さて、この『ブッダという男』という本の世間への最大の売りは、最近のブッダ研究が近代的価値観にあてはめて、ブッダは平和主義者で階級差別や男女差別を否定した先駆的人物としてきたことへの批判です。
それらの装飾を剥ぎ取ろうということのようです。
まずは、男女差別の問題です。
この本の主張を一言で言えば、ブッダが女性を蔑視している資料があるのだから、ブッダは男女平等論者ではない、ということのようです。
ブッダが女性を蔑視しているという証拠に、原始仏典の中の次の言葉を挙げています。
『女たちは、男を欲求し、着飾ることを思念し、子を拠り所とし、夫を共有する女(愛人)がいないことに執着し、家庭の支配権を完結とする者たちです』(増支部経典)
まず、増支部経典は、他の相応部経典や中部経典などに比べ、成立が新しく、後世で付け加えられたと思われる部分があるので、私はあまり重要視しません。
しかし、ここでは、増支部を根拠としているので、この言葉はそのままブッダ本人の言葉として考察します。
私は、この言葉が女性蔑視だとは思いません。
『男を欲求し』・・拠り所として結婚したい女性が多いのは否定できない事実でしょう。それがないと、結婚する女性はいないでしょう。
『着飾ることを思念し』・・ファッションに全く興味のない女性というのを私は知りません。
『子を拠り所とし』・・老後、子供を頼りにする女性がいるのは事実ですね。
『愛人がいないことに執着し』・・夫に愛人がいてもなんとも思わない女性の方が少ないでしょう。
『家庭の支配権を完結とする者』・・多くの家庭は主婦が管理していますね。
仏道に入っていない、一般的な女性が家庭に執着するのは、一般的な男性が財産や仕事に執着するのとおなじように、社会をありのままに見ればその通りとしか言えません。
それをことさらに、この言葉を根拠として、ブッダは女性蔑視だったとあげつらう著者には疑問しかないです。
次に、著者は、女性にだけ課せられた『八つの掟』を根拠に男女平等ではないと言いたいようです。
『八つの掟』は、主に、女性出家者の背後に男性出家者の存在があるように、定められています。
このことは、古代インドの社会通念を詳しく知らなければ、論じることができないものです。
古代インドでは、女性は、小さいときは父親の保護、結婚してからは夫の保護、夫が亡くなってからは息子の保護、を受けない者、つまりどの男性の保護も受けてない女性は娼婦かそれに近い者と見なされていました。
つまり、性の対象となってしまうのです。
ですから、もし、女性出家者を認めて、そこに男性出家者の後ろ盾がない場合、古代インドでは、性の対象と見なされてしまうでしょう。
現に、律蔵などを見れば、そういう事件はあったのです。
このような当時の社会環境を全く無視した論説は幼稚で意味のないものです。
ちょうど、歴史ドラマの多くが、その時代の考えを無視して、道具立てや撮影セットだけを戦国時代にして、台詞はすべて現代劇そのままの思想で演じている馬鹿馬鹿しさを見ているようなものです。
もし、仏陀を本当に論じるなら、紀元前500年のインドに降り立たなければいけないし、大乗仏典を論じるならば、紀元前後のインドに降り立たなければいけないでしょうね。