仏教についてのひとりごと 130

これらの解釈が全くの間違いであることは、前に指摘しましたよね。あなたは何も答えることができませんでしたよね。
これはたしか竹村とかいう学者か誰かの本のコピペですよね?
学者の本をコピペばかりしてないで自分の頭で徹底的に考え、自分で探求しようとしなさい。
龍樹もどきの教理で歴史上の仏陀の言葉を解釈するのはやめなさい。

 

<<「罪過なし×罪過あり」「清浄である×不浄である」といった分別の矛盾を見破り、その両極の実体を捨てられるべきだという>>
<<浄と穢の中で遊ぶところに、二元対立を越えた涅槃があるいうのである>>

 

あなたは一つの文の一部分だけを切り取って、二元対立の超越だとか、相対矛盾の克服だとかに無理やり持って行っているだけです。
逆に言うと、龍樹もどきの不二中道を証明するためだけにスッタニパータの文章を切り貼りして利用しているだけです。
求道者の態度ではない。

もし、あなたが引用するスッタニパータ900の文章の仏陀の真意を知りたいのなら、895~914を通して読まなければ絶対にわかりません。

仏陀は『浄と穢の中で遊ぶ』とか、『浄は内、穢も内』とか言っているわけではない。

仏陀は『他人に導かれてはいけない』ということを言っているのです。
『制戒によって清浄が得られる』と説かれていてそれに従って誓戒を受けている人は、罪過がなく清浄であることを願って誓戒を守っているが、しかし、誓戒を破ったなら罪過がある、不浄である、とおそれおののいている。
このようなことは妄執なので、そこから離れなさい、と説かれているのです。

あなたの解釈がいかに見当はずれのトンデモ解説か、です。
たぶん、これは大乗仏教の仏教学者の本からのコピペではないですか?
仏陀の言葉を大乗仏教の色眼鏡でみると全く間違えますよ。

 

 

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<<善悪を捨て去れという。善悪と二元対立の相対矛盾を自覚し、善悪ともに実体ない(無我)なることを知れということだろう。そこにおいてどうなるか。常識的な善にも悪にも固執せず、善と悪の中を自在に遊ぶことができる。そこにおいて、悪人として虐げられている人を排除しない、仏の大悲も発動するのかもしれない。>>

これも前に指摘しましたよね?
これはスッタニパータ200でなく520ですよ。
これもあなたは、520の文の中の『善悪を捨て去り』だけを切り取って、鬼の首を取ったように【二元対立の相対矛盾の超越】という結論にしたいようです。
しかし、この文章は、518~522で一つの内容になっています。

518で遍歴の行者サビヤが『何を得た人をバラモンと呼ぶのですか?』と聞きます。
519では『一切の悪を斥け、汚れなく』
521では『一切の罪悪を洗い落とし』
522では『いかなる罪悪をもつくらず』
と徹底的に、悪、罪悪の消滅を説いています。

あなたはこれらの多くを占める文言をわざと無視して、【二元対立の相対矛盾の超越】という結論になるような言葉を切り取って披露しているだけです。

 

 

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歴史上の仏陀の言葉がどうやって伝えられてきたか、を知れば
最古層の仏典も遙か後世に創作された大乗仏典も、どちらも同じくらいに仏陀の言葉そのものや後世の夾雑物で出来ているのでどちらが仏陀の言葉でどちらが仏陀の真意じゃないとは言えない、などと言えるでしょうか。

仏陀の言葉は、仏陀の死後直後(2,3ヶ月後)には第一結集が開かれ
仏陀の直接の説法をその耳で聞いた直弟子500人が仏陀の生前の言葉を確認し合いました。
第一結集で確認した仏陀の言葉をサンガで膨大な数の弟子が毎日毎時間毎瞬繰り返し繰り返し反復確認したのです。
仏陀の説いた真理を記憶し記憶を反復することが最も重大な修行であったからです。
念=satiテーラワーダ協会では『気づき』と訳していますが
本来は『記憶』のことです。
記憶した真理を意識的に反復すること、これがsatiであり、正念でした。

