仏教についてのひとりごと 132

仏陀が説いたことは非常に明快です。

人間は五蘊を我と思い、迷いの自我観念、行為の中心者、を形成している。
死んだ後は、善なる行為をしたものは天界に行き悪い行為ばかりしたものは地獄などの悪い境涯に行く。
また、再びこの世に戻ってくる。(輪廻転生)
しかし、迷いの自我観念から解脱したものは『この世とかの世をともに捨て去る。』『滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。』『生存の矢を断ち切って、これが最後の身体である。』『もはや家屋を作ることはない。』  

ゆえに、『ある人々は人の胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に落ち、行いの良い人々は天におもむき、汚れのない人々は全きnibbana(安らぎ・涅槃)に入る。』と説いたのです。


仏陀は迷いの自我が死後、天や地獄に行き、輪廻転生すると説いており
それから解脱したら、死後の世界に行くことも輪廻転生もないと考えていました。

その迷いの自我を霊魂と名付けることもありませんでした。
あくまでも迷いにしか過ぎませんから、迷いがなくなれば消滅するもので
霊魂という言葉からイメージするような不変の個性や永久な実体では全くありません。
しかし、解脱するまでは輪廻してますから、解脱してない者が死んだら何もなくなるわけではなく、ゆえに、死んだら何もない『断見』も霊魂が永久に存続する『常見』も間違いなのです。

仏陀が説いていることは非常に明快なのに、仏教なるものが分かれに分かれ混乱を極めているということです。

 

 

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<<『滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。』は理解できますが、無意味かもしれませんが、仏陀は悟った時から身心は安らぎの涅槃の世界だったと思われます、私は仏陀は六道に生じない生死を超えた常住の世界だと思っていますが、姿を隠した仏陀は涅槃といわれても、 ショーシャンクさんは、永久に消えてしまったのか? 或いは行方不明?  或いは自身の本地に帰った。 いかがですか?>>

 

中心が消滅したら無量になるしかないでしょう。
仮想された中心こそが無量であることを阻害してますから。
大乗仏典は無量のものを説き明かそうとしたものでしょうね。

 

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sabbe dhamma anatta
一切の事物は我(われ)ならざるものである。=諸法非我

これがパーリ聖典にあらわれる古い思想である。

ところがのちには「一切の事物は恒存する実体を持たない」=諸法無我
と解釈するようになった。
                            (中村元


anatta を パーリ語佛教辞典で見ると【無我 非有我 非我】の3つが挙げられています。

また、漢訳でも
【色無常。無常即苦。苦即非我。非我者亦非我所。】(大正・2・p・2a)
とあるようです。(雲井 パーリ語佛教辞典より)

 

 

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『スッタニパータのこの一連の詩句からみると、世俗の生活のままでニルヴァーナに達しうると考えていたことがわかる』(岩波書店 中村元ブッダのことば」より)

 

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宮崎哲弥
『では大乗の修行によって悟った者がどれほどいるか、というと疑問ですね。
宮元啓一氏が「大乗仏教の徒で、自他ともに仏となった、涅槃に入ったと認める人が、長い歴史のなかではたして登場したであろうか。答えは、まったく否なのである」と喝破している通りなのです。』

佐々木閑宮崎哲弥  『ごまかさない仏教』より)

この宮崎哲弥という人は、大乗仏教の祖である龍樹に心酔していて、自ら中観派と名乗っています。

私は、大乗仏教でも例えば臨済のように悟った人は多くいたと思っていますが
大乗仏教の人である宮崎哲弥は上記のように断言していますね。

 

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<<有難いですね。 仏陀は在家では涅槃に至れないとは言われない。 女性蔑視の言葉がありますが、これに関しての見解はいかがでしょいうか?>>

①歴史上の仏陀が女性蔑視の言葉を言ったという事実はありません。もしあるというなら、きちんと典拠を示してください。

②あなたは仏教徒ですよね?根本的なことを聞きますが、仏教徒であるものが、歴史上の仏陀を女性蔑視と糾弾するのですか?本当にそう思っているのであれば仏教徒などやめればいいではないですか?それとも、あなたの信じる久遠実成の釈尊と歴史上の仏陀は全く違うと思っているのですか?


ちなみに、宮崎哲弥は本人も仏教が本職だというくらい、仏教に詳しいですよ。
生半可な仏教学者顔負けです。本を読んだこともないのに、「評論家で少し仏教を勉強したくらい」と決めつけるのは肩書で相手を見ているだけで情けない態度ですね。
東大教授が書いたから正しいわけではなく、要は内容なのです。

 

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「増一阿含経」は、かなりの部分、後世の創作物、夾雑物が入ったものがあります。
古層のものが少ない印象です。
パーリ語仏典『増支部経典』に典拠しないものも多くあります。
仏陀の在世中にはなかった仏像の記載があるのも「増一阿含経」です。

あなたが挙げた文章は、パーリ語の増支部経典の典拠はありますか?
私の方でも調べてみますが、もしパーリ語原典がないのであれば、後世付け加えられたものだと考えます。

それと②なのですが、もし、歴史上の仏陀がそのような女性蔑視の発言をしたとして、仏教徒であるあなたがそれを嬉々として糾弾するのは、仏教徒としておかしくないですか?
あなたは歴史上の仏陀女性差別者として見ることができるのですか?

 

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<<ならばなぜ、臨済の「狗子に還って仏性有りや無しや」(答えが無とする)ことは一切衆生悉有仏性を理解していないからですよね。 実体がないから無としたのかどうかは、知りませんが?  そこから答えがいくつもある、どうでも良い、公案なるもので、遊んでいる。 如何ですか?>>

あなたが禅について評価してないのはわかりましたが、禅の門外漢である私に聞かれても困ります。
ただ、大乗仏教の中でも、意識の高い人や優れた人はいると思っています。

しかし、原始仏典を見ると、非常に多くの人が涅槃に達しています。
仏陀が『矢を抜く最上の人』であったことは確かです。
それがどうしてかを探求してます。

もういいではないですか?
私は、歴史上の仏陀が本当は何を言ったのかを探求しているだけです。
大乗仏教小乗仏教 というような枠組みもどうでもいいのです。
私は、大乗仏教を捨てて小乗仏教のドグマに入ろうとしているわけではなく、
小乗大乗を問わず仏教なるものの知識をいったん白紙にして、最古層の仏典・・つまり仏陀の肉声に近いものから、仏陀が本当は何を言いたかったかを探求しているだけですから。

私は、仏教成立の最初期から仏教なるものは仏陀の教えとは離れていったと思っていますから。

これ以上、こんな掲示板で言っても無駄なことです。

自分のドグマに凝り固まった人たちが大勢やってきて、自説を滔滔と述べるだけがこれからも続くでしょうから、もううんざりなのです。

 

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