双麻 (183.180.150.92)
お答えいただき、そして真摯に対応していただき本当にありがとうございます。
何気なく質問した内容がそこまで繊細な質問だとは思っておらず、大変失礼いたしました。
また、今回の内容を拝読して、ショーシャンク様の説明にあるような定義の混乱がまさに私の頭の中にもあったのだと気が付きました。
自分の考えが非常にあやふやで曖昧だからそれが気持ち悪くて、無意識にショーシャンク様の考えを聞いて答えだけ教えてもらおうとしていたのかもしれません。
申し訳ありませんでした。
私の中では天之御中主神もブラフマンも毘盧遮那仏も一切の存在の根源だと 基本的には 考えていました。
ですが同時にアートマンには何となく霊魂的なイメージを持っていましたし、仏像などを見てしまうとどうしても人格のようなものを想像してしまっていました。
毘盧遮那仏が言葉で説法するのも自分で適当に想像して、一切の根源には智慧を含めた全てが存在し、相応の境地に達した人間にはその智慧に繋がることができる。
という状況を擬人化した描写なのだろうと勝手に思っていましたし、私の頭の中の定義がいかにあやふやであったかと痛感しました。
霊魂や人格化などの考えをそれぞれ別の解釈として理解しなおす必要があると解りました。 とりあえず間違っているかもしれませんが現在の私の理解の度合いでは、無量心も天之御中主神もブラフマンも毘盧遮那仏も定義はすべて『一切の存在の根源』という認識です。
国や文化や時代が違うから呼び方が異なってしまっているのかな?と。
しかしながら、例えば毘盧遮那仏なら勝手に奈良の大仏が頭に思い浮かんできますし、やはり別のものを同じとして理解しようとすると弊害が出てきます。
ゆえにここが違うのだ、というところをお聞きしたいと考えたのですが…私は根本的な勘違いをしているのでしょうか?
よく分からなくなってきました。
ああ…こういうのを戯論というのですね。
やはり仏陀を学ぶ途中で他のものを持ち出したことがそもそもの間違いですね。
仏陀が使われた言葉、言っておられた言葉を言ったとおりにそのまま理解していくというのが正しい姿勢でした。
本当にすみませんでした。
双麻さん、こんばんは。
いえ、とてもいい質問だと思います。
質問の内容が根本的なもので、始めであり最後であると言ってもいいくらいのものです。
仏教の歴史では、この微妙な部分が誤解されて、バラモン教(ヒンドゥー教)の全否定が仏教だと言うことになってしまいました。
アートマン=霊魂 を否定したのが仏教。
アートマンがない=我が無い=無我 を説くのが仏教。
これが仏教の常識とされています。
さらには、
無我=アートマンがない=霊魂はない=死後の世界はない
無我=アートマンがない=霊魂がない=輪廻する主体がない=輪廻転生はない
ということになっていきます。
これはとんでもないことで、仏陀は至るところで、死後の世界も輪廻転生も説いています。
解脱するまでは、死後の世界も輪廻転生もあるのです。
そもそも、仏陀が成道した時の三明のうち、宿住智は仏陀自身が輪廻転生した膨大な数の過去世をありありと観たのです。
天眼智は、生ける者たちがその業(行為)によって死後どのような世界に赴くかをありありと観たのです。
つまり、仏陀の理法にとって、死後の世界も輪廻転生も根幹をなすものであり、そして、死後の世界も輪廻転生も厳然と存在するからこそ、それらからの解脱を究極の目的としたのです。
『この世もかの世もともに捨て去る』のが、解脱です。
そして、この考えは、バラモン教(ヒンドゥー教)と全く同じなのです。
バラモン教(ヒンドゥー教)も輪廻転生を説き、そして輪廻転生からの解脱を究極の目的とします。
なぜ、それが、バラモン教(ヒンドゥー教)の全否定が仏教と思われるようになったのでしょうか。
それは、バラモン教(ヒンドゥー教)が、存在の根源としての神を説き、神を信仰したり、神を瞑想したり、神に帰依することをその教えとしましたが、歴史上の仏陀は自己を洞察する道を選んだからです。
ここが画期的なことなのです。
仏陀はここにおいて唯一であり、『天上天下唯我独尊』なのです。
ウパカに言った言葉そのものです。
四諦も十二縁起も四念処も、自己を洞察する理法なのです。
どのように苦が集起し、苦の集積に向かったのかを洞察する理法なのです。
仏陀は、自己ならざる神を瞑想する方法はとりませんでした。
そして、自己から解脱した如来には実体があるか実体がないか、については無記として答えませんでした。
大乗仏教の考え方に、上の念仏、中の念仏、下の念仏、というものがあります。
上の念仏というのは、真理そのもの、仏陀の理法を観ずること。
中の念仏とは、仏の姿、つまり仏像のような姿を観ずること。
そして、下の念仏とは、声に出して仏の名前を唱えること。
歴史上の仏陀のやり方としては、このうち、上の、理法を観ずることでした。
そして、何百年もの間、仏像は作られませんでした。
ところが、如来の死後を無記としたり、あるいは、非我の理法を無我すなわちアートマンがないとしてしまったりしたことなどから、仏教は唯物論の方向に傾きます。
ひたすら、灰身滅智が理想とされます。
そのような唯物論に傾いた部派仏教への反動、アンチテーゼとして大乗仏教が興ります。
大乗仏教では、阿弥陀如来や大日如来が登場し、仏像もさかんに作られていきます。
仏の姿を観想することも重要な行となっていきます。
大乗仏教は、灰身滅智の方向に大きく傾いてしまった部派仏教のアンチテーゼとして興りました。
仏陀の死後、仏教は、バラモン教の全否定の性質を強めていき、アートマンやブラフマンの否定、世界の根源なるものの否定の色彩を帯びていきます。
僧院にこもって煩瑣な理論を構築することに励むようになります。
仏教は神秘的な色彩を取り除いた、唯物的な哲学、心理学となっていきます。
そのような仏教に強い不満を持ち、『そのようなものは仏陀の真意ではない!』と叫んで興ったのが大乗仏教です。
見失われた『大いなるもの』の復興運動でした。
『大いなるもの』の象徴が阿弥陀如来であり、大日如来でした。
法華経で言えば、久遠実成の釈迦如来です。
前の投稿で、大日経の『心と虚空界と菩提との三種は無二なり。これらは悲を根本とす。』という言葉を挙げました。
悲とは、慈悲喜捨の悲です。四無量心です。
虚空界とは本源的な真如の世界です。大日如来の世界です。
菩提とは悟りの境地です。
つまり、大日如来の真如の世界と悟りの境地と無量心は同じだと言っているのです。
もっと言えば、悲無量心が根本だと言っているのです。
阿弥陀如来にしても大日如来にしても久遠実成の釈迦如来にしても、四無量心の象徴であると言えるでしょう。
阿弥陀如来も観世音菩薩も、大慈大悲を本心としています。
大慈大悲の働きそのものです。
法華経でも、如来の室とは大慈悲のことだと示されています。
大乗仏教は四無量心を高く掲げた運動であったのです。
ですから、双麻さんのご質問への回答は、大日如来も無量心も無二で同じだと、私は考えています。