インド人は記憶力が抜群だと言われていますが、その中でも相当高いレベルの記憶力の人たちがサンガには非常に数多く集まり、毎日毎時間毎瞬、確認しあっていました。

私の解釈ですが
三宝(仏法僧)の
帰依仏とは、釈尊が涅槃に至る教えを説いたということに絶対の信頼を置くこと。
帰依法とは、釈尊が説いた教えが涅槃に至る教えであると絶対の信頼を置くこと。
帰依僧とは、釈尊がつくったサンガ(修行者集団)に釈尊が説いた教えが存続していることに絶対の信頼を置くこと。
です。

第一結集で直弟子500人が確認した言葉かどうかは決定的なのです。

 

 

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何度も言っていますが、私も大乗仏典は素晴らしいと思っていますよ。
私は釈尊だけが世界で高い意識に達した人だとは思ってもいません。
大乗仏典を創作した人は、非常に高い意識に到達した人たちだったのだろうと思っています。

また、仏教に限らず、キリスト教でもイスラム教でもヒンドゥー教でもジャイナ教でも他の宗教でも宗派に属さなくても高い意識に到達した人は今まで世界に無数に存在したと思っています。
むしろ、本当に高い意識に到達した人の中には、何も説かずに死んでいった人も数多くいるだろうと思っていますよ。
釈尊が悟った後、『この法を説いても誰も理解できないだろうし無駄だ。』と思ったように。

ただ、いま、歴史上の仏陀を探求しているのは、仏陀自ら『私はよく矢を抜く者だ』と言っているからです。
そして実際に、釈尊在世中には数多くの人たちが悟り涅槃に至りました。

龍樹の信者であり自ら中観派を自認している宮崎哲弥は対談本のなかで『釈尊のときは数多くの人が悟ったけれど、大乗仏教では悟った人がいない』とまで言っています。

その言葉が本当かどうかはわかりませんが、少なくとも釈尊が優れた教師であったことは確かです。
なぜ、釈尊のもとでは数多くの人が悟りに至ったのか、です。

そして、私は大乗仏教に親しんできましたが、自分自身、卑小な精神、卑小な人格は何一つ変わりませんでした。
ですから、私は大乗仏教から離れて、歴史上の仏陀が本当は何を言ったかを探求し始めています。

これは私個人のことですので、何度も言っていますように、大乗仏教で救われる人は大乗仏教を進んでいけばいいのではないでしょうか。
大乗仏典の素晴らしさは私もそう思います。

 

 

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<<歴史上の仏陀が本当は何を言ったか」は、誰にも、永遠にわからへんからです>>

 

文献学が急速に進歩した現代になって初めて、かなりの精度でどの仏典のどの部分がより古層なのかが明らかになってきました。
2500年にも及ぶ仏教の歴史の中で、また日本に伝来して1500年もの時間が経ちましたが
その1500年の歴史のほとんど、どの仏典がより歴史上の仏陀の肉声に近いかなんて全くわからない状態でしたね。
歴史のほとんどを五時教判による価値観が支配してきました。
また、インドで作られた経典はすべて本物、中国で初めて作られた経典は偽経という判断材料しかなかったのですよ。

現代になって初めて、歴史上の仏陀の肉声に近い仏典は何かが明らかになってきたのですから、人類はやっと、『歴史上の仏陀が本当は何を言ったか』を探求できるようになったということです。

 

 

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<<第一に、常識で考えて、「詩」よりも、「散文」の方が、成立は古いはずです。
ところが、中村元が、古層として、第一に挙げたのは、「スッタニパータ」、第二に挙げたのは、「ダンマパタ」ではありませんか。>>

