去年の4月に出版した『仏陀の真意』が完売したようです。
出版社としても、これ以上の増刷はしないようですので、これからは紙の新品の購入は難しく、電子書籍のみとなります。
現在、Amazonでは、中古書籍が、新品よりも高い価格で売られています。
私の想定をはるかに超えた反響で、感激しております。
読んでいただきました皆様、本当にありがとうございました。
いま、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の戦争が起こり、おそらく大戦争に発展していくと思います。
世界の宗教の歴史を見ると、宗教戦争をしてこなかった仏教はとても貴重な教えに思えます。
今は、『大乗仏教は何故興ったのか』『仏陀の真意から読み解く大乗仏典』をテーマに研究しています。
いつか、これも出版できればと考えています。
これにより、原始仏教と大乗仏教が、仏陀の真意という太い線で繋がることになります。
今まで、部派仏教は大乗仏教を非仏説、つまり仏陀の教えではない、と否定してきました。
大乗仏教は部派仏教を小乗仏教、つまり劣った教えとして貶してきました。
発祥の地インドで仏教がいったん滅びたのも、現代の世界で仏教が発展せずかえって衰退している様相なのは、あまりにもバラバラで核心が何かがわからないからだとも言えます。
仏教徒の誰も仏教に共通する『仏教とは何か』を答えられる人はいないでしょう。
キリスト教の聖典は聖書であり、イスラム教の聖典はコーランです。
これを否定するキリスト教徒、イスラム教徒はいません。
それでは、仏教の聖典は何でしょう。
般若心経でしょうか。日蓮宗系や浄土系の宗派は否定するでしょう。
そもそも、部派仏教は大乗仏典はすべて否定していますから、般若心経も否定しています。
法華経、大日経、無量寿経、どれもその宗派以外では聖典とはされません。
スッタニパータは大乗仏教では聖典とはされていません。
『縁起』と『空』が仏教の核心と言っている人も多いです。
龍樹以降の仏教であればそうでしょうが、歴史上の仏陀の言った『縁起』とは違っています。
歴史上の仏陀が言う『縁起』とは十二縁起のことです。
その十二縁起を縁覚の修行法として捨て去ったのが大乗仏教です。
sati とは、記憶のことです。
念と漢訳されていますが、念とは、心に憶念することです。
つまり、心にしっかりと記憶し、繰り返し念ずることです。
これを受持と言います。
四諦、十二縁起、四念処の仏陀の理法を記憶し繰り返し思うことが本来の意味でしょう。
しかし、仏教は、仏陀の理法なしに、ひたすら禅定至上主義になっていったのです。
そもそも仏陀は出家してすぐ、2人の師に禅定を教わりすぐ修得しますが、『これは解脱にも涅槃にも行き着かない』と言って捨て去ります。
ですから、仏陀の理法を憶念しない、禅定至上主義には疑問を持っています。
このような仏教の歴史を掘り下げた後で大乗仏典を読むと、大乗仏典の作者が何を言いたかったのかがはっきりとわかります。
大乗仏教は、仏陀の真意の復興運動だったのです。