。
自分が悟る前に、すべての衆生を悟りに導く、
自分が彼岸に渡る前に、すべての衆生を彼岸に渡す、
という人格を菩薩というようになりました。

これは、自分の悟りだけを追求する小乗仏教のアンチテーゼとして生まれた大乗仏教ならではの考えで、『自分の悟りだけを考えるのはエゴイスト』『大乗仏教は自分より先に他人の悟りを考える』としたのです。

まあ、こんな考えに従えば、歴史上の仏陀は、自分の悟りだけのために、妻も生まれたばかり息子も捨て、国王である父も捨て、家臣団も数多くの国民も捨てたのですから、史上まれにみるエゴイストとなってしまいます。
そのため、大乗仏教では釈尊衆生を救うために出家したということになっていますが、事実としては、自らの苦の消滅、悟りのためにすべてを捨てたのです。

『すべての衆生を救うために、なれるのに仏とならずに菩薩のまま衆生を彼岸に渡す』
『人をのみ 渡し渡して おのが身は岸に渡らぬ 渡し守かな』なんていう思想、『自分の悟りだけを考えるのはエゴイスト』なんていう思想は、真理からほど遠いものです。

本当に悟ったら『自分』『私という中心』はなくなるのであって『自分の悟り』などというものがあるわけではありません。
私という中心がなくなってはじめて無量なのですから、悟らないままで他人を彼岸に導こうというのはあり得ないことなのです。
迷ったものが人を導いたら迷路に入ってしまうだけです。
大乗仏教はあまりにも観念的になりすぎましたね。

 

 

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確かにそうかもしれませんね。
ただ、日本では『悟り』というのは一般語になっているくらいポピュラーな仏教語なので
逆に他の言葉で替えがきかない感じもありますね。

『悟りというのは日本だけの言葉だ』と言っている上座部仏教スマナサーラ
ブッダの実践心理学―アビダンマ講義シリーズ〈第7巻〉瞑想と悟りの分析』『小さな「悟り」を積み重ねる』という本を出していますし、共著も多い藤本晃という人も『悟りの4つのステージ: 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果』『悟りの階梯―テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』という本を出していますから
上座部仏教であってもやはり『悟り』という言葉は使ってしまうのでしょうね。

 

 

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あなたの前に、釈尊の示す『不死の門』が開かれたのなら素晴らしいことです。
『感謝の意を称して、これにて失礼いたします。』とのことですから、
別れに際し、禅の造詣が深いあなたに禅の公案をはなむけとさせていただきます。

長沙の『南泉遷化』です。

長沙因三聖令秀上座問師曰、南泉遷化向甚麼處去。
師曰、石頭作沙弥時参見六祖。
秀曰、不問石頭見六祖。南泉遷化向甚麼處去。
師曰、教伊尋思去。
秀曰、和尚雖有千尺寒松。且無抽條石筍。
師黙然。
秀曰、謝和尚答話。
師亦黙然。
秀回挙似三聖。
聖曰。若恁麼猶勝臨済七歩。然雖如此、得我更験看。
至明日三聖上問、承問和尚昨日答南泉遷化一則語。可謂光前絶後今古空聞。
師亦黙然。


長沙の黙然の境地にぜひ到達して、釈尊の『不死の門』に入られるように願っています。

 

 

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私が言っている『観念』というのは、『人間が意識の対象についてもつ、主観的な像。表象。』のことです。
そして『観念論』と言っているのは『頭の中で組み立てた考え』『表象の組み合わせで出来た考え』のことです。

表象作用は、仏教では五蘊(色・受・想・行・識)の想です。
つまり非我であるものです。

また、四念処観の身・受・心・法の法です。
眼耳鼻舌身意の対象は色声香味触法ですが、その、意識の対象たる法です。


五蘊は非我であり、五蘊の一つ『想』=観念・表象をいかに積み上げても自我を構成するだけです。

さて、仏教者のほとんどすべてが、仏教とは無我の教えで、すべての存在は縁起によって生じているので自性がない、実体がない、空である、無我である、というのが仏教の根本だと思っています。
車は車輪やハンドルや様々な部品によって組み立てられているもので、車という実体はない、空である、車という名前だけのものである、と言います。

これを本気で考察したことがありますか?
そしてその結果自我がなくなり空になりましたか?

 

 

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<<例えば大乗仏教では慚愧が重視されていますが>>

そうですか。懺悔文を唱えることは知っていますが、大乗仏教で特に慚愧や懺悔が重要視されているようには見えませんでした。
具体的にはどのようなやり方でしているのでしょうか。

 

 

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