<<「詩」よりも「散文」の方が成立は古い>>と考えるのは何故でしょうか?
スッタニパータの特に第4章第5章があらゆる仏典の中で最古層であることは、中村元だけでなく、ほぼ通説に近いものになっていると思います。
文献学ではその理由は様々にあるようですが、例えば第4章は註によると、古くから独立の経典として非常に古い時代から読誦されていたことが原始仏典の聖典のうちに記されている、とあります。

<<第二に、ブッダの一代で説かれた原始仏典に、古層も新層もないのではありませんか。>>

仏陀一代の説法ではありますが、文字になったのはかなり後です。つまり、経典成立の時期には古い新しいがあるようです。
後世にならなければ現れなかったものが記されていれば、それは古層でなく新しい層の経典と見なされるようです。


<<第二に、あなたは、要は、「大乗仏教でも、キリスト教でも、イスラム教でも、さとりは開けます」とされます。
が、それぞれ内容は、まったく異なるのではありませんか(キリスト教イスラム教ですが)。>>

私が言ったのは『仏教に限らず、キリスト教でもイスラム教でもヒンドゥー教でもジャイナ教でも他の宗教でも宗派に属さなくても高い意識に到達した人は今まで世界に無数に存在したと思っています』です。
どの宗教でもそして何の宗教に属さなくても、高い意識に達した人は無数にいたでしょうね。
私は、すべての教えは筏だと思っていますから、究極には自分に合うか合わないか、ではないでしょうか。
人間の個性はそれぞれ違いますから、それに合う筏も異なるのではないでしょうか。

 

 

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<<中村元は、大乗は仏説ではないと決めつけ、そのうえでスッタニパータで説かれる地獄や餓鬼の世界は悪い事をさせないための方便で言われたとし、輪廻は基本的には認めていないようです。 サンスクリット語を訳する事に長けていると思うが、所詮、仏教の信仰者ではありません。>>

前にも同じことを聞かれていますが、私は中村元を非常に優れたパーリ語の訳者だと思っています。もちろん、中村元の訳でも、この語は全く違う訳だと思うことはありますが。
私は中村元を教祖と考えているわけではないですから、中村元が私と違う思想を持っていても関心はありません。まずはパーリ語の訳者として見ています。


<<本当に参考にされているなら、ニカーヤのゴータマ以前の過去仏との関係を無視したら仏陀の悟りはなんであったか、わからないのではないですか?  私は菩提樹の下で悟られたゴータマは自分は時間や空間を超越した存在だったと思覚られたと思っています。>>

菩提樹下での成道の場面はかなり詳しく残っていますが、成道の場面に過去仏が出てきた仏典を知りません。典拠を教えてください。


<<十二因縁、八正道、では、よほどの修業でもしない限り、 迷いからは離れられないでしょうね。>>

仏陀は、ガンガーが大海に流れ入るがごとく、八正道をするものは必ず涅槃へと流れ入ると言っていますが、それが嘘だと言うことですか?

 

 

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<<第一に、常識で考えて、「詩」よりも、「散文」の方が、成立は古いはずです。>>

あなたが主張しているのは、経典の成立時期に古い新しいはないということですか?
<<成立は古いはずです>>というのは、成立時期の古い新しいはあるということですね。
スッタニパータの第4章第5章が最古層であることは中村元の独説ではなくほとんどの学者が認めていると考えていましたが、それに反対している学者がいるのでしょうか?


<<原始仏典は、ブッダが作ったのではありませんか?!
他の者の「加乗」の多いか少ないかの問題と錯覚しておられませんか。>>

原始仏典を仏陀が作ったというのはどういう意味でしょうか?
仏陀は自ら著作を残しませんでした。
仏陀の言った教説を第一結集で確認して、口承により伝えていきましたが、文字として経典が成立するのはかなり後です。
後世の成立になればなるほど夾雑物が多くなるのは仕方ないことだと思います。
古層の方が後世の夾雑物が少ないとは思います。

<<ブッダが、「正等覚者」を自称したこと、ご存知ないのですか?!>>

それは知っていますが、それは自分以外には悟った者はいないということではないですよね。
スッタニパータにも、目覚めた人たち=ブッダたち とブッダが複数形になっていたりする箇所があります。

 

 

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<<第一に、散文と詩の成立時期を考えると、散文で経典が成立し、その後、音韻を踏んで詩にしませんか?!>>

私は前に書きましたように、散文の中にも古い成立のものはあると思っていますし、詩の形式の中にも新しいものはあると思っていますから、すべての詩や韻文の形態の方が散文形態より古いとは考えていません。しかし、学者の中には、口承で伝える時に覚えやすく間違って伝えられる可能性が少なくなるということから、詩や韻文の形で伝えたものが多いとする説があります。

原始仏典の成立時期は、かなり多岐にわたっており、成立時期の幅は古層から新しい層まで数百年もの差があります。


<<第二に、ですから、増谷文雄は、「阿含経典」の翻訳に、「ブッダの肉声である」旨、主張したのですよ。>>

仏陀の肉声に近いことは確かですが、原始仏典の中でもより肉声に近いものとはるか後世になって成立したものとがあります。


<<文字に変えただけで、変える前の経典成立時期は、ほぼ同時でしょう?!>>

文字にした時が経典の成立時期です。
それまでは、比丘比丘尼の頭の中にあるだけです。
後世の我々が知りうるのは文字にしたものだけです。


<<「個人的な真理」ではなく、「正等覚」、つまり、「普遍的に妥当する真理」ですから、「ブッダ達」になる、のです。>>

「普遍的に妥当する真理」に目覚めた人は釈尊ひとりとは思ってないですよね?
釈尊自身も、『私は覚者たちが見つけた古城に至る古道を見つけただけだ』と言っていますし
自分以外にも多数の覚者たちがいることを否定などしてないですね。

 

 

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<<繰り返しになりますが、論理的に考えて、「散文」が先で、因や恩を踏む必要がある「詩」は後ではありませんか。>>

ですから、既に答えていますが。私は散文でも古層のものはあると思っています。仏教学者の中には、韻文の形のほうがより古層だと考える人がいるということです。その理由は、覚えやすい韻文にして伝承したということらしいです。
スッタニパータ第4章第5章が仏典最古層とされているのは、そういう理由よりも、パーリ語文法でないマガダ語の残滓があるということ、他の古い経典に引用されているということ、などから最古層とされているようです。

<<「古層ならば正確」、という概念は、撤回されて、「詩」の形が、後世の加乗を受けにくい点、認められたのですね。>>

撤回してませんが。古層の方が後世の夾雑物は少ないでしょうね。歴史上の仏陀の肉声により近いと思ってますよ。

<<「古層の仏典」を否定された現在、何をもって、経典の正確さを判断されるのですか。>>

スッタニパータ特に第4章第5章が最古層の仏典であることは定説だと思いますが。
あなたはそれを否定するのですか?
スッタニパータ特に第4章第5章が最古層でないとする学者が一人でもいるのですか?
私は、スッタニパータが最も歴史上の仏陀の肉声に近いと思ってますよ。


<<スマナサナ―ラの言では、スリランカでは、現在でも、経典だけでなく、民法や刑法を含め、「丸暗記」という手段は、日常的にもちいられているそうです。>>

何万人もいる比丘比丘尼の全員が、あの膨大な原始仏典全部、一言一句違わずに記憶していたと思いますか?
インド人の記憶力が優れているのは聞いたことがありますが、さすがにそれまでは無理でしょうね。
また、全員が仏陀の説法をすべて聞いたわけではなく、それぞれ自分が聞いた説法を第一結集で確認し合ったのです。
経典の成立が古ければ古いほどより正確なのは、伝言ゲームをしたことがあればわかりますよね?10人で伝言ゲームをするより、3人でしたほうがより正確ですよね。
古い段階で経典として文字にされたのはより正確ということです。

 

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<<釈尊自身も、『私は覚者たちが見つけた古城に至る古道を見つけただけだ』と言っていますし自分以外にも多数の覚者たちがいることを否定などしてないですね。(
第一に、「過去、七仏の話」もありますが、「ブッダは実践された価値」を重んじたので、作り話ではありませんか。>>

 

比丘たちよ、私も同じように過去の仏たちがたどった古道、古径を発見したのだ。
比丘たちよ、過去の仏たちのたどった古道、古径とは何であろうか。
それはかの八正道である。・・・これが過去の仏たちのたどった古道、古径であって、この道を歩んでいきながら、私もまた老死を知り、老死の生じる原因を知り、老死の滅を知り、老死の滅に至る道を知ったのである。
(「サンユッタニカーヤ」)


<<第二に、あなたは、「自分一人が悟ればよい』とされたので、その反論に「ブッダは”正等覚”を自称した旨」、指摘したこと、忘れておられませんか。>>

 

自分一人が悟れば良いなどと言ったわけではありません。
どの宗教を辿っても、あるいは宗教などなくとも、高い意識に達した人は多く存在すると思う、ということを言ったのです。
そうすると、あなたは、釈尊が正等覚を自称したことを知らないのか、と言ったのですよ。
あなたは、釈尊だけが覚者だと思っているのですか?
それはそれでその人その人の好きに思っていればいいと思います。
私は、世界には無数に意識の高い人は存在すると思っていますから。
仏陀はその中の一人で、しかし、自分で言ってるように『矢を抜く最上の人である』と思います。ですから、仏陀の筏を探求しているのです。

 

 

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<<スッタニパータの四・五章が古いのは認めます。が、他にも、はるかに多くの仏典がなければ、ブッダの思想の全貌は解明できないのではありませんか。それらの莫大な仏典をどこで探され、何をもって、経典の正確さを判断されるのですか。>>

 

原始仏典は当然尊重しますよ。
そして、原始仏典でも、矛盾する記載があることがあります。
その時はより古層の仏典のほうを優先します。
また、最も重要なことは、最古層の仏典には書いてあると思っています。
それだけは残したい、よく仏陀が言っていた、というようなものであるものはある程度最古層の仏典に書かれていると思うからです。

 

 

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<<スマサラーナの話では、「人間には、もの凄い量の、しかも、正確な記憶力」があるのです。ですから、今でも、法律を始め、多くのことを丸暗記する、ということが、スリランカでは行われているのです>>

 

インド人やスリランカ人が全員、あの膨大な原始仏典をすべて一言一句の違いもなく記憶できるのですか?
インド人やスリランカ人は日本人にも一人もいないそんな天才ばかりだというのですか?
それであれば、インド人やスリランカ人が日本に来たら、司法試験を一発で合格できる人ばかりということですか?
六法全書の何十倍もの量ですよ、原始仏典は。
常識的に見て、あり得ないです。

 

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私が書いたのは
『私は釈尊だけが世界で高い意識に達した人だとは思ってもいません。
大乗仏典を創作した人は、非常に高い意識に到達した人たちだったのだろうと思っています。
また、仏教に限らず、キリスト教でもイスラム教でもヒンドゥー教でもジャイナ教でも他の宗教でも宗派に属さなくても高い意識に到達した人は今まで世界に無数に存在したと思っています。
むしろ、本当に高い意識に到達した人の中には、何も説かずに死んでいった人も数多くいるだろうと思っていますよ。釈尊が悟った後、『この法を説いても誰も理解できないだろうし無駄だ。』と思ったように。』
と言う言葉です。

世界で、高い意識に達した人は釈尊以外にも多くいただろう、ということを言ってるのですよ。
全部同じ悟りだとどこで言っているのですか?
言葉を勝手に変えないでください。

それでは、あなたは高い意識に達した人は世界中で釈尊だけと思っているのですね?

 

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